ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

初女さんのおむすび

2010年03月31日 | テレビマスコミ
 ご存知の方も多いと思いますが、龍村仁監督の「地球交響曲第二番」で初めて紹介されて私は知った、青森県弘前市の「森のイスキヤ」を主宰する、佐藤初女さんが作る特製の「おむすび」が大変好評で、NHKテレビでも「初女さんのおむすび」として紹介されたものを、友人の女性からDVDに収録されたものを借用し、昨日再び観ました。

 心を込めて美味しく炊いたご飯を手のひらいっぱいで大きく丸く握って、初女さん特製の梅干を包んで、強すぎず優しく、食べていただく相手のことを思って愛情を持って握り、大きな海苔を二枚上手に巻くと、とっても見事な「おむすび」となるのでした。

 美味しさを通じて、大いなる勇気と励ましを戴くことになり、『森のイスキヤ』に佐藤初女さんを尋ねる人たちには、とっても懐かしく嬉しくなる贈り物として喜ばれているというのである。

 本当に美味しそうな「おむすび」は、全国各地に広がって、初女さんに元気と生きる勇気を貰ったという全国の人たちが、皆と一緒に見よう見真似で「初女さんのおむすび」を握って、多くの人たちに今波及しているそうです。

 とっても「見てるだけで」、唾が出てくるほど美味しそうな「初女さんのおむすび」を是非作って、愛する子どもたちや家族や友人たちと一緒に食べようではありませんか。

 全国的に「サクラの開花」がされつつある、この季節です。是非「お花見」にも「初女さん式のおむすび」を愛情込めて作って持って行きましょう。

 佐藤初女さんは、たぶん1926年生まれの80歳を超えたご高齢だが、訊ねて来る人たちのために、青森県弘前市にある「森のイスキヤ」を拠点に、「食べ物が体と心をつくる」を実践しておられる素敵なおばぁさんなのです。

 彼女は立派な大きな家に生まれたのだが、事業に失敗した家で健康も概して、当時の肺結核に煩わされていたのだそうですが、年が20歳以上離れた夫との下に周囲の反対を押し切って後妻さんとして嫁ぎ、いろんな人生の苦労と体験をなさった方のようです。

 ですから、ご自分の人生経験を通して、心悩む人たちの話をまず受け止めてあげて、黙って聞かれることから、初女さんの出会いは始まるようで、尋ねて来られる人々も、自然と初女さんに心の奥底にある心境や悩みを打ち明けられて、そのうち自分自身で解決の糸口や生きる力を見出して帰って行かれるそうです。

 誰もが、人生に躓いたり、小さくとも重い悩みに挫折しかかることもあるでしょうが、初女さんの握る「おむすび」の力と愛情と美味しさに、一瞬とは言え「生きる幸せ」を感じて新たなエネルギーを得られるようです。

 京都の小学校で栄養士さんをされている女性が初女さんとの数度の出会いから、給食調理師を通じてであった子どもたちと「初女さんのおむすび」を実践されたお話と、子どもたちの感想がとっても印象的でした。

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本土空襲50万人の犠牲者。

2010年03月30日 | とんでもない!
 第二次世界大戦、すなわち太平洋戦争の敗戦から今年で65年を迎え、戦争体験者ならびにその遺族たちも含めて、日本の戦争の実態を具に語る人がずいぶんと少なくなりつつあるのが現状ではないだろうか。

 昨日、地元の市役所に所用があって久しぶりに行った折に、京都府知事選挙の期日前投票を済ませて、知り合いの職員と談笑していた時に総務課のカウンターの上に「後世に伝えたい・空襲・艦砲射撃の惨禍」と副題がついた「平和への想い2010」という小冊子を見つけた。

 表表紙には、空襲で焼土と化した大きな町の一角が描かれていて、焼け残った建物や塔や枯れ木が少々残る焼け跡の地道に、横たわっている焼け焦がれた遺体と近くに当時の途方にくれる子どもたちや犬と飼い主の絵が描かれていて、めくった一ページ目には「太平洋戦争末期、50万を超える市民が犠牲になった」というタイトルで、防空頭巾にモンペ姿のイラストの「語り部花子」が案内する形で、その惨状を解説している冊子であった。

 昭和20年8月15日に、天皇陛下の敗戦の弁で幕を閉じた「太平洋戦争」ではあるが、その前年の昭和19年6月の現在の北九州市、八幡製鉄を集中的に爆撃した空襲に端を発した米軍による本土爆撃、空爆は終戦を迎えるまで、全国の主要都市をはじめ中小都市も含めて200以上に及び、執拗な空襲が繰り返されて、一般市民の50万人以上が犠牲となったのであった。

 長きに渡る太平洋戦争での軍人、軍属の犠牲者は230万人を数えるといわれているが、一般市民の戦争による直接的な犠牲者も総計で80万人にも及び、沖縄戦では10万人近くの島民が犠牲となったといわれている。

 本土空襲は、大型の戦闘機B29によるものが多く、はじめは中国の成都を基地として八幡製鉄を目指して飛来したらしいのだが、その後は、硫黄島やサイパンからも日本本土への空襲部隊が連帯飛行をしてやってきては、大都市圏を中心に執拗に空襲を繰り返したのだが、1945年、昭和20年3月10日の東京大空襲、同じく3月13日の大阪大空襲など以降は、大々的な本土空襲が激化し、3月26日以降は沖縄に米軍が上陸を開始している。

 日本中が度重なる空襲を受けたわけだが、その内容も爆弾による一点爆撃から焼夷弾による地域一帯を焼土と化す、無差別殺戮作戦へと変化しており、「日本は絶対に負けない」と教えられ、信じていた一般国民に、家族や友達の命が目の辺りに亡くなって行く惨状を見せ付けられて、当時の被災者たちは大きなダメージを受けてしまったのです。

 空襲は家を焼き、まちを壊滅させ、家族や友だちの命を奪うために、国民揚げての戦意の向上には水を差す結果となってしまいました。

 焼夷弾とは、爆弾と違って激しい火災を生じされせるための仕掛けがしてある爆弾であり、木と紙で出来た日本の家屋はひとたまりもなかった様で、全国各地の町や集落が焼土と化してしまったわけです。

 戦後ようやく、焼夷弾の使用は非人道的な手段だとの見解が一致して、1983年に「特定通常兵器使用禁止制限条約」が発効し、都市や民間人に対する焼夷弾の使用が制限される様になったようです。
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チェルノブイリから24年。

2010年03月29日 | 世界の問題
 あの1986年4月26日に発生した、とんでもない原発事故を思い出してください。

 当時はソビエト連邦のモスクワの南、ウクライナ地方にあつた「チェルノブイリ原子力発電所」の第4号炉が爆発し、とんでもない放射能が全世界に撒き散らかされた、世界最大の原発事故たぜったのですが、あれから24年が経って、確実に記憶が風化しつつある現状で、忘れてはならない原発事故と、今後の原子力政策や原発建設について考える機会として「チェルノブイリ24年京都のつどい」が来る、4月25日午後1時半から、京都市内烏丸丸太町の地下鉄丸太町下車すぐの「ハートピア京都」で開催されます。

 今回のつどいは、私もメンバーとして所属する「日本チェルノブイリ連帯基金」をはじめとする反原発に共感する団体、グループが「チェルノブイリ24年京都実行委員会」を組織して準備を重ねて開催されるのだが、連帯基金が高度の放射能汚染地域でいまなお診察を続けている、ベラルーシ共和国ゴメリ州のベトカ地区病院長の女院長、ナジェージタ A ジミツァさんを招いたので、京都での講演をお願いしたのである。

 チェルノブイリ原発から約130キロ離れたベラルーシ共和国、ゴメリ州は、原発事故周辺と同等の高度の放射能汚染地区であり、いまなお甲状腺ガンや様々なガンが確実に増加している様子で、今回のナジェージタ院長の講演では、現状の写真スライドも交えて、連帯基金の事務局長神谷さだ子さんの通訳で詳細を語っていただける予定である。

 ナジェージタ院長の医者としての仕事は病院内にとどまらず、あちこちの村へ出かけての診療を続ける「裸足の医者」として有名で、ベトカ地区は事故当時には4万人の人口だったのに、現在は2万人に半減しているといい、地図から消された「埋葬の村」がなんと58もある汚染地域なのです。

 また、日本国内では山口県上関町祝島に、1982年に中国電力が2基の原発を建設する計画を発表して以来、農漁業を生業とする自然豊かな島「祝島」の住民約500人の9割以上が反対し続けている「原発」の建設に、多くの共鳴と支援が集まっていて、今回は、2009年11月に堀切さとみさんが制作した「神の舞う島」を上映し、上関原発を作らせないために支援の輪を広げる予定である。

 祝島は山口県の南東、瀬戸内海に浮かぶ周囲12キロの小さな島だが、古の時代から交通の要衝で、万葉集にも謳われた風光明媚な自然豊かな島なのだが、対岸4キロのところに原子力発電所が計画されて、大半の村民、町民は長年の反対運動に生活を費やしてるのにも係わらず、昨年12月には中国電力が経済産業省に「原子炉設置許可申請」を提出したのです。

 今年1月に祝島漁民は、約10億円の漁業補償金を受け取らないことを決め、原発を拒否する戦いを続けています。村おこしをすすめる祝島を多くの方に知ってもらい、支援の輪を広げるためにも、祝島の特産である「ひじき、干しダコ、びわ、石豆腐、びわ茶、みかん、サヨリの一夜干しなども買ってほしいと実行委員会では宣伝しています。
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もうすぐ春ですよ~!

2010年03月28日 | 季節の話題
 昨日、八百屋でいつも走っている小さな川沿いのお宅で談笑していたら、見事にウグイスが「ほーほけきょ」とひと鳴きした。

 確か、我が家の小さな庭でも2月中旬にウグイスの初鳴きは耳にしたけれど、その鳴き方は、まだ未熟で「ほーほっ」で止まっていた様に記憶している。

 一ヶ月余の時の経過の中で、何処で練習したのか、とっても上手に鳴くウグイスに出くわすと、間違いなく「もうすぐ春ですよ~!」を実感する感じであった。

 木津川の土手のツクシンボも目だっているし、梅からサクラへ、そして桃の花へと花の世界は着実にバトンタッチでもする様に、春を告げる如く私たちの目と心を楽しませてくれる準備をしているようだ。

 春のセンバツ高校野球も開幕し、二日間の雨での順延があったが順調に実力高校が勝ち進んでいる様ですし、待望のプロ野球はセリーグも開幕し、我が阪神タイガースは、新戦力の城島捕手の連日の活躍で開幕に連勝し、Jリーグサッカーでも京都サンガがアウエーの磐田で勝って2勝1敗1分でJ1で5位という滑り出しとなった。

 昨日の移動八百屋では、今春から京都の大学に入学したという初々しい感じの18歳の女の子が目を輝かせて、4月から始まる一人暮らしの準備のために愛媛の田舎?から早目に京都入りし、親戚の叔母さんの家で歓迎の意を込めた食事会に招かれていた。

 一方、ピカピカの一年生になる男の子を孫に持つ、まだ若い祖父母である方は、お孫さんの入学祝いを買いに、半日京都市内のデパートに行って、ご希望の入学祝い品探しで疲れたと嬉しそうにお話されていた。

 我が家でも、十数日前から妻が日頃しない縫い物や刺繍をしだしていて、今春三歳になったばっかりの孫のR君が幼稚園に入園するので、通園に必要なカバンなのか、お弁当袋なのりか、毎夜の如く手仕事に精を出している。

 中学を卒業したばかりの友人のお嬢さんは、希望の高校入学も決まっていて、嬉しい春休みなのだが、卒業した中学の体育会系クラブの後輩たちと一緒に、連日練習に精を出しているそうで、高校に入学しても陸上競技を続けるので、体を鍛え高校のクラブの練習に備えているらしい。

 しかし、大学を卒業するはずの近くの青年の中には、一昨年の例のリーマンショック以来の不景気風のせいか、就職戦線での就活があまりうまく行かなかったらしく、「もう一年勉強します」とのことで、大学に残って留年し、来年再度「新卒扱い」で就職活動にチャレンジするという。

 幼、小、中、高、大とそれぞれの卒園、卒業、入園、入学がある「日本の春」なのだが、ここ数週間の日々は「春遠からじ」ではあるが、「三寒四温」や「寒の戻り」ってな感じで、春待ち遠しい限りの日々が続いていた。

 明日から、二日ほどはまだ京都では10℃を最高気温が下回る日があるみたいだが、間違いなく桜の開花や自然の移ろいは「春に向かって」着実に歩んでいる感じで、「もうすぐ春ですよ~!」と歌い出したい気分である。

 それぞれの「春」を楽しく、満喫してくださいね。
 
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『良い子に育つ』には?

2010年03月27日 | 感じたこと
 今日の毎日新聞夕刊のトップ記事は「ギョーザ事件中国人逮捕」だったが、その隣に「良い子に育つ」という見出しで、親子400組を3年以上も追跡した科学振興機構の調査結果が記事になっていて、好対照とでも言うべきか注目すべき記事があった。

 2年前の1月に国内で発生した「中国製ギョーザ」を食べた人が中毒症状を起こしたという衝撃的な事件は、日本の食生活の上での中国への依存度の多さや生協ブランドの失墜、果ては冷凍食品のリスクまで、安心、安全に毎日の食事を取りたい日本人の多くに大きなショックを投げかけた事件であった。

 未だに、未解決のままであったので、日本政府と中国との「食の安全性の認識のズレ」や日本の警察捜査が及ばない中国国内での事件性についての日中間での論争にもなったりしていたが、半ばあきらめ感の強かった「犯人探し」に突然、中国当局が製造元の天洋食品の元臨時職員であった男を逮捕したと発表したのである。

 いずれにせよ、毒をもったと思われる人間の仕業が、これからの捜査や供述にもよるが、日中間の不信感をも増長した事件に、犯人逮捕と言う形で、因果関係が見えてきたことは一歩前進したと言えよう。

 しかし、日本人であろうが中国人であろうが、こういった他人に迷惑をかける行為や事件を起こす人の心理はどういうものなのだろうかと、改めて考えさせられる機会となった。

 先にも記した様に、「良い子に育つ」とされているデータ、調査結果によると、親に褒められたり、優しい言葉をかけられて育った乳幼児ほど、主体性や社会適応力が高い子どもに育つことが判明したというのである。

 調査は大阪府と三重県の親子約400組を対象に生後4ヶ月の赤ちゃんが三歳半になる2009年まで追跡調査し、親については子どもとの係わり方などをアンケートと行動観察で調べたとされている。

 一歳半以降の行動観察では、親によく褒められた乳幼児は、ほめられない乳幼児と比較して、三歳半までの社会的適応力が高い状態を保つ子が約2倍もいることがわかったという。

 さらに、目をしっかりと見つめる。一緒に歌ったり、リズムに合わせて体を揺らす。叩かない。生活習慣を整える。一緒に本を読んだり、出かける。・・・などの社会的適応力を高める傾向があったという。

 また、父親が一歳半から二歳半までの間に育児参加した場合は、そうでない親子に比べて2歳半の時点で社会的適応力が1.8倍高いことも判明したという。

 つまり、子育てにおける母親、父親の役割において重要なのは、言わずもがなかもしれないが、優しい言葉かけ、褒めること、抱きしめること、目を見て愛情を表現すること、叱っても叩かないこと、などが「良い子に育つ」ための重要なファクターであることが科学的に少し証明されたといえるのである。

 中国人の毒ギョーザ事件の容疑者は、果たしてどんな幼少期を送った子どもだったのだろうかと、推察の域を超えないが、さぞかし「憎しみや恨みを貯めていた」環境や子育ての中で成長したのではなかろうかと考えてしまった。
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「高いところ」が好きなの?

2010年03月25日 | 感じたこと
 現在、東京都墨田区に建設中の「東京スカイツリー」が20日までに328メートルの高さに達し、フランス・パリにある324mのエッフェル塔を超えて、もうすぐ日本一の高さを誇った「東京タワー」の333メートルを上回るという。

 昭和30年代の象徴的な建物として、あの西岸良平氏のマンガ「三丁目の夕日」でも描かれていた、戦後の日本の高度成長のシンボル的タワーだった「東京タワー」も時代の波に勝てず、そろそろ引退の時期を迎えようとしているらしい。

 テレビ送信塔としての役目があったとは言え、エッフェル塔も東京タワーも大都市、パリと東京のシンボルとして長年親しまれてきたのだが、東京タワーに変わって今は「スカイツリー」が東京観光の目玉にのし上がりつつあるというのである。

 実は私も昨年11月に東京に久しぶりに行った際に、一人で早朝の押上駅を降りて、見上げたスカイツリーは、まだ205メートルだったのだが、それから四ヶ月ちょっとで100数十m伸びて、来年末の完成時には634mの高さ世界一の電波塔となる予定なのである。

 確かにテレビの放送も2011年7月には全面的に「地上デジタル放送」となるために、電波塔もより高い塔が必要なのかもしれないが、人間はほんと「高いところ」が何故に好きなんだろうか。

 日本一の高い山である「富士山」の人気は、そのすばらしい姿、フォルムだけではなく、年間数十万人の人が登っているというし、従来の東京タワーも私たちの小学生時代の修学旅行以来、何千万人の人間が展望台へと上ったであろうか。

 なかには、車椅子で富士山に登った人や、階段で東京タワーの展望台まで上る人もいて、よくもシンドイのに、人は高いところに上りたがるのかと感心してしまうのである。

 私の年老いた母も、昨年の暮れに満93歳になり、有料老人ホームにお世話になりつつ、のんびりと心優しく日々を送っているのだが、月に一、二度会いに行く度に、散歩で外を歩けば、ビルやマンションの高さに関心があり、何階建てやなと階数を数えたり、あんな高いとこにも人が住んでいるんやなと独り言を言っていると思えば、母に今一番行きたいところは何処ですかと問えば、なんと「高い山の上に登りたい」との返答であった。

 時折観る夢では、私も自分自身が空を飛んでいるような夢を観る事があるが、現実的には「高いところ」は大変苦手で、テレビの映像として写っている「大空を飛ぶパラグライダー」や「パラシュートでの落下」を見るだけでも、心臓がドキドキするくらいキライなのである。

 しかし、人の多くは「高いところが大好き」らしく、世界中で「○○一」とか「東洋一」『世界一』を競い合う様な建物やタワーの建設競争のようになっていて、ドバイの最高層ビルなどは、本当に摩天楼のように大空に突き出すように建設されている。

 人はこの世に生きていて、いずれは空に、宇宙に帰る準備をしているのかもしれないと、母の「今一番行きたいところ」として答えた「高い山の上」を感じたのであった。

 
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男に二言はある。

2010年03月24日 | 感じたこと
 昨日、一昨日のニュースを観ていて、「男に二言はない」あるいは「決断は男らしく」という言葉が、結局は眉唾ものであり、自分勝手に利用されたりしているのだなと痛感したのである。

 ひとつは民主党の生方幸夫衆議院議員が「小沢一郎に権力と財源の振り分け」が集中しているという趣旨の発言をしたことで、小沢一郎の側近と言われる高嶋副幹事長が11名の副幹事長を集合させて、「小沢批判」をすれば、役職や立場が悪くなることを見せ付けるために、生方副幹事長の解任を決定し、小沢幹事長に報告したのに、三日後世論の反発があって、急遽、小沢一郎氏は生方氏に会って、「仲良く一緒にやってほしい」と言って解任を撤回したのである。

 また、センバツ高校野球大会で、21世紀枠で出場した和歌山県の向陽高校に1-2で惜敗した島根県の開星高校の野々村直道監督が試合後のインタビューで、「21世紀枠に負けて末代の恥じです」などと発言した問題があった。

 この野々村監督は、見るからにヤクザっぽいイデタチで、謝罪会見に臨んでいたが、本人の謝罪の意思はほとんど見られず、校長が相手高校である「向陽高校」に出向いて謝罪したということだが、本人は惜敗直後にはなんと、「腹を切る。野球をやめたい」とまで言っていたのに、二日後には「監督を続ける」ということになっていた。

 まるで、他人事のようだが、生方衆議院議員も徹底的に小沢幹事長批判をするならするで言い続ければ、「男らしい」のだが、直接、民主党の参議院選挙前の支持率の急落で、突如として小沢が「まずい」と判断したらしく、生方氏の慰留を求めたので、本人は副幹事長の「続投」に同意したみたいである。

 いずれにしても、生方幸夫衆議院議員の名を全国的に有名にしたまではよかったが、結局は「役職」にしがみついた普通の国会議員であったという印象に終わってしまった。

 一方の「野々村監督」は、たぶん定年前の58歳で、生活のことを考えたのか、威勢のいい啖呵は切ってはみたものの、背に腹は変えられぬとでも言うべきか、野球もやめなければ監督も続投するという「煮え切らない男」であったという印象で、後々にも禍根を残す胃いい加減さというイメージになった。

 つまり、「男に二言は無い」とする「男らしさ」を最初の態度、言葉では感じた二人だったが、結局は周囲の雰囲気や利害の中で、とっても都合のいい自分勝手を決め込んだというべき結末となってしまったのである。

 もう一度冷静に考えてみればいいのだが、将来や展望もなしに、その場しのぎの発言や行動をしたに過ぎないという印象であり、ご両人とも「気骨」や「頑固」なほどの価値観、考え方がお有りの様には感じられないのである。

 正直なところ、どうでもいい感じの男性だったと言えよう。もっと自分らしさを貫いてほしかったと思うのは私だけであろうか。
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「西山事件」と日米密約。

2010年03月23日 | とんでもない!
 「西山事件」と称された「沖縄返還時の日米密約漏洩事件」を改めて検証する必要がある。

 政権交代を期に民主党の岡田克也外務大臣が指示した、外務省の「日米密約」の有無についての調査結果が3月9日に、密約検証の有識者委員会は「密約は存在し、全て事実」の報告書を提出したことにより、1971年に起きた「西山事件」で1978年に有罪が確定した「西山太吉、元毎日新聞社記者」に関して、岡田外相は3月12日の記者会見で「個人的には大変有能だったにもかかわず、この世界から追われる形になり、お気の毒だと思うし、惜しいと思う。」と語った。

 西山事件は、1971年の沖縄返還協定にからみ、取材上知りえた機密情報を国会議員に漏洩したとして、当時毎日新聞の政治部の西山太吉記者と外務省の女性事務官が、国家公務員法違反で有罪となった事件である。

 当時の佐藤栄作首相とアメリカ合衆国ニクソン大統領との間で交わされた「沖縄返還協定」の公式発表では、米国が支払うことになっていた沖縄の地権者に対する土地原状回復費400万ドルを、実際には日本が肩代わりして米国に支払うという密約をしているとの情報を、西山記者が社会党議員に漏らしたということで、大騒ぎになったのであった。

 政府は密約を否定し、逆に東京地検特捜部が、起訴状において、西山が情報目当てに既婚の女性事務官に近づき、酒を飲ませた上で性交渉を結んだと述べ、情報源の外務省事務官を国家公務員法違反(機密漏洩の罪」、西山を国家公務員法(教唆の罪)で逮捕したのである。

 報道の自由を盾に、取材活動の正当性を主張した毎日新聞は、こうしたスキャンダル的報道の内容から、世論の一斉の反発を買って、倫理的批判を含む大ブーイングを受けたのであった。

 裁判においても、「国家機密の漏洩行為」として、その手段である「機密資料の入手方法」ばかりが注目され、肝心な「密約の真相」や「密約自体の追究」は、色あせてしまってほとんどなされないままに終わったのであった。

 2000年になって、密約を裏付ける米国の公文書が発見されたため、西山氏は「起訴されたことを不服とする」国家賠償法に基づく賠償請求訴訟を2005年に提起し、2006年には、対米交渉を当時担当していた吉野文六元外務省アメリカ局長は、密約の存在を北海道新聞、共同通信、朝日新聞の取材に対し認めた。

 2007年3月27日、東京地裁は、西山の国家賠償法に基づく賠償請求訴訟に対して、20年の除斥期間を経過しているとして、密約の存否には触れず、請求を棄却する判決を下した。

 これに対して、2009年3月18日に取り消しと開示決定及び賠償を求めて西山氏は再び提訴している。この「沖縄密約情報公開訴訟」の裁判所の判断が、今回の密約検証有識者委員会の報告書と今後の国会での歴代首相及び外相や元外務省官僚たちの証人喚問や事情聴取とどのように展開していくかが見ものである。
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第二京阪道から紀三井寺へ。

2010年03月22日 | ガリバー旅行記
 京都府南部の京田辺市に居住する私にとって、一昨日に全面開通した「第二京阪道路」は、いろんな意味で関心のある有料道路である。

 数年前に枚方東から久御山までの一部は開通していたのだが、大阪府下の交野市、寝屋川市、、四条畷市、門真市を通って、中央環状線の近畿自動車道に接続する肝心要の約16キロ強は多くの反対もあって完成に時間がかかったので、総工費も20数キロの三車線を中心とした大動脈となったとはいえ、1兆円を超す巨費が投じられた道路なのである。

 私自身は、既に京田辺松井から八幡東の上津屋までの第二京阪道路の側道部分を既に毎日の通勤で使っているのだが、先週末からは木津川にかかる第二京阪道路の側道部分の「新木津川大橋」が開通して、従来の有料部分の150円の通行料がかからなくなって便利に活用しているのである。

 この「第二京阪道路」の大阪門真東ジャンクションまでの開通で、国道一号線の渋滞緩和が図れるとのもっぱらの予測なのだが、一昨日の開通以来、物見遊山の自家用車などが連休ということもあって側道には集中し、相当な渋滞が起きていた。

 今朝は、枚方東から第二京阪道路に入り、門真東を経由し近畿自動車道、阪和自動車道を南下して、なんと約一時間で和歌山市へと車を走らせたのである。

 特に目的地はなかったのだが、「桜前線」は、日本列島の場合は南からという常識的イメージもあったので、とりあえずは「第二京阪道路」を使って和歌山県へという感じて100キロ近くを走って、紀ノ川サービスエリアで休憩して、観光情報などを精査した結果、「早咲きの桜」があるとのことで、和歌山市の「紀三井寺」を目指すこととなった。

 さすが、新聞の「桜便り」などでいつも和歌山県の「桜の開花」の基準木が境内に植わっている「紀三井寺」だけあって、いたるところに「ソメイヨシノ」を主とした桜の木が植わっていて、三分から二分咲きといった感じのサクラが多かったが、十分「早咲きのサクラ」を満喫することができた。

 せっかくの和歌山県だったので、お昼ご飯も海の幸を戴こうということになって、「海鮮問屋」と称する大きな生簀で鯛や近海魚を見せながら料理している大型店に入って、「初カツオ」のたたきや「海鮮釜飯」、「ホタテの釜飯」、「海鮮寿司の海苔巻き」などを食した。

 天気も良く順調に高速道路をひた走って着いた「和歌山県」であったが、帰路は同じ道を帰るのは面白くないと思って、和歌山県橋本を経由して奈良に抜けて京都へと国道を中心に走ったのだが、さすが連休、祝日の午後は車が混んでいて、帰りは約三時間もかかってしまった。

 生活道路としての機能はそれほどではないだろうが、仕事や運搬に今後、この「第二京阪道路」がどれほど機能して、1兆円強の設備投資が意味あるものとなるのかどうか、立派過ぎる片側三車線で高い防音壁のある高規格道路の行く末を見守りたいと思う心境である。
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「みんなの党」なんて!!

2010年03月21日 | とんでもない!
 遂に民主党の内部抗争とでも言うべき、つまらぬ解任劇がされてしまった。

 ご存知の様に、なんと11人もいたという民主党の副幹事長職のひとりであった生方議員が、新聞のインタビューに応える形で、党運営の責任者である小沢一郎氏を直接的に批判したと取れる発言を外部でしたという理由で、代表副幹事長である小沢一郎氏のイソギンチャク的高嶋氏の逆鱗に触れて、解任されてしまったのである。

 私は小沢一郎の陸山会を巡る不正献金ならびに政治資金規正法違反に絡む検察の捜査で三人の小沢事務所の元秘書の石川議員と大久保秘書ともうひとりの現在の秘書が逮捕された時点が、鳩山由紀夫首相が小沢一郎と離れるチャンスだと二ヶ月ほど前に記したが、鳩山は決断できなかった。

 半年前の総選挙後の与野党逆転の画期的な政権交代で鳩山新政権が発足した当時は70%台を示していた支持率が、たった半年で不支持が支持率を上回るという逆転現象を生じてしまったのは、一重に鳩山首相自身の「子ども手当」や「故人献金」問題もあるが、小沢一郎氏の政治手法と政治献金問題が一番大きく影響しているのは明らかである。

 もうひとつは、民主党のマニフェストの実行力の遅さや不確かさであり、三党連立内閣がゆえの普天間基地移転問題などですっきりしない日米間の懸案の問題の大きな揺れなどをマスコミ、メディアが盛んに書きたてて問題視するからでもある。

 いずれにせよ、大きな期待を国民がして「政権交代」を実現させたまでは良かったのだが、鳩山首相をはじめ元自民党の代議士が大半を占める民主党の中での政治手法や決断力の危うさと新政権としての「思いっきり」の無さが、少しつづ見え隠れしつつも見えてきたからでもある。

 確かに元自民党ではない、若手の大臣たちとして頑張っている国土交通、厚生労働、総務大臣などの非自民系の議員もいるのだが、未だに田中角栄時代の亡霊の様な「小沢一郎」支配が見え隠れする民主党は、「自民党」から「自由」をとったら「民主党」というバカげた冗談まで飛び出す始末である。

 今回の「小沢幹事長批判」と取れる「生方元副幹事長」の発言事件は、さらに国民に「民主党には発言の自由も無いのか」と思わせてしまう様な対応振りに映ってしまったのではないだろうか。

 参議院選挙を七月に控えた政局の中で、面白い現象が出ているのが、政党支持率で民主党が後退しても自民党が上昇せず、第三極として社民党や公明党、共産党などの既成政党の支持率が増加しないことである。

 無党派層の増加か、昨年自民党を飛び出して結党された、渡辺喜美代表が率いる「みんなの党」が何と5%以上の支持を獲得し、第三党となっているという現実である。

 決して国民が「みんなの党」に大いに期待しているというわけでもなく、ただ持って行き場のない有権者の気持ちが少しでも行政改革、公務員改革などを掲げている元総務大臣の渡辺氏のイメージに託しているに過ぎないのである。

 それにしても「みんなの党」とネーミングは可愛いらしいが、理念や方向性も定まらないいい加減な「八方美人」的政党名のこの党が、現在の政治状況に溜息交じりの落胆をしている国民の受け皿になるとは決して思えないのだ。
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