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民主主義の学校とも呼ばれる「議会」での質問機会は、いろんなルールや時間制限などもあり、なかなか闊達な意見交換が困難なこと自体が問題なのだが、そんな中でも充分時間を生かして質疑を積極的にしない会派や党もあり、市民のための議員なのに如何なものかと思ってしまう。
今日は、先日の市長の来年度の施政方針演説に対する、代表質問の日であり、私は少数会派の代表として、最後の持ち時間30分をフルに使って、6つのテーマに沿った質問を、6日前に前に通告して質問したのである。
通告した大きな6つのテーマは、施政方針の六つのテーマに準拠して、各テーマ別に4つの具体的課題と施策の内容にも言及して、質問、提案をしたのである。
①地域福祉の推進と自立支援策
②心育む教育と文化、体育施策
③安全、安心のまち整備の充実
④暮らしやすい住環境の創造
⑤農,食を大切にしたまちづくり
⑥行財政改革と市民参画施策の推進
市長の最初の答弁は、数多くの質問事項に対して、いつも通りの各課、各部のあっけない作文の朗読的回答で替わり映えしなかったばかりか、熱意や意欲を感じられない答弁でしかなかった。
しかし、二つ目の教育問題に対する教育長の答弁は、私の質問の前文にも言及された、誠実な教育現場の経験のあるお人柄をも偲ばせる、教育への熱意と配慮ある答弁だったと思うのである。
私の「教育改革の度重なる変動が、教師に児童、生徒と向き合う時間を減少させている。心の教育は、まず人間的関係を豊かにすることから始まるのではないか」との問いかけに、教育長は時間をかけて丁寧に「ものの価値や人の大切さを教えなければならない時代になった。家庭での一家団欒や父親が叱ることなども大切」との私的見解をとくとくと述べられたのである。
私は、このような教育長の「教育に対する思いと熱い感情」をほとんど聴いたことがなかったので、どういう風の吹き回しかと、少し驚きながら、現場の教師出身の教育長の想いをじっくりと受け止めることが出来て、嬉しく思えたのである。
しかし教育基本法の改悪問題について、私が2回目の質問で、具体的に第3条の「すべての国民はひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」から「すべての国民はひとしく」が削除されることを伝え、感想や意見を求めたにも関わらず、まともな回答がされなかった。
また第十条の「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って行われるべき」の「不当な支配に服することなく」が削除されることになると付け加えて、この2点を具体的に指摘したにも関わらず、「とっても大切だと思っている」との危機感の全くない答弁がなされて、がっかりした。
すなわち「憲法改悪」への前段階として「お国のために死ねる愛国心を持った子どもを育てるのが国家教育」だとする「教育基本法」改悪の法改正をもくろむ、小泉内閣と文部科学省ならびに中央教育審議会などの方向性に対して、地方自治体の教育委員会が、しっかりとした自立の教育理念で、心の教育の推進を目指せるかの問題提起だったのだが、所詮地方自治体の教育長には荷が重いのか、全く的外れの「大切論」しか返答されなかったことは「残念!」であった。
つまり「心の教育」の原点は「人間関の豊かさから」と指摘したにもかかわらず、教育長は「心の教育」についての自分の「大切論」をじっくり語ったにすぎなく、「大切」の中身である、教育基本法の精神と、しっかりした条文の理解や、その条文が意図的に削除されたり言い換えられたりすることで、日本の教育の方向性がゆがめられて行くことに、気づいてはおられない様であった。
私達が問題と思っているのは、この感性、すなわち「気づきのなさ」であり、長いこと行政の中での仕事に従事していると、この様な「気づきを知らず知らずのうちに忘れてしまう」ことなのである。
教育長及び市長に、この「気づき」を取り戻してもらうための「心の教育」が今まさに必要だと、私は強く感じている。
誰が教育長、市長に「気づき」の鈴をつけることが出来るかが大問題であり、大切なのだ。