ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

東北の被災地支援に出発!

2011年06月26日 | ガリバー旅行記
 東北大地震から、早や100日を越えましたが、未だに被災地の皆さんの生活は当然だと思いますが、前の状態に戻るわけはありません。

 しかし、東北地方も本格的な梅雨入りをして、大津波に見舞われた地域の中には地盤沈下や防波堤の損壊などで日常的に浸水していて、日常生活もままならぬ地域もたくさんあると思われます。

 やはり義捐金も必要ですが、赤十字の義捐金もまだ相当額が被災者や被災地支援に直接活かせる形では届いていないと言われている現状だと聞きますので、ここは一度は直接に現地に行って、少しでも支援のお役立ちをしたいと思い、今晩の夜行バスで一路仙台へと向かうこととなりました。

 全国社協が窓口の天災型ボランティア保険にだけは加入手続きをして、久しぶりのリュックに簡易な一人用テントと寝袋と着替えを入れて、ポンチョ、軍手、長靴などの必需品は携行して出かける準備を整えました。

 さて、東北大震災の被災地は縦に長く広範囲ですので、何処に行くかは確定はしていませんが、昔音楽関係の仕事をしていた時期に一年間、宮城県仙台市に一週間に一度必ず仕事として仙台に日帰りで行っていた関係で、現在も仙台を中心に知人、友人がたくさんいるので、やはり人間関係としての縁のある、宮城県にボランティアとして行く事としました。

 行く途中に石巻出身の元気な高齢者で東京でお仕事を続けておられるOさんに会って、石巻を中心とした生の情報や希望を少しはお聞きしてから、仙台から再びバスか電車で太平洋沿岸の町へと行くつもりです。

 一応、インターネットを通じて事前情報とでも言うべき各地域の被災状況と各地域の社協やボランティア窓口の状況を調べていますが、少しでも微力ながらお役に立ちたいとの思いですので、最終的には何処にたどり着いて役立つ仕事が出来るかはわかりません。

 そのために、今週金曜日までは「ガリバー通信」のブログも半分お休みとなると思いますが、時間と携帯の充電が可能であれば、少しだけ現地からの情報、感想が送れるかもしれません。

 ともかく、こんなおっさんでも困っている人、被災地の方々のちょっとでもお役に直接立ちたいとの思いですので、16年前の阪神淡路大震災の際のトラックに支援物資を満載しての二日間の現地救援とは違った形での、ひとり旅ですがぜひ有意義なものにしたいし、新たな被災地の皆さんや社協関係者、ボランティアの人たちとの出会いも楽しみに出かけたいと思います。

 京都もここ数日真夏なの暑さになり、まだ梅雨の真っ最中なので暑さが身に知る時期ですが、家や仕事場を失い、中には大切な人やペットやあらゆるものを失くしてしまった人々の悲しみの地域にも、容赦なくこの暑さと梅雨が襲い掛かっていると思いますが、決してくじけない「ガンバロー精神」の人々が多いと聞いている東北の人たちから返って勇気と励ましを受ける旅になるのかもしれないと思っていますが、私らしく老若男女を問わず、いろいろとお話もして体を動かし汗をかきたいと思っています。

 ぜひ、京都に帰ってきたら、ささやかな報告と感想をガリバー通信でお届けできればとも思っていますので、よろしくお願いします。では行って来マース!
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僕の父は東電社員。

2011年06月25日 | 感じたこと
 先日、毎日小学生新聞に掲載された都内の小学6年生の男児からの手紙「父は東電社員だが、原発事故は世界中の人が無駄に電気を使ったことが原発をつくるきっかけになった」などとする手紙に対して、各地の小学生たちから子どもなりに真剣に考えた賛否の意見が送られてきて話題となっている。

 男子小学生からの手紙の要旨は、突然ですが、僕のお父さんは東電の社員です。(原発事故や計画停電についての東電の責任を指摘した毎日小学生新聞の記事を読んで)無責任だと思いました。
 原子力発電を造ったのは東京電力ですが、つくるきっかけをつくったのは、日本人、いや世界中の人々です。発電所を増やさなければならなかったのは、日本人が夜遅くまでスーパーを開けたり、ゲームをしたり、無駄に電気を使ったからです。
 中でも原発を造らなければならなかったのは、地球温暖化を防ぐためです。温暖化を進めたのは世界中の人々です。
 そう考えると原発を造ったのは、東電も含み、みんなであり、みんなも無責任であるといえます。

 この意見に対して、大人としての見解はさておいて、同じ小学生児童からの反響とでも言うべき、いろんな意見、反論、同感のメッセージがたくさん届いているという現実は、とても嬉しくもあり、なかなか子どもたちも考えてるなと、まず賛美を送りたいと思うのである。

 というのは、実は大人たちの多くが、今までも特に「原発問題」などに対して、あまり考えたり意見を言うことが少なすぎたと思うからでもあり、大人たちは自分たちの利害や立場から、「ノーコメント」だとか、「答えられない」という立場や、本当の気持ち、すなわち「本音」で語ったり、意見したりする人があまりにも少なかった、すなわち「大人たちはずるい」といった感じの印象が私には強かったからでもある。

 つまり、子どもたちの反響や意見は、とても素直であり、父や家族を思う気持ちと共に、世界や日本の人々のことをそれなりに一生懸命に限られた情報や教えられたことを基に、意見しているという実態を感じるからである。

 「ぼくは、東電がまちがっていると思います。」人々が大量に電気を消費するから原発をつくるしかなかったというのは、いいわけにしか聞こえないと思います。安全だといい、人々をだまし、古くなった原子炉をうごかしつづけてきたことにより、事故が起こったしまったことも問題です。(男子児童の)手紙には、原子力にみんながたよっていたから事故が起こったしまったという感じで書いてふったけれど、それは東電の人たちが、福島の人たちに道路をよくしたり、補助金を出したりして、たよらせるようにしむけたのだと、ぼくは思います。」(京都府・小6)

 また、「私は原発事故にかんして国民全体に責任があるという考え方には反対です。電気の無駄使いについては責任があるかもしれませんが、でも私たちは(原発の)危険性についてどれだけ知らされていたでしょうか?学校で習ってきたでしょうか?むしろ、学校の掲示板に、原発はクリーンなエネルギーで、安全で不可欠なものだというポスターがはってありました。そうしたポスターや作文の募集もありました。それをしたのは、東京電力と国です。そんな教育をうけた私たちが、原発はあぶない!つくらないほうがいい!という意見をもつことができたでしょうか。これからみんなで話し合って、大人が何を間違えたのか、を考えていく必要があると思います。」(神奈川県、鎌倉市・小6)

 上記のふたつの意見だけでも、ほんとうに子どもたちの思い、考え方、反響としての意見は立派だと言わざるをえません。特に「大人たちが何を間違えたのか、を考えていく必要がある」との指摘は、菅首相をはじめとする国会議員を筆頭に、東電だけでなく全国の電力事業者に勤める大人たち、そして原子力関連の研究者、経済産業省をはじめとする官僚、お役人たち、そして大きな責任を感じてほしいマスコミ関係者や御用評論家、似非科学者、知ったかぶりのエリート著名人たち、そして私たちに大きな問題提起をされていると思います。

 たかが「小6の男の子の思い」がきっかけではありますが、されど「子どもの素直な思い、感情」をしっかりと大人として受け止めて、原発問題に対する、私たちの意見、考え方を明らかにしていかねばならないと痛感しています。

 間違いなく、反原発、原子力発電と言う大きなリスクと将来に大きな負の遺産とも言うべき永遠に近い危険な廃棄物を残し続ける「原子力」の放射能漏れと影響の危惧は、決して「安全神話」では片付けられない、これからの人類の課題です。戦争や自然破壊と同様に人類の英知で無くして行かねばならない愚策だと断言し続けたいと思います。
 
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「半夏生」の贈り物。

2011年06月24日 | 季節の話題
 梅雨入りして今年も本格的な蒸し暑さを伴った「夏日」、30℃以上の日照りの日々がやってきました。

 京都府京田辺市の周辺も、すでに「田植え」は終わって、これからは日々稲の生育が著しい梅雨と暑さを体験する季節となりましたが、毎年の恒例として私の八百屋で仕入れている、山陰は出雲地方の「木次乳業」さんよりのお中元としての独特の「笹巻き」が届きました。

 写真の様に素朴な笹でちまき風の餅を丁寧に一本ずつ巻いてあるものを束ねて、美しい緑のふくよかなプレゼントとして出雲地方で採れた新茶と共に、お中元の印として贈られてきたものなのですが、手作りの心のこもった贈り物として大変嬉しく感じ、早速鍋にたっぷりの湯を沸かして、ちまき風の笹巻きを茹でで、今年は黒糖と醤油の「砂糖醤油」をつけていただきました。

 ご挨拶文には、出雲地方では6月になると、一ヶ月遅れの端午の節句を行うそうで、同じころに田植えが終わって、泥落とし(骨休み)を代満の半夏の行事として、笹巻きをつくりますと書かれてあり、平素のご無沙汰のほんのお詫びのしるしとして、笹巻きと地元で栽培された新茶をご賞味くださいませ、と丁寧に添えられていた。

 ついでに、「笹巻きの召し上がり方」も書かれていて、上記の如く早速茹でで「召し上がった」のだが、ふわふわモチモチで少し笹の香りが残っていて、素朴な「半夏生」の季節的手作り食品としては、心がすっきりと洗い流される様な気分になり、梅雨の鬱陶しさや少し汗ばむ暑気払いにもなったのではないかと感じて、感謝である。

 「半夏生」とは、「はんげしょう」と読むのだが、雑節のひとつで半夏(烏柄杓)という薬草が生える頃、すなわちハンゲショウ(カタシログサともいう)とは「葉が半分白くなって化粧したようになる」ところから、名づけられているものなのだが、この植物が目立つ頃で、暦の日としては、夏至(今年は6月22日)から数えて11日目、現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日といわれ、毎年7月2日頃にあたるそうである。

 農家にとっては、この「半夏生」の日は大事な節目の日であり、この日までに農作業を終えて、この日から5日間は休みとする地方もあり、この日は天から毒気が降るといわれ、井戸にも蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりしたそうで、三重県の熊野地方でや志摩の沿岸部では、ハンゲという妖怪が徘徊するとされ、この時期に農作業を行うことに対する戒めともなっているというのである。

 上方では、この日に蛸を、讃岐では饂飩を、福井県大野市などでは焼き鯖を食べるという習慣があり、全国各地の農家や古い伝統やしきたりを重んじる家庭では、今でもそうした習慣や食文化を守っているというので、日本の農業や季節の移ろいに対する畏敬のる念や昔からの言い伝えを守る伝統に敬意を表したくもなるのである。

 ついでに、植物の「はんげしょう」についてであるが、ドクダミ科の多年草で、主には水辺に生えて、臭気があり、茎は高さ約80センチにもなり、葉は長卵形で、ちょうど半夏生の頃に茎の頂に花穂をつけ、白色の小花を蜜生し、花穂のすぐ下の葉は下半部が白色となり目立ち、別名として「片白草」ともいい、俳句の季語として「夏」に用いられるそうである。

 ほんとうに暑ーいと感じられる夏の到来だが、つい一週間前には梅雨入りしても凌ぎやすい気温が続いていたと思ったのに、昨日、今日は日中は扇風機のお世話にはならないと汗がジワーと湧き出でてくる感じの気温の上昇で、京都府京田辺市もゆうに30℃を超えて、夏日から熱帯夜への階段を確実にのぼりつつあることを実感する日となった様である。


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組織と自己保身

2011年06月23日 | とんでもない!
 東北大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所の一連の放射能漏れ事故に対する、東京電力、経済産業省原子力安全保安院、そして政府、国会議員、ついでにマスコミと呼ばれるメディアの大半が、どのような姿勢や考え方で、このチェルノブイリ級と称される「原発事故」に対して対応してきたのか、多くの国民ならびに特に目に見えない放射能汚染の恐怖から避難を余儀なくそれている福島県を中心とした住民の皆さんにはどう打つっているのだろうか。

 私の場合は京都府南部に生活していて、特に危機的な放射能汚染の恐怖は感じてはいないが、もし京都府の北東部に位置する福井県の原発銀座と称される原子力発電所群のひとつでも同様あるいはそれ以上の原発事故を起こしたら、当然南に位置する私たちの地域も約70キロから100キロ離れているとはいえ、風下になったとしたら相当の恐怖と共にいたたまれない気持ちで不安な日々を過ごさざるをえなくなることであろう。

 とにかく日本の原発政策を推進してきたのは、昭和30年代半ばからの自民党政権と財界、そして読売新聞社を筆頭とするメディア媒体が推進力となって、アメリカ、フランス、ロシアなどの原発先進国と言われた国々の古いシステムを中心に多額の国費をもつぎ込んで導入し、「原子力は安全」という作られた神話で国民を騙し続けてきた結果が、今回の福島原発のレベル7の事故を招いたといっても過言ではあるまい。

 著述家、広瀬隆氏はあらゆる機会に、この原発利害が世界的な経済のバックボーンとなっている、ロスチャイルド社と称する企業を背景とした、世界的経済優先の企業利益が優先された策略に乗せられた先進国を中心とする各国の政治指導者の愚かさにも起因していると暗に指摘されている。

 今から17年前に発刊された「地球のゆくえ」と題する広瀬隆氏の著作の末尾に近いところでも、原子力問題についての見解が書かれているのだが、「何年も経たずに、第二のチェルノブイリ事故が、全世界のどこかで起こることは間違いない。その可能性が一番高いのは、日本である。原子炉はひどく老朽化して、国民はそれを知らずにいる。」と書いていたのである。

 彼は、続けて「日本の三大危機は、原発事故、戦争に巻き込まれること、自然が崩壊していくこと」だが、これから日本人が高い意識を持って行動すれば、戦争と自然破壊は食い止められるが、最も近い将来の悲劇として必然的に起こるのは、原発事故だろうと断言している。

 そのような危機的警鐘を語ったり、書いていた著述業や評論家?、原子力研究者、専門家も他にもいたと思われるが、ほとんどのテレビマスコミや新聞などには登場する機会も与えられず、少数派の反原発運動家として扱われたり、無視されてきたのではなかっただろうか。

 すなわち、多くの有識者と称される著名人は、今なお「原発廃止」を語ることすらタブーの如く慎重というよりも、自己保身のために一切を語らない立場かノーコメントあるいは、現在も原発は必要な科学技術だと言い放っている有様なのである。

 つまり、電力会社を中心とする大企業がスポンサーとなっているテレビ番組やCMに出演したり、または提携企業や公的出資がなされている団体や組織に関与している立場の人のご機嫌や立場を尊重するという言い回しで、結局自分自身の意見や考え方ではなく、「お金を出しているバックボーン」に気を使っての発言や宣伝に大いに協力することが当たり前になっていたのである。

 名前をあげればきりがないほどいるのだが、星野仙一、三宅久之、草野仁、勝間和代、ビートたけし、北野大、大前研一、弘兼憲史、茂木健一郎、養老孟司、堺屋太一、アントニオ猪木、中畑清、住田裕子、渡瀬恒彦、幸田摩音、荻野アンナ、岡江久美子、吉村作治、大宅映子、森山良子、木場弘子、藤沢久美ら(週間金曜日・4/26号、原発震災より)あまりにも多くの著名人が本人の意思と関係ないかもしれないが利用されてきたのである。

 最近のテレビ、新聞報道は少し変化を感じてはいるが、菅直人首相をはじめとする政府首脳も野党自民党の谷垣総裁、山口公明党代表、その他の国会議員の大半のコメントや批判を聞いていたら、やっぱり「我が党は・・・」か「私は違う・・」とでも言いたいのかすべての言葉が「自己保身か組織保全」のための言葉としてしか思えないものばかりなのである。

 東京電力や原子力安全保安院の関係者の記者会見やコメントの数々も、避難されている人々の思いなんかよりも、自分たちの組織の継続、存在理由を最優先に、株主総会やマスコミの質問に対する回答マニュアルまで想定しての、防衛対応を繰り返していると言っても過言ではあるまい。

 何故に、こうまで日本人の「えらい人?」は、姑息な手段を使ったり、不信感をより増幅するような虚偽の対応を繰り返すのだろうか。

 いずれ分かるだろうに、その場を何とか回避することに終始するのがやっとこさと言った、みえみえの自己保身と組織防衛に全てのエネルギーを使っている様子であり、東大をはじめとする国立大学を優秀なる成績で卒業したエリートと称される人たちの、あまりにも小さな虚栄心と自己保身の姿勢には驚きを通り越して、呆れるばかりなのである。

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久々の宇治ゆめカフェ。

2011年06月22日 | イベント
 
 梅雨空が続く日本列島ですが、皆さんはお元気にお過ごしのこととお察しいたします。

 私たち男の料理サークル「おりじ」は、今から20年前に発足した「男子厨房に入ろう!」とはじめられた当時の地域住民センターの「男の料理講習」に集まったおっさんたちが半年6回の料理講習を終えておしまいではつまらないと発足した「男の料理自主サークル」の頭文字をとって「オリジナル」を掛け合わせて「おりじ」という料理好きのおっさんグループとして今まで続けてまいりました。

 三年前に、メンバーの中心的存在だった人が癌で亡くなって、参加人数も少なくなって一度は解散しようということで、解散記念例会なるものもしたのですが、その後私の知人でもある宇治のおばさんのお誘いがあって、宇治の元居酒屋での「一日料理長」という企画で、月に一度私たち「おっさんの自然食」、つまり「オーガニックランチ」を提供することとし、二年数ヶ月続けてきました。

 しかし、また拠点としていた場所のオーナー的な存在だった京都府の助成事業としての活動主体が二年間で終了したこともあって、今までのお付き合いで借りていた立場から一変して、知的障害を持つ青年たちの作業所としての機能を主に行う場所として活用することとなったために、一端私たちの「男の料理」の月一のランチ提供も中断を余儀なくされていました。

 宇治「ゆめハウス」と称する場所は、JR宇治駅からも歩いて5分のメインストリートに面した場所なのですが、昔の居酒屋の面影が少しだけ残っているとはいえ、目立ちにくいお店なので、目印としては宇治警察署を左に見て約50メートル宇治橋通りの入口方面に歩かれたら左手上に、古い大きな赤い提灯がぶらさがっいる所なのです。

 そんな場所で細々と、また6月から「オーガニックランチ」を再開することとなり、先週から料理メニューのリハーサルを兼ねての「おりじ」の料理準備が始まり、今週はお客様のお誘いをするためにハガキを出したり、メールをしたり、電話をかけたりと一生懸命にPRに務めている次第なのです。

 この「ゆめハウス」は二十代から四十代過ぎの人まで、6人ほどが通所で通う障害者作業所なのですが、来年度からは公的な認可を受けての事業所となる準備を進めておられるので、果たして「ゆめカフェ」といった自由な「寄り合い場所」的な「ランチ提供」や「喫茶店」的な場所としての機能を果たせる場所としてやっていけるかが問題なのですが、とりあえず地域周辺の人たちや関係者、知人、友人たちのご理解、ご協力も得て、今後も続けていけたらいいなと思って、6月と7月は第四日曜日に「オーガニックランチ」の提供をしようと企画しています。

 6月26日、次の日曜日の昼下がり、ぜひお近くの方々や外で昼食をとろうと思っておられる方々は、一度立ち寄っていただければ幸いです。

 今月のメニューは、

 ○じゃこ豆ご飯
 ☆茄子の豚肉巻きフライ
 ●具たくさんいり豆腐
 ※じゃがいもスープ
 □胡瓜と玉葱の浅漬け

 ですが、全ての食材や調味料が無添加、無農薬の食品なので、安心して自然の旬の野菜や肉などの美味しい料理をご堪能いただけるのではないかと、私たち「おりじ」のおっさんたちは自信を持ってご賞味いただけると思って、皆さんのお越しをお待ちしております。

 御代は、なんとオーガニックランチとしては破格の「たった600円!」なのです。ついでにゆめハウスの青年たちが入れてくれる美味しいコーヒー付きの場合は、750円となりますが、ゆめハウスの活動と今後の資金の一部となりますので、ご協力もあわせてお願いいたします。

 私たち、男の料理サークル「おりじ」は、今は既に定年を過ぎて悠々自適?の生活を送る健康なおっさんたちのグループですが、ささやかな社会参加の機会として、また障害を持つ青年たちやその保護者の皆さんとの交流も含めて、楽しんで活動をし、自らの元気な人生を謳歌する一助として喜んで続けて行きたいと願っています。

 メンバーの一人が昨年、突然の脳梗塞で倒れて、現在も自宅でリハビリ中心の不自由な生活をしていますが、私たちは彼の意思も含めて、これからも健康で続けられたらいいなと各々が心から思っていますので、もし機会があればぜひお顔を出してください。

 どなたでも大歓迎です。気軽に「ガリバー!」と声をかけてください。

 昨年秋に、この「ゆめカフェ」に私のブログから知って来てくれていた宇治の昔馴染みの同年輩の友人が癌で急死したことを今年の正月に知ってショックでしたが、人と人とのつながり、出会い、そして別れは、いつ何処で何時になるかは分かりませんが、思ったら吉日です、ぜひ出かけてくださいませ。
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夏至のキャンドルナイト。

2011年06月21日 | イベント
 明日は北半球にある日本にとっては、一年でもっとも昼間の時間が長いとされる「夏至」、つまり72節気の中では太陽が一番高い夏至点に達する日であり、早朝の4時26分に早くも日が昇る日なのである。

 梅雨の鬱陶しい季節ではあるが、沖縄では既に梅雨が明けて本格的な夏が始まっているのだが、今日大震災に見舞われた「東北地方」は梅雨入りしたと報じられているのだから、ニッポン列島が如何に南北に長いかがよくわかるというものである。

 さて、この「夏至」は、冬至と共に毎年6月21日か22日にやってくるのだが、12月の同じ時期に訪れる冬至と共に、年二回この日に「100万人のキャンドルナイト!」を提唱しているグループがあって、今年で5年目だったと思うのだが、毎年二回だけだが夜の8時から10時までの二時間だけ、部屋や無駄な照明を消して、必要ならローソクの灯りだけで過ごそうと呼びかけている運動があるのだ。

 「でんきを消して、スローな夜を。」と題して、その趣旨については下記の如く呼びかけているのです。

 夏至・冬至、夜8時から10時の2時間、
 みんなでいっぜいにでんきを消しましょう。
 ローソクのひかりで子どもに絵本を読んであげるのもいいでしょう。
 しずかに恋人と食事をするのもいいでしょう。
 ある人は省エネを、ある人は平和を、
 ある人は世界のいろいろな場所で生きる人びとのことを思いながら。
 プラグを抜くことは新たな世界の窓をひらくことです。
 それは人間の自由と多様性を思いおこすことであり、
 文明のもっと大きな可能性を発見する
 プロセスであると私たちは考えます。
 一人ひとりがそれぞれの考えを胸に、
 ただ2時間、でんきを消すことで、
 ゆるやかにつながって「くらやみのウェーブ」を
 地球上にひろげていきませんか。

 でんきを消して、スローな夜を
 100万人のキャンドルナイト。

 いっせいに電気を消す日は、いつだろう。
 地球のことを考える「アースデイ」?
 平和を願う「終戦記念日」?
 私たちは、国々の文化や社会事情といった人間の都合できめられた記念日ではなく、
 地球のどこにいてもみんなに共通でやってくる日にしようと思いました。
 主義や主張、立場や国籍の違いを超えていきたい。そう願っています。

 多くの人が、気軽に参加することができるように。
 一人一人が生活の中のひととき、あたたかで他者や世界を思いやれる時間をもてるように。
 いつか、世界中の人たちが、夏至の夜にろうそくの灯りで過ごしてくれたら、
 宇宙から見た地球には、あたたかなくらやみのウェーブが広がるでしょう。
 そう願って、100万人のキャンドルナイトという名前をつけました。

 でんきを消して真っ暗すぎては子どもたちが驚いて泣いてしまうでしょう。
 そこで、電気を消すかわりにキャンドルを灯してるのはどうかと考えました。
 「あたたかいろーそくの灯りの中で過ごす時間はほんとうに心地いい。」
 ろうそくの薄明かりでスローな夜を。
 こうしてキャンドルナイトが生まれました。

 大声あげて「断固反対!!」キャンドルナイトは、そんな風に無理をしません。
 テレビや部屋の照明は消しても、ラジオを聞いてたっていいし、ケータイで誰かと話したっていい。
 ただ、普段の暮らしの中から過剰な電飾をなくして、自然の光だけで過ごしてみる。
 あとは自由。
 家族とちゃんと話してみたり、恋人といつもはできない平和の話をしたり、
 みんなで世界の未来のことをマジメに考えてたり。
 なにをするかは自分次第。

 今年こそ、東北地方の大災害と日本の将来と自分たちの暮らしについて、たった二時間でも電気を消して考える夏至の夜としたいと思いませんか。


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「山谷」で出会ったTさんの訃報。

2011年06月20日 | ガリバー旅行記
 今月の13日、一週間前に学生時代に「東京・山谷」で出会って以来の知人であったTさんが亡くなっていたという知らせが大学時代の同級生からの電話で届いた。

 突然の訃報ではあったが、ここ数年彼の体調は好くなかったことはうすうす知っていたので、残念ではあるが驚きは特になく、同級生との電話でも、ご家族での家族葬を済まされているとのことだったので、まともなお別れは出来なかったのだが、彼を知る友人、知人たちに呼びかけて秋にでも「彼は偲ぶ会」でも企画しようということとなった。

 実は私がTさんと会ったのは、今から40年以上前の大学一年生の後期試験が終わって直行した「東京・山谷」だったのだが、それ以来折に触れては訪ねて来てくれたり、彼独特の手書きのハガキで近況を知らせてくれたり、また彼の人生のライフワークともいえる「東京・山谷」と「キリスト教」に関する自書や発行物を郵送してくれたりと、なかなかのエネルギッシュなおっさんであった。

 体格は非常に小柄であったが、独特のしゃべり口調と時折見せる人なつっこい笑顔に彼を知る多くの知人たちは魅せられたりして、ユニークな世界を醸し出してくれた御仁であった。

 私たちが出会った当時既に30歳を超えていたと思われるので享年とって70歳は過ぎての死去なので、決して若い死とは言えないが、彼にとっては東日本大震災、大津波、原発災害という未曾有の大事件の年に、静かに息を引き取るということは夢にも思っていなかったのではないだろうと想像するしか出来ないのである。

 いつも何かに向かって挑戦し続けていた男だと思うので、ともかく生前のエネルギーの最後に何をしょうと考えていたのだろうかとも思ってやまないが、今は亡き男となってしまったので憶測することすら出来ないのは当たり前である。

 1967年2月下旬に、初めて東京・山谷の「泪橋」という電停付近で「立ちんぼう」と呼ばれる「日雇い労働者」のひとりとして「仕事待ち」をしたことから始まる「私の山谷体験」は、それから約二ヶ月間、当時の山谷にあった「隅田川伝道所」と名づけられた小さなキリスト教の教会との出会い、そしてその伝道所の自称「書記」と称する男Tとの交流として続いたのであった。

 実は、私が「山谷」に行くことを決意したのは、一斉を風靡した「フォークの神様」と後に呼ばれる男、「岡林信康」の多大なる影響であり、大学一回生の夏休みが終わった9月下旬に、初めて「山谷」という日雇い労働者の町に行った岡林の体験談を同志社大学のキャンパスの南側にある「御所」で聞いたことに起因していた。

 まだ?まじめな学生だった私は、とにかく一年生の後期試験を終えたら、自分も社会勉強のつもりで東京・山谷に行こうと決めていたので、最終試験が終わった日の夜行列車で東京へと向かったのであった。

 学生スタイルのジーパンとTシャツに少し長髪だったと思うのだが、何故か足元だけは革靴を履いていたために、安宿に泊まった翌朝の仕事を求めての「立ちんぼう」では他の仕事を求める男たちとは異なった異彩を放っていたことだろうと昔のことだが思い出すのである。

 仕事が終われば、「江戸の男は宵越しの金は持たない」とまで言う形で、男たちは酒を飲み、日銭を稼いでも翌朝には「ドヤ代」を払ったら一文無しという生き方の輩たちも多く、夜通しに近く語り合ったり議論をしたものだったが、その中心に常にTさんがいたのであった。

 日本の資本主義社会の矛盾と現実を凝縮した様な町「東京・山谷」での経験は、私にとってはとんでもなく強いカルチャーショックとも言える初体験であり、その後の社会的活動や思考に大きな機転となるに至ったと言っても過言ではないわけなので、「山谷とTさん」との出会いは、私の人生にも大きな影響を与えことは間違いない事実である。

 それから私は大学中退を余儀なくされ数年後に、Tさんのちょっとした誘いもあって、前述した岡林が所属するフォーク音楽をプロデュースする事務所の系列のマイナーなレコード会社に就職し、自らも小さな音楽出版の事務所を設立するに至って、例のみなみらんぼうの詩曲の「山口さんちのツトム君」というヒット曲の出版権とプロデューサーとしての仕事に出くわすこととなったのだから、やはりT氏の存在がなかったら、音楽事務所の仕事にはついていなかったのだろうといえるのである。

 懐かしさもこめて思い出すのは、彼が山谷から大阪に来て、西成の釜ヶ崎で小さな無認可保育所があり、そこの保母さんに惚れて押しの一手で結婚したことであり、間接的ではあるが私も未亡人となられたNさんの仕事ぶりを知っているひとりだったので、それで良かったのかなと疑心暗鬼の時期もあったが、よくぞNさんが添い遂げられたことだと思い、彼女の勇気と忍耐強さにも敬服する次第である。

 Tさんのご冥福を心から祈るものである。
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昔に父は日本人を殺した!

2011年06月19日 | テレビマスコミ
 今晩、サッカーのオリンピック予選の第一段階のクエート戦の中継が終わって、九時からNHKスペシャルが上記のタイトルでのアメリカのピューリツァー賞受賞作家であり、太平洋戦争末期の沖縄戦で戦った当時の米軍海兵隊の兵士だった父を持つ、デール・マルハッジ氏によるドキュメンタリーレポートを見たのである。

 彼の父であるスティーブ・マルハッジ氏は1925年生まれで、19歳の時に第二次世界大戦末期の沖縄の地上戦に第6海兵師団の「L中隊」と呼ばれる総勢240人の部隊の一員として、1945年4月1日に沖縄本島の読谷村の海岸に上陸し、その後6月24日に実質的に沖縄戦が終結するまで戦ったのだが、生き残ったたった31人の兵士のひとりとして戦後帰国したらしいのだが、2000年にすい臓がんでこの世を去った人らしいのである。

 その息子であり、ジャーナリストとしても活躍し著書も出版しているデール氏が父の死の寸前に枕元で語った「私は昔、沖縄戦で日本人を殺した」という言葉の真相を確かめようと調べだし、彼が亡くなる前に残した戦争の遺品のいくつかの中にある「日本軍手引書」なるものの表紙裏に「与那城実正」という氏名を確認し、それも手がかりに2011年、今年の4月1日に沖縄にやってきて取材をしているのであった。

 父が生前、「沖縄戦で日本人を殺した!」ことを悩み苦しんでいたことを母親からも聞いていたので、その原因のひとつが日本兵ではなく、少年のような罪もない民間人を出会いがしらに射殺してしまったことを、生涯ずっと悩んでいたらしく、戦後自宅に帰ってからも自宅の地下室の仕事場で、時々機械に向かって「ママはいないんだ、黙れ!」とか叫んでいたらしく、精神をも病むくらい正常ではなかったらしいのである。

 沖縄に現在もある「県立工業高校」の生徒だったらしい前述の「与那城実正」という人は、確かに昭和14年に卒業した生徒として実在していたのだが、当時物資が極端に不足していたので、その「日本軍手引書」も数が少なく、先輩から後輩へと譲り渡して使用していたらしく、この遺品としてアメリカに父が持ち帰った品は、必ずしも名前の本人が持参していたものではないらしいことが判明した。

 というのは、与那城実正という人物は戦争中の死亡、すなわち戦死ではなく、戦後に一般的な死亡という形で記録されていたそうなので、たぶん父が遭遇した少年兵らしき少年が譲り受けて持っていたものらしいことが分かったのであった。

 つまり、デール氏の取材、調査によると沖縄戦が実質的に終結した1945年6月23日の後に、まだ投降していない人たちを探す任務をしていた父スティーブさんが突然出くわした少年と目と目が合って、恐怖からか彼は少年を撃ってしまったらしいということが分かったのであった。

 その当時の戦争は、「やられる前にやる(殺す)」というのが当たり前の自分を守る最大の術であり、全てに関して兵士はそういった訓練と鍛錬をしていたので、実質的には終焉していたとは言え、まだ戦争自体は終わっていない非常時にあって、彼が民間人であったとしても撃ってしまったこと自体は避けにくい状況だったと推測されるのである。

 しかし、戦後66年も経った現代でさえ、生き残りの沖縄戦経験者の沖縄に住む老人たちは、米軍が何故に罪もない民間人の多くをも殺戮したのかを恨み、信じがたいと証言していて、手榴弾や火炎放射で集団で逃げ惑っている沖縄の人たちがガマや隠れ家から逃げ出したところで両親や兄妹を殺された証言者の怒りはいまだ収まらないのは当然である。

 現在、アメリカで生存している、この沖縄戦で戦った生き残りの84歳以上のお年寄りの証言者の多くが、こうした沖縄戦での民間人の殺戮に関しては悔やんでいたり、悩んでいたりしているというインタビューもあり、デール氏自身は前述の一家を殺戮された沖縄の宮平さんという証言者に「アメリカの正義とは何か?」と問われて、答える言葉すら出なかったというのであった。

 私も二十数年前と十年ほど前に、沖縄戦の戦場でもあった読谷村の「チビチリ蝦蟇」に行って、現地の人の案内で自然の洞窟の中にも足を踏み入れたことがあったが、狭くて暗い自然の洞窟の中で人々がひしめき合って米軍や日本軍から逃れて、食べる物も着る物もろくにない中で、助け合い息を抑えて時の過ぎるのを待っていた光景や惨状を想像するだけで、息が詰まりそうな苦しさを覚えたことを記憶している。

 戦後、66年が経ったとは言え、6月23日に太平洋戦争末期の最大の日本内地の地上戦であった「沖縄戦」が約3ヶ月足らずの激戦の末、日本は敗戦、全面降伏への道を下らざるを得ない致命的な敗残を喫したのだが、沖縄戦での約20万人の犠牲者のうち半数は民間人であることを忘れてはならないし、また1ヶ月余後の廣島、長崎に投下された「原子力爆弾」による犠牲者はさらに多く、ほとんどが民間の生活者であったことを思うと、戦争という異常事態とはいえ、恐怖の中でイノチを落として行った亡き人たちの無念を改めて思わざるを得ないのであった。

 最後に、この戦後66年間日本は国内では戦争を一度もせず、いや朝鮮戦争では朝鮮半島で戦っているが、アメリカはずっと戦争を世界の何処かでし続けているという言葉が、重たく聞こえたし、現実として改めて捕らえなければならないと感じたのであった。

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子どもの村つうしん

2011年06月16日 | 季節の話題
 北海道紋別郡滝上町滝西にある「森の子どもの村」と称する徳村彰、杜紀子さん夫妻からの今時珍しい手書きのB5版30頁ほどのお馴染みの便りが届いた。

 毎年6月のこの季節に届く通信は、夏の森のこどもの村への案内を中心として子どもたちを中心とした参加者に対する丁寧な案内と参加の仕方、道順、役割、費用、そして26年前に起きた参加者が死傷するという痛ましい交通事故をことを敢えて知らせる記事も含めた便りでした。

 冒頭のイラスト的「もり」の字は、ご存知の方もおられると思いますが、徳村さんが「もり」は、「森」という字ではなくて、土と水と木からなっているのだからと「木」「水」「土」を合体させた新しい字を創造されたものなのです。

 そういう「もり」を感じながら、そういった「もり」に住む徳村彰さんのことを多くの子どもたちや関係者は「おじじ」と呼び、奥さんの杜紀子さんのことを「おばば」と呼んで親しくなっているわけですが、私も北海道の「子どもの村」に行ったのは一度しかないのですが、とても懐かしくまた心にあるひとつの故郷のようなところなのです。

 徳村さんとの出会いは、今から30年らいほど前に、子どもたちの遊び場活動のリーダーをしていた頃に出逢った本の著者である「徳村彰」さんの講演が近くの枚方市の公民館であることを知って聞きに行った時からです。

 その当時たぶん50代だったと思われるので、今は80歳前後になられていると思うのですが、当時は横浜で「子どもの村」と称する子どもたちの居場所としての文庫活動をされている方という認識だったのですが、ご本人のご病気がきっかけで思い切った転地療法というわけではないのかも知れませんが、北海道の現在のお住まいの場所に拠点を移されての活動を続けられて早くも30年になろうとしていると思います。

 「空前の事態のなかで・・・」と題する巻頭に掲載された徳村彰さん、おじじの言葉をゆっくりとかみ締めて読んでいたのですが、東日本大震災を契機に「気づく」ことについて書かれていたのです。

 阪神淡路大震災の機会にも「イノチ」が輝く世にしたいと思いつつも、「豊かな」日常に流され、連帯の力を生活の根本を変える力に育てることが出来なかったという自戒から、今度こそ何とかしたいと思ったが、この圧倒的な現実を前に言葉を失っていたと書かれていました。

 そんなさなかに彼が二十代の時に体験した広島での間接的被曝に言及されつつ、海外生活の慣れない疲れからか原因不明の体調不良から長期入院をし、帰国後十二指腸潰瘍で開腹手術を受け、胃の大半を切り取ったが、五臓のほとんどが病んで、40年前に名医から「あと2年の命」と宣告されたというのでした。

 でも、その後こどもたちと出会い、もりから力をいただいて、今の私があるのですと告白されているのです。

 彼は毎年春と秋の二回にわたって東北は秋田県の奥森吉のもりに一ヶ月前後行かれて、「ブナ」の木、「ブナのもり」に癒され抱かれて、奇蹟的に回復されているというのです。

 一寸先が見えない現在の事態にも、未来はきっとあるので、彼は「もりの力」に頼ること、人間中心主義ではなくて、あらゆる「イノチ」たちに抱かれ一緒に結ばれる新しい生き方を模索することを提唱されているのです。

 思い悩む中で、彼が体感している「ブナのもり」で感じた幸せ感は、本当に優しく泉のように温かなイノチの源を湧き出でさせて、細胞のひとつひとつをとろけさせて、私はイノチさんと一つになりますと綴っておられるのでした。

 つまり、彼の主張は「ものの文化・もりの思想」から来る哲学であり、もりの中には不思議な力、イノチの源泉があり、人間も素直にしぜんの力に委ねたら、もりの力、すなわち木と水と土からイノチの本来の目に見えない伝承を得るというのでした。

 こんな現実ばなれした様なお話と受け取られる方もいると思いますが、今私たちは人間の力で何でも出来るという「迷信」ではなく、自然の生き物のひとつとしての謙虚な反省と共に、自然との「共生」をじっくりと考える「いい機会」に出くわしているのではないでしょうか。
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運転免許の更新

2011年06月15日 | 感じたこと
 昨日、京都府警察自動車運転免許試験場に出かけて、運転免許証更新手続きと講習を受講し、新しい免許証を無事受領して帰ってきた。

 いまや日本国内で自動車運転免許証を持つ人は7千万人を超えていて、18歳以上の普通自動車免許の受験資格のある人の10人に8人が持っていると思われるほど、誰もが持つ社会的人間としての個人証明にも使える公的な資格としては一番一般的でもあり、3年ないしは5年毎の更新手続きさえすれば、日常的な自動車運転の資格として与えられているものである。

 私の場合は18歳の大学入学が決まった春休みに、ちょっとお金持ちの同級生が自分ちに自動車があったために、高校卒業後すぐに自動車免許を取りに行くというので、一緒にと誘われて入学式までに取得しようと当時2万6千円余の費用で取得したもので、それ以来40数年間、とっても便利で当たり前の如くプライベートにでも仕事でも活用できている唯一の資格証である。

 実は数年前に問題となった「住民基本台帳」と証する地方自治体での「住民カード」と称するものがなければ、自動車免許証すらなければ、現在はあらゆる場所や役所で、本人確認としての証明がなかなか難しくなっていて、いくら氏名、住所、生年月日などの特定の情報を伝えても、証明するものがなければ確認されないので処理できないと言って、突っ返されるケースもあるのだと言う。

 すなわち、いまや自動車運転免許証は、ただ運転できる資格としてだけでなく、身分証明をしてくれる貴重な公的資格として必要不可欠なものとなっていると言っても過言ではないのである。

 今回の免許更新では、運転免許証の本籍記述が免許証の表面からは無くなっていて、自分が入力した暗証番号の四桁の二つの数字がなければ、確認することが出来なくなったというICチップが運転免許証の自分の写真の近くに埋め込んであるというのである。

 前々回からだったと思うのだが、従来の免許証の大きさから少し小さなカードタイプになって、持ち歩きに便利で普通のカードケースにも入る大きさとなったので、銀行や役所などの本人確認などと称する作業が必要な時には、あわてずにすぐに対応できる様になって有難いことだとは思うが、果たしてこんな本人確認が必要なのかとも思うことも多いのである。

 すぐに昨今はプライバシー、個人情報の大切さとうたって、各種証明や手続き、またはお金にからむ手続きなどには必ずと言っていいほど、本人確認とやらが行われるのが常となっているが、あまりにもマニュアル化しすぎていて、腹が立つことすらあるのである。

 たかが、自動車免許証や健康保険証と言ったもので、本人確認が出来るのであれば簡単なことではあるのだが、手続きの内容や必要性から言っても、そんな本人確認など必要ないのではないかと思われる事象まで、形だけの本人確認を証明する免許証などで行うことで、もし問題が起きた時の「免罪符」のようにするためのマニュアルとなってしまっている感が強いと思われる。

 ともかく、そんな本人確認時の印としての意味もある「自動車運転免許証」ではあるが、なかなか3年と4ヶ月の無事故無違反という事態を獲得することが難しく、私の場合はいまだ更新期間が5年間となる、ゴールド免許に達したことがないのが情けない限りなのである。

 すなわち、今回も違反運転者など(3年青色)という運転者区分で違反運転者講習(120分)が義務付けられた更新手続きの案内を貰っていたので、やむ終えず更新手続料2550円と講習受講手数料1700円の計4250円を支払っての更新手続きならびに講習を受けての新しい運転免許証の更新となったのであった。

 朝8時半に免許試験場に到着したが、既に更新手続きをする人たちでロビーはあふれていて、窓口での書類手続きと必要経費を払った後の視力検査と写真撮影を済ませても、まだ違反運転者などの講習まで30分以上も待たねばならなかった。

 余談だが、窓口で「交通安全協会」への協力をと要請されて多くの更新手続きの人が、たぶん1000円の協力費を払って緑色の免許証ケースを貰っているのだが、私はこうした警察官OBの定年後の就職先としての受け皿的団体の費用負担には納得できないので、「いいです」と拒否しているのだが、交通安全協会に協力しない分、いつまでも違反講習を受けなければならないのかと自問自答すらしたくなる事態が続いているのである。

 やっと違反運転者講習が始まり、会場に80名以上の受講者が入っていたが、講師は慣れた口調でビデオとスクリーンの文字と図でいろいろと説明をされているのだが、半分以上の受講者はほとんど時間を過ぎるのを待っているだけと言った感じで、話をまともに聞いているといった風情はないままに、休憩をはさんで約1時間半の講習が予定通りに終了し、新しい免許証が受講者のデスクの番号順に渡されて順次解散となって、思い思いに帰途についたのたが、安全運転講習のための冊子やテキストもほとんど見ないどころか会場に置いて帰る人すらいて、ほとんど役立つ感じではない様子であった。

 この自動車免許証の更新手続き制度そのものに文句を言いたいわけではないが、従来からのお決まりの形で行う意味とこれらのに従事する職員たちのための「手続き」と「講習」ではないかとさえ思わざるを得ない内容と費用負担に、やむ得ないと思う半面、どうにかならぬかとも感じたのであった。

 日常的に車を運転していて、感じている無謀な運転や信号無視や割り込み、自分勝手な運転手が如何に多いかと言った現実とは、かけ離れたところに自動車免許証の更新時の「安全講習」があるとさえ思ってしまったのであった。

 
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