ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

『就活』『婚活』なんて。。。

2009年06月30日 | 日本の課題
 就活、婚活という言葉が、いまや普通に使われる時代となったというべきか、私たちの世代的には、まったくこんな言葉はなかった、いや殆ど使う必要もなかった。

 昨今は、大学生活の半分近くは、学問や研究のための時間ではなくて、「就職活動」、すなわち大学卒後の仕事に就くための活動に費やしているといっても過言ではないだろう。

 高校を卒業するまでは、ともかく「大学入試」のための勉強や受験体制で一生懸命、青春を突っ走って、めでたく入学した大学では、もっぱら勉学に勤しむというよりも、前半の二年間は遊びほうけて、後半の二年かはリクルートスーツに身を包んでの「就職活動」、つまり「就活」に明け暮れているらしい。

 私自身の大学時代は、ちょうど70年安保といわれた政治的活動の時代でもあったので、入学後すぐに京都市内の学生デモに借り出され、気づいた頃には学生寮に入寮し、大学の授業はほとんどピケや学園闘争らしきもので無くなっていたために、バイトと議論に明け暮れていたといった感じだった。

 だから、大学四年生になっても「就職活動」なんぞは全く関心もなく、大学紛争と言われた渦中に翻弄されつつ、父の死がきっかけで大学をフェードアウトして、いつのまにやら社会人といった感じで仕事についていた。

 その「仕事」との出会いも、友人、知人の紹介がきっかけで、バイトの延長の感じで二つ、三つの事業所の仕事を手伝ったあと、音楽関係の小さな事務所に誘われて入ったのが、人生の地に着いた「仕事の始まり」であった。

 それ以来、70年代を「音楽事務所」に関連した仕事で大阪、東京で暮らし、80年代は京都に帰って「子どもと遊ぶ活動」を仕事とし、90年代に入って「地方議員」となって、90年代半ばから有機農産物と無添加食品の「八百屋」を生業とするようになっていた。

 全てが、ある意味では「縁」であり、「偶然」でもあった。

 一方の「婚活」についても、「結婚活動」という意識の期間は全くなく、20代前半の出会いがきっかけとなって、25歳で「結婚」し、一女、一男の「父親」となって、いつのまにか「結婚生活37年」が経っていた。

 つまり、私自身には、「就活」も、「婚活」もないままに、いつの間にやら、今までの人生を歩んできたのであるが、決して「順風漫歩」とは言いがたい「波乱万丈」の人生を歩んでいるみたいなのだが、その時折々に、出会いと支援があって、健康に小さな幸せを感じつつ、生きてこれたのである。

 「人生設計」などと、大袈裟に言う人もいるが、「人生」を「設計」どおりに歩むことが出来る人たちもいるのだろうが、私には「人生設計」なんぞ出来ないので、自然体で出会いときっかけでの決断だけで、今に至る「楽しくもドラマチック」な「人生」を歩ませていただいている。

 「就活」や「婚活」を意識している諸君たち。

 まじめに楽しく自分らしく一生懸命に生きていれば、きっと「出会い」や「きっかけ」は訪れると思うし、友人、知人たちが声をかけてくれるはずである。

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「組織と個人」

2009年06月29日 | とんでもない!
 多くの団塊の世代と呼ばれた年齢層が、2007年問題などと称されて、社会の一線から退こうとしている現在、あの若き闘争の時代を生きたはずの「団塊の世代や何処?」と呼ばれかねない状況と化している。

 つまり、1960年代から1970年代にかけての「学園闘争」や「反安保闘争」と称された、社会や政治に対する「アンチ」や「怒り」のデモや街頭行動の渦の中にいた若者たちが、いまや団塊の世代と称され、社会からドロップアウトしつつある事態になっているのである。

 あの若さは何処?。生きているものは全て老いては行くが、その心根や情熱、または反骨精神とやらは何処に消えてしまったんだろうかと、自問自答することしきりである。

 あの時代を生きた者の一人として、大きな社会、組織のうねりの中で、ちっぽけな個人の力や考え方が、何処まで通じるのかと自問自答することが多かったと記憶している。

 それから数十年、社会を、政治を変えようと、自分自身と語りながら、多くの友や知人の話を耳にしながら、それなりに戦ってきたつもりなのだが、ちっとも社会や政治が変わらないと言った感じの絶望感も、しばし感じていた。

 大きな力、すなわち社会を構成する大きな常識、つまり「組織を大切にする力」に対して、やはり「個人の大切な心」が踏みにじられ続けてきたということなのである。

 多くの議論、アクシデント、対応が必要な場合に、組織の論理、つまり個人は抹殺されて、組織の存続、維持が間違いなく優先させられてきたのである。

 現在、テレビマスコミだけでなく、いたるところで「個人情報」を取り巻く問題が露呈して、個人の名前、住所、電話番号などの公表が控えられたり、行政、銀行、郵便局などをはじめとした公的機関では、個人を証明する書類の提示などが求められている。

 しかし、それは何のためなのだろうか。決して「個人を尊重するため」ではないのだ。

 つまり、大きな組織や行政、銀行、郵便局などでの「間違いやミス」があった場合の「言い訳」、つまり、「責任逃れ」のための「アリバイ作り」なのではないだろうか。

 結局、日本社会だけではないだろうが、大きな組織は、個人などどうでもよくて、「組織それ自体を守る」ための小手先の「モラル」あるいは「マニュアル」として、「個人情報を守る」という形で、組織的思考を優先させているに過ぎないのである。

 結論的に言えば、「個人は尊重されず」、全て「組織のための論理」が優先しているのである。

 「当たり前だろう」と思う方も多いかも知れないが、組織は何のためにあるのだろうか。

 「個人を守るため」にといわれているが、全く逆で「個人を犠牲にしても組織を守る」ために機能しているに過ぎないのだ。

 社会や政治、経済などの仕組みや不条理なルール、モラルなど、ひとつひとつの現場や事象に照らしてみれば、一目瞭然である。

 「自分」という個人を「組織」に利用されない「自分らしさ」を大切にしよう。
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「挨拶の出来ない人」

2009年06月28日 | とんでもない!
 最近と言っても、ここ数年ずっと感じていることがある。

 若者だけではないが、職場でもご近所でも「挨拶ができない人」が多くいるのである。

 どうしてかは分からないが、他人との挨拶が聞こえないのか、あいさつすることが苦手なのか、全く朝晩といわず、出会った時、別れの時、当然の如く「おはようございます」とか「お疲れ様」とか口に出して「挨拶」をするのだが、ほとんど返事と言うべきか、挨拶が返ってこない。

 時には、仕事や騒音で聞こえにくい場合もあるとは思うが、全く「挨拶ができない人」が多いのである。

 私の年上の元大学教授の愛すべき老人は、毎朝の如く近くの川べりまで健康のために散歩されていて、道行く人々、つまりご近所の方とは言え、赤の他人に対しても「おはようございます」と挨拶されていたら、その内の数人は、返答を返すようになったと言う。

 しかし、何故か「他人と口をきく」ことが億劫なのか、それとも「得でもなく損だ」とでも考えているのか、全く「知らん顔」の人がまだいるという。

 最近の日本社会も、とっても暗くて欝状態なのではないかと思われるような現象が目だってきていて、「知らぬ人と口をきいたらアカン」とでも教えているが如く、子どもたちまでもが知らん顔を決め込んでいる。

 この世の中、どんなに時代が変化しようと、人間社会は、人間同士の出会い、協力、共同などで成り立っていて、自分が意識する、しないに関わらず、多くの他人様にも支えられたり、お世話になっているのである。

 全く見ず知らずの他人と挨拶しろと言っているのではない。

 家族をはじめ、職場やご近所、つまり顔見知りや知人、友人との挨拶すら、まともに出来ない人が目立って多くなっているのである。
 朝起きたら、家族同士でも「おはよう」と挨拶しよう。そして「行ってらっしゃい」「こんにちわ」「お元気ですか」「大丈夫ですか」「いいお天気ですね」、「さようなら」「ごきげんよう」など、時と場合、または親しさの距離感によって、言葉は違えども「挨拶」は、人間関係の基本ではないだろうか。

 いくら声をかけても、一切返答しない人、つまり用件がある場合や自分の主張しか言わない人たちが、とっても目立っていて、人間関係がなんともギスギスしてはしませんか。

 まず出会ったら、朝なら「おはようございます」、昼なら「こんにちわ」など、日本語の美しい「挨拶の言葉」が一杯あるのに、黙っている人がいて、少し悲しくもなっている。

 しゃべれば損なのだろうか。いや話すこと、すなわち「挨拶ができる」ことが、全ての人間関係の始まりであり、礼儀ではないだろうか。

 子どもたちにも、親が先生が大人たちが率先して実行し、教え直さねばならないほど。日本人の「挨拶ができない人」が急増している現代社会は、とんでもなく「やばい」、閉鎖的「欝社会」に突入していると言っても過言ではないだろう。
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マイケル・ジャクソンの死。

2009年06月27日 | テレビマスコミ
 世界のトップスター、キング オブ ポップスといわれた「マイケル・ジャクソン」が突然死去したニュースが世界を駆け巡り、日本でも昨日から今日にかけて、テレビ局は何処も彼のスターとしての歴史を報じていた。

 突然の死が、心不全という病名で伝えられたが、大量の薬物の乱用、つまり鎮痛剤や多種多様な薬の副作用などもあったのではないかと推察されている。

 あの巨大な富の象徴でもあった、遊園地のような彼の「ネバーランド」という住居も既に多額の借金のために売却せざるを得なくなって人手に渡り、日本円にすれば300億円を超す借金地獄にあえぎながら、同居している医者と共に暮らしていたという。

 ジャクソンファイブの一員としてデビューした10歳未満だったかわいい黒人少年だったマイケルだったが、いつの間にか整形手術をたび重ねて受けて、白人に近づきたかったようで、50歳を迎えたマイケルは、少年時代とは別人のような顔立ちになっていた。

 私は、あの有名なムーンウォークと呼ばれる独特のリズムに乗った歩き方と共に、スリラーという全世界で1000万枚以上売り上げたレコードと、ウィアーザワールドを著名なミュージシャンたちと共に歌うマイケルだけしか知らないのだが、彼の音楽と踊りの天才的な才能は素晴らしいと思う。

 しかし、多くの奇行や幼児虐待容疑などに見られるような、彼自身の人間性とも言うべき、生い立ちからスターになって後の行動や言動には、異常とも言うべき謎のものがたくさんあったと思われる。

 黒人として誕生した彼自身は、幼い時の父親から受けた「暴力」、すなわち虐待がトラウマの如くなっていたらしく、虐待を繰り返す大人は幼い時に虐待された経験がある場合が多く、彼自身の大きな性格、行動にはそうした行動が隠し得ないと思われる。

 多くの資産を持つ、マイケルに対して「幼児虐待」の罪を擦り付けて、多くの慰謝料や賠償金を狙った訴えの疑いも拭えぬとはいえ、彼自身の大人になる過程での葛藤と矛盾、子どものまま大人になってしまったと思える幼児性が見受けられる。

 すなわち、彼マイケル・ジャクソン自身は、とっても孤独でさびしい人生を送った人だったと推測され、巨万の富と名声を勝ち得た「スーパースター」であることは間違いないのだが、非常にさびしく他人を信用できない孤独な人生だったと思う。

 世界のスーパースターといくら言われても、彼の一人の人間としての50年の人生は、ふつうの生活を経験できない、かわいそうな一生だったと言わざるを得ないのではないだろうかと思うのである。

 いくらテレビマスコミを中心に彼の死を悼んでも、遺体の解剖などによる検証や死因の究明に、まだ数週間かかるという報道を聞くと、ほんとうに死んでも問題多き難題を抱えたままの人生だったとしか言いようがない。

 ともかく、一人の寂しき巨星の冥福を祈ろう。
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「半夏生」って?

2009年06月25日 | 季節の話題
 今日仕事を終えて帰宅すると、家人が「いつもの粽が届いたよ!」と言って、夕飯時に笹の葉に巻かれた「笹巻きちまき」を茹でて砂糖醤油で一本食べた。

 この「笹ちまき」は、毎年この時期、梅雨の真っ最中の六月末に、出雲地方の取引のある「木次乳業」から、届くものなのだが、その由来は下記の如く記されていた。

 出雲地方では、六月になると一ヶ月遅れの端午の節句を行います。

 そして同じ頃に田植えが終わり、泥落とし(骨休め)を代満の半夏の行事として、笹巻きをつくります。

 平素のご無沙汰ご愛顧のお詫びと感謝の印として、笹巻きをご賞味くださいませ。

 この「笹巻き」は、素朴な粽であり、なんとなく「半夏生」の贈り物として根付いているみたいである。
 
 「半夏生」そのものの意味は、一年の内の七十二候のひとつで、半夏(鳥柄杓)という薬草が生える頃ということらしい。

 この「半夏生」は、夏至から数えて十一日目の日で、天球上の黄径100度の点を太陽が通る日らしく、毎年の七月二日頃にあたる。

 農家にとっては、大事な節目の日で、この日までの農作業を終えて、この日からは五日間はお休みとする地方もあるという。

 この日は、天から毒気が降ると言われて、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされていたようである。

 関西地方では何故か蛸を、讃岐地方では饂飩を食べる習慣があるそうである。

 一般的には「梅雨明け」を示す指標のひとつであり、地方によっては植えられた稲の苗がよく根付くようにと蛸を食べるらしい、すなわち蛸の脚を根に見立てて、丈夫な根が吸盤のように地によく付くようにとの願いからと思われる。

 日本には、ほんとうに自然の季節の移ろいを、こうした72もの節目として意識させてくれる習慣があって、多くは昔からの農業を営む農家の人たちが大切にしながら伝統と季節感を重んじて守って来られた習慣として伝わった形になっているのである。

 確かに都会や町に住む我々にとっても、この季節の移ろいの中で、ちょっとした中休みと言った感じの「梅雨明け」シーズンに、素朴で美味しい「笹巻き」を茹でて食べることで、改めて一年の半分が既に過ぎ去ろうとしていることを認識しつつ、お百姓さんたちのご苦労と米作りをはじめ農作業に勤しんでおられる農家の方々に感謝するひとときとしたいものである。

 「半夏生」という名の薬草は、別名「半化粧」とも言われ、緑の葉っぱの一部分が確かに白く化粧したかの如く色がついているので、こう呼ぶ植物名がついたとも言われている。

 都会や町に住む多くの日本人も、改めて田舎に住む人たちや農家の人たちに感謝と共に、こけれからの日本の食糧問題を担っておられるご苦労を覚えて、一緒に「半夏生」の粽、蛸、饂飩などを食したいものである。

 
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沖縄戦と今。

2009年06月24日 | 感じたこと
 昨日は、太平洋戦争末期に米軍が上陸して、唯一日本国内で地上戦が戦われて、島民の多くが戦死もしくは殺戮、自決をせざるを得なかった「沖縄」の記憶と記録が忘れ去れようとしている、6月23日であった。

 テレビマスコミと新聞の一部には報じられてはいたが、多くの日本国民が忘れているのではないかとさえ思ってしまう大切な記念日であった。

 第二次世界大戦末期、既に日本の敗戦は濃厚との見方が政府、軍部にもあったらしいが、日本本土への直接攻撃は避けられていて、主要都市部では爆撃が繰り返され、東京大空襲、大阪大空襲などもあったが、地上戦として米軍が上陸しての戦闘は沖縄本島のみであった。

 現在の那覇市の北東部に位置する「読谷村」の海上から4月に上陸した米軍は沖縄本島での日本軍との戦闘になったが、島民の多くは「米軍の捕虜になるくらいなら、自決せよ」との教育を受けていたせいで、特に島の南西部を中心に逃げて追いこめられた老人や婦女子が自決をしたといわれる、自然の隠れ家「ガマ」が沖縄本島には点在している。

 私も今から20年ほど前に、沖縄本島の読谷村にある、「チビチリガマ」を初めて訪れた時の衝撃というべきか、悲しみと強烈な記憶を忘れることはできない。

 当時、あの沖縄県で初開催された国体でのソフトボール会場となった読谷村の野球場に掲揚された「日の丸」を下ろして火をつけたという罪で起訴され裁判中だった、知花昌吉さんに案内していただいての「ガマ」見学であった。

 その後、チビチリガマ前に飾ってあった、金城実氏製作の土製のチビチリガマ群像が何者かの手で破壊されて、見るも無残な破壊事件が起きたし、戦争と平和を考える大きなモニュメントと言っても過言ではない現場であった。

 背を屈めてガマの中に入ると、人の骨と共に、亡くなった人たちの遺品と思われるメガネや櫛、つぼなども放置されていて、重たい空気と共に、目に見えない怒りと涙を感じざるを得なかったことを覚えている。

 外に出れば、サトウキビ畑の青々とした一帯に南国の照りつける太陽が容赦なく降りかかり、もはや戦後という言葉すら風化した現代社会に生きる日本人の一人として、とても複雑な気持ちで手を合わせたのであった。

 それから既に20余年が経ち、なんと戦後64年、日本唯一の戦場となった沖縄本島の戦死者を全て末ってる、南部戦跡にある「平和の礎」に20数万柱の氏名が刻まれているのだが、平和な現代のニッポンに生きる全ての国民が、忘れてはいけない歴史上の明白な記録であり、記憶に強くとどめたいものである。

 決して戦争はしてはいけない。人類の驕りと傲慢さが平和を崩す大きなエネルギーとならないために、私たちが日頃から平和を保つために成すべきこと、出来ることを怠ってはいけないと再び強く思った。
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季節の野菜たち。

2009年06月23日 | 季節の話題
 からだにおいしい「野菜の便利帳」という、とってもたのしい本を見つけた。

 私自身、週末に有機野菜と無添加食品を移動販売する小さな八百屋さんを15年間も営業しているので、なんとも季節の野菜たちが好きでたまんない。

 高橋書店という、なかなか面白くて充実した本をたくさん刊行している出版社が、昨年の暮れに出版した、この本は帯には「続々重版30万部」突破と書いてあるから、私だけでなく多くの野菜ファンが購入し、愛読しているらしい。

 愛読といっても、読むというよりも見て楽しむという感じの図鑑のような本なのだが、「おいしい食べ方」「栄養知識」「安全について」「旬」「正しい選び方」などのお役立ちが満載と宣伝している。

 なにがそんなに楽しいかといえば、たぶん特に「野菜好き」ではなかっても、日頃食している「野菜たち」が元気に美味しそうに本の隅々まで写真で紹介されていて、まだ味付けも料理もされていない「すっぴん」の状態でみずみずしくかわいく載っているからである。

 物心ついた頃から、母が作ってくれた料理を何の感動もなく食べていた時代と比べれば、幸いにも今「有機八百屋」というちょつとした出会いからの仕事をさせていただくことになった自分にとっては、とっても「野菜たち」が愛らしくて仕方がないのである。

 私が仕入れて販売している「野菜たち」は、ほんの少しなのだが、この15年間に出会った「初対面の野菜」や「野菜たちの性格」など、お客さんにも教えてもらって、たまには自分で料理することも少なくなくなったのである。

 一口に「野菜たち」と言っても、実、根、葉、果物、ハーブ、薬味、きのこ類と多種多様なのだが、初夏から夏にかけての「夏野菜」は、特に元気でみずみずしく美味しいと思うので、紹介しよう。

 真っ赤なトマトは、リコピンの強い抗酸化作用がガン予防にもなるらしいし、とにかく夏には欠かせない元気印である。

 小さなミニトマトや中玉、にこきたま、イタリアン、などもあるが、桃太郎よりもアンデスの原種に近い「昔のトマト」の味が好ましい。

 なすは、茄子と書くが、長茄子、米なす、賀茂なす、水なす、青茄子、白茄子など多種であり、ポリフェノールの一種が皮の紫色に含まれていて、血管をきれいにしてくれるらしい。

 何と言っても、しょうが醤油で食べる「焼き茄子」は最高である。

 夏野菜の三番目は「胡瓜」であり、カリウムの効果で食感も味も夏らしくて、子どもたちも大好きであり、漬物にしても茄子同様塩で揉むだけで美味しい。

 夏野菜は、他にもピーマン、苦瓜(ゴーヤ)、とうもろこし、枝豆、さやえんどう、オクラ、ミョウガ、モロヘイヤ、アスパラガス、ツルムラサキ、うまい菜など盛りだくさんだ。

 ぜひ、無農薬、有機栽培の美味しい「夏野菜」を召し上がれ。

  

 
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「ゲリラ豪雨」

2009年06月22日 | 季節の話題
 昨年急に市民権を得たような言葉として、「ゲリラ豪雨」とやらがあった。

 梅雨時に、しとしとと降る「梅雨らしい」雨と違って、突如として急に激しく局地的に降る「豪雨」のことである。

 今年も梅雨入りして二週間を越えたが、しとしとピッチャンという風な雨模様よりも、激しく急に降る、この「ゲリラ豪雨」と呼ばれる雨が各地を襲っている。

 一週間ほど前の夕刻、京都の山城地域にも、この「ゲリラ豪雨」がやって来て、ほんと局地的には「雹」まで降ったので驚きであった。

 私の住む京田辺でも十数年前の夏に「豪雨と雹」が降って、小さな庭に突き出しベランダのプラスチックの屋根板に、いくつもの穴があいたことがあった。

 思い起こせば、私が中国の内モンゴル草原に毎年のように夏休みに行くきっかけとなった、1988年の夏のモンゴルテストランでは、琵琶湖の三倍ほどの大きさなのに地図に載っていないという「幻の湖」と称される「ダライノール」の湖畔に二泊三日したのだが、二日目の夕方にとんでもない「大きな雹」に見舞われた。

 モンゴル草原の大きさを例えたあるモンゴル人は、見える山々の裾野まで行きたいと言った日本人に対して、横浜から下関くらいの距離があると言ったほどで、とてつもなく広く大きな草原であった。

 その草原を自由に散策しようと日本から参加した大人40人が、思い思いのチャレンジを試みて、歩いたり登ったり、のんびりと散策したりと昼下がりのひと時を楽しんでいた時であった。

 遠くに見える「雨雲」が俄かに湖の湖畔へと移動しだし、何と東西北の三方から、大きな雨雲が接近して湖畔の上空でぶつかって、とてつもない豪雨と共に、ゴルフボール大の雹を降らせたのだ。

 日本から持参したダンロップの小型のドームテント10張りは、この豪雨と雹と風に耐え切れずに全て崩壊したので、自分たちの荷物をテントから救出して、近くの大きなモンゴル民族特有の「ゲル」に移動させる時、この雹が背に当たる痛さを今も覚えている。

 草原に住む野鼠の巣は全て浸水し、びっくりして外に飛び出した小さな野ネズミたちは、雹にお打たれて死んでしまったものも多くいた。

 「ゲリラ豪雨」とは、全く予想だにしない形で局地を襲う「雨風」であり、一時間に100ミリ以上の豪雨が突然降ることだそうで、まるで現代人の「キレル」とかすぐ怒る人に似ていると思われる。

 因果関係や近づく危険が予知できる形での「怒り」や「豪雨」は、何とか予防策や防備策を思いつく場合もあるが、突然の「ゲリラ的」怒りや豪雨には、なかなか対処できにくいものである。

 「備えあれば憂いなし」とは言うが、全く予期できない天候異変や人の変心には注意が必要なのは言うまでもないが、「ゲリラ」には適わない場合が多いのではないだろうか。
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古民家でチェロコンサート。

2009年06月21日 | 地域の話題
 今日の京都は、とんでもなく湿度の高い暑い一日で、私たちが準備した「玉木光ふるさとチェロコンサート」の開催日だった。

 京都府南部の山城地方と呼ばれる、京田辺市大住岡村にある古民家で、国指定文化財でもある「澤井家」住宅を会場としてお借りしての「チェロコンサート」であった。

 地元三山木出身の弱冠34歳の好青年である「玉木光さん」の里帰り「ふるさとコンサート」としては、昨年に引き続いての二回目、ご両親も一緒に来日されたので、みんなで大歓迎の演奏会となった。

 玉木光さんは、同志社国際中学校、高校を卒業後、奨学金を得て、米国イーストマン音楽院に留学し、八歳に始めたチェロの腕を磨いて、ライス大学に転校後、ノースウェスタン大学院を修了し、在学中に著名な音楽家の指導を受けて、各種コンクールに入賞、バッハ・フェスティバルコンクールや全日本ビバホール・チェロコンクールにも優勝している。

 現在は、アメリカ合衆国の地元シカゴを中心に活躍する若手チェロリストであり、インディアナ州のフォードウェイン・フィルハーモニー首席チェロ奏者及びフライマン弦楽四重奏団で演奏活動を続けている。

 今回のコンサートは、メンデルスゾーン生誕200年を記念して、「歌の翼に」というメンデルスゾーンの楽曲タイトルをテーマに、バッハ、ラフニノフ、フォーレ、オコナー、シューマン、カサド、サマーなどの楽曲を演奏し、多様なチェロの音色とメロディーを楽しませてくれた。

 会場の「澤井家」は、今から270年も前に建て替えられたという古民家なのだが、広い土間に約60名、そして横の畳の間に約20名の聴衆が入場し、彼の心に響くチェロの演奏に耳を傾けたひとときであった。

 京田辺も「宇治茶」の本場の茶どころのひとつなので、五月に摘み取られた「新茶」と共に、美味しい抹茶の洋菓子がお客様には振舞われ、少し暑い場内の空気も休憩時には少し和んで、二部では大きな土間の出入り口の扉を全て開放してのコンサートとなった。

 多くのご年配の地元の聴衆の中に、若い玉木光ファンもいて、静かな澤井家の伝統的な佇まいに、新鮮な音色が奏でられ、聴衆の心に沁みこんでいき、瞼を閉じれば各々の育った故郷や幼き時を過ごした「原風景」が浮かぶような心地であった。

 昨年も「ふるさとコンサート」と称して行った「玉木光さん」のチェロコンサートであったが、今回の澤井家でのコンサートは、メンデルスゾーンの生誕よりも遥か昔に、この世に誕生していた建造物を舞台に行ったので、江戸時代の息吹と魂も時代を超えてコラボレーションしたとも言える雰囲気となったと自画自賛している。

 お越しいただいた多くの聴衆の皆さんと共に、梅雨の中休みの蒸し暑さの中で、一服の新茶と共に、心和み心に響く音色を聴けた幸せを感謝したい。
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「共生」のまちづくり。

2009年06月20日 | ちょっと可笑しいよ
 梅雨入り宣言後、まとまった雨が降らない京都南地域だが、今日は蒸し暑くて風が強い一日であった。

 移動八百屋でお客さん宅を訪問しながら、私は販売のための話よりも、自然と季節や天候、社会と行政、子さんや高齢者の話の「おしゃべり」が長い。

 午前中のお客様で小さなお寺のご住職の奥さんと、「仕事がない若年層にも高齢者にもワークシェアが必要」とのおしゃべりとなった。

 企業や行政が率先して非営利的な「まちづくりや社会的ニーズの仕事」に、一般市民が参加、貢献できる役割を創ったり、ボランティアだけでなく、少しの謝礼、給与が出る仕事を提供すべきだとの内容であった。

 また午後のある家庭では、お茶を戴きながら、ご近所の精神的にしんどいご婦人の話から、生産性や利益追求だけけではない、「仕事の提供」や「障害者雇用」についての議論となった。

 いずれも、私たちが住む「まちづくり」に関連した話なのだが、資本主義社会とは言え、効率や経済価値だけを優先した「貢献」や「目的」以外の「やりがい」「生きがい」を感じられる「役割」や「仕事」を企業や行政が仲介役となって取り組むべきとの内容であった。

 現代の日本社会がなんとなく「欝状態」と言っても過言ではない状況の中、個人のボランティア活動や企業の社会的貢献活動、すなわち、福祉、環境、教育などの分野での活動が、なんともパフォーマンス的で、理念の欠如した「見せかけの自己満足的」仕事や役割の域を超えていないのではないかというのである。

 日本社会が急激に意識させられた「地球環境問題」などが典型で、政府のいう二酸化炭素の15%削減目標や大手企業の世界の植林事業、エコ事業などに見られる、よそよそしい真の狙いが違うと感じてしまう取り組みが多いと思う。

 すなわち、日本社会の中に昔からあった「共生」の精神は、昭和後期のバブル経済の発展、高揚の時期から、個人主義的な利害追求がより顕著になり、ボランティアや社会参加の推進は一見促されたが、地域社会のニーズにしっかりと合致した活動とは言えないのが大半を占めているのではないかとのことであった。

 たとえば、「障害者雇用」については法律で3%を義務付けているのだが、政府の助成金目当ての「形式的雇用」や「数合わせ」が多くて、本来の障害者自身の適正や居場所などが検討されてはいないケースが多いのである。

 そのために、かえって職場の同僚や利用者、お客様に「差別」や「違和感」を与えてしまい、本人も傷ついていたり、健常者にも戸惑いや扱いの難さを感じさせてしまっているのではないだろうか。

 こうした法律の形式的適用よりも、社会的認知と「共生」を目指すための地道な「受け皿」づくりや「まちづくり」が不可欠なのではないか。

 企業のトップや自治体の首長の意識改革とアイデアの学習が必要である。
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