ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

ローカルマニフェスト

2007年02月28日 | ちょっと可笑しいよ
 先日、地方自治体の首長選挙における「ローカルマニフェスト」の制作費をA4サイズで2種まで16000枚を限度に公費負担できる法律が可決し、我が京田辺市でも追加提案として、3月議会最終日に即決で条例改正案が可決する見通しとなった。

 この「ローカルマニフェスト」は、最近では談合汚職で逮捕、辞任した前宮崎県知事のあとの知事選に立候補し見事当選した「そのまんま東」東国原英夫氏が、選挙前に急遽早稲田大学の学生らの協力で作成した「マニフェスト」を配布し、有権者県民の投票行動にも大きな影響力を果たしたとされ、無党派層の支持が増加し当選に至ったのではと言われたのである。

 最近の国政選挙では、政党によるマニフェストづくりが常套手段となりつつあるが、地方自治体選挙では、まだ政策方針や具体的数値目標や財源、達成目標などを細かく明記した「マニフェスト」を公表し戦う候補者は少なかった。

 「地盤・看板・カバン」と俗に言われる、地域の地縁、血縁を武器にする「地盤」と有名な政治家秘書や息子などの「看板」、それに多額の選挙資金の「カバン」の有無で選挙の結果は決まると言われていたのである。

 そんな政治状況、選挙活動は徐々に変化してきてるが、まだまだ「××党の○○です」という連呼型の選挙が主流で、ともかく「名前を売る」だけの「政策や人柄」などは二の次、三の次の選挙実態なのである。

 統一地方選挙が迫り、昨年12月の地方分権改革推進法成立で、分権改革は第2ステージに入り、国から地方への本格的な税財源委譲と共に、団体自治の基盤の「住民自治」の強化に結びつく「ローカルガバナンス」のあり方が検討課題となっている。

 統一地方選の第一波は府県議会議員や政令指定都市の議会議員選挙で、市町村議員と首長選挙などは、第二波として、4月15日告示22日投票で、1週間の選挙戦が行われる予定です。

 分権時代に対応する自治体改革のあり方が大きく問われ、市民が安心、安全な暮らしを営み、未来に夢や希望が抱ける、生活支援とまちづくりが期待されている選挙なのです。

 そういう意味からも、立候補予定者が提案するマニフェストを通して、政策の質や中身が大きく問われる選挙であると思います。

 今週土曜日には、大阪市立中央区民センターで午後2時より、ローカルマニフェスト推進ネットワーク主催の「私のマニフェスト」発表会が行われ、ローカルマニフェストをめぐるパネルディスカッションも開催されます。

 首長マニフェスト、議員マニフェスト、市民マニフェストのあり方の議論と、実際のマニフェストの発表がなされ、自治、分権時代に求められる政策内容についての議論を展開するとしている。

 コメンテーターは、西寺雅也岐阜県多治見市長と大橋松行滋賀県立大学助教授があたり、コーディネーターは、ローカルガバナンス研究所所長の木原勝彬氏が務め、新川達郎同志社大学教授がオブザーバー役です。  

 私は週末八百屋で残念ながら参加できませんが、ぜひご参加を。
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「千の風になって」

2007年02月27日 | テレビマスコミ
 皆さん、今さら「千の風になって」かとお思いの方もおられると思いますが、私にとっては、作家、シンガーソングライターの新井満氏が2003年に朝日新聞が「天声人語」で紹介されて以来、原詩である詠み人知らずの英語詩を日本語に翻訳して、歌いヒットした曲なのである。

 実は、私は長野県に住む、シンガーソングライターの三浦久氏の歌う「千の風になって」で初めて知ったのだが、昨年暮れのNHK紅白歌合戦で、テノール歌手、秋川雅史さんが歌って、再び火がついたように大ヒットしているのである。

 「千の風になって」は、

 私のお墓の前で、泣かないでください
 そこに私はいません 眠ってなんかいません
 千の風になって 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています

 秋には光になって 畑にふりそそぐ
 冬はダイヤのように きらめく雪になる
 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
 夜は星になって あなたを見守る

 と歌い綴る詩が人々の心に深くしみいって、各々の肉親や大切な人々とのお別れや回想と共に、涙を誘ったり、感動で胸いっぱいになる人が多い曲なのである。

 私は淡々と、自分の母親の死と直面して、この曲を歌った三浦久さんの歌声に、最初にふれてから、この詩と曲の持つ力と影響力を感じていた。

 しかし、大のNHKの年末の看板番組で、知る人ぞ知るテノール歌手によって歌われて、ここまで大ヒットに再びなろうとは夢にも思わなかった。

 新井満さんは、故郷新潟の幼馴染の弁護士である友人の奥さんが癌で三人のお子さんと彼を残して、あっと言う間に亡くなってしまて、絶望のどん底に蹴落とされた彼らに、慰めの言葉もなく何の役に立つことも出来ないと思われたそうです。

 しかし、たくさんの仲間達が彼の奥さんの地道な社会貢献活動などを通して知り合っており、協力して彼女の追悼文集をとになり、「千の風になって、○○さんに寄せて」として出されたのです。

 この文集の中に、ある人が「千の風になって」の翻訳詩を紹介されたのを一読し、これを歌にしてみようと思い、何ヶ月もかかって原詩をみつけ、日本語の詩を作り、私家版のCDで発表され、一枚を彼女の遺族に届けられたのです。

 このCDは彼女を偲ぶ会で披露され、集った人々は一様に涙を禁じえなかったそうで、泣きながらこの歌を歌ってくれたそうです。

 私はアメリカ生まれのスーザン・オズボーンサンガ歌う、素晴らしい「人を癒す」歌声のバージョンが一番好きで、テレビの特集で放映された「千の風になって」で彼女のヒーリングの女王と言われる歌声に魅了されたのです。

 まだ「千の風になって」を購入されたり、自分の身近にダウンロードなどされていない方は、ぜひ、スーザン・オズボーンさんの歌で聴いてみてください。

 心の底から優しく癒されることでしょう。
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パエリアパーティー

2007年02月26日 | 地域の話題
 昨日の日曜日の昼下がりに、私のブログに時折コメントを下さる、尼ヶ池遍路ことS・Kさんが主催して、内モンゴルからの留学生である包海岩君と海霞さんを招いての「パエリアパーティー」が行われた。

 バオハイェン君は、同志社大学神学部の大学院生で、京都生活6年目の青年であり、その妹のナラングリさんは、同志社留学生別科で2年間、日本語を学んで、今春から名古屋の大学に進学するお嬢さんである。

 私とバオ君との出会いは、今から17年前と思うが、彼が13歳の時に、91年に開催した「内蒙古地球学校」(日本の小、中、高校生ら100人が参加)を企画し、交流する蒙古族の子ども達を探して、中華人民共和国、内蒙古自治区の赤峰市郊外のダライノールと称する大きな湖の近くの町、達来の中学校を訪ねた時が始めてであった。

 それ以来、既に17年の年月が経過していて、91年の内蒙古地球学校での交流に始まり、93年には「日本海地球学校」と称して、私達の町「田辺」を中心にモンゴル族の子ども達、約20名の男女が日本の家庭にホームステイして、その後「中国と日本を隔てる」日本海のすぐ傍の宮津市での海の合宿を経験したのである。

 その当時、彼は「宝海鷹」と中国語での名前表示をしており、とっても印象に残る「いい名前」だったので唯一よく覚えていた名前だったのである。

 その彼が2001年の3月31日に、突然電話をかけてきて、「ガリバーさん覚えていますか?バオハイェンです」と言ったのです。私は彼が日本の京都に留学することを初めて知らされて「落ち着いたら、ご飯でも食べよう!」と返答し電話を切ったのである。

 翌日、彼は関西国際空港に着いて、偶然にも日本滞在が長いモンゴル人のお世話で、大阪長居に一泊して、翌日正午に私と京都今出川の同志社大学正門前で8年ぶりに再会したのである。

 それ以来、京都に滞在する彼とは、友達として先輩として、いろいろと話し、遊び、飯を食ってきた。

 H・K氏は、彼と彼女の名古屋行き前に、何故か地中海料理の一種である゛「パエリア」を調理して、彼ら共々私たちにご馳走したいと招いてくれたのである。

 ハマグリ、海老、鮭、烏賊、ソーセージ、鶏肉、パプリカ、たまねぎ、人参、しめじ、セージ、サフラン、ワイン、オリーブオイル、にんにく、などの食材を切って炒めて、ライスは別に鉄板で炒めて、一緒に味付けして、最後にパセリとレモンの輪切りで出来上がりだった。

 屋外の庭で炭火で鉄板を温めて、炒めるアウトドア料理になったが、なかなかの美味に仕上がって、主催のKさんの会社の若き同僚の美男、美女と共に、我々3人と、彼の奥さんと母上で、相当量あった「パエリア」はなくなり完食したのである。

 日本人がスペイン風料理を調理して、モンゴル人と共に楽しく賑やかに食すことができたのである。まさにこれぞ国際交流である。ともかく美味しかったよ。感謝。
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三橋節子&鈴木靖将

2007年02月25日 | 感じたこと
 今夕、久しぶりに京都東山に車を走らせて、市立円山駐車場に軽ワゴン車を入れようとしたら、工事中のため車高1m89cmまでと書いてある。

 困ったなと思いつつも、他の民間の駐車場は満車のため、時間待ちが必要な状態で、春めいた気候のためもあってか、たくさんの観光客が八坂神社や高台寺、円山公園などへと足を向けているらしく人もたくさんであった。

 何とかおっかなビックリで地下駐車場へと車を入れると、アナウンスが聞こえ、あなたの車は車高が少し越えていますので、「4階駐車場へお停め下さい」との指示に安堵して、車をとめて三橋、鈴木両画家の「同時期展」の会場へと急いだ。

 京都東山祇園の「大雅堂」が会場であり、幸い鈴木靖将さんが会場におられたので、ご挨拶をして、ゆっくりと1、2、3階とそれぞれのフロアのお二人の作品を観せていただいたのである。

 三橋節子さんは、ご存知の方も多いと思われるが「湖の伝説」「三井の晩鐘」「花折峠」など琵琶湖周辺の風景や、東南アジアの子ども達などの作品等を残して、35歳の若さで転移性腫瘍のため亡くなった画家である。

 鈴木靖将氏は、60年代から70年代にかけては、とっても力強い心象風景などを描いておられた画家だが、三橋節子さんと結婚後7年間に描かれた作品を、現代に「同時期展」として掘り起こして、三橋節子さんの晩年の作品と共に展示されたのである。

 今から26年ほど前に、初めて縁あって鈴木靖将さんとお会いしたことがあって、それ以来機会あるごとに絵画展などの案内をいただいて、時間が許す限り観させていだだいている作家の一人である。

 10数年前には、滋賀の湖西の「栃の実茶屋」で開催された彼の個展に出向いて、全く予期せぬ形だったが、白い雪の野を背景に鹿が何匹か空を跳んで゜いる作品を何と購入したことがあるのである。

 私が唯一絵画として購入した作品が「鈴木靖将氏の作品」だったわけで、これも何らかな強い縁ではないかと一方的に思っている。

 そのうち、お嬢さんの「なずなさん」が数年前に、私が主催する毎夏の「内モンゴル地球散歩ツアー」に障害者施設の元気な指導員仲間と一緒に参加されて、より一層身近な友人の様に、私は思えた少し人生では先輩の画家なのである。

 今回の彼の奥さんであった三橋節子さんとの「同時期展」は、あの60年代から70年代にかけての「時代のエネルギーと葛藤」が両者とも違ったモチーフではあるが、作品の表現に共通するものもあり、ご夫妻での絵画のコラボレーションとでも言うべき企画であった。

 久しぶりに力強さと中には重たいメッセージ性を抱いた、作品の数々の中に彼の妹さんが嫁ぐ前の絵があり、会場で偶然にも、その妹さんご本人とご主人、お嬢さん一家、お孫さんに会った。

 現在は京都市が所蔵しているというその絵が約40年ぶりに、描かれているモデルである妹さん本人が再会できたのだという。

 「出会い」「偶然」そして「情熱」「パトス」等、力強いメッセージを改めて感じたのである。感謝。
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かぁさん!泥棒です。

2007年02月24日 | 地域の話題
 私は「やおやガリバー」という屋号で、有機農産物と無添加食品の移動販売八百屋を毎週末の金、土曜日に営業しているのだが、二日間の特に生鮮農産物と直接入荷もしくは少量卸をしてもらえない商品などを別の小売店に注文して、仕入れしています。

 昨日の朝も、いつもの様に愛用の緑の軽ワゴン車で、有機無農薬栽培の農家で、幅広く「きのこ類」や「根菜類」「果物」なども仕入れて注文に応じてくれる京都市南区のI農園に農産物をまず取りに行って、つぎに伏見の有機食品販売店に商品を取りに行った。

 小売店なので、営業時間の関係で、いつも9時前後に伺って、パートのおばさんと会話しながら、商品をいただきお支払いを済ませて、約10分程立ち寄る店なのである。

 昨日は少し遅くなったが、店先が既に開いていて、見慣れぬバイクが二台停まっていて、「何か少し変?」な雰囲気をすぐに感じた。

 入り口から顔を覗かせると、そこにはいつものパートのおばさんと、昔からの友人でもある女性店主が立っていて、狭い店内に4、5名の警察官がメモを片手に話していたのである。

 何となく直感で、「泥棒?」と聞いたら、女店主がうなづかれた。

 お店の裏側に回って、いつもは京都中部からの有機野菜類を取り扱ってくれているK有機からの発注品を置いてくれているので、取りに行くと、そこでは写真の如き、青い京都府警のジャンバーを着た捜査担当の警察官と思しき人が、指紋の採取や裏入り口のドアの破損箇所を丁寧に調べておられた。

 間違いなく、「泥棒に入られた」のである。

 いや、いや、突然ですが、当たり前だのクラッカーですね。古いなぁ!。前もって予告して「泥棒」が侵入するわけはないのだが、ビックリしました。

 間違いなく、泥棒のプロがいるとすれば、そのプロの仕業みたいで、下駄履きアパートと言われる、一階は店舗が三店あって、二階以上は住居アパートになっている構造で、住人は横から裏の階段を登って出入りするので、「裏」があるのである。

 人通りや車も結構通る表道から、ちょっと裏に入って、泥棒さんは金具でお店の裏ドアのノブ付近の網入り強化ガラスを手が入るくらいの大きさを割って、中から鍵を開けて、レジのみを探して現金を奪った模様であった。

 店内狭ましといえども、たくさんの安心、安全、美味しい食品や加工品、農産物があったはずだが、全く手をふれず、現金のみに目的があったらしい。

 隣のクリーニング店の女性店員さんが、裏の通路を掃除されていて、挨拶を交わすと、「うちの店も去年入られた!」とのことだったが、「同じ犯人とちゃうかな?」と頭をかしげられていた。

 いずれにせよ、「泥棒」は、いつの時代にもいて、そこ、あそこと物色しているとみえる。皆さんも「うちは大丈夫!」なんて思っていたら、痛い目に会いますよ。気をつけて戸締り、セキュリティに細心の注意を。

 
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地方自治体のお金。

2007年02月22日 | ちょっと可笑しいよ
 北海道夕張市が財政再建団体、つまり民間では倒産とも言われる状態になったことで、各地方自治体は健全な財政運営を目指しての見直しや計画作成を急ぎだした。

 全国の約1800の市町村の内、地方交付税の不交付団体という、国からの「お助け金」を貰わなくて経営が出来る財政状態の自治体も増え、現在は169団体もあるが、大抵の市や町では「財政破綻」が近づいていると言われ出している。

 小泉首相の「構造改革」の中で、竹中経済金融担当大臣を中心とする「骨太の・・」と「三位一体」と言われる財政改革や自立した自治体の確立などが、大きな国から地方への税源移譲や歳出削減として実施されだした。

 そこで、高砂市の市民ネットワークが「地方財政」の勉強会を開き、地方自治総合研究所の飛田氏が状況と解説をしてくれた。

 地方自治体に対する財政支援の大枠である「地方財政計画」と呼ばれる「国家予算」枠は決まっていて、2007年度の大枠は83兆1261億円と言う巨額であり、昨年度と比べてもほぼ変わっていない。

 つまり、地方財政計画では「基準財政需要額」と呼ばれる自治体の標準的行政経費を算出し、基準財政収入から差し引きしたものが赤字の場合の不足分を地方交付税として歳出援助するのである。

 主な地方財政計画の中身は、給与関連経費、一般行政経費、投資的経費であり、その他に公債費とその他がある。

 しかし現在、政府は地方財政計画を抑制して、地方交付税の削減にやっきに成り出していて、地方では主に投資的経費の削減と行政改革による経費節減が大きな施策となってきている。

 家庭や会社の「財布」の中身でも、「節約」は切実な課題なのだが、どうも小泉首相の5年余の地方財政の構造改革は地方いじめと言われる様に、国の財源不足を地方への歳出削減で埋め合わせようとする施策なのである。

 つまり「小さな政府」を目指すという建前で、分権改革と行財政改革を進める政府は、地方の行財政を結局抑制したり、厳しい締め付けをして自分達の長期にわたる失政のツケを取り戻そうとしだしたと感じている。

 わが市でも、「節約、抑制をせずに従来通りの歳出をしていくと、向う10年間で80億円、基金からの補填をしても60億円もの赤字が出る」という。

 国が奨励し圧力をかける「行財政改革」すなわち「行革」も、各自治体によって必要な要素もあるが、国は「行革」をやらせて「ご褒美」をあげると言う、「飴と鞭」の強制的な形に地方は自縛している。

 目先の臨時財政対策債や合併特例債などは、その場では大いに魅力のあるお金なのだが、据え置き期間があったとしても、近い年度から償還という利子つきの返済、すなわち公債費としてのローンを組んだみたいなものである。

 結局、国の言いなりの行政や主体的地方行財政経営が出来ない自治体では、近い将来、必ず「破綻」する可能性が高いとも言えるのである。

 税収は税制改悪などや景気回復で増えているのに、あまり荒っぽい行革や職員減らしや給与削減は好ましくないと、公務員の生活を守る立場からの警鐘が語られて、講義は終わったが、いろいろ示唆をうけ、予算委員会の質疑の参考としようと思った。
 

 
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熱い部分と重たい部分

2007年02月21日 | 感じたこと
 市議会議員としての通算16年目の春、4期目の最終定例議会が23日から約1ヶ月間開かれる。

 地方議会は原則的に年4回の定例会があり、現市長は3期12年行政のトップであったが、今期で引退される最終議会となる。

 6万数千人の地方都市の市議会議員を4期16年続けているが、もうすぐ改選の時を迎えるので、市役所も市内の巷も「選挙の話題」が飛び交っている。

 団塊世代の職員の定年退職が10数名いるし、議員の中にも今期で引退する人や4月の統一地方選挙の当落如何では、結果的に最終議会になる人もいる。

 私も4月29日までの任期なので、全く5月以降の生活は分らない。

 私が議員になった16年前から、未来が確実に見えない挑戦だったのだが、4年間の任期を与えられても、次の4年の保障は全くないのが議員の宿命である。

 昨日、友人の大阪のベテラン市会議員夫妻と共に、共通の友人の奥さんの弔いに通夜に参列するために新幹線で福山を往復したのだが、お茶タイムも含めて、いろんな議会関連情報の交換をした。

 団塊の世代の同窓生の一人であるN氏は、大阪某市の市会議員を24年間やっていて、今度の統一地方選挙で7期目になると言うが、議員職以外に親父がやっていた会社経営もしているので、選挙に万が一落ちても生活は大丈夫なようである。

 私の選挙時の肩書きは、現在「有機食品販売」なのだが、ほとんど赤字を出さないだけの小規模移動八百屋で、市議会議員報酬の額面37万5千円手取り27万円余だけが、議員活動と生活費の主な原資で全く余裕はない。

 家人いわく、「落ちたらどうするの?」。つまり議員は落ちれば、ただの人であり、即生活に困る難儀な綱渡り稼業なのである。

 別に生活を維持する「収入」を得る仕事か資産がなければ、失業状態になり、たちまち困ることになる。

 勤め人の「雇用保険」や、公務員特権の様な再任用制度などもなく、何期しても「退職金」もない。

 選挙に落ちれば早速翌月からは無収入で、即生活は座礁してしまうことになる。

 でも我が市でも、今回の選挙には多くの立候補者が噂となっていて、定数21の市議会に30人以上が挑戦するのだが、生活を賭けてやる人はごく一部である。

 団塊の世代の第2、第3の人生を「議員」にチャレンジする人や、若い被選挙権を持ったばかりの25歳を少し過ぎただけの青年たちの立候補予定者もいる。

 いずれにせよ費用の経済的負担と共に、「当選」し「議員」にならなければ、全く「ただの人」であり、誰も生活を保障してはくれない挑戦である。

 市政に参画して市政の変革やまちづくりの提案、納税者が納得いく予算の配分などのチェックなどを試みる「熱い部分」と裏腹に、こうした「生活のための経済」を考えると、無謀なチャレンジと言われる「重たい部分」である。

 何かへの挑戦には、常に「熱い部分」と「重たい部分」が潜在しているのである。
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親友の奥さんの死の知らせ。

2007年02月19日 | ガリバー旅行記
 夕方、何気なく見上げた西の空に、キレイな「お盆の様な月」と言ったらいいと思える月齢2くらいの平たい月が上を窪みにして横たわっていて、その少し高い空に、宵の明星と言われる金星と思しき惑星が輝いていた。

 市内の友人と奥さんとの語らいの後、車を走らせて我が家に向かう途中、私は愛用の軽ワゴン車から、その見事と思えるような「絵の如き空の二つの明かり」に魅せられ釘付けになった。

 近くの住宅街の駐車場付近に車を一旦停めて、やおら修理が出来て手元に帰ってきたばかりの「デジカメ」を取り出し、遠くの空の二つの天体の光景を撮影しようと何度も試み、あまり上手に撮れなかったが、上記の写真となった。

 何とか、月と星がわかるかな。

 夕食を終えて、明日提出の定例議会の一般質問通告の作成をしていると、二度ほど携帯電話に着信があったが、仕事を続けていると、固定電話の方に別の友人からの一報が入った。

 大阪の同業者?でもあるT市の市会議員のN氏の電話であった。

 今は広島県福山市に住む、私と彼にとって共通の小学校時代からの親友のK.T君の奥さんが亡くなったという驚きの知らせだった。

 携帯着信にはK.Tの名前が二度記録されていたので、携帯電話を手に少し心落ち着かぬ思いで、幼さ馴染みでもあり青春時代も成人してからも、機会あるごとに交流のあった同窓生の友人の声を待った。

 今、彼は目の前に奥さんのご遺体があり、「今も眠っているようだ」と落ち着いて語っている。そして昨日は彼女の57回目のお誕生日で、子ども達や孫達がみんな寄って、病床で彼女のお誕生日を祝いつつ、天に召される時の近さを悟って、「お別れ会」となったと言う。

 彼女は息苦しい中で、か細い声だが意識ははっきりしていて、「私は幸せだった」と言ったそうで、今朝肺がんのため亡くなったのである。

 私は彼に、ありふれた「ご愁傷様」という言葉だけは言いたくなかったので、彼と彼女の30数年間に思いをはせながら、言葉を探して電話口の彼の言葉を聴いていた。

 明日のお通夜と明後日の告別式の時間や場所を確認した後、やっと彼女の明るい生前の面立ちを浮かべ、友達夫婦として住む場所は離れているが、何度となく出会った彼女の「幸せに召された」お別れを心に強く感じながら、「ご冥福を祈ります」としか言えなかった。

 彼への拙い励ましを言葉にしながら、今日の夕べに観た「お盆の様な月と星」を思い返して、彼女が天上に召されることを、私に告げたのではないかと思ったのである。

 2月の夜、そう寒さは感じなかったが、凛としてキレイな月と星が西空に輝いていたんだ。僕はその光景に強い力を感じてシャッターを押していたが、それが彼女からのお別れのメッセージだとは、その時は気づくはずはなかった。

「千の風になって」、私たちを見守ってくださいな。今日お別れに行きます。
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第8回田辺混声合唱団、定期演奏会

2007年02月18日 | ファミリーイベント
 決して「やっちゃった」は、失敗や問題が出たわけではなく、気持ちよく「定演」を歌い終わったのである。

 14年前に、当時の田辺町時代に発足した「田辺混声合唱団」の指揮者として、迎えいれた「橋本利嗣先生」の指導の下、第一、第三、第四土曜日の夜、地元の住民センターや駅前の私立幼稚園のホールを借りての練習が続いて、今日2年余ぶりに、定期演奏会を持てたのである。

 発足当時は、150名近くいた団員も、若い人は結婚して住所が変わったり、年配の人は、体力や精神的な自信のなさや楽曲との相性が合わないなどの理由で辞めて行った人もいて、今回の「呉竹文化ホール」の舞台に立てたのは、約40名となった。

 「季節の便りに誘われて・・・」というキャッチコピーの「定演」の3部構成のステージにふさわしく、童謡・唱歌・「四季のメドレー」から、冬のメドレーと春のメドレーを第一部に歌った。

 二部は、ミュージカルの名曲を五曲、なんと英語の歌詞と格闘しながら、楽しく体をリズムにゆすって歌いあげたのだが、最後の 「I Could Have danced all night」では、胸に挿していた「赤系統のバラの花」を一斉に歌のラストで空中に投げて喝采を浴びた。

 そして二部と三部との幕間には、若い男性テノールの三人による、パフォーマンスで、幕前に出てきたお兄さんが、突然ビートルズの「イエスタディ」を歌いだして、仲間に引きづられて引っ込むという場面も演出された。

 第三部は、伝統的な混声合唱組曲として有名な「心の四季」をほぼ暗譜で歌い上げて、とっても気持ちよく会場の拍手を戴いたのである。

 アンコール曲は、田辺混声としての過去に歌った曲の中で、「大地讃頌」と共に、持ち歌の様になっている「筑後川」から「フィナーレを」と歌う「河口」を歌った。

 気持ちよく我々団員は歌い上げたのだが、聴衆の皆さんと一緒に歌いたいと思って、会場の全ての方々と、芹洋子さんが歌って大ヒットし、未だに親しまれている「四季の歌」を楽しく歌えた。

 この「四季の歌」を春、夏、秋、冬と歌って、五番として「ら、ら、ら」で歌っている時に、突然の如くこみ上げて来る感動を覚えて、不覚にも何故か涙ぐんでしまったのである。

 過去14年間の「田辺混声合唱団」の末席を汚しつつ、歌い続けながら、7回の定期演奏会に参加、出場して舞台には立たせていただいてきたが、初めての舞台での「涙」となって、自分でも驚きを隠しえなかったのである。

 「ありがとう」感謝です。団長さん、指導者の指揮者とピアノ伴奏の演奏家のお二人、またボイストレーナーやパートリーダーなどたくさんの関係者と会場に来て下さった皆さん。本当にありがとうございました。

 我が娘と五歳になる孫も、最後まで聴いてくれて、楽しんでくれた様子で、とっても満足した演奏会となりました。感謝です。
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鎹や御櫃

2007年02月17日 | 日本の課題
 上の写真は、何だかわかりますか・?。「御櫃」です。「おひつ」、すなわち、ご飯を釜で焚いて炊き上がったら、おひつに入れ替えて食卓の傍において、飯茶碗に盛るのである。

 私が小さい頃、大阪の実家では当たり前の光景だったが、いまや電気炊飯器やガス炊飯器が普及して、しかも保温までしてくれるので、多くのご家庭では直接、炊飯器から「ご飯」をよそっておられることだろう。

 また、「鎹」ってな字、わかりますか・?。これは、落語のネタにある「子はかすがい」の「かすがい」であり、日本家屋の柱と鴨居などの直角部分に、横揺れなどの振動があっても揺るがないようにと止める金具のことである。

 関西の落語家の一人である、桂ざこば氏がラジオで語っていたのだが、最近好きな出し物として「子はかすがい」を演じることが多いのだが、お客さんが「かすがい」と言っても、何のことかわからない人が多くなって、「鎹」の実物を持ち歩いていて、高座で「落語」を話しながら、見せるのだというのである。

 「落語」には、江戸時代を中心とする古典落語の作品が多くあって、落語家達も多様な「古典落語」を伝承し演じておられるのだが、明治、大正、昭和、平成と、時代が移り変わっても、人間模様としての喜怒哀楽や機微は伝わると思われるのだが、そのストーリーの中に登場する「モノ」や背景がイメージできないと、話が分らないのだ。

 そんな話を八百屋のご年配のお客さんと話していて、いろいろと思い出したのである。

 卓袱台の横に御櫃があって、まず神棚や仏壇にお供えのご飯がよそわれてから、家長である父のお茶碗にご飯が盛られてから、順次祖母や子どものお茶碗にご飯が入れられ、最後に母のお茶碗にご飯がよそわれる。

 そんな卓袱台の上には、父が仕事で遅いときなどは、小さな蚊帳のような笠が父用の食事が盛られた上にかぶせられて、父親の帰りを待つという形で、夕食の家族の食事はされていた。
 
 畳の部屋のお掃除は、まず茶殻や新聞紙の濡れたものをチギッて埃を吸い取らせてから、箒ではいていく。手作りの濡れ雑巾で畳を拭く、古い布切れで作った「はたき」で埃や煤を落とす。

 
 そんな当たり前の日常生活があった。もちろん洗濯板と盥での洗濯であった。

 こんな衣食住の日本の生活が、いまや何処かに行ってしまったために、「鎹」も「御櫃」も分らなくなってしまっているのである。

 何も電化製品による近代生活が悪いとは思わないが、日常生活の中の間やユトリや風情が、どんどん無くなって行っていることだけは確かである。

 「便利」で「効率的」な生活が美しいとは限らない。ちょっと邪魔臭いかもしれないが、ちょっと昔まではやっていた、日本の普通の生活の中の「物」や「風情」を思い出して、もし見つかれば、スローライフとて゜も言おうか、贅沢かもしれないが、使ってみようと思う。

 私はご飯をよそう「杓文字」だけは、「木の宮島」を使うことにこだわっている。
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