ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

ウトロで終戦の日、新井英一が歌う。

2005年07月30日 | 日本の課題

 戦後60年、宇治市ウトロ発で、新しい未来へ新井英一と共に、平和への願いと叫びがこだまする予定である。

 いまだに戦後処理がされていなかった現代の証の一つである、宇治市ウトロ地区から、韓国のMBCテレビが生中継で、戦後60年特別番組をソウルの野外コンサート会場とを結んで、「共につくる平和」と題して放送される予定です。

 8月15日夕刻に、新井英一が「ウトロ、チャリティコンサート」を行い、ソウルではBOAやトンパンシンギ、イ・ソ二など韓国トップスター達が出演し、3万人規模のコンサーが展開されて、衛星中継で結ばれる予定です。

 新井英一氏は在日として福岡に1950年に生まれて、15歳で家を出て岩国の米軍キャンプなどで働き、ブルースに魅せられて21歳で渡米して放浪生活の中で、歌手を志して独学で歌作りを始め、日本生まれの朝鮮半島の血を引く自らを「コリアン、ジャパニーズ」と称して活動する歌手である。

 自らのルーツである父親の故郷、韓国、清河(チョンハー)を86年に初めて訪れて、数年後その旅の思い出と共に、自らの半生とルーツを歌い上げた「清河への道~48番」を創り、95年にアルバムとして発表し、筑紫哲也ニュース23のテーマ曲に選ばれて、マスコミの話題となり、日本レコード大賞アルバム賞を受賞した。

 その後、韓国KBSでドキュメンタリー特別番組が放送されたり、日本でもNHK「我が心の旅」、テレビ朝日「報道特別番組、21世紀への伝言」など多数の番組に出演し、ライブ活動もNYカーネギーホールやパリでも行い、2002年には韓国ツアーも実現し、念願の「清河村」でのライブも成功させ、国内外で精力的に歌い続けている。

 今回の企画は、本当に日韓両国の草の根的なネットワークが主催するもので、地元ウトロの町内会、ウトロを守る会などと民団と総連も主催者として協力して行うものである。

 近鉄京都線伊勢田駅から歩いて西へ5分のウトロ地区で、午後5時から行われるので、是非お時間のある方々は、新井英一のソウルフルかつバイタリティあふれる歌声と共に、日韓の第二次世界大戦の終結から60年を覚えて、音楽に酔いしれて友好と平和への未来への願いを共通のものとしたいものである。
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大丈夫と言う不安

2005年07月29日 | 感じたこと
 全国各地でアスベストへの不安が高まっているが、電磁波、ダイオキシン、農薬、遺伝子組換え食品、食品添加物、原子力発電などについても、今までも多くの問題や不安が伝えられているが、大きな問題としては、取り上げようとはしないのが、日本である。

 国民の中の、疑問や不安を感じる人たちが、各々の関心や努力で、施行業者や、販売者,工事関係者や当局に問い合わせを行っても、大抵は大丈夫ですとの返答が即座に返ってくるのである。

 我が住居のアスベストへの不安について、25年前に分譲住宅として大規模な開発をして建てた住宅供給会社が、幸いにもまだ健在だったので電話でアスベストの建材としての使用の有無と、現在での安全性について聞いてみたのである。

 電話口に出た担当者と名乗る人は、概要を聞いただけで即座に「大丈夫です」と返答を返したのである。私は却って不安になって、充分な調査や建築当時の資料を基に、説明されたのであれば、納得がいく部分もあると思えるのだが、即答としての「大丈夫」には、却って不安が高まってしまったのである。

 私自身も家人や他者からいろんな疑問や不安を抱く問題に対して、心配をされて聞かれる場合には直ぐに大丈夫と返答してしまう性質なので、よーく、その心境は分かるのだが、こんな社会的に大問題となっているテーマに対しては、慎重に調査と資料に基づく返答をしてもらいたいものである。

 当然、組織や団体の責任や問題を責められない様にとの、自己防衛本能とでも言うべき担当者の対応なのだろうけれど、即座の「問題なし」の返答には、困ってしまうものである。

 欧米諸国では、たぶん多くの人たちの疑問や問題提起が生じた場合、まず疑わしいものは使用しない措置をとって、じっくり調査や実験をして、人体や健康に問題がないと明確に証明できれば、再び使用を許可するといった措置が取られるのではないかと思うのである。

 つまり疑わしきは使用せずを原則にすべきなのだが、日本の場合は科学的因果関係が立証されていないので、使用中止や禁止は出来ないとする場合が大半なのである。

 この「大丈夫」とする間に、アスベストによる中皮種や肺がんによって、労働災害とでも言うべき死亡被害が続出していたのである。

 あのエイズウイルスによる、HIVの患者の多くは、輸入血液製剤による感染だったわけだが、あの帝京大学病院の安部教授は、「その当時は因果関係はわかっていなかった」と裁判所でも述べたと伝えられているが、分からなければ「安全、安心」の御墨つきを与えてはならないもので、彼の学者としての大きな罪は明らかなものである。

 多くの専門学者が日本国中におられるのだから、このアスベストに関しても、多くの指摘が過去40年近く、されてきていたのだが、結局、誰がが「大丈夫」「そほど影響はない」などとする発言をしたために、今までほとんど放置されて、数百人以上の直接被害による、死者が出ていたのである。

 「大丈夫」といういい加減な返答に、大いなる「不安」を感じるのは、私だけではあるまい。
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平和を創る活動と展示

2005年07月28日 | 世界の問題
 平和は創られるものであって、ただ戦争は嫌だとか、戦争はしてはいけないと思うなどと、お念仏のごとく唱えたり語ったりしているだけでは、平和はないのである。

 今日、京都市の洛北にある精華大学の構内での日本と韓国の若き作家たちによる「オッケともだち」展と、立命館平和ミュージアムを訪ねることが出来たのである。

 午前中に車を走らせて精華大学を訪ねて、若き日本と韓国の芸術家として活躍している多くの人たちのネットワークから生まれた作品展を観たが、反戦の意思を持つ作家達が、戦争と平和についての思索を巡らせて、日韓の市民の国際交流と日本列島と朝鮮半島の友好的な関係を未来に向かって築こうとする意欲的な作品展であった。

 戦後60年を迎える日本において、日本が起した侵略戦争から現在アメリカがイラクで行っている戦争まで、地球上では近代史上で戦争が止むことなく繰り返されており、日本へのアジアの諸国の不信感は、今も尚奥深いもので、払拭できない侵略行為であったことを改めて反省し、新たな努力を日本はしなければいけないのである。

 中国、韓国における反日デモを目の当たりにして、彼らの思いに心配ることなく、国家主義やナショナリズム、排他主義で自国の正統性のみを唱えていても、何の解決にもならないのである。

 過去にアジア諸国に甚大な被害と多大な傷を与えた歴史を直視して、他国に対しても心を開いて、日本人としての努力を惜しまない表現、言葉、態度、行動が必要な時にあると思います。

 今、日本国中の多くの大学キャンパスに、学生達の意識的な「戦後60年」を思索する表現や発言、行動が極めて少ない中で、ここ京都精華大学には、辛うじてのアッピールイベントとしての「日韓の軌跡の先に祈りを」と称する、自主的な平和と戦争への展示があったことに、ささやかな喜びと満足感を感じたものである。

 午後には、常設展示の「立命館平和ミュージアム」に、実は私の敬愛して止まないO先生が、博物館側の要請で提供された幾多の、戦争と平和や原爆をモティーフとした絵画の作品を観に行ったのであるが、改めて日本の大東亜戦争なる15年戦争以来の、戦争の実態と資料の展示をじっくりと見る機会を得たのである。



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心配な日本の食

2005年07月27日 | 世界の問題

 日本人は、いつからこうなっちまったんだろう?と思わせられるほど、平和についても、毎日の食についても関心が薄いようである。

「食」については全国民、住民の毎日の必須の課題なのに、国も地方行政も力を入れないばかりか、全く関心が弱く、私が「食育懇談会」的な議論と検討の機会が必要と提案しても、各施策に結びつけることが困難なので現状のままでと消極的な対応で、心の中で「大きなため息」をついて諦めに似た気持ちになる。

 日本は戦後の高度成長経済期に多くの農地を潰して開発し、農村の働き手を都会や郊外の産業労働者として雇用し、農地、農業の荒廃を招いてしまったのである。

 今、日本のカロリーベースの食料自給率は辛うじて40%であり、穀物自給率においては、何と28%になってしまっているのである。つまり我々の食のエネルギーの2/3近くが外国産であり、輸入がなくなると、食料は1/3となってしまうのである。
 
 現在、日本は経済力で米国、中国を中心とした農業立国から多種多様な農産物を輸入しているが、高蛋白、高脂質で、生活習慣病などの多様な病気、不健康を生み出した上、4割近い食糧を結果的にはゴミとして捨ててしまっているのである。

 とにかく経済優先で、田畑をはじめ、山、海、川、大地をダメにして、外国から食糧を輸入する、とんでもない自立できない国に成り下がっているのである。

 先進国と言われる国々の中でカロリーベースの食料自給率は、フランス130%、アメリカ119%、ドイツ91%などであり、穀物自給率では米国、中国、EU、ロシアなどの100%を越す国があるが、今後の地球温暖化、石油の高騰、人口増加で、輸入に依存した食料調達は困難となり、とんでもなく高価なコストになること間違いなしである。

 その原因の大きな問題が、日本の食習慣の大きな変化、つまり米を食わなくなり、小麦のパン食や肉、畜産品の食事の傾向が高まったことで、日本の農業の衰退と食文化の乱れが、国民の健康と生活の基本である食と農の政策無き混迷に陥ってしまっているのである。

 これからの食育は、遠くからの食物を食べないこと。米、野菜、豆を主体に食べること。石油などのエネルギーの無駄な消費を削減すること。などの基本に立ち返って、行政と住民が努力しなければ2020年以降には、今までの食料の価格が2~3倍に跳ね上がることが予測されている。

 食生活、食文化を日本の土壌にあったものに見直し、国土の自然環境の保全と共に田畑の有効な耕作で農の復活をしなければ、企業の金儲けの農と食だけでは、日本人の健康に負荷をもたらし、医療費の高騰も招き、少子高齢化社会での経済活動の低下、税収の縮小する世の中で、不健康な住民が続出する危機的状況がシュミレーションしか浮かばない。

 戦後の高度成長経済、お金儲け優先の価値観と、不自然な農と食が招いた社会生活にあって、多くの国民、住民が心身共に病み状態に陥っており、生物体としての自然な生のバランスを崩していると言っても過言ではないだろう。

 日本の大地と海から自然に獲れる旬の農産物や魚、卵、肉などを、日本人の健康な心身にあった食品として地元で食すシステムを、行政、国がも一度真剣に早期に取り組まないと、日本の10年後以降には、間違いない食糧危機がやってくるだろう。
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道路公団トップ談合で逮捕

2005年07月26日 | 日本の課題
 ようやく問題多き天下り官僚集団の実質的なトップである、内田道路公団副総裁が逮捕された。

 永年の政府の天下り人事の温床となり、大手の土木建設業界との癒着による「談合体質」を秋の民営化までに何とか一掃すべく、猪瀬氏を始めとする、道路関係4公団民営化推進委員会からの指摘や告発に対して、白を切っていた公団幹部の典型が、この内田副総裁だったのである。

 内田副総裁は、東京工業大学出身の技師として生え抜きの技師長を経て、民営化へのステップで、公団トップに上り詰めた、エリート中のエリートなのであるが、5月の委員懇談会で、OBによる談合組織である、K会やA会の存在は報道で初めて知ったと語り、猪瀬委員に「嘘だ」と指摘され席を立って以来、懇談会への出席は拒否していた人物である。

 テレビの報道を通じて拝見すると、60歳を迎えた普通の品のある紳士の様にお見受けするのだが、永年の道路公団という、特殊な組織、集団に籍をおいての仕事を通じて培われた「組織の常識」が如何に、一般社会では「非常識」なことなのかも分からなくなった、組織人間と化していたのであろう。

 検察庁の告発により、逮捕されてしまったが、本人は、たぶん現在も自分は悪いことはしていない。全て組織のために、道路公団のために誠実に職務を遂行したに過ぎないと思っておられるのではなかろうかと推察するのである。

 人間は、その所属する組織、団体によって大きく価値観や生き方が変る人と、どんな組織や価値観の中にあっても、ちっとも自分の個性や考え方が変らない人もいるのだが、日本社会にあっては、「壕に入れば壕に従え」的な、組織人間、つまりイエスマンが善しとされ、上意下達の強靭な組織が出来てしまっている場合が多いのである。

 私は、この一連の橋梁談合事件を通じて、今回の逮捕は「官製談合」の疑惑まで肉薄しているのだけれど、決して、このエリートである、内田道路公団副総裁の逮捕で終わって欲しくないと強く感じている。

 というのは、この背景には多くの官と民の癒着体質と共に、政治家がバックに関与していることが間違いないからである。

 地方の経済と政治は、その地域の道路や橋等のインフラ整備が、まず表向きの大きな政治化の公約であり、「地元に如何にお金を落とすか」つまり「税金をおらが町に、どれだけ運べる力」があるかが、大きな集票マシーンとして機能しているからなのである。

 どんな小さな自治体、市町村においても、この構造は大なり小なり同じであり、今回の道路公団民営化へのステップでの公団こトップの逮捕で雌雄決させずに、日本の官、財、政のどろどろした癒着とカネの行き来に大きなメスを入れてほしいものである。

 あのテレビに映る組織人間の典型的な姿である、道路公団内田副総裁の逮捕劇でね『とがけの大物尻尾切り」に終わらせない、検察当局の仕事をとことん期待しているものである。

 日本中津々裏々の習慣みたいなものだと言い切った、財界のトップの「妙言」は、問題視されたことがあったが、まさに日本国中で、談合が当たり前で、大きな政財官のデキレースによる、税金の無駄遣いをストップさせて、公平、公正な「公共事業」の遂行を実現させなければならない。
 
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父と暮らせば

2005年07月24日 | 感じたこと
 太平洋戦争末期、昭和20年の3,4月に東京、大阪に大空襲があって、4月から6月にかけての沖縄での地上戦が終結し、8月に忌まわしい広島、長崎への原爆投下がなされて、ついに8月15日に天皇の言葉で敗戦を「無条件降伏」という形で認めて以来、もうすぐ満60年の日を迎えようとしている。

 今、改めて戦後に生まれた者のひとりとして、あの大東亜戦争、第二次世界大戦とは何だったんだろうと、歴史に学びつつ多くの戦争被害者や戦争に関わった人たちの証言や書物、映像、記録から、素直に「再び二度と、あの様な戦争」を招いてはいけないと心に誓い、平和憲法を守り、日本とアジア、世界の平和に貢献しなければならないと思う今日である。

 先日、宮沢りえ演ずる娘、美津江と原田芳雄演ずる、おとったん竹造親子の会話を中心とする、広島の被爆をベースにした「父と暮らせば」という、映画を観た。

 井上ひさし氏の脚本で、黒木和雄監督作品で、戦争レクイエム三部作の完結編とされている作品で、宮沢と原田の二人の役者の好演で綴られたストーリーなのだが、一見暗いテーマの様に思えるが、結構笑わせてくれる場面もあり、最後には涙を隠しえない光景もある秀作であった。

 愛する父を一瞬の閃光、広島のピカドンで奪われてしまった娘が、生き残ったことの後ろめたさから、図書館に通ってくる青年の好意に接しても、「自分は幸せになる資格がない」とその恋のときめきを封印して、生きようとする姿が痛々しい限りであった。

 実は、被曝し亡くなった「おとったん」が、この世に舞い戻ってきて、娘との対話を通して、娘の心をひひたむきな魂で、再生させようとして「恋の応援団」を自称して語りかける物語なのである。

 いつも遠慮がちで、忍耐と共に自己犠牲的な生き方を選ぼうとする娘を、父は、あのピカの時も「じゃんけん」をして娘に勝たしてでも、その場から逃げろと指示したと言うくだりで、「最初はグー」から、父はずっとグーを出し続け、娘にパーを出せば勝てるからと示唆し、その場を立ち去り難き娘を、逃がしたのである。

 しかし、その時の自分の行動、つまり父を「ほっといて」、その場を立ち去った娘の脳裏に残る罪悪感は相当なもので、容易には捨て去ることの出来ない重たいプレッシャーとして、「生きている」自分の生き方を大きく制約することとなっていたのである。

 人間の尊厳とも言うべき生と死の葛藤の中で、偶然生き延びた者が背負った重荷は、想像以上に重たく強いものであり、その自縛から抜け出せないでいる娘に、「おとったん」は幽霊として、その生活の場に暫し登場して、娘の心を紐解いて行くのであった。

 「うちはしあわせになってはいけんのじゃ」と語る、宮沢りえ演ずる美津江の、その時代の日本女性としての美しき姿には、見る者全てが感動してしまうほどの「女性美」を感じざるを得ないのではないだろうか。

 実は、登場人物としては、この二人だけではなく、図書館に原爆資料を集めにやってくる、美津江に好意を抱く青年、木下正役として、浅野忠信も出演しているのだが、最初に図書館を訪れる時と後2シーンに登場するだけで、台詞も少なく、宮沢と原田の二人芝居の様にも感じる映画だが、全くユニークな俳優の印象が強い浅野が、真面目な好青年を演じていて、刺身のつまの様な存在感であった。

 深い心の傷は、簡単には除去できるものではない。JR福知山線の電車脱線事故や20年前になってしまった御巣鷹山のJAL機の墜落事故、多くの事故や戦争の犠牲者達の鎮魂と残された遺族の苦しみと重荷は、何年経っても消えることは無いのである。

 絶対に、地獄の戦争を繰り返してはいけないのだ。戦争から60年も経つと、その事実や歴史が風化して、何か別世界の出来事の様になっているが、肉親を亡くした遺族の苦しみと寂しさは、永遠に無くならないのである。

 ぜひ、「父と暮らせば」を観てほしいものである。

 
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蝉と朝顔

2005年07月23日 | 季節の話題
 

朝の早くから蝉が鳴き出し、お庭の朝顔は毎朝、精一杯のきれいな大きな花を咲かせている。

 夏本番である。今年は6月半ばに真夏を思わせる様な高気温が続き、どうも「アジサイ」の花を愉しむ余裕も無く夏かと思ったら、忘れかけていた梅雨の雨が、まとめてどばっと降って各地で豪雨となって被害をもたらしたりもした。

 やっと梅雨が明けたと言っても、最近のお天気予報や宣言は、どうも先取りの予報と言うよりも、後追いの傾向が強くて、庶民がどうも梅雨が明けたみたいだねと感じてから、気象台が「梅雨明け宣言」をするみたいで、テレビや新聞による「天気予報」なるものも全く当てにはならないし、天気予報士といわれるタレント?さんたちのショーに終わっている。

 ともかく動植物だけは正直なものである。蝉の一生懸命に思える「鳴き声」も彼らにとっては、地上での短い命を惜しむ様な叫びなのか、それとも喜びの歌なのか、どちらにせよ命の賛歌なのだろうと思わずにはいられない。決して鳴いているのではないのではなかろうか。新しい命への継承のための呼びかけの様な気もしている。

 一方の朝顔だが、最近も小学校での夏休みの宿題で、朝顔の生育を観察することがあるのかどうか定かではないが、子供達が生命、それも植物の成長を通じて、自然界の中での私達の食物としての農作物や日々の暮らしや生き方を応援してくれる、多種多様な植物の変化、色や花の香りや美しさを発見することは、大切な教育のひとつだと思えるのだ。

 少年、少女のいじめや殺傷事件が報道される度に、「生命の大切さ」を教える必要性などが、俄かに語られたり、論じられたりするのだが、子供達にとって生命とはどう映っており、どの様に感じているのだろうか。

 ある調査によれば驚くなかれ、人の生命も死で終わりではなく、再び生き返ると思っている子供達が、何と4割近くいたと言うのである。

 すなわち、カブトムシやクワガタも百貨店やペットショップに売っている商品であり、テレビゲームの中の戦いの勇士の様に、リプレイボタンで再度、何度でも甦って戦えると思っているのだそうなのである。

 恐ろしいことなのである。ちょっと嫌いだったり、邪魔になったら、その時の衝動的感情で、簡単に抹消してしまう。すなわち殺したり傷つけたりしてしまうのである。

 でも次の瞬間に、電池でも入れなければ元に戻らないと気づくように、慌ててしまうだけであり、決して「命はひとつ」しかないことの重大さや大切さは、多くの子どもたちが知らないで大きくなってしまっているのである。

 たった1週間ほどしか地上での「命」のないセミ達の鳴き声が、子供達にはどのように聞こえているのだろうか。またこの時とばかりに咲き誇る、朝顔の大輪に「いのち」を感じているのだろうか。

 身近な暮らしの中に、また私達の日常生活の、すぐ傍に多くの「いのち」があることに気づいているのだろうか。犬や猫、小鳥を飼って「いのち」を体験する子供達も多くいると思うが、自然界の夏の季節の彩りでもある、夏を感じる小さな動植物の代表である、蝉と朝顔に「いのち」を感じずにはいられないのである。
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アスベストの被害と経済

2005年07月21日 | 日本の課題


 先月に発覚した建設建材メーカー「クボタ」のアスベストによる作業員や家族の殉職被害状況の公表以来、全国からアスベストの吸引による、因果関係が予測される中皮種や肺ガンによる死亡事例が報告され出して、ついに政府、厚生労働省も対策に動かざるを得なくなったようである。

 日本では何度も過去にアスベストの危険性が専門家によって指摘されていたにも関わらず、ほとんど根本的な対策がとられていないと言ってもいい、悪しき状況が続いていて、先般の公表でマスコミがやっと、その危険性と実態について本腰を入れて調査し、今後アスベストの使用は代替え品が見つからないモノを除いて、全面禁止するという決定に至ったのである。

 この決定を見ていても分かることなのだが、日本の官僚や政府関係者は人の健康や命よりも、アスベスト商品を製造、販売、取り扱っている企業や経済活動を優先する、日本の政治の弱い体質をさらけ出していると言えよう。

 以前、いや現在も続いているダイオキシン汚染騒動においても、何とその原因の大きなひとつである塩化ビニールの製造、使用、焼却についても、排出抑制以外の根本的な原因除去の処置取られておらず、何とヨーロッパでダイオキシン公害の元凶とされ経営困難になった大手塩化ビニール製造企業を、日本の信越化学という手塩化ビニール製造企業が買収したと言うニュースに驚かされたことがある。

 日本の公害対策や健康保全対策は、大手企業や大きな経済活動優先であり、企業利益と企業の納める法人税や社員の所得税などにおんぶする行政が、国民、住民の健康被害よりも企業利益や税収の安定確保を優先し、思い切った政策や、その商品の製造、販売、使用の中止などの対応が取れないでいるのである。

 まさに今回のアスベスト被害の拡大は、こうした日本の行政と大企業の癒着の産物であり、全く人間の健康被害などは経済と比べれば、たいしたことがないと大見得切って言いたい官僚や企業トップの顔が浮かぶほどの大犯罪なのである。

 過去には水銀汚染の水俣病を始め、イタイイタイ病、カドニウム汚染、油化汚染、ディーゼル被害、そして今も続くダイオキシン被害や電磁波被害など、数え出したら切りが無いくらい、たくさんの企業や行政責任が問われるような公害問題がほとんど根本的対策がないまま、いや放置されて山積しているのである。

 企業や行政は、大きな健康被害の実態や状況調査の報告を受けても、なかなか、その因果関係を認めずに、大まかに健康被害は認識していないとか、因果関係における科学的立証がされていないという、言い加減な逃げ口上でお茶を濁している場合がほとんどなのである。

 あのエイズ事件での元医科大学教授の安部氏は、裁判途中で亡くなったが、明らかにエイズウイルスの感染源となったと思われる、輸入血液製剤の使用に関する疑わしき決定に関与したことは、間違いないのである。その当時の厚生省の多くの官僚や政府と薬剤会社の企業責任も甚だ大きいが、いまだに、その因果関係と罪は裁かれているとは言い難い状態のままである。

 今回のアスベスト被害は、現在やっと2008年に全てのアスベストの製造、使用が禁止されることになったらしいが、時既に遅しであり、全国的には未曾有の建造物にアスベストが使用されており、地球温暖化のひとつの原因とされて禁止されたフロンガス以上に、今後の始末が大変である。

 本当に、この国は何を大切に歩もうとしているのか。もういい加減に「経済優先」の間違った歩み方を改めて、国民ひとりひとりが真の安心、安全に暮らせる「健康優先」の国へと、大きく方向転換しないと、長寿世界一の日本という看板も、近いうちに崩壊してしまうだろう。

 私達、大人が子孫や未来に残せるものは、住みやすい環境と健康に暮らせる知恵ではないだろうか。
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新しい歴史教科書は「古い」

2005年07月20日 | とんでもない!
 

 とんでもない古い日本の軍部を中心とした戦争遂行者と同様の考えや、明治時代の帝国憲法や教育勅語の復活を目指す、古い体質の連中が模索しつつ、強引に「教科書」採択へ介入している、「新しい歴史教科書」をつくる会の動きが、俄かに活発になってきている。

 群馬県の大田原市の教育委員会が何と教育委員5人全員で、この問題の扶桑社の歴史教科書の採用を決めて全国で大きなうねりの様な、彼らの突破戦術が展開されており、反動的な内容の、しかも第二次世界大戦での、日本の侵略行為の反省や、南京大虐殺、従軍慰安婦などの記述を認めない、無かったことだと主張する、とんでもない内容の教科書を押し付けてきているのである。

 各地の教科書採択が、教育委員会や地域の教育局が担うことになったことに付け込んで、政治的圧力をかけて、意見書などの採択を迫り、挙句の果ては、前述の普通の歴史教科書を採択したのは、公平な教科書採用ではないと、いちゃもんをつけて、彼らの言う「公平」な「古くて反動的な」教科書ねつまり扶桑社の教科書採用を強引に実現させようとしているのである。

 この扶桑社とは、例のゴーマニズム宣言や戦争論の漫画家、小林よしのり氏や東大の右翼教授、藤岡信勝氏などをバックに、とんでもない思想、歴史を現代の子供達に教え込もうとする、意図的集団とフジ、サンケイグループが結託して作成している教科書であり、非常に危険な「戦争を賛美し、再び天皇制の下で世界制覇を目指す日本」を想定する内容である。

 こんな、とんでもない教科書が、一見民主的と思われる、教育委員会の決定で、幼く、歴史の事実や反省を知らない、子供達に強制的に提供され、教えられ続けるとすれば、日本社会は、再び誤った戦争への協力や天皇を元首とする,非民主的国家に逆戻りしてしまう危惧を抱いているのは、私だけではなく、多くの教育現場に立つ教師たちである。

 しかし多くの小中学の児童、生徒を送り出している、一般のご家庭の主婦やお父さん達は、こうした迫り来る現実を知らない人たちが、多くいて、一方的な彼らの運動と「古きよき時代?」を再びと願っている、復古調で、天皇国家を目指す一握りの人たちのエネルギーに、圧倒されようとしているのである。

 サイレンとマジョリティと言われる、物言わぬ大半の常識的一般人は、そんな論争や動きとは、離れた日常的経済活動に、精一杯の毎日を送っているために、こうした大きな教育現場の背景での動きを知る由も無いのである。

 とんでもない!歴史教科書。捏造された日本の近代史を、「新しい歴史教科書」として、教育現場に無理やり採用させようとしている、この反動的動きに対して、心ある学者や教育関係者たちは、危機感を募らせつつ、こうした動きをストップさせるために、ささやかに抵抗しているのである。

 大きなメディア媒体を持つ、フジ、サンケイグループをバックにした、この扶桑社の歴史教科書は、報道の中立性を逸脱した、フジテレビやニッポン放送、そしてサンケイ新聞、読売新聞など、右傾化したマスコミを見方につけて、暴走する一歩手前まできているのである。

 韓国、中国政府の小泉首相の靖国参拝批判などは、序の口であり、日本の今後の教育の根本的な部分での、教科書採択に、暗くて間違った歴史認識の教科書の採用を意図した動向が活発化している方が、私達の将来にとって、大問題なのである。

 「新しい歴史教科書」とは、古い全体主義的、天皇国家を再び招き、賛美しようとする「古い歴史教科書」なのである。

 決して騙されてはいけない。歴史の真実は一つであり、時の政府や権力者にとって都合のいい、歴史を捏造した時代に、間違っても逆戻りさせてはならないのである。
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議員の出席日当はいらない!

2005年07月19日 | ちょっと可笑しいよ
 地方自治体の議員になって14年の歳月が流れ、いつのまにかベテラン議員などと言われかねない4期目の任期半ばにさしかかっていて、先日は市議会議員としての10年表彰なるものを自動的にいただいた。

 この市議会議員10年表彰は、実は8年前に町から市制施行に移行したため、町議会議員として6年間、そして市議会議員と呼ばれて8年という経験なのだが、以前は何故か町議会時代の年数は1/3と計算する規定だったのが、最近1/2に改定されたため繰上げ計算の上、11年となると言うことでの表彰の様であった。

 私は、こんな表彰は嬉しくもなく、貰いたいとも思わないが、規定に反対しても始まらないので黙っているが、ある嘗て議員の間でボス的存在だった元議長議員なんぞは、「そんな副賞の表彰なんかいらんよ」と議場でやじった上、受賞されていたが、必要も活用もされないバッジがケースに入った副賞だった。

 議員活動を続ける中で一番不思議な手当と言うのが、「費用弁償」と称する、議員の議会出席日当である。我が市議会では条例により、一日3000円と規定されているのだが、議会に出席するのは議員の最低限の責務であり、たとえ5分の会議でも、必要経費に充当するためとしての、一回3000円の手当は多すぎるし、たとえ交通費としても、小さな市内の何処から来ても、せいぜい500円程度で済む。

 しかし共産党をはじめ、私達以外の会派は、この日当3000円に意外と執念の様に、こだわっていて、私達の提案した「費用弁償廃止の条例案」は何と2vs17で、あっさりと否決されてしまったのである。

 私は、前期の議会活動でも、ずっとこの費用弁償と言う名の、お手盛り手当に反対の意を唱えており、今期に入った2003年5月からは、年に4回ある議会定例会を中心とした、議会出席の都度支払われる「費用弁償」の受取拒否を続けており、現在は2年数か月分の50万円近い金額が、市役所から法務局への供託という形で預けられているのである。

 受け取らないので返金するという、普通の意思行使が出来ないため、市役所に返金すると「政治家の寄付行為に抵触し、公職選挙法違反になるとして、止む得ぬ措置として、法務局への供託という中途半端な措置を続けているのである。

 たとえ50万円でも、貴重な税金による財源になるのだから、有効に住民のために使っていただければ幸いなのだが、なかなかそうは行かないのである。

 この「費用弁償」の議論をする中で、ある議員は一番市内の遠方からタクシーで往復したら3000円以上経費が必要だとか、ある議員は、自家用車で往復するガソリン代は100円程度かもしれないが、車検費用や保険代もかかっていると、まじめに訴えつつ、もらえる金は、たとえ500円でも多く、屁理屈や特殊な事情を訴えても、「もらわな損だ」と言う様な、お粗末な議論であった。

 議員は、市の行財政の公平克つ平等な執行のお目付け役であり、無駄な税金の歳出などのチェックをすべき責務を担っているはずなのに、自分達に支給されている議員報酬が職務に対する報酬であり、議会に出席するために市役所を往復する経費などは、当然これに含まれているものと解釈すべきだと思う。

 しかし実態は全国各地でバラバラであり、現在も府県議会や政令指定都市の議会議員では、費用弁償が一日1万5千円も出ている自治体もあって、大阪府では問題の公務員厚遇批判の大阪市をのぞく30余の市町村議会で、この費用弁償は既に廃止されているのである。

 京都府内の自治体は遅れていて、わずか2.3の自治体のみが、費用弁償は必要経費、すなわち交通費実費程度に削減し、細かい規定で縮減して支払うように、改めているだけなのである。

 天下の共産党も、はぎれが悪く、実情に合わせた額に減額も検討すべきと、議会では費用弁償廃止案に、反対しつつ討論で、そのように主張しながら、改正案あるいは修正案を出さずに、貰い得を続けているのである。

 たとえ少額でも、公費であり税金である。議員自らが自分達の報酬、賞与のあり方も含めて、この費用弁償や政務調査費の使い方なども、厳しく精査した上で、行政を執行する市長を筆頭とする市の幹部職員に、厳しい行財政改革と、無駄を少しでもなくして住民サービスの向上を訴えたり、提案できるものではないだろうかと思うのである。
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