ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

代表質問・心の教育!

2005年02月28日 | ちょっと可笑しいよ

 民主主義の学校とも呼ばれる「議会」での質問機会は、いろんなルールや時間制限などもあり、なかなか闊達な意見交換が困難なこと自体が問題なのだが、そんな中でも充分時間を生かして質疑を積極的にしない会派や党もあり、市民のための議員なのに如何なものかと思ってしまう。

 今日は、先日の市長の来年度の施政方針演説に対する、代表質問の日であり、私は少数会派の代表として、最後の持ち時間30分をフルに使って、6つのテーマに沿った質問を、6日前に前に通告して質問したのである。

 通告した大きな6つのテーマは、施政方針の六つのテーマに準拠して、各テーマ別に4つの具体的課題と施策の内容にも言及して、質問、提案をしたのである。

 ①地域福祉の推進と自立支援策
 ②心育む教育と文化、体育施策
 ③安全、安心のまち整備の充実
 ④暮らしやすい住環境の創造
 ⑤農,食を大切にしたまちづくり
 ⑥行財政改革と市民参画施策の推進
                 
 市長の最初の答弁は、数多くの質問事項に対して、いつも通りの各課、各部のあっけない作文の朗読的回答で替わり映えしなかったばかりか、熱意や意欲を感じられない答弁でしかなかった。
 
 しかし、二つ目の教育問題に対する教育長の答弁は、私の質問の前文にも言及された、誠実な教育現場の経験のあるお人柄をも偲ばせる、教育への熱意と配慮ある答弁だったと思うのである。

 私の「教育改革の度重なる変動が、教師に児童、生徒と向き合う時間を減少させている。心の教育は、まず人間的関係を豊かにすることから始まるのではないか」との問いかけに、教育長は時間をかけて丁寧に「ものの価値や人の大切さを教えなければならない時代になった。家庭での一家団欒や父親が叱ることなども大切」との私的見解をとくとくと述べられたのである。

 私は、このような教育長の「教育に対する思いと熱い感情」をほとんど聴いたことがなかったので、どういう風の吹き回しかと、少し驚きながら、現場の教師出身の教育長の想いをじっくりと受け止めることが出来て、嬉しく思えたのである。

 しかし教育基本法の改悪問題について、私が2回目の質問で、具体的に第3条の「すべての国民はひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」から「すべての国民はひとしく」が削除されることを伝え、感想や意見を求めたにも関わらず、まともな回答がされなかった。

 また第十条の「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って行われるべき」の「不当な支配に服することなく」が削除されることになると付け加えて、この2点を具体的に指摘したにも関わらず、「とっても大切だと思っている」との危機感の全くない答弁がなされて、がっかりした。
 
 すなわち「憲法改悪」への前段階として「お国のために死ねる愛国心を持った子どもを育てるのが国家教育」だとする「教育基本法」改悪の法改正をもくろむ、小泉内閣と文部科学省ならびに中央教育審議会などの方向性に対して、地方自治体の教育委員会が、しっかりとした自立の教育理念で、心の教育の推進を目指せるかの問題提起だったのだが、所詮地方自治体の教育長には荷が重いのか、全く的外れの「大切論」しか返答されなかったことは「残念!」であった。

 つまり「心の教育」の原点は「人間関の豊かさから」と指摘したにもかかわらず、教育長は「心の教育」についての自分の「大切論」をじっくり語ったにすぎなく、「大切」の中身である、教育基本法の精神と、しっかりした条文の理解や、その条文が意図的に削除されたり言い換えられたりすることで、日本の教育の方向性がゆがめられて行くことに、気づいてはおられない様であった。

 私達が問題と思っているのは、この感性、すなわち「気づきのなさ」であり、長いこと行政の中での仕事に従事していると、この様な「気づきを知らず知らずのうちに忘れてしまう」ことなのである。

 教育長及び市長に、この「気づき」を取り戻してもらうための「心の教育」が今まさに必要だと、私は強く感じている。

 誰が教育長、市長に「気づき」の鈴をつけることが出来るかが大問題であり、大切なのだ。



 
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無人島の馬毛島!

2005年02月27日 | ガリバー旅行記
 今から何年前だったか、80年代の半ばに鹿児島県種子島西之表市の対岸にある「馬毛島」をお借りして、子ども達の「無人島冒険学校」を7泊8日で開催したことがあった。

 私が子どもたちの遊び場活動団体のスタッフとして、それまでの沖縄での無人島冒険学校とは違ったロケーションの下で、企画開催しようと思い、きっかけは忘れてしまったのだけれど、種子島の沖合いに浮かぶ馬毛島を知って実施したのである。

 かつては、跳び魚漁で賑わった馬毛島は、島民500人を数えたが、時代の変遷により漁が下火になったり船の高速安全化で、不便な島暮らしの必然性がなくなって人が去って無人島となったそうで、私達が使わせていただいた当時には、まだ小中学校校舎や住居跡も少しは残っていたのである。
来たのであった。

 その当時、この島は原発の廃棄物の処分地や自衛隊などの軍事的基地や施設の設置候補地になっていたりと、日本社会の多様な利害と機能の受け皿にもなる可能性もあったことは、多くの国民が知るよしも無いのだが、私達はそんなことは露知らず、この島の自然と海を満喫した1週間を少し興奮気味でおくったことを今でも昨日の如く覚えている。

 馬毛島には、馬毛鹿と呼ばれるシカがたくさんいて、人間達が去ってしまった島の主のごとく、何とか生活していた様であるが、気象異常等による自然の餌の不作などの影響かどうか不明だが、対岸の種子島に向かって大海を泳ぎ渡ったシカがいた話を伺ったこともあり、犬のマリリンの様に恋人を訪ねて海を渡る鹿かも知れないと思って感動した記憶もあった。しかし海岸線には鹿のシャレコウベが落ちていることもあり、過酷な自然界で生きる厳しさや鹿の一生やファミリーを想像することもあった。

 また真夏の満月の夜に海がめが産卵にやって来ていて、多くの子ども達と、その一部始終を見ながら、砂浜から海に返って行く、たくさんの小亀たちに、声援を送りながら涙していた子もいたことを思い出すのである。

 よくよく考えて見れば、私たち町に暮らしている子どもや大人たちにとって、夏休みの貴重な自然体験となった「無人島冒険」であったが、100名近い人間が、無人島であった「馬毛島」に上陸して1週間生活したとしても、全く「有人島」化した自然体験プログラムと変化していたわけで、子どもたちにとっては、水や食糧や医者も備えられた「無人島冒険」であったのである。

 余談だが、その後もう一度「馬毛島」を私達の「無人島冒険学校」で使用したいと願って、申し出た時があったのだが、何と馬毛島のトノサマバッタが異常繁殖して、小さな島のイネ科等の植物餌の草を全て食べ尽くしてしまって殿様バッタは、突然変異的に肥大化して、飛べる羽根機能を携えて、種子島まで餌を求めて飛来するに至った現象が生じて、開催には適さないと諦めた経緯もあった。

 種子島は、昔の鉄砲伝来の地として有名だが、現在はやっと成功した、日本の多機能衛生を打ち上げるH2型ロケットの発射基地もあり、とっても自然も人も温暖な島なのだが、その向い側に「馬毛島」と呼ばれる小さくても多様な歴史といわく付きの島が存在していることを知る人は少ないのではないだろうか。

 
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オープン戦開幕!

2005年02月26日 | プロスポーツ

 いよいよ球春の開幕である。自主トレで体づくりから始めていた各球団のプロ野球選手たちは、2月1日からの公式キャンプで約3週間、厳しい練習メニューをこなして、いよいよセパ両リーグの12チームによるオープン戦が今日から始まった。

 あいにくの雨模様で全てのゲームが出来たわけではないが、目新しい赤いユニフォームに身を包んだ、新生「楽天ゴールデンイーグルス」が紅白戦ではなく正式にプロ野球チームとしての初ゲームを、天下の巨人、読売ジャイアンツと戦って4-3で初勝利を上げたのである。

 田尾監督率いる「楽天イーグルス」が今年のプロ野球に大きな刺激を与えてくれなくっちゃ、昨年の近鉄球団のオリックスとの合併問題に端を発した、プロ野球の大騒ぎの結論と今後の改革やファンあってのプロ野球の将来が見えてこないのである。

 プロ野球が今年70周年を迎え、初めてセパ両リーグのチームの交流試合が6月にホーム&アウェーで行われるので、今までオープン戦や日本シリーズなどでしか見れなかったセパのチームの違った対戦試合が見れるのである。

 また、巨人軍の大ボスであったナべツネこと渡邊氏やパリーグのボス的存在であった西武の堤オーナーが球界の表舞台からは退いて、プロ野球機構や選手会と各球団にとっても、変革へのいいチャンスが到来したと感じられ、「楽天」三木谷オーナーのチャレンジや発想に負けじと、多種多様な変化が生まれてくることを期待している。

 東北、仙台にフランチャイズを置く球団としては、かつて準フランチャイズを仙台に置いたことのある、ロッテオリオンズ以来なのだが、全く「楽天」の場合は新球団としての勢いといろんなアイデアや嗜好をこらした球場の改築が、いずれ華々しく4月にはお披露目されることだと思って楽しみにしている。

 それにしても、ワンマンぶりにおいては甲乙つけ難い球界の重鎮であった、渡邊、堤両氏と、いまだ病気療養中のミスターこと長島茂雄氏が不在のプロ野球は、幸いなことに大きく変ることの出来るグットタイミングな70周年を迎えることになるだろう。

 いいにつけ悪しきにつけ、この3氏がここ30年のプロ野球を演出してきたことに間違いはなく、やっと2005年21世紀の5年目に、日本のプロ野球も選手達とファンが一緒に考えて、愉しく素晴らしい「野球」を魅せるエンターテイメントスポーツとして、新たに華々しく出発をすることがの待ち遠しい思いである。

 多くのプロ野球ファンが昨年の後半は少し嫌気がさしたような感じで、日本のプロ野球史上初の2日間のストライキの頃は、ほんとファンの多くは冷めていて、どうにでもなれや、と言った心境に近かったと記憶している。

 子どものケンカではないのだが、どうもテレビや新聞で報じられていた、プロ野球をめぐるゴダゴタにファンはすっかり一時は諦めの境地だったと思うが、古田選手会会長や元近鉄の磯部副会長などの粘り強い努力とファンの後押しで、やっとこさパリーグ6球団の存続が決まり、楽天の参入で従来通りの12球団での日本のプロ野球が存続できることになったことは大変喜ばしいことだった。

 それから半年近く経ったが、ようやく「楽天イーグルス」の田尾監督とチームの全容が見え出して、今日三木谷オーナーも観戦する中で天下の巨人を倒して、プロ野球チームとして無事スタートできたことを、ファンの一人としてお喜び申し上げる心境である。

 さて、我が愛すべき阪神タイガースは新生オリックスバッファローズに何と3-11で大敗し、今期のオープン戦をスタートした様子である。

 毎年、阪神はオープン戦の調子がよくて公式戦が開幕すると調子を落として負けが込む、そんなパターンの記憶もあるので、今年は逆にオープン戦での負けスタートは縁起がいいかもしれないと、まさに負け惜しみの阪神ファン心理が、今年もボチボチ球春と共に、もたげて来たと言ってもいいだろう。

 楽しみの2005年、プロ野球の公式戦の開幕まで、あと約1ヶ月。日に日に温かくなる春の近づく気候と共に、桜咲く頃の本当の改革と生まれ変わったプロ野球の70年目の再スタートに期待したい。
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不思議な黒猫、キータン!

2005年02月25日 | 感じたこと
 小学生時代の学校からの帰り道、池の土手のダンボールから何やら優しい泣き声がして、必ず立ち寄って中を覗くと、まだ目の見えない生まれたての子猫が数匹、ミャァミャァと上を見上げて助けを求めている様に思えるのだった。

 そこで自分の方を一生懸命見てすがる様に泣いている、かわいい子猫を一匹抱いて家に帰ってみると、既に母が買い物の帰りに同じ箱を見つけて、別の一匹の子猫を連れて帰っており、どうしようかと相談の上、父が2匹飼うことは許さないだろうからと、母が先に連れてきた猫を、も一度池の辺の団ボール箱に返しに行って、僕のお気に入りの方を飼うことになるのであった。

 そのうち、いつの頃からか雑種ではあるが小柄な黒猫を代々飼うことが続く様になっていた。

 「黒猫」は、今ではクロネコヤマトの宅急便のお馴染みのシンボルとなっているが、まだまだ不吉な様に言われることが多かった時代に、目がとってもキュートで精悍な眼差しの猫らしさに、私自身も愛情を感じて可愛がっていたのである。

 中学生の頃の夏の昼時、学校から帰って汗を流して自分のベッドにパンツ一丁で横たわって、漫画か本を読んでいた時である。その当時、我が家のクロネコは伝統的に「キータン」と呼ばれており、悪いことをすると「ゴン!」と名を変えて叱られるという、ご都合的な名前であった。

 その「キータン」が私のおなかの上に乗ってきて、ちょうどヘソの上あたりに、キータンが乗って丸く座ると夏場とは言え、温かく感じて気持ちがいいので、そのまま本を読んでいたのである。

 すると暫くして、キータンがしゃっくりの様な感じで動き出したので、猫でも夏風邪をひいたんだろうかと思っていたが、そのうち微妙に動きが病的になり、その後お尻から黒い包みのようなものが出てきたからビックリであった。中学生になったばかりの男の子には何が起きたのか全くわからない!

 大きな声で階下の母を呼んだのである。「キータンが何かお尻から出したでぇー」と。私はてっきり内臓が何かの拍子に出てきたのかとしか思わなかったのだが、実は母によれば「猫のお産」だったのである。

 どうも「仮死産」だった様で、ほって置くと動物は袋を破って見た後、食べてしまうそうなので、母がきれいに片付けて私の腹の上から、キータンとその出産劇の物体はなくなってしまったのである。

 私は何とも奇妙な体験をしたみたいだった。普通は猫は自分の出産は飼い主にも見せず、縁の下や屋根裏で静かに済ませ、子猫の泣き声で初めて出産を飼い主や周りは知るに至るのだが、全く不意に私の場合は、私のおなかの上での猫の出産という、稀に見る出来事に遭遇したのである。

 またその後も「黒猫キータン」は私には奇妙で、印象に残る歴代を送った様である。

 高校生の時に、私が淡路島の夏の合宿で沖に出て泳いでいる時に、不覚にも溺れてひとつ間違えば、この世に生がなかったかもしれないと言う体験をして帰宅してみると、わが家の「黒猫キータン」が僕の替わりに?亡くなっており、僕の命の身代わりになってくれたのではないかと今でも思っている。

 年月はひとつひとつ定かには忘れてしまったが、歴代の黒猫キータンは本当に奇妙な偶然と言うか、不思議な出来事と共に多くが記憶されているのだ。

 ある年の夏だったと思うが、わが家の黒猫キータンが私達の不行き届きだったのだが、ハエや害虫退治のための有毒の小さな皿を間違ってなめてしまって、非業の死を遂げた時があった。私達家族はキータンの死を悼み、申し訳なく思っていた矢先に、何と本当に亡くなった黒猫キータンそっくりの可愛い黒猫が、わが家と隣の垣根の中に姿を現して、こちらを覗いていたので餌でおびき寄せて、キータン3世として続けて飼ったこともある。

 この黒猫キータンの愛称は、実はその昔ラジオの連続ドラマで「パパ行ってらっしゃい!」という、中村メイコさんが一人5役ぐらい演ずる物語の主人公で、元気で明るい女の子の名前からであり、悪いことした時の別名「ゴン」も、このドラマの近所のやんちゃ坊主の男の子の名前であった。

 少年時代から青年時代の私の忘れることの出来ない「黒猫キータン」の思い出は、今思い起こしても不思議な猫の連鎖とでも言うべき現象と共に、その当時の飼い主の私の人生に深く関わっていたことを思う時、たとえ猫と言えども、飼い主との関わりは「事実は小説より奇なり」としか言いようのない「縁」で結ばれていたような気がしてならないのである。

 だから僕の犬、猫飼育経験から言うと、猫、犬とてペットであろうとも、愛情と共に真剣かつ真面目に面倒を見ないと、飼い主の人生に影を落としたり、大きく絡んでくるなどの経験をすることにもなるかもしれないのだ。

 愛すべきペットは中途半端な気持ちや人間の勝手で飼うのではなく、出会いがあって飼う限りは、最後まで犬、猫の面倒をしっかりと見なくては、どこかで化けたり、あなたの人生に大きく関わってこと間違いないと思うのは、私の経験から自信を持って言えるのである。

 愛すべき不思議な、歴代の黒猫キータン、今は何処に?

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優しい時間

2005年02月24日 | テレビマスコミ
 フジテレビが木曜夜10時から放送中のドラマ「優しい時間」を今夜も含めて4回程見ている。

 しかし、今夜の7話目は放映するフジテレビが大々的にニュースになった騒がしい夜の放送だったために、どうも「優しい時間」というタイトルのドラマが、よそよそしい喧騒の中の作り事であるという感じがして、視聴者として強いギャップを感じる中でのオンエアとなったようである。

 ライブドアとニッポン放送とフジテレビの株取引抗争で、ホリエモンと称されるライブドアの堀江社長と天下のフジサンケイグループの会社ぐるみの企業戦争がついに、法廷にまで上って今夜のニュースのトップとして放送された日にぶつかっていたからである。

 つまり、フジテレビがライブドアのニッポン放送株の40パーセント取得での経営への関与を快く思わず、ライブドア資本を相手にしたくないための奇策として、ニッポン放送に新規増資株を大量に用意させて、その全てをフジテレビが買い取り、実質的に親会社になることにしたのである。

 この奇襲と言うか奇策に対して、ライブドア側は提訴して、この行為の差し止めを裁判所に請求したことで、ライブドア社とフジ、サンケイグループの全面的企業戦争となってしまったのである。

 「優しい時間」という倉本聡氏の描く北海道富良野を中心としたドラマは、前の「北の国から」に次ぐ注目のドラマであり、寺尾聡演ずる涌井勇吉と、妻を演ずる大竹しのぶを自動車事故で死なせた、息子拓郎を演ずる二宮和也をめぐるドラマであり、平原綾香の「明日」という主題歌のマッチングと共に倉本ドラマとして、今回も好評を博しているのである。

 私も、この「優しい時間」というタイトルと平原綾香の主題歌にはまっているひとりだと思うが、どうもドラマの展開や内容は、「優しい時間」を感じるというよりも、現代社会の小さくても、個人、社会にとっては大きな課題と人間の憎悪の両面を描く「心騒ぐ時間」でもある用でる。

 私にとっての「優しい時間」は、このドラマを家族みんなが一つの居間で、全員そろって家族的「団欒」の中で見れている時間そのものであり、テレビの中で展開されている創作され、脚色されたドラマそのものではないことが、明確なのである。

 子どもの頃から、私は何故か「優しい風」というフレーズが大好きで、今も時折「優しい風」を求めたい時に気づくのである。自分にとって大げさに言えば、一番心が落ち着き、和む時間こそが、自分の心身に「優しい時間」であり、フジサンケイグループとライブドアとの株取得をめぐる企業抗争は、決して「優しい時間」なのではなく、人間の利害や憎悪と言う一面だけが強調された「心騒ぐ風」を浮き彫りにしているのである。

 ぜひ「優しい風」を感じられる、本当の「優しい時間」を両企業のトップや関係者もお持ちになって、心の騒ぎを癒して、私利私欲や企業利害だけにとらわれない、心の平安と人間的歩み寄りの解決策を見出していただきたいと心から願っている。

 世界に、日本に、本当の「優しい時間」が訪れますようにと祈る気持ちでいっぱいである。

 
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ある市長の挑戦!

2005年02月23日 | ちょっと可笑しいよ


 現在、政府の進める地方分権、三位一体改革などの嵐の中で、多くの中小自治体の合併が〔平成の大合併]と称して進められており、全国の市町村自治体の数も3000余から2000近くに減少しつつある中で、小さな市町村でも市民参画による、独自の市民自治をめざす自治体がいくつかあり、ユニークかつ斬新な改革と実践を行っている。 

 埼玉県志木市の穂坂邦夫市長の「国が変えないなら地方が変える」とする、真の地方自治を目指しての市独自の挑戦も、多くの注目を集めているひとつである。

 私は、昨年8月に他の自治体議員たちとの交流研修合宿として、志木市の挑戦のリーダーである、穂坂市長の話をじっくり聴く機会を得たのである。

 彼の市長としての改革、提案は数多くあり、市長の役割をシティマネージャーと位置付けて、市民はオーナーであると同時に行政サービスの受け手でもあると既定して、市民主役のまちづくりを多種多様に展開されているのである。

 その中のお話で、私が一番印象に残り、また感心したことが3つほどある。それは直接,市政の政策とは関係ないと思われるが、彼の人間的素直なと言うか実直な発言の内容であったのである。

 まず、彼は35年間県職員、市議会議員、県議会議員、議長を歴任したけれど、市民や県民のために役立てたと自信もって言えるようなことはしていないと、少し謙遜と言うか自嘲気味に話された後、「35年間の罪滅ぼし」に、市長に選任された4年間は精一杯市民に喜ばれ、役に立つ仕事をしたいとおっしゃったのである。

 また、私は年間1億円以上の収入が既にあるので、市長職は金儲けや生活のために働くのではなく、たとえ報酬はなくても、市民に必要で私に出来ることなら、時間の許す限り何でも精一杯のお役に立ちたいともおっしゃったのである。

 最後に、彼は1期の市長を務めあげれば続投はせずに引退して、大好きな南の島に既に土地を買ってあるので、奥さんと共に移り住んで、そこで暮らすのだとも付け加えられたのである。

 つまり市長職という地方自治体の権力の頂点にたちながら、私利私欲ではなく一期4年の短期勝負で出来る限りの改革、挑戦を市民と共に全力投球して、そのあとは「発つ鳥後を濁さず」とでも言うのか、あっさり引退して後腐れなく、別天地に生活拠点は移して、従来の人間関係やネットワークに物言わせて、政治的影響力や権力、支配性を発揮するなどには全く関心がないのである。

 全国には多くの改革、変革を掲げた知事、市町村長が誕生しているけれど、この志木市の穂坂市長のように、一期だけ、それまでの罪滅ぼしと称して改革提案と実践的施策の遂行を市民のコンセンサスを得て、やり通すタイプの首長は、他にはいないのではないかと私は思っている。

 彼の具体的な改革や、提案し現在実施されている政策、条例には下記のようなものがあるので、参考までに列記したいと思う。
 
 市民主役を実現するための「市政運営基本条例」
 市民との対話を徹底する「情報公開と地域集会」
 市民主権の制度の実現「公共事業市民選択権保有制度」
 市民の関心深い食品の安全の担保〔食品表示ウォッチャー条例」
 さらに強い規制を模索「自然再生条例」
 学ぶ機会の保障「ホームスタディー制度」
 実情に合った学級編成「25人程度学級」
 市職員の削減と市民による行政パートナー制度

 など、など多種多様な発想での新しい改革、先進的施策が行われているのである。

 こんな市長を選んだ市民も偉いが、謙虚に権力の行使ではなく市民と共に市民の知恵と賛同を得て、エネルギッシュに次々と、改革提案を市民が見つめる俎板の鯉のように情報公開した上で、提案をすぐさま実行していく、市長としてのリーダーシップ、すなわちシティーマネージャーとしての才覚に共感のエールを贈ると共に、穂坂志木市長に続く、地方自治体の新しい発想の市長が誕生することを願わずにはいられないのである。

 

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簡易裁判原告初体験

2005年02月22日 | 感じたこと

 今日、生まれて初めて簡易裁判所での小額訴訟の原告としての体験をしました。

 何と今から1年ちょっと前の、小さな交通事故がその原因でしたが、小さな交差点での接触事故で、お互いの言い分が対立したまま、自動車保険の過失割合も定まらず約1年が過ぎてしまったため、保険会社のすすめもあって、簡易裁判所に昨年暮れに私が原告(申立て人)として、訴状を提出したのです。

 簡易裁判と言っても、裁判という言葉に多くの経験のない人は、裁判までしなくても、お互い話し合って適当に和解できれば、示談と言う形で解決できるのに、何故裁判なの?と思われるかもしれない。

 しかし双方の基本的な事故が起きた認識の事実や過失責任に対して、全く相反する見解が出て、双方の主張が真っ向から対立した時は、止むを得ず第三者による客観的裁定というか、判断をしていただく以外に、すっきりした解決にはならないと判断したからである。

 しかし金額の問題ではなく、お互いの主張にかけ離れた事実と反する、または事実誤認や判断ミスなど、各々が気づかない問題や落ち度がある場合もあるので、何が正しくて、何が原因で、この小さな接触事故が起きたのかが、出来れば明確になってほしいとの願いからの提訴であった。

 全く初めての経験だったが、テレビや映画などで見る、裁判所のシーンなどとは全く異なる、普通の少し広い感じの会議室の半分の場所に円卓が置かれていて、そこに原告、被告双方の本人と弁護士などが向かい合う形で座り、中央に裁判官、そして横に書記官や今回の場合は有識者と思われる交通事故関連の調停などの経験者が座っておられた。

 まず裁判官が簡易裁判所による小額訴訟について説明された後、訴状と事故発生見取り図をもとに、原告側の訴えを聞かれ、その後被告側の主張や反論?を聞かれる順序で、審理は続いた。
 原告の訴状に対して、被告は弁護士を立てて、答弁書を事前に裁判所に提出しており、原告側にもその言い分というか、主張は文書で届けられていた。

 1時間近く双方の主張と状況説明を聞かれたあと、裁判官がお互いでの話し合いでの解決を当事者の確認の上で進められ、一端退室した後、各々の話し合いに対する歩み寄りの交渉や条件を裁判官か調停経験のある有識者に話し、再度各々の妥協点を裁判官が確認した上で,解決案が示されるのであった。

 和解案というか、解決案に納得がいかない場合は、裁判官が「判決」を言い渡すことも当然あるわけだが、今回は止むを得ず「判決」まで求めず妥協案というか、調停案で決着をみることになったのである。

 双方が自分達の主張を100パーセント曲げずに戦えば、数時間とは言え論争の上での判決の言い渡しに至るのだが、多くの場合は、こうした話し合いによる妥協点というか、お互いの主張を少しづつ遠慮して、
解決へと歩み寄ることになるらしいのである。

 結論、結果がでて、事務手続き上の確認事項がなされて、被告側の修理代金などの過失責任による按分の金額が計算されて、相殺による差額金の支払いが要請され、この場での裁定は終わったのである。

 最近は、こうした交通事故による過失割合の係争だけでなく、IT時代のネットセールス等のトラブルの急増で、簡易裁判所の小額訴訟制度は件数も増加して、なかなか訴訟しても裁判所の日程的スケジュールが間に合わず2、3ヶ月先になるケースも多いと聞いた。

 でも日本ではまだまだ、たとえ小さな事件でも金銭的負担や事実認識の主張の権利が充分保障されないままに、たとえ嘘であっても言い通した方が圧倒して、真実、事実を主張していても負けてしまう場合も多々ある様な気がしてならないのである。

 アメリカは既に100年もの、この小額訴訟「Small claims court」の歴史があり、テレビでもよくこの光景が見られるほど一般化しているそうですが、日本では平成10年一月からの制度のスタートで、まだまだ日が浅く、定着していない感がありました。

 裁判所の書記官によれば、小額訴訟のニーズは当初予想していたよりも、はるかに多くのトラブル、もめごとが簡易裁判所に持ち込まれており、今後一層、「小額訴訟」は庶民の、金銭に纏わるあらゆるトラブル、係争事件において、第三者調停機関として、便利かつ平易に提訴したり、問題解決手段として利用されるツールとなること間違いないと実感した次第です。

 私は初めて、簡易裁判所とは言え、原告としての裁判の当事者として裁判官に誠意を持って訴え、被告側の意見、主張も聞き、裁判官や調停係りの有識者と思われる方の客観的判断にも耳を傾けて、一定の裁定を決定できたことに満足し、またこの機会に身近な小額訴訟という裁判を経験し学べたことと感謝しています。

 でも、本当は提訴したり、係争する必要が生じるような事象が発生しないのが一番ですね。

 

 
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シルバーエイジに活躍の場を

2005年02月21日 | 日本の課題

 これからの高齢者時代は、ますます元気な中高年齢の熟年者が増加することは間違いがなく、2025年には日本の全人口の1/4を65歳以上の高齢者が占めるはずだし、2050年になれば何と日本の総人口も減少し、人口の1/3が65歳以上の高齢者になると言われているのである。

 私達の親の世代を思い起せば、私達現在の50代が少年時代に見たり、感じていた現在の自分達の年齢前後の大人は、すっかりお年寄りであり、おじいさん、おばあさんと言うイメージにぴったりの人たちが大半であった様な気がするのである。

 しかし、現代の50代後半から60代の高齢者?はどうであろうか。全くご年配であることを感じさせない元気で明るく活躍されている方々に多く接していて、30年程前の60歳を越えた「お年寄り」のイメージの方々は少なくとも70代も半ばを過ぎなければお目にかかることがない程、皆さんお若いのである。

 そう言う私自身も、お世辞も含めて、いつも年齢より若く見られている様であり、時には孫の話をすると驚かれてしまうこともあるのだ。間違いなく私だけでなく、この30年間ぐらいの間で食生活や健康へのこだわりの変化や医療の発達などの原因もあると思うが、生物学的な年齢は同じでも30年程前と比べて、少なくとも10歳から15歳は若くなっている様に感じるのは私だけではないと思う。

 そんな世代の日本人たちの変化も充分意識して、これからの人口問題や就労、生きがい対策、社会参加などを考えなければならない時代となったのではないだろうか。

 人生50年と言われた時代から、定年55歳の時代を経て、現在の定年60歳を順次65歳への延長を試みる企業や社員全員が60歳以上のシルバーエイジ起業も創設されているのである。

 人生50年の時代は大きく変化し、健康長寿の元気人間が飛躍的に増加し出す時代に突入した今、いわゆるシルバー人材センターは、単なる高齢者の就労問題だけではなく、広い意味での中高年齢者の社会参加のステージづくり、つまり受け皿の多様な準備、創設、交渉を企画段階から、これまた自らの中高年齢者たちによってコーディネイトするべき時代にたたされていると言って過言ではないだろう。

 私達も次の世代として、間違いなくこうした元気なお年寄りの仲間に入りたいと思っているし、そのためにも今から、元気なお年寄りが現代の日本社会の中にあって、決して労働による対価を求める労働者としての勤続を要求するだけでなく、社会の一員としてお役に立ちたい、また家庭に引き篭もった粗大ゴミや濡れ落ち葉などと揶揄されない様な、社会的活躍の場を欲しているのである。

 人間は幾つになっても、人のために役立ちたい。たとえそれがささやかなことであったとしても、社会の一員として、他人や関わった人たちから感謝されたり、名指しで何かを頼まれる存在であり続けたいはずなのである。

 決して経済やお金のためだけでなく、年金や貯金やいろいろな経済的支えは必要だが、多額の富や儲けを追求し続ける方も中にはおられるかも知れないが、大抵多くの方は家族や地域の人々との人間関係に包まれて、心豊かに喜怒哀楽を共にしながら、お互いの個性やキャラクターを尊重しあいながら、愉しく共生したいと願っているのではなかろうか。

 ぜひ、皆さんにとっても、昔で言う「老後」という感覚ではなく、第3ステージとでも言うべき、人生の新しい舞台としての熟年層の活躍の場を意識していただき、老若男女を問わず人間としての経験や感性、得意を共有できる範囲で共感し合いながら生きれる共存を考えていただきたいと強く願っている。

 今や、やっと80代に入って「老い」を自他ともに感じる場合が多い時代になったと言ってもいいと思うので、定年を迎えようとも、たとえ実際に孫が誕生したとしても、年寄り扱いはせずに、元気で長生きするための知恵と付き合い方をお互いが考えて、地域で、家庭で、また職場でも新たな中高年齢、熟年者の活躍のステージを意識的に創造していただきたいと重ねて念願するものである。

 もう使い古された「シルバー」という語韻も良くないかもしれないので、新たな熟年齢世代を称する、例えば「エルダー」なのか、「かがやき」なのか、まだまだ社会に貢献できる世代としてのニックネームを考えていただいて、活躍の場を提供して欲しいと思っている。

 誰もが死の時を迎えるまでは、現役の社会人としていきいきと生きたいと願っているに違いないのです。
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人生は駅伝ではない。

2005年02月20日 | 地域の話題

 わが町の冬の恒例行事、市民駅伝が今朝行われた。

 27回目の開催で、女性チーム、学生チーム、一般チームと計34チームが出場し、6区間18.1kmをたすきでリレーし、1時間余で最初にゴールインしたのは、女性チームであった。

 何も女性上位の時代で、駅伝でも女性が男性軍を寄せ付けず勝利したわけではない。男性主体の一般や若い学生チームのスタートより、女性だけのチームは15分早くスタートしていたワケで、2位から4位は全て後からスタートした男性チームであった。

 トップでゴールインした女性チームは、1時間10分程度のタイムで、2位でゴールした男性チームは、ほぼ1時間というスピードであった。

 実は私も10数年前40代初めに職場の仲間等と共に、この駅伝にエントリーして一番手として約3.7キロを走った経験がある。見た目より結構起伏がある住宅街の車道や歩道を走るのだが、最初の小学校のスタート地点から、学生や若い参加者に煽られて、自分のペースで走ろうと心に決めていたのに、いざスタートとなるとツイツイ無理して一緒のペース、いやハイペースで飛び出してしまい、途中メロメロになった記憶がある。

 たった4キロ弱だったが、途中の沿道に多くの地域の住民や知人、友人達が応援に出てくれていたので、本当は溌剌と順位はどうであれ、自分らしく元気に走る様を見せたいと思ったのだが、全く本番では後半意識はあるが、足元がふらつき思う様に走れない、もどかしさの中で、ともかく2番手のランナーにたすきを渡さなければ続かない!「駅伝」を成就させるためだけに、朦朧とする精神を振り絞って第一中継地点までやつと辛うじてたどり着いたのである。

 途中何度も、後ろから近づいて来るランナーの足音に、何とか抜かされまいと思ったり、少しは持ちこたえて併走したいと思ったり、それなりの強い意志だけはあるのだが、何せ体が言うことを聞かないのであった。

 私が参加した年の駅伝で、わがチームが何位だったかは全く覚えていないのだが、さぞかし私の第一走者としての走りが、20数チームの中でビリから数えた方が早い位置だったので、その後の仲間5人の走りが、素晴らしかったとしても、せいぜい中ぐらいの順位とタイムに終わったことだと思っている。

 私が言い出しべぇで仲間を誘って参加した駅伝だったが、数ヶ月間の早朝の私的な練習や経験が全く役立なかったばかりか、第一走者として不甲斐ない順位で、第二走者の仲間にたすきを渡さざるを得なかった悔しさと残念な気持ちは、今も鮮明に記憶に残っている。「ごめんなさい」である。

 「駅伝」は世界中で日本が生んだ陸上競技として、日本語そのままで「EKIDEN」として認識されているスポーツだが、私の拙い経験から言うと、ほんと日本的スポーツであり、団体競技としてのチームワークと言えば聴こえは言いが、ひとりことりの責任、能力、順位などが仲間や組織から問われる、大変シビアなスポーツでもあると言えるのではないだろうか。

 今日も参加した34チーム全てのスタートから途中経過や状況、そして結果は知る由もないのだが、いろいろなドラマと言うか、エピソードやハプニングもあったのではないだろうかと推察できる。

 誰もがチームや他のメンバーに迷惑をかけたくもないし、出来れば負担を少なくできるようにと、一生懸命走ったと思われるが、自分ひとりのマラソンや長距離走ならば、途中調子が悪くなったり、いつものリズムで快走できない場合でも、悔しくても自分の責任と考えで納得したり、止めたりすることも可能だが、「駅伝」ではそうは行かない。チームやみんなのために、しんどくても調子が悪くても次の中継点までは必死で何が何でもタスキを渡す迄走らねばならない。

 日本では正月のニューイヤー駅伝に始まり、箱根、大学対抗、都道府県対抗、高校、女子、国際など多種多様な「駅伝」が全国各地で開催されており、最近では小学生による地域駅伝まで華やかに行われるようになってきている。

 「マラソン」はよく人生に例えられることが多いが、この「駅伝」は人生に例えることは出来ない陸上スポーツであり、あまり対抗意識を助長した特にアマチュアの競技としては、ほどほどにして愉しんだ方がいいのではないかと思っている。

 自分らしい自分の人生を、自分の健康状態や志向、趣向などと相談しながら、じっくりと歩いたり、走ったり、そんな健康のための走り方が、自分の人生とだぶることはあっても、決して「駅伝」という仲間にたすきを繋ぐ走りでは、かえって自分の人生や健康を損ねる場合もあるのではと、観客、応援の一人として、感じたのである。

 日本的な団体の和や組織のための自分を目的とした「駅伝」にならないことを願いつつ、冬のスポーツ、「EKIDEN」を今朝も見守ったのである。

 
 
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ええかっこせずに。

2005年02月19日 | 日本の課題

 
 私の友人である小学校の女性教師は、「嘘を言うストレスは予想以上にきつい」と言う。

 何を言いたいのかと言うと、今週彼女の学校で研究があったそうで、日常のクラスの実態や様相とはかけ離れた、外部向きの嘘で固められた、作られた報告をしなければならない立場に立って、「そんなこと私には言えません」と断っても、研究授業の総括として話をすることになり、自分のクラスの実情を話したそうである。

 しかし大きなプレッシャーがかかり、他のクラスや学年全体の実情は必ずしもそうではないのに、いわゆるキレイごとと言うか、学校にとってええかっこの嘘を言ってしまった後悔と共に、大変疲れたと正直に告白されたのである。

 現代社会に生きる私達は大なり小なり何らかの組織に属したり、お世話になっていると思うが、その組織や会社、学校などの中での多種多様な問題が大なり小なりあるに違いないと思う。だが対外的には世の中の常と言うか、常識的には「うまく行っている」「何ら問題はなく順調です」と答えてしまっているのではないだろうか。

 国、都道府県や地方自治体においても然りであり、先月から問題が噴出したように報道されている、大阪市の職員厚生互助会や市職員に対する厚遇ばら撒き手当などの現状も、「未だに何ら問題はない」、正当な労働や勤務に対する報償や手当だと言い張っている幹部や組合役員もいる。

 いつのまにか全く一般庶民、納税者の常識や普通の感覚が見えなくなって、麻痺してしまったかの様な、あり得ない様な言動が、告発された後も長く続いているのである。全くあきれてしまう様な公務員特有?の感じ方なのだろうと初めは思っていた。

 しかし、最近そうではないことに気づいたのである。どうしてかと言うと彼らにとっては今までの長い歴史と慣習によって作り上げられた、いや獲得した特権は当たり前であり、庶民や外部から批判されたり怒られたりするごとき問題ではないのである。

 つまり彼らにとっては常識であり、あたり前の実態なのに、「おかしい」「改めるべきだ」などと批判や変更、中止を求められること事態が不愉快であり、時には不当な力であり、当然の労働者の権利や既得権の剥奪という行為として、断罪すべきだとの極端な意見、対応まで出てしまうのである。

 実は彼らには、こうした問題提起に対して「気づく」感性がもはや退化して、喪失しているのではないだろうかと、最近感じているのである。

 つまり普通の一般人が難しく考えたり、いろいろ調査や研究をした上で考察しなければ結論や結果が出ないような問題ではないのだが、彼らは「気づく」ことが、もはや出来ない状態、立場に陥っているのだ。

 先に述べたように、多くの政治家、大企業の会長、社長、役職者、そして学校の校長、教頭などの管理職の皆さんなど、社会的組織や団体の責任を担ったり、長になってしまった人々は、その組織の維持、継続が一番の使命であり勉めになり、何が何でも内部の不祥事や問題、課題等、社会に負のイメージになる問題は、事の良し悪しではなく、ともかく内々に隠すか、蓋をして外部に漏れないようにするのが、仕事だと思っているふしが大いにある。

 責任者は、自分が責任をとるためにいるのではなく、責任問題が社会や関係者から問われないように、精一杯事実や問題を漏洩しない、また問題の隠蔽やなかったことにする術に長けた人が、いい上司であったり、責任者?であったりするのである。

 学校の教師にとっては一番大切なのは「子どもが主人公」の児童、生徒のはずである。しかし実際は違っていて、学校の多くの校長、教頭、教務主任などの管理職は、教育委員会や文部科学省のお偉い人々の方が大切であり、子どもに評価されるよりも、教育委員会やお偉ら方の評価や認知の方が勝るのであろう。

 素直に現実を直視して、「出来ないことは出来ない」と言う勇気や、「出来てもいないのに、出来ている」などとええかっこで嘘を言うような教師にだけはなって欲しくないのだが、実際の教育現場に立っている多くの先生方は、自分達の職業的立場の保全のためを第一優先として、多くの「嘘」を大人向けだけではなく、子ども達にも日常的に毎日のように言っているのではないだろうか。

 ぜひ嘘や建前での言動を慎み、事実や現実に知らん顔せずに、ものごとに立ち向かっていただきたい。

 私の思いは、教育現場だけの問題ではなく、現代日本の大人社会全てに関わる、私達自身の問題であると思っている。

 「ええかっこをせずに、本音で素直に事実を述べたり、誤りや間違いは隠さず認めよう」それが大人としての私達に出来る、真実を見ている現代の子ども達へのメッセージではないだろうか。


 
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