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kan-haruの日記

イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その3

2011年06月13日 | イベント
kan-haru blog 2011 「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集 ブッダ第9巻表紙画
    
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展示の見どころ(続)
手塚「ブッダ」の展示の見どころの後半は、ブッダが悟りを開いてから、仏陀としての悟り内容を説法で伝え、80歳で入滅して涅槃にいたったと伝えられている場面です。

・悟り
ブッダは、苦行など長い修行を終え、村娘のスジャータから乳粥を受け衰えた体力の回復をはかり、沐浴して体を清め、悟りを開くまでブッダガヤーにあるピッパラ樹のもとで不動の瞑想に入りました。そこに魔王マーラの軍勢がブッダを邪魔しようと限りを尽くしたが、ブッダを屈することができず、ブッダが35歳のとき最上の完全な悟りを開いたと伝えられています。
「仏立像」は、すでに神格化された仏陀像となっているが、表情、姿態は神々しく成道後のブッダの姿を端的に象徴しています。

 悟り

 
写真左:「仏立像」(パキスタン・ペシャワール、クシャーン朝2-3世紀)東京国立博物館蔵 片岩、高さ111.2cm
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手塚治虫漫画全集 ブッダ第8巻表紙画
写真右:「ブッダ」直筆原稿 1977年希望の友1月号

・説法
成道を達成したブッダは、神々から祝福を受け、その徳を讃えられるが、そのまま49日間にわたり瞑想を続け悟りの奥義を吟味したといわれる。瞑想を終えると、ブラフマン(梵天)の勧めにより、悟りの内容を伝えることを決意して、バラナシ郊外のサールナートの鹿野園へ向かい、かっての5人の修行の前で初めて説法を行ったと伝えられている。
「仏座像」は、与願、施無畏という印を結んで仏陀の広大な法力を示す仏像。

 説法


写真左上:仏伝図「初転法輪」(パキスタン・ガンダーラ、クシャーン朝2-3世紀)山梨・平山邦夫シルクロード美術館蔵 片岩、65.0cm×75.0cm
写真中上:「精舎」(パキスタン・ガンダーラ、クシャーン朝2-3世紀)東京国立博物館蔵 片岩、高さ17.5cm
写真右上:「仏座像」(重要文化財、法隆寺献納宝物) 東京国立博物館蔵 銅製鍍金、高さ30.8cm、飛鳥時代7世紀
写真左下:「ブッダ」直筆原稿 手塚治虫漫画全集 ブッダ第11巻表紙画
写真中下:ブッダ「コミックコム」 1980年12月号
写真右下:ブッダ「コミックコム」 1983年5月号

・瞑想
ブッダは、各地で説法を行い、教えを広めていく中にあっても、絶えず瞑想を繰り返していたと伝えられています。手ブッダの中では、最後の旅に出る前に、霊鷲山の岩陰で瞑想に耽る場面があります。
「仏座像」は、カンボジアのアンコール期の石彫で、ブッダの瞑想中に龍王が表れて、ブッダを守護する光景を現しています。

 瞑想


写真左:「仏座像」(カンボジア・アンコールトム、アンコール期12世紀)東京国立博物館蔵 砂岩、高さ65.2cm
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手塚治虫漫画全集 ブッダ第12巻表紙画
写真右: ブッダ「コミックトム」 1983年12月号

・行脚
ブッダが霊鷲山を離れて最後の行脚の旅を続けえる途中、弟子の阿難陀に教えを説き、後事を託す場面があります。
「伝釈迦仏倚像」は、中国から伝わった形式の仏像で、北斉から隋、初唐期の作風の仏陀の姿である。

 行脚


写真左:「伝釈迦仏倚像」(重要文化財)東京・深大寺蔵 銅製鍍金、高さ83.9cm、飛鳥時代7世紀
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手塚治虫漫画全集 ブッダ第13巻表紙画
写真右:「希望コミックス ブッダ」 14巻

・涅槃
ブッダは、最晩年マガダ国首都ラージャガハの近くの廟に滞在していた時、3カ月後に入滅することを宣言した。入滅の日が近づくと、クシナガラのサーラ樹の林に向かい、2本のサーラ樹のもとに、北を枕にして寝床を用意させ、右脇を下にして横たわったと云う。弟子の阿難陀に数々の教えを説き終わると、500人の弟子たちに見守られながら禅定に入り、2月15日80歳で涅槃に至りました。

 涅槃


写真上:「仏涅槃像」(重要文化財)奈良・岡寺蔵 木・漆箔、幅150.0cm、鎌倉時代13世紀
写真下左:仏伝図「納棺」(パキスタン・ガンダーラ、クシャーン朝2-3世紀)山梨・平山郁夫シルクロード美術館蔵 片岩、48.0cm×49.0cm
写真下中:「ブッダ」直筆原稿 手塚治虫漫画全集 ブッダ第14巻表紙画
写真下右:「希望コミックス ブッダ」 14巻

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イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その2

2011年06月11日 | イベント
kan-haru blog 2011 「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集 ブッダ第7巻表紙画 
    
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ブッダ展示会場
ブッダ展は、 “漫画の神様”手治虫が独自の解釈で、晩年に10 年以上の歳月をかけて描いた漫画「ブッダ」(14巻)の物語を展開して、仏教の開祖で“釈迦”、“仏”、“ゴーダマ・ブッダ”等と呼ばれる釈迦族の王子、シッダールタの生涯を、直筆原画52 点と、重要文化財を含むガンダーラや日本の美しい仏像約20 点を展示してブッダの生涯をたどり、「生命の尊さ」を問いかけた企画展です。

展示の見どころ
・誕生
いまから2500 年ほど前、ブッダとなるシッダールタは、その母・摩耶(マーヤ)が出産のため故郷へ戻る途中のヒマラヤ山麓にあるちいさな林苑で、摩耶の右脇下から生まれ、釈迦族の王子としてこの世に生を受けました。誕生後、ただちに歩いて天地を指差すなど、すでに奇跡的な事跡に彩られていた。

 ブッダの誕生


写真左上:摩耶夫人及び天人像(重要文化財・法隆寺献納宝物) 東京国立博物館
4躯、銅製鍍金、摩耶夫人:像高16.6cm・天人像:像高12.5-13.0 cm、飛鳥時代7世紀
ルンビニー苑にて摩耶夫人が無憂樹の花枝を折ろうとするや釈迦が腋下から誕生したとの仏伝中の一場面を造形化したもので,この種の立体的な群像としては希有の作例。1078年(承暦2年)に橘寺から法隆寺に移された小金銅仏群のひとつである可能性が高い。
写真左下:摩耶夫人像(ブッダの誕生)
写真右:誕生釈迦仏像(重要文化財) 大報恩寺・京都
快慶の弟子行快作の鎌倉時代の彫刻で、誕生仏としては大型、細身の銅像で、像高16.6cmである。下半身をおおう裳の襞を、写実的に畳んでいる点や清凉寺式釈迦像の様な縄目状の髪に造っている点も、この時代の特色を良く表わしている。蓮の葉を裏返した荷葉座と、呼ばれる台座上に立つが、これも当初のものと思われる。
釈迦は麻耶夫人の右腋下から生れや、七歩あゆみ、右手を挙げて天を指差し、左手を下げて地を指差し、「天上天下唯我独尊」といったと伝えられている。
写真中下:「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集、ブッダ第2巻表紙画

・結婚
ブッダが生まれて7日目に、母・摩耶(マーヤ)が死去し、その後マーヤの妹に養育されたと伝えられている。シャカ族の王子として生まれジッダルダと名付けられ、武芸、天文、祭祀、文学などの帝王学の教育を受けた。17歳で、第1妃のヤショダラ妃を迎えた。

 結婚


写真左:仏伝図「酒を飲む男女」(パキスタン・ガンダーラ、クシャーン朝2-3世紀)東京国立博物館蔵 41.5×39.0cm
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集 ブッダ第4巻表紙画
写真右:「ブッダ」直筆原稿 1974年希望の友3月号

・苦悩
シッダールタは王子として、贅沢で何不自由のない生活を送ったが、幼少時に弱肉強食の世を知り、人生に悩む苦悩の日々を送り、その迷いの世界から解脱するために、29 歳で出家を決意する。

 ブッダの苦悩

 
写真左:「菩薩半跏思惟像」(重要文化財、法隆寺献納宝物) 東京国立博物館蔵 銅製鍍金、像高22.0cm、飛鳥時代7世紀
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集 ブッダ第3巻表紙画
写真右:「ブッダ」直筆原稿 1974年希望の友3月号、「四門出遊」の場面

・出家
ブッダは、「四門出遊」を経験することにより出家の欲求を高め、人の欲望の空しさを感じ、出家の意思を固めた伝えられている。出家を決意したブッダは、ある夜、場内が寝静まったころあいをみはかり、愛馬カンタンにまたがり、カピランヴァストウ城を後にして、近隣の諸国を通過して、アナヴァマーに辿り着きました。そこで、宮中の華やかな衣装を脱ぎ捨て、修業の生活に入っていきました。この時、ブッダは29歳であったと伝えられている。

 出家


写真左:「菩薩立像」(パキスタン・ガンダーラ、クシャーン朝2-3世紀)東京国立博物館蔵
ブッダの王子時代の姿をモデルとした最初期の菩薩像で、豊かな髪を結い、豪華な装身具で、身を飾り、サンダルを履くのは、当時の王侯貴族の装いを反映したもので、後の菩薩像の原型がよく示されています。
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集 ブッダ第5巻表紙画
写真右:「ブッダ」直筆原稿 1974年希望の友8月号

・苦行
ブッダは出家後、宗教上の重要拠点のヴァイシャリーの都を目指して修業の旅を続け、そこで高名な修行者に師事して教えを受けました。その後、マガダ国の首都ラジャーガハに行き、名高い修行者のもとで修行を行いました。最高権威者の修行を終えると、さらにナイランジャナー河の近くで、さらに激しい修行に入るが、悟りの境地は遠く、苦行に没頭する。

 苦行


写真左:「出山釈迦立像」南北朝時代14世紀、木・金泥塗、高さ96.3cm、奈良国立博物館蔵
写真中:「ブッダ」直筆原稿 手治虫漫画全集 ブッダ第6巻表紙画
写真右:「ブッダ」直筆原稿 1975年希望の友11月号

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イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その1

2011年06月09日 | イベント
kan-haru blog 2011 ブッダ (第1巻) (潮ビジュアル文庫)
    
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特別展「手塚治虫のブッダ展」
手塚治虫のブッダ展は、東京国立博物館本館特別5室(台東区上野公園13-9)で4 月26 日から6 月26 日まで開催され、5月25日に見てきました。博物館本館の特別5室は、1階の大階段裏に吹き抜けの広大な空間をもつ展示室で、過去には数々の名品の展示場にあてられてきた特別展の会場です。
ブッダ展の主催は、東京国立博物館、東映、TBS、後援が文化庁、読売新聞社で、協力が手プロダクション、日本通運、(財)全日本仏教会、ニトリ、カラーキネティクスジャパンにより開催され、展示会の観覧料が一般800円で、大学生が600円、高校生が400円で、中学生以下は無料です。

 手塚治虫のブッダ展会場(:ブッダ展開催の国立博物館本館、:国立博物館本館特別5室会場、:手塚治虫の漫画ブッダ)

展示作品は、漫画「ブッダ」の手塚治虫の直筆原画52 点と、重要文化財を含むガンダーラや日本の博物館、寺院貯蔵の美しい仏像約20 点によってブッダの生涯をたどる、漫画と仏像による展示会史上初の試みです。

 ブッダ展パンフレット(左)と入場券(右)

手塚治虫
手塚治虫は1928年(昭和3年)11月3日に、大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に、父・手塚粲と母・文子の長男として生まれました。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで、本名は「治」と名づけられました。

 手塚治虫氏

治虫は幼い頃から見様見真似で漫画を描くようになり、特に小学4・5年生頃漫画に熱中し、ノートに漫画を描いて学校に持っていった時に教師に取り上げられ、職員室で回し読みされ漫画を描くことを黙認される、クラスでも一目置かれるようになりました。
戦時中の1941年(昭和16年)に、大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)に入学し、戦時中の修業年限短縮により北野中学を1945年3月に4年で卒業。同年6月、勤労奉仕監視哨中に大阪大空襲に遭遇して、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る空襲体験をして、後に『紙の砦』(1974年)や『どついたれ』(1979年 - 1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれています。
1945年7月、手塚は試験を受けて戦争の長期化に伴い軍医速成のために臨時に付設された、大阪帝国大学附属医学専門部に入学し、1951年に医学専門部を卒業して、大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1953年7月に国家試験を受けて医師免許を取得しています。
1950年(昭和25年)11月より漫画マニア誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始し、翌1951年には『鉄腕アトム』(1952年 - )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には目ぼしい少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画が開始されることになりました。

 鉄腕アトム、ジャングル大帝マンガ 

手塚はもともとアニメーションに強い情熱を持っており、アニメーション制作は念願の仕事であり、1961年(昭和36年)に手塚プロダクション動画部を設立し、アニメーション『ある街角の物語』を制作、この作品でブルーリボン賞や文部省芸術祭奨励賞など数々の賞を受賞する。翌1962年に「虫プロダクション」に改名し、続いて日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かり、1967年(昭和42年)には原作『ジャングル大帝』が第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞しました。

 鉄腕アトム、ジャングル大帝アニメ

手塚は自ら「冬の時代」であったと回想して、1968年から1973年を作家としての窮地に立たされ、1973年に経営者となっていた虫プロ商事、虫プロダクションが倒産しました。
しかし、1973年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で連載開始された『ブラック・ジャック』は、手塚を代表するヒット作へと成長していくことになり、さらに1974年『週刊少年マガジン』(講談社)連載の『三つ目がとおる』もヒットし、手塚は本格的復活を遂げることになりました。1977年時点で、手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』と6つの連載を抱えていました。文庫本ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊されており、さらに同年6月からの講談社『手塚治虫漫画全集』刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」、「漫画の神様」という評価を確かなものになりました。
1988年11月、上海でのアニメーションフェスティバルからの帰国と同時に体調の悪化により入院し胃癌と判明し、1989年(平成元年)2月9日に死去しました。

 「ブッダ」マンガ

仏陀
仏教を開いた釈迦ただ一人を仏陀とする。しかし初期の経典でも燃燈仏や過去七仏など仏陀の存在を説いたものもあり、またジャイナ教の文献にはマハーヴィーラを「ブッダ」と呼んだ形跡があることなどから、古代インドの限られた地域社会の共通認識としては既に仏陀が存在したことを示している。
多くの仏教の宗派では、「ブッダ(仏陀)」は釈迦だけを指す場合が多く、悟りを得た人物を意味する場合は阿羅漢など別の呼び名が使われる。(Wikipedia)

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イベント 東京国立博物館 江戸三座の役者28図を描いてデビューし10カ月で姿を消した東州斎写楽を見るその2

2011年06月05日 | イベント
kan-haru blog 2011 写楽第1期「初代大谷徳次の奴袖助」   

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写楽展示会場
・プロローグ
錦絵に殆ど接していない者にとって接しやすい錦絵は、芝居に取材して描かれた役者の上半身をクローズアップして描いた個性的な役者の似顔絵の大首絵の雲母摺りの作品です。
プロローグでの展示は、写楽の作品のイメージに馴染みの「市川鰕蔵の竹村定之進」1794年(寛政6年)5月 オランダ・アムステルダム国立美術館蔵 大判錦絵や「初代大谷徳次の奴袖助」などと共に、男女を組み合わせた雲母摺背景の二人立ち姿図の「三代目市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と初代中山富三郎の新町のけいせい梅川」イギリス・大英博物館蔵 大判錦絵や「三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよと市川富右衛門の蟹坂藤馬」の大判錦絵などが見られます。

 「市川鰕蔵の竹村定之進」(左)と「三代目市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と初代中山富三郎の新町のけいせい梅川」

・写楽以前の役者絵
このコーナーでは、写楽登場以前の芝居絵を概観します。男性によって演じられるようになった初期歌舞伎から菱川師宣の「歌舞伎図屏風」に描かれた元禄歌舞伎の時代を経て、写楽登場までの約150年間を、鳥居清倍、一筆斎文調、勝川春章・春好・春英やその他の4絵師により役者がどのように描かれてきたかを見ます。

 勝川春好筆「三代目市川高麗像蔵の平宗盛」1789年(寛政元年)

・写楽を生み出した蔦屋重三郎
版元蔦屋は、雲母摺りの美人大首絵を喜多川歌麿に制作させて、美人画の歌麿と役者絵の写楽を分担させた蔦屋重三郎を探ります。ここでは、歌麿の美人大首絵の10作品と、栄松斎長喜の美人画などが観賞できます。

 喜多川歌麿筆「婦人相学十躰ポペンを吹く娘」1973年頃

・写楽とライバルたち
写楽と同じ芝居の同じ役に取材した歌川豊国、勝川春英らの作品を比較してみます。

 東洲斎写楽(左)と歌川豊国(右)筆「二代目坂東三津五郎」

・版の比較
同じ図柄で落款(らっかん)の位置や役者の紋が違っている作品や、保存状態が良く色のきれいな作品などを、同図柄の2枚を比べて見るコーナーです。

 「三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵女房おしず」フランス、ギメ東洋美術館(左)、東京国立博物館(右)

・写楽の全貌
写楽の全貌は、この展示会のメインのコーナーであり、全146図と考えられる写楽の版画を、海外からも多くの作品を借りて142図が揃いました。10か月に描いた写楽の作品を題材とした芝居の上演順に、第1期から第4期に分けて展示しています。
第1期
1794年(寛政6年)5月にデビューを飾った都座、河原崎座と桐座の三座に取材した役者絵大首絵の大判錦絵が28枚が展示されています。いずれも傑作揃いで、デビュー仕立ての絵師の勢いがあります。

 「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」

第2期
1794年(寛政6年)7月の都座、8月の河原崎座と桐座に取材した役者絵全身像の大判錦絵が8図と細判錦絵30図が展示されています。

 「「二代目瀬川富三郎のけいせい遠山と初代市川栗蔵の義若丸」

第3期
1794年(寛政6年)11月の河原崎座、都座、桐座に取材した役者絵と、閏11月の都座、桐座に取材した役者絵の間判錦絵11図、細判錦絵47図の他、役者追善絵の間判錦絵2図と、相撲絵大判錦絵3図、細判錦絵1図が展示されています。第2期に続いて全身像が主体であるが、無背景の地潰しでは無く小道具や情景が描き込まれています。

 「三代目沢村宗十郎の孔雀三郎なり平」

第4期
1795年(寛政7年)正月都座、桐座に取材した役者絵の細判錦絵10図の他、相撲絵大判錦絵2図が展示されています。第4期の作品は舞台上の芝居であることを意識させるような説明的な背景が描かれている。

 「市川鰕蔵の工藤左衛門祐経」

・写楽の残影
写楽の影響は後世に残り、十返舎一九が著作の挿絵に写楽画を描き込んだり、浮世絵師栄松齋長喜が「四代目松本幸四郎の肴屋五郎兵衛」を団扇にして高島おひさに持たせたりして、写楽が筆を絶った後も影響力が残りました。

 歌川国政筆「市川鰕蔵の薄井荒太郎貞光に扮しての暫」

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イベント 東京国立博物館 江戸三座の役者28図を描いてデビューし10カ月で姿を消した東州斎写楽を見るその1

2011年06月03日 | イベント
kan-haru blog 2011 写楽カタログ   

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特別展写楽
特別展写楽は、東京国立博物館平成館(台東区上野公園13-9)で当初2011年4月5日から5月15日に開催を予定していましたが、東日本大震災に伴い5月1日から6月12日の開催に会期が変更されました。

 特別展写楽(:東京国立博物館、:東京国立博物館平成館写楽展)

特別展の主催は、東京国立博物館、東京新聞、NHK、NHKプモーションで、協力が国際浮世絵学会、後援が文化庁、協賛が日本写真印刷、みずほ銀行、三井物産で、輸送協力が日本航空により行われます。展示会の観覧料が大人1500円で、大学生が1200円、高校生が900円で、中学生以下は無料です。

 東京国立博物館平成館写楽展(写真拡大)

特別展写楽は、東洲斎写楽が1794年(寛政6年)5月に、江戸三座の役者の浮世絵28図を一度に出版して登場、翌年1月までに140図以上を残して忽然と姿をけした絵師で、写楽版画の全貌と、同時代の他の浮世絵師の作品と比較して、写楽作品を紹介する展示会で、浮世絵の数と質において空前絶後の規模でありますので、5月25日に見てきました。

 写楽展パンフレットと入場券

・展示会場
写楽の展示会場には、平成館の入り口を入り左側のエスカレータで昇るとすぐ左が第1会場の入り口です。展示会場のレイアウトは、最初の展示会場が「プロローグ」で、次の展示場1が「写楽以前の役者絵」です。以下展示場2が「写楽を生み出した蔦屋重三郎」と続き、3の展示場が「写楽とライバルたち」、展示場4が「版の比較」の展示コーナーで会場の半分を回りました。

 写楽展展示会場1(:写楽展展示場には左側のエスカレータで上がる、:エスカレータを上ると左側が第1会場入り口、:写楽展展示場案内図)

外にでると中央広場に写楽オリジナルグッズコーナーがあります。グッズコーナーの先は、展示会場の右半分で第2会場の入り口です。第2会場を入ってすぐの展示場5はメインの「写楽の全貌」で、第一期から第四期の展示場が続きます。次の展示場6には「相撲絵など」が展示されており、ここで出口で右側のエスカレータを降りて特別展写楽を見終わります。

  写楽展展示会場2(:写楽オリジナルグッズコーナー、:平成館右側の第2会場入り口、:展示場から右側のエスカレータで降りると出口)

東洲斎写楽
東洲斎写楽についてを写楽カタログから拾うと、写楽という絵師は確かに居て、寛政6年5月から翌年の芝居を題材として、140を超える図を描いていた。写楽作品はすべて蔦屋重三郎の店から出版された。絵の発表時期は4期に分けられており、第1期が寛政6年5月(28枚、全て大版の黒雲母摺大首絵)に大々的にデビューをし、第2期が寛政6年7月・8月(二人立ちの役者全身像7枚、楽屋頭取口上の図1枚、細絵30枚)、第3期が寛政6年11月・閏11月(顔見世狂言を描いたもの44枚、間版大首絵10枚、追善絵2枚)、第4期(春狂言を描いたもの、相撲絵を交える)が寛政7年1・2月とされています。
写楽の代表作とされるものは大首絵の第1期の作品で、後になるほど精細を欠き、作品の品質は劣っており、前期(1、2期)と後期(3、4期)で作風が異なることから、別人が描いていたとする説もあります。
『江戸名所図会』などで知られる考証家・斎藤月岑が1844年に記した『増補浮世絵類考』には、写楽は俗称斎藤十郎兵衛で、八丁堀に住む「阿州侯(阿波徳島藩の蜂須賀家)の能役者」であるという記述があります。
能役者の公式名簿である『猿楽分限帖』や『重修猿楽伝記』の記述には、斎藤家は与右衛門と十郎兵衛を交互に名乗る喜多流の能役者で、1810年(文化7年)に斎藤十郎兵衛が49歳で生存していたことがわかり、さらに、4.埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良(郎)兵衛」が1820年(文政3年)3月7日に58歳で死去し、千住にて火葬されたとの記録があり、阿波出身の斎藤十郎兵という人物が八丁堀地蔵橋に住んでいたことが確認されています。

 写楽パンフレットから

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次回 イベント 東京国立博物館 江戸三座の役者28図を描いてデビューし10カ月で姿を消した東州斎写楽を見るその2
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イベント 江戸東京博物館 幕末の絵師狩野一信が描く100幅の五百羅漢図を見るその3

2011年05月30日 | イベント
kan-haru blog 2011 第83幅部分拡大  

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その2に続き、展示された第11幅からの五百羅漢図の各場面を観賞して回ると、第81~90幅の「さまざまな天災、人災からの救済を表す場面」で地震や台風・洪水などの天災・人災が描かれており、大変とショックを受けました。東日本大地震は、五百羅漢図の時代から変わることなく地震、津波の天災により大災害を被りました。さらに今日では放射能の人災の災害が新たに加わりました。これを契機に復興を図り、さらに人智を尽くして天災から守り、人災をなくすことを明日の日本のために進めなければなりません。

第11~20幅
第11~20幅の「自ら懺悔し、出家者や異教徒を教化する場面」は、第11、12幅が「授戒」で僧になろうとする人に戒律を授ける場面、第13、14幅が「布薩」で羅漢達の反省会の場面、第15、16幅が「論議」で羅漢達の議論の場面、第17、18幅が「剃度」で仏門に入る少年を剃髪する場面、第19、20幅が「伏外道」で異教徒の外道を力ずくで入信させる場面が描かれています。ここまでの、第20幅までが五百羅漢図のプロローグです。

 第11幅部分拡大(第11幅 授戒)

第21~40幅
第21~40幅の「生前の罪により巡る地獄など六道から救済する場面」は六道輪廻の描写で、第21~24幅が「六道 地獄」で地獄の描写は一信がもっとも意気を込めて筆を走らせた場面であり、第25~28幅が「六道 鬼趣」で餓鬼道を描いた場面、第29、30幅が「六道 畜生」で畜生道を描いた場面、第31、32幅が「六道 修羅」で阿修羅道を描いた場面、第33~36幅が「六道 人」で人道を描いた場面、第37~40幅が「六道 天」で人道を描いた場面が描かれています。この第21~40幅は「第1部」であり、六道 地獄の絵は恐ろしいほど迫力のある絵で、ざっと見て歩きましたがここまででかなり疲れがでてきました。

 第22・23幅部分拡大(左:第22幅六道 地獄、右第23幅六道 地獄)

第41~50幅
第41~50幅の「12の衣食住に関する欲を取り除く修行の場面」は「第2部」でここからの羅漢図はさらに凄みが増していきます。第41、42幅が「十二頭陀 阿蘭若」で羅漢たちが仏像を彫ったり、数珠を作っているところを描いており、一信が西洋画法に傾斜していき、透視遠近法的な表現になっています。第43~50幅は、「十二頭陀 常乞食、次第乞食、節食之分、中後不飲漿 一座食 節量食、衲衣、但三衣、冢間樹下、路地常座」で羅漢達の托鉢や裁縫、洗濯と路地修業が描かれています。第45、49、50幅では陰影法を駆使して一信の独創的な表現法を生み出しています。

 第45・49幅十二頭陀(左:第45幅十二頭陀 節食之分、右:第49幅十二頭陀 冢間樹下)  

第51~60幅
第51~60幅の「神通力を発揮する場面」は「神通」で羅漢達の超能力の神通力を描いており、突飛な発想で羅漢の頭から水が噴き出したり、羅漢が顔の皮を剥ぎ観音菩薩であることを示したり、鏡面から放たれる釈迦のビーム(その2部分拡大参照)を描いたりの突飛な構想はここで終わり、「第2部」のハイライトである。

 第51・55幅部分拡大(左:第51幅神通、右:第55幅神通)

第61~70幅
第61~70幅の「禽獣たちを手なづける場面」は、「禽獣」を描きここから「第3部」です。ここでは、さまざまの動物を手なずける描写が見られます。

 第69幅部分拡大(第69幅 禽獣) 

第71~74幅
第71~74幅の「竜宮に招かれ、供養を受ける場面」は、「龍供」で羅漢達が竜宮に行き歓待を受ける描写で、これまでの羅漢図と比較すると人物が小さくなり、弟子の一純の関与する割合がたかまっています。

 第71・74幅龍供(左:第71幅龍供、右:第74幅龍供) 

第75~80幅
第75~80幅の「仏像や舎利を洗い、寺院を建立する場面」は、「洗仏等、洗舎利、堂伽藍」では釈迦誕生の場面、寺院建立の場面が描かれている。

 第80幅部分拡大(第80副堂伽藍) 

第81~90幅
第81~90幅の「さまざまな天災、人災からの救済を表す場面」は、「七難 震、風、羅刹、悪鬼、刀杖、賊、枷鎖、盗」では、地震の場面、台風による洪水の場面、親子に襲いかかる羅刹・悪鬼・兵士の戦い・盗賊・裁き・盗賊等を羅漢がビームで懲らしめる場面が描かれており、第80幅までの画面と異なり背景は全て真っ黒に塗りこめられている。地震、洪水など、今でも変わらぬ辛い光景には恐ろしく感じます。

 第81・83幅七難(左:第81幅七難 震、右:第83幅七難 風) 

第91~100幅
第91~100幅の「須弥山のまわりにある4つの大陸を巡る場面」は、「四州 南、東、西、北」では、仏教の世界観で外周に位置する東西南北の「洲」のありさまを描いています。
一信は、91幅を描きはじめたころにはすっかり弱っており、96幅まで描いたところで没しました。残りの4幅は、下絵をもとに妻と弟子が補作したとされている。第95幅までと第96幅以降の五百羅漢図の画質は背景図を簡略され、なんとなく見栄えがしなくなった感じです。(増上寺秘蔵の壁画五百羅漢幕末の絵師狩野一信から)

 第93・99幅四州(左:第93幅四州 南、右:第99幅四州 北) 

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毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(5月分掲Indexへ)
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イベント 江戸東京博物館 幕末の絵師狩野一信が描く100幅の五百羅漢図を見るその2

2011年05月28日 | イベント
kan-haru blog 2011 第5幅「名相」部分拡大 

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狩野一信の五百羅漢図
羅漢図は、単体の羅漢と釈迦を描いたものや、十六羅漢図や十八羅漢図が見られます。一信は、1幅に5ずつ100幅で計500人の五百羅漢図を描く構想をたてました。絵の大きさは、高さが約172cmで、幅が約85cmの人の背丈ほどの画面いっぱいに、羅漢たちの修行や日常の姿、衆生を救済する様子が、その弟子、供養者とともに極彩色で描かれています。
一信は、約10年間の年月を五百羅漢図の製作に費やし、その間他の作品は殆ど描いていないようですが、96福まで描き終えた数え年の48歳で病没し、残りの4幅は妻の妙安と弟子の一純らによって完成させ、1863年(文久3年)に増上寺に奉納されました(特別展五百羅漢ホームページから)。

 第57幅神通の部分拡大(釈迦の鏡面からのビーム)

・江戸東京博物館1階展示室
一信の五百羅漢図は、江戸東京博物館(墨田区横網1-4-1)の1階展示室で展示され、寺外ではじめて秘蔵の仏画 100 幅を一挙公開しています。また、同展の展示には、100幅の五百羅漢図と共に、成田山新勝寺が所蔵する「釈迦文殊普賢四天王十大弟子図」(427×543cm)(その1参照)の超大作と「十六羅漢図」が特別出品されている外に、東京国立博物館所蔵の「五百羅漢図」の縮小版の模写を増上寺本と並べて比較展示され、さらに大信寺(港区三田四丁目7-20)と大松寺(港区三田4-1-38)に所蔵される下絵類を展示して、制作過程の検証をしています。

 江戸東京博物館(写真拡大)

1階展示室の展示会場もパートごとにさまざまに工夫されており、背丈ほどの大画面を詳細に近距離で見られる特別ケースで、対となる羅漢図を2幅ずつ独立に並べて展示したり、観客が絵を見る位置をぐるりと取り囲む円形会場など羅漢図を観賞するのに適した配置や照明なども考えられています。

 五百羅漢展示会場(:展示会場、:明治学院大学教授山下裕二氏の画像解説コーナー)

・五百羅漢図構成
一信の五百羅漢図の展示を予備知識なく観賞したので、整理のため一信の五百羅漢図カタログにより整理をしてみました。それによると、一信が五百羅漢図の製作に着手したのは、1854年(嘉永7年)であり、第1から8幅は「名相」であり羅漢たちの日常生活を描く場面で、第9、10幅は「欲室」であるが、名相にふくめて五百羅漢図を10場面に構成してあります。

 五百羅漢図構成

一信の最初に描いた第1・2幅の五百羅漢図を真近で見た印象は、繊細に描かれた描写や極彩色の表現などが、一信の独特の発想の表現の世界であると感じました。第1・2幅では、羅漢たちや童子たちの日常生活が描かれています。
第5幅(トップ図参照)は、海浜に机を構えて、いまだ仏法に帰依していない異国人の人々を教化する姿が描かれています。

 第1・2幅(左:第1幅名相、右:第2幅名相、トップ図:第5幅名相) 

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イベント 江戸東京博物館 幕末の絵師狩野一信が描く100幅の五百羅漢図を見るその1

2011年05月26日 | イベント
kan-haru blog 2011 五百羅漢展カタログ

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特別展五百羅漢
江戸東京博物館で開催の法然上人八百年御忌奉賛「五百羅漢-増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師狩野一信」の特別展は、当初3月15日から展示される予定であったが、直前の東日本震災のため延期となり4月29日から7月3日まで仏画が一挙に100幅公開されるとの報道ありましたので、5月4日に浅草に用事のついでに両国に寄り道して見てきました。
展示会の入場料は、五百羅漢図の特別券が大人1300円で、大学生と専門学校生1040円、高校生・中学生・小学生および65歳以上650円です。その他、常設展との共通券があります。
特別展の主催は、公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都江戸東京博物館、大本山増上寺、日本経済新聞社の3社で、協賛がCOLOR KINETIC JAPAN、三菱レイヨン、リリカラの3社に、監修が明治学院大学教授山下裕二氏により行われてます。

 特別展五百羅漢

増上寺
特別展主催の増上寺(港区芝公園4-7-35)は、1393年(明徳4年)に浄土宗第八祖西誉聖聰上人によって開かれました。浄土宗の七大本山の一つで、大本山のご本尊は阿弥陀如来が祀られており、三縁山広度院増上寺と呼ばれます。大殿は、世界大戦で戦災に遭い1974年(昭和49年)に、大本山の念仏の根本道場としてあらゆる儀式法要が行えるよう設計で、大殿が再建されました。

 増上寺1(20070330写真拡大)

安土桃山時代に、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなくの1590年(天正18年)に徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました。家康公がときの住職源誉存応上人に深く帰依したため、と伝えられています。
1598年(慶長3年)には、現在の芝の地に移転しました。江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。
家康公は、1616年(元和2年)に、増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられています。
増上寺の表門は大門で、中門にあたる三解脱門は、徳川幕府の助成により幕府大工頭・中井正清とその配下により建立され、増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、1622年(元和8年)に再建され、国の重要文化財に指定されています。三解脱門とは、三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことです。二階内部には、釈迦三尊像と十六羅漢像(非公開)が安置されています。黒門は、元は御成門交差点付近にあり、増上寺方丈の表門であった旧方丈門で、三代将軍家光公が寄進・建立され、1648~1652(慶安年間)に建立されたもので、1980年(昭和55年)に当山通用門として日比谷通り沿いに移築しました。

 増上寺2(:三解脱門、:黒門20070330)  

五百羅漢
羅漢とは、釈迦の滅後釈迦の残した法を、修行を積んで悟りに達したものの称号です。
五百羅漢とは、中国で盛んであった羅漢信仰が日本に伝わり、江戸の中期以降には各地で様々な五百羅漢の木彫り、石像が制作されるようになりました。五百羅漢を訪ねれば、いまは亡き大切な人に対面できるという信仰が広がりました。また、五百羅漢の製作には、想像を絶する時間と労力が必要なことから、ひたすら打ち込んで造る、造像の功徳に対する願いも反映されて、羅漢ブームともいえる現象が起こりました(特別展五百羅漢ホームページから)。
現在、目黒にある五百羅漢寺(目黒区下目黒3-20-11)は、昔は1695年(元禄8年)に松雲元慶禅師により本所に創建された黄檗宗の寺院でありました。禅師は、1684~88年(貞享年間)に江戸へ出て、1691年(元禄4年)から木造羅漢像を彫り始めて、1695年(元禄8年)に将軍徳川綱吉から天恩山五百阿羅漢寺の寺号と六千坪余の寺地を賜り、ここに独力で彫像した羅漢像など536体を安置しました。象先禅師は、1713年(正徳3年)に3代住持となり、1726年(享保11年)に本殿、東西羅漢堂、三匝堂からなる大伽藍を建立しました。
1855年(安政2年)に起きた安政大地震では、東西羅漢堂が倒壊するなど大被害を受けました。明治に入り寺は衰退して、1887年(明治20年)には本所緑町(墨田区緑4丁目)に移転して、さらに1890年(明治23年)には現在地の目黒に再移転しました。

 本所五百羅漢寺 江戸名所図会から

狩野一信
狩野一信(1816~63)は、幕末の江戸に生きた15世紀から19世紀までの400年間続いた狩野派の最後を飾る異色な絵師で、一部の専門家には高い評価を受けてきましたが、一般的には殆ど知られていませんでした。
一信は幼い頃、幕府表絵師の狩野章信に入門し、12歳の頃に師は没し、以後は独学で絵を極め、増上寺の五百羅漢図100幅の入魂の」大作を遺し、寺院とうの要望に応えていました。一信の画風は、狩野派の伝統に加え、当時日本に伝わった洋風の陰影法、遠近法を積極的に取り入れて、強烈な表現意欲により常識を突き抜けた絵画表現技術を独力で磨き上げて、当時の不安な時代の空気を反映した、新たな宗教観にもとずく絵を残しました(特別展五百羅漢ホームページから)。
1816年(文化13年)に、江戸本所林町(墨田区立川)に骨董商の次男として生まれ、通称は豊次郎と名乗り、絵を好んだ一信を神田豊島町の提等琳派の絵師に学ばせ、その後四条派や土佐派の画風を学び、絵師狩野直信の幼名を受けて一信を名乗りました。その後、表絵師の猿屋町代地狩野家5代目狩野素川章信に入門したと云われています。
一信は20代半ばで、両国橋で易者の逸見舎人と出会い、婿入りしてその娘のやすと結婚をする。同居の義父の後妻と折り合いが悪く家を飛び出し、一信とやす夫婦は住居を転々として、貧しい状況にありました。1841年(天保12年)に小網町の大火で類焼し全財産を失い、増上寺の子院・源興院に仮寓する。
辛酸を舐めていたが、ようやく1847年(弘化4年)に金竜山浅草寺の絵馬「牛若丸と弁慶」を描く機会に恵まれて奉納し、さらに、1858年(安政5年)に成田山新勝寺不動堂の壁画を描く仕事得て奉納している(増上寺秘蔵の壁画五百羅漢幕末の絵師狩野一信から)。

 釈迦文殊普賢四天王十大弟子図(成田山新勝寺) 

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イベント 展示会で東北・太平洋沿岸地震に遭遇 大田産業プラザで試作市場と地図展 その4

2011年03月20日 | イベント
kan-haru blog 2011 「吾等が村」(黒澤村)    

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・大田区航空写真・地図の床展示
今回の「地図展 In おおた」の目玉の展示品は会場の床一杯に展開された、国土地理院作成の縦が4.5mの横が6.3mの巨大な、大田区全域の1/2500の最新航空写真(撮影:平成19年5月、ただし空港部平成22年6月)「そらから見た[おおた]のすがた」を手前に展示してありました。地震に遭遇しなければ、後でゆっくりと写真を撮るつもりでしたが、退館となりましたのでそれは不可でした。

 「地図展 In おおた」目玉の展示品航空写真・変遷各期地図(左:展示場の床一面に大田区の変遷各期の地図展示、右:大田の航空写真の上から自分の家を見る)

大田区全域航空写真の展示の奥には、大田の変遷6時期の地図の①フランス式彩色地図(明治9~19年)、②明治後期の地図(明治39~42年)、③関東大震災直前(大正5~10年)、④昭和戦前期(昭和3~11年)、⑤高度成長期(昭和30~35年)と⑥10年前の地図(平成11~17年)床面に展示されてあり、入場者は自宅のある付近に屈み込んで眺めていました。
・フランス式彩色地図

 フランス式彩色地図[1876-86](:、:大森村付近拡大図)

・明治後期と関東大震災直前地図

 明治後期と関東大震災直前地図(:明治のおわり頃の大田区[1906-09]、:関東大震災直前の大田区西南部[1916-21])

・昭和戦前期の地図

 昭和戦前期の大田区地図[1928-36]](:、:大森町付近拡大図) 

・羽田空港の変遷
床面の巨大な大田区の変遷期の地図をさっと見終わり、側面壁の展示に戻ると「伊能図」の次のコーナーの「海図・航空図」を見ながら進み、奥の角地のコーナー「羽田空港の変遷」で、羽田空港の生い立ちから羽田空港国際化「(イベント 羽田空港再国際化 新国際線旅客ターミナルビルオープンと京急、モノレール新駅開業その1~3)参照」までの変遷が、空港模型などを含めて展示されていました。

 羽田空港変遷コーナー(写真拡大)

側面壁の次の展示は、「ものづくりの街大田」、「蒲田モダン」から「六郷用水」コーナーと続きます。

 地図展の壁面コーナー(:ものづくりの街大田コーナー、:蒲田モダンコーナー、:六郷用水コーナー)

・羽田モダン
側面壁の展示の「蒲羽田モダンのコーナーでは、1918年(大正7年)に黒澤貞次郎が蒲田の地に黒澤商店蒲田工場を造り、和文タイプライターを開発して生産しました。工場の周辺には社宅、農園、プール、テニスコート、幼稚園や小学校を建て“吾等が村”を造り、人々から黒澤村と呼ばれた工場の模型の展示や、1920年(大正9年)に誕生した松竹キネマ撮影所などが紹介されています。

 蒲田モダン

・六郷用水
六郷用水の紹介は、1597年(慶長2年)から測量が始まり、1611年(慶長16年)に完成して、今年は完成400年(「大森町界隈あれこれ 六郷用水完成400年 「下袋村と六郷用水」水上写真展」参照)となります。六郷用水の完成により、大田区の平野部は水田地帯となり、城南の米蔵に変身しました。

 六郷用水

続く展示コーナーの「大田区の街の歴史」は、歩きながら簡単に見ました。

 大田区の街の歴史コーナー(写真拡大)

東北・太平洋沿岸地震襲来
次の「時空ナビ」コーナーに移動して、衛星からの情報をペン型センサで画像上の場所を指定し同じ場所の各種地図を表示するという「時空ナビ」の説明を受けている途中に、東北・太平洋沿岸地震に襲われました。地震は時空ナビコーナーの吊り下がりの看板が揺れ出して、そのうち建物の壁面が大揺れとなり直立では立っておれず、場内放送により「壁面」から離れるようにと放送があり、中に移動しましたが直立では立っておれず、展示物コーナーの柱に辿り着きそこにつかまって、揺れが収まるのを待ちました。揺れの大きさは、生まれて初めて遭遇するもので、相当に長い揺れの後に収まりました。場内放送が建屋から退場するようにと促されたので、階段を下りてPIOから第1京浜国道にでました。その後の国道から自宅までは、その2に記載の通りです。

 時空ナビコーナー(写真拡大)

・地図展 In おおたの記念品


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イベント 展示会で東北・太平洋沿岸地震に遭遇 大田産業プラザで試作市場と地図展 その3

2011年03月18日 | イベント
kan-haru blog 2011 富岡八幡宮の伊能忠敬像   

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・伊能図コーナー(続)
伊能忠敬は、1800年(寛政12年閏4月19日)~1816年(文化13年閏10月23日)までの約17年間にわたり、日本国内を第一次測量から第十次測量までを行いました。
伊能忠敬の測量の方法は、導線法で角度と距離を測り、交会法で見渡せる山などの目標物の方位を測り誤差を補正して、天文測量で星の南中高度を測り観測地の緯度を定めていました。
距離の測量の導線法は、測定点間に梵天を建てて、当初は苧麻(ちょま;カラムシの茎の繊維から製した麻糸)の間縄(けんなわ)が用いて距離を測っていたが、伸縮とか、強度が弱い、強風時には風にあおられる、などの欠陥がありました。そこで、改良し第三次測量から以降では、内法を1尺とした鉄線を60本つないだ鉄鎖が距離の測定に用いられました。角度の測定には、杖の先に羅針盤をとりつけた杖先羅針が用いられました。
伊能測量の柱は導線法と交会法で、交会法は2点間の方角を測る時に、同時に近くの寺院の屋根や大木の梢などの共通点を設定して、そこの方位を測り記録して2点間の測り違いの誤差が補正可能である。
また、坂道の測量には、小象限儀で勾配を測り、割円八線対数表を用いて平面距離に変換したと云われています。さらに、伊能測量には測天量地と云われる天体観測で、地図作成の緯度の観測が併用されたといわれてます。

 伊能忠敬の全国測量器具(:間縄、:鉄鎖)

・第一次測量
第一次および第二次測量の測跡は、たまたま今回遭遇した東北・太平洋沿岸地震の被災地域の奥州街道と太平洋岸でありました。
第一次測量は、伊能忠敬が55歳の1800 年(寛政12年) 閏4月19日に、門倉隼太、平山宗平、伊能秀蔵の弟子と下僕の吉助、長助を連れて江戸を出発して、千住宿より奥州街道を進み、宇都宮、白河、仙台、盛岡、野辺地、青森を経て、5月10日に津軽半島北端の三厩に到着しました。三厩を同19日に出航し、蝦夷地の吉岡に上陸して箱館の蝦夷会所に寄って手続きを済ませ、室蘭、襟裳岬、釧路と根室の少し西側の西別まで北上して東海岸を測量しました。帰路は、往路の逆コースを取り、測量しながら、10月21日に測量日数には180日を掛けて江戸に帰着しました(伊能忠敬と伊能図の大事典から)。

 第1次測量ルート測跡(拡大図伊能忠敬と伊能図の大事典から)

・第二次測量
伊能忠敬の第二次測量は、1801 年(享和元年)閏4月2日に、伊能秀蔵、平山郡蔵、尾形慶助の弟子と下僕の長助、嘉助の測量隊が江戸出発して三浦半島、熱海から伊豆半島を一周した後、6月19日再度江戸出発。房総半島内房から外房に出て、東北・太平洋沿岸地震の被害の大きい太平洋岸を北上した後、下北半島を一周して青森を経て、11月3日に三厩に到達しました。帰路は奥州街道を再測量しながら、12月7日に江戸に帰着し測量日数は230日でした。

 第2次測量ルート測跡(拡大図伊能忠敬と伊能図の大事典から)

伊能忠敬が第二次測量した地震災害地域
丁度210年前に、今回の東北・太平洋沿岸地震地帯を測量した足跡の一部を辿って見ます。
第二次測量は、1801年(享和元年) 閏4月2日に江戸を出発して、三浦半島から伊豆半島を一周し、箱根を経て同年閏6月6日に深川黒江町の忠敬隠居宅に戻りました。
東北への出発は、6月19日に房総半島の一周から測量が始まり、千葉県の測量が終わったのは7月26日で、これから地震災害を受けた北関東から東北の海岸沿いの測量が行われました。
7月27日からの茨城県の測量は、神栖市、鹿嶋市、鉾田市、大洗町へと進み、8月1日に東海村、日立市と北茨城市を測量し、福島県いわき市に8月5日に入ります。
福島県の測量は、富岡町、相馬市が8月16日に測量して宮城県に入ります。宮城県では名取市、仙台市、塩釜市、東松島市、石巻市、南三陸町、氣仙沼市、大船渡市、釜石市、久慈市と進み青森県の八戸市に入り、今回の地震大災害地を200年前に日本初めての地図作成のため入念な測量が行われました。

 現名取市付近の大日本沿海輿地全図の一部拡大図

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イベント 展示会で東北・太平洋沿岸地震に遭遇 大田産業プラザで試作市場と地図展 その2

2011年03月15日 | イベント
kan-haru blog 2011 地図展 In おおた展示会場  

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地図展を見学中に市場最大の地震に襲われる
東北・太平洋沿岸地震に見舞われた3月11日には、大田区の産業プラザPIO(大田区南蒲田1)で、「第2回試作市場2011」と「『地図展 In おおた』~空から見た国際都市大田~」が開催されましたので見に行きました。

 地図展inおおたポスター

14時半頃に「第2回試作市場」の展示を見終わり、2階の小展示ホールで開催の「地図展 In おおた」を見に行き、地図展の展示物を粗方見終わる15時50分頃に震度5強の強烈な地震に襲われ、最終の小間を見ずに会場からの退場指令によりPIOを出ました。

 地図展 In おおた展示会場(:会場入り口、:会場受付、:会場風景)

会場を出て第1京浜国道から見える、京浜急行電鉄の2階上り線京急蒲田高架駅ホームの照明が消えており、首都圏の鉄道が全て運休となりました。旧多摩堤通りにはバスが動いていましたが、蒲田から大森町方面の路線バスは、1時間に1~2本程度でありバス停で待つのもいやなので、第1京浜国道を歩いて帰ることにしました。国道を歩いていると、梅屋敷の手前で余震に遭い、電柱・電線が大揺れで気持ちの良いものではありませんが、立ち止まらずそのまま進みました。この時間帯の第1京浜国道は、下り方面の車はびっちりと渋滞しており、国道沿いの高層マンションの住民があちらこちらで、建物から外に出て不安そうに立ち話をしていました。国道では同じ風景が続くので、大森町第3踏切で京急線路を西側に渡り、将来関連側道となる線路沿いの区道を歩き、すぐ傍の立退きとなった都営大森西五丁目アパート跡地を見ながら、大森町駅へ到着しました。

 地震のため京急蒲田から大森町まで歩く(:第1京浜国道と京急蒲田高架駅橋、:地震によりマンション前に人が佇む[梅屋敷付近]、:都営大森西五丁目アパート跡地)

地図展 In おおた
「地図展 in おおた ~空から見た国際都市 大田~」は、3月10~12日と「第2回試作市場2011」より1日長い開催で、主催や後援、協賛および特別協力の団体・企業数は次の通りで、35社の参加です。

 主催・後援・協賛・協力団体、企業一覧

展示会場は、2階の小展示場ホールで10時から19時(最終日18時)までと、長い時間の開催ですので、地図の情報をゆっくりと見られるものと思っていたのですが、巨大地震の襲来で退室となり思い通りにはなりませんでした。

 地図 in おおた展示会場

展示会場は、先ず入り口に入っての壁面の展示物は、3Dデジタル標高地形図が数面掲げてあり、説明員から手渡された眼鏡で標高地形図が立体的に見えるもので、江戸川・中川、大田区や九州霧島の新燃岳などの地図が展示されていました。
国土地理院では航空レーザ測量を活用し,平成19 年度より精密3D電子基盤情報整備事業として、政令指定都市の人口集中地区を中心とした地域を対象に精密地形情報の整備を実施しています。デジタル標高地形図は、地震、洪水、噴火等による災害発生時にも精密地形情報の整備を行っており、国土地理院の精密地形情報は、「新潟県中越沖地震」や「岩手・宮城内陸地震」に対応して、精密地形情報を整備中です。たまたま、今回の史上最大の「東北・太平洋沿岸地震」では、宮城県石巻市の「河北観測点」で、東南東に4メートル3センチ移動し、69.9センチ沈降する地殻変動を国土地理院が観測しています。今回遭遇の超巨大地震と地図展見学は、深い因果関係で結ばれており、忘れられない「地図展 In おおた」となりました。

 3Dデジタル標高地形図[国土地理院](:国土地理院展示コーナー、:デジタル標高地形図3Dメガネ)

次のコーナーは、手書きの江戸の大画面の鳥瞰図で、右の突端が羽田で、上部の海岸線が品川、左下が生麦と左上が深沢の範囲を描いたものです。

 江戸鳥瞰図コーナー](写真拡大)

隣のコーナーは、伊能図のコーナーです。49歳で隠居後の伊能忠敬は、江戸に出て歴学・天文を修め、1800~16年まで日本の全国の測量を実施しました。忠敬の没後の1821年に、幕府天文方の手で「大日本沿海輿(よ)地全図」として完成しました。作成した日本地図は、「伊能図」と云われ、大きく分類すると「大図」214枚、「中図」8枚、「小図」3枚などとなります。

 伊能大図](写真拡大)

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イベント 展示会で東北・太平洋沿岸地震に遭遇 大田産業プラザで試作市場と地図展 その1

2011年03月13日 | イベント
kan-haru blog 2011 東京都立産業技術研究センター展示コーナー 

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大田区の産業プラザPIO(大田区南蒲田1)で、「第2回試作市場2011」と「『地図展 In おおた』~空から見た国際都市大田~」が開催されましたので、3月11日に見に行きましたが、地図展を見学中に東北・太平洋沿岸地震に遭遇し、生存中の最大の揺れを体験しました。あと、僅かで見終わるところでしたが、地震のため入場者の産業プラザから退出となり、電車が運休となり京急蒲田から大森町まで歩いて帰りました。

 試作市場2011(左・中・右写真拡大)

東北・太平洋沿岸地震
3月11日に発生の過去最大マグニチュード9.0の東北・太平洋沿岸地震は、首都圏でも震度5の揺れを受けた12日は終日鉄道などの交通が停止しました。テレビも終日、地震のニュースを流し、震度7の岩手・宮城・福島では殆どの建物が倒壊し、10mを越える過去最大の津波に襲われ海岸沿いの都市が壊滅的な被害の模様を伝えていました。また、福島原発では炉心溶融で外壁が爆発し、付近住民に被曝者が発生しました。13日には、救援活動が開始されましたが、被害の様子はこれから明らかになりますが、現時点での死者および行方不明者は1万人を超えるのではと予測しています。地震の被害でお亡くなりになられた方には、心よりご冥福をお祈り致します。また、地震の被害に会われた方には、心より御見舞い申し上げます。
史上規模最大の地震の被害は甚大です。地震災害の復興には、日本全国民の支えが必要ですので、先ずは貧者の一灯ですが東北・太平洋沿岸地震義捐金から始めたいと思っています。


第2回試作市場2011
第2回試作市場2011は、産業プラザPIOの1階展示ホールで3月10、11の2日間にわたり日刊工業新聞社の主催、経済産業省後援、(財)大田区産業振興協会協賛で開催し、11日の14時過ぎに入場しました。
試作市場2011の開催テーマは、「技と人が出合い挑戦(試作)が始まる…」で、本展の目的は、①“試作”に強みを持つ企業・団体、また、これから“試作”市場へ参入を果たしたい企業・団体と製品開発をスムーズに進めたい大手・中堅企業とのマッチングの場、 ②自社技術力を広くPRする場とします。

 試作市場パンフレット

参加出展者の企業数・団体は63社で、入場者数は10日が1,020人で、11日が1,060人と発表されています。
会場(マップ参照)に入ると、受付を入って左側のブースは、三重県の中小企業・団体30社の出展コーナーです。

 三重県の中小企業・団体30社の出展コーナー(:会場案内図[拡大図]、:三重県の出展コーナ)

三重県の出展コーナのテーマを「見える! みえのスゴ技II」で首都圏の企業とビジネスマッチング会を目的に開催していました。

 三重県「見える! みえのスゴ技II」小誌

受付の右側のブースには、(株)エヌシーネットワークの様に試作メーカー17,500社が集結のエミダスグループや、(財)日立地区産業グループ傘下の11社の出展コーナーなどと、ワークショップコーナーでは、併催事業として出展・団体による無料セミナーが行われていました。

 試作市場出展コーナーとワークショップ会場(試作市場出展コーナー:、:日立地区産業グループ傘下出展企業、:ワークショップ会場)

その他、本年5月に江東区青梅に開設する(地独)東京都立産業技術研究センターや(財)北海道中小企業総合支援センターなどの団体のブースが出展していました。

 都産技研新本部の業務案内誌

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イベント 外国人邦楽演奏 第10回インターナショナル邦楽の集い その2

2011年03月07日 | イベント
kan-haru blog 2011 長唄 老松 

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・筝曲合奏
A公演の2番目の演目は、沢井忠雄が1973年に作曲した筝曲合奏で、日本人演奏家による演奏です。演奏筝の構成は箏 I・II・III・十七弦による四重筝曲です。この曲はちょうど洋楽の弦楽四重奏のように、非常に緊密な楽器構成で隙がない。全体は切れ目なく演奏されるが、大きくは四つの部分に分けることができる。第一は、まず三面の箏のピチカットによる美しいテーマで始まります。即興曲風に展開されることが多い沢井忠夫作品の中ではめずらしい、構成の意図がはっきりしており、各パートがきわめて緊密に構成された美しい曲です。
沢井忠雄は、尺八家の父に導かれて小学5年の頃から箏を習い始めて、高校時代には作曲を始め、59年の生涯に作曲した作品数は90を超えます。
十七弦は、大正・昭和の時代になって宮城道雄が、チェロ並みの低音域を持つ十七絃を開発したもので、邦楽合奏における低音楽器として現在でも広く使われ、独奏曲も生まれています。
四重奏の筝曲の音色が聞こえるビデオが、下記の下線文字をクリックするとほんのわずかですが見られます。ビデオから戻るときはブラウザ左上の「←」キーを押すと現画面に戻ります。

 四重奏曲が短時間ですが聴けます ビデオ

また、筝曲合奏に出演メンバーは下記の下線文字をクリックすると見られます。戻るときはブラウザ左上の「←」キーを押します。

 四重奏曲出演者
十七絃を演奏のCurtis Pattersonは、米国イリノイ州シカゴ出身でコーネル大学在学中に箏と出会い、1986年来日後に生田流箏曲の基本の地唄を学び、日本の伝統音楽への理解を深め、1990年沢井箏曲院に入門し、沢井忠夫、一恵両師に師事。以来、古典曲のみならず数多くの現代曲も手がけて、さまざまなジャンルのアーティストとして活動し、邦楽教育・指導によって幅広い箏の世界を目指しています。


 四重筝曲(:筝曲合奏、:左方が筝I、右方が筝II、:手前方が十七弦、奥方が筝III)

・長唄 本調子メドレー
3番目の演奏の長唄 本調子メドレーは、小鍛冶の「調子の合方」と新曲浦島の「寄せの合方」で、小鍛冶は1832年(天保3年)に初演された「姿花後雛形」という五変化の中の一曲で、今回の演奏は刀を作る部分の合方です。新浦島は古来の歌舞伎を改めて、日本的なオペラの創造をして、その理論を実践して新しい楽劇の見本としたのが「新曲浦島」で、その中から「寄せの合方」です。
出演は、三味線が9名(生徒5名)、囃子の笛Ⅰ名、小鼓8名(生徒7名)、大鼓1名、太鼓1名で、総勢20名による演奏です。メンバーの日本人生徒は、舞台2列目の右手方で小鼓の演技を熟していました。

 長唄 本調子メドレー ビデオ
また、長唄本調子メドレーに出演メンバーは下記の下線文字をクリックすると見られます。戻るときはブラウザ左上の「←」キーを押します。

 長唄本調子メドレー出演者


 長唄 本調子メドレー(写真拡大)

・長唄 鞍馬山
4番目の演目も、日本人の演奏による1856年(安政3年)に二杵屋勝三郎が作曲した長唄 鞍馬山で、仇を討つため鞍馬山で修業する牛若丸に、大勢の天狗が木太刀で襲いかかり激しい立ち回りとなったが、最後に天狗共が逃げうせるという筋を唄った曲です。演奏は長唄に三味線と囃子の笛、小鼓、太鼓の演奏で、山田連、崇兄弟の演ずる笛と小鼓は人気を博していました。山田兄弟は、お父さんが邦楽の集いで演奏している福原流笛方の福原寛で、国立音楽大講師、歌舞伎、日本舞踊会などで古典を中心とした演奏活動を行っています。

 長唄 鞍馬山 山田兄弟の笛と小鼓の演奏に人気です ビデオ
また、長唄鞍馬山に出演メンバーは下記の下線文字をクリックすると見られます。戻るときはブラウザ左上の「←」キーを押します。

 長唄鞍馬山出演者


 長唄 鞍馬山(写真拡大)

・長唄 助六
長唄 助六は5番目の演目で、十代目杵屋六左衛門が作曲して、1839年(天保10年)3月に初演の中村座で八変化舞踊「花翫歴色所八景」の中の1曲で、歌舞伎18番の「助六」を舞踊化した曲のため、河東節の影響を受けてそれを巧みに長唄化したものです。
長唄 助六では、生徒は三味線8名、笛1名が演奏し、総勢22名の登場ですが、知り合いの生徒は3列目の左端のため、残念ながら演奏はよく見えませんでした。この回は、演奏のビデオは無く、生徒が演奏内容を紹介する模様を撮影しました。

 長唄 助六 の演目紹介をする生徒達
また、長唄助六に出演メンバーは下記の下線文字をクリックすると見られます。戻るときはブラウザ左上の「←」キーを押します。

 長唄助六出演者


 長唄 助六(写真拡大)

・長唄 老松
A公演の最後の演目は、杵屋六三郎が1820年(文政3年)に作曲した長唄 老松で、劇場音楽から離れた純演奏曲です。母・ますの80歳の祝いに、「ます」を「まつ」に通わせて作曲し、作詞も作曲者本人といわれています。松風合方は初演の折は無く、後に十代目杵屋六左衛門が作曲者の了承を得て、作曲しました。老松のめでたさからはじまり、松にちなんだ風景や風物などが変化のある曲調で展開されます。
立方(踊り手)の日本舞踊・振付家の林千永は、3歳で林流二世家元・林 一枝に入門。東京芸術大学音楽学部邦楽科卒業し、古典の舞台を踏む一方、創作、ライブ「林 千枝の踊りカタログ」、イベント・演劇の構成・振付・出演等を行っています。
出演は立方が1名入り、長唄4名(生徒1名)、三味線9名(生徒5名)、囃子に笛1名、小鼓1名、大鼓1名、太鼓1名の総勢18名の出演です。

 長唄 老松 ビデオ 
また、長唄老松に出演メンバーは下記の下線文字をクリックすると見られます。戻るときはブラウザ左上の「←」キーを押します。

 長唄老松出演者


 長唄 老松(写真拡大)

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イベント 外国人邦楽演奏 第10回インターナショナル邦楽の集い その1

2011年03月05日 | イベント
kan-haru blog 2011 長唄 いきおい演奏

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インターナショナル邦楽の集い
久しぶりに、異業種交流会メンバーの常連出演の方より「第10回インターナショナル邦楽の集い」のご案内を頂きましたので、感動の演奏を観賞させて頂きました。インターナショナル邦楽の集いは、邦楽家の西村真琴さんが主催する「代田インターナショナル長唄会」で、日本に滞在し、日本文化を知りたいと思っている外国人のために、主に長唄の三味線をほとんど無報酬で教授しておられる篤志家で、滞在期間の制約がある短い稽古経験で舞台に立って、日ごろの生徒の成果を示すための、日本人演奏家のバックアップする中での発表会の催しなのです。

 第10回インターナショナル邦楽の集いパンフレット(:表面拡大、:裏面拡大)

代田インターナショナル長唄会の歴史は、2001年10月20日に神楽坂 矢来能楽堂で「インターナショナル長唄・能演奏会」が開催され、翌年6月29日に同所で「第1回インターナショナル邦楽の集い」が開かれ、今年の2月27日に元神明宮(港区三田1-4-74)で「第10回インターナショナル邦楽の集い」が行われ節目を迎えました。
インターナショナル邦楽の集いを初めて観賞したのは、2004年の本願寺ブデイストホールで、日本人でも難しい邦楽を外国人が熟して演奏するのに感動しました。それ以来、2005年梅若能楽学院と、2007年青山鉄仙会能楽堂(「イベント 外国人邦楽演奏 インターナショナル邦楽の集い その1、2」参照)へと通い、2008年梅若能楽学院(「イベント 外国人邦楽演奏 インターナショナル邦楽の集い2008」参照)と5回連続で外国人邦楽演奏を堪能しました。

元神明宮での邦楽の集い
今年の元神明宮での「第10回インターナショナル邦楽の集い」は、3年振りに観賞させて貰いました。元神明宮へは、都営1号線の大門駅で大江戸線に乗り換えて、赤羽橋を下車し都道319号を西に進み交差点を左に折れ、中之橋を渡り約150m進むと3差路の左が元神明宮のビルで、駅から5分足らずです。会場は、階段またはエレベータで昇った1階に邦楽の集いの演奏会場があります。

 中之橋を渡り元神明宮会場へ

邦楽の集いも回を重ね10回目の節目を迎え、外国人生徒の演奏のテクニックは高まりました。それにしても、日本人でも得とくが困難な邦楽の心を見につけ、その長唄や器楽の演奏は素晴らしく、多くの邦楽を知らない日本人に感動を与えてくれます。
第10回の邦楽の集い公演は、14時30分~16時のA公演と、16時30分~18時のB公演の2部構成で、それぞれ6曲目が公演され、今回は時間の都合でA公演のみを観賞しました。

 A公演チケット

元神明宮の公演会場はやや狭く、観客席は舞台前の席がシート敷で、中間は複数個のテーブルを重ねた座席で、後方は折り畳み椅子を並べて多くの入場を収容しようとの工夫の席ですが、開場の14時から観客が詰めかけ、開演直前には外国人生徒の演奏の人気で満席となり立ち見の盛況でした。

 会場風景(左:会場直後の前面座席、中:開演直前の中間座席、右:開演直前の後部座席)

・長唄 いきおい
A公演の最初演目は、初代杵屋正治郎作曲の長唄 いきおい で1787年(天明7年)正月に江戸の桐座で、市川高麗蔵の五郎、瀬川富三郎の化粧坂少将で初演された草摺引の所作事です。邦楽の集いでは演目の紹介等は、出演者が交代で行うのが通例で、日本語と外国語で行います。次の下線文字をクリックすると、演目に関する注意の紹介の一部がビデオで見られます。ビデオから戻るときはブラウザ左上の「←」キーを押すと現画面にもどります。

 演奏前の注意事項もコミカルに 紹介ビデオ

また、長唄 いきおい 出演メンバーは下記の下線文字をクリックすると見られます。戻るときはブラウザ左上の「←」キーを押します。

 長唄 いきおい出演者

長唄 いきおい出演者は、長唄が5人(生徒2名)、三味線が13人(生徒9名)で、囃子が笛1人、小鼓1人、大鼓1人、太鼓3名(生徒2名)での演奏です。

 長唄 いきおい演奏(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

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イベント 池袋サンシャイン・ワールドインポマート 第65回日本書道美術院「教育部展」その1

2011年01月17日 | イベント
kan-haru blog 2011 第65回教育部展全日本書道連盟賞

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日本書道美術院「教育部展」
第65回日本書道美術院「教育部展」(「イベント 東京都美術館 第63回日本書道美術院「教育部展」」参照)は、1月4日~9日まで池袋サンシャインシティで日本書道美術院主催の日書展との併催で開催されました。昨年まで日書展は東京都美術館(上野)で開催していましたが、施設の老朽化が進んだため全面休館中で平成25年までサンシャインシティ・ワールドインポマート4階「展示ホールA」での開催となりました。

 ワールドインポマート「展示ホールA」日書展会場

教育部展は、第二次世界大戦後に一番最初の書道団体として誕生した財団法人日本書道美術院が主催で、第55回全国競書大会と併催の開催です。
教育部展への出品作品の規定は、小学生、中学生と高校生が対象資格であり、作品は本紙寸法がタテ100Cm、ヨコ24.5Cmの用紙に語句・書体が自由課題の書道を、タテ135Cm、ヨコ36Cmの軸表装にしたものと定められています。また、全国競書大会への出品作品の規定は、全国の学生生徒と大人を対象に、日頃の稽古鍛錬の成果を競うことを目的に「半紙作品」と定められています。

 日書展招待券

教育部展には孫が、小学2年生第61回教育部展の時から連続5回の出品を続け、今回は12月に日本書道美術院から全日本書道連盟賞に入賞の通知がありましたので、1月7日に孫一家とともに両家の親族が連れだって見に行きました。
・第55回全国競書大会
全国競書大会の会場入り口は、日書展の通路を挟んで向かい側にあり、会場を入ってすぐ左手に展示されています。全国競書大会展示作品の半紙に書いた毛筆習字の作品を眺めると、何れ劣らぬ力作揃いで何時も感心させられます。全国競書大会には、小・中・高校の部と一般の部があり、一般部には漢字、かなと新書芸があります。
全国競書大会の入賞種目には各賞があり、各部毎に特別賞、日本書道美術院賞、理事長賞、毎日新聞社賞(中学以上)、毎日小学生新聞賞(小学生)、全日本書道連盟賞、高野山金剛峯寺賞、第55回展記念賞、書道美術特別賞、みんなの賞特別賞、書芸文化院賞があり、受賞者名は日本書道美術院ホームページの発表入賞者名で見られます。
今回は、時間の関係で入り口に展示の優秀作品を観賞させて頂き、次の教育部展に移りました。

 第55回全国競書大会展示作品(写真拡大)

・第65回教育部展
孫の書道との縁は小学生に入ってからで、自宅から近くの玉汀書道教室(主宰者 荻原玉汀)に通い始め、5年間の教室の熱心な書道指導を受けることができ、図らずも今回大きな賞を頂くことができました。

 第65回教育部展入賞作品展示コーナー(・右写真拡大)

今年の玉汀書道教室からの教育部展への出品者(佳作以上)数と、全国競書大会への出品入賞展示者数を合わせると26名(高校1名、中学4名、小学21名)でした。

 第65回教育部展入賞作品を前に(:書道教室の先生とともに、中:入賞したぞ、右:家族と一緒に記念写真)

教育部展の展示会場は全国競書大会展示場の先の右側です。出品作品は、幼年を含む小学生、中学生と高校生が対象で、体裁は軸表装にしたものと定められております。
今年の教育部展出展の孫の5作目の作品の題字は「春風万里」で、全日本書道連盟賞に入賞して当人は大変喜んでいます。過去出展作品では最高賞が秀作でしたので、両親を初めとして親族ではまさかの賞に大変な感激でした。

 改めて全日本書道連盟賞入賞作品を見る(左・中・写真拡大) 

日本書道美術院「教育部展」には、高校の部、中学の部と小学の部があり、各部には各種の上位の入賞種目があり、特待賞、日本書道美術院賞、理事長賞、毎日新聞社賞、全日本書道連盟賞、高野山金剛峯寺賞、第65回展記念賞、みんなの書賞があります。また、一般の入賞種目には、特選、秀作、優作、佳作があります。

 第65回教育部展示作品を観賞する(左上中上右上左下中下右下写真拡大) 

第65回の上位入賞の受賞者は、特待賞(高1、小1点)、日本書道美術院賞(高1、中1、小1点)、理事長賞(高2、中2、小3点)、毎日新聞社賞(高2、中3点)、毎日小学生新聞社賞(小5点)、全日本書道連盟賞(高3、中5、小7点)、高野山金剛峯寺賞(高6、中9、小13点)、第65回展記念賞(高13、中23、小29点)、みんなの書賞(高25、中37、小53点)で、受賞者名は日本書道美術院ホームページの発表入賞者名で見られます。

 展示作品は何れを見ても素晴らしい書の芸術です(写真拡大)

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