ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

首相をとり戻した安倍。

2012年12月26日 | ちょっと可笑しいよ
 総選挙の自民党の圧勝で当然の如く首相に返り咲くことが決っていた安倍晋三氏が今日午後に、日本国の総理大臣、首相に選任され、何と戦後の吉田茂元首相以来の64年ぶりの再登板となったという。

 思えば3年数ヶ月前におなかが痛い?なんて言って、政権を投げ出してしまった男が、7「昔の名前で出ています」ではないだろうが、再び元気を取り戻して、何と「日本を取り戻す!むなどと言ってお山の大将に戻って来たのである。

 特効薬か何か知らないが、おなかに効く薬のおかげで元気を取り戻して、ガツツポースとでも言うべき握りこぶしを高々と上げて力強く語られても、たかが岸、佐藤と続いた山口県の政治家家業の御曹司、おぼっちゃまの空元気とでも言うべき姿にしか見えないのに、多くの国民は本当に期待しているのだろうか。

 総選挙における投票率が戦後最低の60パーセントを割り込む状況の中、自民党に投じられた得票も過半数には届かない状態で、何と6割以上の議席を獲得し、自分たちの利害にそってコバンザメの如く付きまとう公明党との連立で衆議院の2/3の勢力になってしまった自公連立内閣が今日、再び発足しスタートをきってしまったのである。

 まず自民党内の人事で女性を二人登用し、野田聖子と高市早苗という私自身はどうも好きにはなれない性格としか感じられない中堅、ベテランの域の議員を抜擢して、世間的には女性の能力を評価したかの様に見せてはいるが、自民党自身の体質が変わるはずもなく、変わったと見せているだけであって、国民の多くは何も変わらない長年の自民党体質を、その裏に見ていると思うのである。

 そして総選挙前の自民党総裁選挙で争った石破氏を幹事長に選出した安倍氏だが、あの石破茂という男の目つきというべきか、どうも人相から滲み出ている面構えと内面が、語る言葉の歯切れ良さや説得力と異なり、何とも胡散くさいことこの上ないのである。

 その自民党幹部の中で、ノー天気とでも言うべきか満面笑みのお坊ちゃま、この人も首相の座を投げ出した麻生太郎元首相が、再び副総理として入閣し、財務、金融担当大臣になったというから、さもありなん、あきれてものが言えないとはこのことではないだろうか。

 つまり、昔の名前だけでなく、昔の人たちが大御所として内閣の布陣を組んで、その中に小渕元首相の娘を再び入閣させたり、党三役に女性を2人も登用することで、新鮮さを見せようとしているだけの人事だと断言したい。

 京都の自民党の重鎮らしい元総裁の谷垣氏が法務大臣として入閣させ、伊吹氏は長老扱いで衆議院議長祭り上げているところも含め、やはり「昔の名前で出ています」だけではなくて、昔の人たちががっしりと伝統と歴史の自由民主党を引き継いで続けていくという意思を鮮明にしたスタートとなっていると思われる。

 多くの国民が決して自民党に期待したのではなくて、民主党の三年三ヶ月の政権運営に「ノー」と言うイエローカードを出しただけなのに、自民党が大勝したかたちになってしまったために、何かよからぬ下心の匂いさえする輩たちが、再び底力を発揮して、何やら困ったテーマまで持ち出して、一気につっ走らないかとさえ思うほどの危惧が大きいのである。

 「経済の再生」を掲げる「アベノミックス」とやらに期待するむきがあると見えて、株価が上昇し円安傾向も少しづつ進んではいるが、楽観していてはいけないのである。

 投資家たちや高所得者の皆さんにとっては、好機到来の兆しを感じておられる方々も多いのだろうけれど、一般庶民にとってはすぐさま生活が豊かになったり、収入が増えたり、医療、介護、年金などのさしせまった課題が改善するわけでもないのだから、冷静に見守りつつ、原発問題や公共事業など、国民の多くが注視している税金の無駄と環境破壊に繋がる政策のターニングポイントの選択の方向性を厳しくチェックしたい心境である。
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小2の女児に教わった。

2012年12月18日 | 感じたこと
 衆議院総選挙が終わり、自民党の大勝と民主党の惨敗が伝えられ、維新の会とみんなの党が躍進したという。

 大物?政治かもまさかの敗北を味わったり、現職閣僚のうち何と8人が落選するという大波乱があった。

 たとえ政党所属のベテラン政治家も、今回の様な下克上的選挙になったら、勝つか負けるか全く予想がつかなくなるものだという結果を招いたわけだが、週刊誌や新聞の総選挙事前予想なんて記事を改めてみてみると、それなりに予想が当たっているところが多くて、ビックリするほどであったが、選挙告示前に急に誕生した嘉田滋賀県知事が代表を務める「日本未来の党」では、小選挙区で当選したのは、あの小沢一郎と亀井静香という元自民党の大物だけだったいうから、さすがと言うべきか改めて驚いたのである。

 選挙とは全く関係のない話なのだが、いつもの様に移動販売の有機八百屋の営業中に、いろんな世間話や政治の話し、お孫さんの話などを聞く機会があるのだが、あるご年配の親しいおばぁちゃんがお孫さんから教わったという話には、改めて子供の思いとすばらしい教訓が秘められていると思ったのである。

 そういうほどの話題でもないのだが、彼女の娘さんのお子さん、つまりお孫さんで7歳の小学2年生の女の子が、まだ7年ちょっとしか生きていないのにも関わらず、ある時おばぁちゃんにそっと教えてくれたことがあるのだと言う。

 それは、「あのな、おばぁちゃん、お菓子やプレゼントなど出されて、「どっちがいい?」と尋ねられた時、私は本当は大きい方がほしいと思っても、いつも「大きい方をとったらアカンのやで」というのである。

 つまり、彼女は心の中では「大きいほうがいい」と思っても、他の人や相手のこともおもって、「私こっちの方がいい」と、相手に気づかれずにちょっと遠慮して「小さいほう」を選択することもむしないといけないのだと言うのである。

 それでないと、せっかくの大事な友達を失くすことにもなることがあるので、「心ではほしいな」と思っても、時には「小さい方」を選ばんとアカンねんでと、彼女は真剣におばぁチャンに教えてくれたというのであったのである。

 とてもすばらしいエピソードかも知れないが、彼女の小さな胸のうちでは、「本当は大きい方がほしい」という思いが大きいのに、とてもかわいいけれど、少し我慢して友達を失いたくないので、「小さいほうにしとく」という、とても計算高いとでも言える、大人顔負けの処世訓をすでに何かで体験し、真面目におばぁちゃんに教えてくれたのであろう。

 確かに大人になる過程で、いつか気づいたり教えられたりして知る、処世訓なのか常識的社交術むなのか、それとも友情や愛情のためのパフォーマンスなのかは定かではないが、この様な本心とはちょっと違うが、何とか世の中をうまく、しかもやさしく柔和に生きて行くための術とも言うべき選択の仕方があることを知るのだが、小学2年生なら、子供らしく「大きい方がほしい!」と言った方がかわいいし、無理したり我慢したりすることもないのではとも思うのだが、すでに大人への成長か嫌らしい駆け引きがはじまっているのかも知れない。

 総選挙の結果とは次元の全く異なる話なのだが、何故か私は今回の選挙は、大人としての選択肢が多様にある中で、どの党か誰かだけではなく、これからの日本をどの様な国にしたいかという、大きな命題に対して、必ずしも「大きい方ではなく、小さい方」ではないが、別な選択、違ったチョイスがあったのではないか感じたのであった。

 大人たちが投票もせずに、文句や批判ばかりしているだけでは何も変わらないし、それどころか気がつけば友達を失う様な寂しさや危機を迎えてしまうかもしれないと思うのだが、今回の総選挙の低投票率と保守勢力の台頭と右傾化が否めない選挙結果に、もうちょと異なった選択肢が、つまりもっとバランス感覚を考えた、大人の選択が出来たのではなかったかと思うのである。
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とんでもない結果に!!!

2012年12月16日 | 日本の課題
衆議院総選挙、投票締め切りと同時の、午後8時からのNHKをはじめ民放各社もこぞって開票?速報とやらの番組が始まり、自民党、公明党がまだ開票率0パーセントなのに、過半数を制するどころか衆議院の480の総議席数の3分の2以上を占める320議席以上を獲得するとの見通しが語られ、続々と当選確実の候補者名と各党の獲得議席数がカウントされていて、とても視聴者の一人として有権者の一人として、見てはいられないほどの気持ち、すなわち「あぁ・・・とんでもないことになる」という暗い気持ちに苛まれる感じでテレビの実況中継を見たくない圧迫感に似た心境になって、パソコンをたたくこととなった。

 勝ったとか負けたとか言う、そんな感想ではなく、日本の政治と将来のあり方を含めて、我々の世代だけでなく今まで生きてきた国民の一人として、とてもやりきれないというべき暗雲の中に乗っていた旅客機が突然つっ込んでしまったかの様な、不安と危機感を感じざるを得ない、焦燥感にも似た感情にいてもたってもいられない苛立ちか怒りがこみ上げてきたのである。

 決っして、どの党が良いとか悪いとか、誰が正しいとか間違っているとかという様な批判や文句ではなく、一応民主主義の体制だと思っている、この国日本がいよいよ民主党政権への強い風当たりと批判があったとは言え、この様な憲法を改悪しそうな勢力と思われる候補者が多い、自民党を中心とする国体派?勢力に、衆議院の過半数どころか大多数を握られてしまうなんて、まるで「大政翼賛会的」とか言われる様な状況になってしまいそうなのである。

 安倍自民党総裁が選挙後の臨時国会で首相に任命されて、まず何を語るのかが非常に怖いとも感じているのだが、選挙中を通じて報じられていた「国防軍」とか「徴兵制」や、経済再生のためには大型公共事業の復活を柱に、国債発行、日本銀行への金融緩和の介入や権力的手法による政策が目白押しになる危険性を大変危惧するものである。

 「ああ、とんでもないことだ」との実感が悪夢の如き感じで、明日の朝には「えぇ、夢だったのか?」とでも大変貌を遂げるのならいいのだが、財界と自民党を中心とする保守勢力が結託して、強引な政治権力を多数の力で推し進めることになってしまうと、これからの世の中、特に子供たち、孫たちの世代が生きる時代の日本は、とんでもないニッポンになってしまうだろうと言う心配が大きくなったのである。

 大人の責任とか、良識ある有権者とか、いろんな言い方で少しは危惧は危惧として、「そんなに日本人も馬鹿ではないはず」だと自問自答はするのだが、今回の選挙結果についてだけは、敢えて言うが「日本の政治を悪くするのは日本人が愚民化してしまつた」からだと言わざるを得ない。

 ずっと昔に聞いた言葉だが、テレビ番組の内容を中心として「国民総白痴化」と言われたのだが、再び時代は繰り返すのかどうかはしらないが、テレビマスコミと大衆的ジャーナリズムを中心として、国民をどうも白痴的人種へと大きな力で誘導していたのではないだろうかとさえ、疑いたくなる様な結果が出ているのである。

 これからの日本の舵取りへの不安と大いなる危惧を感じる記事や報道も出だしてはいるが、現実は後戻し出来ないのだから、もう一度最初からやり直したいと思ってもおそいのである。

 ご高齢の戦争体験者のお話を選挙戦前に伺ったが、悲痛な面持ちで「日清、日露」や「第二次世界大戦」へ突き進む時代の、暗雲立ち込めた事態と同様の不安かを強く感じると仰っていたのだが、まさにその危惧が真実となる可能性が強まったといっても過言ではあるまい。

 民主主義の本質は多様な意見が議論できたり理解しあつたりすることでもあるのだが、この状況で大多数の議席を背景に、大政翼賛会とでも揶揄される様な権力的国会運営がなされて行くとすれば、憲法改悪が着手されて、とても言葉では表現し難い日本の将来が「力の政治」で、「再生」という名の「復活」や「復古」がのさばる時代へと突入し続けてしまうのではないだろうかと、老婆心ながら痛切に感じている。
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何が選挙違反なの?

2012年12月13日 | ちょっと可笑しいよ
 総選挙が告示されて投票日まで、あと3日ほどとなり選挙戦も終盤を迎え、各立候補者の陣営や政党関係者たちは忙しすぎる日々を送っておられるが、今日の夕刊でも公職選挙法によるインターネットの使用をはじめとする選挙活動が禁止されている中で、スマホの普及でツイッターなども含む選挙活動に類する事案が多数存在し、候補者以外の一般市民が○○を推薦すると、公的に許されたポスター掲示や文書チラシ以外は「文書図画」の配布や掲示を禁じている法に違反する恐れがあるという。

 橋下日本維新の会代表代行は公示後もツィッターで、他党の政策批判や持論を繰り返し投稿しているらしく、公職選挙法に触れる違反行為だとの見方もあり物議を交わしているが、この公職選挙法という名の法律自体が、ともかく現代社会での選挙のあり方や方法などを規制するだけで、本当に有権者に候補者や各政党などの政策、主張、人となり等を公平かつ最大限知らせるための最大限の可能性を制約しているのだと思う。

 私は地方議員として4期16年議員をしていたが、、選挙では個別訪問の禁止、HPやブログ等の選挙期間中の更新禁止、事前ポスター掲示等厳しい制約があり、最初に立候補した際は無党派、無所属で選挙に出たので、多くの人に立候補を知っていただくために、ちょっと目立つ様なポスターを製作して、公示前に市内の住居などに掲示したのだったが、告示後に一枚はずすのを忘れただけで選挙管理委員会の指摘で、あわてて撤去した経験があった。

 その後国政選挙だけかもしれないが、事前ポスターも公示前半年前までは許されるとか、候補者単独のポスターは違反だが、誰か別な人と二人でレイアウトされたポスターはOKとか、違反ではないとの見解に変化してきたみたいで、現在の選挙戦真っ只中でも、小選挙区の地元の立候補者の単独のポスターが、公的選挙ポスター掲示板以外にも、たくさん掲示されていて、こんな状態では何が違反で何が許されるのか、まったくわからない程公職選挙法たるものはいい加減な判断に感じている。

 私が経験した数度の選挙でも細かな違反を慎重に検討して、絶対に選挙違反にならない様にと準備をしたり選挙期間を過ごそうとしていたが、実際は政党所属の候補者の選挙活動を見て、見習いつつ行動したり文書やチラシなどの文書図画も参考にすることを気にしていたのである。

 つまり、分厚い公職選挙法という法律の一字一句の解釈や理解を優先するのではなく、既成政党等の候補者と同様の行為や文書は、たぶん許されるという規範として参考にしたわけで、一般市民が全ての公職選挙法を熟読して、選挙応援や支援をするわけではないので、もっと自由な選挙応援や活動が出来る様にすべきだと痛感している。

 アメリカ大統領選挙の報道を見ていると、オバマ大統領とロムニー候補の両陣営で、支持する市民、有権者たちがお祭りの如くも自分の支持する候補者のプラカードや写真、イラスト、キャッチフレーズなど、多種多様な形での応援合戦を繰り返していて、全米各地で本当に自由闊達な議論と選挙戦が繰り広げられたと感じた。

 総選挙だというのに、インターネットの使用禁止などという公職選挙法の制限は、時代遅れとでも言うべきで、高齢を迎えた老人政治家たちが、パソコンやスマホ、タブレットなどの端末機器を使いこなせないだけで、多くの国民が気軽に知る権利と共に、大切な選挙に興味を感じて参加する機会を阻んでいると言っても過言ではない。

 選挙をもっと楽しいお祭りに近いものとして、若い世代の投票を含めた政治参加を促進するため、主義主張の違いはあっても、立候補している政治家志望の方々、従来の議員像からの脱却をはかり大いにブログやツイッター等で政策や意見を投稿して、ほぼ全員がそうした活動をしたら、自ずから公職選挙法を変えたり、解釈を改めたりするしかない方向に行くだろう。

 買収や投票代行や不正行為などを除いては、お金のかからない誰でも選挙が出来る様にしないと、この国は地方も含めて立法府を担う議員を市民、有権者が選ぶ本当の民主主義的選挙にはならないし、誰もが選挙権と被選挙権があるとも言えないのではないだろうか。
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誰に入れたらいいのか。

2012年12月09日 | テレビマスコミ
 衆議院総選挙が告示されて、最初の日曜日だったが私の住む京都南部の町では、選挙サンデーといったムードはほとんどなく、具体的な候補者の顔と名前だけは市内のポスター掲示板に貼られているし、新聞各紙や週刊誌、テレビでも報道されているので知ってはいる。

 しかし、昨日と一昨日に私がいつもの移動八百屋でお客さんのところを訪問しただけでも、3人の方から今回は誰に投票したらいいのか全くわからないと言う声を聞いて、私なりに消去法しかないですねと答えたのであった。

 というのも、今回の総選挙の政策的テーマとして、いくつかの問題が掲げられていて、各党の違いをわかりやすく表にしたり、チャートや座標軸を中心とする賛成、反対の位置などで示してくれていたりするのだが、その政党に所属する候補者であつても、その個人としての考え方や国会議員としての資質や人間性など、立候補者自身の情報や生身の思いを聞いたり知る機会が非常に少ないので、果たして投票には行くが誰に投票すべきか迷っている人が多い様である。

 そんな選挙戦も半ばの時期なのだが、公示後すぐの新聞各紙の事前調査や取材による情勢分析とやらでは、自民党が過半数の議席を獲得して政権の奪還を果たしそうだとの記事が踊っていたりして、「ええ、はじまったばかりやのに?!」と驚いたりしたものである。

 ある奥さんの言葉では、原発はない方がええけど、電気が止まるのは困るし、年金はちゃんと貰いたいけど消費税が上がるのは嫌だとか、いろいろと思いを語られているのを聞くと、つまり「どの党に入れれば、私たちは得なの?」と尋ねておられる様にしかきこえなかったのであった。

 何が言いたいのかと言えば、結局選挙民である私たち国民一人ひとりが、自分にとって「どっちが得か損か?」という価値判断で、選挙における大切な一票を投じている限り、この国はいつまで経っても形式的には民意を反映する「民主主義」的方法論を採用はしてはいるが、将来の日本という国を、世界に誇れる住みやすく心豊かに暮らせる国には出来ないのではないだろうかと、どうしても思うのである。

 日常生活で、毎日の様に新聞折込や歩スティングで、たくさんのスーパーやショッピングモールなどの「チラシ」が入り、世の奥様たちだけではないと思うが、「あっちの店が安い」とか「こっちの店のサービスの方がいい」と言った感じで、その日の買い物をしたり、消費支出を決める感じで、一票を投じているとすると、目先の利益や得を優先しているのではないだろうか。

 誰が正しくて、誰が間違っているとは言えないのだが、それぞれの候補者も12もある政党も、それぞれ私は国民のために一生懸命やるとか、我が党は日本を復活させるとか好き勝手、言ったり書いたりしてはいるが、果たしてそんな絵空事の様なスローガンや口先だけの「やります!」に、どれだけ私たちは騙されたりしてきたのではないだろうか。

 「人の為」という文字は人ベンに為というツクリを書いて、何と「偽」と読むではないか、ほとんどの候補者が「人の為」「国のため」と言ってはいるが、たぶん「自分のため」に、すなわち自分の就職活動の様な「選挙活動」7をしていると言っても過言ではないと思うのである。

 私たちは、そんな限られた候補者の中から、自分に「得か損」ではない、本当に少しでも信頼できる可能性のあると思える「人」に、消去法でもいいから、貴重な大切な一票を投じたいと思うのである。
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「風がつめとうおすな」

2012年12月06日 | 季節の話題
 今朝、京都の朝は昨晩からの雨と風は弱まったものの、気温はさほど上がらず冷たい風が時折吹いていて、12月に入って一番寒さを感じる感じであった。

 いつものお客さんのお宅にお弁当を届けたのだが、そこのご年配の奥さん、ご主人が御年のせいもあって現在入院中なのだが、「今日は冷たい風が外は吹いていますよ」声をとかけると、「風、つめとうおすな」との返答。

 京都市内のお生まれと聞いていたので、さすがと言おうか、とても綺麗で清楚な感じの「京ことば」が返ってきたので、外気はとても寒いのだが、とても暖かな気持ちに包まれたのであった。

 その奥さんは、以前にお聞きしたところによると、ご結婚されるまでは京都市内、しかも西陣界隈に生まれて育たれたとのことだたので、彼女にとっては自然に日常的に話されている言葉が、私如きにはとても素敵な京言葉の見本の様に聞こえただけなのだろうが、いまどきなかなか「京ことば」を日常的に耳にする機会があまりないので、嬉しく感じたのであった。

 そう言えば、移動有機八百屋をやっている関係もあって、所謂「京野菜」と称されるものには馴染みが特にあり、この秋から冬にかけての季節では、「九条ねぎ」「万願寺とうがらし」「京みずな」「聖護院大根」などたくさんの京都特産の野菜を取り扱ったりしているのだが、どうも東京を中心とする関東圏の都会人たちが興味をもっておられる消費者が多い様で、地元で採れるものを地元に近いところで食すという、地産地消からすると、何だかおかしなブームの様な状況にもなっている。

 確かに、現代ではこの季節に限らず、春は桜、秋は紅葉、冬は雪化粧などと、京都は全国各地からの観光客で賑わっていて、関東圏に行くと、いつも「京都に行こう!」的なキャンペーンをやっている感があり、旅行業者も鉄道会社も、ともかく「京都」が金を稼いでくれるキーワードのひとつになっいる感が強いのである。

 そんな最今の状況なのだが、果たしてその地域に住む、つまり京都に住まう人々の生活、暮らしと密着した生活の質や自然と共生する暮らしの一端に感じている価値観や大切にしている気持ちなどとはかけ離れたところで、とにかく「京都はええな」となっているとも思えるのである。

 話は戻るが、「京ことば」にもいろいろとあるが、もうひとつ「はんなり」と言う言葉が最近特に有名になっている様だが、とても京都らしいと思える感情とでも言うべき「おしとやかな」言葉だと思うのだが、どうも合点が行かないのが、プロバスケットボールの京都チームの名が、「京都ハンナリーズ」いうのだが、どうもスポーツの激しさや躍動感あふれるガツツなプレイとはかけ離れた「はんなり」という言葉は似合わないと思っていて、いくら元気とかいう意味があるとしても、やはり京都のおしとやかな言葉では、プロスポーツの激闘には不向きだと考えるのである。

 明日の朝は、ここ京田辺もマイナス3度のこの冬一番の寒さを迎えるというのだが、明日も「つめとおすな」とおばあちゃんは言うのだろうか。
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