ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

小松左京氏

2011年07月30日 | テレビマスコミ
 大阪が生んだいちびりなSF作家「小松左京氏」が7月26日に満80歳で亡くなった。

 現在の日本人の平均寿命は、女性は世界一で86.39歳だが、男性は79.64歳で世界で4番目の長寿ということだが、ちょうど現在の平均需要で彼は亡くなったことになるのだが、直接は存じ上げないのだが大変なヘビースモーカーだったらしく、タバコの害がなければもっと長生きされたかも知れないと思ったほどであった。

 少年時代は病弱で、スポーツには興味がなく、歌と映画と読書に明け暮れていたという彼だが、東京で歌舞伎を見たり、大阪では文楽に連れて行ってもらったり、古典芸能についての知識も身につけ、小学5年生の1941年、昭和16年には当時のNHK大阪放送局の子供向けニュース番組「子ども放送局」のキャスターに起用されたりした。

 1943年に第一神戸中学に入学し、小松氏は関西でいう「イチビリ」な性格で、笑い芸やユーモア歌謡が大好きだったために、友人たちからは「ウカレ」というあだ名をつけられ、戦中は教師からも睨まれることが多かった。

 一方、体が丈夫でなかったにも拘わらず、柔道部に入り、戦後はラグビー部に転部したらしく、終戦時には14歳となっていたため、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたのだが、幸いにも徴兵されたり戦地に赴くこともなく終戦を迎え生き残ったという思いで、沖縄戦などでは同年齢の中学生の少年たちが銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ったものの責任」を考え、文学をそして将来SFを書くという契機となった。

 戦後は、兄に教わったバイオリンの腕で、同級生の高島忠夫とバンドを組んだり、当時に読んだダンテの「神曲」の科学的な知見も組み込んだ壮大なストーリーに衝撃を受けて、後にSF小説を書く基盤となり、大学ではイタリア文学を専攻したらしい。

 1948年に中学を卒業し、第三高等学校、現在の京都大学に入学し、あこがれの「旧制高校」時代が「人生で一番楽しかった年」だと後に供述しているのだが、学制変更で京都大学文学部イタリア文学科に進学し、同人誌「京大作家集団」の活動に参加し、高橋和己などと交流し、当時デビューしたばっかりの「安部公房」の作品に熱中した。

 そのころ、日本共産党に入党し政治活動もしたらしいが、これは原爆を落としたアメリカに対する反感からね「反戦平和」を唱える「共産党」に共感したらしいが、三高時代の友人が勝手に小松の印鑑を偽造し入党届を出したらしく、本人は共産主義思想に信奉してのものではなかったので、そのため後にソ連の原爆開発にショックを受けて、共産党を離党している。

 この時期から、「小松みのる」「モリミノル」「もりみのる」名義で「おてんばデコちゃん」「イワンの馬鹿」「大地底海」などの漫画作品を雑誌「漫画王」に発表したりして、既にデビューしていた手塚治虫の影響が窺えるが、当時の小松の漫画を愛読していた松本零士とも後に親交ができ、「銀河鉄道999」の文庫版の解説を小松が記しているのである。

 大学卒業後は、マスコミ各社の就職試験を全て不合格となり、経済誌「アトム」の記者や父親の工場の手伝い、ラジオのニュース漫才の台本執筆などの職を経験し、産経新聞に入社していた友人の紹介で、産経新聞にミステリーなどのレビューも執筆した。

 アマチュア劇団の戯曲、演出、出演も担当していて、オーディションに来た女性に一目ぼれして交際し、1958年に結婚したが、生活は苦しく妻の唯一の楽しみであったラジオを修理に出してしまって、当時大阪に出現していた「アパッチ族」をモデルにした空想小説を書いて、妻の娯楽に当てたのが、後の長編デビュー作「日本アパッチ族」の原型となったという。

 1963年「日本SF作家クラブ」の創設に参加し、1964年にはラジオ大阪の「題名のない番組」や近畿放送の「ゴールデンリクエスト」などで桂米朝らと知的で快活なトークを交わし、常連のリスナーからの投稿のアイデアを得て、「蜘蛛の糸」「海底油田」「四次元ラッキョウ」などの多くの作品を掌編している。

 1965年には「べ平連」創立の呼びかけ人となり、小田実、開高健らと共に「ベトナム戦争反対論」を唱え、当時東京12チャンネルにいた「ばばこういち氏」が主宰した「ベトナム戦争についてのティーチイン」を行った際に、小松ら反戦論者があまりにも多くなり放送されなくなり、これがきっかけでばば氏は退社するという事態になったという。

 1968年の「日本未来学会」の創設に参加し、1970年には「国際SFシンポジウム」を主宰し、米、英、ソ等のSF作家を日本に招いたり、大阪万博ではサブテーマ委員を務め、チーフプロデューサー岡本太郎氏の太陽の塔の内部展示を彼と共に考え、DNAの巨大模型を作り、生物の進化を表現し、石毛直道らが収集した世界中の神像や仮面を展示し、後の国立民俗学博物館の元となったのである。

 その後の「日本沈没」をはじめとする「小松左京」のSF作家としての功績は言うまでもないが、大阪人としての「いちびり」根性と笑いのエッセンスが彼の幼少期から大学時代までに形成されていることを思うと、大成された中年から晩年よりも大作家となってしまうプロセスの方がとっても面白いと思ったのである。

当然、この記述はウエブの小松左京氏の紹介記事からの詳細を転記したものだが、要は小松左京という人物像を改めて確認したかったまでである。
 

 
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学校の教師。

2011年07月28日 | 感じたこと
 今春から放送されているNHKの朝の連続テレビ小説「おひさま」が好評だという。

 長年、朝の時間の区切りとして観ている場合が多い毎日15分間のテレビドラマなのだが、今回の主人公は戦前、戦中、戦後を通して小学校の女性教師を務める「陽子先生」であり、女優の井上真央さんが演じていて、「太陽の陽子」としての明るさ、笑顔がとっても良くて、好評のひとつの原因だと思われるのである。

 しかし、戦前から戦中にかけての「国民学校」時代は、ともかく日本の軍部がアメリカ、アジアの国々との戦争を背景として、「日本は神の国」としての軍事教育や非戦闘員ではあるが、子供たちにも「もし米軍が攻めて来た時」のためと軍事訓練まで強いっていた時代だったので、理想に燃えて子供たちに「いい教育」をしたいと願っていた主人公には、つらい戦中時代だったと思われる
ドラマとしての脚本となっていたように感じた。

 今日のニュースの中に、文部科学省が調査した結果として、病気で退職した教員の約6割もの先生たちが、いわゆる「うつ病」などの精神疾患を患っていたことがわかったとの内容が伝えられている。

 今に始まったわけではないが、先生だけでなく現代社会の中での「仕事人間」に、ともかく非常に増えているのが、この「うつ病」をはじめとする「精神疾患」と呼ばれる「こころの病」であり、一般的には長時間労働や過剰な事務作業などが一因となっていると見られているらしいが、文部科学省では、教員の事務的負担の軽減やカウンセリング環境の整備などの対策を進めて、少しでも中途退職と「精神疾患」を少なくする方針を打ち出しているという。

 たしかに、現代の小中学校の教員にとって、調査結果にあるような「精神疾患」が増加しているとは思うが、ただ単なる事務仕事が多いとか、長時間労働が原因だとする文部科学省の見解は、あまりにも現場や教師たちの現状を鑑みない「デスク上の見解」ではないかと思うのである。

 すなわち、まず教師となっている人自身が、果たして教育現場での「子供たち、保護者、同僚」などとの「人間関係」に適応できるような訓練、経験が十分になされているとは言えないのではないだろうか。

 というのは、教員つまり小中学校の教師になるためには、ともかく「教員免許」を取得する必要があるのだが、この「資格」は、大学などでの「教職課程」を修了し、一定の短い期間だけ「現場での研修」をすれば大抵は「合格取得」できるものなのであるし、後の「教員採用試験」も、各都道府県や自治体の「採用試験」さえクリアすれば、「採用」されるというシステムなのである。

 すなわち、テレビドラマ「おひさま」で描かれている時代の「陽子先生」も、女学校を卒業してすぐに「小学校教員」として、子供たちの前に立って、「先生」になってしまうのであり、少なくとも十分なる「子供たちと接する経験」などないままに、一年目から、何年も教師職をされている先輩たちと同様に「クラス担任」として、全てのクラスの児童、生徒を把握して「先生」をやらなければならないのである。

 私は以前の経験から、教育委員会サイドからは、少なくとも「一年間は補助教員」的「インターン制」の様な形で、実際に「担任」として働き「先生」となって働いている先輩について「研修経験」をした後に、正式に「一人前の教師」としての認定を出して、「担任」なる責任制と多種多様な事務作業も含めた仕事に従事できる「能力」と「裁量」があるかどうかを第三者的に評価した上で「教師」になるといったプロセスが必要だと考えている。

 ともかく、現代に至るまでの「学校教師」たちの働きはとっても重要かつ素晴らしい職務だとは思うのだが、ほんとうに「教師」という職業に適しているのかどうかの「見極め」もないままに、大学などの「教師資格検定」さえ取得できれば「一人前の先生」としてしまう制度自体に、相当な無理とプレッシャーを感じてしまう人間がいることは間違いないのではないだろうか。

 今回の文部科学省の調査結果は、一昨年2009年度に病気で退職した「公立の小学校から高校の教員」のうち、約6割が「うつ病」などの「精神疾患」が原因だったとしているのだが、現代の学校事情だけでなく、社会的背景や教師に対する保護者、行政機関などの対応なども含め、大変複雑かつ多種多様な「クレーム社会」の現状が、多くのまじめで真摯な態度の教師たちに、まるで「鬼の如く」襲いかかかってきていると言っても過言ではないと思われるのである。

 つまり、「学校現場」も、ある種の「モンスターペアレント」と言われる「我が子本位」の「ワガママで勝手な親たち」や「自分たちの面子と責任逃れ」ばっかりの「教育委員会」や「学校管理職」などの関係性の中で、孤立したり逃げ場や救いの場がなくなってしまった「先生たち」が、自らの責任と能力の限界を超えて「精神的疾患」と言われる状況に追い込まれてしまうケースが多々あるものと思われるのである。

 ぜひ、もう一度「教員資格」と「教員採用制度」を見直して再検討し、本当に子供たち児童、生徒に向き合いつつも、一人の教師として保護者や教師の同僚、管理職、教育委員会などの行政職とも、しっかりと議論したり共に考えたり出来る「余裕のある人間形成、成長」を育めるような環境づくりと制度改革をしないと、今後益々こういった「精神疾患」でリタイアせざるを得ない「教師」が増加し続けるものだと断言せざるを得ないのである。

 「理想の教師」を作るのではなく、普通の人間的な関わりに屈しない、個性ある人間教師を育む、学校教育環境を目指して、じっくりと改めて取り組んでいただきたいと切に願う思いでいっぱいである。

 何処の学校でも「陽子先生」の様な、子供たちに好かれ囲まれて共に育つ「教師と児童、生徒」の関係性が普通に無理なく出来るようにと願ってやまない。「精神疾患になった教師」たちを見殺しにしないで下さい。
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中国新幹線事故!

2011年07月27日 | とんでもない!
中国上海南部の温州市で23日に起きた「高速鉄道事故」は、急ブレーキもないまま時速115キロ前後のスピードのままで追突したという信じられない安全軽視の運転の結果だったらしく、死者39名を含む死傷者200人を超す犠牲者を出したばかりではなく、事故原因の究明もままならないうちに、先頭車両を現場に大きな穴を掘って埋めてしまうという、とんでもない収拾策を取ったことで、中国国内はもとより、全世界に「安全軽視」と「いい加減な原因究明もない」ままの対応策に驚嘆の声が渦巻いた。

 その対応振りが問題と騒がれると、こんどは一端埋めた先頭車両を再び掘り起こして、国民の非難に対応すると言った場当たり的としか思えない対応振りが、再び鉄道省をはじめとする中国政府の「いい加減な対応振り」として再び非難されると共に、事故後の一日半も経たないうちに、列車の運行を再開し、現場を通常ダイアに近い状態で列車が行き来するという信じられない感覚に、再度ビックリであった。

 この高速鉄道は、日本の新幹線車両で東北新幹線に運行されている列車の機能やフランス、ドイツなどの高速鉄道の技術をも導入した、いわば「いいとこ取り」の中国ならではの「国産技術」で路線、車両、安全走行と言った「鉄道運行」を独自で行ったと自慢していた路線の一つであり、上海、北京を結ぶ「新幹線」とは違った方式の運行をしていたらしい高速鉄道だったのだが、その国の威信をかけての「国営高速鉄道」が起こした「大事故」は、全世界的にも非難される問題が山積しているといえよう。

 そもそも、国威発揚のためもあって急いで行われている「高速鉄道網」の整備なのだが、北京オリンピックに間に合わせるための新幹線構想に端を発して、ここ五年間で中国国内全土で9千キロもの高速鉄道路線を建設するという、とんでもなく急いで建設されたという代物であって、とにかく「鉄道交通の高速化」を最重点課題として国家的に優先してきた事業だったのである。

 思い起こせば、1989年に起きた高知学芸高校の上海での「列車事故」以来、どれほどの鉄道事故が中国国内で起きているかは定かではないが、鉄道営業キロが日本の数十倍もあると思われる中国全土の広さと15億人にも及ぶと見られる人口の多さからして、脅威の経済発展を続ける中華人民共和国にあっての「鉄道需要」と「経済優先」の国家的モチベーションは、「安全軽視」と言われても仕方がないほどの「国家事業」として急がれてきたのであろうことは間違いない。

 しかし、日本の新幹線技術や鉄道運行が如何に世界的にも安全かつ最高水準にあって、中国とは比べ物にならないほどの技術力と安全度が高いと比較して、マスコミをはじめとして自慢しているのが最近の論調なのだが、果たしてそうだろうか。

 五年前に起きた「JR福知山線列車事故」や今年に起きた「JR北海道の脱線事故」など、日本国内でも大変なけ列車事故があとを絶たないのであって、いくら「新幹線技術」のクオリティは高くても、一般的な意味での列車事故は、日本でも多数起きているのである。

 また、日本の場合も思い起こして見れば、戦後の復興時代とでも言ってもいいと思うのだが、昭和30年代に至るまでの時代には、現在の中国と比べてもあまりに偉そうに言えないほどの「列車事故」を日本の当時の国鉄や民間鉄道路線でも、それなりに多く起こしているのである。

 つまり、何が言いたいかと言えば、現代の鉄道運行に関して言えば、日本の安全に対する技術力や運行管理は、たぶん中国と比べると数段上を行くと言っても過言ではないと言われているが、今から数十年前までの日本の鉄道運行での「安全度」は、決して今の中国に驚いたり、比較にならないと批判したり出来るほどのものではなかったのではないかと言うことである。

 結局は、「他人の振り見て我が振り直せ」ではないが、今回の中国高速鉄道事故を「反面教師」として、再び「日本の鉄道の安全度」を高めるための「総点検」などを行うことを通じて、より一層の「安全度を高める」必要があると思われるわけで、中国政府や鉄道省への批判は、中国国内で大いになされるべきだが、日本は批判ばかりしている立場であってはならないと思うのである。

 
というのは、比較対象や部門は異なると言われるかも知れないが、「日本の原発」は世界中で一番安全であると宣伝し、自負していたと思われる「原子力発電」の事業が、大震災、大津波という「自然災害」に端を発したとは言え、未曾有の大惨事になってしまい、いまだ収束の目処も立っていないという現状を鑑みると、そう偉そうには言えない「日本の過信」が窺えると言わざるを得ないからである。

 中国鉄道事故で原因究明を隠蔽化しようとしたのかは定かではないが、事故先頭車両を埋めるという暴挙に出た行為も、福島原発事故における当初の「放射能漏れは直ちに健康や人体に影響を及ぼすものではない」と発表した日本政府や東京電力関係者、原子力安全保安院のコメントと、どの様に違うのだろうか。

 技術力の過信や人為的ミスは、人間にはつき物なのである。

 決して「絶対安全」や「我々は大丈夫」なんてことはないのであって、今回の事故の教訓、反面教師の事実を真摯に受け止めて、少しでも人為的ミスや科学技術への過信を改められる、政策や対応を全ての人類の安全、平和のために専門家を中心に尽くしてほしいものである。
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「地デジ化」完了!?

2011年07月24日 | テレビマスコミ
 2009年から騒ぎ出して、やんやで「2011年7月24日まで」と半ば脅迫気味にテレビ、マスコミ媒体を中心にテレビ視聴者に対して、「地デジ化」を強いてきた「日本の地上波のデジタル化」が、本日正午に完全実施されたという。

 東北の被災地である岩手、宮城、福島の三県を除く全国44都道府県では、今日の正午以降は、テレビのデジタル対応機種か付属機器、つまり外部チューナー設置がされてなければ、今までのアナログ波でのテレビ受像は出来なくなった模様である。

 そもそも、「テレビ地上波のデジタル化」なんてことは、何のために必要かつ強制されなければならなかったのかの説明や納得の行く解説はほとんどされないままに、「地デジ」への移行キャンペーンがNHKをはじめ民放各局でも一年以上なされ続けて、もううんざりと言った感じであった。

 1953年に放送が開始された日本のテレビ放送だが、アナログ方式なんてことに気づくまでもなく、当たり前にブラウン管テレビが普及し、その後液晶などの技術革新で、カーナビなどの車中も含め薄型テレビや携帯によるワンセグ受像が可能になり、テレビは大衆的娯楽ツールから多角的情報ツールへと変化して来たのだが、従来のVHF12チャンネルとUHF13-62CHの電波帯を使用し
てきたものを、「電波の有効利用」という主目的でUHFチャンネルのを利用するデジタル方式に置き換えるものと説明されてはいるが、どうも一般的には巨大資本と営業力の主要放送局と国、郵政省が結託した、新儲け戦術なのではないだろうか。

 ともかく、テレビはブラウン管時代はたぶん10年ぐらいで新商品への買い替えが必要なくらいの寿命だったと思うが、最近の液晶テレビや薄型新製品は、果たしてどれほど機器としては持続し使用続けられるのかは定かではないが、ともかく以前よりは耐久年数も増加し、しかも現代はテレビ受像だけが情報ツールの時代は終わって、PCや携帯、しかもiフォンやスマートフォンの時代に突入し、新聞やテレビ媒体の価値や存在感が薄くなりつつある現状からして、弱電メーカーなどのテレビの売り上げは下降の一途だったのではないだろうか。

 そこへ、政府、郵政省ならびに大手キー局のテレビ資本などの大企業が結託しての「地デジ化」という、新しいツールの様に見せかけた「新戦略」が打ち出されたと言っても過言ではないだろうと思うのだが、如何なものだろうか。

 1996年に郵政省は、世界のテレビのデジタル化に遅れないようにと、日本国内でのテレビのデジタル技術の開発とデータ
送信技術の高度化を鑑み、アナログ放送を念頭に開発されていた放送衛星の仕様の変更を検討し、衛星放送のデジタル化と共に地上波のデジタル化を検討し、2003年12月1日より「地上デジタル放送」を開始したのであった。

 このデジタル化による、視聴者ユーザーのメリットとしては、双方向交信、つまり放送されている番組などへの視聴者のアンケートやクイズ参加などが可能になる他、受像中の番組以外のデータや情報受信も可能にはなるのだが、あくまでインターネットとは違って、テレビ局が発信している情報に限っていて、さほど必要なのかどうか疑問を感じる面も多い。

 今回の地上波のデジタル化への全面移行によって、できる空き電波帯は、地上デジタルラジオや高度道路交通システム、携帯電話、業務用通信、公共機関向け通信などに活用される予定だといわれているが、果たして国策としての「デジタル化」によって、もたらされるメリットは庶民にとっては少ないのではないだろうか。

 結局、エコポイントなどという「おまけ付き」で、新しい地上波対応の大型テレビを買わされたり、付随してDVDデッキやレーザーディスク対応型の付属録画機器などまで買わされた消費者が多くいて、大手家電メーカーをはじめ量販店なども昨年暮れと今回の地上波のアナログテレビが映らなくなるという本日7月24日までの「駆け込み需要」で大賑わいで稼いだことだろう。

 今後、東北3県だけでなく、ケーブルテレビを通じての少しは猶予期間を設定している地域もあるらしいが、この際「テレビとおさらば」という家庭も出ていて、思い切った決断とも言うべき「テレビのない」暮らしを決断した人も少なくないのではないだろうか。

 この様に、全てとは言いがたいが「建前としての理屈や理由」はあるものの、政府や財界の「口車に乗せられて」の「買い替え」や「新製品の購買」は、今後もありうるだろと思うのだが、一番検討されているのが「再びエコポイント」の実施での「省エネ家電」の販売合戦である。

 よほど、日本経済の中にあって「家電メーカー」の存在は、大きな政府への働きかけが上手なのか知れないが、この秋あたりから、今回の福島原発事故を契機にした「節電ムード」を煽っての、新たな新戦略「省エネ家電」の販売合戦が始まろうとしていることをみても明らかなのである。

 「省エネ」は、いいことだが、必要もない機器や家電を買う必要はないのであることを「肝に銘じて消費を控える」方が得策なのではないだろうか。

 
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大相撲の危機。

2011年07月21日 | プロスポーツ
 大関「魁皇」が今場所11日目の相撲を取らずして「引退」を発表し、13年あまりに及ぶ現役力士としての「お相撲さん」をやめることとなった。

 何とか今場所に賭ける思いで出場し、初日から三日間は白星が得られず大丈夫かと心配したが、四日目に初日が出て、元横綱千代の富士の持つ生涯勝利数1045と並び、翌日新記録となる1046勝目をあげて、今場所の千秋楽まで何とか勝ち越しまで頑張ればと思っていたが、7日目に1047勝目をあげたが、その後は連敗続きで7敗となった一昨日に、気力と体力の限界を感じて、「引退」を表明した。

 「やり残したことはない。最高の相撲人生だった」と、昨日の名古屋場所開催地の近くのホテルでの「引退記者会見」では、魁皇は語ったそうだが、大関在位が最長だったことはよく辛抱し頑張った証ではあるが、本心としては「横綱」へのチャンスもあっただろうけれど、成れなかったという無念さと、ここ数年の日本相撲協会の続けての「不祥事」で、大混乱を招き、先場所は「技量場所」としてなんとか土俵に上れたが、先々場所は「八百長相撲問題」の全面的解決のために「本場所中止」という前代未聞の悲しい事態をも経験したのだから、時間がないという高齢に差し掛かっていた「魁皇」にとっては、「言いたいことは山ほど」あったのではないかと推察されるのである。

 確かに記者会見での「魁皇」の晴れ晴れとした笑顔と「記録に目標を置いていて、達成後は負けても悔しさがなくなった」という気持ちと、「ここが最後の引き際だと思った」と言う言葉は真実だろうと思われるが、やはり相撲ファンの多くは、彼のなしえなかった「横綱」と「大相撲人気」の回復の兆しが見えぬ現状の中での「引退」に寂しさを感じている。

 「大関魁皇」の引退で、またもや日本の国技とさえ言われている「大相撲」の「横綱」と「大関」に、ひとりも「日本人」がいなくなり、益々「相撲人気」に陰りが出てくるのは間違いなく、今場所も辛うじて「魁皇人気」でお客さんが名古屋市体育館に足を運んでいたとはいえ、連日テレビ中継されている画像からは、客席の半分も入場者がないという実態が続いていて、今後の「相撲人気」が回復する兆しすら感じられないのである。

 「魁皇」引退の大相撲名古屋場所で、唯一の希望はと言えば、東の関脇「琴奨菊」が「大関」への昇進を決められるかだけであり、昨日の横綱「白鵬」との一戦に、約4年間19連敗して一度も勝てなかった「琴奨菊」がようやく粘り勝ちし、「大関」への可能性を残したので、大勢の相撲ファンも日本相撲協会も、なんとか「琴奨菊」には頑張ってもらって、最低限の規定である3場所で33勝という基準をクリアしてもらって、晴れて「魁皇」に代わって唯一の日本人大関の誕生を実現させたいと思っている。

 たまたま「琴奨菊」も、魁皇と同じ福岡県の出身で、「魁皇」の背中を見ながら安心して相撲をとっていたのだが、こけからは「自分が頑張らないと」という自覚もようやく生まれているようで、昨日の「白鵬」を破った一戦は、ぐぐっと「大関」への階段を近づけたと言っても過言ではなかろう。

本日、12日目も「琴奨菊」は、モンゴル出身の「鶴竜」を寄り切りで下し10勝目をあけたので、後3日間の取り組みを最低2勝1敗で凌げば、現在の相撲人気の低落と相撲協会の危機であるので、何としてでも「琴奨菊」の「大関」への推挙がなされるものだろうと確信しているのである。

 ついでに、いくら磐石の横綱「白鵬」とは言え、8場所連続優勝などという形になれば、これも「相撲人気」に違った意味で「影」が出来るので、今場所は同じモンゴル出身とはいえ、小兵の「日馬富士」が幸い好調で現在12勝全勝でトップを走っているので、何とか千秋楽まで全勝をキープして、たとえ千秋楽結びの一番で「白鵬」に本割で負けたとしても、優勝決定戦で横綱を破って、大関「日馬富士」が優勝するという形を期待して、どうにか相撲人気を少しでも持続させて、今後の若手や日本人力士に期待して、大変革も含めて「相撲協会」の奮起を期待したいところである。

 
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「上を向いて歩こう!」

2011年07月20日 | テレビマスコミ
 1985年8月12日、私は当時の仕事であった「子供たちの遊び場活動」の年に一度の夏合宿のような形で、中国地方の温泉町の宿舎にいた。

 夕食を楽しく仲間たちと囲んだ後、温泉にもつかって寛いでいる時間帯に、宿舎のテレビが「日航機が富士山付近で消息不明!」を伝えだしていたのであった。

 当日羽田空港を5時台に離陸した日本航空123便大阪伊丹空港行きのボーイング747ジャンボジェット機が群馬県上野村の鴻巣山付近に墜落し、四百数十名を超える世界的にも最多数の犠牲者を出す航空機事故となって、多くの搭乗者が遺体となって後日に発見されたのだけれど、自衛隊のヘリによって、記憶によれば四人の生存者が病院に搬送されたことも明確に覚えている。

 その大事故の犠牲者の中に、当時の日本の歌謡界にあって人気、実力とも誰もが認めるエンターテイナーでもある「坂本九」がいたことは、犠牲者の人々の命に変わりはないのだけれど、特に著家名であったために多くの国民の記憶に残るところとなったと思うのである。

 その「坂本九」が不慮の事故で亡くなって以来、既に27年が経ち、本人が健在だったとしたら既に70歳になろうとしている現代なのだが、彼が歌った唄の中で「上を向いて歩こう」が、今回の東北地方を襲った大震災、大津波、原発事故の被災地及び被災者にとって、大きな励ましの唄として再び注目を集めているというのである。

 「坂本九」という歌手は、私たちの世代にとっては忘れがたき存在ではあるが、現代の若者たちにとってはどのように感じられる存在なのだろうかと思うのだが、やはり当時「坂本九」が歌う、中村八大作曲、永六輔作詞による「上を向いて歩こう」に代表される「六八九コンビ」の歌の数々は、1960年代の世相を物語るが如き「元気、高度成長、豊かさ」を象徴する力となっていた様に感じている。

 川崎市の荷役請負業「丸木組」の社長・坂本寛と妻いく(旧姓大島)の第9子として生まれ、「九」と名づけられたらしいが、本名は、後に母が離婚して旧姓の大島に戻ったことから、「大島九」、「おおしまひさし」と言ったらしいが、ニキビ面の底抜けに明るいお兄ちゃんと言った感じの気取らない普段着のままの性格と感じられる個性が、俳優、歌手、司会者、タレントとして人気を集めた所以だと思うのである。

 高校生時代にエルビス・プレスリーに憧れるようになった彼は、プレスリーの物まねで仲間内の人気者となり、1958年5月に当時の「ザ・ドリフターズ」に加入しギターを担当したが、半年後に脱退し、今度は「ダニー飯田とパラダイス・キング」の一員となってビクターと契約し、1959年6月に「題名のない唄だけど」でデビューしたがヒットしなかったという。

 その後平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎などが出演した日劇ウエスタンカーニバルなどでバックでギターを弾いたりした後、東芝に移籍して1960年8月に発売された「悲しき六十才」が10万枚の初ヒット曲となり、1961年に「中村八大・永六輔」コンビの作曲、作詞による歌い手として抜擢されて、「上を向いて歩こう」を歌い、国内でも爆発的なヒットとなったのだが、1963年に同曲が「SUKIYAKI」というタイトルで全米でヒットし、ビルボードで3週連続一位を獲得し、東洋人としてはじめての100万枚突破のゴールドディスクをも受賞した。

 「上を向いて歩こう」の海外でのヒットによって、世界的に名を知られるようになった「坂本九」は、1964年の東京オリンピックのウエルカムパーティー
にゲスト出演したり、1970年の大阪万博の若手芸能人としての万国博委員にも起用され、読売テレビりの「クイズEXPO’70」の司会にも起用されたのであった。

 その後の活躍、活動は数えられぬほど多種多様だったが、1985年の8月12日夕刻は、東京のNHK-FMの仕事を終えて、大阪府のある友人の選挙応援のため事務所開きに駆けつけるために、国内移動は日本航空ではなく、全日空を利用することになっていたのに、お盆のために先方がチケットを確保できずに、仕方なく確保された日本航空123便に搭乗し、事故に遭遇したという不運であったという。

 先日、NHKテレビが「上を向いて歩こう」を特集し、「六、八、九」の出会いと素晴らしい唄、楽曲の背景にある人間ドキュメントを放映していたのだが、ほんとうに「上を向いて歩こう」の歌詞が、悲しみを堪えながら、明日に向かって一歩、一歩、歩き出そうとする者たちにとっての、強い励ましとモチベーションを高める歌として、現代にも生きていることを痛感するものである。


 
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ハリーポッター完結編。

2011年07月19日 | ファミリーイベント
 いよいよ待ちに待った!とまでは行かないが、7月15日に国内全国ロードショーで公開された「ハリー・ポッターと死の秘宝、パート2を観た。

 大型台風の6号が近畿地方に接近する予報で、雨が時折激しく降る「海の日」という休日の月曜日でもあったのだが、夕刻のシネマコンプレックス映画館にはたくさんのお客さんがいて、暑さを回避し家族や友人たちとお気に入りの映画を見ようと集まっている感じで、予期せぬ満員状態の上映時刻も合って、私たちも久しぶりに映画を観るために3時間余を待たされたのであった。

 昨日早朝の「なでしこジャパン」のワールドカップ優勝という出来事に、まだ興奮さめやらぬ思いと共に、少し寝不足気味の人がたくさんいたと思うのだが、子供たちも多くいて「ポケモン」シリーズの映画も上映されていたとみえ、ボケモンデザインのケースに入ったポップコーンを食べながら待っている家族もいたようである。

 今までの「ハリー・ポッター」シリーズは、全て観ているのだが、どうも観ている時には理解できていると思っているストーリーであっても、時が過ぎればさほど覚えてはいなくて、このファンタジー物語の原作そのものを読んではいないので、さほどストーリーそのものには関心がなく、その都度の娯楽映画としての完成度と特殊メイクやCGを駆使した「映画作品」としての出来栄えを楽しんでいると言っても過言ではない感じの鑑賞が続いていた。

 今回は、2001年に公開された「ハリー・ポッターと賢者の石」以来の通算7作目であり、当初からの魔法学校の同級生であり仲のいい仲間でもある「ハリー・ポッター」自身を演ずるラニエル・ラドクリフと親友ロンを演ずるルバート・グリント、盟友ハーマイオニーを演ずるエマ・ワトソンの成長ぶりを中心にお馴染みのセブルス・スネイプとヴォルデモート卿らとの戦いが主題となっていたのだが、映画でなくても小説、脚本の常だと思われる「主人公の最後」がどうなるかに注目していたのであつた。

 案の定とでも言うべきか、最終的にはハリー・ポッターの宿敵とも言うべき「ヴォルデモード卿」との戦いに一時は「ハリーが死んだ」という感じで敗者となったような時間帯があったのだが、そこはやはりドラマであって、いつのまにか「ハリー・ポッター」は健在であって、彼自身はロンの妹と恋仲になっていて、観客の期待のひとつでもあった美しき盟友「ハーマイオニー」は、何故か親友である「ロン」の恋人となっていて、少しだけ原作は知らないが脚本としては美男、美女のカップルの誕生とはならなかった部分が腑に落ちない気分であった。

 それにしても、特殊メイクやCGを駆使しての大スペクタクル・ロマンとしての大迫力のスクリーンいっぱいの映画映像手法による作品は、巨額の制作費用をかけての大作であることは間違いなく、日本では7月15日公開のたった3日間で全国で17億円超の興業収入を記録し、本年度公開作品では最高のスタートとなったとのことだが、北米での3日間の興業収入はなんと推計約133億円に達する過去最高額を記録したとのことで、巨額の制作費もペイすること間違いなしの大ヒット作品として完結する模様である。

 余談ではあるが、2001年の第1作の「ハリーメポッターと賢者の石」以来、2002年「・・・秘密の部屋」、2004年「・・・アズガバンの囚人」、2005年「・・・炎のゴブレット」、2007年「・・・不死鳥の騎士団」、2009年「・・・謎のプリンス」、そして昨年の「・・・死の秘宝PART1」と全ての作品を観たわけだが、主人公のハリーとロン、ハーマイオニーの3人のかわいい少年、少女時代からの10余年間の成長振り、特に少女から娘に成長した美しい女優、エマ・ワトソンと共に、おっさんになってしまったロンとハリーを演ずる二人の俳優の姿が印象的であるのは当然だが、ストーリーや他の役どころは、マジックファンタジーロマンとアクションという主題の中で、おどろおどろしい場面も多くて、ほとんど記憶には薄くて、まるで「夢を観ていた様」でしかなかった。

 最後に、このシリーズのエンディングが、各々世帯を持ったハリーとロンの妹の子供とロンとハーマイオニーが結婚して誕生した子供たちが、新たにボグワーツ魔法学校に入学するために、彼らの父や母たちが出かけた様に、列車のプラットフォーム9・1/2から出発するのを見送るという映像で、今回のハリー・ポッター作品の完結編がエンディングを迎えたことが、なんとも「ありふれたホームドラマ」の様で、陳腐に感じられたのは私だけだったろうか。

 せめて、魔法学校を舞台とした「ハリー・ポッター」シリーズの完結編のエンディングなのだから、映像表現としては何でも出来る昨今の映画技術やCGや特殊効果を駆使した「3人の魔法術の成長の成果」を魅せてくれる様な趣向があっても良かったのではと一人少し不満に感じつつ帰宅の途についたのであった。
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やったぜ!なでしこジャパン!

2011年07月18日 | プロスポーツ
 日本時間の今朝早くに始まったワールドカップ女子ドイツ大会決勝戦、ドイツ、スエーデンに勝利して決勝に初めて進んだ、「なでしこジャパン」こと日本チームの戦いぶりは見事で、前半戦はアメリカの鋭い攻撃を防戦し続けて運も味方して0-0で終了の健闘を示し、後半にスピードと鋭いシュートのモーガンに先制点を許し、やはりアメリカには叶わないのではと思わせたが、粘りと諦めないサッカーを展開して、その10数分後には宮間の同点ゴールが飛び出し、互角の戦いは遂に延長戦に突入した。

 昨夜は少し早く床についたとは言え、早朝4時前からの衛星テレビ中継を見ながら応援を続けて、延長前半にアメリカのエースストライカー、ワンバックに2点目をヘディングで入れられた時には、やっぱりアメリカは強いという印象と共に、残り時間での同点ゴールは無理かと思わせたが、延長後半に主将「澤穂希選手」がゴール前から体の向きとは反対側に右足で合わせて同点ゴールをもぎ取って、今大会の得点王を確実にする5点目をあげ、ひょっとしたら日本が優勝するかもしれないという可能性が増大したのであった。

 とはいえ、残り時間もアメリカの攻撃に防戦一方の場面が続いて、もうここまで来たのだからと、今度は祈りに近い心境でテレビ映像を通じての「なでしこジャパン」のイレブンに対する応援をしていたが、残り数分のところで岩清水選手に突然の「レッドカード」が出て、一人退場という非常事態の数分間の後、延長戦が終了し、PK戦に突入したのであった。

 日本国中の期待と願いと祈りを背に、特に3・11の東北大震災や福島原発事故による避難や日常生活が継続できなくなっている苦しい環境におられる人々にとって、今回の女子ワールドカップでの「なでしこジャパン」の快進撃は、とても大きな励みにはなっていたと思うのだが、願わくば是非頂点を極めてほしいとの全国民の願いと祈りを終結したかの様なPK戦が始まった。

 ゴールを守る日本のキーパーは、京都府長岡京市出身の「海堀選手」だが、決して背も高くなくて、アメリカの長身でパワフルな女子選手との一対一のPKをどうして防げるのかと思っていたが、最初に蹴ったアメリカ選手のシュートを右に横っ飛びでセーブしようとして跳び過ぎた格好だったが、右足でボールを蹴りだすという離れ業の奇跡のファインセーブをまずやってのけた。

 続いてアメリカの2発目が高くはずれ3発目も海堀がセーブして、日本が2-0でリードした時に、ほぼ日本の勝利を確信するに至ったのだが、奇跡といえば叱られるかもしれないが、ひとつひとつのプレイが何と神がかり的にも思えるような技術や身体能力を超えたような力と反応で勝ち取った感の強いPK3-1の勝利で、なでしこジャパンの夢の世界一が決定したのであった。

 最後に勝利を決めた「熊谷選手」のPKは、寸前の慎重かつ不敵な表情とでもいうべき眼差しで、アメリカのゴールキーパー「ソロ選手」の動きも侮れなかったが、とても素晴らしい左上部へのキックがネットを揺らした瞬間に、ピッチ上の選手のならず全ての選手、コーチ、監督たちが走り寄っての歓喜の一瞬の映像は、ドイツ・フランクフルト時間の夜の11時を回った時間など感じる暇もなく、日本国中の茶の間にも「歓喜の声」がたくさん上がったことだろう。

 我が家でも早朝にも拘わらず、近くに住む娘に妻が携帯で電話し、私は遠く沖縄に住んでいる息子の携帯電話に、当然結果は知っているだろうと思いつつも自然に電話をかけていたのだが、娘の方は突然の早朝の電話にびっくりしたのかご機嫌悪くすぐに電話は切られてしまったそうだが、沖縄の方は息子の嫁のRさんが電話口に出て共に歓喜の声を共有し喜び、その後妻が息子と直接話していたので非常に共感を感じえたのであった。

 女子ワールドカップの歴史はまだ浅く今回が6回目らしいのだが、アジアの国として初めてワールドカップの優勝を獲得しただけでなく、フェアプレイチーム賞を日本が表彰され、MVPと得点王に主将の澤穂希選手が選ばれたことも合わせて、二重、三重の歓喜と共感の輪が拡がっていた様に感じたし、東北大震災の被災地と被災者の皆さんへの励ましのエールも、この上ない大きなものとなったであろうと確信するに至った。

 その後のテレビ各局は、当然の如くに「なでしこジャパン」のワールドカップ優勝のニュースで持ちきりだったのは言うまでもないが、なでしこジャパンの各選手たちは、数時間後にドイツを立って日本へと帰国して、すぐに始まる国内リーグの「なでしこリーグ」への参戦にかけつけるらしく、休む暇もなく活躍する彼女たちに、感謝と共に共感の大きなエールを送りたいと思った。

 特に、アメリカでのサッカー生活を経験したベテランの澤選手は、アメリカ人のフィアンセとの結婚とサッカーを取るかの人生の分岐点で「サッカー」を選択し今日を迎えたらしいし、また東京電力チームの一員だった左サイドバックの鮫島選手は今回の震災、原発事故でチームでの活動が不可能になり、アメリカのチームへの移籍が決まっているらしいが、それぞれの人生をも賭けてのサッカーアスリートとしての感慨は格別だっただろうと推察できるが、彼女たちが内面も含めての充実感がほとばしる様な美女に見えたのは私だけではあるまい。

 ほんとうに、ありがとう「なでしこジャパン!」、「お疲れ様」感謝、感激。「ご苦労様でした。」ありがとう!
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リスク回避の日本人

2011年07月16日 | 感じたこと
 昨日、女子プロゴルフの有村智恵選手が、なんと確率的には3万年に一回と言う計算が成り立つという、奇跡的な結果を出して、ゴルフファンのならず、ニュースで知った多くの人たちを驚かせた。

 静岡県裾野市で15日に開幕した、スタンレー・レディースというゴルフツアーの大会初日だったのだが、8番ホールのパー5のところを、たった2打で入れる「アルバトロス」を達成したかと思うと、後半の16番のパー3では第一打をそのままカップに沈めるという「ホールインワン」を達成し、このふたつの快挙が同じラウンドで実現する確立は、先に記したように計算上は30000年に一回だという奇跡が起きたのである。

 ただし、3万年に1回と言われても、せいぜいゴルフというスポーツが誕生し、現在のようなプロのツアーが世界中で行われる様になって、どんなに長くても1世紀100年あるかないかと言う近代スポーツでもあるし、有史と言われる歴史上の記録があるといっても、せいぜい2千年から3千年あるかいなかの人類史の昨日起きた出来事なのだから、3万年に1度とは笑っちゃうぐらいの奇跡でもある。

 いずれにせよ、今年2011年はいろんな形で日本の近代史に大きく記憶される「東北大震災・大津波・原発事故」の大惨事の年なのだが、18日に決勝戦を迎える女子ワールドカップの「なでしこジャパン」をはじめ、女子アスリートが大活躍していて、東北、北関東の被災地の方々だけでなく、日本中が「元気と勇気」を与えてもらっている感が強いのだが、ここに加えて、昨日の有村選手のアルバトロスとホールインワンという、とんでもない奇跡が加わって、びっくりするやら嬉しいやら大変である。

 それにしても、スポーツのチームプレイとしてのサッカーとゴルフの個人プレイの違いはあるが、結果論で記してはいるが、なんと大胆な挑戦とプレイで、素晴らしい結果を出したと言っても過言ではない、これらの記録や結果に、なんともいえぬ感慨とでも言うべき素晴らしさを感じているのである。

 実は、ここ数ヶ月、特に東日本大震災以降の、政治、経済、地方自治をはじめとするあらゆるニュースや報道を見聞きしていて、とても感じているのが、実は日本人は大抵は「リスクを如何に回避するか」で行動し、言動も努めているケースが大変多くて、本来の直感や素直な感性、性格、人間性などを隠して、組織の保全や自己保身のために、努めて「リスク回避」を最優先している姿や言動ばかりが目に付いて、とってもイタタマレナイ心境の場合が多かったからである。

 あるリサーチによると、世界中の国々の中で「ニッポン」は、一番「リスクを負わない」国もしくは国民性であることが証明されている様で、その次にリスク回避に最優先に走る国は「中国」であるとの結果が報道されていたのだが、ほんとうに数値や量目などでは測れぬ代物ではあるが、世界中で一番良いのではなくて、逆に表現すれば「危機管理」という名目で如何に自分の責任や対応を回避して行動したり言動を行っているかという現実が確定的にニッポンが一番、つまり一番ずるい国なのかもしれない。

 結局、冒頭に記したプロゴルフ女子の有村智恵の今回のアルバトロスとホールインワンという二重に重なった奇跡的結果などは、全く結果を恐れずに精一杯の実力、技術、練習の成果を発揮して、結果は運を天に任せたかの様なチャレンジが、素晴らしい結果を導き出したと言ってよく、最初から「リスクを回避する」と言ったチャレンジや行動では得られない結果がでたのではないだろうか。

 すなわち、スポーツだからと言った言い逃れをしたくなる方々や、やはり人生にはリスクはつき物だが、如何にそのリスクを未然に無くすかが大問題だなんて、常に考えている人たちにとっては考えられない結果でもあり、失敗はつき物だのだから、失敗してもいいから、思ったことを言ってるとか、やりたいことをやってみると言ったチャレンジ精神が、非常に現代を生きる日本人には欠けていると言われてもショウガナイ現実が多々あると思われるのである。

 非常に残念なことに、いつのまにか日本人の性分とでも言うべき、価値観や生き方それ自体が、「事なかれ主義」とか「マイペース」とか言われるような対処の仕方や過ごし方が最優先されていて、実は「自分勝手」であったり、「自己保身」だけの意であったとしても、誰もがそれを責めたり詰ったりもしない、聡無責任時代に突入しているのではないかと思うのである。

 誰かがやってくれるではなくて、自分に出来ることは自分が、結果はうまく行かなくても精一杯すると言った気概を持って、人生を楽しく、そして少しスリリングかもしれないが、適度なリスクを背負っても、それを気概を感じて愉しむ人生を送りたいものである。

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「魁皇」と「斉藤佑樹」

2011年07月14日 | プロスポーツ
 「なでしこジャパン」の準決勝スウエーデン戦を今朝の早朝にテレビ観戦し、日本女子サッカーの大番狂わせとでもいうべきメダルを確定しただけでなく、決勝で世界ランク一位のアメリカを撃破し「優勝」するかもしれないという、とんでもない期待を抱かせるゲーム展開に感動したのであるが、熱い夏のプロスポーツは、他にも大いに盛んである。

 野球賭博や八百長問題で大揺れし、存続すら危ぶまれた大相撲の半年振りの「本場所」において、あの昭和の大横綱「千代の富士」の通算最多勝の1045勝という大記録に、なんと怪力といわれながら大関在位12年の「魁皇」がようやく昨日今場所での初勝利で並び、今日モンゴルからの旭天鵬を破って、一気に史上一番の1046勝をあげて花束をもらい感激していた。

 あまりにもいろいろと問題が噴出し続けた「日本相撲協会」にあって、今場所の千秋楽には現役最古参の39歳になろうとする、大関「魁皇」の晴れの大記録は、誰もが祝福するものであるのだが、本人は「大関としてもダメで、こんなに注目されるのは恥ずかしいくらいだ」ととっても謙虚な感想をもらしていて、人間的にも偉ぶるところもなく、かえって相撲ファンのみならず、大衆の喝采を浴びる大記録の達成に拍手をおくり、怪我による満身創痍の中での努力と節制の上での大相撲人生が少しでも続くことを祈りたいと思うものである。

 本人は、最近は勝ち越しがやっとの成績ばかりで大関としても他の大関より劣っていて、ぜんぜんダメだし、通算記録があの千代の富士関と並んだ昨日のインタビューでも、そんなに喜べる記録ではない。騒がれるのが恥ずかしいくらいだと語っているのである。

 半年振りの本場所とはいえ、相撲人気は間違いなく陰りを見せている様で、テレビ中継されている幕内の取り組みの時間でも名古屋場所が行われている体育館の観客席は半分ほどしか客が入っておらず、横綱「白鵬」の前代未踏の「8連覇」という偉業達成が濃厚な場所でもあるが、一向に人気回復の兆しが見えない状況の中での、「魁皇」の通算最多勝利記録の新記録が唯一のささやかな光ともなっていると思われるのである。

 一方、プロ野球に目を転じてみれば、セリーグの常勝?を求められる「読売巨人軍」が元気がなく、ドタバタで今晩の阪神線③連敗は免れたが、借金7の四位に甘んじる状態で不振が続いている中、パリーグでも西武ライオンズが最下位に低迷していて、迫り来る「オールスター」ももうひとつ盛り上がりに欠くゲームとなるかもしれない予想が語られている。

 そんな中で、オールスターの選手選考は、基本的にはファン投票による投手③部門と野手の選考が得票数によってなされ、あとは選手間投票によるスイセン選手と監督推薦選手で構成されるセ・パ両リーグで争われるのだが、今年はなんと特別枠として、両リーグから1名づつインターネットによるファン投票で追加される選手が発表されたのである。

 そのパリーグ選出選手が、日本ハムファイターズのルーキー「斉藤佑樹投手」であったことが昨日発表されたのだが、本人の談によると、最後の出場枠に選考されたことを受けての記者会見で「小さいころからのあこがれで、本当にうれしい。球宴は歴史あるもので、そこで恥じないプレーをしたい」と語ったというのである。

 日本のプロスポーツとしては、一時期は「相撲」か「野球」かという時代があったわけだが、その二大スポーツの現状の中でのニュースになる二人のアスリートと言うべき、プロ選手の「魁皇」と「斉藤佑樹」の違いの大きさを、なんとも年齢の違いだけでなく、日本人の心の違いとでも言うべき不思議な気持ちで受け止めたのであった。

 「大相撲」の「魁皇」は、88年春場所の初土俵以来、足かけ24年もの長きの間、度重なる怪我によるカド番と言われる負け越しし続けて10勝しなければ大関を陥落する危機を、その都度乗り越えて、千代の富士が記録に並んだ夕べお祝いに語りかけたように「長くはかかった」が、堂々と先輩横綱の記録を超えての通算1046勝を勝ち取ったにも拘わらず、ともかく謙虚というへきか、恥ずかしそうに苦闘の24年間を振り返っていたのだが、逆に野球の「斉藤佑樹」は、あっさりと「うれしい」と語り、不本意な成績ながら選出されたことを素直に歓迎していたのであった。

 どちらが良くて、どちらが悪いというのではないが、この昭和を髣髴とさせる大関中の大関「魁皇」と、いかにも現代っ子とも言える「平成のハンカチ王子」の対応の違いに、スポーツアスリートとしての時代の違いと人間性の違いを痛切に感じたのであった。

 あっぱれ「魁皇関」、頑張れ「斉藤佑樹」と言う言葉で締めくくっておくことにする。
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