ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

仏陀悟りの聖地。

2008年08月31日 | ガリバー旅行記
 インドの仏陀の足跡をたどる聖地は数知れずあるのだが、私はネパール国内にある仏陀の生誕の地である、ルンビニを目指すことをやめて、インド北部の有名な聖地のひとつで、ブッダが最初に悟りを開いたと言われる「ブッダガヤ」に向かった。

 ここは、仏陀が最初に悟りを開いた地で、大きな塔のあるメインテンプルに案内を勝手出てくれた日本語が分かる青年たちと一緒に少し半信半疑で境内を回ったのだが、なぜかこの日はスリランカからの大勢のヒンドゥー教徒のお参りがあって賑わっていたが、大きな菩提樹のある「仏陀悟りの座」が鉄格子で囲われていた。

 全く私は意外な事実を日本語のわかるガイドから聞かされて仰天したのである。

 実は、この仏陀が悟りを開いたと言われる黄金の座は、十数年前までは自由に観覧できたのだが、あの忌まわしい麻原ショウコウというとんでもない奴がインドを訪れた際に、この黄金の座に勝手に座して汚したということで、それ以来閉鎖されたのだという話を耳にしたのである。

 私は仏教徒でもヒンドゥー教徒でもない、ただのクリスチャンなのだが、なんとも日本人の一人として怒りに近い思いがこみ上げてきて、なんとなく謝罪したい心境にまでさせられたのは、いかなることなのだろうか。

 ともかく、ブッダが悟りを開いたとされる聖なる地で、日本の新興宗教、しかも犯罪集団と化して、サリン事件をはじめ数々の事件を起こしたオーム真理教の松本智津夫とか言う男が、インドだけではなく世界の仏教徒たちの大切な聖地を汚す、とんでもない自分勝手な行動に出たということに恥ずかしさを感じずにはいられなかった。

 このブッダガヤという聖地には、数多くの寺院があり、日本人が建てた寺もいくつかあったが、この市内に日本のNPO団体の資金で、小学校を造ったという話もあり、インド各地に、日本人のお金と協力で学校建設もなされていることは、少しは罪滅ぼしになっているのかなとも感じたのである。

 今回のインドの旅に出る前にはあまり意識していなかったのだが、実は私も二十数年前から数年間、そういえば「フォスタープラン」という名の団体を通じて、インドの貧しい子どものサポートになればと、年間6万円、毎月5千円の基金を寄付していたことがあり、そのときの少年が今、何処に住んで成長しているのかと思い出してはいた。

 インド各地を歩いていると、至るところに日本の基金の支援での学校の話があり、ブッダガヤ郊外のスジャータ村にも小さな建物の私立の学校があって、少し寄ってみると、50人程の小学生が暗い部屋で古い教科書とノートで勉強している様を見ることが出来た。

 しかし、その学校の執事か関係者が領収書を手にずっと付いて来て、少しでも寄付をと言い続けていたので、どうもその気にはなれず断って、その学校を後にしたのである。

 確かに、この村の生活の貧しさは、バイクの後ろに乗って十数キロを走っているだけで、よく分かるほど、近くに住む人々や子どもの姿は経済的には豊かさを感じるものは何もなかった。

 それにしても、寄付を請うのが仕事と化して、来る人全てに「物乞い」と同様に学校関係者までが、「お金を」と請求する日常が、どうも違和感を感じる訪問者が多いのではないかとも思った。

 仏陀の悟りの地は、今観光地化して、お金をと強請る町に化していた。
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インドの旅の始まり。

2008年08月30日 | ガリバー旅行記
 ネパールの長閑で自然に包まれた村々を散策して、すっかり自然志向に浸っていたのだが、四日目の夜、カトマンドゥーから夜行バスでインド国境の町、ビルガンジィーへと向かうことになった。

 雨が降りしきる八時過ぎに、カドマンドゥー市内のバス発着場から、インド人ばっかりの乗客約40人程の夜行バスに乗ったのだけれど、全く周囲の人たちとのコミュニケーションもないまま、ほとんどがすぐに眠りにつくと言った感じのバス車内であつた。

 なぜかサービスで袋入りの豆菓子のようなものが配られたが、車内の電気はすぐに消され、日本の深夜バスのようにトイレが後部についているわけではないので、いつトイレタイムでバスが停車するやらも分からぬまま、少しでも眠ろうと必死だった。

 どれほど走ったのか、何処を走っているのか全くわからないまま、2時間半ほどが経過した時、バスは停まり、みんなトイレタイムだろうと一旦バスを降りた。

 私も気がつけばバスが停車していたので、いまだと言った感じでバスを降りると、バスの停車したところは日本で言えばサービスエリアのようなところで、トイレ設備はないのだが、薄暗いレストランがあって、乗客のほとんどが、ここで夕食のカレーを当たり前の如く右手で器用に食していたのである。

 私がバスを降りた時には、すでに大半が定食風のカレーセットを食べている途中で、いつバスが出発するのかも不明な中、彼らのように上手くカレーセットの食事を手早く食べる自信もなかったので、追加で注文することなく見守っていただけであった。

 それから、バスは深夜のネパール南部を国境の町へとひた走ったのだが、ようやく早朝の薄暗い田舎町、ビルガンジィーに到着するまで、三度ほどトイレ休憩の停車ほを体験した。

 やはり一人全く前後が分からぬネパール、インド人ばっかりのバスに乗っているので、緊張感があったので、途切れ途切れに目覚めながら目的の町の路上に荷物と共に降り立った。

 国境の町だが、何処に出入国の事務所があるのかも分からぬまま、リキ車と呼ばれる自転車タクシーに乗った。

 英語もろくに通じない感じの運転者だったが、雰囲気を察知して間違いなく、国境ポリスのいる場所へと運んでくれた。

 イミグレーション事務所の係官が6時過ぎにやってくるというので、時間待ちをしている間、若いネパール警官たちは、いろいろと話かけてきて、一杯のチャイも振舞ってくれた。

 しかし、結局彼らも人の子であり、最後は携帯や時計に興味を示した上で、給料が少ないから何とか少し恵んでくれと警官が所望する始末であった。

 無事入国審査を済ませて、また一日かけてインド北部の釈迦が悟りを開き、最初の修行の地となった、ブッダガヤを目指してバスの乗客となった。

 最初の見学地となったのが、あの仏陀が悟りを開く前に、七年間の苦行の後に、下りてきた里でスジャータと称する若い女性からご飯とミルクと砂糖を振舞われたといわれる、聖地「スジャータ村」に足を入れた。
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北京五輪は終わったが。

2008年08月28日 | 世界の問題
 八月八日,午後八時に拘って開幕した、中国・北京オリンピックは、先週末、八月二十四日に大々的なセレモニーの閉会式で閉幕した。

 中国がスポーツ大国アメリカを抜いて、金メダルを50以上獲得して、中国にとっては成功裏に華々しく終わった感である。

 しかしである。多くの隠された問題、課題が未解決のまま、オリンピックムードの中で掻き消され、意図的に報道も規制されていた面が多く、忘れられようとしている。

 忘れてはならない事件が、昨年から今年に掛けて中国を取り巻く問題でたくさん起きているからである。

 ひとつは、日本人にとって大事件であった「毒餃子事件」である。

 オリンピック前の中国の食の安全について、全世界で懸念を抱かざるを得なかった「中国産冷凍餃子」事件の真相は、日本政府の遠慮からか、全く真相、原因が突き止められぬまま、迷宮入りの如く「完黙」を続けている。

 しかし、こんな大事件の原因究明に、時間がかかることはあり得ないわけで。日本の捜査当局が厳しく現地に入って、中国当局と調査、聞き込みをすれば分かることなのに、日本側には全くその気がない如く進展がなかった。

 日本政府は、アメリカ政府に対しての従順姿勢と同じく、アジアの大国、中国に対しても気を使って遠慮しているとしか思えないダラシナサであり、十分調査されて犯人や原因が究明されているはずなのに黙って聞こうともしていないのがせ現実である。

 もうひとつは、言わずもがなのチベット問題などの民族問題に対する中国の一方的な見解が聞こえてきただけで、ウイグル自治区での警官集団殺害事件なども含め、その背景にとんでもない漢民族以外への差別や人権侵害が起こっているのである。

 あの北京オリンピック開会式での54少数民族の民族衣装を着た人たちの踊りも、実際はほとんどが漢族が、その装いを身につけてデモンストレーションしていたに過ぎないらしいし、あの歌声の口パク問題にしても、中国特有の見せ方と実際の違いを如実に明らかにしてしまったことでも間違いない隠蔽工作が多々行われていたわけである。

 こんなお国がらの中国が、国家的プロジェクトで、15億近い全中国の民の中から選抜し鍛え、訓練し続けて選ばれたオリンピック選手で、世界一の金メダルをはじめ数々の栄誉を手にしたのは当然のことだろう。

 こんな北京オリンピックの栄光の陰に、隠されてしまったチベット、ウイグル、モンゴルをはじめとする漢族以外の少数民族と称される国民たちの権利と人権の尊重に、世界の世論が厳しく指摘続けないと、この国は本当の意味での民主的国家に脱皮することは出来ないだろう。

 何事も真実は、いずれ明らかになるのである。

 毒入り餃子を仕掛けた人間と、その組織への反撃は、結局日本に向けられたのではなく、中国政府や厳しい労働条件で働かされている労働者の雇用者、会社への報復だった公算が高い。

 中国政府も今回の隠された事実がいずれ明かされて、世界に対して恥なければならない時が来ることは間違いない。
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伊藤和也さん遺体で発見。

2008年08月27日 | 世界の問題
 突然舞い込んだ昨日のニュースは、アフガン東部で現地NGOとして実績のある日本の福岡市に本部のある「ペシャワール会」のスタッフ伊藤和也さんがターリバーンと思われる四人組に自動車で移動中に襲われて拉致され、今日遺体で発見されたという悲しい知らせである。

 中東問題は大変複雑であり、アフガニスタンという国は、ロシアの軍事介入以来、ターリバーンと称されるイスラム原理主義を唱える過激派的勢力を中心とする台頭で、一時は1996年9月以降は国の大半を制圧し、ターリバーン政権で落ち着いていた。

 しかし、あの9.11世界同時テロと称される、アルカイダ勢力による米国へのテロ行為から一転し、アメリカがアフガニスタンのターリバーン勢力が、このアルカイダを庇護しているとの見解から、アフガンに軍事侵攻し、結局ターリバーン勢力と政権は崩壊した。

 しかし、パシュトゥーン人であるカルザイ大統領の下、アフガニスタンの統一、安定は、アメリカが望むような形にはなかなか進まず、今もって日常生活の安定は見られず、特に東部におけるテロや戦闘行為は後を絶たず続いていたわけである。

 そんな不安定な社会状況の中、一時はアフガニスタンのGNPの50%にも達していた「ケシ」の栽培、すなわちアヘンや麻薬の栽培、製造からの脱却を図るためにもと、日本のNGOのひとつである「ペシャワール会」は、現地で農業用水の水路や井戸堀をし続けた上で、日本の米やお茶の栽培などの指導的役割を果たしていたという。

 亡くなった伊藤和也さんの静岡県掛川市の実家でインタビューに答えておられたご両親の悲しみは、想像以上だが、「アフガンが好きで、アフガンのために良いことをしていたのに」と涙で語っておられたお母さんの思いはため息が出るくらい分かる。

 しかし、拉致しての逃亡中の銃撃戦の結果か、どうか分からないが誘拐された直後に銃弾で何箇所かを撃たれて死亡してしまった伊藤和也さんの若き亡骸が搬送されて、本人とペシャワール会のスタッフと外務省現地スタッフで確認された様子である。

 今回ばかりは、決して自己責任なんて愚かな言動が、外務省関係者などからは出ないと思うが、いくら治安の悪さはあるとは言え、市民生活、さらに貧しさの中で平和な暮らしを求めて日々生活するアフガンの人々に対して、献身的な医療と農業指導、用水確保に全力で働いていたペシャワール会の活動は評価されるべきである。

 現地に入って現地の言葉も喋って、見るからに現地人のごとき風貌にまでなって活躍されていた「伊藤和也」さんの若き犠牲を悼むと共に、日本のすばらしいNGO活動の一環で、こういう犠牲者が出たことを残念に思う。

 今後も、中村哲医師を代表とする「ペシャワール会」が、非常に難しい政治状況下にある、パキスタンとアフガニスタン国境付近での、生活支援や自立支援活動に対しての安全とサポートを日本政府も、しっかりと見守る必要があると思われる。

 日本政府や外務省は、危ない、危険だから近寄るなだけではなく、現地の生活支援のために頑張っている日本のNGOと共に、情報をしっかりキャッチして、安全な活動へと導く責任がある。
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ネパールの子どもたち

2008年08月26日 | ガリバー旅行記
 ネパールという国は、つい昨年までネパール王国と呼ばれる、王政の国だったのだが、王室内の権力闘争がきっかけで、内乱状態になったことで、民主国家へと生まれかわることになった国である。

 国土は日本の三分の一弱だが、北緯28度から30度に位置する南アジアの国でありながら、国土のほとんどが海抜一千メートル以上、エベレスト、マナスル、ダウラギリなどの八千メートル級のヒマラヤ山脈を有する山岳国家で、人口は三千万足らずの牧畜と農業の長閑な国であった。

 そんなネパールでもカトマンドゥーの首都では、人々が経済生活に翻弄されて忙しそうに暮らしていたが、早朝に近くの寺院に行って、お祈りを捧げる敬虔な仏教徒を眺めていると、何処からか子どもたちが寄ってきて、ハローと声を掛けてくる。

 しばらく、片言の英語で「学校は?」とか「家族は?」などと会話していると、その内、一番外人との付き合い方を心得た様な女の子が、何やら言い出した。

 結局、何か食べ物をくれだの、ルピーを恵んでほしいなどと、物乞いをしだすのである。その後ろには小さな弟や妹が姉の様子を見ながら、待っているのである。

 そんな都会の貧しいネパールの子どもたちと違って、少し田舎の村に行くと、かえって、そんな光景とはおさらばする。

 ほんとうに透き通るような清んだ、しかも眼力の強い眼差しで私たちを見て、笑顔で応えてくれるのである。

 さぞ、都会の子どもたちよりも貧しいはずだが、お金を強請ったり、物乞い風情の態度は見せないし、子供同士で楽しそうに遊んでいる。

 結局、人間の貧しさとは、一体ナンだろうかと考えさせられるのである。

 「お金」という、物に換えられる「お宝」を手にして以来、人は何から何まで、お金の力で手に入れることを覚えて、自らの体と感性で人生を楽しく歩むことよりも、お金の魔力に魅せられた人生にチェンジしてしまうのではないだろうか。

 お金がないのが不幸なのではなくて、お金がないこと不幸に感じてしまう人間性が不幸に感じさせているのではなかろうかとさえ思うのである。

 あのネパールの田舎の村の子どもたちの眼差しは、全く不幸や貧しさを感じさせない力があった。

 突然立ち寄った小さな村の学校で、出会った数多くの子どもたちの歓声と眼差しに、この国の民主主義がかかっているのだが、インドとの地理的関係がゆえに、インドの属国のように経済的には依存してといる状態は否めないのだが、インド人以上のネパーリストは、この国の自然を愛し、独特の生きるエネルギーで成長していくだろうと確信を覚えた。

 あの三角が二つくっついた様な国旗に掲げられた青い色が象徴する「平和」と国のカラー「赤」を要して、子れからの国の発展を目指す「ネパール連邦民主共和国」の行く末を見守っていこうと思う。

 中国、インドという人口の多い大きな国のハザマにあって、新しく民主国家としてスタートしたネパールが超大国の緩衝材となって、平和を演出する国家として続くことを祈らずにはおれない。
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カレーづくし。

2008年08月25日 | ガリバー旅行記
 ネパール、インドの旅、約半月を終えて帰国した私だが、妻がカレーを作った。

 さんざんカレーづくしの旅立ったのだが、なぜかカレーに飽きることは無いのだから不思議なくらいである。

 ネパールでも、三度三度カレーを食べていたという印象があるのだが、何度も言うがその都度、自分のデジカメに納めていた自分の食事の写真もカメラの紛失で全て記憶の中にあるだけで、自分の食べた状態のカレーをお見せできないのが残念だ。

 だけど、だいたいインドもそうだが、タリーと称する「カレーセット」が主で、ライスにカレーが三種、それにナンとチャパティがついて、ベジタリアン用で普通のお店で、50ルピーほどの安価で十分満足できる量を食べることができる。

 しかし、ネパールから深夜バスでインド国境の町、ビルガンジィーを目指した時の深夜のバスストップでの乗員一斉のタリーの食事には圧倒されて、ついては行けなかった。

 というのも、夜半8時過ぎに雨の中を出発した薄汚れたバスに身を委ねたものの、いつ何処に停まってトイレタイムがあるやら、全く検討もつかないうちに、少し眠りについていた。

 たぶん、まだ11時前だったと思うが、気づいた時にはバスは既に停車していて、周りの乗客がほとんど降りているのに気づいたので、トイレだけは行っておこうとバスを降りたら、何とほとんどの乗客が食堂に入って、一斉にトレイに乗った定食風のタリーを手早く右手で掻きこんでいる光景を目にしたのだが、時既に遅しで、勢いよく食べる集団には、到底勝ち目もないし、気づいた時には時間が読めずに諦めざるを得なかった。

 ともかく、得意の右手でのカレーの食べ方自体は、想像はしていたが、その速さと要領の良さには圧倒されるし、なかなか真似のできるものではないと悟ったのである。

 その後、自分のペースで食べられるチャンスに、どうしても右手で食べるカレーを体験しようと試みたところ、カレールゥの炊き込んだ熱さなどお構いなしで、手の平も上手に使って食べる、ネパール人たちを遠めで観察しながら、食べることができたのである。

 食事の前に手を洗うための水のボールも用意されていて、飲用と共に水をうまく利用しながら、さすがのテクニックですばやく食べる様は、芸術的でもあった。

 私は主にベジタブルタリーを中心にお腹に負担の少ないメニューを中心に選んで食したので、ネパールでの飲食物による下痢は回避できたのだろう。

 このナンとチャパティと称する小麦粉から焼いたカレーと共に食べる主食はなかなか香ばしくて、日本で食べるものとは比べられないほど旨かった。

 時には、仏教、ヒンドゥー教の国なので、牛肉は食べないのだが、水牛、つまりバッファローの肉を食す習慣があるので、進められて食べたが、少し硬くて噛み切れないものもあった。

 一番美味しかったのは、水牛のホルモンであり、心臓、胃、肝臓、は素より血に至るまで綺麗に食べる食べ方と共に、味も結構いける感じでビールや薄いアルコールの乳酸酒にも合って食べることができた。

 郷に入らずんば、郷に従え。ネパールの高級料理は食さなかったが、庶民の味は美味しかった。
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ネパール(3)

2008年08月24日 | ガリバー旅行記
 初めてのネパールは、カトマンドゥーを拠点に、のんびりと周辺のネパールらしい村々を歩くことから始まった。

 二日目の朝、ゲストハウスのあるタメル地区から歩いて、バスターミナル付近のネパール特有の春巻きとでも言うべき「momo」の店で、水牛の肉の入った餃子春巻きを食べてから、約一時間バスに揺られて、とっても長閑なネパールの山村へと向かった。

 ブンガマティと言う名の村で、村の中央部のターミナルにバスは止まったが、峠を越えて、この村に入る尾根から見た「ブンガマティ」の全景は、まるで桃源郷とでも言えないこともない様な佇まいの村で、とっても自然な地形をそのまま生かした暮らしがある集落の村であった。

 降りてしばらく歩くと、村の古びた寺院があって、その周辺では村人たちがいろんな木彫を中心としたハンドクラフトの仕事をしていた。

 子どもたちは学校に行っているらしく、少し歩くと賑やかな児童たちの声がしてきたので、学校だとすぐに分かったので、「見せてほしい」、柵越しに先生らしいおじさんに英語で声を掛けたところ、機嫌よく正門へと案内された。

 ここのプライマリースクールには、なんと530人もの生徒、児童がおり、障害児童も25人いるという。

 教室に招かれたので、簡単に「ナマステ」とシンプルな英語で挨拶すると、とっても眼力のある児童たちがやんやの喝采で歓迎してくれた。

 一緒に記念の写真をとお願いすると、これも僕も私もと賑やかな中で、何枚もの写真を撮影し、みんなでデジカメの映像を見直しては満足顔であった。

 写真に関しては、実は教頭先生だったさっきの先生にメールアドレスと住所を聞いたので、送る約束をしたのだが、後のインド旅行中にカメラを紛失してしまったために、残念ながら約束を果たすことができないことになって申し訳なく思っている。

 それにしても、盲目の少年、聾唖の少年、足のない少年と、多種多様な障害児童と共に、近くの町村からも児童たちが通っているという学校のわりには校舎は小さくぎゅうぎゅう詰めの状態の教室だった。

 日本のNPO組織の支援が、ここの障害児童の支援に使われていると聞いたが、学校運営までの資金づくりと先生たちの給料保障までは至っていないという現実も見聞きして、理想の教育のあり方は語れるが、なかなか現実は厳しいことが明らかになった。

 先生方と近くの喫茶店とでもいうか、休憩所でお茶を飲みながら雑談をしていたのだが、四人の先生が話しかけてくれて、
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パシュパティナ。

2008年08月23日 | ガリバー旅行記
 ネパールの首都、カトマンドゥーの古いバスターミナル、と言っても路上にたくさんの中型バスが客待ちをしている場所で、パシュパティナへ行くバスを探すのも難題なのだが、ここはカトマンドゥーに入って既に50日近くを生活している、友人Tatsuに任せて、同乗することになった。

 約40分くらいで郊外の田舎町、パシュパティナに到着し、早速パブマティ川に面した「火葬場」に入場するわけだが、なぜか外国人に対しては観光入場料もどきものを徴収していて、一人250ネパールルピー、つまり400円ほどを払って入場したのである。

 すぐさま、何処からか日本語を話すガイド役のような青年が現れて、火葬場の全容から修行僧の洞窟、遺体から焼き場への葬送、一日に10人から30人が、ここで焼かれるなどと説明をするのである。

 確かに布で包まれた遺体が河に突き出した木製のテーブルの様な台に乗せられており、薪と藁が積まれて点火され、モクモクと煙が上がっている様を眼下に見ていると「人の死」、つまり肉体が焼かれて灰と煙になる光景とはあまり感じない。

 川幅は約10mで、対岸へ渡って、少し高い位置から多くの観光客、見物客が近くの山から降りてきて餌を強請っているサルたちと共に、見守っていると、対岸には今運ばれてきたばかりの高僧とも思われる包まれた着衣の色が鮮やかなご遺体が水辺に静かに横たわっていた。

 昔、中学生の頃になぜか手にして読んだ「鳥葬の国」のイメージや、今回のインド、ネパールの旅の情報を得ようと尋ねた先輩からの「人が焼かれる様」を間近に見ることは大切だとの助言や、ヒンドゥー教徒が沐浴するすぐ傍を遺体が流れることもあるとの話を頭に浮かべながら、神妙な思いで凝視していた。

 先ほどの日本語の勝手ガイドの説明がうるさく感じられ、「シャラップ」と言葉を停止させて、帰ってもらって正解だった。

 他人とは言え、人を送る儀式の最中に、あれこれと説明はいらない。沈黙の中で、ご遺族と思われる家族や、友人、知人たちが思い思いに、亡骸に聖なる川、パブマティ川の水を掛けたり、花を授けたり、蝋燭の火を近づけて祈ったり、さまざまな「お別れ」の儀式をされていた。

 手前の川では、沐浴をし続ける人々や、河岸に腰を据えてずっと祈っている人たちもいて、結構音は聞こえてくる。

 一通りのお別れの儀式を終えた亡骸をもう一度川の聖水で清めた後、竹で組んだ担架で焼き場へと運ぶ様も、簡素な中でもみんなの思いが漲った、野べの送りと言った感じだった。

 白い布で覆われた小さな亡骸をゴールドの布で包み、運ばれて行った人の人生は、どんな人生だったのだろうか。想像だに出来ないが、死から葬送のセレモニーを全ての人々に公開して見せる世界は、とっても意味がある感じだった。

 ただ、山猿たちは何を思うのか、葬送と焼き場の周辺に出没しながら、隙さえあれば餌を取ろうと必死な「サル」のドライな生き方に、人間のウェットな感情など掻き消される感じでもあった。
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ネパールの火葬場。

2008年08月22日 | ガリバー旅行記
 ほとんど当もなく旅立った今回のネパール、インドの旅は、まずタイ・バンコックを経由して、昼過ぎにネパールの首都・カトマンドゥーの国際空港に到着した。

 朝方、トランジットで約4時間強待ちのバンコックの巨大なハブ空港で、カトマンドゥー行きを待つ、二人の日本人青年に声をかけるところから始まった。

 一人は、熱心に脇目も振らず「地球の歩き方・ネパール編」に釘付けの学生風の青年で、もうひとりは既に知り合っているらしい青年に一緒に声をかけた。

 先の青年は、滋賀県の大学に通うまだ三年生らしく、漠然と初の海外旅行にネパール・インドをインターネットを見て選んだと言う。

 もう一人の青年は、既に就職が内定している来春卒業の22歳の大学生で、カトマンドゥーは一日滞在するだけで「西遊旅行」の手配で「ブータン王国」へ5日間旅するという。

 私も初めてのネパール入国だが、たぶん現地の友人関係のNPOの日本語のわかるスタッフが空港に出迎えてくれるので、市内まで同じ車で移動したらと誘ってみた。

 滋賀の大学生T君は即座にYESであったが、栃木のブータン行きの大学生は、旅行社の手配があるので残念ながら、空港でおさらばとなった。

 空港の待合を出たところで、たくさんのタクシーやホテルへの誘いの中、誰が迎えに来てくれているやらわからないまま、二十数分間人を探して、やっと小柄な好印象の30代と思われる青年が、「ガリバーさんですか」と声をかけてくれたので、自己紹介をしてT君と共に市内へと向かった。

 ネパールの自然と人たちをイメージしながら走ること約三十分、いつのまにやら喧騒の街中へと入って、元王宮跡をよぎってタメル地区と呼ばれるホテルや飲食店が立ち並ぶダウンタウンの一角へと到着した。

 今夜からの宿泊地は、交渉により一泊350ネパールルピー、約500円の安宿と決まった。

 安宿と言っても一応シャワーはあり、ベッドはダブルサイズなので、ゆったりと休むことができそうなので満足であった。

 しかし初日の夜から「蚊」だけは歓迎してほしくないのに、耳元でブーンと羽音を立て続けたり、一応寝袋で下半身を包んで眠ったのだが、蚊取り線香の効き目が悪く、顔、手、腕を数箇所かまれてしまった。

 ネパールの蚊にも、たまにはプレゼントが必要かもしれないと変な納得をして初日の夜をすごした。

 翌日からは、六月下旬からカトマンドゥーに行きネパールの児童や女性労働の実態をカメラで撮影しようと取り組んでいる友人のTATSUと行動をしばらく共にすることになった。

 最初に出かけたのが、聞きしに勝る「ネパールの河畔の火葬場」であった。

 まじ、人間の最後が見事なセレモニーとして全部見える感じで、家族、親族、友人たちによって執り行われている様子を、川辺の対岸の至近距離からじっと観続けたのである。

 人間の生と死を誰もが感じずにはいられない素朴な儀式に熱い感動を覚えた。
 
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無事帰国しました。

2008年08月20日 | ガリバー旅行記
 ブログでは予告してた通り、8月5日の夕食後、自宅を出て関西空港から、初めてのネパール、インドの独り旅をほぼ半月して、今朝方無事戻ってまいりました。

 ブログの読者の皆さん、出発のご挨拶もなく出国してしまいましたので、すみませんでした。ご心配をかけた方もおられると思いますのでお詫び致します。

 いろんな事件や現象にも遭遇しましたが、結構面白い旅となりました。

 このブログを通じて、明日から何回かにわけて報告したいと思います。

 ただ、途中北インドのヴァラナスで、自分の不覚で愛用のデジカメを紛失してしまった失態があったので、十分カメラの映像で伝えられないのが、とても残念ですが、よかったら、また覗いて読んでくださいませ。

 ガリバーは元気です。みなさん、夏バテしてませんか。残暑お見舞い申し上げます。
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