ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

秋の向日葵の花

2011年09月30日 | ファミリーイベント
 九月三十日になり明日は10月になる。暦の上では九月は間違いなく秋なのだが、やはり秋分の日頃までは残暑も厳しく、なかなか秋を感じるまではいかなかったが、さすが彼岸を過ぎれば台風一過もあって秋の気配が色濃くなってきている。

 そこで、夏の間、狭い庭ながら私の住まいの居間の窓際を覆っていた「グリーンカーテン」なるプランター6個を並列に並べて、ゴーヤ、朝顔、琉球朝顔を計20株ほど植えて、夏の間の日々を少なからず涼しげに楽しませてくれた緑の植物を取り払うことにして、昼からはさみを手にグリーンカーテンのネットを切らぬよう取っ払う作業をした。

 ちょうど六月の下旬に東日本大震災の被災地にボランティアに行って帰って来てからの作業で真夏に向かっての節電や涼感を少しでも高めようとの願いで、小さなグリーンカーテンではあったが、ゴーヤは十本以上収穫し、白く大きな琉球朝顔は夏の終わりに私たちの目を楽しましてくれたが、何故か普通の朝顔は、小さな花をつけたものはあったが、ほとんど咲かずじまいであった。

 ゴーヤつまり苦瓜に関しては、そんなに大きなものは出来なかったが、やはり自分の庭で育ったという付加価値があるためもあって、何度も口にすることとなって、意外にもあまり苦さを感じることもなく食したと言ってよく、食卓を彩ってくれた。

 そもそものグリーンカーテンとしての効果の方はどうだったは、今年の夏の暑さは例年と比べて気温の上昇した日が多く、真夏日と言われる30度以上の日だけでなく35度を超す気温を記録した日も数日あったせいもあってか、あまりグリーンカーテンによる直接的な効果を感じるまでには至らなかったと思うが、やはり小さな苗から二階のベランダ付近まで伸びた十数本の弦が見事にネットと絡まって成長した風情を喜んだものである。

 毎日午前中に水やりをして日々の成長を見守りつつ、ゴーヤの実がなったのにはとても感激し、その緑の深さと共に味わった苦味をともなった味は忘れることはないと思うもので、ちょっとした狭い庭での人間の手を加えた植物の世話としても楽しめた思い出となった。

 実は私の小さな庭には、もうひとつ楽しみにしていたものがあり、東日本大震災の被災地支援先のひとつであった宮城県亘理町から持ち帰った「向日葵の種」を遅まきながら7月の中旬に、それまで弦桔梗が群生していた隅をきれいにして、小さな畝を二つ作って、その種を縦列で二十粒ほど植えていたのであった。

 「向日葵」といえば夏を象徴する花の代名詞でもなっている花だが、日々の水遣りは欠かさなく見守っていたが、やっと九月中旬になって花をつけるようになって、実は秋分の日が過ぎて黄色い大きな花をいくつも咲かせるという状態で、私たちの目を楽しましてくれているのである。

 食卓に切花として飾ってある「向日葵の花」が、東日本大震災の被災地からのボランティアへの返礼という贈り物だと思うと、その黄色い向日葵の元気な花に、被災された多くの東北各地の方々の復興の願いと共に、多くの犠牲になられた命への鎮魂の気持ちが合わさって、私たちも元気に過ごしたいと思うのである。

 「ひまわり」は、夏の暑さの中でも本当に太陽の方向をしっかりと見つめ続けている様な姿で咲き誇っている花なのだが、秋の気配を日夜感じるこの頃に、肉眼では太陽が見えなくても、きっちりと太陽の出る方向に首を振って並んで健気に咲いている向日葵の列を見ると、なんだか不思議な素直さを感じてしまうのである。

 自然界の生物のひとつとして、向日葵だけではないが、太陽の光、温かな熱を体いっぱいに受けて生物は成長したり、健康を維持しているのだが、人間はややもすれば、その自然界の普通の常識である「太陽光」の有難さや恩恵に浴しているにも関わらず、そのおかげを忘れがちではないだろうか。

 小さな秋の庭に咲いた可愛くて力強い「向日葵」たちの黄色い元気な花を通じて、日々の健康で幸せな生活を大きく支えてくれている太陽の恩恵に感謝したい気持ちを改めて教えていただいたと言っても過言ではない。

 「向日葵」の花に感謝し、約二ヶ月以上楽しませてくれたグリーンカーテンを通じての、ゴーヤや朝顔たちの苗にも、ありがとう、お疲れ様、ご苦労様と感謝したい気持ちである。

 明日から十月、本格的な秋の到来を迎える。
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古賀氏の退職。

2011年09月27日 | テレビマスコミ
 通産省時代から経済産業省に31年間勤務し上級官僚だった、古賀茂明氏(57歳)が遂に昨日9月26日に役所からの再三再四の退職勧告を受け入れて退職を余儀なくされ、たった5分足らずの手続きで毎日の様に勤務していた建物を去ったのである。

 民主党政権への政権交代が実現した頃から、民主党の主張する政治主導で従来の官僚主導からの脱皮を図って、公務員制度改革や上級官僚たちの政府支援の外郭団体などへの、いわゆる「天下り禁止」などの改革を進めるにあたって、役人である省庁の人間が改革の意思を持たないと出来ないとの大きな壁があったのだが、古賀氏はそうした壁を取っ払うべき手法と熱意を持った官僚のひとりとして、「行政改革」と「公務員制度改革」に率先して働く改革の人であったらしい。

 しかし、民主党政権が誕生した2009年秋のすぐ後に、なんと財務省官僚などの強い意向が働いたとされている抵抗があって、当時の仙石官房長官などが彼の経済産業省での仕事ぶりと国会での対応や発言などに反旗を翻して、彼を無任所の経済産業省官房付きという窓際族に左遷してしまったことに事は始まっているのである。

 彼が一体何をしたのか?は、多様な憶測や報道がなされているのだが、結局ははっきりとした根拠はわからないままに、省庁の主な官僚たちの圧力や批判、人事に対する提言などから、民主党政権のリーダーシップを握る閣僚たちから、彼は外した方が良いとの対応が生まれて、現内閣に引き継がれたようで、野田新首相も枝野経済産業大臣もほとんど罷免に近い、彼の退職を容認したという過程が見受けられるのであった。

 昨日から今日にかけて、各テレビ局は一斉に国家公務員でなくなった当の古賀茂明氏をゲストに招いたり、電話インタビューしたりと大忙しなのだが、まだ何故彼が役所を去らなければならなかったかの明確な因果関係と実際の問題点は説明されているとは言いがたいのである。

 つまり、政治家主導、官僚の言いなりにはならないと言って誕生した民主党の政権運営にとって、古賀氏のような公務員制度改革を実践しようとする実力者が邪魔になったという、皮肉な結末と言っても過言ではないような顛末がそこには潜んでいるようで、表向きは「改革」を主張し、マニフェストにも明記していた公務員制度改革をはじめとした一連の旧態依然とした、自民党政権時代からの障壁とでも言うべき壁を壊すどころか、守ることが自分たちにとっても利があるとの見方、身の処し方に終始しているといった実態が見え隠れしている。

 こうした改革や変化に抵抗する力とは一体何なんだろうか。

 日本社会だけでなく、人間社会においては必ず「変えなければ」と思っている人たちと、「今のままでいいのでは」と思っている人たちがいるものだが、実はその変化や改革をなそうとする時に、その抵抗をするのは必ず「今のままでいいのでは」と思っている人たち、すなわち「改革される」ことによって自分たちの身分の保障や仕事が見えなくなるという不安や恐れを抱く人たちがいるのである。

 
 政治家だけではないが、改革には犠牲や血を流さなければならないとまでは言ってはいるが、実際のところは多くの犠牲者や課題を新たに背負ったり、責任を追求される立場は出来るだけ回避して、平穏無事に過ごしたいという「普通の感覚」が優先されるらしく、政治家とて人間であるゆえに、知らず知らずの内にそういった自己防衛のわ方が勝っていて、少数派の行動や言動を抹殺してでも、多数派の意向を重視してしまうといった蛮行に出てしまうものなのだろう。

 今回の古賀氏の更迭に近い事件は、まさに「改革」という名を掲げながら「改革しない」という民主党政権そのものの実態を浮き彫りにしたと言ってもいい事象であり、野田新内閣のスタートに少なくとも改革、前進を期待している国民の多くの失望感が聞こえてきそうな事件となったと言えよう。

 経済産業省を退職した古賀茂明氏に対して、テレビマスコミを中心として、「今後の活躍に期待する」といったメッセージが多く語られてはいるが、本来ならば公務員制度や公務員給与および退職金、天下りなどの改革を自らが実態をよく知るものとして改革にメスを入れていくという立場での官僚であっていただきたかったはずなのに、近い将来は次官候補とまで言われていた古賀氏を政府は切ったことで、外国メディアや首脳からも「日本は改革の意思がない」とまで言われているのである。

 さて、私たちの日常生活においても、よく似た事象がいっぱい存在しているのではないだろうか。

 必ずしも少数派が正しいとは言わないけれど、表向きは民主主義の日本社会だが、多くの場合は「今のままでいいのでは」と言った意見や何も考えない、何も新たな挑戦やリスクは負いたくない人々の多数派のために、多くの場合は「改革」や「変える」ことすら難しいといったケースや場面が多いと思われるのである。

 ましてや、改革に熱心な人や言動を切るといった手段で、その場を取り繕ったとしても、いずれその実態はよけいに悪くなって、もっと大きな犠牲や血を流さなければならないといった大苦境がやってくることは間違いないのではないだろうか。

 一番難しいと思うのは、組織の存続を優先して、一人の職員や官僚の意見や身分は簡単に切ってしまうことができるといった、目に見得ない風潮、習慣、伝統などと言われる慣例ではないだろうか。

 冷静沈着に考えて、「この国を少しでも良くする」という目標に向かって行動する人、考える人たちが増えなければ「この国は変わらない」という絶望がそこにはあるようである。

 
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ロシアの権力

2011年09月26日 | とんでもない!
 我が国の首相は野田佳彦氏で何人めだか、ともかく民主党が政権交代を果たした一昨年八月末以来、約二年間で三人目、その前の自民党政権末期でも小泉首相の約五年間を最後に、福田、安倍、麻生とほとんど一年間づつやっていたので、ともかく毎年の様に国の最高決定権力者の首相が、一年ごとに変わる国は全世界、特に先進国ではありえないことだと思われる。

 来年は、世界の主な首脳が変わるという年度として注目を集めているが、アメリカの大統領は四年間はほぼ間違いなく君臨し、来年度にオバマ大統領が再選されるかどうかは大変難しい局面を迎えているという推測はあるが、世界の二大大国とかつては冷戦時代には言われた東側?ロシアでの権力移行が早くも確定的になったというニュースが伝わってきた。

 なんと四年前まで大統領だった現在のプーチン首相が、現在の大統領であるメドベージェフ大統領に彼らの所属する統一ロシアの党大会で指名されるという形で、ほぼ間違いなく大統領に返り咲くとの報道である。

 なんとも信じがたいとも思われる形で、首相と大統領という二大国家権力を交代しあい、来年プーチンが大統領に復帰したら、メドベージェフ現大統領を首相に指名するというのである。

 どう考えても権力の私物化、とっても民主主義的な交代とは言えない権力の委譲、いや権力のたらいまわし、もっと言えばプーチン氏の権力の私物化をより一層推し進めるというばかりの発表となったわけだが、党大会では全員が拍手?して承認したという、とんでもない茶番劇が演じられているのである。

 今に始まったわけではない、この双頭体制ともいうべきロシアの権力体制は、ロシアの憲法によってソ連倒壊後の大統領の任期を四年、最長二期までと規定したのだが、今回はプーチン氏が大統領の任期を6年に変更し、来年から二期務めて2024年まで大統領としての権力を行使することとなると推測されていて、年齢的あるいは執務に耐えるだけの健康さえあれば、その後は再び首相に返り咲くというシナリオまで見えているというのである。

 確かにソビエト連邦崩壊後のロシアの第二代目の大統領に就任したプーチン氏は、ロシア経済の混乱を建て直した評価が高いのだが、いくら実績があったとしても、このような手法で長期にわたっての国の政府機関の実質的権力、すなわち決定権を持ち続けるという横暴さは国民にとっては、いいところばっかりではないはずである。

 プーチン氏が権力の座についた2000年当時から、こうしたシュミレーションで、彼自身が憲法だけでなく、ロシア国家の舵取りを自らの意のままにしていくための方策、ルールを自らが作ってきたといえるのだが、日本でこのような手法が許されるわけはないのは、一応国会議員を数年毎に国民、有権者が選ぶという、間接的とはいえ民主主義の手法が辛うじて生きているからなのだが、ロシアの民主主義はどうなっているのだろうとさえ疑問に思うのである。

 日本で例えてみれば、先にもあげた小泉純一郎首相が首相を退任したあと、自分のお気に入りの政治家に首相の座を形だけ譲って、昔からよく言われた「院政」とやらをひいて、次の首相の権力に関与しつつ、一定の期間を経過した後に、再び首相に返り咲くといった形であり、現在の日本の政治ではありえない暴挙とも言ってもいい決定と言わざるを得ないのである。

 このロシアのプーチン氏とメドベージェフ氏の関係はいったいどういう関係なのだろうかと思うのだが、メドベージェフ氏は大統領職をこの四年間務めていたのだが、プーチン氏の傀儡、すなわちプーチン氏の言いなりと言ってもいい、絶対的服従関係と思われる状態ではなかったのだろうか。

 「権力のたらいまわし」としか言いようのないロシア権力の移行ごっこに対して、ソビエト連邦時代の最後の大統領であるゴルバチョフ元大統領は強権的なプーチン氏の大統領への復帰に対して、「ロシアの停滞を招く」と批判的だそうだが、数年前からプーチン氏はメドベージェフ氏と話し合ってきたという規定路線として説明しており、ロシアの多くの国民、有権者の判断はどのようなものかと注目されるが、なぜか多くの国民の支持が、強いロシアを演出するプーチン氏にあり、今年12月に行われる下院選挙でも、メドベージェフ大統領より人気の高いプーチン氏が政権党統一ロシアの党首として大統領へ復帰すると宣言した方が勝てるとの予測もあっての早々の発表だったらしい。

 いずれにせよ、この二人の関係は、いくつもの写真でも男同士で手をつないで散歩したり、仲が良すぎるのか、そういう演出がされているのか、どうても可笑しな関係であり、権力を我が物にするための自らの演出に国民すべてが酔っているとしか思えない異常な先進国と言われるロシアの実態ではなかろうかとさえ感じるのである。
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秋分の日

2011年09月23日 | テレビマスコミ
 台風15号が西日本から東日本を縦断する形で通り過ぎて、台風一過の秋晴れがやってきて、今日「秋分の日」は、とても気持ちのいい秋風が吹く秋らしい天気になった。

 気温も二十度前後という、つい先日までには考えられない様な過ごしやすい気候となって、「暑さ、寒さも彼岸まで」と昔から言われている如く、ちょうどお彼岸の中日にあたる秋分の日が、こんなにも清清しい日となるのは見事である。

 早朝の八百屋の仕入れのために車を走らせて京都市内へと行ったのだが、祝日とあっていつもの金曜日の朝と比べれば通勤や荷物を運ぶ車や単車の数も半数以下といった感じで、すいすいと仕入先へとスムースに行けたので、早く自宅へと帰ってきた。

 そこで、いつもは早朝に夏の間ずっと「朝シャワー」をしていたのだが、今日は久しぶりに「風呂に入ろう」という気になって、約四ヶ月ぶりに湯船にお湯を入れて、浴槽に全身を浸して、ゆっくりと入浴を楽しむこととした。

 居間のテレビでは、NHKの「なんなのうた」の50周年を記念しての特別番組を放映していて、郷ひろみ、平原綾香、アンジェラ・アキ、BEGINらが、歴代みんなのうたの中のリクエストが多かったと思われる人気の曲、誰もが一度は聞いたり口づさんだりした経験のあるような曲を歌ったりしていた。

 今朝の朝刊を読んでいた時に、妻が昨日昼過ぎに近くのJRの駅で飛び込みがあり、救急車が走っていたことを言っていたのだが、新聞によるとなんと19歳の専門学校生の女性が重体であるとの記事が載っていて、自宅からは遺書らしきメモが見つかったらしく、若い女性が自殺を図ったとらしいとのことで、なんともやりきれないという思いと共に、みんなのうた特集でやっていた、アンジェラ・アキさんの「手紙~拝啓十五の君へ~」の歌詞が強く心に響いた。

 風呂の浴槽に半分体を沈めながら、自分の十九歳、二十歳の頃を思い出して見ると、大学に入学してすぐの五月の連休頃には、あの「五月病」とまで言われる気分だったのかも知れないが、大学生活には慣れだしたものの、なにやら自信もなく、あてもないない旅へ出たくなって、京都駅から夜行列車で金沢へと足を向けていたことや、一年生の後期試験を終えた夜には、東京行きの夜行列車で何故か「山谷」を目指してちいさな冒険と社会体験の旅に出ていたことを思い出したのであった。

 自殺を試みた19歳の女性はどんな心境だったのだろうか。

 アンジェラ・アキさんの「手紙~十五の君へ」の歌詞には、十五の僕には誰にも話せない悩みの種があるのですとあり、未来の自分に宛てて書く手紙なら、きっと素直に打ち明けられるだろうとして、「今負けそうで、泣きそうで、消えてしまいそうな僕」が、誰の言葉を信じ歩けばいいの?
と自問自答し、ひとつしかないこの胸が何度もばらばらに割れて、苦しい中で今を生きているとありました。

 その自分の未来へ宛てた手紙に対する返信として、拝啓ありがとう、十五のあなたに伝えたいことがあるのですとして、自分とは何で、どこへ向かうべきか問い続ければ見えてくる、荒れた青春の海は厳しいけど、明日の岸辺へと夢の婦ね進め、「今負けないで、泣かないで、消えてしまいそうな時は、自分の声を信じて歩けばいいの。」、大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど、苦しくて甘い今を生きていると続いています。

 人生の全てに意味があるから、恐れずにあなたの夢を育てて、KEEP ON BELIEVIG。 最後に、この手紙を読んでいるあなたが、幸せなことを願っています。と歌は終わっていますが、彼女も聞いたことがあるはずです。

 しかし、この気持ちのいい秋分の日の朝に、どこの誰だがは知りませんが、近くの若い女性が人生の初期段階で、何に悩んで何の夢を持っていたのかは知る由もありませんが、若いこれからの命を自らないがしろにする自殺を試みたという事実に新聞紙上を通じて接した私の心は、やるせなさと共に「もう一度このうたを聞いてほしかった」と祈るしか出来ません。

 いつの時代にも、青春時代だけでなく、人生に躓いたり死にたいと思った時期は誰にもあると思われますが、「生きてて良かった!」と感じる人生の喜びは、小さな出会い、日常生活の中にもたくさんあるのです。

 ぜひ、大きな夢や期待に添って歩むことだけではなく、自分らしくささやかでも日々の暮らしや仕事、勉学、人付き合い、自然とのふれあいなどの中に、ほんとうに生きている実感を感じる喜びを体験できる時が必ずあります。

 今朝の久しぶりの秋を感じた入浴で、青春時代と生と死を感じたことは、また私の喜びでありました。
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教育とは何だろう?

2011年09月22日 | とんでもない!
 私の故郷でもある大阪府で、今話題となっている大阪府議会での橋下徹知事が率いる大阪維新の会が「教育基本条例」なるものを九月定例議会に昨日提案したというのである。

 この「教育基本条例」とやらは、知事が教育委員会との協議を経て、目標を設定し、教育委員が目標実現の責務を果たさない場合、議会の同意を得て罷免できるとする考え方に始まって、本来あるべき教育そのものの政治性からの独立、つまり教育委員会そのものの存在理由を根底から無視した、橋下知事特有の独裁的価値観を徹底するための条例案だと言わざるを得ないものである。

 橋下知事は就任以来、ご自分が大阪府のエリートを輩出することで名だたる府立「北野高校」の出身で、しかも早稲田大学を卒業し弁護士になったという肩書きからしても、世に言うエリートであることもあってか、とかく教育問題には関心が高く、大阪の小中学校及び高校の学力低下を嘆きつつ、その底上げには教育改革が必要だとの思いから、一般行政と教育行政については教育委員会の独立性を無視して、権力を行使してまで教育の内容、あり方までに言及し、その上強制や脅迫的プレッシャーをかけようとしているのである。

 つまり、昨年の「君が代起立斉唱」を当然とした規定や考え方に基づく、教育公務員である教職員に対する職務命令違反の場合の分限免職を徹底するという強制的手法をはじめ、常に自分の考え方を強制するというとんでもない手法を公言はばからず、しかも「大阪維新の会」と称する地方政党を設立し、一時の選挙人気を演出して大阪府議会では過半数を制するという一見、民主主義的手法をとって、何が何でも自分の意のままに事を制するという独裁的知事として君臨しだしているのである。

 つまり、私のガリバー通信でも以前に記したように、議会制民主主義のあり方、行政権のトップである首長と司法権を有する議会の緊張関係や是々非々の議論ではなく、首長つまり知事や市長の権限で何でも可能にするというファッショとしか言いようのないやり方で、今回は教育的手法をも強制しようとしているというわけである。

 橋下知事は、大阪府を特別行政区としての東京都と同様の「大阪都構想」を打ち上げていて、その中の行政区に分解される予定の大阪市の平松市長とは、ことごとく考え方が対立していて、今秋行われる予定の大阪市長選にぶつけての府知事との同時選挙をするべく、任期途中であるにも関わらず、自らは知事職を辞任してまで、大阪秋の陣よろしく政治的決戦に挑むというのである。

 しかし、いまだ自らが知事選に再選出馬するのか、それとも大阪市長選に立候補するのかも含めて、大阪維新の会が推す首長候補者を公表していないばかりか、いろんな噂や作戦が府民や市民有権者と関係なく裏工作されているとしか思えない政治的パフォーマンスが続いていると言っても過言ではない状況である。

 今回の「教育基本条例案」は、前述した教育委員会への関与をはじめ、府立高校の正副校長ポストの公募型任期採用で、多様な人材を公立高校の学校運営に抜擢し、現在私立高校授業料の無償化もあいまって増加している、公立高校の受験者の減少を少しでも食い止める経営手法や人気のある学校づくりを試行しようとしているらしく、もし三年間定員割れを来たした公立高校は、統廃合するといった脅迫までついているのである。

 また、教職員の人事評価についても、S.A.B.C.Dの5段階評価をして、2年連続D評価の職員は分限処分免職とするという条項もあり、これも首長の考え方、思想などに反する者は少しの猶予で解雇するとという脅迫もしくは強制的に一つの価値観に従わせる手法としてのとんでもない評価制度としか言えないものであり、誰が評価するのか何をもって善悪もしくは優良や不可を決めるのかは定かではない評価基準も問題である。

 結局、知事及び知事の意向を全面的に支持する操り集団「大阪維新の会」なる政治団体グループが意図しているのは、学校における教職員は公の職務についているのだから、その公務の長、つまり首長の意思に反する行為や意見は持ってはいけない、その場合は公務から退くこと、退職を余儀なくされるという制度を徹底したいとしか言いようのない条例案の内容になっていて、同一職務命令違反を三回したら免職、職制、定数などの改廃、予算の縮小などで余剰人員が生じた場合も免職させられるといった考え方であるのだ。

 これらの一部内容だけでも全てが自分たちの都合や意思に反する者は切るといった考え方でしかなく、教職員のならず児童、生徒を主人公とするべき学校そのもの、結局学校教育そのものを「ひとつの価値観」、「知事の思想に従わせる」という、むちゃくちゃな条例案だと言わざるを得ないものとなっている。

 こうした条例案の提出、制定に対して、大阪府教育委員を務める五人の委員全員がNOと言っているらしく、「私は辞めます。できませんよ。こんなもん」(陰山英男立命館大教授)という思いをぶつけたり、小河勝委員(大阪樟蔭女子大講師)も、「何でやねん。と我慢ならない」と憤っていると言うのである。

 ともかく、とんでもない教育改革という名の下にまとめられた条例案が、十分な議論もないままに一方的に府議会に提出されて、大きな波紋を呼んでいる現状なのだが、今議会での強制的可決を行うことなく、10月下旬の橋下徹知事の辞職に伴う、大阪府知事及び大阪市長の同時選挙と言う、大阪府民ならびに大阪市民が選挙を通じて、はっきりとした意思を表明できる有権者、主権者としての投票で、こんなとんでもない条例案を提案した、大阪維新の会ならびに橋下徹氏自身とその配下の候補者を落選させて、本当の民主主義的議会や行政、制度、教育を守らねばならないと思うのである。

 公教育は、エリート養成のための私塾ではなく、人としての社会性と人間性む、そしてその対応力などを養う人間教育そのものの場として立ち返っていただきたいものであると切に願うものである。
UYW@7,Y
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「はやぶさ」の偉業。

2011年09月21日 | とんでもない!
 小惑星探査機「はやぶさ」が七年間、60億キロの宇宙旅行を経て、小惑星「イトカワ」のサンプルを持ち帰ったというニュースは、既に伝えられてはいたが、日本の宇宙科学や技術の粋を集めた結晶としての探査機のストーリーについては、あまり知る由もなかった。

 先日NHK衛星テレビの番組で、この計画から実施、そしてイトカワから持ち帰った微粒子の合成物を電子顕微鏡で調査している現状までをドキュメンタリーとして放映しているのを偶然観て、とんでもない科学技術の進歩と宇宙科学者たちのとてつもない忍耐力と共に「夢とアイデア」の数々の実際を知ることができたのである。

 とかく宇宙と言われていても、アメリカやロシアによって打ち上げられている有人衛星が話題になって、宇宙飛行士の日本人をはじめとする多くの経験や宇宙から観た「地球」の話が伝えられるたびに、私はたかが地球から数百キロ離れただけの地球の大気圏を出た少し向こうの出来事に過ぎないと高をくくっていたのだが、今回の「はやぶさ」の七年にも及ぶ60億キロという長時間の長距離宇宙空間の旅には、有人ではないが驚かざるを得ないものがあった。

 60億キロといえば、地球一周が約4万キロだというのだから、そのなんと15万倍、ちょっと想像してただけでも一年に地球を8万5千周以上、すなわち一日に地球を230周以上するというとんでもない速さで宇宙空間を飛び続けて、しかも途中電気回路の故障やエンジンのトラブルなどもあったにも関わらず、科学者たちの総合力と緻密な計算と諦めない執念の結果、地球への帰還をなしたという、壮大なドラマだったわけである。

 宇宙航空研究開発機構、通称JAXAのプロジェクトマネージャーである川口淳一郎さんを中心にスタッフ全員が、探査計画の段階から実に20年にも及ぶ歳月をかけて、地球から数億キロ離れた宇宙空間に漂っている「イトカワ」という小さなピーナッツの形に似たかわいいと形容したほうがいいと思われる肉眼では決して見ることの出来ない物体の生い立ちや歴史を知るための探査機を巨額の予算を費やして飛ばすというとてつもない冒険を敢行したのであった。

 私たち凡人にとっては当たり前だと感じるのだが、全く見えない宇宙空間に漂う宇宙の塵の如き小惑星をターゲットにして、あらゆる科学技術と膨大なデーターを基礎にしているとはいえ、コンピューターによる計算、解析を繰り返してと行って、たぶん宇宙空間において、小さな見得ない針の穴を通すが如き、「イトカワ」の上空二十キロから刻々と状況を変化させて、イトカワに着地させるという想像を絶したイメージと現実的な技術力は、なんとも言葉では言い表せない不思議ともいえる集中力ではなかっただろうか。

 ましてや、イトカワに着地はしたものの、計画通りの小爆発による地上の粉塵や土壌の採取がなされたかどうかも判明しないままとはいえ、長距離の地球への帰還という難事業の途中に、「はやぶさ」が行方不明になってしまうという事故が発生し、約半年以上行方を捜し続けるという空白の期間を経て、ようやく全スタッフの願いが叶って、はやぶさとの交信が復活し、今年二月だったと記憶しているがオーストラリアの砂漠地帯に、はやぶさ本体は地球突入の際の3千度に及ぶ高温のため燃え尽きたのだが、探査機の目的であるイトカワの地上の状況を察知できるサンプルを採取できているかどうか不明だが、小さな回収容器は特殊な耐熱性の優れた金属等でできているので、無事帰還したのであった。

 そんな科学者たちの苦闘と努力と夢の記録が「はやぶさ君の冒険日誌」(毎日新聞社)、小惑星探査機「はやぶさ」の超技術(講談社)、はやぶさ/HAYABUSA(角川文庫)などとして刊行されているのだそうだが、10月1日公開の映画「はやぶさ HAYABUSA」として紹介されるという。

 「はやぶさ」が紹介された当時は、日本の宇宙開発や科学技術の発達とそれに関わる科学者たちの優秀さは信頼のおけるものだとは思ったが、これほどまでに緻密かつ集中力と努力、そして夢の実現のためへの研鑽が日夜なされていたという現実までを知る由もなかったためもあって、どうせ宇宙開発や技術は、アメリカと並んで宇宙開発が軍事目的や、今後の企業利益を拡大するための政府の投資を基にした「お遊び的事業」の様にも感じていたので、目から鱗とでも言うべきか、大変な誤解をしていたのだろうとさえ感じた、今回の「はやぶさの偉業」であった。

 壮大な宇宙空間に夢と共に、大宇宙誕生の謎を少しでも解き明かそうと日夜一生懸命に、とんでもない天文学的数値とコンピューターとモニターとにな睨めっこしながら、小さな星イトカワに向かい、帰還を果たすまでを追い続けていた科学者たちの熱意に敬意を表すると共に、今後持ち帰ったはやぶさの成果とはやぶさ二号計画を含む、宇宙研究の進展、そして宇宙の謎の解明に近づく成果を期待したいものである。
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探し続ける日々。

2011年09月13日 | 感じたこと
 2011年9月11日は、いろんな意味での「探し続ける日々」を思い起こされた祈念日でもあった。

 あの忌まわしい米国同時多発テロと称された、ニューヨークの貿易センタービルにハイジャックされた民間旅客機が、なんとも映画のCGの如く突入する場面を日本のお茶の間のテレビ映像として観てから十年の歳月が流れた。

 また、記憶に新しい今年の春、3月11日に発生した巨大地震と大津波で壊滅的な被害に見舞われた「東日本大震災」の被災から、ようやく六ヶ月が経った。

 いずれも驚くばかりであった大災害、大事件なのだが、いまだニューヨークの多発テロで犠牲になったと思われる約3000人の方々の中で、四割近い1100名以上の方の亡くなったという遺体の一部などの確認できる証拠がなく、いまだ行方不明という状態のままで、ビルの倒壊による残留物の中からDNA判定も交えて、現在も調査と確認がなされ続けているという。

 また、東日本大震災の場合は、約2万人もの犠牲者が出ていると報じられているが、そのうちの4千名強の人たちの遺体や死亡を確認できる証拠が見つかっていなくて、中には大津波による海水の引き戻り現象で海の底に持っていかれた遺体も多くあると見られていて、いまだそう捜索に当たっている状況もあるという。

 とにかく人災、天災の区別なく多大な被害をもたらした事件、事象による人間の死が想像されるわけだけれど、亡くなったと思われる方々のご家族や友人、知人たちにとっては、亡くなったという思いは日増しに募ってはいるものの、その証拠の確認なくしては、心の中に空洞が空いたままで、なんともやるせない思いの中にあって、ひょっとすれば何処かで生存しているのではとさえ思ってしまうのではないだろうか。

 毎日、毎日、ご家族を探し続ける方々も東日本大震災においてはあったと思われるのだが、時が経って半年が経過してしまうと、「やっぱり亡くなったのだろう」と諦めざるを得ない心境に達しておられる方々が多いのだろうと思う。

 探し続けるのは、決して亡くなった方々のご遺体や遺留品ばかりではなく、残された生存者、つまり難を免れた人たちにとっても、津波でなにもかも流されてしまって、避難所暮らしや仮設住宅に住まわれども、自分の家に戻りたい、住み慣れた地域に帰りたいに始まって、仕事探し、仲間探し、家探しが急務として、日々考えておられることだろうと思うのである。

 災害救助法の適応や原子力発電事故の被災者に対する損害賠償の手続きなども始まっていると思われるが、いくら当座の生活資金の補充や補助がされたとしても、元どおりの生活に戻れるわけはないのであるので、誰もが何かを「探し求め続けている」のではないだろうか。

 一種の脱力感や焦燥感をはじめとする、「なにやら力が入らない」とか、「どうもやる気が起きない」と言った感じのケダルサややりきれなさの中で、人はどうして生きなければにならないのかと自問自答することもあるのではないだろうか。

 ずっと探し続けている人は、何処にもたくさんいる様に思うのだが、人生の良き伴侶としての結婚相手、彼氏や彼女などの恋人や親しい友人探し、そして自分らしさとは何かという、自分探しなども多いのではないかと思うのである。

 長い人生の途上で、少なからず躓いたり経ち止ったりすることは時として誰にもあると思うのだが、その究極が自分がどうすればいいのかが分からなくなるという、「自分探し」なのではないだろうか。

 青春時代ならいざ知らず、二十代、三十代どころではなく、いい年と言われる中高年世代になっても、この自分探しに没頭しているという方々もおられるのだという現代であるが、世の中ではそうした「自分探し」をサポートしたり、お手伝いするという触れ込みで、各種サービスを提供する事業、たとえば旅行、書物、趣味、出会い、仕事を斡旋するビジネスも盛んである。

 いずれにしても、自分らしく生きたいと願う人々の思いをサポートするといえば、聞こえがいいのだが、自分を探したいと思うのであれば、自分自身でその活路や方法は考えて実行すべきだと思うのだが、人間の弱さ、無力さとでも言うのだろうか、そういう底力さえ湧いた来ない時があるものである。

 被災地や被災者のために働く行政関係者、自衛隊、医者、看護婦、海上保安庁、消防、警察、ボランティアなどの方々のご苦労と日夜の献身的な働きに敬意を表すと共に、これからの人生の行く末を歩んで行くための「自分探しの旅」を続ける方々にエールを贈りたい気持ちでいっぱいである。

 この世に生を受けた人々の一生が、少しでも自分らしく生きているという実感が伴ったものに近づけます様にと祈るばかりである。
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死生観とお葬式

2011年09月08日 | イベント
 近頃、近所でも友人、知人の中にも突然死も含めて、いろんな死に直面することが多くなった。

 自分自身もそれ相応の年齢に達しているからといえば、それまでだが、お盆や敗戦記念日を過ぎて、九月の秋らしい気候になってきた今、何故に改めて「死生観とお葬式」について書こうと思ったのであろうか。

 そのひとつのきっかけが今年のお盆過ぎに伝えられた同年輩の男性の訃報からお通夜に参列した時の印象からであった。

 その方とは私自身が勤めていた団体の活動にお子さんが参加されていて、そのお父さんということで地域と子供の関わりを通じて知り合った知人というか友人であった。

 しかし、そう親しくしていたわけではないのだったが、地方公務員として働いておられたことは知っていて、時折たぶん職員組合の関連のお仕事をされていたらしく、世界と日本の諸課題に関わる運動や市民活動の情報などを通じて、彼らしい独特のスタンスとでも言うべき姿勢や思想を垣間見ることが出来た程度なのだが、いつも自分というスタンスは忘れないマイペースの人であった。

 ご家族は奥さんとご長男さんの三人暮らしだったと思うのだが、一人っ子のお子さんが大学を出て、たぶん関東圏だつたと思うが離れて生活をされ、奥さんを貰って幸せな家庭を築いておられる程度の情報しか私は耳にしたことがなかった。

 突然の訃報に驚きながら、その日の夕刻に知らされた葬儀上へと足を運んだのだったが、知らせをくれた友人の言葉では「宗教的儀式はしないと、香典などのお気遣いは要らない」との伝言があったので、真夏の葬儀で一番厄介な思いになる上下黒のフォーマルスーツを着込んで直接会場脇の駐車場まではネクタイを外して行って、会場に入る時に黒のネクタイをして入場した。

 葬儀社のセレモニーホールと称される式場での最近の葬儀は、ほんと流れ作業の如きご葬儀やお通夜が多く、私自身は少しうんざりと言うべきか、どうも亡くなった故人を送るという心からの哀悼の意を表したり、故人の面影を思い出しつつ、ご遺族への衷心からの弔意を簡単な言葉としぐさで表すというよりも、参列した者たちを順番に「ご焼香」をさせるために誘導し、遺影を拝しつつ短時間のお別れをして、ご遺族に一礼して帰るだけといった「形」だけの参列になる場合が大半であった。

 今回のお通夜式は、仏式でも神式でもなく、葬議場の司会者の職員はおられたが、簡単な式の始まりを告げられた後は、故人となってしまった知人の職場の同僚と関係者がそれぞれ正面の遺影の飾られた花束が飾られた祭壇の前に立って、前もって準備された弔辞とやらを読むのではなく、故人との関係とエピソードなどをご自分の言葉で思い出されながら語られたのであった。

 故人とまの関係は千差万別だと思われるのだが、職場での彼の人となりや仕事に関わる姿勢、また友人でもある職場の同僚たちが彼のことをどう思っていたのかなど、私などには全くわからなかった「人となり」とでも言うべきか、「人間性」の一こまとでもいうべき人柄や性格について憶測できる様な情報というべきお話がなされたのであった。

 職場帰りの同僚職員と思われる人たちが通夜式が始まった後にも、次から次へとやってきてお焼香をされ続けて、ようやく儀式的ではなかったが、一時間余の時間が過ぎて、一人息子でもある喪主の長男がお礼の挨拶に立たれたのであった。

 彼は自分と父である故人との関係、プライベートな家庭での故人の様子などを語りながら、この会場に流れているBGMは、父の書斎兼仕事?部屋でもよく流れていた「モーツアルト」であると明かして、こんな通夜にしたことを自分の言葉で会場に参列した人たちに理由と気持ちを披露して、「どう感じられたでしょうか?」と自問自答していた様に感じられた。

 いずれにせよ、私たちが日頃感じているお葬式やお通夜、またお墓参りなど、当たり前の如くなされている「形」が、本当に死者である故人や残されたご遺族たちの思いとなっているかが疑問なケースが多く感じられる昨今の、特にセレモニーホールなどでの葬儀、告別式と感じていたので、今回の知人のお通夜式の形式には囚われない「形」になんとも言えぬ心を感じると共に共感を覚えたのであった。

 さて、自分の高齢の母や親戚を含む数々の訃報を通じて、これからも幾多の葬儀や通夜に参列することがあると思うのだが、私自身の才覚で故人との別れや式をプロデュースできる機会があるならば、やはり故人の人となりや性格、ご家族の中での姿、言葉、そして一番いい故人の写真などを披露して、この世での人生の全ては表現できなくとも、少しでも故人の一生の個性、生き方、価値観などを、せっかく参列して下さった方々にだけは、知っていただく工夫を施した「形」にしたいものだと痛感したのであった。

 決して、宗教的儀式が無用だとか言うのではないが、故人の送別を残された故人と親しかった者たちが、じっくりと心の中に故人を偲べるわ様な工夫ある式典、集いとしたいなぁと改めて思ったまでである。

 また死生観については、多くの人や書物に多様な意見や考え方があって自由なのだが、前世は何だったとか、亡くなった人が見ているとかいう霊や魂の存在説をあまり信じてはいないし、宗教的儀式も人間的な創られた所作としては理解できるが、必ずしも死者の魂や人生の最後を送るセレモニーとしては的確だとは言い難い面が多いのだが、人は今迄通りが一番安心するのかも知れないと思っている。





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台風12号記録的豪雨

2011年09月06日 | 季節の話題
 先月末から今月初旬にかけて、台風12号が近畿、東海地方を中心に大雨を降らし、特に紀伊半島では記録的豪雨が続き、奈良県上北山村ではなんと三日間、72時間の雨量としては国内観測史上最大の1652.5ミリ、降り始めてからの総雨量は1808.5ミリ
を記録し、特に和歌山県、奈良県を中心とした豪雨のため、多くの大規模な土砂崩れやダム、河川の決壊に繋がる災害が発生し、全国で死者、行方不明者が100人に達するほどの大災害となっている。

 今年は三月の東日本大震災、大津波、原発事故という未曾有の大災害に見舞われた我が国だが、大震災後まだ半年も経過していないこの時期に、またもや自然災害とは言え大惨事が起きてしまったのである。

 民主党政権としての三人目の首相としてスタートしたばかりの野田佳彦首相の下、災害復興と防災担当大臣として菅内閣から継続した任に当たっている平野達男防災担当相にとって、東北地方の復興、防災対策だけでなく、全国の当然防災面での指揮と対策の責任がのしかかっているわけだが、一刻も早く現地、当該自治体との連携で、過疎の被害地、電話だけでなく道路や鉄道のアクセスが寸断されてしまっている地域への災害救助と救援物資の輸送を優先的にしていただきたいものである。

 今回の台風による豪雨での被害状況は、まだ全体像が明らかにはなっていないが、和歌山県那智勝浦町の町長さんの妻と娘さんが豪雨のための洪水に飲み込まれて亡くなったり、行方不明になっていたという現実には改めて驚かされたものである。

 町長の娘さんのご結婚が決まり、先の日曜日が結納を取り交わす予定日だったそうだが、その早朝未明に異常に気づいた娘さんがたぶん外に一人で様子を見に出て、行方不明となっているらしいと奥さんからの電話が役場で、災害対策に陣頭指揮をとっていた父である町長に携帯電話があったのが、午前2時過ぎだったという。

 奥さんからの娘の姿が見えないとの連絡にもかかわらず、町長は公務としての町長としての仕事に専念し、非常時の指揮、監督を夜中にされていたらしく、結局翌日娘さんは遺体として発見され、奥さんは行方不明のままであり、娘さんの遺体とは対面したが、妻の行方はまだわかっていないという、とんでもなく辛い状況の中、町民、地域の災害対策に没頭され続けているらしい。

 なんともやりきれない思いにつまされるわけだが、本来の自治体の長や国会議員、政治家のあるべき姿なのかも知れないと思うと、なんとも政府、国会議員たちの東日本大震災、大津波、原発事故に対する対策、現地での救援、復興作業などの指揮権や予算の執行権を持つ「お偉い人たち」の言動や行動には、あまりにも緊迫感や責任感などをテレビなどを通じて我々に伝わる報道では感じられないばかりであった。

 こりれに引き換え、東北の被災地各地の市町村長の言動や災害時の行動などの中にも、直接大津波で亡くなってしまった町長もいたし、残された災害自治体の長として、精一杯の努力と公務を最優先に日夜打ち込んでおられる首長さんたちの言動や行動がいくつも報道されていた様に感じたのであった。

 長い間言われ続けている、国会議員の大幅な定数削減、すなわち衆参両院併せて現在いる700余の国会議員を半分に減らし、国家公務員をはじめとする公務員給与の一割カットなどの大鉈を振るうという行政改革の第一歩すら、なかなかスタートできないでいる国会を見ていると、やっぱり被災地の復興や被災者救援よりも、自分たちの立場の保障や次の選挙での当選を担保にするための党内や地元あるいは有力なバック支援者などとの関係ばかりを重視しているとしか思えない国会議員の先生方の姿しか見え隠れしないのは、私だけではあるまい。

 ただ妻子を亡くしたり、行方不明の状態になっている那智勝浦町の町長と同じようにというのではないが、ほんとうに昔の政治家は、私財を投げ打っても地元のため、地域のため、国のために命を捧げるといった感じの肝の座った人が少なくともいた様な気がするのだが、現状の内閣、国会議員の中には与野党とも700人以上もいる国会議員に、一人としてそんな気概や意気を感じさせる人がいないのが、改めて残念でならない気持ちになったのであった。

 那智勝浦町の寺本眞一町長の妻昌子さんと長女早希さんのご冥福を祈ると共に、町長の公務優先の果敢な姿に敬意を表したいと思うものである。
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日本・ユダヤ封印の古代史

2011年09月04日 | 感じたこと
 皆さんもご存知の方が多いと思うのだが、日本人のルーツについて多種多様な説や著書が一般的に出回っている。

 私は何故か二十数年前から縁あって、中国内モンゴルへと旅する機会が多く出来て、自分の先祖はたぶんモンゴル人だろうという確信に近い感覚を持っていて、赤ちゃんとして誕生した時のお尻の「蒙古斑」と呼ばれる青いあざのような痕跡は、間違いなく大陸の蒙古族の末裔と感じているのである。

 しかし、1971年、昭和46年に出版され何と300万部も売れたという、日本人とユダヤ人に遡ることなく、多くの著書を通じて、日本人のルーツに大きくユダヤ人が関与していて、日本文化の中にユダヤ的文化や思想が根強く残っているとの説がたくさん出版されているのである。

 つい先日も友人の女性からお借りした興味深い著書が表題の「日本・ユダヤ封印の古代史」という本であって、日本に十数年住んだことのあるユダヤ教の宣教師である著者が日本に来て驚いたこと、気づいたことを通じて、古代史の謎のひつとされているユダヤ10部族のうちの一つの行方不明先が、東洋のはずれの日本ではなかったかという、あくまで推論なのだが多様な日本文化の中に、ユダヤ人の古代文化が色濃く残っているというのである。

 だからと言って、すぐさま「日本人のルーツはおユダヤ人」だとか、「古代ユダヤは日本で復活する」とか「ユダヤ製国家、日本」などという著書のタイトルの如く、日本人はユダヤ人の末裔だとは私は決して思わないのである。

 表題の「日本・ユダヤ封印の古代史」などによれば、ユダヤ人の宗教的行事と日本の神道のあらゆる祭礼や形が非常に似ているというのであり、ユダヤ教での新年の祭りである「過越祭(ペサハ)」は、ユダヤの祭日のうち最も最古で最大のものだが、日本の新年の迎え方とよく似ているというのである。

 その日は家族で寝ないで夜を明かし、過ぎ越しの日は普段と食べるものが違っていて、いつもはふっくらとしたパンを食べるのだが、この日に限って「種無しのパン(マッツオ)」というパンを食べるのだが、これは日本の餅にあたり、ユダヤ人は丸く平べったいマッツオを祭壇の両脇に重ねて供え、日本の鏡餅そのものだといい、過越祭は全部で一週間と規定されていて、日本のお正月の松の内の七日間と同じだという。

 また、神社にある赤い鳥居については、ユダヤ教ではかの有名な「エジプト脱出」にルーツがあり、モーセはヘブライ人、つまりユダヤ人たちが殺戮の天使たちの害に会わないようにと、玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗って、殺戮の天使たちが静かに通り過ぎるのを待つように指示したそうで、これが鳥居のルーツだというのである。

 そして、古代のヘブライ神殿と日本の神社の構造が酷似していて、幕屋と呼ばれた移動式のヘブライ神殿は、周囲を幕や板で囲って中で神に捧げる祭祀を行っていたとされ、囲むという概念は日本の神社でも見られ、神社の祭祀は極秘にされているというのである。

 また、日本の神社の前に置いてある「狛犬(こまいぬ)」は、犬というよりもライオンに近い風貌だが、これも古代ソロモン神殿の前にあるライオン像と似ていて、ライオンはダビデ王統を担うユダヤ族のシンボルであり、幕屋の構造でも聖所、至聖所、拝殿に分かれていて、祭壇には常夜灯があり、脇には手を洗う水盤、拝礼する拝殿の前にはお賽銭を入れる賽銭箱が置かれていたという。

 現在でもユダヤ人は祈りのときに「旧約聖書」の言葉を収めた「ヒラクティリー」と呼ばれる小さな小箱を額部分に付けるのだが、これは山伏たちが頭につけている「兜巾(ときん)」とそっくりで使用方法も酷似しているし、山伏が吹く「ほら貝」の音もユダヤ人の祭りで使われる「ショーファー」という羊の角で作った吹奏器とそっくりで、古代ヘブライの祭祀のレビ族は、みんな白い服装をしていて、これは非常にゆったりとした和服の様な服で、その袖口には「リンネ」と呼ばれる房がついていて、神道の神官や修験道の山伏もそのような房がついた姿であるのだ。

 そして、映画「レイダース、失われたアーク」と題するインディ・ジョーンズシリーズの第一作にも登場したヘブライの秘宝、「契約のアーク」とは、モーセが神から授かった十戒石板を保管するための箱で、旧約聖書にもその作り方が克明に記されているのだが、その記載では日本の「神輿(みこし)」にそっくりで、神輿の上にいる鳳凰だと思われる鳥の羽ばたきの姿も、アークの上部の二つの天使(ケルビム)の像が羽を広げて向かい合っていて、いずれも黄金色であり、この類似性は偶然ではあるまいという。

 こうした考察や事実関係は非常に面白し、日本のカタカナの文字が古代ヘブライ語の文字と似ていたり、日本人の何でも困ったことがあったら、しばらくしてお互い「水に流す」という精神的な葛藤すら責め合うのではなく、お互いが喧嘩両成敗なのだろうか、お互い様として忘れるという精神性、哲学もよく似ているというのである。

 最後にさらに、古代ユダヤ人は現在の西欧人の典型的な顔立ちや体格ではなく、金髪や黒人でもなく、黒髪・黒目の浅黒い肌(褐色)をした人種で、背が低く体格は日本人そっくりだったといい、日本人とオリジナルユダヤ人の男性Y染色体の大きさが同じであることなどもあり、大和民族はユダヤ人だったとする著書も発表されていて、中にはキリストは日本人の先祖だとする推論さえあるのだという。

 非常に興味深い推論も多いのだが、「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史」だけでなく、日本書紀と日本語のユダヤ起源、日本の中のユダヤ文化など多種多様な著書が出版されているので、一読をお薦めするが、私は面白いなぁとは感じてはいるが、人間のルーツは、いずれにせよ何処かで一緒であり、一元的に「日本人のルーツは○○」という断定的論議には馴染まないと感じたのである。


 

 

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