ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

大晦日。一年ありがとう。

2010年12月31日 | 季節の話題
 いよいよ一年の最後の日、大晦日もあと数時間で終わって、新年2011年の幕開けが近づいてきました。

 一年を振り返りつつ、新年への準備を忙しくされていることでしょうが、私も朝から散髪に行って、めったにしない愛用の自家用車の洗車をと試みましたが、なぜかセルフの洗車機が私の車には相性が悪いのか、途中で止まってしまって最後まで洗車が出来ず、昼ごはんが済んでから自らの手と水と石鹸水で洗い直して、ようやく少しキレイになった様な気がします。

 また午後からは正月のお年始に使う、地元の「でこ栗」とい銘菓を中心に、「お年賀」の贈答品としての和菓子類を買い備えて、車を洗うついでに玄関先もついでに雑巾がけしました。

 一年の最後の日といえば、皆さんは一番に何を思い浮かべられるでしょうか。

 除夜の鐘、年越し蕎麦、紅白歌合戦、墓参り、大掃除、おせち作り、年賀状書き、お年玉様の銀行からの現金準備などなど思い浮かべるのですが、何と今日は土曜日ということもあって、銀行からの払い戻しの自分のお金なのに、手数料がかかるという日になっていて、明日から三が日は銀行が休みなので、しょうがないといいつつATMにはお客さんの長い劣がた並んでいました。

 私自身にとっては、やはり「大晦日」は、「年越し蕎麦」を食べてから、除夜の鐘衝きに行くのが恒例となっているのですが、今年の今日、大晦日は全国的に冷え込んでいて、雪が積もっている地域もあって、相当の寒さ、今年一番という寒気の到来ですので、十二時前後の年越しの鐘衝きは相当覚悟がいりそうです。

 意外と私の自然食品のお客様も「年越し蕎麦」を所望される方が多くいて、昨日も他の食品と共に売っていたのですが、全部売り切れてしまいました。

 やはり寒い空気の中で、お寺さんに参っての「除夜の鐘衝き」よりも、温かな美味しい「年越し蕎麦」を暖房かエアコンの効いたお部屋の中で、ご家族で召し上がるわ方が人気があるのは当然ですが、昨今は「年越し蕎麦」にとどまらず、饂飩屋さんの陰謀で「年初メデタイうどん」が宣伝されていて、鯛の切り身の載った「うどん」を食べる習慣を流行らせようとしているようですが、如何でしょうか。

 一年の計は元旦にありと、昔の人はよく言いましたけど、最近の若者にとって正月、元旦は特別気持ちも改まるといった感じではなく、ただ年の初めは「あけおめ!」などという、略語のメールなどで挨拶を済ましてしまう傾向が強いようで、少し残念な気がしてなりません。

 昨日もやおやの営業で町を走っていたら、冬休みで暇をもてあました中学生たちが数人群がってコンビ二のカウンターでドリンクを飲みながら、お互いが各々のゲーム機で遊んでいました。

 時代が一年、一年と変わって行く感じて、大晦日やお正月に特別な感傷や節目としての改まった気持ちを感じることが、年々少なくなって行っているように思うのは、私も年をとった証拠なのでしょうね。

 今年も一年、ガリバー通信をご愛読?いただいて、ありがとうございました。良い新年をお迎え下さい!
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{注連縄」が減少!

2010年12月30日 | 季節の話題
 今日は晦日、明日は大晦日と年の瀬が迫り、日本列島は明日からシベリア寒気団の南下に伴って寒波が押し寄せ、天気予報では北海道から九州まで全国各地に相当な雪が降るといっているので、お正月にかけてとても寒い年末年始となるらしい。

 私は、自然食八百屋の移動販売の年内最後の営業で車を走らせていたのだが、町に家々の玄関先に「注連縄」が飾ってあるところがめっきり少なくなったと感じだのである。

 経済の動向とでも言うべきなのか、人々の節約癖?がここまで行き渡ったとでも言うべきか、当然二十年近く前のバブル期と称された頃には、家々に注連縄飾りだけでなく、門松や正月飾りが結構華やかであったと記憶しているし、我が家でも近くの障がいしゃの作業所で作られた「注連縄」を届けていただいた数年間は玄関先に飾っていたし、ある年には友人が創作的に作ってくれた「門松」も玄関を飾ったこともあったのである。

 玄関先の「注連縄」だけでなく、今から思うと年の暮れから行き交う自動車のナンバープレート付近につけられた「自動車用注連縄」も目だっていたのだが、最近はほとんど見なくなったばかりか、スーパーや近くのお店でも大量に積み上げられていた「注連縄」が見当たらなくなっているのである。

 そもそも、「注連縄」とは、神社の神祭具で、宗教的な紙垂(しで)をつけた縄であり、「標縄」や「七五三縄」とも表記するのだが、一般的には「しめ縄」でもわかるのだが、多くの日本人がどういう気持ちで、この風習を見習ってつけていたのかは甚だ疑問である。

 神社神道では、「社(やしろ)」、神域と現世を隔てる結界の役割を意味するもので、注連縄は、二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印ともなっている場合があるのである。

 お旅所や海の岩礁、奇岩などにも「注連縄」が張られ、よく知られる「夫婦岩」に張られた「注連縄」は有名だが、日本の正月、家々の門、玄関、出入り口などに飾る注連縄は、「厄や禍を拭う結界」の意味を持ち、大相撲の最高位の大関の中で選ばれた力士だけが締めることを許される「横綱」も、この注連縄である。

 また現在でも雷(稲妻)が落ちた場所で、特に水田などでは青竹で囲い、注連縄を張って五穀豊穣を願う慣わし行事が各地で行われている。

 この起源は、日本神話の天照大神の天の岩戸からといわれ、稲作信仰と神道の根幹をなし、縄の材料には刈り取った稲の稲わらを干したものか麻が使われていて、古神道の自然崇拝や山や森を守る「神奈備」とも関係し、神が宿るとされた場所には「注連縄」を飾って証や印としていたのである。

 そんな由緒がある「注連縄」なのだが、一般的には「正月飾り」のひとつとして一般化し、年の暮れから七草粥を食べる正月七日までか十五日の小正月まで飾るという慣わしで地域や家庭によって異なる場合があるが、縁起物であり祈りと願いが秘められているのである。


 
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賀状と格闘した三日間。

2010年12月28日 | 感じたこと
 毎日出来るだけガリバー通信の書き込みを休まずにと思っているので、やおやの営業で遅くなる金曜日以外はほとんど毎日「ガリバーのひとりごと」をネットを通じて、不特定多数の人に読んでいただいているのですが、今年も新年の元旦に「年賀状を届けたい」との思いで、一昨日の日曜日から格闘して、ようやく今年も450枚の手書き賀状を投函できました。

 そのために、ガリバー通信の投稿がお休み状態になったのですが、賀状のデザインを決めて印刷するの一日、そして宛名の住所と宛先をボールペンで書き綴るのに一日、そして最終的には宛名ごとに「一言書き添える」のに一日と、なんと年賀状づくりから投函するまでに三日間もかかってしまい、ガリバー通信どころではない状態でした。

 それにしても昨年、いや今年の正月にいただいた多くの方からの年賀状を見ながら、住所録と照らし合わせたり、いただいた賀状の文章を読み返しながら、相手の現状とお顔や健康状態を想像しながら書き込んで行く作業は、結構労力が要りますし、なにせ一年ぶりの作業で、全く声も顔も一年間聞いたり見たりしていないこ人への「一年に一度の便り」のケースが多いので、少しでもと思いつつ気持ちを伝え、お世話になった方々への感謝や新年への思いを書き添えて行きました。

 出来れば丁寧にと思いつつも、なかなか走り書きで気持ちの一部分を伝えるのがやっとといった感じなのですが、一年に一度の便りの人たちにとっては、一枚限りの葉書なので、伝わるかどうか心配な面もあるのですが、誰もがこの一年「健康で幸せだった」ら言うことないのですが、人生の旅は「いろいろとあるもの」なのです。

 そのひとつが11月末から来る「喪中のため年末の挨拶を失礼します」という、「喪中葉書」の数の多さは年々増加する一方の感じで、自分も年を取りましたが、同様に友人、知人においても親戚、家族のご不幸があるので、仕方がないことなのですが、賀状を出すことは出来ませんので、注意しながらの「宛名書き」となり、今年も約30枚の喪中知らせがありました。

 人生の山谷、すなわち「のぼり坂」と「くだり坂」、そして「まさか」の知らせも含めて、びっくりすることもありますが、昨年夏に家族で行かれた夏休みの海で不慮の事故で亡くなった友人のことを思うと、今年の年賀状時には想像すら出来なかった「まさか」が本当に起きたとしか言い様がありませんでした。

 利き腕の「右腕」の肘より下と指先、肩がなんとなく凝っている感じで、腱鞘炎にでもなってしまいそうな疲れが今も自覚できる感じでですが、やはり年賀状は元旦の朝楽しみにしている「正月の贈り物」なので、自分自身も一枚でも親戚、友人、知人に、元気で新年を迎えられたことを伝えると共に、多くの賀状を出す相手への感謝と出会いの大切さを改めて感じさせてくれる「賀状書きの三日間」となりました。

 あと三日過ぎて、四つ寝たらお正月の朝を迎えます。楽しみにしている自分宛の年賀状と同様に、私の賀状も何とか元旦の朝に親戚、友人、知人宅に届きますようにと投函しました。

 
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来年は兎年。

2010年12月25日 | 感じたこと
 今日、自然食八百屋のお客様の高層マンションを、いつもの様にエレベーターに乗って、食品を届けるために訪問したときの気づきであった。

 何気なく、いつもの様にお客様の部屋のある階のボタンを押して、すぐさま「閉める」のボタンに触れて出発したのだが、閉じると開くの絵文字の下に「ペット」と記されたボタンがあることに初めて気づいたのであった。

 お客様の部屋を訪問した際に、奥様に聞いてみると何と「ペットを飼えるマンションとのことで、エレベーターにペットと共に乗車した際には、必ず「ペット」の押しボタンを押しておくと、各階のエレベーターの乗り降りの表示のところの「ペット」表示に「赤い点滅ライト」が点灯されて、「ペット嫌いやアレルギーの方」などに、ペットが同乗していることを知らせて、嫌な思いやトラブルを避けるための「ルール」としているのだという。

 「ペットを飼えるマンション」というのも珍しいのだが、そういった配慮や気遣いもできる様に、エレベーターに表示があるというのをはじめて知って驚くやら、「ペット天国」の国になりつつあると再認識したのであった。

 私自身は幼い頃から、母親の影響もあったせいか動物大好き人間として育ったので、結婚する前までは我が実家には常に犬や猫がいるのが当たり前で、思春期の頃の心の友人、または仲間としても大切に飼っていた記憶がある。

 しかし、我が女房はなぜか幼き頃の嫌な体験でもあってか、犬猫嫌いでテレビや新聞で紹介されていたり写真が写っているだけでも嫌っているほどで、理屈や理由ではなく生理的にペットとしての犬や猫も受け付けないみたいである。

 今年は寅年で来年は兎年ということもあり、まさか「虎」をペットに飼っている人はないと思うが、「ウサギ」をペットで飼っている方は少なくないだろうと思われるので、上記のマンションでの「ペット可」という入居条件には、何処までの動物がペットとして認められているのだろうかと考えて見たのであった。

 まさかの「虎」でなくても、最近は「イグアナ」や「大トカゲ」や、ひょっとしたらクリスマスに食べるためではないが「七面鳥」なども飼っている場合も許されるのだろうかとも思ったのだが、多種多様な「ペット」が棲んでいるのかと想像すると、エレベーターの同乗だけでなく、夜中の泣き声や動物臭など、飼っている人にとっては愛すべき存在のペットであったとしても、嫌な隣の住人や臭いや鳴き声に敏感で、嫌な他人もいるのではないかと思った次第である。

 いずれにせよ、いろんなペットが飼われている現代社会なのだが、人間同士のコミュニケーションよりも「ペットが大事」という様な方もおられる様で、集合住宅だけではなく周辺地域の住民の中には「動物嫌い」や「泣き声、臭い」が我慢できない人もいることを忘れないでいただきたいと切に祈るものでもあるが、特に来年の干支でおめでたい「ウサギ」さんも、動物臭が強い種類が多いので、くれぐれも「ペット」として飼っている方は注意をしつつ自重していただきたいものだと思うのである。
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「楽しいこと」のヒキダシ。

2010年12月23日 | 感じたこと
 皆さん、今年一年間でどれほどの「楽しいこと」を「ヒキダシ」に入れられましたか? 

 一年、365日ですが、あと八日というのでいから、357日、8500時間を超える時間を生きて来られて、多くの出会いや出来事を経験されたことと思いますが、どれほど記憶に残るような「楽しいこと」をヒキダシに入れられましたでしょうか。

 私の場合は、どんな小さな「楽しいこと」でも、出来るだけどこかに記したり、このブログ「ガリバー通信」で記録したりしながら、自分の人生の日々で起こる出来事や出会いを、出来る限り「楽しいこと」として記憶したり、記録したいと思っています。

 ついつい、自分の周りの出来事や出会いを、忙しさや邪魔くさく思って、「なんでこんなことせなあかんの?」と自問自答してしまうことが、皆さんもおわりだと思いますが、そんな時に自分だから出来ると思って与えられた「役割」や「使命」と思って「出来るだけのことをする」と、なにやら「楽しいこと」になってしまうものではないでしょうか。

 つまり、時には「嫌なこと」や「苦しいこと」、または「忙しいのに・・・」と思ってしまう邪魔くさいことも、何とか自分でチャレンジしたり、出来たりすると「とっても楽しいこと」や「喜んでいただくこと」に繋がるのではないでしょうか。

 元来、能力や性格や時間が足りないために、どうしても出来ないこともありますが、たいていの場合は、自分にも出来ると思えるようなことが、自分に与えられた使命や役割として「振られてくる」ものなんですよ。

 結局、門前払いの様な「断り」や「出来ません!」、と「やってもみないで」、しないでいるということは、「逃げ」以外のナニモノでもなく、せっかくの依頼やチャンスをみすみす逃してしまうことになって、「楽しいこと」の貯金、つまり「引き出し」にシマッタリ、入れておく様な記憶や思い出とはならないのではないでしょうか。

 今日も夕刻に、久しぶりに仕事帰りに、ある知人夫妻を訪ねたところ、大変喜んでいただいて、「楽しい!」と仰ってといだけましたし、寒空の下で開かれた恒例の屋外での住民たちによる「クリスマスコンサート」にも出かけましたが、地元の混声合唱グループの歌声や子供たちのハンドベルの演奏を聴くことができて、大変「楽しいこと」の引き出しに入れることができました。

 いつも、ちょっとした「出会い」や「出来事」を経験する時に、「幸いだな」とか「楽しいな」と思うようにしていれば、ほとんどのことは自分にとって、「楽しい人生」を演出してくれる材料のひとつとなってしまうのではないでしょうか。

 「ものは思い様」と言う言葉がありますが、まさに自分の思い方次第で、「楽しいこと」「うれしいこと」の貯金や体験が増えていくのではないでしょうか。

 クリスマスのイブイブの23日、今日も「楽しいこと」と「うれしいこと」をいくつか心のヒキダシにしまう事が出来て、とてもうれしく思います。

 皆さん、「メリー・クリスマス」ですよ。
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今年の十大ニュース!

2010年12月22日 | 季節の話題
 2010年もあと10日もなく9日ちょっととなり、今日は冬至で明後日が早やクリスマスイブとなった。

 恒例の年末行事の如く、新聞、テレビでも「今年の十大ニュース」とやらをやると思われるのだが、私の私流の思い出に残った「2010年重大ニュース!」を記すこととする。

 まず今年の漢字一文字として発表された「暑」に象徴される①「猛暑、極暑」が一番だったような気がするのだが、時が過ぎれば暑さ忘れると言った感があり、今や氷河期に向かっての「寒さ」がやってくるとの噂もあって、人間は忘れ易いものだなぁと、つくづく感じている。
リギリ
 ②は、円高が止まらない。今年はじめに一ドル85円台だったのだが、一時は80円ギリギリまで高騰して、不景気風が吹きまくる日本の経済界を震えあがらせたと思う。

 ③は、普天間基地問題をめぐる迷走「鳩山内閣」から、参議院選挙の民主党敗退を期に「菅内閣」が発足した。

 ④は、失業、就職難が新卒の大学生や高校生にも波及し、多くの若者が路頭に迷っている。

 ⑤は、ワールドカップでの岡田ジャパンの活躍やスポーツ界での日本選手の大活躍。

 ⑥は、尖閣列島沖での中国漁船による海上保安庁巡視船に対する衝突とビデオ流出事件。

 ⑦は、「ゲゲゲの女房」をきっかけに流行語大賞にまでなった「ゲゲゲの○○」などの妖怪的ブーム。

 ⑧は、やはりNHKの大河ドラマ「龍馬伝」で火がついた「坂本龍馬」の大ブーム。

 ⑨は、白鵬が双葉山には及ばずとも、汚点だらけの大相撲で一人横綱として活躍。
 
 ⑩は、ノーベル賞を日本の科学者が二人受賞したことと共に、中国人の劉氏が平和賞を受賞したこと。

 番外では、村木厚生労働省元局長の逮捕、起訴から無罪に至る、検察の偽装捜査や無罪判決。

      日韓併合100年を歴史的に再確認し、朝鮮半島の現状での北と韓国の休戦的朝鮮戦争。

      沖縄興南高校の甲子園、春夏連覇。

      南米ペルーの炭鉱落盤事故での37人の救出劇。

      虐待や餓死など、幼児や児童を中心とする信じられない殺人行為の表面化。

      名古屋市、阿久根市など、市長と市議会の対立をめぐる住民投票を求めるリコール運動。

      ハンカチ王子のドラフト一位日ハム指名と「仲間」を持ってる発言。

      「みんなの党」や「立ち上がれ日本」などの新党のスタートと与野党の無駄な攻防。

      ロシア美人スパイのアメリカでの逮捕とその後。

      小沢一郎元民主党幹事長と菅直人首相との「政治と金」をめぐる確執。

      地球環境の保全のためのCOP10の名古屋開催と成果のない結果。

      元フォーククルセーダーズの加藤和彦などの自殺。

      沖縄返還密約をめぐる西山裁判と普天間基地の返還と日米安保50年の歴史。

 などなど、思い出すだけでも多種多様にあって、十大なんて順序をつけ難いので、重大ニュースと番外編とした。

 
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「すんまへん」

2010年12月21日 | とんでもない!
 今年もあと十日となり、先日の流れ星に次いで、今日は月食が見られる日だったはずなのですが、生憎の雨模様で残念ながら「月蝕」を見ることは出来ませんでした。

 満月のときに太陽と月の間に地球が入った形で、せっかくの「満月」が地球自身の影に隠れて、「月が欠ける」、すなわち「月蝕」が生じるのですが、最近はもっぱら「月食」と書いたり、記したりすることが多く、「月蝕」は常用外使用ということになっている様です。

 いずれにせよ、太陽系宇宙空間に浮かんでいる我々の住む「地球」が、自らが原因で「満月」のはずの「月」を満ち欠けさせてしまうというのは、壮大なスケールの話のはずですが、いつごろから人類はその事実を知ったのでしょうか。

 今私の手元には、ここ数年愛用しているルナカレンダーと歳時記カレンダーがあって、いずれも今晩の月については「満月」と表し、皆既月食と記されていて、月齢は15.4で大潮であると記されています。

 明日は「冬至」なのですが、昼が一年中で最も短い日とされていて、明日から日脚は徐々に伸びていくというのですから、面白いものです。

 日の入りが16時31分、日の出が6時47分で、夜の時間がなんと14時間16分で昼はたったの9時間44分ということになるわけで、昔のように日の出から働き、日が沈んだら眠る一日の生活をしていたとしたら、とんでもなく長時間眠っていて、まるで「冬眠」に近い状態になってしまうみたいですね。

 そんなことを思いながら、今年一年を振り返って見る時期となったために、テレビや新聞メディアも盛んに「今年の事件、ニュース」を特集していますが、ほんとうに今年は「殺人」や「虐待死」などが報じられることが多かった年になった様な気がしています。

 裁判員裁判がはじまって、二例の殺人事件裁判では、一例では「死刑の求刑」が「無期懲役」となりましたが、もうひとつの裁判では「死刑」の求刑を裁判員も支持したのに、結局結審では裁判長が「無罪」を言い渡したのには「ビックリ」しました。

 私は、決して「死刑制度」を支持するものではありませんが、裁判員という無作為に選ばれた「裁判員」という名の国民、市民の代表が一生懸命考えて、証拠や証人の話を交えて熟慮した結果の結論を、いとも簡単に裁判長という職責において、全く正反対の「刑罰」、つまり、有罪との判決を無罪としてしまうのであれば、何のための「裁判員」なのかと思ってしまいました。

 ともかく、凶悪犯罪や不可解な殺人、虐待、差別、通り魔的犯行、ストーカーまがいの一方的嫌がらせなど、非人間的事件の多発がうなぎのぼりに増えている現代社会において、何が「まともな生き方」なのかを指し示す姿が、ほんとうに見えにくくなって来ていないでしょうか。

 政治家や企業人、先生や警察官、自衛官に公務員、どんな職業であれ、人間なのですが、あまりにも「非常識」な価値観で、他人を傷つけたり殺めたりすることが、いとも簡単に行われている時代となったと感じています。

 自然界に生きる「我々人間」が、自然の恵みと力に「生きる力と糧」を得てるのにも関わらず、驕りとしか思えない行動や権力を振るってはいないでしょうか。「すんまへん!」
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越南、印度、泰国、ラオス。

2010年12月19日 | ガリバー旅行記
 「ゴードウリヤー交差点」とタイトルがついた、私の知人の若き奥様の旅行記を預かって読んだのである。

 たぶん二十代に結婚した若き新婚夫婦が選んだ海外旅行先の最初がベトナムであったらしく、2004年に越南、2005年に印度。2006年に泰国、そして2008年にはラオスへと夫婦で出かけた時の彼女の旅行記なのだが、なかなか瑞々しい感性で書かれた旅行記は、私にも新鮮で一気に読み更けって400数頁の小さなサイズの自己出版の本なのだが一ヶ月足らずで読了したのであった。

 彼女は数ヶ月同じ仕事場でご一緒だった縁で、数回お昼ご飯を共にした時に語っただけなのだが、新婚間もない奥さんである彼女の方が積極的な旅志向の持ち主であり、だんなさんの方はともかく慎重派の典型的な旅志向だと思える食い違いや喧嘩が「旅」に関しては絶えない仲のいい夫婦の様であった。

 私自身は多くはないが、中国は内モンゴルへの20数回の旅経験を中心に、東南アジアではタイ、フィリッピン、バリ島、南アジアではインド、ネパールに旅したり、あとはオーストラリアと当時のソビエト連邦、現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシなどを旅した経験しかないのだが、やはり地元の庶民の生活の中まで、出来るだけ行っては食文化をはじめ、その地域、国の文化や生活習慣を見たり経験したりしたい方なので、いわゆるパック旅行や団体旅行は苦手だし、あまり行きたくはないのである。

 この本を自費出版で何冊か印刷したという彼女は、若き女性としては珍しい方かもしれないが、ちょっとした冒険心の持ち主であって、時間さえあれば現地の庶民生活の中に入って行って、簡単な英語とボディラングェージを駆使してでも、現地の人と少しでもコミュニケーションを取りたいという旅の仕方をしている人なのである。

 だから、東南アジアの前記した四つの国、越南、印度、泰国、ラオスを旅した時の旅行記の随所には、ご主人である彼との選択肢の違いや行動力の違いが出ていて、なかなか逆に楽しく読ましてくれる作品となっていたのであった。

 たぶん、私と妻が一緒に海外旅行したのは唯一オーストラリアしかないのだが、真逆と言ってもいい感じで、私は暴走こそしないが、やはり現地の生活者とのふれあいやコミュニケーションや出会いを少しでも求めて旅をしたい方なのだが、妻はたぶん「安全かつ慎重」な選択をする方の性格と思われるので、彼女は欧米志向の旅の希望はあると思うのだが、モンゴルや東南アジアへは、あまり行きたがらないのである。

 私は、彼女の旅志向が本を通じても共感できるためもあって、楽しく読ませていただけたのだが、やはり「旅の楽しさ」の根本に価値観というべき志向が異なっていると、あまり面白くは感じないのかも知れないと思ったのであった。

 まだまだ若い者には負けない?なんて言うのではないが、世界だけでなく日本の中も含めて、時間と金に余裕があれば、いろいろと旅して見たいと思っている私にとっては、彼女の書いている旅の記録や仕方が自分の志向に似ていて、余計に刺激になったのであった。

 何故、自分の旅行記を若くして記したのかと聞いて見ると、意外な返答が返ってきたのである。

 まだ30代の彼女なのだが、自分の孫におばあちゃんはどう生きたかを残しておきたいとのことであった。

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「断・捨・離」ってご存知でしたか?

2010年12月18日 | テレビマスコミ
 先日、突然「だんしゃり」しなきゃねと言う言葉を聞いたのだが、何のことか全く検討がつかなかったのだが、あるテレビ番組で、その謎がわかった。

 つまり、「断・捨・離」。

 「断」とは、入り込んでくるものをシャットアウトすることで、ものを買ったり貰ったりムヤミニしないことである。

 「捨」とは、そのものずばり不要なものを手放したり、捨てることである。

 「離」とは、物への執着から離れて、軽やかに生きることである。

 この三点、「断捨離」を進める本や話題が、テレビ、雑誌を中心とするメディアで特集されたりしているのであった。

 確かに私の長きにわたる人生においても、どちらかと言えば「断・捨・離」が下手糞であるが故に、いつも自分の机の周りや部屋が片付きにくいし、妻に言わせれば「要らないものは捨てる!」ということなのだが、なかなか捨てきれないし、断れないし、物への執着とは思ってはいないのだが、「いずれ使うだろう」とか、「もったいない」とか思ってしまうのである。

 それゆえに、確かに何年も積み上げたままの書類や本が所狭しと、いつのまにか部屋を占拠したりしていて、年の暮れが近づくと、少しは整理して片付けたり、捨てたりしようと思うのだが、なかなかできないのである。

 しかしである。いろいろなものの考え方、価値観があってもいいと思うのだが、私は「入るもの拒まず、去るものに躊躇する」という性格なのか、一番苦手なのが「断捨離」だと言っても過言ではないのである。

 人生において、年齢の違いで「大切なもの」や「要りそうなもの」は、違うかも知れないが、「何かの役に立つ」と思ってしまうものと、はっきり言って「不要なもの」があるのは自明の理である。

 私の場合は前者の「大切なもの」と「要らないもの」が混在しているのは明らかで、「整理整頓」とか「超整理法」とか言うノウハウや手法をいくら学んでも苦手なのであって、この歳までなかなか「うまくできない」のである。

 逆に考えれば、全てが理路整然と「不要」と「要」に分けられるというのが、そもそも難しいものであって、「いずれ必要なもの」や「あったら便利なもの」という、微妙なものが多いのではないだろうか。

 性格と言ってしまえば、それまでだが、たとえば歳の暮れだけではないが、「年賀状」を出すあて先に名を連ねている親戚、友人、知人たちの人数は、「人生の歴史と出会いの数」のほんの一部かもしれないが、なかなか「断捨離」できない典型的なものではないだろうか。

 一枚、一枚の宛名を見ながら、相手の現在や過去の出会いからの過程を思い浮かべて、ちょっとしたコメントを記すことがなくなれば、それが「潮時」なのかもしれないが、やはり「思い出」や「出会いの印象」は、忘れ去ることがなかなか出来ないものではないだろうか。

 私は敢えて言いたい。「断捨離のすすめ」は、合理的かもしれないが、情や思い出マデモ忘れたり、捨てたりすることに繋がっては「元も子もない」と思うのである。

 
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食物と病気

2010年12月16日 | 感じたこと
 私自身、この年になるまであまり病気と闘ったことがありません、と書けば嘘になるのだが、確かにここ十数年はまともに寝込んでしまうほどの病気や風邪もこじらせたことがなく、いたって元気であるので、誰もがガリバーはいつも元気ですねと仰って下さるのである。

 しかし、自然食八百屋を始めて、あっと言う間に16年が経って17年目の冬を迎えているわけだが、やはり全てではないが、添加物の少ない食品や無農薬や自然に近い農産物を主に家では食している関係もあって、特に不安を抱くような病気や症状になったことがないのは幸いなことである。

 この年齢になると、多かれ少なかれ「どこどこが悪い」などと多くの人が健康に黄色信号が出始めているようで、食事の前後に二三種類の薬を服用している人も多いのだが、果たしてなぜに体調が悪くなったのかとか、何が原因なのかとかはあまり考えないのだろうか。

 最近読んだ本の受け売りではあるが、ガンをはじめ、高血圧、肝臓病、心臓病などの現代文明病とも言われる病気の原因は、人間の体に合わない「食べ方」、「食べ物」のせいだと言われている。

 「薬」という漢字をよく見ればわかるが、「くすり」とは、草冠に楽しむと書く様に、植物性の食物を主に食べることで、体調もよくなり病気になり難いとの説が強調されているのである。

 つまり、人類の近代史における「食」について、3千年以上も前からある「漢方」(医学)では、「薬食同源」、「医食同源」という言葉があって、万人に知られてはいるが、その意味は「薬と食物は同じである」ということである。

 人間は特に日本人は、この百年ほどの現代に至って、昔からの和食や粗食ではなく、西洋化した肉食や乳製品などの動物性たんぱくや脂肪の多い食品を食することが増加して、大変な病気が増加しているというのである。

 肉食動物である「犬や猫」の場合を見てもわかる様に、彼らでも体調を壊すと、ある種の草を食べて体調を回復させることを知っているのだが、雑食人間の人間においても同様な面があって、昔からある「漢方薬」と言うのは、薬効のある草や木の茎、根、実を乾燥させて、種々組み合わせて作られているのである。

 英語の「薬」は、DRUGだが、これも「乾燥した草」、つまり「DRY HERB」が語源だというのである。

 我々が日ごろ食する野菜でもある、キャベツやセロリ、ニンジンなども、元はといえば野草を改良し品種改良してできたものであり、草と同様に「薬効効果」があるのが当然であり、「医食同源」は、「食物が病気を医やす」という意味なのである。

 さまざまな食べ物が食べれる現代人は、飽食の時代とも言われている様に、少なくとも食べ過ぎの傾向があって、特に動物性の食物を少し控えめにして、植物性の「薬効」のある野菜や食物を主に食べれば、体調不良や病気を治す力、自らの免疫力を高めることができて、ガンをはじめ、高血圧、肝臓病、糖尿病、心臓病などの種々の現代文明病を直し、元気で健康な人間に再生できると言うのである。

 日本人の食の実態が、昭和25年(1950年)と平成16年(2004年)では、肉が約9倍、卵は約6.5倍、牛乳は約25倍摂取していて、逆に米は約半分、いも類は十分の一に減少していて、現代病が飛躍的に増加している実態が統計上も明らかなのである。
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