ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

三つ子の魂、百まで。

2013年02月21日 | 感じたこと
 夕刊によると、昨年の一年間で全国でいじめに起因するとみられる少年事件が260件あり、児童・生徒511人を検挙または補導したというのだが、件数及び人数が共に一昨年の2.3倍になり、その約75パーセントが7月以降に集中しているという。

 これは、まさに大津の中学生がいじめを苦に自殺したと報じられたことがきっかけで、ここにもそこにもと指摘がされたり告発されたりしたことで、立件されたり明らかになったという事実のほんの一部なのではないだろうか。

 警察庁は、この大津の事件で県警が学校などを家宅捜索したことで、いじめ問題への社会的関心が高かまって、警察に対応を求める人が増えたと見ているのだが、実態はこんなものではなく、まだまだ隠されていたり闇に葬られている事象が多々あると思われるのである。

 こうした社会問題化した「いじめ」や体罰と称する暴力などの事象は、決っして子供たちの世界だけでなく、大人の社会、つまり我々も含む人間の大きな根底的課題だと思うのだが、人間の生まれながらに持つ自分を守るための優越感や劣等感、または差別的意識が悪玉菌のように心の奥底から時折もたげて来るといっても過言ではない人間の習性なのかもしれないと思ってしまうほど、多様な組織や自分たちの身近にも存在している。

 他人の悪口、他人を陥れるような告げ口にはじまり、自分自身を守るためか自分だけが正しくて、周りの人間を嫌うだけでなく否定してしまうような自己防衛本能の様な性格が人間のDNAには潜んでいたのかと思うほど、多くの人間の心の底には隠れている様な気さえする。

 つまり、「いじめ」や「暴力」は、その程度こそ違えども自己を守るための最低限の防衛本能の様なものでもあり、生まれてまもない赤ちゃんから物心つくかつかない幼児においても、自分自身を守るための知恵のひとつが相手を叩いたり、睨んだりすることであり、子供たちの保育園や幼稚園での生活のはじめはそんな状態が当たり前であり、軍隊での専守防衛は当たり前の正当防衛とみなされるという様に、戦争では自分たちの身を守るためには当然相手を攻撃してもいいという考え方に近いのではないだろうか。

 ただ、いじめや暴力が一方的な片方の理屈や感情、考え方やルールによってなされる場合は、それを犯罪的行為と第三者が断定、もしくは疑がって問題視するから社会的問題となるだけであり、世間には多数のいじめや暴力の被害を受けたと自覚した人にとっては、たとえ正当防衛であったと言われても、暴力でありいじめなのである。

 こうした人間の根本的DNAとでも言っていい本性の是正は、幼い頃の家庭教育の中でなされる「躾」が一番大切なのではないかと私は考えるのである。

 つまり、本性としての人間は自らを主張し、自分勝手に自分を守ることを専守防衛の如くする動物なのだが、躾という形で共に生きるための知恵としての理性やルール、そして他人の心をも察する想像力と思いやりをて身につけることによって、少しづつ大人になっていくのではないだろうか。

 いまや「三つ子の魂、百まで」をもう一度見直して家庭で実践すべき時が来ていると感じている。教育委員会や学校の批判や非を追及するだけでは「いじめ」や「暴力」はなくならないのではないだろうか。
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ネット匿名犯。

2013年02月11日 | とんでもない!
 現在の様なネット社会になって、早や20数年が過ぎたのか、最近のスマホブームも併せて、より気軽に何処からでもインターネットへの接続、書き込み、情報告知が可能となったためもあって、より高度?なネット犯罪や匿名での嫌がらせや中傷、誹謗なども含めた犯罪が多発している様である。

 昨日逮捕されたサイバー犯と呼ばれるネットおたくの容疑者だけでなく、時間と暇をもてあましてか他人の中傷や誹謗、そしてデマ情報や好き勝手な匿名性ならてぜはの「愉快犯」ている的書き込みやプライバシーの侵害を平気でやっているネットの中の世界が益々助長していると言われている。

 先日も私の友人のジャーナリストがネット上のブログで尖閣をめぐる領土問題に言及したて私信を発したら、ともかく相当数の誹謗、中傷としか言えない様な書き込みが集中し、「死ね」とか「日本から出て行け」とか一方的な批判と言うより、嫌がらせ的匿名記入が集中したというのである。

 決っして彼は日本や中国の一方的な領有権を支持する意見を記したわけでもなく、一人のジャーナリストとして客観的な批評や考え方の基本を示しただけなのだが、一文の特定の箇所だけに反応した匿名の輩が、とても低次元の誹謗や中傷を繰り返して「嫌がらせ」をしたに過ぎないのである。

 彼はとんでもない嫌な気分に苛まれたと思えるが冷静に、その原因となる文章の真意を再び伝えると共に、匿名で中傷、誹謗する人たちへ冷静に、その背景と間違いを正すという言論者としての真摯な姿勢で対応したので、その様な書き込みは急減したというのであった。

 しかし、世界に容易に繋がるネット社会の何処にでも、全ったく見ず知らず野匿名の読者や勝手にリンクをはって見守る人がいて、「なるほどこういう考えや意見もあるのだ」という様に他人の意見や見解を見たり覘いたりするのは自由なのだが、その一部にとんでもない悪意を感じてか反応し、全ったく知らない他人に対して、とんでもない罵詈雑言や「殺す!」とか「失せろ」とか人権侵害や無視の言葉を浴びせたりするのである。

 私自身もネット上でのブログをこのように記していると、やはりコメントとして匿名の輩からとんでもない誹謗、中傷を受けることが時折あるので、ブログでの特に政治的課題や差別的意見については慎重かつできるだけ断言や断定は避けて書くことを心がけているつもりなのだが、やはり一部の言葉や思い込みで、ご自分の考えや意見と違う面に強く反応してか、お怒りと言うべきかとんでもなく感情をむき出しにした様なコメントをいただく場合があるのである。

 その時は本当に心が痛み、しばらくはブログを書くことすら嫌になったりするのだが、失礼ながらそのコメントに限り消去して心を整理する期間をおいて、再び元気を取り戻すことができるのである。

 今回の逮捕されたサイバー犯の真の狙いや目的は知る由もないのだが、ネットおたくや猫にチップをつけていたとか、やはり時間を仕事や友人との交流や楽しい目的に使用しないどころか、本人にとっては警察や他人をあざ笑ったり「ざまぁみろ」という感じの挑戦的思いで、インターネットを通じて寂しさや孤独な日々を忘れ、自分のネットやパソコンの技術的知識や経験を生かして、他人のパソコンに侵入したりして、犯行を繰り返していたらしく、たぶん「愉快犯」とでも言うべき彼にとっては日常だつたのだろうと推察できるのである。

 今回の事件に関わらず、スマホや携帯電話、そしてワイファイなどの発達で、誰でも何処でもネットと接続できて、自分の思いや写真などの情報もすぐに投稿したりネット上にアップできる現代になっているので、電車の中だけでなく至るところでスマホをいじっている若者や多様な人物を目にする日々に、あまりにも気軽に自分の身辺や中には友人、知人のプライバシーを侵害しかねない情報や写真などをフェイスブックなどに掲載している人がいて、悪意のない限りは気にはならないけれど、一つ間違えば他人の逆な謗りや批判、嫌がらせに繋がらないとも限らない事情も増えている様に感じている。
 要注意である。



 
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レ・ミゼラブル

2013年02月07日 | イベント
 昨年12月に公開されて以来、大変な感動と映画ならではの作品と大好評のミュージカル映画、「レ・ミゼラブル」をやっと観た。

 ビクトル・ユーゴー作の作品が原作だとのことだが、どうも全編ミュージカル仕立てだと聞いていたので、実は最初はあまり観に行こうとは思っていなかったのだが、いろんな寸評や観た人たちの反響を知って、公開後一ヶ月以上経った先日、音楽好きの妻と共に平日の夕刻に近くのシネコンに出かけて鑑賞したのだが、約2時間半の上映時間を魅せられて見終わったのであった。
た。
 一言で言えば、何と言うべきか従来のミュージカルという概念とでも言うべき自分自身の抱いていた先入観を見事に超えた、素晴たしい作品であり、観終わった後の感動ともいうべき心の中は、とても観てよかったと感じる充実感と共に、レ・ミゼラブルという著名な作品なた。のに、今まで小説を読んだこともなく、タイトルとジャン・バルジャンとむいう名の主人公の名しか知らなかった自らを寂しくも感じたのであった。

 映画は、主人公ジャン・バルジャンを演ずるヒュー・ジャックマンが長くて厳しい囚人生活をしているところから始まるのだが、たった一つのパンを盗んだという罪で、何と19年間もの投獄生活を余儀なくされた後、辛うじて仮釈放されたのだが、囚人としての囚人番号で身分証明をしなければ自由に出歩くことも出来ないという身を憂いて、彼は証明書を破棄して逃亡生活に入るのであった。

 その彼を追って、名優であるラッセル・クロウが演ずる警部ジャベールが執拗に彼の周辺に現れては、彼の行動を監視しているのであった。

 そんな状況の中、ジャン・バルジャンは運命的にフォンテーヌという美しい女性に出会い、彼女の愛する一人娘のコゼットヲ託されるのであった。彼女を演ずるアン・ハサウェイという女優さんの歌声はとても澄み切ったソプラノであり、心の底まで響く強い意志と娘への愛情に満ちてようであったが、彼女が長い黒髪を見事にショートカットする場面は女性としての勇気と決断の強さを痛切に感じた。

 レ・ミゼラブルという著名な小説のミュージカル版としての映画化というこの作品は、舞台などでかつて演じられてきた幾多のミュージカル作品とは脚本も演出も違うのだろうと感じたのだが、私にとっては特に後半の部分のジャン・バルジャンに助けられて、親子のように生活しながらパリへと逃亡し成長したコゼットが出会ったアン・ジュルラスという名の青年と恋に陥るのだが、彼が革命を目指して戦う集団のたリーダー的存在としてバリケードの中にいたことに、時代や背景は全く違うのだけれど、60年代後半の日本の学生運動期を思い出したのである。

 権力と戦う学生や若者たちが、戦いの歌を歌いながらバリケードを構築し、市民がいずれは賛同してくれてやがて大きな力で時の権力に立ち向かって、民主的に革命が成功するという幻想を抱いて、自分たちを奮起させる意味も込めて歌う歌、日本に置き換えれば「ウイ・シャル・オーバー、カム」や「友よ」という歌声を思い出したのであった。

 そんな遠い昔の青春時代の一こまを連想しつつ、若い闘志アン・ジョルラスとコゼットの恋を何と、ジャン・バルジャンが瀕死の彼を救い出して彼女の元へと届けるというドラマチックな展開は、最終的には彼らのハッピーエンドだけでなく、宿敵であるはずの警ジャベールをも救ったジャン・バルジャンの勇気と正義感に対して、ジャベールが応えられずに自殺してしまうという結末に至ったのであった。

 とにかく、素晴らしいミュージカル映画に乾杯である。

 
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