ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

ノア・約束の舟

2014年06月29日 | 感じたこと
 先日、待望の「ノア・約束の舟」を観た。

 あのラッセル・クロウが主人公・ノアを演じ、ハリーポッターシリーズで歯、ハーマイオニー役を演じ続けていた、エマ・ワトソンが大人の女優として、ノアの養女・イラ役で出演していた。

 ご存知の旧約聖書に記されている「ノアの方舟」のお話が、どの様に脚色されて大きなスクリーンに映画として描かれているのか、とても興味深くて、封切り数日後に夫婦で車を走らせて観に行ったのだが、その日はたまたま私たちの結婚記念日でもあった。

 旧約聖書に記されていたイメージでは、人間たちの罪のため、大洪水が起きて人間はノア家族だけが知らされた形で、あらゆる動物たちが「ツガイ」で集められて、大きな木で作る「方舟」の仕事をノアが黙々としていると、周りの人間たちが「変人」扱いをして笑い、誰もがそんな大洪水で全ての人間たちや動物たち、そして大地が海と化すとは思っていなかったのだが、雨が一週間以上続いた挙句、陸地がなくなり、ノアの建造した大きな木船がいつのまにか、大海に船出し、笑っていた人間どもは海の藻屑と消えて行き、半年近くさまよった方舟に食糧が乏しくなった頃に、放たれた小鳥がオリーブの枝を口に咥えて舟に戻ってきて、陸が近いことを知って、ノアたちは歓喜するというストーリーだったと記憶していた。

 今回の現代版のノア・約束の舟という映画は、とにかく一番おどろくのが、CGで作られた映像のガンダムの様な岩怪物がたくさん出て来ることであり、ノアたち家族を悪党どもから守るという役どころで戦うのだが、どうも脚色されすぎていて、変に興ざめする感じであった。

 何故に、こうしたCGによる岩怪物の様な存在がたくさん出てきたのかは、製作者のイメージと意図があるのだろうけれど、私にはどうも納得がいかない作りものであり、旧約聖書に描かれた時代考証的に観ても合点が行かないシーンの連続であった。

 また、時代考証なぞ関係ないフィクションなのだから、エンターテイメントの一つとしての映画演出だとして楽しめばいいのだが、どうもイメージする西暦で言えばBCとADの別れる次代、つまりキリストの誕生した時代前後だとすると、ノアをはじめとする登場人物などの服装や化粧が、やはり現代的だと感じざるをえなかった。


 物語の後半は、ノアと息子、そして嫁との意見の対立などもあり、秘密裏に乗船していた悪党の主がノアの息子と交流していて、舟の中での戦いのシーンも出てくるのであるが、これも親子、ノアと悪党、そして夫と妻という対立構造が、ドラマとしてはストーリー展開に花は添えるのだが、果たして聖書のノアの方舟と、どう解釈が違うのかと映画を鑑賞しながら考えてしまった。

 そんな中、やはりハリ・ポッターでの存在感とはまた違った、エマ・ワトソンの存在感がとても印象深くて、映画の楽しみのひとつはやはり美人、美しい女優さんを見ることだなと、へんに得心しつつ、これまた養女という役どころの微妙な存在と、妻であるジェニファー・コネリーの従順さと最後には夫より息子に賛成するという、母親像が映画とは言え痛烈に感じられて、美しい女優さんに見とれていては、妻のご機嫌がいや関心が既に夫である私よりも娘や息子、そして孫に移っている現実も自覚せざるを得ない感じであった。

 いずれにしても、映画としての醍醐味は大スペクタクル・エンターテーメントとして、十分すぎるほど描写されていて、ツタヤなどでいずれレンタルされる時が来るとしても、こうした映画館で大スクリーンで鑑賞する映画の素晴らしさを実感する洋画としてはやはり最高級の作品だと感じたのである。

 旧約聖書そのものがフィクションだと思えば、現代社会の人間たちに何かの警鐘を感じさせる部分があるのかもしれないと思う作品でもあると思うのだが、どれほどの日本人が、この「ノア・約束の舟」を鑑賞し、人類の未来への警鐘という危惧を感じるのだろうかと、最後には半信半疑の見終わった印象となたのである。

 ともかく、最後まで生き残るのは、どういう人間なのか? 動物たちよりも劣るかもしれない人類の日常生活の価値観と、地球への負荷を与え続けている我々の生き方を再考する必要は、ノアからも学ぶことが出来ると感じたのである。
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W杯、日本敗退!!!

2014年06月26日 | プロスポーツ
では ワールドカップ、2014ブラジル大会も一次リーグの総当り試合が終了し、ザックジャパンこと、日本代表チームはご存知の如く、決勝リーグへの進出はならず敗退し、現地を離れてサンパウロから帰国の途についたと報道され、ザッケローニ監督の退任や主要選手たちの記者会見やコメントが伝わってきていて、「敗残の兵が語る」報道が次々となされている。

 日本代表チームは、一次リーグでコートジボワールに緒戦で1対2の逆転敗けをして以来、自分たちのサッカーをすれば何とかなると、口癖の如く語ってきたが、ギリシャ戦では得点を入れることすら出来ず辛うじて引き分けに持ち込むのがやっとで、最後の「奇跡を信じて」戦ったコロンビア戦では、前半終了間際に岡崎の見事なヘッドで同点にしたのがやっとで、後半はコロンビアの速攻に見事な3点を入れられて、1-4で完敗して、勝ち点1の最下位で二次リーグへの切符を得られず無念の敗退となった。

 私は俄かサッカーファンの一人として、最初のコートジボワール戦と3戦目のコロンビア戦は自宅のテレビで全て観戦したのだが、2戦目のギリシャ戦だけは、仕事の仕入れのために車を走らせている時間帯だったために、自家用の運転をしながらFM放送の中継を聴いて応援しながらゲームの動向を見守ったので、今回のザックジャパン、侍ニッポンの戦いぶりの感想というか、敗因に感じるところがあった。

 まず、日本代表イレブンは、本田、香川、岡崎らを中心とするFWたちの動きが他のチームと大きく違うと感じたのは、パスサッカーとしては基本的なのかもしれないが、ボールを保持して攻撃に移るスピードが比較すれば、相手チームより遅く、その原因として考えられるのは、攻撃の手順を「考える」時間が長くて、相手チームの守備陣が「守り」につくという余裕を十分に与えてしまい、より難しいシュートチャンスのみを日本選手が蹴っていたという印象が強かった。


 つまり、確かにFIFAランクでは上のグループ内の3チームとの戦いではあったが、相手チームはボール保持率が少なくても、個人技的アクションとでも言うべき「速攻」で、前へ前へと突っ走り、相当早い段階でゴールへのシュートを的確に蹴っていて、ゴールしたというケースが多くあり、彼らの技量もあるが、とても動物的とでも言うべき咄嗟の判断で突進していたというへき攻撃が印象的であった。

 日本代表の「考える」というとても賢い作戦はことごとく相手には、「守りの時間的余裕」を与えていて、逆に日本のDFたちが自分たちのゴールポストの周辺へ帰り着く前に、相手の個人的シュートがGK川島の守りを見据えたかの如く、衝き刺さった感じのゴールにしてやられた感じが多かった様に思うのである。

 決して人種や頭脳の違いとは言わないが、プロスポーツ全般でも感じてしまうのだが、技量や体力の差もあるとは思われるが、その差を「頭脳プレイ」や「作戦」で埋めようとしていたとすれば、到底叶わない感じの「スピード」の差で完敗したという印象なのである。

 確かに日本選手は体力的には他の国のイレブンより背が低くかったり、相手とぶつかった際の体力には見劣りするケースもあるのは事実だが、攻撃型サッカーを目指していたと言われる割には、やはりスピード面で差が大きかったと感じていて、前後半各々45分という長丁場のゲームでの、特に後半戦でのスピードの差は格別で、コロンビア戦での後半の3点の入れられ方や、コートジボワール戦での、後半の2点の逆襲のゴールなど、イッキニ攻められて得点を許し、敗退するというパターンを体験してしまったのである。

 個人技的には、本田、岡崎、長友、柿谷、大久保、内田、吉田らの素晴らしい技量の持ち主が集まっての「ザックジャパン」であったことは間違いないのだが、チームプレイとしての作戦に終始しすぎて、本来のスポーツの醍醐味のひとつでもある「スピード」というテクニックではない「動物的速さ」でのゲーム展開の「妙」に欠けてしまって、「完敗」したという印象であった。

 日本代表イレブンの皆さん、お疲れ様。ゆっくり心身ともに癒して、お休み下さい。期待の夢と久しぶりのドキドキをありがとう!!!
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言葉に誤魔化されるな

2014年06月10日 | 感じたこと
 いつのまにか当たり前の如く、自民党政府は「日米同盟」と語りだし、マスコミメディアも当然の如く、日米同盟を礎にと言っているのだが、私は戦後の生まれなのだが、「日米同盟」とやらが、締結されたという自覚は全くなく、1960年に日米安保と称する、ある種の軍事的約束が締結されたことは記憶にあるが、当時はこれを「日米安保」、すなわち「日米安全保障条約」とは表現されてはいたが、「日米同盟」なぞとはいわなんだ!!

70年安保と称された、日米安保の自動延長手続きを経て、1980年代後半の経済的好景気である「バブル時期」を終えたあたりから、やたら「日米同盟」たる述語が使われだして今に至っているというのが実感である。

 つまり、政府が意識的に使っているのか、それともメディアといわれるマスコミ、すなわちテレビ、新聞、雑誌が積極的に使用しているのかは定かではないが、国民を「日米同盟」たる呪文の様な言葉で「麻痺」させ様としているのではないかとさえ勘ぐってしまうほど、政府とメディアが結託して使用頻度を高めて、当たり前の如き「用語」としているとしか思えないのである。

 戦後70年にもなろうとしている我が国ニッポンは、太平洋戦争での敗戦国として、連合国軍の主でもあったアメリカ合衆国の言いなりの如き隷属的国家になろうとしているのではないはずなのに、いまだ米国の軍事基地が大手を振って本土はもとより、沖縄県には何と70パーセント以上の基地面積を占領されていて、いまだ治外法権の様な特別待遇、しかも「思いやり予算」などという多額な税金での助成を余儀なくされているという屈辱的関係から抜け出せない状態なのである。

 そんな状況下で、そもそも日本国憲法第九条では、陸海空軍、その他の軍備は保持しないと記してあるのに、「憲法解釈」とやらで、どうして自衛隊を容認する政府が、自民党を中心とした保守勢力だけでなく、村山富市社会党委員長が首相になった時には、当時の日本社会党までが、これを合憲としてしまったという歴史が今に及んでいるのである。

 安倍首相の再登板で、おなか具合が良くなったらしい首相は元気に、まずは「憲法改正!!」と語っていたのに、いちのまにか「集団的自衛権の行使」を内閣における解釈の変更と言う「ずるがしこい手立て」で無理押しして、世界へ自衛隊が米軍に協力して出て行く「屁理屈」を通そうとやっきになっているのが、ここ数ヶ月の政治の実態なのである。

 そもそも「憲法」は、国家権力そのものである政府、内閣、国会を監視監督し、一内閣や一首相の勝手な横暴、思い込み、思想信条での暴走をチェックし、国民の民意を聞いた上での「改正の手続き」は明記しているのだが、今回の安倍首相、自民党、そして公明党をはじめとした補完勢力は、一応の問題点を指摘したりはしているものの、追従する姿勢をあらわにしているとしか思えない集団と化していて、民主主義に反する、憲法解釈の変更と言う姑息な手段で、アメリカ追従型の「同盟国」としての面子を保とうとしているに過ぎないと断言する。

 安倍の語る「積極的平和主義」なる造語の「まやかし」も明らかであり、世界に名だたる平和憲法を保持しながら、その根幹である、「憲法第九条」を解釈などと言う、いい加減な手法で内閣の統一見解として公表し、誰のための集団的自衛権の行使なのかは明らかではあるが、国民の生命、財産を守るために必要なんだという「詭弁」を用いて断行しようとしている「大罪」は許し難い暴挙なのである。

 他にも、「新自由主義」とか、「グローバル化」など、政治や経済における指導的立場?にある専門家や担当者が「新語」を連発し、さも国民にも「当たり前」の時代が来たのだから、「遅れてはならない」とでも説得するがごとく、メディアを通じて「インプリント」させて、まるで、テレビCMが日夜放送されているうちに、美味しそうな食品や健康によさそうなサプリメントが売れて行く感じで、国民にいつのまにか浸透し、「イエスマン」とされて行く様な手法に乗せられてはいけない。

 「気をつけよう!甘い言葉と政治家の新語」というべき、集団的自衛権を振りかざす「積極的平和主義」 なる「まやかし」には断じて誤魔化されてはいけないのである。
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