ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

うるう年の「おまけ」

2008年02月28日 | ガリバー旅行記
 世の中の出来事は全てきっちりと説明ができて、人類にとって分からないことはないと思っている人はいないだろうが、今晩のテレビニュースでは各局が、太陽系宇宙の惑星としてと、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星に続くⅩ星があると推測されると報道された。

 神戸大学の研究者が天文学的数値を計算した上で、太陽系の私たちの宇宙空間に数年前に惑星群からはずされた冥王星ではない、新たな地球規模の半径を持つ惑星が存在することが分かったというのである。

 そのX星は、いつごろ地球から確実な存在として発見されるかは、その軌道上の何処に現在存在しているかによって、太陽を周回する楕円形の軌道を一周するのに、なんと1000年かかるそうなので、ここ4.5年中に確認されるか、500年後になるかは不明だとのことであった。

 惑星天体としてX星は地上温度がマイナス260度とのことで、生命体が存在している可能性は薄いとの見解も同時に発表されている。

 こんな「夢」のような不確実でありながらも、何とも想像力を掻き立ててくれる様なニュースが何とも幸いだと感じるほど、イージス艦事故の防衛省、自衛隊を取り巻く事故への対応振りのお粗末さや、中国製餃子のまだ見えぬ毒物を入れた場所や犯人像が、中国と日本の警察当局では全く相反する見解が報道されていたりして、人間社会の勝手な現実がある。

 さて、明日はほぼ4年に一度の「うるう年」の閏月の「おまけ」の一日、すなわち2月29日である。

 地球が太陽を周回する平均回帰年は、現在365.242199日とされているのだが、素人的にはほぼ四年に一度、すなわち「オリンピックの開催年が閏年」と認識されている。

 しかし、①西暦の数字が400で割り切れる年は、閏年。
     ②400で割り切れなくて、100で割り切れる年は、平年。
     ③100で割り切れなくても、4で割り切れれば、閏年。
     ④4で割り切れない場合は、平年。

 という「閏年」かどうかを見極めるルール、法則がある。

 ということで、最近なら2000年、2004年、2008年と、五輪開催年が全て「閏年」となっており、平年の365日より一日「おまけ」の366日となっているのである。

 「おまけ」かどうかは考えようだが、私は「おまけの一日」と感じている。

 ついでに「おまけの一秒」もあって「閏秒」というらしく、原子時計の協定世界時と実際の「世界時刻」の差を時折修正しているのである。

 最近では2006年の一月一日の朝8時59分59秒に一秒加えられて、60秒と9時0分0秒を二度カウントして、7年ぶりの調整を行っているのだそうである。

 「閏秒」には「おまけ」の感覚はあまりにも短くてないが、明日の一日、24時間は、4年に一度の「おまけ」として、有意義に過ごしたいものである。

 2.29だから、二人で「お肉」でも食べる日にしようかな。(笑)

 

 

 
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帽子の一休さん。

2008年02月27日 | 季節の話題
 先々週の日曜日、「市民駅伝」の応援をかねて孫と散歩に出かけたが、いたるところで応援の人たちと立ち話をしながら、やってくる選手に「ファイト!」「頑張れ!」「もう少しだ」などと大きな声をかけながら先へと進んだ。

 十数年前の「町民駅伝」だった頃に私も職場の仲間たちとチームを組んでエントリーし、第一走者として約4.2キロを走った経験があり、当然10数歳若かったのだが途中でバテてしまって、第二走者への襷を渡す時にはフラフラだったことを思い出していた。

 そんな経験も手伝ってか、どうしても颯爽と走る若者たちだけでなく、よれよれになって走っている遅い走者に、どうしても感情移入しての声援が多くなっていた様に思う。

 マラソンや駅伝を人生に譬えるケースが多くあるが、人生においても調子よくカッコよく歩んでると思われる人よりも、どうしてもギコチナクても一生懸命に歩んでいる人に共感を覚える。

 まだまだ立春は過ぎたとはいえ、「春遠からじ」といった感じの寒さが身に沁みる季節が続くが、孫と二人で、いつもは自家用車でしか行き来しない、町の中心部にある図書館まで歩いて行く予定で、いろいろと話ながら歩いた。

 駅伝を走る選手のしんどさや寒さとは異なるだろうが、冬の寒さを身に感じながら図書館のあるJRの駅付近にやってきた。

 駅前広場の脇に立っている、わが町のシンボルともなっている「一休さん」の銅像が目に飛び込んできた時、何やら少しいつものイデタチと違うことに気づいた。

 そう、銅像の「一休さん」のいつもの丸坊主のツルツルの頭に、なんと帽子が被せてあったのである。

 そうだ、誰かがこの寒さの中で佇んでいる「一休さん」の銅像に、さぞ寒かろうと自分の帽子を被せたのだろうと察しがついたが、ちょっとしたユーモアでもあり、「絵になる」と感じたので駅伝の模様を撮影していた持参のデジカメでシャッターを何枚かきった

 現代版の「笠じぞう」みたいな光景でもあり、何やら世知辛い世の中の昨今にも、少し温かな思いやりの人の心が健在していると感じるワンショットとなった。

 数日後、ある新聞の地方版に、この「帽子の一休さん」が写真と共に掲載され、
記者の目にも留まったのか、読者が通報したのかは定かではないが、新聞紙上を飾ったのである。

 全く新聞を飾る「ちょっとしたショット」になるなどとは思わず撮影したワンショットが全く同じ思いの人たちの心にささやかでも響いて記事となったことが嬉しかった。

 その数日後、京田辺にも今年三度目の積雪があり、帽子にも雪が積もった「一休さん」の銅像が再び紙面の小さなコーナーに写真入りで掲載されていた。

 新聞紙上が凶悪事件や溜息のでる様な出来事のニュースなどで埋めつくされている感じの昨今に、心温まる記事とワンショットで構成された「帽子の一休さん」は、人々の心に、ほんとうの「春」を近くに感じさせる「立春」を感じさせてくれた様である。
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2・26事件と昨今。

2008年02月26日 | 日本の課題
 全国的に寒さが増し、明日もマイナス6度の寒気団が関西地方上空1500メートルに降りてきて、寒さが続くという今朝、「二二六事件」を突然思い出した。

 今から72年も前の昭和11年、2月26日未明に、大日本帝国陸軍の皇道派の影響を受けた一部青年将校らが、「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力で重臣たちを殺害すれば、天皇親政が実現し腐敗が収束すると考え決起して、岡田啓介総理大臣らの殺害を企て、軍と政府に「叛乱軍」として武力鎮圧された。

 その数年前の昭和6年に「満州事変」が勃発し、翌年の5・15事件で犬養毅首相が殺害されたり、昭和8年には一方的に国際連盟を脱退したり、傀儡政権を満州国として設立したりと、どんどん軍部と共に政府は戦争非常事態に突入していく時期であった。

 この「2・26事件」の良し悪しはともかくとして、日本帝国の右傾化とでも言うべき、戦時体制への道が加速度的に進んだ時代を象徴する事件であったわけで、一般民衆にとっても「不満、不平」が充満しつつある時代であったのである。

 今も健在な年配の方々にとっては、「帝都不祥事件」とか呼ばれた未曾有のクーデター未遂事件だったのだが、多くの謎と軍部の自作自演的事件の様相も裏には秘めているらしい。

 すなわち、時の権力にとって都合のよい事件を起こすことで、国民、マスコミをも動揺させて、益々「国益」を優先すべく国家権力が突き進むという、ある種の「国家的演出」をももくろみ、一般大衆は乗せられていくのである。

 現代日本の民主主義的社会にあって、しかも「日本国憲法」のある「主権在民」の時代ではあるが、果たして同じような「国民の不満、不平」があったとしても、こんな「演出」による事件や騒動は起こり難いと思われるが、どうだろうか。

 やはり現代日本社会にあっては、政府、自衛隊、財界などの大きな権力や財力を持っている組織や権力者が、どの様な行動や言動で、この国ニッポンを国民が真に幸せに生きられる社会、国へと導いてくれるのかが、やはり心配だし不明、不安である。

 どこか226事件の前夜に似ていると言わざるを得ない昨今のご時勢の中で、多くの一般の庶民、国民は、自らの個人的な「幸せとお金儲け」に精一杯に頑張っているわけで、この国の行く末を、どこかで憂いながらも、「叛乱軍」や「抵抗勢力」にはなり難いのである。

 うっすらと積雪した白一色の道に、自分の足跡をつけて歩くことさえ控えようかと思う様な、一般庶民の「心の中の国に対する多くの不満、不平」をしっかりと表すことをしないと、またやとんでもない「国策的戦争」への道を辿っていく危険性を孕んでいるのが現代であると感じている。

 自作自演の「ごまかし」や「隠蔽」が自衛艦の漁船との衝突事故でも垣間みられることは、寂しくまた危険な兆しである。
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出会い。

2008年02月25日 | とんでもない!
 長い人生の旅を重ねてきて、いつ頃からだったか覚えてはいないが、私も「出会い」を大切に生きようと思う様になって、今日まで生きて来た。

 多くの人たちと出会って、今日と言う日を「生かされて」いることに心から感謝したい気持ちでいっぱいである。

 多くの人が「出会いの大切さ」を事あるごとに語ったり、記したりしていると思われるのだが、イーターネットと携帯電話が普及しだして以来、「出会い」と言う言葉は、「出会い系サイト」なる、何ともイカガワシイ造語にさらわれてしまって、なにやら「出会い」を大切にしていますなんておおっぴらに言えない雰囲気にもなっている。

 まじめに中高年も含め、男女の伴侶を求めて「出会い」を求めている人たちもいるのだが、新聞、雑誌をはじめとするメディアで踊っている「出会い」は、ややもすると怪しげな「男女の遊び」に通じる誤解を生む「言葉」に化している。

 ともあれ、私の人生においても、仕事、結婚、社会との関わり、全てが予期せぬ「出会い」から始まっていると言っても過言ではない。

 皆さんにとっても、さぞかしいろんなドラマチックな出会いや「偶然」や「奇跡」とでも思う様な「出会い」をいくつも経験されていることだろうと推察します。

 しかし、この「出会い」には、凡人には「偶然」とか「奇跡」とか思う様な意外な「出会い」があるわけだが、何度も登場するが私の敬愛する考古地理学の権威で、私の現在の師匠兼親父替りの大先生によれば、「全ての出会い」は、歴史的必然性なのだそうである。

 実は私も、最近はその様に感じ、思う様になっているのだが、平凡にも思える日常生活の中で、多くの意識しない「出会い」も含めて、「出会い」を体験しているのである。

 最近の私は、外歩きの営業仕事で、住宅街を一軒、一軒と訪ね歩く途中に、嬉し恥ずかしい??、友人の友人や、昔の知人に出くわすことが多くあるのである。

 先方さんも突然の訪問者に最初は戸惑い気味であっても、そのうちの会話を通じて何やら共通項とでも言うべき話が重なっていて、突然「そうなんや」「誰かと思えば○○サンの知人」だったのかと急に身近な知人になってしまうことが度々あるのである。

 今日もあるご年配の初対面の奥さんと話していたら、なんと共通の知人が重なって、しかも私の奥さんとも共通の趣味の活動の仲間だったことを知ってびっくりされたのである。

 先日は、元の職場の元同僚の妹さんに全く初めて出会ったのに、話すうちに話題が近づいて、初めてお会いしたのに、もう十数年来の友人の様に話している自分に気づきながら、苦笑したものである。

 「出会うべくして出会った」との思いが心に届き、期せずして「出会わせて」くれた「歴史的必然性」に感謝したねものである。

 これからも、こうした「出会いを大切」に、たくさんの「出会い」を楽しみながら、多くの人に学び教えられて、人生を歩みたいものである。
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エコ贔屓が必要な環境と経済。

2008年02月24日 | 世界の問題
 朝方に積もった雪がまぶしい中、今日は「きょうたなべ環境市民フォーラム」の会場である、近鉄新田辺駅前の商工会館のきららホールへと出かけた。

 そろそろ花粉症がひどくなる季節を前に、家人が花粉症対策?と銘打ったセールの「鼻に優しいテッシュ」を買ってきてとの注文だったので、アルプラザ平和堂の駐車場をお借りした手前、忘れてはならぬと先に、希望のテッシュ3箱498円を購入してから会場に向かった。

 「環境市民パートナーシップ」は京田辺市の「環境基本計画」の策定を契機に発足した「環境問題に取り組む市民グループ」であり、市行政の支援を受けて多様な取り組みを始めている。

 2008年は気候変動に関する国際会議でのCO2削減目標を明記した京都議定書の達成目標の初年度であり、日本は2012年迄に1990年を100とした二酸化炭素排出量をマイナス6パーセントにする約束である。

 地球温暖化の主原因が、20世紀に入ってからの急速な経済発展に伴うエネルギー消費拡大であるとの見解が1980年代に明らかになり、地球上の人類の活動に伴うリスクである二酸化炭素排出量の削減が大きな課題と指摘されている。

 我々の日常生活も、昭和40年代以降の高度経済成長に伴って、飛躍的に豊かになり、自動車所有と使用が飛躍的に増大し、ガソリン消費量が増大し、各種冷房、暖房を含む電気、ガス、石油などのエネルギー消費がうなぎのぼりになった。

 昭和30年代は、まだ車もまばらで、エアコンなどなく、火鉢に七輪、薪で風呂を沸かす生活が当たり前だったのに、経済成長、所得倍増に伴って、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が電化製品の三種の神器となり、1964年の東京オリンピックを契機に70年の大阪万博を経て、自家用車、カラーテレビ、クーラーが三種の神器となった。

 現在に至る、たった数十年の経済発展がもたらした大きな地球環境への負荷は、いまや取り返しのつかないほどの危機状態に入っており、2050年にはー平均気温が6度以上上昇し、海面が2メートル以上上昇するとの予測である。

 あらゆる動植物の生態系に大きな危機が訪れるだけではなく、ツバルをはじめとする小さな島国や海抜ゼロメートル地帯を多く有するバングラデシュや様々な国々で陸地が住めなくなるという状態を招くと言われている。

 日本人の経済的豊かさは世界の中でもトップクラスであり、アメリカ、EU諸国、石油産油国などに続いて、中国、インドなどの急速な発展が市場原理に伴って膨張して行くと、自らの地球を「住みにくい星」、つまりとんでもない生存権を危やぶむ時代に突入せざるを得ない。

 誰もが「自分だけは・・・」という「エコひいき?」を止めて、止められること、我慢でせきること、あきらめること、そして昔の良かった時代を取り戻す工夫をしなくてはならない。

 「衣食住」と全ての行動について、人類の本当の英知が試される時代である。

 環境問題には「エコ贔屓」が必要で、環境保全あっての経済論理だと思うのである。
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自動車事故からの生還。

2008年02月23日 | 感じたこと
 写真は英国王室のダイアナ元皇太子妃が事故死した時の自動車の残骸だが、あの痛ましい事故から10年以上が経った。

 私が「自動車事故からの生還」と題してブログを書くのはダイアナさんについてではなく、身近に起きた友人、知人の関係者の自動車事故からの「生還」を教訓も交えて、嬉しく感じたことからである。

 ダイアナ元英国皇太子妃の自動車事故死は、王室のスキャンダルを追っかける「パパラッチ」と称される一匹狼的「写真屋」たちの追撃が原因とされているが、いまだに謎めいた俗説や逸話があり永遠になぞの部分がある。

 ちょうど同じ頃に、私たちの有機八百屋の京都の仲間の荷物を運んでいた、その当時30代だった青年が早朝に一瞬の「居眠り運転」で、大阪、京都間で前のトラックに追突して重傷を負い意識不明で救急車で搬送され、阪大系病院の集中治療室に約3ヶ月近く入院し生死の間を行き来したが、奇跡的に回復したことがあった。

 現場近くの警察署に搬送された事故を起こした2トントラックは運転席はへしゃげていて、運転していた彼がどのような状態で命をとりとめたのかが不思議なくらいだった。

 荷台の食品や調味料の瓶が粉々に割れてしまっていて「商品」としては使用できない状態だったことと、彼が搬送された病院に見舞いに行ったが面会謝絶の状態で、幼い子どもを抱えた若い奥さんがおろおろと応対されていたのを思い出す。

 しかし、幸いにも事故を起こした彼は半年後には退院して、辛うじて全く運転とはかかわりのない仕事について何とか社会復帰した。

 そんな記憶が強烈だったが、昨年、またしても私の知人が地方都市で、やはり「居眠り運転」で自損事故を起こして、地元の救急病院に意識不明で搬送されて、集中治療室で意識が戻ったらしく、軽四輪のトラックは見事に大破していて生存は奇跡的だったらしい。

 その事故の報告を本人から電話でいただいてから約二が月後に、今度は職場の40代の女性のご主人がダンプ運転手で、過労のためかやはり居眠り運転らしく自損事故を起こして重体となったと聞いたのである。

 全くご主人に意識もなく、今日明日と生死をさまよっておられる状態だったらしいが、なんと慰めていいのやらと言葉に困るほどの事故であった。

 しかし、幸いにも両者とも「奇跡的」に集中治療室から一ヶ月余で脱出され、度重なる長期のリハビリ生活を経て、60代後半の知人は昨秋に転院され、ようやく自力で歩けるようになり、1月下旬にはお会いすることが出来た。

 もう一人のご主人は面識はないが、同僚の夫人にお聞きすると、意識も戻ってからは順調に回復され、自力歩行でリハビリに励んでおられるが、立ち座りが現在も困難だと聞いた。

 いずれにせよ、奇跡的な回復と社会復帰が待たれる状態で喜ばしい限りである。

 不幸中の幸いな事例となったが、くれぐれも事故に繋がる「寝不足」や「過労」の運転を避けるようにと、自分自身にも肝に銘じる機会となった。

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世界がもし100人の村だったら。

2008年02月21日 | 世界の問題
 数年前にベストセラーとなった「世界がもし100人の村だったら」を皆さんはご存知だろうか。

 地球に住む世界の人口が約65億人といわれていますが、この地球の人口を、もし100人の村に縮めて現状のあり様をわかりやすく見てみるとどうでしょう。

 そういうコンセプトの小さな本であり、池田香代子さんという東京生まれのドイツ文学翻訳家が訳されたものなのである。

 私たちの地球のいろんな現実を人口、宗教、民族、性別、人種などで大まかに100人中なら何人になるかを国連統計や各種のデータをもとに類推し、子どもたちにもわかる形で表現されていて、国際理解と人類の諸問題について考える、いい材料となっているのである。

 彼女は今年還暦を迎えられた小柄な女性なのだが、著書に「哲学のしずく」や「花ものがたり」があり、訳書としては「完全クラシック グリム童話」、ゴルテル「ソフィーの世界」、フランクル「夜と霧」、「やさしいことばで日本国憲法」などがある。

 現在は多くのNGOや難民申請者の支援活動をされる傍ら、全国各地での講演活動をされていて、「世界平和アピール七人委員会」のメンバーでもある。

 そんな彼女が「世界がもし100人の村だったら」の続編として出された「③たべもの編」と「④子ども編」を読んだので、少し紹介したいと思う。

 村人100人のうち16人は一年を110万円以上で暮らし、いろんなものをたくさん食べています。そのうち2人は日本人で一年を平均360万円で暮らしています。

 43人は一年を64万円で暮らし、きちんと食べています。

 41人は一年を8万円以下で暮らし、ときどきしかたべられません。

 12人は、戦争や干ばつや洪水や砂漠化のために、いつもお腹をすかせています。

 また「子ども編」では、100人の村では、34が子どもです。

 でも半数以上は、その存在が認められていません。・・・そして日本の子どもたちは50年前の半分以下に減りました。

 世界の子どもがもし100人だったら、16人は働いています。

 そのうち10人は、けがや病気の危険にさらされています。

 こころに傷をおう子どもも、すくなくなく、ほとんどが学校に通っていません。

 「たべもの編」に戻れば、この村でいちばん残飯を捨てているのは?

この村でいちばん太りすぎなのは?とも問うています。

 2050年には、地球上の人類は90億人となります。

 わたしたちの「たべもの」の未来はどうなるのでしょうか。

 子どもたちが子ども時代をうばわれることは、人類が生き延びるのに欠かせない、しあわせの記憶がうばわれることです。

 皆さんも、一度読んでみてください。

 
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クイズか大食い!!

2008年02月20日 | テレビマスコミ
最近のテレビに始まったわけではないが、テレビ番組の視聴率競争は番組を提供するスポンサー企業にとってはも何百万、何千万円の宣伝費に見合う成果を求めているわけだろうから、やむを得ない面もあるのだろう。

 しかし、最近の視聴率を稼いでいる番組の多くは、お馬鹿キャラタレントを含む常識「クイズ番組」か、大食いタレント?をゲストに迎える「食べ歩き番組」がやたら目立っている様である。

 今日の昼飯を食べた、隣のある中華料理屋さんで、隣に座った中高年のおばちゃんたちの会話が耳に飛び込んできた。

 「あんた、クイズ・ヘキサゴンって観てる?」「ほんまアホやな、あの○○っていう子」、「あんなん私でも分かっているのに、何であんなにお馬鹿さんなんやろう」・・・。

 続いて、「里田まい、つるの、上地雄輔、スザンヌ、木下優樹菜」などの所謂「お馬鹿キャラ」のタレント名を思い出しながら、ひとりひとり上げては笑っているのである。

 そして、次には「大食いタレント」のお話に移り、あの「ギャル曽根」さんのお腹の秘密についての情報といおうか憶測なのか分からないが、よく観ていて知っているらしく、どんどんと出てくるのであった。

 私も、フジテレビ系列の「クイズ・ヘキサゴン」の一部は観た事があるが、島田伸助の司会で、「お馬鹿キャラタレント」を笑い飛ばしている番組で、結局は視聴者に「私の方がまだましやや」と思わせるための「演出」としか思い様のない「珍答」「迷答」が続くのである。

 テレビの視聴率獲得作戦の裏側は知る由もないが、どう考えても「お馬鹿キャラ」を演出したテレビ局の脚色としか思えないほどの進行が続くのである。

 実際は知らないが、日本テレビの長寿番組のひとつである日曜日の夕刻に放送されている「笑点」という看板番組も、高視聴率だと思われるが、毎回出される「お題」に対して、手を上げて答える東京の落語家たちの「面白い答え」は、台本があると聞いている。

 テレビ番組で記憶に新しい「あるある大辞典」の「やらせ実験」や「創られたデータ」の発覚で、番組自体が消滅してしまったが、テレビ番組が視聴率を稼ぐためにする「演出」には、創られたものやでっち上げが少なくないのである。

 ニュースや特集番組においても、必ずしも真実が伝えられているとは限らないのが現状であり、茶の間でテレビを見ている視聴者は、ついつい真実と錯覚してしまっていることも多いと思われるのである。

 つまり、「テレビ番組」は、大半がつくられているいるのであって、「面白、可笑しく」「視聴者が優位を感じたり、ほくそ笑む」ことの出来る「お馬鹿ぶり」や「大食い」が、今視聴率稼ぎには、てっとり早いというわけなのだろう。

 テレビ番組の情報やニュースを鵜呑みにしないで、「つくられたもの」として、鑑賞する必要があることは言うまでもない。
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海自艦艇が漁船を撃沈!!

2008年02月19日 | とんでもない!
 海上自衛隊の最新鋭イージス艦「あたご」が千葉県房総半島の南の野島崎沖で、今朝の4時過ぎにマグロはえ縄漁船「清徳丸」全長約12メートル、7・3トンに衝突し、漁船はあっという間に船体が二つに割れて船主の吉清さん親子が行方不明になっているという。

 とんでもないことである。

 今から20年前の海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と大型釣り船「第一富士丸」が衝突して、釣り客ら30名もが死亡した事件を思い出させる大型自衛艦の怠慢な事故ではないだろうか。

 いくら真っ暗闇の太平洋上とはいえ、昨年就役した最新レーダーを装備したイージス艦が、なんと小さな漁船の横っ腹に体当たりして真っ二つに漁船はなって沈没状態に一瞬でなってしまったわけである。

 最新の対空防衛システム機能を備えた1400億円もの建造費で作られた新鋭艦が、仲の良い親子の漁師を行方不明に突然させてしまった罪は、言い開きの出来ないとんでもない殺人行為である。

 高度な防空戦闘能力を有するイージス艦ではあるが、レーダーは対空の視野が主で、海上に浮かぶ小さな漁船を見つけるのが遅れた様である。

 艦艇には前方左右と後方を含め10人程の見張り役がいて、24時間体制で肉眼や双眼鏡で監視していたというが、ハワイ沖での米軍との共同訓練で対空ミサイルの発射実験などを行っての神奈川県横須賀基地への帰還途中であったらしく、敢えて言えば、東京湾を前にして監視も怠慢になっていて見落としたのではないだろうか。

 600メートル前方に緑の明かりを発見したが、300メートルまで接近するまで漁船であることに気づかなかったらしく、安全航行上の鉄則である「早期発見」と「回避」が間に合わず手遅れで激突したらしいのである。

 全長165メートル、幅21メートル、排水量7750トンの国内最大の護衛艦から見れば、まるで豆粒の様な漁船だったろうが、対空戦闘機能は最新鋭かも知れないが、海上にある小さな漁船の乗組員の命を大切にすることの出来ない「無謀な艦艇」と言わざるを得ない。

 日本国憲法で「戦争放棄」を規定しているわが国に、全く矛盾した自衛隊という名の軍隊があるという違憲状態が、戦後60年以上続く状況下で、自国の防衛と自国民の命を守るべき「軍隊」の「自衛隊」によって、またしても国民の命がないがしろにされたのである。

 沖縄をはじめとする日本国内のアメリカ軍の基地や駐留する兵士たちによる犯罪行為も続いていて、先般の米国海兵隊員による少女暴行事件が問題となっている最中に起きた、とんでもない暴挙である。

 「怒り」と「憤り」を何処にぶつけたらいいのか、関係者や親族のお気持ちは察するにあまりあるが、政府の対応や防衛大臣の会見に、なんら国民の命を奪ったであろう重大な責任を感じるコメントは感じられなかった。

 業務上過失往来危険容疑以前の問題である。
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「運気って」何だろうか・・・?

2008年02月18日 | とんでもない!
 今年も早くも一ヶ月半が過ぎて、商売をする方にとっては、「ニッパチ」と称され、二月と八月は客も少なく儲けが悪い月と、昔から日本では言われている二月の真っ只中である。

 「おっさんフリーター」としてパートで勤めている事業所には、女性の営業スタッフ仲間が4人いて、20代、30代、40代と思われる彼女たちが、仕事を終えて事務所に戻った今日、この頃まるで「運気がない!」と嘆いているのである。

 そう言えば、今年に入って1月も営業成績とも言える結果が芳しくなかったのだが、2月もあまり良くないというのである。

 外歩きの営業活動で「契約」を取る仕事で地域や相手があるので、私は「いい時もあれば、悪い時もある」と割り切っているが、彼女たちにとっては結果の悪いのは「運気がない」または「運気が落ちている」ということなのだ。

 私自身は、このブログにも書いたが、最近流行とも言われているテレビやマスメディアが取り上げていて視聴率を稼いでいる「細木や江原」に代表される番組や事象に関心はないし、他人の人生や将来を勝手に悪く予想するなんて輩を信じることはない。

 しかし、世の女性たちの多くはテレビ、週刊誌、番組での特集などの「占い」「血液型」「生年月日」「運勢」「運気」などが大好きで、仕事や家庭や友人関係、また「恋愛」や「金運」なども、こうした「運気」によると信じているらしい。

 確かに私も「遊び」としては、血液型や星座占いを見たり聞いたりする場合はあるが、全く根拠に乏しいものなので話題としてのお話として受け流している場合がほとんどである。

 今日も外歩きの営業を終えて事務所に私が戻ると、彼女たちは「運気の有無」のおしゃべりの真っ最中であり、少しだけ結果のいい私に対して「一緒に歩いたら運気がもらえるかも」と言うのである。

 私自身は決して「運気」を信じるものではないのだが、彼女たちは「運気を奪うと悪いから止めとくわ」と言って笑っているのである。

 そして、「やっぱりもっと黄色のものを身につけないと」などと話しているので、「何で黄色なの?」と聞いてみると、「金運がつく」からと言うのである。

 どう考えても不思議なことである。

 「黄色づくめ」で金運がつき、誰かの「運気」を奪えれば、自分自身は努力や汗をかかなくとも「幸せとお金に不自由にならない」とでも思っているのだろうか。

 世の中には、この女性たちの「運気」を信じる思いを「商売」や「金儲け」に結び付けている、たくさんの魔の手がはびこっているのである。

 「遊び心」の範疇で「運気」や「占い」を信じたり語ったりするのは許されるのだが、あまり真剣に仕事や人生に「運気」を持ち込まない方が、身のため、人のため、家族のためであると思われるのだが、如何なものだろうか。

 「運気」を得るために「お払い」をしてもらいたいと言う彼女たちがいる。

 「招き猫」にでもお願いしてみたらいいのでは。
 
 
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