ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

国民保護と言う名の戦争協力体制

2005年05月31日 | とんでもない!
 平和ボケした日本を自由に操って、戦後60年経った今、小泉自民党と公明党の連立内閣は、着々と有事法制関連7法案の一環として、「国民保護法」を昨年6月に成立させて、何と緊急事態対処と同様にみせかけての、武力攻撃事態での地方自治体、自衛隊、警察、消防、放送機関、医療機関なども含む、国民の協力要請を規定して、一見「国民保護」をうたっているかの様な、戦争協力体制の確立へと進んでいるのである。

 都道府県では17年度中に、また市町村では18年度中に国民保護法に基づく、各地方の保護計画の策定をしなければならないこととなっているのである。とんでもないことである。

 法定受託事務として、国から都道府県へ、そして市町村へと下ろされて、現在都道府県では国民保護協議会と言う名の諮問機関での議論が重ねられており、今年度中に国民保護計画が策定される運びとなっているのである。

 知らない国民が多くいると思われるが、こうした法制化による、都道府県及び市町村の計画策定にも、多額の税金が支出され、自衛隊や警察、消防などの関与と共に、末端は自治会や町内会に及ぶ、戦時下体制まで組み込まれる恐れが十分あり、私たちの世代以降は知らない、昔の隣組や国防婦人会などの組織に似た、自衛防災組織が、いつのまにか戦争協力組織にされてしまう危険性が高いのである。

 「もう二度と決して、日本は戦争はしない」と誓った、戦後の日本国憲法を踏みにじってまで、米国の軍事態勢と国防戦略に僕の如く加担してきた、日本政府は、ついに日本国民全てを、再び戦時体制の国民にしようとしているのである。

 「憲法を守る」意識も気概もない政治家どもが、こぞって「憲法改悪」や「国連安全保障理事国入り」を狙って、突き進んでいる今、冷静に我々国民は、「国民保護法制」と言う名称とは裏腹な「国民を再び戦時下で犠牲にする」法令や計画に反対していかねばならない。

 今年から来年にかけて都道府県、市町村で計画策定への協議会が、通過儀礼として作られて、結局全国全ての自治体に、国民保護計画なる、眉唾ものの計画が事務費と人件費をかけて作成されて、そのうち防災訓練と称して、一見自然災害の多発する日本国民の不安を、危機管理と言う名で、少しは解消するようなしぐさで、実は国民総動員の戦時下協力体制の訓練とするつもりなのである。

 騙されてはいけない。国は国民の安全や命を本当に守るために、国民保護法制なるものを考えているのではなくて、憲法を改悪して、自衛隊を軍隊にして、いつでも米国軍の戦時体制に国をあげて協力できるように体裁よくしたいだけなのである。

 私たちのひとりひとりの命と平和は、私達自身が守る気概と行動なくしては守れないのである。


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前例主義って?何やねん!

2005年05月30日 | ちょっと可笑しいよ
 後2日で5月も終わりである。日の経つのは早いもので、もう6月議会と称する、地方都市の市議会の開会に向けての最初の議会運営委員会が開催された。

 特に大きな議題はないようだが、第3次総合計画の基本構想のまとめが議会に上程されて、議決を要する案件として上り、特別委員会を設置して議論することとなったが、10年前、20年前の最初の町の総合計画策定時と第二次総合計画策定時に、議会に特別委員会を設置して、各々2日間の審議を行って、賛成多数で議決したとの記録から、今回も同様の手順で審議することとなったのである。

 議会は、常に前例主義であり、ちょっと議論が分かれたり、決めかねたりした場合も必ず、条例、規則で決まっているもの以外は、申し合わせによるものか、前例に倣って行うことが常識となっており、じっくり、ゆっくり、その場にいるものが議論したり、検討したりするより、今までどうやったか、他市においてはどうか等が問題であり、先例、前例として大きな決定要因となるのである。

 議会運営委員会後、私の所属する委員会の提出される議案の担当者による説明を受けたのだが、その非公式な席上ではあったが、私がねその議案に関連した「資料の作成と委員会への提出」を求めたところ、「部長に相談して検討します」との返答であり、「お手数をかけるがお願いします」と重ねてお願いしても、「前例がないので」と躊躇されるのである。

 私は、こうした悪しき前例主義は、特に行政に携わる担当職員たちの常識となっている模様で、自分達の担当所見で、必要なものは自己判断して、よりよい議論を進め、より前進した理解をしてもらうためには、積極的に「わかりやすい資料」の提出は委員会審議前に、必要だと思っているのだが、何とも担当者の消極的な反応には、改めて驚いた次第である。

 「前例主義」でものごとを判断することは、担当者にとって楽であり、新たに考えることも入らないし、責任も問われないので、結局職員が仕事を新たに作らないための、行政職員側の都合の良いやり方が、通例として、前例になっている場合が多いのではないだろうかと思っている。

 積極的に、前例にとらわれず、大いにお互いに議論や問題を深めていくためにも、少しづつでも一歩一歩、前例を新たに作って行く、新しい前例つくり主義で、議会や委員会は歩めたら、きっと新しい、まちづくりに近づくのではないだろうか。
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気持ちのいいバザール

2005年05月29日 | 地域の話題

 今日は素晴らしい初夏にふさわしいバザール日和だった。地元で20数年続けて開催している「大住バザール」の38回目の開催だったのである。

 一週間前には、29日の天気予報は雨マークがついていたので少し心配をしていたのだが、全く心配のいらない暑いくらいの好天気となった。

 京田辺市内をはじめ、宇治、城陽、枚方など周辺からの参加、出店もあり、フリーマーケット全盛の昨今ではあるが、恒例の季節地域行事として,御馴染みとなっているため、たくさんのお客さんも来てくださって賑わいをみせた。

1984年の春に、近くのスーパーマーケットの駐車場を借りて、平日水曜日の半日、ガレージセールと称して始めたのだが、だんだんに参加者、出店者も増えて、日曜日開催となり、場所も団地と言うか新興住宅地の狭い緑地周辺での開催と変化し、そのうち自動車で来られる方々が増えて、駐車場問題が出て、現在の住民センター周辺を借りての、名称も「大住バザール」となって、今日に至っているのである。

 毎回、出店登録費用として、1区画1000円を郵便振込みで徴収し、開催日当日朝に、申し込み順で場所決めをしていただき、9時過ぎから午後2時頃までの開催で、結構賑わいを見せて、楽しみに買い物やおしゃべりのひと時となっているのである。

 今流行のフリマと称される「フリーマーケット」とは異にする、ただ売り買いで小銭を稼ぐだけでなく、地域の人々や遠方からも愉しみに来てくださる方々との会話やコミュニケーションを大切にしたバザールとして、毎回レギュラーで、地元の知的しょうがい者作業所「みどりの風作業所」支援のために、必要経費を除いた出店料と参加者の寄付を合わせて、届けさせていただいている。

 38回開催の中には、ユニセフ、チェルノブイリ原発事故支援団体、阪神淡路大震災被災者支援などと、その時代の社会問題となった被災者や活動への支援となつた時もあり、20年の年月の経過には、感慨深いものもある。

 これからも、地域の住民が主体の手づくりで心温まるバザールとして続けていきたいと思っている。

 
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食事の乱れは人をダメにする。

2005年05月28日 | とんでもない!
 最近になって気づいたことではないが、現代の日本の家庭での食事が大きく乱れており、その影響が栄養、健康面だけではなく、子ども達の精神状態や家庭の家族関係までに大きく及んでいると言っても過言ではない状況に陥っているのではないだろうか。

 いわゆる「食育」の必要性がやっと学校給食や文部科学省の官僚によっても意識されるようになってきてはいるが、彼らの制作した「食育」の参考テキストを見れば、本来の日本の食習慣や農業などをベースにした「食育」教育とはほど遠いものであると言えよう。

 何故、ここまで日本の「食」の実態が乱れてしまったのか、いろいろと原因はあるだろうが、経済優先の仕事、しごとと趣味や遊びや家庭内での料理のめんどくささからか、本当に家庭料理が急激に減少していて、出来合いのお惣菜や、家庭への配達をしてくれる総菜屋やコンビに、スーパーにも「電子レンジ」でチンしたら、すぐに食べれる食材と言うか、出来合いの弁当や食べ物が売られていて、季節の旬の野菜や魚を食材に家庭で料理される方が急激に減っているのである。

 そんな状況の中で、ある30代の独身男性の一週間の食事の実態を調査したところ、予想をはるかに上回る食事実態が報告されているのである。

 ポテトチップスに牛乳がけで一食、御飯にも牛乳、コンビに弁当と味噌汁、おにぎり4個とお茶ねまともな食事に近かったのは、友人と行った居酒屋での料理としての豆腐や煮魚、丼類であり、ほとんど野菜などは食していないのである。

 学校給食を通じて、こうした現代の食事の実態に至っている状況を、根本から変えようとする長年のとり組みをしている自治体があるので、紹介したいと思う。愛媛県今治市の学校給食と地産地消推進室である。

 愛媛県今治市の市職員の安井さんの名刺には、「愛媛産には、愛がある」という愛媛の農林水産物のキャッチフレーズが刷り込まれており、学校給食の地元産の米、農産物の使用にこだわって、現在は地元食材の使用から、有機農産物の供給へとシフトしており、有機野菜も5割を超えており、豆腐、パンも地元産にこだわる力の入れようで、昨今は「食育」に重点をおいた学校給食の取り組みをされているのである。

 また市長のトップダウンで、学校給食だけでなく、地元の全ての農作物の有機農業化や減農薬かをすすめておられ、今治の食を農から変えようとしておられるのである。

 現代社会の「食の乱れ」は間違いなく、体の偏重、不健康さや偏った栄養などと食のインスタント化や冷凍食品やお菓子化などの中に突入しており、台所に俎板や包丁のない家庭も増加しており、家庭からいわゆる食卓も消えつつあるのである。

 旬の美味しい食材をおかぁさんが料理して、お百姓さんたちと自然に感謝しつつ、家族の団欒、情報交換のコミュニケーションの場としての家族そろっての食事の時が、今家庭から消えようとしている危機なのである。

 「食の乱れ」は間違いなく人間の心の乱れに通じており、いろんな社会問題となっている事象の原因の一つともなっていると思われるのである。人間の人間としての心の交流や「いただきます」「ご馳走様」と言う食事の挨拶にもある様な、「命をいただきます」「ご苦労を駆けて走ってもらって有難う」とする感謝と関わりが見えなくなってしまうのである。

 「食育」の大切さは、人間の食の大切さと感謝と共に命をいただく心を育む教育なのである。


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内モンゴルへ命の洗濯に行きませんか?

2005年05月26日 | ガリバー旅行記
 いよいよ今年の夏も、内モンゴルの大草原へと旅立つ企画がまとまった。

 8月16日火曜日、関西空港離陸で北京へ飛んで、2泊3日で中国内蒙古自治区、白音オーボーの大草原に着き、4泊5日、草原に暮らす遊牧民のゲルでのんびりと生活を共にし、愉しむツアーである。

 今年で13回目のツアーだが、私自身は内モンゴル17回目の旅となる予定である。1988年に初めて内モンゴルの大草原に魅せられて以来、ほぼ毎年夏に10日間の日程で、「命の洗濯」と称して、仲間や行きたい人、この指とまれ方式で、数人から10人までの少人数の旅を繰り返しているのである。

モンゴル人の民族特有の風俗、文化に、生活は、モンゴルの諺に、「モンゴル人は馬上に生まれ、馬上にて死す」という、馬飼=戦士=英雄を表現したところに起因するようである。

 現在も、内蒙古の遊牧民達は、ほぼ一定の範囲の牧草地を移動して、家畜としての羊、牛、馬などと共に生活し、生活の糧を得て、大草原で生活している。

 そこで、私達は壮大なジンギスハーンなどの歴史的ロマンを夢見て、あの広大なモンゴルの大自然と共に多くの羊や牛達と素朴かつおおらかに暮らす、蒙古族の遊牧生活と交流しながら、草原蒙古パオ(モンゴル語ではゲル)に5日間滞在し、大自然と蒙古族との生活を満喫する。

 モンゴル人の食事は、羊肉を中心とする赤い食べ物と乳製品主体のお茶(スティー茶)や酒の白い食べ物が中心だが、一般的な中国家庭料理も食することができる。

 広大な大自然に囲まれて、日常の時間の流れから切り離された様な空間で、まったく異なる価値観で、たくましく生きるモンゴル人の生活に触発されながら、現代日本と我々の価値観を見直し、生命の洗濯をしようではありませんか。

 毎年8月お盆過ぎに、少人数の内モンゴルツアーを実施しているのは、私人身のライフワークの一つとなってきたのですが、このきっかけは1991年夏に実施した「内蒙古地球学校」と称する小学4年生から高校2年生年齢の男女100名の子ども達と一緒に行った、内モンゴル自然体験交流ツアーでの出会いからである。

 とにかく、掛け値なし、我々が生活し、日夜多忙と心の騒ぎを感じざるを得ない、日本の今日の状況とは全く異次元ではと感じてしまうほどの、生活がそこにはあり、しかも子ども達も年配の人たちも笑顔とたくましく自信に満ちた生き方をされているのは、自然と動植物の生態系の恵みと人間の歴史と知恵が、かもし出した不文律とも言える、自然な生き様だからでしょう。

 無理せず、力まず、経済や地位や名誉を欲せず、淡々と家族と家畜と共に大自然に生きる。

 そんなモンゴル族としての騎馬民族としての伝統と歴史への誇りが、蒙古族の中には全ての人のアイデンティティとして確立しており、私達日本人のルーツとしても濃いつながりを感じるモンゴル人に触れると、わたしたちの先祖や歴史、文化にもおおきな影響とつながりを感じて、大変身近なフレンドリーな地球人としての交流が自然に出来るから不思議である。

 心さわやかに、温かいもてなしと、気さくなふれあいを通じて、わたしたちの気持ちもほぐれて、大自然のうつろいとしての雨、風、虹、夜の月や満天の星までもが、愛らしく、また麗しく思えてくるものである。

 ぜひ、一度は足を向けて欲しい。1999年に交流学生として出会った包海岩君は、10年後に私の住む町の同志社大学に留学の機会を得て、単身でやって来て今春で満4年になり、大学院で修士論文の研究に励んでいて、弟、妹も2年置きに来日し、現在京都宇治で兄弟3人で生活し、日本語や各自のテーマを目指して頑張っている。

 縁あって足を踏み入れた内モンゴルへ、今年も元気をもらいに出かけようと思っているのだ。皆さんも命の洗濯と素朴な大草原での遊牧民の生活を共に体験して、元気とエネルギーを蓄えませんか。

 

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電車内での対応は?

2005年05月25日 | 感じたこと
 今日、JR福知山線電車脱線転覆事故から、丸1ヶ月が経過して、新聞、テレビは再び、この事故でなくなられた方々の追悼と事故原因と責任問題について、各種報道がなされていた。

 私は、その宝塚発同志社前行きの快速と同様の片町線、東西線に今日も神戸への所用のため行き帰り共、事故を起した、例の107型ジュラルミン電車に乗っていた。

 全く事故とは関連は無いのだけれど、車内での乗客のいろんなことに改めて気づきつつ、どう対処していいのかと今更ながら迷うことがあったのである。

 一つは、誰もが乗車する度にアナウンスされるから知っているであろう、携帯電話の使用についてである。今日もJR車中では、優先座席付近は電源を切り、その他の車内ではマナーモードで、通話はご遠慮下さいとのお願いである。私鉄である阪急では先頭車両と最後尾車両では携帯電話の電源は切り、その他の車両ではマナーモードにして通話はご遠慮下さいと対応のルールが違うのである。

 どちらにせよ、電車内では多くの若者を中心にして、多い時には7人がけの座席に腰を下ろしている乗客の内、3、4人もがメール打っていたり、中には何の遠慮も無く、周辺への気遣いもなく喋っている者も見受けられるのである。

 数は少ないとは思うが、実際私の友人が近鉄電車の車内で、隣の青年が急にもたれて来たので、ちょっと困ったなと思っていたら、彼は心臓ペースメーカーを入れている青年だったため、周辺の携帯電話の使用で、ペースメーカーに実際上の支障が生じて、苦しく気分が悪くなっていた様子を告げられたそうである。

 彼女は、勇気を出して、周辺の携帯電話を使用している人たちに、彼に代わって「すみません、携帯電話の電源を切ってください」「この人が心臓ペースメーカーのために苦しまれています」と言われたそうである。それでも知らん顔でメールを打っていた男性の前には、わざわざ近づいてお願いをされたそうなのである。

 こうした実際の困った状況に遭遇することは確率的には少ないかも知れないが、間違いなく、そうした不具合や不調をきたす人はいるのである。

 今日は、私の両サイドに女性が座られて、暫くしてどうも気分が自分自身悪くなったのである。決して、私が心臓ペースメーカーの使用者なのではなく、今回の場合は、実は女性特有の化粧の匂いなのか、香水の匂いなのか、きつい臭気が私には、耐えられない気持ちが悪くなるような匂いだったのである。

 私は勇気を出して、隣の女性に一言言いたいと思ったが、言えなかったのである。暫くの間我慢していたのだが、たまらなくなって席を立って離れたドア付近へと移動して、難を逃れてしまったのである。

 他人に、こうしたルールを守ることや、ちょつとした不快感を上手に注意できる手立てが無いものかと、自分ひとりで暫く考える機会となったのである。

 他にも、いろんな場面に遭遇するのだが、車内に高校生達がフロアに皆で座って、ジュースや菓子を飲食しながら、車中であることを忘れたかの様に、大きな声で喋っていたこともあるし、やはり女子高校生が、お互いの鏡の貸し借りに始まって、口紅、マスカラ、アイラインなどの化粧を大胆に、周りに気兼ねや遠慮も無く堂々と長時間していた時もある。

 しかしなかなか注意できないものである。全く赤の他人のおっさんが、突然「ちょっと、ここは車内だから止めなさい」と言っても、どうせ、セセラ笑われて無視されるか、逆に罵声か逆切れして、とんでもないことを言われるのが関の山だろうと思ってしまうと、まぁいいかと知らん顔でほっておくしか出来ないのである。

 帰途についた阪急電車の車内でもこんなことがあって驚いたし、また教えられたことである。ある女性の親子と思われる中年の女性と20過ぎの若い女性が向かい側に並んで座っていた。私が座っていた座席の少し右横にいた40代に見える女性が、向かい側の若い女性のブラウスの胸のあたりのボタンが外れているのに気づかれたのだと思うが、そつと立って彼女の前に静かに行かれて、小声で注意された様子で、若い女性は頭を下げて、胸の外れていたボタンを止めて、再度「有難うございます」と会釈をしていた様子だった。

 たとえ男性である私が気づいたとしても、若い女性にどの様に注意が出来るだろうかと、やはり考えたが、なかなか注意できないのではないだろうかと思うのみであった。

 スカートのホックやジッパーがとまっていなかったりしていても、この頃のファッションかも知れないし、たとえ勇気を出して小声で注意できたとしても「何処見てんのよ」と女芸人の様ににらまれてしまうかも知れないと思うのである。

 いずれにせよ、電車内でのマナーの乱れは、若い人たちだけではないが、自分勝手が過ぎる行動や風情が多種多様に増加していて、公共の場としての車内秩序を全く無視した、自分の世界だけで振舞っておられるとしか思えない、迷惑行為や見るに見られないみだらとしか言いようのないシーンが最近、富に多くて、おじさんとしての対応に躊躇するとともに、いい解決策がないものかと思案することしきりなのである。

 
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談合国家の証明

2005年05月24日 | ちょっと可笑しいよ
 やっと告発されたかと言った感じで、「橋梁談合事件」を伝える新聞、テレビ見ている国民、納税者が殆どではないかと思っている。

 私自身は、15年目になる地方自治体議会議員として、今まで何度も直言もし、角度を変えては「談合癒着の行政と業界」を正すべく質問や、問題提起を繰り返してきているが、行政側の答弁は、いつも「私達は談合が行われているとは思っていない」とか「公正な入札が行われている」としながら、一方で「入札改革を進める」とか「IT入札を検討する」などと二枚舌というか、矛盾した見解を重ねて、結局、自分達の責任で、今までの悪しき習慣となっている、「談合実態」にメスを入れられないである。

 度々の問題提起なので、もう両者とも、またかと言った「馴れ合い」の様な議論が続き、いい加減に「無責任な答弁はするな」と怒りをぶちまけたく思うこともしばしばであった。

 でも私は諦めない。「高値談合落札による税金の無駄使い」が改まるまで、地方議会でも精力的に、この「談合実態」の改善に努力していくつもりである。

 このたび4年の議員任期の後半に入り、「建設経済常任委員会」の委員に加わったのも、談合実態の改革をはじめとする、地方自治体においても公共事業の、スリム化、市民が優先順位や規模なども、政策立案過程から意見や提案もできる制度をつくるためにも、多種多様な地方自治体経済の緊迫化を否めない事態での打開策を模索しなければいけない時代だと認識しているからである。

 いつも「理想論」では事が前へ進まないかも知れないが、私は常に「人間は理想や夢を持つから、明日へのエネルギーがわく」と信じているし、常に「正攻法」けで問題提起や対策案の提示を、できるだけ他市や前例などを参考に学びながら、し続けたいと思っているのである。

 日本は戦前は知らないが、今回摘発された「橋梁談合」でも昭和30年頃から半世紀に及ぶ、談合のための業界内グループがあったと報じられているように、国、府県、市町村の行政側も、その事実や実態を概ね把握していても、自分達は税金の配分をするだけで、血税を出来るだけ節税すると言った気概や意識もなく、業界に一任して、自らの責任を放棄していたとしかいい様のない癒着ぶりなのである。

 いまさら説明もいらない問題だが、例えば1億円の見積もり、予定価格がはじき出されていても、いろんなスケールメリットや値引き、人件費の精査やチェックで、2割から3割の削減は可能な予定価格ではあるのだが、ほとんどの落札は90パーセント以上、すなわち9千万円以上、中には9千9百万円でも、競争入札の結果として、問題なく契約が議会などで通過してしまっているのである。

 普通、私たちの常識から言うと、高価な電気製品などを業者の言い値としての価格で買う人などは、ほとんどいないはずである。つまり電気屋と交渉するか、廉価販売で宣伝している大手量販店に行って、少なくとも何割かの値引き値で購入するのではないだろうか。

 そういった感覚が行政には全くと言っていいほどなくて、たぶん自分のお金という意識も無く、予算内であったら全く問題を感じない、他人のお金という意識で、事務処理しているに過ぎないのではないかと疑いたくなるケースが殆どなのである。

 業者、業界とも問題を起したくもないし、もめたくも無い。しかし公務員たる者は、多くの国民、納税者の税金で、お給料をいただき仕事させていただいているはずなのだから、国民、納税者にとっての利益や、優先順位を見極めて、慎重かつ大胆に、税金の無駄遣いにはストップをかけてもらわないと困るのである。

 土建国家ニッポンは、その業界と自民党をはじめとする権力を有する政治家達との癒着「談合」でお互いの利害だけを優先、保全するために奔走し、行政公務員は、そのシステムに従い事務処理だけを遂行する、係員と成り下がっているのである。

 ニッポン国、政府、官庁を筆頭に都道府県、市町村に及ぶ全ての公共事業、つまり税金で行われる施策の大半が、こうした談合体質の利害を優先したシステムで、税金がばら撒かれて、民主主義といわれる選挙が、こうした利害に左右される力関係で操られているのである。

 決して、実は公共事業に留まらず、民間ビジネスでも大なり小なり、業者間の癒着やお付き合いは、談合国家の構造上ありえるのだが、税金の公平かつ公正な配分としての公共事業における、この談合体質を脱出
しなければ、日本の政治の民主化など「絵に描いた餅」同然のこととなってしまうのである。

 「理想や夢」に向かって一朝一夕には進まない「談合を止めた公平な自由競争による」公共事業の入札改革を推し進めたいと思っている。

 6月議会が近づいているので、改めて建設経済委員としても、この談合問題を地方自治体議員として再度厳しく追及し、提案して行きたいと考えている。

 
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大学のある町

2005年05月23日 | 感じたこと
 私は縁あって京都の同志社大学で学生時代をおくった学生のひとりである。その当時、今から40年近く前の今出川キャンパスでは、同志社大学の田辺町移転反対のデモやスローガンが学生の間では当たり前であった。

 いわゆる全共闘の学生運動が盛んな時代だったとは言え、その当時は「産学協同」は大学の学問的自治を脅かすものとして断じて許されないことであった。つまり当時は京都府の南の方に位置する田辺町に広大な大学用地を取得して、同志社大学が全面移転するということなど考えられない学生達の思いだったのである。

 その当時は、近鉄や住友金属などの大手企業の利益追求のために、近鉄沿線の奈良方面の列車利用でないと行けない同志社キャンパスの移転は、近鉄資本と結託した産学協同の冴えたるものであり、また工学部を有する同志社大学にとっては、産業界の住友金属などの大手企業との結託は、学問、研究機関の死滅を意味するくらい考えられないとされていたのである。

 しかし時代が変わり時が経ち、なんと、その反対の渦の中にいた私自身も縁あって、この同志社大学の移転先である当時の田辺町に、仕事の関係で東京から移住して25年前に住むこととなり、14年前には、その町の町議会議員となるに至ったのである。

 現在、同志社大学は移転後19年を経て、田辺町も京田辺市となって8年が経過して、なんとやっとこさ、同志社大学と京田辺市の包括協定と言う名の「大学と行政」が対等な立場で協力し合い、市民と学生と共に交流活動をはじめる紳士協定の様なものを締結し、イベントやお祭り、公開講座などやボランティア等による相互協力体制の強化をはかることとなったのである。

 今までも、同志社京田辺ヒューマンカレッジとか、京田辺同志社市民クリスマスなども開催してきてはいるが、まだまだ同志社大学のある町であることを確認する程度であった。

 そこで今回の包括協定の締結に基づいて、大学のある町から大学を生かすまちづくりへの転換を、意識的にもはかるための仕掛けやイベントを、両者が協議してしていこうと思っているのであるが、実際の事務当局は市民や学生の一部の意識とはかけ離れた、言ってはみたものの具体的な仕掛けには消極的、かつ熱意すら無いのが現状なのである。

 市民も学生も、この町京田辺に住んでいたり通学しているのだが、お互いの交流の機会や理解しようとする出会いのきっかけがほとんど無いのである。

 学生側では「きゅうたなべ倶楽部」と称するNPO法人の活動や大学にある学生支援センターの活動などと共に、市民、学生のささやかな交流はいくつもボランティア的人材の努力で行われてはいるのだが、全学的に全市的協力を得て行う、イベントや企画にはほど遠い状況なのである。

そこで大学と行政の包括協定をきっかけに、相互の持ち味を生かした企画、イベントをしかけようとしたいのだが、双方に消極的な姿勢しかなく、大学を生かす町へと施策を展開すると言う、市長の言葉上の抱負とは裏腹に、なかなか事が進まないのである。

 ぜひ、行政も大学側も理事者や年配の管理者だけでなく、現場で軽いフットワークとアイデアの発想をたくさん持ち合わせた、若いスタッフたちに、大きな度量で企画や予算を任せて、愉しい学生と市民の交流活動を盛り上げられる様に配慮をしてもらいたいものである。

 学生にとっても、ただ単に田舎町で退屈な学生時代をおくるよりも、市民も交えた愉しく有意義な時をいろいろと経験できれば、この町京田辺を大学時代すごした町として、記憶に残ることだろうし、市民にとっては正に大学のある町から大学に触れ、学生達のセンスとエネルギーに触発されるいい機会となるだろうと思っている。

 大学のある町を、ぜひ愉しい大学と市民が交流する町に協働パートナーシップでつくりあげていこう。

 
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JR事故の余波は続く

2005年05月22日 | 地域の話題
 あの大惨事となったJR尼崎の電車転覆脱線事故から約一ヶ月が経とうとしている。

 私は、あの事故を起したJR西日本、宝塚発福知山線、東西線経由学研都市線の同志社前行きの快速電車には時折乗る沿線の住民のひとりであるので、事故が起きた一週間後にも、また今日も大阪へのアクセスとして利用したのである。全列車が尼崎止まりか西明石行きとなっているため、否応なしに列車事故のためと改めて思ってしまうのである。

 車内アナウンスや駅構内の掲示も、尼崎列車事故のためと繰り返してお詫びと宝塚、尼崎間の電車の運休と代替え輸送を告げているし、駅構内の時刻表などにも変更のお詫びと訂正が掲げられているのである。

 事故を起してしまった同系の107型ジュラルミン製の電車は、今もこの路線を何事もなかったかの様に走っているため、時折我に返ったときに電車のスピードが気になったり、電車の運転手が気になったりするものである。

 そういえば数年前に松井山手駅という、学研都市線の最寄り駅のプラットホーム上をJR西日本の制服を着た運転手が二人、黒い業務用のかばんを持ち歩きながら喋っていたことを記憶しているのである。

 その時の会話は「今度の電車滑りやすいな、スピード出てたらブレーキの利きが遅いな」と言う会話だったのである。たぶん雨の天候時のこととして話されていたことが、はっきりと甦ってきたのである。

 事故車両を運転していた運転手ではなかったと思うが、運転手仲間の中では半ば公然と新しい車両の制動の利き方や、感想が間違いなくあったと言えよう。

 しかし、ああいった事故が起きてしまって、100名以上の死者と500有余名を越す負傷者を出してしまう大惨事は、起こるべくして起こったのではないかと思ってしまうのである。

 そうした現場の社員、運転手の何気ない感想や実体験に基づく状況、電車性能とスピードやルール規制など多くの問題が結局のところ複雑にクロスして、最悪の事故が起きてしまったのであるが、根本的な解決策としての深い反省に基づく、原点からの安全を最優先した対策はいまだとられ様としていないのではないだろうか。

 乗客のひとりひとりが、一両目、ニ両目の車両に乗らないとか、その列車の運転手を確認するとか、いろんな手立てで安全への信用できる条件を探ったとしても、完璧な対応などは出来ないのである。

 しかし列車に乗るときには、どうしても事故のことが頭をよぎってしまって、ついつい先頭車両や二両目は避けて乗ってしまうし、電車がプラットホームに進入してくる時に、どうしても前から横から、その列車の運転手の姿を確認している自分がいるのである。

 乗客の頭や心の中から、あの4月25日に起きてしまったJR福知山線の電車転覆脱線事故のことが忘れられる日が、いつ来るのかはわからないが、ともかく自分の選択で少しでも安全を確認して、電車に乗ろうとする気持ちだけは、ここ当分続くのではないかと思っているのである。

 今日も自宅への帰途に、尼崎発同志社前行きの快速電車に夜7時過ぎに、乗車しながら各々の乗客の全ての心は読み取れないが、どうしても不安を隠しえない心境の乗客が何人かはいることは、否めない事実ではないかと電車のスピードを気にしながら、いつか手すりをしっかりと握っている自分に気づいていたのである。

 安全は神話ではなく、人事を尽くして完璧な安全対策をJRを初めとした電車、バス、航空会社、船舶などあらゆる公共交通機関を司っている会社の皆さんに徹底していただきたいと、改めて懇願するしかない心境である。

 こころから安心して、電車やバスに気軽に乗れる日を早く取り戻してもらいたいものである。
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八百屋よもやま話

2005年05月21日 | 感じたこと

 日本中探しても、こんなけったいな八百屋さんは、まずいないだろうと自信をもって言える様な「有機農産物と無添加食品の」八百屋をささやかに営んでいる。

 八百屋をやっていると言っても店舗はないし、しかも毎日営業しているのではなく、週末だけ軽自動車に野菜から、豆腐、牛乳、パン、卵、豚鶏肉、干物などの海産物、調味料、納豆、菓子、米、ジャム、プリン、など美味しく、しかも安全、安心の食品を積み込んでの、移動宅配販売形式なのである。

 金曜日に仕入れして、金曜夜と土曜日一日、市内はもとより周辺の隣接市町5地域を二日間かけて、約60軒近くを回っているのである。しかしお留守なら、お買い物していただくことは出来ないし、特定のお客産なので親しいのだが、お客様が留守では商売にならないのである。

 日に多い時は3回も、車をお客さんの自宅前まで走らせることもあるが、お留守の場合もあってがっかりである。

 私の軽自動車は八百屋の営業時には、ドライバーの初心者マークの様な磁気ステッカーの様なもので八百屋の屋号とトレードマークの顔の似顔絵を取り付けて走っているのだが、このステッカーが曲者なのである。

 営業開始以来、既に10年以上になっており、このおなじみのステッカーも通算7、8枚になっていると思うのである。何故かと言うと、このステッカーは取り外しが便利であり、八百屋営業をしていない時は、はずして倉庫にしまってあるのだが、今までに何枚かは、いつのまにか剥がれて無くなっているのである。

 よく小さな、いや結構大きな子ども達も、私の車の八百屋用のステッカーが、取り外し可能であることを知ってからは、毎回私がお母さんたちと八百屋の商売をしている間に、あっち、こっちへとステッカーを外しては移動させたり、まったく意外なところに張ったりしてくれるのである。

 先週もかわいい女の子がいつもの様に、私の似顔絵のトレードマークの磁気ステッカーを移動させて、軽自動車とは言え、全ボディが鉄製だと思われるので、あつち、こっちへと貼りつけてくれたのであろうと思うが、暫く走って元の位置に戻そうと探してみたが、既に無くなっていたのである。

 この様にステッカーが無くなるだけではないのである。以前はワンボックスカーの現在の車ではなく、軽トラックで、両サイドと後ろがビニールシートで囲ってある、引き売り専用の中古車で営業していた頃があって、よく品物を箱ごと落としたり、調味料の瓶等を高い位置にストックしていたので、取り出す時に落として割ったりして、結構被害にあっていたのである。

 ある時トラックの後部にパンをたくさん入れた折りたたみの箱を太いゴムロープで止めて走っていた時のことであるが、あるお客さんに「パンはありますか」と聞かれて、パンの入った箱がないことに気づいて、先程のお客様にはパンを買っていただいたので、近くの前の場所まで引き返した時のことである。

 途中の道路わきに、見慣れた私の売りもののパンが入ったダンボールの折りたたみ箱がたたんでおいてあるではないか。あわてて車を止めて、周辺を探したが、入っていたであろうパン類が見当たらないのである。近所のお宅に尋ねて伺うことも出来ず、諦めてさっきのお客様の自宅前まで引きかえさざるを得なかったのである。

 どうも不思議なことがあるものである。見ず知らずの箱が落ちており、中には天然酵母の大きなパンがいくつも入っていたはずなのだが、見事にひとつ残らず消えてしまっていたのである。残念!

 また落とす方が悪いのだが、人参の入った箱ごと落としたらしく、次の週に行ったお客さんが、先週「人参を落としたでしょう」「交差点付近が、人参のオレンジ色に染まっていたからね」と教えてくださって気づく始末のこともあったのである。

 今日は、あるお客様の自宅前で始めての若い奥さんが寄ってこられて、数点の商品を始めて買って下さったのだが、「うちは育ち盛りの男の子が二人と背の高い主人がいて、食費がいくらあっても足りないの」と家計の緊迫感を訴えられて、結局、「たくさん買えないの」と言う言い訳なのか、愚痴なのかわからないが、真剣に訴えられてしまったのである。

 とにかく週末の2日間の仕入れも含めて、毎週約180キロの移動八百屋稼業は、とにかく赤字だけは出さないという目標をキープしつつ、おかげさまでおしゃべりと、いろんなエピソードに事欠かない八百屋さんとして、元気に11年目を迎えているのである。感謝である。いつまで走れるかな八百屋さん。
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