十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

2009-11-15 | Weblog
     秋の街シャネルとグッチすれちがふ    佐伯時子

高級ブランドに身を飾った女性たちが秋の街を彩っているのだろう。「シャネル」は、フランス、「グッチ」はイタリアの超一流ブラン名だ。「シャネルとグッチすれちがふ」という、省略の効いた俳諧味のある作品に、この秋新作の服や靴、バックやアクセサリと、いろいろ想像させられる。ささやかな贅沢は、一時心まで豊かにしてくれるものだ。秋色に飾られたショーウインドウまで見えるようで、国際的な視線が面白かった。「滝」11月号〈滝集〉より抄出。(Midori) 

天高し

2009-11-14 | Weblog
      天高し棟木にひびく一の槌     熊谷貴志子

最近では住宅メーカーのよる建築が多くなってきているようだが、やはり棟上式の神聖な雰囲気は、今も昔も変わらない。棟木は、屋根の最頂部に取り付けられる横木のことで、この棟木を取り付けると建物の骨組みは終了する。さて、棟梁が打つ「一の槌」だろうか。好天にも恵まれ、天高く槌の音がひびき渡る。「一の槌」が一句を引き締め、読む者に心地よく響いてきた。「滝」11月号〈滝集〉より抄出。(Midori) 

隠元豆

2009-11-13 | Weblog
      いんげんの筋とる童左きき     畑中伴子

1654年、明からの帰化僧、隠元禅師が日本に持ち込んだとされることからこの名がついている。日本料理の彩には欠かせないものだと思っていたので意外だった。普通、右利きであれば、左手に隠元を持って右手ですっと筋をとるのが一般的だ。しかしお手伝いの童はそうではなかったらしい。慣れない手つきで、懸命に隠元の筋をとっている童と作者のほのぼのとした情景が目に浮かぶ。「いんげん」から童へと焦点を移した作品に作者のユニークな視線を感じた。「滝」11月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

野分

2009-11-12 | Weblog
     野分去り遠き昨日でありにけり    中鉢益生

野分は、草木を吹き分けるほどの風というのでこの名があるが、台風やその余波も同義として広く使われているようだ。さて、過ぎ去ってしまえば実にあっけないものだが、メディアが伝える台風情報に不安や恐怖は大きくなるばかりだ。台風が来る前の昨日と、過ぎ去ったあとの今日・・・。「遠き昨日でありにけり」に安堵の思いが伝わってきた。「滝」11月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

秋風

2009-11-11 | Weblog
     秋風や水栽培に根の兆し    加藤信子

水栽培と言えば、ヒヤシンスやクロッカスの球根と決まっているが、なぜヒヤシンスなのか考えてみたこともなかった。秋植え球根の内部には、すでに花芽を持ち、十分な養分も蓄えているので水栽培に適しているらしい。作者は、どんな花を水栽培にしたのかわからないが、球根から白い根が膨らみはじめたのだ。「根の兆し」だから、「根」と言えるものではないのかもしれない。春に美しい花を咲かせるために、秋から冬、根はしっかりと育っていくのだ。かすかな変化さえ見逃さない観察に花への愛情が感じられた。「滝」11月号〈滝集〉より抄出。 (Midori)  

秋の蝶

2009-11-10 | Weblog
      列柱の間より生るる秋の蝶     田口啓子

「列柱」は、もともと立体図形のような何の変哲も詩情もない言葉でありながら、パルテノン神殿のような古代ギリシア建築の回廊を想像してしまうのは不思議だ。「蝶が・・・より生るる」という句は、これまでもたくさん見てきたが、「列柱の間より」に何かしら新鮮さを感じた。美しい列柱がつづく神殿の回廊から生れるものは、やはり「秋の蝶」でなければならない気がした。建造物の美しさが一層際立つ作品だと思う。「滝」11月号〈滝集〉より抄出。(Midori) 
 

団栗

2009-11-09 | Weblog
     団栗のぬくみに昭和恋ひにけり    酒井恍山

木の実は、樫、椎、胡桃といろいろあるが、団栗ほど親しみのある木の実はないように思う。昭和は、その人が生れた年代によってさまざまだが、私は幸いにも、戦争も餓えも知らない経済高度成長期の真っ只中に育った。目まぐるしく変化していった時代でもあった。陽光に暖められた団栗、あるいは手のひらの温もりが伝わる団栗だろうか。恍山さんにとって「昭和」は、団栗のなかの幼き日のぬくもりなのかもしれない。「滝」11月号〈渓流集〉より抄出。(Midori) 

月代

2009-11-08 | Weblog
      月代の雲梯を臍渡りゆく    石母田星人

雲梯といえば、公園などでよく見かける遊具の一つだが、その雲梯を臍が渡っていったという。一瞬、「月の臍?クレーター?」と思ったが、「月代の」は「雲梯」にかかっている。きっと雲梯にぶら下がった少年のTシャツから覗いている臍なのだ。雲梯が月まで伸びて、最後に少年の手が月に届く・・・。こんな空想をしたくなるのは、その「雲の梯」という日本語の詩情の豊かさにあるのだ。やがて雲梯は少年の未来へとつづくのだろうか。「滝」11月号〈渓流集〉より抄出。(Midori) 

冬の星

2009-11-07 | Weblog
       線刻の仏に冬の星ひびく    菅原鬨也

“東北歴史博物館十周年記念「東北の群像」を観て10句”の前書から、この線刻は、秋田県唯一の国宝である「線刻千手観音等鏡像」のことだとわかる。記紀の代より鏡は太陽神の象徴として信仰の対象とされていたともいう。さて、「冬の星ひびく」とは作者の感覚である。古鏡と響きあう冬の星のひとつ一つが、まるで満天の星座となって覇を競い合うかのようだ。冬の星に「滝」主宰の張りつめた気迫のようなものが感じられた。このほど第5句集『曲炎』を上梓されたばかりだ。「滝」11月号〈飛沫抄〉より抄出。(Midori) 

*「滝」ホームページ  http://sky.geocities.jp/himatu2008/index.html

銀河

2009-11-06 | Weblog
「何の星だかわかりますか?」との案内に従って九州最大と言われる望遠鏡を覗いた。南阿蘇のルナ天文台だ。真ん丸に横棒がある小さな星が見える。これまで頭に描いていたイメージとは程遠いものだったが土星に違いなかった。「真横から見える土星はとても珍しいのですよ」と仰ったが、何の変哲もないまるで工具の先の断面図のようだったが、やはり感動した。次は、太陽と同じ恒星、アルクトウールスという星を見せて頂いた。「36年前の光を見ているのです」の説明に、「わたしまだ生れてなぁーい」という声がどこかで聞こえてきた。宇宙の広さを実感したことだった。(Midori) 

     大阿蘇の銀河の端に腰かけて    平川みどり    

朝顔

2009-11-05 | Weblog
      朝顔のまだ見ぬ色に水をやる     緒方宣子

ガクに包まれた朝顔の蕾は、次第に膨らんでくると、かすかに色づきはじめる。しかし、朝顔の花の色は、青、白、紫、ピンクと、その文様もさまざまだ。咲いて見なければわからない。種から育てて、やっと開く最初の朝顔の花だろうか・・・。「まだ見ぬ色に水をやる」の焦点が絞られた表現に、開花を待ち望んでいる作者の思いが伝わってくる。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

2009-11-04 | Weblog
       挨拶のどちらが女将鰻宿    中嶋富恵

はじめての鰻宿だったようだ。古い老舗の宿なのだろうか、二人の和服姿?の女性が挨拶に来られたのだが、どちらが女将さんなのか、一瞬戸惑っているのだ。「挨拶のどちらが女将?」と、作者の素朴な疑問が、そのまま一句となった作品だ。「どちらが女将さん?」と、果たして聞けたのだろうか。ほのぼのとした省略の効いた作品に心惹かれた。富恵さんは、このほどコロニー印刷より第一句集「十三夜」を上梓されたばかり。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

百日紅

2009-11-03 | Weblog
        恋と愛無知と無謀と百日紅    高峰 武

「恋と愛」とは、いきなり大きなテーマだが、これほど不確かなものはないようだ。そして「無知と無謀」といえば、ともに若さの特権だろうか。知らないということは、一つのエネルギーの源泉でもあり、無謀は未知の可能性を内包しているからだ。いずれにしてもここから何かが生まれそうな気がしてくる。下五にきて、「百日紅」が置かれほっとする。今ここで、確かな存在は、唯一「百日紅」だけのようだ。ちょっと無謀と思える構図が面白かった。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

晩夏

2009-11-02 | Weblog
      窓と云う窓に四角い晩夏あり    今村征一

一読したとき、作者は外からたくさんの四角い窓を見ているのかと思っていたら、そうではなかった。作者は部屋の中からひとつひとつの窓から見える景色を見ているのだった。それぞれの窓から見える四角い景色に、夏の終わりを感じているのだ。ここに詠まれているのは「窓」だけである。「四角い晩夏」と、晩夏をかたどった作品にしみじみとした情感を覚えた。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

みんみん

2009-11-01 | Weblog
     一行のみんみんに耳揃へけり    嶋田光子

「みんみん」は、盛夏にミーンミーンと高い声で鳴いているミンミン蝉のことだ。吟行の一行なのだろうか。「耳を揃へけり」とはユニークな捉え方だが、みんみんの鳴き声に一行が揃って耳を傾けている様子を想像すると何だか可笑しくなる。「み」の頭韻によってリズムもよく、「耳」が大きくクローズアップされた構図がとても楽しい。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)