夕刊によると、昨年の一年間で全国でいじめに起因するとみられる少年事件が260件あり、児童・生徒511人を検挙または補導したというのだが、件数及び人数が共に一昨年の2.3倍になり、その約75パーセントが7月以降に集中しているという。
これは、まさに大津の中学生がいじめを苦に自殺したと報じられたことがきっかけで、ここにもそこにもと指摘がされたり告発されたりしたことで、立件されたり明らかになったという事実のほんの一部なのではないだろうか。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/74/653f90ee62848365a73189ac153bfac5.jpg)
警察庁は、この大津の事件で県警が学校などを家宅捜索したことで、いじめ問題への社会的関心が高かまって、警察に対応を求める人が増えたと見ているのだが、実態はこんなものではなく、まだまだ隠されていたり闇に葬られている事象が多々あると思われるのである。
こうした社会問題化した「いじめ」や体罰と称する暴力などの事象は、決っして子供たちの世界だけでなく、大人の社会、つまり我々も含む人間の大きな根底的課題だと思うのだが、人間の生まれながらに持つ自分を守るための優越感や劣等感、または差別的意識が悪玉菌のように心の奥底から時折もたげて来るといっても過言ではない人間の習性なのかもしれないと思ってしまうほど、多様な組織や自分たちの身近にも存在している。
他人の悪口、他人を陥れるような告げ口にはじまり、自分自身を守るためか自分だけが正しくて、周りの人間を嫌うだけでなく否定してしまうような自己防衛本能の様な性格が人間のDNAには潜んでいたのかと思うほど、多くの人間の心の底には隠れている様な気さえする。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/ea/05ae93d6de795747e2fadece6675f59f.jpg)
つまり、「いじめ」や「暴力」は、その程度こそ違えども自己を守るための最低限の防衛本能の様なものでもあり、生まれてまもない赤ちゃんから物心つくかつかない幼児においても、自分自身を守るための知恵のひとつが相手を叩いたり、睨んだりすることであり、子供たちの保育園や幼稚園での生活のはじめはそんな状態が当たり前であり、軍隊での専守防衛は当たり前の正当防衛とみなされるという様に、戦争では自分たちの身を守るためには当然相手を攻撃してもいいという考え方に近いのではないだろうか。
ただ、いじめや暴力が一方的な片方の理屈や感情、考え方やルールによってなされる場合は、それを犯罪的行為と第三者が断定、もしくは疑がって問題視するから社会的問題となるだけであり、世間には多数のいじめや暴力の被害を受けたと自覚した人にとっては、たとえ正当防衛であったと言われても、暴力でありいじめなのである。
こうした人間の根本的DNAとでも言っていい本性の是正は、幼い頃の家庭教育の中でなされる「躾」が一番大切なのではないかと私は考えるのである。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/26/38b205b46f4520640c5419db6619b7be.jpg)
つまり、本性としての人間は自らを主張し、自分勝手に自分を守ることを専守防衛の如くする動物なのだが、躾という形で共に生きるための知恵としての理性やルール、そして他人の心をも察する想像力と思いやりをて身につけることによって、少しづつ大人になっていくのではないだろうか。
いまや「三つ子の魂、百まで」をもう一度見直して家庭で実践すべき時が来ていると感じている。教育委員会や学校の批判や非を追及するだけでは「いじめ」や「暴力」はなくならないのではないだろうか。
これは、まさに大津の中学生がいじめを苦に自殺したと報じられたことがきっかけで、ここにもそこにもと指摘がされたり告発されたりしたことで、立件されたり明らかになったという事実のほんの一部なのではないだろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/74/653f90ee62848365a73189ac153bfac5.jpg)
警察庁は、この大津の事件で県警が学校などを家宅捜索したことで、いじめ問題への社会的関心が高かまって、警察に対応を求める人が増えたと見ているのだが、実態はこんなものではなく、まだまだ隠されていたり闇に葬られている事象が多々あると思われるのである。
こうした社会問題化した「いじめ」や体罰と称する暴力などの事象は、決っして子供たちの世界だけでなく、大人の社会、つまり我々も含む人間の大きな根底的課題だと思うのだが、人間の生まれながらに持つ自分を守るための優越感や劣等感、または差別的意識が悪玉菌のように心の奥底から時折もたげて来るといっても過言ではない人間の習性なのかもしれないと思ってしまうほど、多様な組織や自分たちの身近にも存在している。
他人の悪口、他人を陥れるような告げ口にはじまり、自分自身を守るためか自分だけが正しくて、周りの人間を嫌うだけでなく否定してしまうような自己防衛本能の様な性格が人間のDNAには潜んでいたのかと思うほど、多くの人間の心の底には隠れている様な気さえする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/ea/05ae93d6de795747e2fadece6675f59f.jpg)
つまり、「いじめ」や「暴力」は、その程度こそ違えども自己を守るための最低限の防衛本能の様なものでもあり、生まれてまもない赤ちゃんから物心つくかつかない幼児においても、自分自身を守るための知恵のひとつが相手を叩いたり、睨んだりすることであり、子供たちの保育園や幼稚園での生活のはじめはそんな状態が当たり前であり、軍隊での専守防衛は当たり前の正当防衛とみなされるという様に、戦争では自分たちの身を守るためには当然相手を攻撃してもいいという考え方に近いのではないだろうか。
ただ、いじめや暴力が一方的な片方の理屈や感情、考え方やルールによってなされる場合は、それを犯罪的行為と第三者が断定、もしくは疑がって問題視するから社会的問題となるだけであり、世間には多数のいじめや暴力の被害を受けたと自覚した人にとっては、たとえ正当防衛であったと言われても、暴力でありいじめなのである。
こうした人間の根本的DNAとでも言っていい本性の是正は、幼い頃の家庭教育の中でなされる「躾」が一番大切なのではないかと私は考えるのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/26/38b205b46f4520640c5419db6619b7be.jpg)
つまり、本性としての人間は自らを主張し、自分勝手に自分を守ることを専守防衛の如くする動物なのだが、躾という形で共に生きるための知恵としての理性やルール、そして他人の心をも察する想像力と思いやりをて身につけることによって、少しづつ大人になっていくのではないだろうか。
いまや「三つ子の魂、百まで」をもう一度見直して家庭で実践すべき時が来ていると感じている。教育委員会や学校の批判や非を追及するだけでは「いじめ」や「暴力」はなくならないのではないだろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/4a/cc3c4c267450b4bf11bda4f2dfd0e856.png)