ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「組織と個人」

2009年06月29日 | とんでもない!
 多くの団塊の世代と呼ばれた年齢層が、2007年問題などと称されて、社会の一線から退こうとしている現在、あの若き闘争の時代を生きたはずの「団塊の世代や何処?」と呼ばれかねない状況と化している。

 つまり、1960年代から1970年代にかけての「学園闘争」や「反安保闘争」と称された、社会や政治に対する「アンチ」や「怒り」のデモや街頭行動の渦の中にいた若者たちが、いまや団塊の世代と称され、社会からドロップアウトしつつある事態になっているのである。

 あの若さは何処?。生きているものは全て老いては行くが、その心根や情熱、または反骨精神とやらは何処に消えてしまったんだろうかと、自問自答することしきりである。

 あの時代を生きた者の一人として、大きな社会、組織のうねりの中で、ちっぽけな個人の力や考え方が、何処まで通じるのかと自問自答することが多かったと記憶している。

 それから数十年、社会を、政治を変えようと、自分自身と語りながら、多くの友や知人の話を耳にしながら、それなりに戦ってきたつもりなのだが、ちっとも社会や政治が変わらないと言った感じの絶望感も、しばし感じていた。

 大きな力、すなわち社会を構成する大きな常識、つまり「組織を大切にする力」に対して、やはり「個人の大切な心」が踏みにじられ続けてきたということなのである。

 多くの議論、アクシデント、対応が必要な場合に、組織の論理、つまり個人は抹殺されて、組織の存続、維持が間違いなく優先させられてきたのである。

 現在、テレビマスコミだけでなく、いたるところで「個人情報」を取り巻く問題が露呈して、個人の名前、住所、電話番号などの公表が控えられたり、行政、銀行、郵便局などをはじめとした公的機関では、個人を証明する書類の提示などが求められている。

 しかし、それは何のためなのだろうか。決して「個人を尊重するため」ではないのだ。

 つまり、大きな組織や行政、銀行、郵便局などでの「間違いやミス」があった場合の「言い訳」、つまり、「責任逃れ」のための「アリバイ作り」なのではないだろうか。

 結局、日本社会だけではないだろうが、大きな組織は、個人などどうでもよくて、「組織それ自体を守る」ための小手先の「モラル」あるいは「マニュアル」として、「個人情報を守る」という形で、組織的思考を優先させているに過ぎないのである。

 結論的に言えば、「個人は尊重されず」、全て「組織のための論理」が優先しているのである。

 「当たり前だろう」と思う方も多いかも知れないが、組織は何のためにあるのだろうか。

 「個人を守るため」にといわれているが、全く逆で「個人を犠牲にしても組織を守る」ために機能しているに過ぎないのだ。

 社会や政治、経済などの仕組みや不条理なルール、モラルなど、ひとつひとつの現場や事象に照らしてみれば、一目瞭然である。

 「自分」という個人を「組織」に利用されない「自分らしさ」を大切にしよう。
コメント (1)
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