ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

大統領の執事の涙

2014年02月23日 | ファミリーイベント
とても素敵な映画だった
ほぼ一ヶ月に一度は妻と映画を映画館に見に行くのだが、2月は仕事中に車のFMラジオで紹介されていた「大統領の執事の涙」を観に行った。

アメリカ大統領であった、アイゼンハワーからレーガンまでの7代に仕えた黒人執事、セシル・ゲインズの生い立ちから執事を引退するまでの各大統領とのエピソードと家族愛を淡々としかも心の描写も含めて丹念に映画化した秀作で、アカデミー賞にもノミネートされること間違いなしのアメリカ映画で、現在の黒人大統領である、バラク・オバマ氏も「目に涙あふれた」と感想を述べたと伝えられている作品であった。

 誰もが知っているアメリカ大統領で、アイゼンハワーをあのロビン・ウイリアムスが演じたのをはじめ、J、F、ケネディ、ジョンソン、ニクソン。、フォード、レーガンと続いた34代から40代までの大統領に執事として仕えた黒人がいたことをはじめて知ったのだが、この執事の生涯はとても波乱に満ちた稀有な人生だったことは間違いない。

 映画としては2時間半に近い長編なのだが、セシルの妻の孤独感、長男は反政府運動に没頭し、逮捕拘留もされることもあり、セシル自身の仕事を理解しつつも、黒人差別、不平等な世の中への抵抗を続ける心情も理解できたし、次男坊は長男とは正反対でベトナム戦争に志願し、国のために戦うという道を選ぶという家族それぞれの選択に対して葛藤するセシル。

 この主人公セシル・ゲインズを演じたフォレスト・ウィデッカーという黒人俳優は、1986年の例のベトナム戦争を題材とした「プラトーン」にも出演していた名優なのだが、人道主義活動にも力をそそぎ、ドキュメンタリー映画を製作し世界に発信もする活動が認められて、ユネスコ平和調停親善大使にも任命されているらしい。

 セシルの妻役は、オブラ・ウィンフリーという名の黒人女優さんなのだが、アメリカを代表する様なテレビ番組の司会者でもあり、プロデューサーでもあるらしく、「オブラ・ウィンフリー・ショー」と題する人気番組は25年間続け、日本での「徹子の部屋」を続ける黒柳徹子さんの様な人気のある女優さんでもあり、世界で最も魅力のある女性とも称され、数々の受賞と評価を受けている方でもある。

 この映画の楽しさは、キャスティングにもあり、前述のアイゼンハワー大統領役のロビン・ウィリアムスだけでなく、歴代の大統領役の俳優の演技やメイクが似ている程度がまちまちだが、とても実像を写真やテレビで知る視聴者にとっては、とても面白く楽しく見ることができ、あのかつての名優であるジェーン・フォンダが何とレーガン大統領のナンシー夫人役だったり、主人公セシルの幼少期の母役が、歌手であるマライヤ・キャリーだった。

 セシルは、黒人差別がはなはだしい時代のアメリカの南部の綿花畑に働く両親の下に生まれたのだが、いろんな屈辱的事件を見聞きした中で、ハウス・二ガーと呼ばれた、家つきの下男として雇われたのだが、一人で行きたいと逃げ出して、様々の苦労と努力の末、ホテルのボーイとして雇われる幸運に恵まれ、その働き振りを見た男の口ぞえで何と、ホワイトハウスの執事に抜擢されたのである。

 しかし、7代もの大統領に仕える仕事は、家庭を顧みず妻と子供たちとのかかわりもギクシャクすることもあり、妻の浮気?、長男は父の仕事を理解しつつも反政府運動に身を投じて逮捕、拘留されたり、次男は正反対にお国のためとベトナム戦争に志願したりと、父として夫としても苦悩の日々も送ったのである。

 七代の大統領に纏わるエピソードも面白いのだが、キューバ危機、ケネディ大統領暗殺、ベトナム戦争などの米国の歴史上の大きな出来事にも翻弄される場面もあり、一人の黒人執事としての仕事の内外で、人生を自問自答しつつ、多くの大統領に感謝されて退職するまで、愛する妻も見送るというストーリーであり、なかなか見ごたえのある2時間半に及ぶ映画であった。
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正月映画三昧。

2014年01月02日 | ファミリーイベント
 新年あけましておめでとうございます。

 ガリバー通信も10年が経過して、約2000日ブログをアップしたことになり、よくもくだらないことを記し、多くの見ず知らずの方々も含め、インターネットを通じてお読みいただいた多くの方々に感謝致すと共に、今後も気軽に気ままに、その時々の季節の話からプライベートな四方山話、そして政治や国際的な話題、私個人の出会いと気づきなどについて、今後も書き綴って行きたいと思いますので、お付き合いの程よろしくお願い致します。

 昨年となりましたが、時折大好きな映画の話題を私なりに、勝手気ままに記していましたが、昨年の12月は邦画の「そして父になる」を妻と共に鑑賞したあとは、孫たちのクリスマスプレゼントとして、大好きな「カーズ」の姉妹編とでもいうべき「プレーンズ」と題する世界一周の飛行機レースのアニメを見たくらいでしたが、昨年の暮れにレンタルショップの半額割引特典のあるカードを入手したのがきっかけで、喪中のお正月はレンタルDVD鑑賞に明け暮れることとなりました。

 私自身はやはり映画館の大きなスクリーンで、映画は観たいなぁと思うのですが、昨年どうしても見ることの出来なかった邦画の作品の中で、宮本輝さんの原作の「草原の椅子」というタイトルの映画がどうしても観たいと思っていたので、まずはその作品を借りることとしました。

 ついでに洋画で何かもう一作と陳列棚を見ていて、そのレンタルショップお勧めの「最強の二人」をついでに借りて年の瀬に帰ったのですが、やはりバタバタとした年末には見る時間がなくて、ようやく正月元旦の夕刻に自宅でゆっくりと鑑賞することとなりました。

 ひょんなことから実の母親から虐待を受けていた四歳になる少年を預かる羽目になった主人公の佐藤浩市が、その男の子に接するうちに、その子供の心の傷と素直な気持ちを理解するようになり、飲み屋で出会った同年配のカメラ量販店の社長と、陶器のお店を営む上品な女性とも知り合い、知り合いの写真家の写真集に魅せられて、男の子と共に、その写真集の題材となったパキスタンの砂漠地帯に四人で旅することとなり、男の子の成長と共に、彼らの心の葛藤や悩みがふっきれて行くという物語でした。

 現代社会に生きる誰もがいろんな人間関係や自分の努力だけではどうしようもない現実や葛藤に悩みつつ、日々の仕事や生活に流されてしまうという問題の中で、一人の孤独で口を閉ざしてなかなか他人とは打ち解けられない傷ついた少年を介して、大人たちは自らの心の中を整理して、障碍者であっても健常者であっても誰もが居心地のいい椅子、つまりノーマライジェーションを大切にした「自分らしくてフィットした」生き方を見つけるといったメッセージが込められていて、幼い少年の大好きな怪獣「ザウルス」と共に旅した大人たちが変わるというお話でした。

 ついでに借りた「最強の二人」はさほど期待はしていなかったのですが、金持ちの障碍者のケアのために雇われた黒人青年とのやり取りと仕事ぶりがユニークで、あまりにも真面目に福祉や障碍者ケアを考えすぎて、かえって障害を持つ人たちが普通の生活を出来ないという矛盾に陥ってはいないかという社会的課題に対して、実在する障碍者がモデルになったという、この作品の痛快かつ健常者と障碍者が対等に人間的に付き合うという当たり前のテーマを面白可笑しく映画化していて、なかなかの楽しく意義ある作品でした。

 この二作は私自身の好みで借りてきたのですが、一応割り引き期間の最終日になったので、奥さんにリクエストを尋ねたら、しばらくして「トム・ハンクス」と「ケビン・コスナー」の二人の俳優の作品をとのたので、彼らが出ていてまだ見ていない最新作を探して、ケビンの「チョイス!」とトムの「リンカーンを殺した男」を借りて来たのでした。

 上記の二作品もまったく内容については知らずに、正月が明けてからー見たのですが、コスナーの「チョイス!」は、アメリカ映画らしいドラマで、グウタラで離婚した親父としっかり者の娘の父娘生活中のケビンが娘の願いでもあった大統領選挙の投票をすっぽかしたために娘が投票所に忍び込んで密かに投票した一票が電源が切れたために無効となり、その1票で大統領が決まることとなり、再投票までの10日間が大々的にアメリカ中で大注目となり、大統領候補の両陣営が、このケビンコスナー演ずる男を相手に、政策と公約を訴ったえるという架空話なのですが、結末はこの父自身が人間として生きる生き方を両陣営の候補者と大観衆の前で演説してエンドロールになるという作品でした。


 いずれにせよ、お正月から自宅で正月番組とはいえ、つまらないバラェティやお笑い、スポーツ番組ばかりを観てしまうよりは、とても見ごたえのある秀作の映画を四本も観る正月となったのだが、今思えば昨秋に召天した母が晩年に口癖の如く言っていた「正しく生きなさい」という遺言の様な言葉が、この全ての作品に共通したテーマだったのではないかと痛感した次第である。

 今後も、これからの人生を「自分らしく、正しく生きよう!」と思う正月でありました。
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母の日ありがとう!

2013年05月12日 | ファミリーイベント
母の日である。私の母は96歳で現在私の実家である大阪の阿倍野の有料老人ホームに入居しているが、幸い健やかに日々を送っていて私たち兄弟にとっても嬉しいことである。

 私の妻の母も一つ年下とは言え、95歳で現在も妻が生まれた実家のすぐ前のマンションの9階に一人暮らしをしていているが、いたって健やかで妻が週に一度は訪ねて買い物や病院通いのお共をするが幸いなことに携帯電話での会話や孫とのメール交換もしていて楽しく日々を過ごしている。

 超高齢化時代を迎えた象徴的な高齢者の仲間入りはしていて、老人ホームの職員さんやホームヘルパーさんのお世話にはなってはいるが、寝たきりとか入院中とかいった状態ではなく、毎日朝、昼、夜と食事をとり、美味しいと感じ、花を愛でたり孫を慈しんだり出来る幸せの中にいることは、とても感謝である。

 幸い私たち夫婦も65歳と言う社会的には高齢者の仲間入りをしたのであろう年齢に達っしてはいるが、幸い大きな病気には縁がなく、日々をつづが無く暮らしている。

 やっと春らしい、いや初夏を思わせる様な気候となった今日の「母の日」なので、ともに自分たちの母に感謝の時を持ちたいと考えて、大阪にいる母を訪ねることとしている。

 妻の方は娘と孫二人を連れて、姉と娘にとっては従姉妹であるSちゃんも横浜から来るので、たぶん義母のいるマンションに集って、みんなで賑やかに楽しくお喋りをして、食事をともにすることになるのだろう。

 私の方も昼前に姉と妹と私が母のお世話になっている老人ホームを訪ねて、たぶん天気がいいので、母を車椅子に乗せて散歩がてらに外出し、近くのレストランでささやかに母に感謝の昼食を共にいただくこととなると思うのだが、先月中旬に一番上の姉が亡くなったので、少し寂しく4人兄弟が3人になって、母を囲んでの食事会となる予定である。

 いずれにしても、自分たちを産み育ててくれた母の健康と今の暮らしを少しでもサポートしながら、日々のつつがない暮らしを続けられることに感謝をしながら、一日でも長く母たちが健やかに過ごせることを願う気持ちに変わりはない。

 今年だけではないとは思うが、天候異変と言う言葉に馴れてしまうほど、五月になったにも関わらず「寒さ」を感じる朝晩が続いたり、東北、北海道などでは積雪があったり、桜やつづじの花が小鳥たちの餌としてつぼみが食べられてほとんど咲かなかったりなど、山にも里にも小動物や虫や小鳥たちにも異変が生じている自然界である。

 たぶん、花粉症も黄砂やPM2.5なる微粒子などの公害的問題物質なども、間違いなく人間たちの生活と生産活動などで排出される微粒子が複合的汚染として、人間たちの生活に跳ね返ってきたものだろうと思うし、自然界の生態系を壊しているのは私たち人間の活動が原因だと断言してもいいと思える現況の中、アベノミクスなどというふざけた造語で経済的欲求だけを追い求めている様な人間の活動では、この地球上が生き物が生存しにくい状況をますます増加させてしまうこととなりそうである。

 安倍首相は連休中の外遊でトルコなどを旅行し、日本の財界が求めるセールスマン的役割を演じ、世界一安全?というふれこみで「原発輸出」の商談を決めてきたらしいし、国内では国民栄誉賞とか何とかにかこつけて、巨人軍の長嶋、松井選手両元選手を利用して、背番号96の憲法96条改正へのパフォーマンスを演ずるなど有頂天だが、国民の多くは冷ややかに見ているし、アメリカからは国粋的右翼思考の安倍首相に対する懸念も一部で出ていることは否めない事実となっていて、初夏の候ではあるがアベノミクスなどと浮かれてはいられない危惧を感じているのである。

 ともかく初夏の陽気の今日は、母の日にちなんで全ての人たちが母に感謝し、今ある人生を素直に正しく心豊かに健康に過ごせることだけを願いながら、誠実に質素に省エネ的に暮らすことを心して日々を送れるようにと祈りたいと思います。

 いくら天候が優れようとも、政治や経済をリードする輩達の愚行や思惑には惑わされること無く、信じる全うな生き方、価値観を大切に日々を母に感謝しつつ生きたいと思うのみである。
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人生の特等席

2012年11月29日 | ファミリーイベント
 先日の勤労感謝の日に記したと思うのだが、自分への勤労を感謝する意味もこめて、久しぶりに妻と映画を観に行った。
 
 最初は私たちの世代の男性の永遠のマドンナでもある吉永小百合主演の「北のカナリアたち」を観よう思ったのだが、妻は気乗りではなく、いずれテレビでも放映するから「ええわ」と誘いに乗らないので、妻も若い頃からよく知る、クリントイースドウッド主演の「人生の特等席」を観ることになった。

 古くは1960年代のテレビに登場していた懐かしの「ローハイド」にも出演していたイースドウッドなのだが、その当時のモノクロテレビを通じての小さな画面だったが、かっこいいロディというカウボーイ姿はとても魅力的な俳優だと、多くの日本の視聴者がファンになったことだと思うのである。

 このロディというニックネームは、ROWDYつまり「荒くれ者」という意味であるのだが、テレビ西部劇として約7年間にわたり150話近くが製作された人気シリーズとなったので、イースドウッドの知名度と人気は世界的に高まり、その後イタリアに招かれて「マカロニウエスタン」の代表作ともなった「荒野の用心棒」に出演し、「夕陽のガンマン」「続夕陽のガンマン、地獄の決闘」と都合3作のセルジオ・レオーネ監督作品で、名無しの男を演じヨーロッパでの名声を得て、アメリカに逆輸入された形で、その後は「ダーティー・ハリー」シリーズで型破りの刑事、ハリー・キャラバンを演じて、人気アクションスターとしての地位を不動のものとしたらしい。

 彼は、映画制作会社設立し、監督業と俳優をこなして、「許されざる者」や「マディソン郡の橋」「ミスティック・リバー」等を製作し、「許されざる者」では、アカデミー賞の監督賞、作品賞を受賞し、2004年の「ミリオンダラー・ベイビー」で二度目のアカデミー賞、作品賞と監督賞を74歳という最高齢で受賞している。

 2006年に「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」を製作し、日米双方からの視点で太平洋戦争を描き、ゴールデン・グローブ賞、最優秀外国語映画賞を「硫黄島・・・」で受賞している。

 今回の「人生の特等席」は、老いたメジャーリーグのスカウトマン役であり、スタッフとしてではなく俳優としての4年ぶりの出演であるが、82歳という高齢での演技は渋くて見ごたえはあるのだが、ロードショーの映画館でのアップ画面は、少々皺が多すぎて厳しいところたが、映画に対する並々ならぬ情熱と人間性はすばらしい表現者としての姿からにじみ出ている。

 彼は、政治的活動にも積曲的で、1986年にはカリフォルニア州の西海岸のカーメル市の市長に当選し、1期2年間だけ市長を務め、その後も民主党のカリフォルニア知事の退陣を迫る投票を呼びかけたり、民主的な政治家の政治参加を求めるテレビCMを製作したりし、2003年5月には開戦したばかりのイラク戦争に対して、「極めて重大な過ちを犯した」と批判したりもしている。

 話は「人生の特等席」に戻るが、野球好きな私にとっては、とても楽しくもあり、また幼い時に別れてしまった娘との再会、そしてその娘が老いた父を労わりながら、少しづつ自分の父との7わだかまりを解消しつつ、昔父がスカウトしてメジャーリーガーになった男だが、肩を壊して現役選手としてはリタイアしている青年との恋に何とかゴールインし、父としてのイースドウッドが車ではなく、バスで一人で帰るといったラストシーンで終わるのである。

 老いて目がしっかりと見えなくなった主人公は、娘が幼い頃に連れまわした野球場や試合の状況から、いつの間にか野球通になっていて、彼女が最後には無名の選手のスカウトをして、球団関係者を唸らせるという「おまけ」もついていて、さすがアメリカ映画のサービス精神も兼ね備えた秀作であったと思う。
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トラブルが続いて・・・

2012年06月26日 | ファミリーイベント
 先日の金曜日の早朝だが、いつもの様に自営の八百屋の仕入れのために愛車であるスバルサンバーディアスのハンドルを握って、京都市内に出かけた帰り道で突然、軽四輪のワンボックスかーではあるが昨年暮れに車検を受けてまだ数ヶ月しか経っていないのに、後輪のステアリングだと思うのだがガチャガチャと激しい騒音がして、走行が難しくなってしまったのである。

 その日は仕入れた農産物などを自宅に置いてから、九時過ぎに日中の仕事に出かけなければならなかったので、本当に「ヤバイ!」って感じで、すぐさまJAFに電話して状況を伝えたが、一時間近く救援の車が来れないということで、急遽妻に出動をしてもらい、とりあえず近くのスバルの整備工場へと車を運んでもらうこととして、私自身の移動と午前中の仕事のための動きを確保するために、妻の愛用しているワゴンRが必要だったので、携帯で指示をして来てもらったのであった。

 故障したサンバーディアスは、JAFの車載トラックに積まれて幸いなことにスバルの営業所まで数キロしかなかったので、無事工場に入庫し、急いで点検、修理を依頼して、私と妻はまずは自宅へ帰り八百屋の仕入れ荷物だけを降ろした後、私は急いで仕事に出かけたのであった。

 その夕方から八百屋の営業、つまり移動販売に出かけるためには少なくとも軽自動車のワンボックスタイプが急遽必要なのだが、二三人は同様の軽自動車を所有している友人、知人はいるのだが、仕事のために勝手を言って借りるわけにもいかないので、急いでインターネットで近くのけレンタカー業者を検索して、何とか急なことだが夕刻より借りれる車を確認して、約20キロほど南、ほぼ奈良市の手前まで軽自動車のハイジェットを借りに走ったのだが、これも妻を乗せて行って帰りはレンタカーを妻が追尾する形で帰って来たのであった。

 翌日の土曜日一日を八百屋で走った後、日曜日の昼前にレンタカーを返した後、修理が終った我が愛車のスバルサンバーディアスを久御山まで取りに行っての帰り道、次のアクシデントが起きていた。

 妻がいつも乗っている軽自動車のワゴンRだったのだが、自宅まで約2キロのところで、ちょっとしたミスで前行車に追突していたのであった。

 私は修理が終った車で、土曜日に時間がなかったので市内の仕事の営業所に用がって、そのまま出かけていたのだったが、事故が起きた直後に、妻は私に電話を何度もかけたらしいのだが、生憎にも携帯の電源が足らずに掛からなかったのであった。

 自宅に帰って充電をしつつ、電話を妻にしたところ初めて事故を起こしたことが判明したのだつたが、時既に遅しで私はその現場に立ち会うことも、相手の方へのお詫びや連絡もすることも出来ず、娘に電話した上で警察に来てもらって事故証明が取れる確認は出来たとのことであった。

 アクシデントというものは何だが続くものなのかもしれないが、先日私はブログで携帯電話をスマホに取り替える検討を始めたと記していたのだったが、今週の月曜日には仕事に出かけてしばらく経った時間に、八百屋の仕入先や仕事場の上司から再三再四携帯に電話があって、すぐ出たのだが相手の声が全く聞こえないという突然の故障に見舞われてしまった。

 午前中だけで、生憎にもお客様からの電話も含めて8通話ほどあったのだが、全く私の耳には相手の音声が聞こえないという状態であり、困り果ててすぐさま昼過ぎに、長年使っているドコモの営業所へ故障した携帯を持ち込んで原因と修理をと思ったのだが、修理には時間と代金が掛かることもあって、やむを得ず検討を始めたばかりのスマホに機種変更して、すぐさま対応しないと仕事にも支障が出ると判断したので、慌ててスマホの機種選定をして手に入れたのであった。

 ともかく、ドタバタ劇の様に自動車の故障と小さくとも事故、そして携帯の通話できない故障で、新しいスマホへの機種変更購入と、妻の自家用としての中古車購入とあいなってしまったのであった。
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小さな輝石(奇跡!)

2012年06月10日 | ファミリーイベント
 さて、「小さな奇跡!」について記すことにしょう。

 先月中旬に私たち夫婦の結婚40周年を記念して、息子夫婦の住んでいる沖縄へささやかな旅行をしたことは、いつもガリバー通信をご覧いただいている皆さんには報告したと思うのだが、その旅行の最後に起きたささやかな物語なのである。

 三泊四日と言っても、行きは関西空港からの昼過ぎの日航機で那覇に飛んで、那覇市内のホテルに連泊し、最終日はちょっと違ったホテルということで、沖縄市の海辺に近いホテルを予約して、楽しかった正味は丸二日間の沖縄の旅の疲れを休め、陽がとっぷりとくれた沖縄の海をホテル9階のツインルームから眺め、翌朝の朝食を済ませて、やはり昼過ぎの那覇発の全日空便へ間に合う様にと、少し早めにホテルをチェックアウトするために、沖縄土産を中心に一杯になった荷物をカバンに詰めている時であった。

 妻が突然ビックリした声を上げて、慌しく物探しが始まったのであった。

 なんと、今から10年前の結婚30年を記念してプレゼントした小さなダイヤモンドが付いたネックレスを、今回の40周年の旅に身に着けてきたのに、そのネックレスの鎖から肝心のダイヤモンドだけがいつの間にか抜け落ちたのか、気付いたら無くなっていたというのであった。

 私自身は気付かなかったのだったが、彼女にしてれば大切に身に着けてきたネックレスの中心にあったささやかでもダイヤが無くなっていることに驚きを隠しえなくなって、早速カバンの周辺から探し出し、私もベッドを少し動かしたりして、部屋中を探す手伝いをしたのだが、なにせ小さなものだと思うので見つけることが出来ないまま、彼女の落胆振りを感じつつも、「しょうがないな」と心で思いながら、ホテルの下の小さなショップで、ちょっとした沖縄土産を兼ねたアクセサリーを購入したのであった。

 しかし、彼女の思いは私よりずっと重たかったらしく、せっかくの30周年記念にプレゼントされたネックレスの小さなダイヤモンドとはいえ、この10年間は無事だったのにも関わらず、40周年の記念の旅で紛失するなんて、とても今後が思いやられると思っていたらしいのであった。

 旅に限らず、予測できないことが大袈裟に言えば人生では起きることもあるさと、私は至って無関心ではないのだが、起きてしまったことはショウガナイとしか思えないと思うたちなので、あまり気にはならなかったのだったが、彼女の失望感はそれなりに重たかったみたいだった。

 
 沖縄の記念にと「ちゅら玉」と称される少し光を放つ小さな石をあしらった、ささやかなネックレスをお土産に買ってプレゼントとして持ち帰ったのだったが、息子夫婦や嫁の母との会食を含む、沖縄での実質二日半の旅の思い出は、とても充実したものであり、約八ヶ月ぶりの息子たちとの再会の喜びはとても心に残ったのだったが、ただ唯一残念なことが、このネックレスのダイヤの紛失であった。

 ホテルのフロントでチェックアウトの際に、部屋の掃除の折にもしかしてあればと、紛失を届けようかとも妻は言っていたが、あまりにも小さな落し物でもあり、電気掃除機で掃除する短時間に、そういったもの探しまでは無理だろうと思ったりもしたので、残念ではあったが届けずに無念の思いを抱いたままホテルを後にしたのであった。

 ところがである。

 京都の自宅に夕方帰宅して、旅の荷物やお土産類をカバンから全て出して、妻が旅行の片づけを一旦終えた後に、もう一度自分の小さな沖縄のミンサー織のポシェットというかハンドバックを、もう一度ひっくり返して見たら、なんとその底に小さなダイヤが見つかったのであった。

 たわいもないお話ですが、小さな奇跡!(輝石)の物語でした。一件落着、めでたし、芽出度し、愛でたし。
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木下大サーカス!!

2012年05月05日 | ファミリーイベント
 今日はこどもの日、ゴールデンウイークも明日が最終日なのだが、全国各地の行楽地や高速道路や新幹線も従来線も相当な混みようだとテレビは伝えているが、今日の天気は関西地方はとにかく夏を感じさせてくれるほど朝から暑く、さすが「立夏」と暦の上ではいうのだが、きっちり「夏」を感じさせてくれる好天気である。

 八百屋のお客さんを中心に、この連休はどうされてますか?と尋ねてると、遠くへ行くのは疲れるので近場で楽しめる場所へ日帰りで行ったり、孫たちが地方から父母の実家であるおじいちゃん、おばぁちゃんちに帰ってきたりしていて、賑やかだったり大変だったりと、やはり人の移動は多くて、街中を車で走っていても地方ナンバーのプレートをつけた乗用車がやたら目に付く。

 先日、私も孫の5歳の誕生日祝いを兼ねて、大阪の花博記念公園にある特設テントで公演を行っている、木下大サーカスを見に行ってきたのだが、連休が始まっての二日目だったが朝から会場付近はたくさんの人が溢れていて、特にお子さん連れのご家族の目的地のひとつとして大人気であった。

 花博とはたぶん1980年頃行われた花と緑をテーマに行われた国際的な博覧会だったと思うのだが、博覧会それ自体には一度も足を向けたこともなかったので、記念公園として整備されている大阪府の博覧会跡地へ初めて足を踏み入れたのであった。

 午後一時開演のサーカスの指定見物入場券をインターネットで予約していたので、会場付近に到着したのは第一回目の公演開始時刻に間に合っていたが、当然既に指定席券は売り切れていて、「早くサーカスが見たい」という孫の待ちきれない気持ちにはすぐに応える事が出来ないので、昼間で遊べる場所はと探し、生憎子どもたちが野外で遊べるアスレチックなどの設備があるゾーンが老朽化のため危険だとのことで現在閉鎖されていたので、やむ終えず室内で遊べそうな場所として地球環境館の様な施設に入った。

 そこは現在大阪府の指定管理者制度で大阪ガス系の会社が運営管理していたのだったが、職員のお姉さんたちの誘いで、五歳のになったばかりのR君は、新聞プールと称するコーナーで、次から次へと古新聞を適当に破って水の変わりに囲いの中に投げ入れて遊ぶ仲間に入って、一生懸命に新聞を裂いて遊び出した。

 その午前中の遊びに疲れたためもあって、昼食後のサーカスの本番が始まって15分ほどしか経っていない時間に眠たくなって私の膝で眠ってしまった。

 シマウマとキリンが出てきたところまでは見ていたのだったが、一部の後半のサーカスの出し物は残念ながら夢の中となってしまったが、今回のサーカスの目玉である「ホワイトライオン」の演技はどうにか見せてやりたかったので、約3,40分眠った後の二部の開演で起こしたのであった。

 三頭の白いライオンと4頭の普通?ライオン、あわせて7頭もの猛獣ライオンを、外人の調教師という男がムチで操りながら、各々の演技をたまには牙をむき出しに怒った顔で挑発しながら、見事にライオンたちはサーカスのメイン演技をこなしたのであった。

 十数年前に見たのかどうか定かではないのだが、うっすらと記憶にある丸い大きな頑丈な網の中で3台のオートバイが全速力で回転する妙技や、大きな穴のあいたリンクがシーソーの様に連結された大道具を駆使して二人の男が空中を回転する演技や、木下大サーカスのフィナーレを飾る、頭上二十メートルほどの高さの空中で展開される「空中ブランコ」の技と時にはコミカルな道化師たちの演技と、大観衆の歓声と溜息交じりの拍手などに一喜一憂しながら、どうにかサーカスを鑑賞することが出来たのであった。

 サーカスが終演して席を立とうと思ったら、なんと掃いていた運動靴が仮設スタンドの下に落ちてしまっていて、職員の女性に頼んで拾ってきてもらうお世話になったのだったが、ちゃんと大半を見ることが出来て良かったね。
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「お抹茶」

2012年04月02日 | ファミリーイベント
 ここ一年は、時間があれば大阪の有料老人ホームに入居している現在95歳になる実母に会いに出かけているのだが、昨年の12月中旬の母の誕生日のお祝い会を境に、母の食事の様子が一変し、なかなか自分で食事をとる事が難しくなってしまっていた。

 数年前に突然に黄疸症状が出て検査入院してみると、すい臓か胆嚢に腫瘍が出来て、胆管が機能しなくなって胆汁が出なくなったことが原因だったことが判明し、ステントと呼ばれる薄い板を内視鏡で入れて、バイパス的手術をしたことで回復し、その後は何度か自分の部屋で転倒して大腿部の骨折も経験したりして、だんだんと弱ってきた感があったのだが、食べるという生きるための大切な仕事は旺盛だった。

 しかし、昨年暮れから今年にかけての年越しはとっても不安な状態になって、年明けに再び検査という形で以前にお世話になった病院に三週間ほど入院して、新たにステントを追加する手術をしたりして、少し食欲も出てきたようで、病院からのゼリー食ではあるが、退院後の施設生活で何とか経口で食することが出来るまでには回復していた。

 しかし、ほとんど寝たきりの生活なため、いくら高齢だとしても一日に必要なカロリーと栄養を十分に賄うことが可能かどうかを心配しつつも、自分で口から食することの大切さと、三度三度の食事をきちんと摂取できるかどうかが、今後の命と健康のために大変重要なことと認識して、少しでも食べて飲んでほしいと願いつつ、医者、看護士、介護の職員さんとも相談しながら、一日、一日を大切にと願ってきた。

 二月中旬に退院してから、母はベッドでの食事を余儀なくされていたのだったが、三月の声を聞く頃から出きるだけベッドから車椅子に乗り換えて、入所されている方々と同じくロビーの食堂で食事をする様にとサポートして下さり、ゆっくりとではあるが自分で食する楽しさを取り戻しつつあったので、私が思いついたのが長年母が携わっていた「お抹茶」を飲むことの挑戦であった。

 母は私がもの心ついた頃から約五年ほど前まで、自宅を中心に「茶道」の先生として多くのお弟子さんにお茶を教えながら、京阪神を中心にお茶席やお茶事に足を運んで楽しんでいた人だったので、何とか自らの大好きな「お抹茶」を再び口にしてほしいものだと思ったのであった。

 そこで施設の倉庫に眠っていた母の部屋に置いてあった簡単なお茶の道具の中から、母が自分で造ったお茶碗と茶せんと茶杓を出していただき、私が地元のお茶屋さんで購入した「お抹茶」を持参して、母に「お抹茶」を飲んでもらいたいと準備をしたのであった。

 「お抹茶」と言えば和菓子を中心とした「甘いお菓子」がつき物なのだが、現在の母にとって和菓子や餅を食することはやはり困難だと思ったので、食べやすい抹茶プリンを持参してお茶の前に食してもらおうと考えて、こだわりの抹茶の入ったプリン購入して母に差し出すと、嬉しそうに自分でスプーンで掬って食べてくれたのであった。

 そして待望のとでも言うべき、「お抹茶」を私が、母の製作した思い出の手づくり抹茶茶碗に「一服のお抹茶」を心をこめて入れて茶せんであわ立てて差し出したところ、母は嬉しそうに両手で茶碗を抱えて「よう割れずにあったな」とつぶやいて、自分が作った茶碗であることをすぐに思いだしてくれたのであった。

 それから少しして口に茶碗を持って行き、「熱いな」と言うので、しばらく冷ましてからもう一度飲むことを薦めたところ、ごくごくと抹茶を美味しそうに飲んでくれたのであった。

 やはり体が覚えていたのだろうと思うが、ほんとうに久しぶりの「抹茶」を味わいながら嬉しそうに飲んでくれた母の姿を観て、私は安堵の気持ちと共に、母の回復を確信できたのであった。

 「抹茶」は本当に素晴らしい力と喜びを母に与えてくれて、母を生き返らしてくれました。
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「三丁目の夕日’64」

2012年01月25日 | ファミリーイベント
 ALWAYS・三丁目の夕日’64が公開されて、西岸良平がビックコックに連載し出した頃からのファンとしても、また吉岡秀隆君との個人的出会いの縁もあって、たぶん10年前に公開された最初の「三丁目の夕日」と前作も観ているものだから、やはり今回の第三弾も観られずにはおれない心境で、近くのシネコンで奥さんと共に鑑賞したのである。

 基本的にはキャスティングは変わっておらず、自動車修理の町工場である鈴木オート一家、堤真一と薬師丸ひろ子夫婦と息子に加えて、東北の田舎から集団就職でやってきた堀北真希演ずる「星野六子」と向かいに住む駄菓子屋をしながら小説家としての生活を貧しくとも突き進む「茶川竜之介」を演ずる吉岡秀隆とそこへやってきて「おじちゃん」を慕い共に住む少年「古行淳之介」が主に活躍する物語として展開するのである。

 この「茶川竜之介」と「古行淳之介」は実の親子ではないのだが、元踊り子だった小雪が演ずる「ヒロミ」と家族として暮らしていて、今回の作品では大変尊敬もしお世話になった恩義を大切にしようとする淳之介だったが、小説家としては先輩であるおじちゃんが連載を続ける少年雑誌に、自ら別のペンネームで書き続け、ついにおじちゃんの連載が淳之介の作品の人気が勝ったためにストップするという出来事に発展し、本人はおじちゃんの言う「小説家」は不安定な仕事で常に脚光を浴びる様な商売ではないから、頭がいい淳之介は「東大受験」を目指して全うな社会人になった方が良いとすすめたのにも関わらず、結局自分の親父から勘当同然に出てきた自分と同様に、彼は小説家としての道を歩むこととなるのである。

 また一方の鈴木オートに就職し、事務職ではなく整備士としての汗まみれの生活に日々を送る「星野六子」が若き医者に恋こがれてしまい周りを心配させるのだが、結局は彼の本当の医者としての姿や、無償の医療活動をしている実態などがわかり、若くして鈴木家から嫁に行くこととなり、家族と町の人々に祝福されて「美しい花嫁姿」になって、ハネムーンに出発するのだが、新婦となっても鈴木オートでまだ働けばと言われているのである。

 茶川竜之介とヒロミの間には女の赤ちゃんが誕生し、若くして評価を受けた古行淳之介は、形の上では茶川が実家を勘当同然で東京へ出て小説家を目指したと同様に、竜之介は思いっきりの演技で淳之介を家から追い出すのであったが、それは全く自分の父が勘当したと思っていた自分の如く、愛するが故の「かわいい子には旅をさせよ」という心境での演技だったのである。

 そうしたドラマとしての背景に、東京オリンピックと共に戦後の経済復興から高度成長経済へ突き進もうとしている日本の戦後の1960年代半ばの世相があって、東京タワーの完成と共に自動車、カラーテレビ、クーラーの3Cが一気に家庭に入ってくる憧れの豊かな消費時代への幕開けといった観が強いご時勢だったのである。

 東京オリンピックの開会式が行われた1964年10月10日がその後「体育の日」という祝日になり、その年のたぶん11月23日だつたと記憶しているのだが、衛星放送で直接アメリカからの生放送がされるということだったのだが、その日最初に電波に乗って伝えられたのは何と「ケネディ大統領が暗殺された」というダラスからのテレビ中継生放送だつたことは、とても強い印象に残る大事件となったのであった。

 ただ単に昔を懐かしむというのではなくて、この日本の戦後の激動期に、私も多感な中学、高校時代を送っていたのだが、あの茶川と古行が交わした葛藤とも言うべき、「やりたい小説家を目指すのか、勉強して東大に行くべきか」という大きな課題をぶつけ合って語り、結局は自分が本当にやりたいことをやれというメッセージを投げかけている作品となっているところは、現代においても反面教師的側面も含めて、大変面白い脚本となっていると感じた。

 何故に、「三丁目の夕日」が好きかと心に問えば、やはり素朴で素直な感情をむき出しにして、出会った人々との交流を送る、決して豊かで金持ちではない庶民の生活があり、その家族の一員として迎えられた、鈴木オートの「六子」と、茶川さんと共に暮らす「淳之介」に象徴される子どもたちの成長を守る大人たちの価値観が、いろんな側面に描かれていて、その価値観がとても現代では失われつつある、あの時代の良さとして強く心引かれるからなのだろう。

 また私個人としては、茶川竜之介の様な生き方や生活はできないと思うのだが、その茶川竜之介を演ずる俳優「吉岡秀隆」が、幼いたぶん6歳の頃に音楽制作の仕事を東京でやっていたので、彼を劇団若草の紹介で招聘して、みなみらんぼう作詞、作曲によるファミリーアルバム、「山口さんちのツトム君」を制作したことがあるので、それ以来、「北の国から」や「コトー診療所」なども含め、個人的に吉岡秀隆を影ながら応援してきたので、また違った意味で「我が子」の如く愛おしく感じる面があるのである。

 最後に、原作の西岸良平氏の漫画「三丁目の夕日」には、「むつこ」ではなく、「六」という青年が勤めているし、近所に「サクラ」という女の子はいて、鈴木オートの奥さんが面倒を見ることもあるのだが、登場人物としては映画の脚本として作られた部分も多くて、もともとの夕日町三丁目の懐かしい思い出の町とは、そうとう違っているが映画としての三作目ともなれば、原作以上に「六子」や「淳之介」が気になってしまっていて、果たして実現するかどうか知らぬが、やっぱりその後の「続編」が観たくなるのだろうと思ったのである。

 日本人の古き良き時代の「古の感傷」として捨て去ってしまうのではなく、時代が変っても変らぬ「大切な日本人の心」を描き続けてほしいものである。
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「一休寺」で、除夜の鐘。

2012年01月01日 | ファミリーイベント
 2011年の大晦日、我が夫婦と娘夫婦と孫二人で、恒例の一年の最後で新年最初の初仕事?にもなる「除夜の鐘」を衝きに、地元京田辺にある、室町時代の晩年の一休さんが生活されていた、「酬恩庵」こと一休寺へ出かけました。

 私がこの地、京都府田辺町に転居したのが、今から30余年前なのですが、その年の暮れ以来、出きるだけ大晦日には除夜の鐘を衝きに行くのが習慣の様になっていて、やはり地元にある名跡「一休寺」の鐘楼の鐘を衝くのが楽しみでもあり、一年の締めくくりと新年の初仕事的イベントとして続けているのです。

 昨年の暮れ、すなわち大晦日は、比較的冷たい風もなく、気温としても零度を下回ったり、雪が降るという様な気候にはならずに、温かな感じであったので、久しぶりに京田辺に住まう家族全員が揃って、除夜の鐘を衝き、その後一休寺の初詣というべきか、お参りもして、早朝の新年元旦を祝うことが出来ました。

 23時過ぎ、NHK紅白歌合戦の後半である「福山雅治」の「家族になろう」を少しだけ冒頭をテレビで観てから、自家用車で出発し、一休寺の鐘楼の前に着くと、なんと先客というべき「鐘つき」のために並ぼうとしていた人が二人だけという有様で、何とも拍子抜けした感じでしたが、携帯ラジオで紅白の続きを少し耳にしながら待つこと約30分程で、徐々に人が集まってきて、大晦日から元旦へと変る24時前には暗い境内の鐘楼への道に多くの人たち並ぶ状態となっていました。

 ちょうど1分ほど前に除夜の鐘衝きのお世話をされている方々二名が来られて、鐘楼内での試し衝きらしき音が数度鳴らされてから、参集者による二人から三人を一組とするグループの「鐘衝き」が始まりました。

 かつてなかった早さで衝く順番が来て、なんと2番目に私たち夫婦と孫の10歳になるK君と三人での鐘衝きが出来て、とてもいい音が出た感じで、世話役さんたちに新年の挨拶を簡単に済ませてから、本堂へのお参りへ足を進め、これも毎年の如く記帳している「参拝者ノート」に、新年の挨拶と祈願を記して、ご住職とお若いお坊さんが並んでお経を唱えておられる本堂で、お賽銭を入れて手を合わせました。

 一休寺と称される「酬恩庵」は、室町時代に一休禅師が建立された禅寺であり、一休さんが盲目の女性と共に晩年を過ごされたという「虎丘庵」という現在は一休さんの墓所となっている場所に近い処は、宮内庁の管轄であるので私たちが見学や気軽に入ることは許されない建物となっているのですが、その北側にある本堂と方丈と称される枯山水のお庭は、いつも参拝する方々には開放されているので、今回のライトアップされた幽玄のお庭は拝見でき、その後今年最初に口にする食品として「一休寺納豆」を一粒いただいたのであった。

 ご存知の方も多いと思われるが、この「一休寺納豆」と称する食品は、普通の納豆と称する現代のポピュラーな食品とは全く異なる製法で作られた塩分の多い保存食であり、一粒一粒の大豆が真っ黒になっている塩分とミネラルの塊の如き食品となっていて、御茶請けや酒のアテにはなるかもしれないが、普通に食するには「しょっぱい」という印象の口当たりのものなので、子どもの口には合わない代物であり、孫の少年も口にはしなかったのである。

 そこで、家族揃って、実はK君との事前の約束ごとでもあったので、新年の「初牛丼」と称して、市内の牛丼屋さんへと車を走らせて、夜中の24時半頃に、各々がオーダーしたファーストフード的「牛丼」を食べて、今年も最初の食事としていただいたのが牛丼チェーンの安価な牛丼というイベントが終了し、各々の自宅へと帰還したのであった。

 たわいない話なのだが、健康に家族全員が、皆で除夜の鐘を衝くことが出来、真夜中の牛丼を食して新年を迎えることが出来たという大晦日から元旦にかけての我が家のイベントは、無事終了したことは、今年も「ありのままの自己流」ではあるが、ささやかな幸せと健康を維持できている証拠でもあり、大変喜ばしい時間の経過となったといえよう。

 昨年の誰しもが記憶に新しく、また今も大きな爪あとと被災地や原発避難を余儀なくされている方々の非日常的現状を慮ると、本当に普通の日常、決して贅沢や特別なことではない当たり前の如き日常と時間の経過が、如何に幸せであり喜ばしいことかを、改めて痛感した大晦日から新年への、我が家の動向であったといえよう。

 さて、2012年を迎えて、多くの親戚、友人、知人たちから届いた年賀状の一枚、一枚をゆっくりと見たり読んだりしながら、大きな感謝と共に、これからの私たちの人生の行方との関わりで、また多くの人たちとの交流と励ましがあってこそではないかと思わずにはいられない心境が募ってきて、今年一年の健やかで暖かい交流と、イキイキと生きたいと思う自分の気持ちに素直に行動し、発言して行こうと改めて誓ったのである。

 皆様にとっても、新年が良き年となります様に、心から祈念しながら、今年もガリバー通信をよろしくとご挨拶する次第です。
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