大阪が生んだいちびりなSF作家「小松左京氏」が7月26日に満80歳で亡くなった。
現在の日本人の平均寿命は、女性は世界一で86.39歳だが、男性は79.64歳で世界で4番目の長寿ということだが、ちょうど現在の平均需要で彼は亡くなったことになるのだが、直接は存じ上げないのだが大変なヘビースモーカーだったらしく、タバコの害がなければもっと長生きされたかも知れないと思ったほどであった。
少年時代は病弱で、スポーツには興味がなく、歌と映画と読書に明け暮れていたという彼だが、東京で歌舞伎を見たり、大阪では文楽に連れて行ってもらったり、古典芸能についての知識も身につけ、小学5年生の1941年、昭和16年には当時のNHK大阪放送局の子供向けニュース番組「子ども放送局」のキャスターに起用されたりした。
1943年に第一神戸中学に入学し、小松氏は関西でいう「イチビリ」な性格で、笑い芸やユーモア歌謡が大好きだったために、友人たちからは「ウカレ」というあだ名をつけられ、戦中は教師からも睨まれることが多かった。
一方、体が丈夫でなかったにも拘わらず、柔道部に入り、戦後はラグビー部に転部したらしく、終戦時には14歳となっていたため、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたのだが、幸いにも徴兵されたり戦地に赴くこともなく終戦を迎え生き残ったという思いで、沖縄戦などでは同年齢の中学生の少年たちが銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ったものの責任」を考え、文学をそして将来SFを書くという契機となった。
戦後は、兄に教わったバイオリンの腕で、同級生の高島忠夫とバンドを組んだり、当時に読んだダンテの「神曲」の科学的な知見も組み込んだ壮大なストーリーに衝撃を受けて、後にSF小説を書く基盤となり、大学ではイタリア文学を専攻したらしい。
1948年に中学を卒業し、第三高等学校、現在の京都大学に入学し、あこがれの「旧制高校」時代が「人生で一番楽しかった年」だと後に供述しているのだが、学制変更で京都大学文学部イタリア文学科に進学し、同人誌「京大作家集団」の活動に参加し、高橋和己などと交流し、当時デビューしたばっかりの「安部公房」の作品に熱中した。
そのころ、日本共産党に入党し政治活動もしたらしいが、これは原爆を落としたアメリカに対する反感からね「反戦平和」を唱える「共産党」に共感したらしいが、三高時代の友人が勝手に小松の印鑑を偽造し入党届を出したらしく、本人は共産主義思想に信奉してのものではなかったので、そのため後にソ連の原爆開発にショックを受けて、共産党を離党している。
この時期から、「小松みのる」「モリミノル」「もりみのる」名義で「おてんばデコちゃん」「イワンの馬鹿」「大地底海」などの漫画作品を雑誌「漫画王」に発表したりして、既にデビューしていた手塚治虫の影響が窺えるが、当時の小松の漫画を愛読していた松本零士とも後に親交ができ、「銀河鉄道999」の文庫版の解説を小松が記しているのである。
大学卒業後は、マスコミ各社の就職試験を全て不合格となり、経済誌「アトム」の記者や父親の工場の手伝い、ラジオのニュース漫才の台本執筆などの職を経験し、産経新聞に入社していた友人の紹介で、産経新聞にミステリーなどのレビューも執筆した。
アマチュア劇団の戯曲、演出、出演も担当していて、オーディションに来た女性に一目ぼれして交際し、1958年に結婚したが、生活は苦しく妻の唯一の楽しみであったラジオを修理に出してしまって、当時大阪に出現していた「アパッチ族」をモデルにした空想小説を書いて、妻の娯楽に当てたのが、後の長編デビュー作「日本アパッチ族」の原型となったという。
1963年「日本SF作家クラブ」の創設に参加し、1964年にはラジオ大阪の「題名のない番組」や近畿放送の「ゴールデンリクエスト」などで桂米朝らと知的で快活なトークを交わし、常連のリスナーからの投稿のアイデアを得て、「蜘蛛の糸」「海底油田」「四次元ラッキョウ」などの多くの作品を掌編している。
1965年には「べ平連」創立の呼びかけ人となり、小田実、開高健らと共に「ベトナム戦争反対論」を唱え、当時東京12チャンネルにいた「ばばこういち氏」が主宰した「ベトナム戦争についてのティーチイン」を行った際に、小松ら反戦論者があまりにも多くなり放送されなくなり、これがきっかけでばば氏は退社するという事態になったという。
1968年の「日本未来学会」の創設に参加し、1970年には「国際SFシンポジウム」を主宰し、米、英、ソ等のSF作家を日本に招いたり、大阪万博ではサブテーマ委員を務め、チーフプロデューサー岡本太郎氏の太陽の塔の内部展示を彼と共に考え、DNAの巨大模型を作り、生物の進化を表現し、石毛直道らが収集した世界中の神像や仮面を展示し、後の国立民俗学博物館の元となったのである。
その後の「日本沈没」をはじめとする「小松左京」のSF作家としての功績は言うまでもないが、大阪人としての「いちびり」根性と笑いのエッセンスが彼の幼少期から大学時代までに形成されていることを思うと、大成された中年から晩年よりも大作家となってしまうプロセスの方がとっても面白いと思ったのである。
当然、この記述はウエブの小松左京氏の紹介記事からの詳細を転記したものだが、要は小松左京という人物像を改めて確認したかったまでである。
現在の日本人の平均寿命は、女性は世界一で86.39歳だが、男性は79.64歳で世界で4番目の長寿ということだが、ちょうど現在の平均需要で彼は亡くなったことになるのだが、直接は存じ上げないのだが大変なヘビースモーカーだったらしく、タバコの害がなければもっと長生きされたかも知れないと思ったほどであった。
少年時代は病弱で、スポーツには興味がなく、歌と映画と読書に明け暮れていたという彼だが、東京で歌舞伎を見たり、大阪では文楽に連れて行ってもらったり、古典芸能についての知識も身につけ、小学5年生の1941年、昭和16年には当時のNHK大阪放送局の子供向けニュース番組「子ども放送局」のキャスターに起用されたりした。
1943年に第一神戸中学に入学し、小松氏は関西でいう「イチビリ」な性格で、笑い芸やユーモア歌謡が大好きだったために、友人たちからは「ウカレ」というあだ名をつけられ、戦中は教師からも睨まれることが多かった。
一方、体が丈夫でなかったにも拘わらず、柔道部に入り、戦後はラグビー部に転部したらしく、終戦時には14歳となっていたため、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたのだが、幸いにも徴兵されたり戦地に赴くこともなく終戦を迎え生き残ったという思いで、沖縄戦などでは同年齢の中学生の少年たちが銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ったものの責任」を考え、文学をそして将来SFを書くという契機となった。
戦後は、兄に教わったバイオリンの腕で、同級生の高島忠夫とバンドを組んだり、当時に読んだダンテの「神曲」の科学的な知見も組み込んだ壮大なストーリーに衝撃を受けて、後にSF小説を書く基盤となり、大学ではイタリア文学を専攻したらしい。
1948年に中学を卒業し、第三高等学校、現在の京都大学に入学し、あこがれの「旧制高校」時代が「人生で一番楽しかった年」だと後に供述しているのだが、学制変更で京都大学文学部イタリア文学科に進学し、同人誌「京大作家集団」の活動に参加し、高橋和己などと交流し、当時デビューしたばっかりの「安部公房」の作品に熱中した。
そのころ、日本共産党に入党し政治活動もしたらしいが、これは原爆を落としたアメリカに対する反感からね「反戦平和」を唱える「共産党」に共感したらしいが、三高時代の友人が勝手に小松の印鑑を偽造し入党届を出したらしく、本人は共産主義思想に信奉してのものではなかったので、そのため後にソ連の原爆開発にショックを受けて、共産党を離党している。
この時期から、「小松みのる」「モリミノル」「もりみのる」名義で「おてんばデコちゃん」「イワンの馬鹿」「大地底海」などの漫画作品を雑誌「漫画王」に発表したりして、既にデビューしていた手塚治虫の影響が窺えるが、当時の小松の漫画を愛読していた松本零士とも後に親交ができ、「銀河鉄道999」の文庫版の解説を小松が記しているのである。
大学卒業後は、マスコミ各社の就職試験を全て不合格となり、経済誌「アトム」の記者や父親の工場の手伝い、ラジオのニュース漫才の台本執筆などの職を経験し、産経新聞に入社していた友人の紹介で、産経新聞にミステリーなどのレビューも執筆した。
アマチュア劇団の戯曲、演出、出演も担当していて、オーディションに来た女性に一目ぼれして交際し、1958年に結婚したが、生活は苦しく妻の唯一の楽しみであったラジオを修理に出してしまって、当時大阪に出現していた「アパッチ族」をモデルにした空想小説を書いて、妻の娯楽に当てたのが、後の長編デビュー作「日本アパッチ族」の原型となったという。
1963年「日本SF作家クラブ」の創設に参加し、1964年にはラジオ大阪の「題名のない番組」や近畿放送の「ゴールデンリクエスト」などで桂米朝らと知的で快活なトークを交わし、常連のリスナーからの投稿のアイデアを得て、「蜘蛛の糸」「海底油田」「四次元ラッキョウ」などの多くの作品を掌編している。
1965年には「べ平連」創立の呼びかけ人となり、小田実、開高健らと共に「ベトナム戦争反対論」を唱え、当時東京12チャンネルにいた「ばばこういち氏」が主宰した「ベトナム戦争についてのティーチイン」を行った際に、小松ら反戦論者があまりにも多くなり放送されなくなり、これがきっかけでばば氏は退社するという事態になったという。
1968年の「日本未来学会」の創設に参加し、1970年には「国際SFシンポジウム」を主宰し、米、英、ソ等のSF作家を日本に招いたり、大阪万博ではサブテーマ委員を務め、チーフプロデューサー岡本太郎氏の太陽の塔の内部展示を彼と共に考え、DNAの巨大模型を作り、生物の進化を表現し、石毛直道らが収集した世界中の神像や仮面を展示し、後の国立民俗学博物館の元となったのである。
その後の「日本沈没」をはじめとする「小松左京」のSF作家としての功績は言うまでもないが、大阪人としての「いちびり」根性と笑いのエッセンスが彼の幼少期から大学時代までに形成されていることを思うと、大成された中年から晩年よりも大作家となってしまうプロセスの方がとっても面白いと思ったのである。
当然、この記述はウエブの小松左京氏の紹介記事からの詳細を転記したものだが、要は小松左京という人物像を改めて確認したかったまでである。