ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

全てはプラス、恵みの雨。

2012年02月29日 | 感じたこと
 人生50年と言われていた時代に織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった戦国の武将たちはいくつまで生きたのでしょうか。

 織田信長は本能寺の乱で明智光秀に暗殺されて48歳の人生を終えたのだそうだが、豊臣秀吉は61歳、徳川家康は73歳まで生きたらしく、それ以前の武田信玄52歳や上杉謙信48歳らと比べると長生きをした武将も多いのだが、果たして庶民生活は食糧問題も含め健康管理や生活環境の衛生面も乏しかった時代なので、やはり人生50年とされていたのであろう。

 昨今の日本の長寿は食事の多様化、健康維持のための節制や生活面での改善、そして何よりも医療の発達などに拠る長寿が顕著であり、十数年前に話題となっていた「金さん、銀さん」と呼ばれた100歳超えの双子の姉妹がいたが、その銀さんの4人娘と言われるおばぁちゃんたちがお元気に暮らしておられ、97歳から88歳に至る4姉妹が紹介されている様である。

 とにかく女性の方が元気で長生きは当たり前の様だが、私の母も95歳、妻の母も94歳で顕在であり、大阪で各々夫を亡くしてからは独り住まいで頑張って生きてきたのである。

 片親だけでも元気で生きていてくれるというのは有難いことで、最近は週に二回は母の顔と様子を見に大阪まで行くことを日課にしているのだが、私自身も65歳を迎える誕生日が近づいているので、長寿や人生などを振り返ったり考えたりする年齢になっているといえるので、いろんな書物を読んでも映画やテレビを見ても、自らの人生や生活とすぐ比べたり重ね合わせたりしてしまうのである。

 私の大学入学時の同級生であり、年齢は一つ上の昨年65歳になった、昔フォークの神様と称された歌手「岡林信康」さんが、「岡林、信康を語る」という著書を岡林信康生誕65周年、禁酒10周年記念!?として、最新語りおろしインタビュー集として昨年の自分の誕生日直前に出版されたのを昨日図書館で借りてきて読んだのであった。

 その冒頭の文に、安らぎや感謝に満たされた人間関係をたくさん作り上げることの出来た人の人生は成功だとの考え方があると記されていて、彼自身はこんなにも孤立し、孤独感に苛まれるような私の人生は、そういう事から言えば失敗だったのかも知れないと綴っているのである。

 しかし、今回のインタビューを通じて65年の歩みを振り返り、失敗だとしか思えなかった事が、いつの間にか恵みの雨へと、姿を変えているという事のけ連続だったとの思いをますます強くしたと感じていて、自分の人生に結論を出すのはまだ早いが、そう言い聞かせ、つぶやきながら最後まで歩いてゆきたいと思う。と記している。

 彼との19歳での出会いから私自身の人生も大きく変化し、京都、東京、音楽、社会的運動、キリスト教、自然志向などに関しては彼の活動や歌に刺激されたり、きっかけを貰ったりしたことも少なからずあったと記憶しているので、他人の様には感じられない心境で、彼の苦悩と葛藤の青春時代を通じた思いや考え方についての語りを読んだのであった。

 初めて出会った時から、織田信長の「信」と徳川家康の「康」をセカンドネームとは言え「信康」と名づけられた青年のキリスト教会での牧師の息子としての育ちから一転して、芸能界と言うべき歌手としての仕事を通じての人生に大きく変化してしまった自らが自分の意思だけでなく一人歩きしてしまった如き「フォークの神様」と祭り上げられてしまった有名税はさぞかし重くしんどかったことだろう。

 65年が経過し彼自身が語る自分の人生は「全てはプラス、恵みの雨。」と言い聞かせながら、人生の第4コーナーを曲がろうとしている心境に触れ、私自身も大いに共感を覚え、私の人生の出来事や出会いに感謝し、これからも少しでも他人のために役立つ生き様にしたいと強く感じたのであった。  
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干支、星座、血液型。

2012年02月26日 | とんでもない!
 冬と言えば鍋物が定番だが、今夕は友人宅での「牡蠣パーティー」に招かれて、とっても美味しい伊勢湾から直送された「的矢牡蠣」を存分に特に生牡蠣としていただいたのだったが、今回はお手製のとても分厚い鯖寿司と共に、少し冷えた生牡蠣をふんだんに食し、子どもさんにも人気の定番の「牡蠣フライ」もいただき大満足だったのだが、冬は「牡丹鍋」と称される「いのしし肉」の味噌仕立て鍋も旨いものだとの話もあり、私自身が「亥年」ということを話すと、「なるほど猪突猛進タイプ」ですねと同席したご婦人たちから評されたのであった。

 「ちょっと待ってよ」と言う感じて口を挟もうとしたのだったが、確かに「亥年の人」は、イノシシの如き性格の人が多いとなってしまったので、どう考えても私の同級生や同い年生まれの知人や友人が全て、イノシシ生まれだからと言っても性格や考え方、行動パターンも含め、同じわけはないと論じる羽目に陥ってしまったのであった。

 つまり、世間話としてはよくある話であり、お喋りの話題としては面白く感じることもあるのだが、人間の生まれ年によって全ての人間が「十二支」の動物の如き似通った性格や行動性、または表情や顔つきをしているという話題は、どう考えても無理があり、反論せざるを得ない羽目となってしまったのであった。

 女性たちだけではないのだが、特に女性たちは「干支」「星座」「血液型」、時には「四柱推命」と言われる占いや姓名判断なども含む、人間のパターン化が大好きな人が多い様に感じることが多いのだが、今夕も私が「亥年のB型、正座は蟹座」と告げると、女性たちは典型的ですねと断言するかの様に仰るのであった。

 私自身は、私の言動や価値観、そして行動のパターンなどから、それなりの性格や考え方を評されるのは仕方がないと思うのだが、一方的に「亥年生まれ」は猪突猛進だとか、B型は自分勝手だとか断定されてしまうことには抵抗もあるし、全ての知人、友人、親戚家族に至るまで、多くの人が存在しているのに、干支で言えば12パターン、血液型で言えば4パターンに類型化されてしまうことは出来ないとの思いから、自説を披露せざるを得なくなったのであった。

 たとえばではあるが、A、B、O、ABの4血液型的に言えば、人間は全て「頑固」で、「神経質」であるはずであって、A型の人は神経質で、B型の人は自分勝手で、O型の人は寛容であるなどというワンパターンな分類は決して出来ないのであって、「頑固さ」について言えば下記の様な血液型的特長は感じられるが、全ての人間は「頑固なのだ」ということを説明したのである。

 つまり、「A型頑固」は、部分頑固であり、小さなある部分に関しては細かく拘る習性が感じられるが、全てに拘ったり頑固だったりはしない。

 「B型頑固」は、表面頑固であり、何事にも表面的には「それは違うよ」とか言って反論したり拘ったりするが、少し時間が経ったりすると、あまり固執もしないし気にもしないのである。

 「O型頑固」は、底辺頑固であり、表面的にはとても寛大で、何事にも拘らない様子に感じられるが、心の奥底や胸には「違うんだ」と言う拘りや頑固さを頑なに持っているのである。

 最後に「AB型」は、カメレオン頑固もしくはミラクル頑固であり、さっき拘ったことと反対のことでも拘りを主張したりして理解に苦しむケースも多いのである。

 私なりの血液型パターンの「頑固さ」について説明したのだが、「政治家」や「野球選手」に「B型」が多いとの情報もあって、やはり自分勝手だとか個性が強くて他を寄せ付けないと言った評価の人が多いとの見解から、同様の性格や行動パターン的評価をされてしまったりするのであった。

 遊びとしのお喋りは楽しいが、人は決して干支、星座、血液型などで類型化出来ない個性的存在なのである。

 
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自立と自律。

2012年02月25日 | 感じたこと
 自然食八百屋を通じて奥さんたちと話することが多いが、ご年配のご夫婦は御主人様の「自律」について、また若い奥様はお子達の「自立」についての話をお喋りすることがある。

 今朝のお客さんはご主人がなかなか「自律」できていないのではないかという疑問を抱いておられる様で、定年後のご主人の生活のリズムがどんどんと崩れていて、意欲的に趣味や地域の人たちとの交流なども含めてやらないのだと悩まれている様子であった。

 別のお客様のお話は、二人の娘さんもお嫁に出されて10数年が経って、三人と二人のお孫さんに恵まれて、お二人ともご主人と共に仲良く家庭を築いていて幸せそうで、先日は二家族と共におじいちゃん、おばぁちゃんの総勢11人で家族旅行をされ、その時のエピソードを聞かせて下さった。

 長女さんの娘さん、すなわち孫の最年長が13歳の中学一年生になられるのだが、私はそのママであるお嬢さんの小学4年生の時からよく知っているので、お母さんともよくお話をしているので、五人のお孫さんの成長ぶりについても時々詳しく伺っていて、それなりに彼女や彼らの成長を楽しみにもしている一人なのである。

 皆んなで11人にもなる家族旅行はさぞかし賑やかだろうし、家族とはいえ団体行動での移動や行楽地での散策も大変だろうと思っていたのだが、ある観光地のスポットで、従兄弟頭である13歳のお姉ちゃんが、おばあちゃんに提案をしたそうなのであった。

 「ここで自由行動の時間にしよう」というのであり、彼女と年子の小学6年生の女の子は、いつも気があって遊んでいることもあって、一緒に一時間だけでもいいから両親やおばあちゃん、おじいちゃんとも別行動で「ぶらぶら歩き」がしたいとの提案だったのである。

 そこで、おばぁちゃんはご自分の携帯電話を持たせて、何かあっり困ったら簡単ダイヤル?の1を押せばおじいちゃんに繋がることを教えて、おじいちゃんは二人の女の子に各々お小遣い銭を持たせてあげて、何時に元居た場所に戻っておいでやと告げて、二人での自由行動を子どもたちの願いどおりに許したのだそうである。

 約一時間半ほどを二人で「ぶらブラ歩き」して帰って来た女の子たちは目を輝かして、「コロッケを食べた」「ゲームをした」二人で「○○に行った!」と次から次へと自分たちの思った自由行動を果たして、その経過と喜びを細かく楽しそうに語ってくれたのだそうである。

 二人の成長振りは目を見張るものがあり、そこから車にの乗る時に、いつもなら「トイレに行っときや」と彼女たちお孫さんに声をかけていたおばあちゃんだったのに、おばあちゃんがトイレに行くと言ったら、「おばあちゃん、一人で行けるか?」と彼女たちが言ったそうで、まるで主客が転倒した如く、彼女たちの成長振りに驚くやら、子どもの自立の時が近づいていると感じられたというのであった。

 一方のおじいちゃんの話は、長年のお勤め時代は当然らせ責任が伴う組織でのお仕事を忙しくされていた方なのだが、ご高齢になられて、体調をこわされたり病気になられたりということもあって、家に引きこもった状態になられていて、奥さんが提案される外出やイベントなどへも足が遠のいていて、ご近所の方々も含めてお喋りをされることが殆ど無くなっているというのであった。

 ご高齢のためか、奥さんがいろいろと薦められても頑として聞かれず、自分自身の生活のリズムも崩れて日々が億劫なご様子だとのことで、年をとっても自らの生活での「自律」、すなわち、生活リズムを自分が律して考え行動することが健康のためにも奥さんのためにも必要だとの結論となったのであった。

 幼い子どもが青春期に至って必要な「自立」の力は大切だが、高齢者にとっての「自律」の必要性も、今後益々増加する高齢化時代に不可欠であると痛感したのであった。



 
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関西は原発脱却。

2012年02月24日 | ちょっと可笑しいよ
 先日、関西電力高浜原発3号機が定期検査のため運転を停止し、関西地区の電力を独占的に配給する天下の関西電力の原子力発電による電力供給が全面的にストップした。

 昨年三月の東日本大震災と大津波による、東京電力福島第一発電所の3基の原発がメルトダウンを起こし、今も直お大変深刻な放射能汚染の危惧が広がっていて、専門家筋によると1986年4月に起きたチェルノブイリ原発の大爆発による放射能汚染に匹敵するという状況に近いとの指摘もあり、周辺に居住されている住民の避難だけでは済まされない事態となっている。

 福島原発事故の詳細は、いまだ東電と政府の調査や監視が続いていると思われるのだが、未だに実態が明確には発表されていない部分が多くあると見られ、一般的には国民の多くが、原発推進施策には少なからずの不安と怒りにも似た憤りを感じざるを得ない状況になっていると思われる。

 そんな大事故から約1年を迎えようとしている昨今ではあるが、全国各地で「反原発」、「脱原発」の市民運動や大阪、東京では住民投票による「脱原発」の要望を行政自治体にも届けようとする動きも出ていて、それに対する首長、議会の対応振りも注目を集めている。

 そんな中、関西電力への電力供給を目的とする全14基の原子力発電所の内、先日まで稼動していた高浜3号機が定期検査のためではあるが停止したことで、現在は関西電力管内の電力供給は、完全に「脱原発化」した状態となったのである。

 54基もの原子力発電所が日本国内には現存しているのだが、なんと高浜原発が停止したことで、後2基だけが現在稼働中となったが、この2基も今年4月中には定期検査のために停止する予定なので、晴れて2012年4月には、日本国内での原子力発電はね全てなくなる可能性も出てきたのである。

 しかし沖縄電力を除く各電力会社は、政府の規定するステルステストなるものをした後には、地元自治体と道県の承認を得て、原子力発電所の再稼動を要望する姿勢を示していて、地元の経済界や政治的思惑も手伝って、何時からか原発の再稼動へとお動き出す可能性が残っているのである。

 思えば、関西電力においては、あの戦後の経済的成長の日本の戦後復興がもたらした近代科学と文明の進歩を祝うかのように行われた「1970年万博」の3月14日の開会式において、当時の日本原電の敦賀1号機から、初めて「原子力の灯」が届いたとされたことで、より一層「人類の進歩と調和」をスローガンにしていた「万国博覧会」なるものに花を添えたと言っても過言ではない報道がされていたのであった。

 それ以来、時代は大きく変化してきたが、二度のオイルショックをも経験した1980年代には、全国各地で「原発建設ラッシュ」が起きて、あれよあれよと言う間に、過疎の地域で海に面した適当な土地を国をバックに、多額の原発協力に対する補助金や迷惑料的税金の投与で、各地方自治体をいつのまにか「原発中毒」の如き虜にさせてしまい、30年から40年の間に、切っても切れぬ「腐り縁」としてしまった感が強いのである。

 関西電力によれば、従来は私たちの日常的な電力消費の約50%は、原子力発電のお陰だと豪語されていたのだが、現在原発による電力供給が止まっても、火力発電、水力発電などによって十分電力需要を賄っているし、夏の一番暑い時期の電力供給がピンチになるとの予告もあるが、中部電力からの電力供給の融通で何とか賄えるとの予測もあるのだが、やたら「節電協力」を宣伝し、いずれは原発再稼動へと動きたい意向が見える。

 「原発のウソ」(扶桑社)「原発はいらない」(岩波新書)小出裕章、「原発の闇を暴く」(集英社新書)広瀬隆など多数の原発の実態を示す本が出版されていて、その実態が明らかになっている。
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「堪忍袋」をお持ちでしょうか。

2012年02月21日 | とんでもない!
 「堪忍袋」ってやつを皆さんもお持ちではないかと思いますが、最近「堪忍袋の緒が切れた!」ってことはありませんか。

 若い頃と違って誰もが年を取ると「堪忍袋」が大きくなるのか、ちょいやそっとで「緒が切れる」ことが少なくなっていると思われるのですが、大事なことやここぞと言う時には、たまには「堪忍袋の緒を切る」必要も感じるのですが、「まぁいいか」とか溜息混じりに「あぁあ・・・」と口には出さずに胸にシマってしまったり、諦めてしまったりしているのではないでしょうか。

 13年前に山口県光市で起きた若い母親と生後11ヶ月の女児殺害事件で、当時18歳1ケ月の少年が容疑者として逮捕され、被害者の夫の本村さんが切々と訴え続けられてきた裁判ですが、山口地裁、広島高裁では被告は「無期懲役」とされてたのですが、最高裁が差し戻しの判決をし、広島高裁での再審理の結果、「死刑」が求刑され、昨日被告側の控訴によって再び最高裁での裁判、審理の結果、「残虐で非人間的」との見解から、「死刑」が確定したというものです。

 もともと「堪忍袋」の語源としては、落語が出処とされていますが、「我慢できる限界」を示す例えとして、布袋さんが背負っている袋とも言われている「堪忍袋」なのですが、長屋に住む熊五郎夫婦が朝から夫婦喧嘩を繰り返しているのですが、隣から聞こえてくる声を聞いていると、ものすごい喧嘩に聞こえて、見かねた隣人が仲裁に入ろうと行くのだったが、熊さん本人はケロッとしていて、ビックリするのである。

 熊さんは怒り心頭、腹立たしい時には「堪忍袋」に向かって、「やい、このアマッ、亭主を何だと思ってやがるんだッ」と怒鳴ったりして、気持ちを収めていたということから、これが大変評判となって、熊さんの家は門前市をなす大混雑となり、堪忍袋は、訪ねてきた多くの人たちの喧嘩の憤りで三日も経たない内にいっぱいとなって、これ以上吹き込んだら大爆発を起こしかねない状態となってしまったので、仕方がないので戸締りをして寝たとたん、「開けろ!、あけろ!」と大騒ぎとなったというのであった。

 同じ長屋に住む酒乱の六が叫んでいたので、仕方なく戸を開けると、「仕事の後輩が若いのに生意気で、俺の仕事にケチをつけやがるから、ポカポカ殴ったら皆は俺ばかりを止めるので、こっちばかりが殴られ放題だった」と叫び、堪忍袋に我慢ならぬから「ぶちまけさせろ!」と要求し、「ダメだって、袋がいっぱいだから」と断ろうとしたが、「やかましい、貸せ!」とたくさんの怒りでいっぱいになっていた、袋の紐を引っ張ったら、中から喧嘩がいっぺんに飛び出してきたというのである。

 三代目の三遊亭金馬師匠の十八番であったらしいが、江戸時代の「堪忍袋」は、処世術というよりも、功利的な意味合いで使われることが多かったようだが、現代人はどれほどの「堪忍袋」を持っているのだろうかと考えてしまった。

 確かに肉親を殺められた遺族である本村さんの「怒り」は、到底堪忍袋如きには収まらないものだろうが、私たちの日常生活での「堪忍袋」は、使い様によっては、とっても必要な術かもしれないし、最近に始まったわけではないが、余にも理不尽かつ身勝手な「怒り」を突然の様に他人にぶつけて来る人が多くなった現代だと感じているので、本当に怒るべき相手かどうかを見極めるためにも、「堪忍袋」の自前のものを持ち歩く必要があるのではないかと感じている。

 自転車で歩道を走る人、歩きタバコを平気で吸う人、犬の散歩で糞の始末をしない人、挨拶が出来ない人、優先座席に堂々と座る人、「すみません」と言えない人、自分の主張だけする人、人の話を聞けない人など、日常生活の中だけでなく国会や地方議員や行政マン、公務員にもたくさんいるのですよ。

 「堪忍袋」の緒を切って「怒るべき時」には怒りましょう!
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孤児猿タクマに思う。

2012年02月18日 | テレビマスコミ
 我が町京田辺にも珍しく小雪が舞って、日中も寒さが厳しく感じられた今日だったが、小雪が舞っていたかたかと思いきや、小さな霙となっていたりして、車内や家の中から見ると何とも美しい光景とも感じられたが、東北、北陸地方を中心に大雪に苦闘する地域の方々にとっては、「とんでもない雪害も起きていて、雪フル風情どころではない」と思われる。

 そんな中、京田辺市のJR同志社前のコンビ二前の横断歩道付近で、一羽の小鳥、たぶん「シジュウガラ」だと思うのだが、小雪が舞う中、一羽だけがチョコ、チョコと路面にくちばしを突けては、小さな餌をついばんでいる光景が目に飛び込んできたのであった。

 私は、このシジュウガラの一挙手一投足?に目を奪われてしまった感で、雪フル最中とは言え、同志社大学の学生さんやコンビ二に出入りする客さんたちが行き交う中、一心不乱に飛び立ちもせず地上に餌を求めて歩く姿に感動すら覚えたのでありました。

 道行く人々は、そんな小鳥が一羽いることなど目に入ってない様子で、近くを通り過ぎて行くのですが、一羽の小鳥は自動車や人間の行き来の最中を、信号が赤にも関わらず横断したり危険をも顧みずに、ともかく餌を求めて必死のひと時を過ごしていたのでした。

 こんな小さな小鳥が厳しい冬の真っ最中、しかも街中での餌を得ることの難しい中で、一生懸命にいのちを育むために「捕食」に熱中している様を見て感動しつつも、途中にやってきた「雀たち」の様に群れをなして飛び舞う様もなく、たった一羽だけで、単独行動しているシジュウガラに見とれてしまったのですが、人間の生き様とダブらせて見ると、とても孤独で寂しい日々の一コマの如く感じてしまったのでした。

 八百屋の営業も終えて夕食後のテレビを見ていると、何と高崎山の野生の猿たちの中の、母親を亡くしてしまった乳飲み子的存在の孤児である、生後三ヶ月ほどしか経っていない「タクマ」と名づけられた小猿の感動的秘話が紹介されていました。

 自然に生きる千頭以上の野猿たちを保護している大分県高崎山の地域なのですが、まだ乳飲み子にも関わらず母親を亡くしてしまい孤立している幼い猿であった「タクマ」を注意深く見守る、高崎山の案内人、河野光治さんがおられ、自然界で生き延びることを願っておられたのだが、ある時一瞬見ると小さなタクマが死んでしまったかの如き状態で見つかる大事件が起きて、河野さんが発見し保護されて手厚い手当とミルクを飲まされて、幸いにも翌日には自然の群れの中に帰されたのだった。

 その後寒い冬の最中は、お客さん用のストーブの脇で一匹だけ「暖」を取るタクマが目撃されていたのだが、ある時突然テンテンという名の幼き我が子を亡くした母猿に救われて、我が子の如く暖かく世話をしてくれる様になるという、奇跡的な出来事が生じたのでした。

 しかし、テンテンが何と悲しくも11ヶ月後に亡くなってしまって、またタクマは一人ぼっちの小猿に逆戻りしてしまったが、その後タクマをじっと見守っておられた河野さんも定年退職されるという事態になり、タクマの今後はどうなるのやらと心配もされたのでしたが、河野さんが退職された約三年後に高崎山を訪れられた時、四歳の青年として元気にタクマは生きつづけていて、河野さんだけでなくテレビを通じてタクマを知った人々も安堵の思いで見守ったのでした。

 これからのタクマは、そろそろ群れから出て大人への自立の道を自ら体験しなければいけない年齢に達するそうで、人生も猿生も同じ様に、厳しくも感じますが自分の道を自らが切り開いて、タクマシク生き続けてほしいと祈るばかりです。
く時が迫っている様です。

 あの一羽の「シジュウカラ」の鳥生の今後や如何に!も祈るのですが、野生の動物たちも厳しい中生き続けているのですね。
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京田辺はかぐや姫の里

2012年02月17日 | 地域の話題
 我が町・京田辺と言えば、「とんちの一休さん」でお馴染みの一休禅師が晩年を過ごされた「酬恩庵」一休寺と、我が母校である同志社大学のキャンパスが1986年に開設されて有名なのだが、今年2月に新たに「竹取翁博物館」が誕生したので、開館後まもない平日に訪ねてみた。

 この「竹取翁博物館」は、館長の小泉芳孝氏が長年の研究、調査の結果、彼の住む京田辺市三山木の「山本」集落が、竹取物語の舞台だと推定されるということで、20年ほど前から彼を中心に「かぐや姫の里」として間違いないとの確信で、地元の郷土史会などで発表されて以来、こつこつと調査、研究の成果を各種古文書や絵図などから立証され、念願の展示公開の場として自宅と隣接する和風住居などを利用して、今年2月に開館されたのである。

 小泉芳孝さんは、長年放送関係の会社に勤務されつつ、全国各地と中国、インドをはじめ世界を旅されながら、かぐや姫に纏わる古文書、絵図だけでなく、シルクロード、稲作民族俗の源流、日本の神社神道、日本とユダヤ同祖論、世界の宗教、柳田民俗学の遠野などにも幅広い興味と調査、研究をされてきた方なので、今回初めて拝見した博物館の展示物を案内していただいただけでも、語り尽くせないほどの諸説、解説をして下さった。

 実は十年ほど前に、京田辺の南の玄関口としての「三山木地区」の特別区画整理事業に関連して、市民からの「まちづくり」の提案をしようと集まった有志一同の中心に小泉さんがおられ、初めてお会いして以来の知人なのだが、現役の仕事も定年を迎えられて退職されて、より一層大好きでもあり最大の関心事でもあった、「かぐや姫の里」としての地元に、長年の調査、研究を重ねられてきた資料や絵図と共に、作成された解説資料などを整理されて、「本館」「別館①」「別館②土蔵展示室」などに分散展示されたのである。

 彼の人生の集大成と言えば大げさではあるが、この博物館の開館に際して、自らが編纂された著書も三冊出版されていて、ほんとうにご本人にとっては、一世一代の大仕事としての「博物館」として産声を上げたところと言った感じであり、今後益々多種多様な展示と地元はもとより、全国各地から興味と関心を寄せて来られる来館者たちとの交流も合わさって、「竹取翁博物館」が発展していくことだろうと感じたのである。

 一般的には「かぐや姫」については、竹から生まれたかぐや姫が、五人の求婚にも関わらず月に帰って行くといった「御伽噺」の様な印象を持っている方が多いと思われるのだが、彼の研究、調査によらずとも、その出典である「竹取物語」は、紫式部が書いたとされる「源氏物語」よりも古い作品であり、作者は不詳とされたているのだが、紫式部はこの竹取物語を物語としての「起承転結」のお手本にしたのではないかと思われるフシもあり、2月中の展示では、「竹取物語」は、あの真言宗の開祖と言われている「空海」が記したのではというテーマでの展示もなされていて、非常に興味深く感じた。

 別館①と称された少し西側の離れ家は、従来住んでおられた方がアメリカへ転居され空き家だったのだが、縁あって小泉さんの手に渡って、和風の古民家を生かした「かぐや姫の館」となっていて、市内在住の染色家、玉井芳泉氏による「かぐや姫絵巻」の大作が染色画や襖絵として展示されているし、人形劇団「ぷくぷく」が制作された「かぐや姫人形たち」も展示されていて、、彼自身の長年の趣味のコレクションやマスコミ一代記の展示など盛りだくさんであり、一度お近くに来られる際には、是非訪ねてご覧になったら如何でしょうかとお薦め致します。

 歴史的史実ではまだまだ研究、調査の余地を残す「かぐや姫」伝説を記した「竹取物語」の里として、彼を中心に名乗りをあげた、わが町「京田辺」に一度足を運ばれては如何でしょうか。

 
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人類の未来を論じた巨人

2012年02月16日 | イベント
 「地球時代の知の巨人」と称された、故梅棹忠夫氏の「ウメサオタダオ展」が2月20日まで、東京の日本科学未来館で開催されていて、一昨年2010年7月3日に90歳で亡くなった偉大な文明論者梅棹忠夫氏の功績を振り返り、多くの入場者に改めて氏の残した「ひとりひとりの未来をつむぐ」知恵と発想の基点を示している。

 「梅棹忠夫さん」は、あの万博会場跡地に創立された「国立民族学博物館」を通じて知ったのだったのだが、京都の地からも何度も足を運び、一時は民博友の会にも入会して、非常に興味深い展示が多かったので関心を寄せて、私も「文化人類学」とか「地球人学」を学び研究したいと感じるほどのインパクトがある博物館であり魅力的な出逢いとなった。

 その後、縁あって中国・内蒙古への旅を二十数年重ねることとなり、今から思えば梅棹忠夫先生の最初のフィールドワークが、中国内モンゴルの地であったこともあって、日本人のルーツの一つとしての人類の旅、また文化、民族学の共通点などを強く感じていたと言えよう。

 梅棹忠夫さんの好奇心とチャレンジ精神は旺盛で、京都に生まれた彼は12歳の中学校入学時に博物同好会に入ったことを手始めに、その後山岳部に入部し、何と14歳で山岳誌「山城三十山記・上篇」に執筆し、15歳には前記の山岳誌の下篇を編集、発行する役割を担い、当時の第三高等学校、現在の京都大学理科甲類に入学し、山岳部に入部、京都探検地理学会に入会するなど、自分の興味と進むべき道を確実に歩んでいたことに驚くのである。

 梅棹氏は第三高校山岳部員として、20歳で朝鮮半島を歩き冠帽峰連山から摩天嶺山脈を越えて白頭山に登頂し、二松花江源流を確認したり、京都探検地理学会樺太踏査隊に参加し犬ぞりの性能調査などをや行い、1941年には京都帝国大学理学部に入学し主に動物学を専攻し、その年の夏から秋にかけては、探検地理学会の今西錦司隊長のポナペ島調査隊に参加し、島の生態学的調査を行っている。

 その後も戦時下にも関わらず、中国北部の大興安嶺探検隊や背梁山脈ぞいの白色地帯を踏破し、23歳の1943年には徴兵検査で第一乙種合格で召集を受け入営を命じられたが、大学院特別研究生制度で延期され、京都大学学士山岳会や日本民族学協会に(1964年に日本民族学会となる)入会して、1944年24歳で結婚し、今西錦司氏らと中国大陸に渡って蒙古善隣協会西北研究所の嘱託となり、戦時中ながら特別待遇の研究調査員としてモンゴル草原を中心に牧畜調査などを行い続けたのである。

 彼のモットーは、常に現地調査を中心としたフィールドワークであり、記憶の曖昧さを知り尽くしている彼は、「記録」をつける、所謂後に京大カードと称したB6カードの活用や「こざね」と称する浮かんだヒントや言葉を書き記す 自分流の方法も会得し、膨大な記録ノートとスケッチ、写真、そして現地で得た資料をなどを持ち帰って「知的生産の技術」の基礎としたらしい。

 その後も精力的に世界を歩き、特にアフガン、東南アジア、東アフリカ、ヨーロッパとフィールドワークを展開し、大阪市大理工学部助教授、京都大学人文科学研究所講師などを経て、大阪万博後に自らが提唱し創設された、国立民族学博物館の初代館長に就任し、文化勲章や勲一等瑞宝章なども受章する文化人として名を馳せたが、1986年66歳の時に突然ウイルスによる球後視神経炎のため視力を喪失し、亡くなる90歳迄の約20数年間は盲目の博士として、口述筆記などによる著作や講演活動を続けられた。

 「理解できないものについては、疑いの目で見てしまうのが人間だが、それでもじっと見ていれば、なんだか分かってくることもある。見ることすらしないと何も理解できない」などの言葉を残し、多方面に影響を与えた梅棹忠夫氏に学ぶところは大である。
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「確定申告」提出。

2012年02月15日 | 季節の話題
 野田内閣になって、「税と社会保障の一体改革」とやらのスローガンの下、やたら消費税増税だけがクローズアップされる中、一方で少子高齢化に伴う「年金制度改革」の何と約60数年後の予測まで飛び出して、消費税は10%では足らなくなり、それに上乗せして7パーセント以上の増税が必要になると数値だけが公表されていて、テレビ、新聞マスコミを中心に、連夜「年金予想」で騒いでいる。

 しかし、肝心の「入るを図って出を制す」と言われる国も地方自治体も、現在の納税制度での財政状況を振り返っての「歳入・歳出」での増収、出費を控える工夫や、国民、市民が納得できる様な現状打開策は明確にされないまま、多額の未収税収もあるし、多額の無駄な歳出が続いているのが現状である。

 そういった現状を打破しようとする動きが具体的にない内に、猫も杓子も「税収を増やす」ことばっかりに目と政策がいっていて、しかも元々自民党政権時代にも消費税10%への増税はやむ終えないとされていたのに、政権交代がなされて民主党中心内閣になると、野党となった自民党は反対へと攻勢をかけるといった様子で、ただ「解散・総選挙を」と自民党総裁は言うばかりである。

 家庭に例えて見れば、ローン返済が903万円もあるのにも関わらず、ご主人の年収は423万円で奥様のへそくり分が37万円ほどあっても、毎年の生活資金は518万円ほどかかるので、毎年赤字が58万円ほど出て、一向に借金であるローンの返済が追いつかず、自転車操業と言ってもいい国の歳入、歳出の現状が伝えられている。

 国の毎年の予算は、一般会計が来年度も90兆3000億円、それに復興特別予算3兆8千億円と、年金の国庫負担分2兆6千億円を加えれば、何と総計96億7千億円と増大しているにも関わらず、政権交代時のマニフェストのバラマキ的施策で17兆円もの歳出が必要とされるといった、全く我が懐、財布とはかけ離れた「戯言」の様な大風呂敷を広げていたのであった。

 ようやく、政権交代後の政権運営で、「埋蔵金」などと囁かれていた歳出に使える金庫も不確かなまま、歳出の見直し目的で行われた「事業仕分け」なるパフォーマンスイベント等を通じて、約3兆円が出てきたらしいが、「焼け石に水」とは、まるでこのことの様な実態が暴露されてからというものは、ともかく「増税ありき」に走り出したという感じである。

 こんな我が国の財政的現状を省みることなく、ともかく「増税策」を議論しようと躍起になっている野田内閣の内閣支持率が低下するのは当然であり、一般庶民の懐具合と日々の生活実感と共に将来の生活保障や年金制度への信頼感もなく、次から次へと不安材料ばかりでは、国民、市民の生活防衛的、消費支出は落ち込むのが当然である。

 そんな厳しい状況下での、昨年度の年収を確定し、制度的には正しい納税義務を履行するための「確定申告」は、サラリーマンやパート、派遣職などの違いはあっても、収入先が一箇所ないしは年金のみなどの家庭においては不要な場合が多いが、額は少なくても「生活のやりくり」のために年金生活者であっても、パート職や別な収入先を持つ者には必然的に「確定申告」はしなければならないものである。

 私の場合は、昨年春までは年金の繰上げ受給と共に、あるパート職としての勤務をしていたので、その事業所からのお給料として貰った金額は小額でも、納税した源泉徴収額と社会保険料の証明書が、やっと届いたので、自営している自然食八百屋の「青色申告」と共に、急いで自ら計算記入し、今朝最寄の税務署へ提出に行ってきたのであった。

 しがない低所得の我々でも、ちゃんと確定申告をしているのだから、是非多額納税が可能な高額所得者の皆さんも、お国のため地域のために、正直な納税者として申告をしていただきたいものである。
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「維新八策」に群がる。

2012年02月14日 | ちょっと可笑しいよ
 昨秋の大阪府知事と大阪市長選挙で圧勝した「大阪維新の会」の代表である橋下徹大阪市長と幹事長、松井大阪府知事らが開講する「維新政治塾」へ、400名の定員募集に何と3326人もの人が応募したとされ、中には現職の民主党国会議員も数名含まれているらしく、国も地方もどちらも強い政治不信に苛まれている現状を打破すべく、橋下人気にあやかって、次の選挙を有利に戦いたいと思う者や、新たに橋下旋風に乗って、議員を目指す人らが応募したのだろう。

 この「大阪維新の会」の政策の柱となるであろう、坂本龍馬の「船中八策」の名を借りた「維新八策」が発表されたのだが、問題の多い独断的政策が並んでいる。

 ①統治機構改革・大阪都構想の実現、道州制の実現、地方交付税の廃止

 ②行財政改革・財政収支の黒字化、国会議員定数・歳費の削減、政党助成金の削減、国家公務員の人件費カット

 この二つについては、今まで政策として掲げていただけで、突っ込んだ議論がされていなかったので、大いに積極的な議論で、是非に達成に向かって積極的に進めていただきたいと思うのだが、

 ③教育改革・教育基本条例の法制化、教育委員会の廃止を選択できる制度の導入

 ④公務員制度改革・職員基本条例の法制化

 については、従来の教育委員会が実質的には有名無実に近い状態になっていて、教育の本当の政治との分離がなされていない現状もあるが、教育基本条例と職員基本条例で、どちらも教師や職員の評価を誰が何の基準でするのかが定かでないし、権力者の意向に沿わない教師、職員が免職となるケースも予想されるので問題を感じている。

 ⑤社会保障制度改革・年金掛け捨て制と積み立て制の併用、最低限所得保障制度導入

 ⑥経済・税制改革・TPP交渉への参加、資産課税の強化、脱原発依存、発送電分離

 この二項については、積極的議論が必要だし、少子高齢化時代に突入している現代日本の、今後の世代間格差や長寿社会の生活のあり方、経済的支えなど、国がしっかりとした制度に作り変える責任があると思われるし、税については資産や高額所得者の納税負担を厳しくする施策と脱原発施策は評価できると思われる。

 ⑦外交・安全保障・日米同盟と豪州も含む3国同盟の強化、沖縄の基地負担軽減と抑止力の維持、領土を自力で守る防衛力検討

 ⑧憲法改正・首相公選制の導入、参議院の廃止と国と地方の協議の場としての議員の設置、憲法改正の国会決議を過半数とする

 この二項目については、沖縄の基地負担の軽減は望ましいところだが、同盟国や自衛隊のあり方など幅広い議論が必要だし、参議院の存在意義は疑問があるが、憲法改正を過半数で可能にするのは甚だ危険なことである。

 ざっと私自身の感想と考え方からの「維新八策」に対する意見を記したのだが、冒頭にも記した様に、この大阪維新の会が主宰する「維新政治塾」なるものへの異常な関心と、その機会を通じて如何に自分たちにとって有利かつ選挙での勝利を得ようと画策する輩たちが、基本的な政策と、どの様に心情、思想を重ねて言及したり、問題提起したり出きる人たちがいるのかと疑心暗鬼である。

 つまり、「維新の旗」の下にすがるだけの「自分の意思や価値観、政治信条」などに乏しい人たちが大量に、この「維新塾」に参加するといった感じが強く感じられて、現状では事前レポートでな入塾については審査するとされているのだが、結局は橋下氏の意向に従う者のが参集されるという塾となりそうであり、松井大阪府知事の様に、橋下門下生を大量に育てることが期待されるだけで、本当の意味での「市民の眼」や「庶民の思い」が届く政策を議論する場とはなり得ないと確信する者である。
  
コメント (1)
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