ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

天安門突入事件

2013年10月30日 | テレビマスコミ
てい 中華人民共和国の首都、北京のど真ん中、毛沢東の巨大な肖像画が掲げられている「天安門広場」の正面に、突然スポーツカータイプの一台の車が暴走し、逃げる多くの観光客が集まる場所に向かって突き進み、逃げる観光客を追いかけるように走行したあげく、毛沢東肖像画近くの金水橋の柵に衝突し、漏れ出したガソリンに引火した感じで炎上したとのことである。

 北京市の治安管理総隊が早速市内の宿泊施設などに、この事件の情報提供を呼びかける「通知」したらしく、その画像が中国版ツイッター「微博」に「28日、我が市で重大事件が発生した」と記した上で、容疑者として、新疆ウイグル自治区に戸籍登録するウイグル族とみられる男2人氏名との個人情報が書かれていて、男の年齢は25歳と43歳との報道があったらしい。

 この事件の真相はまだ不明なのだが、中国当局は事件以降後の28日午後、国内のインターネットのポータルサイトに情報規制を通達し、日本のNHKの衛星放送のニュース映像も、「北京、天安門で事件」と報道直後、映像が遮断されるという形での規制がなされ、中国国内では事件の報道及び詳細の続報はほとんど知らされずの状態の中、捜査当局はウイグル族を中心とする容疑者、関係者の洗い出しに躍起になっている様子で、ネット上ではこの事件の報道や関連内容、写真、映像などもチェックし、ネットユーザーの論評などにも注意し、問題が起きたらサイトを封鎖するなどの注意をはらっている。

 こうした現状を我々日本から見ていると、まるで隣の大国、中国の社会主義共産圏の「一党独裁国家」の特異な様相と感じる向きもあると思うのだが、いやいやどうして、わが国においても現在国会において、とても危険な法案の審議や自民党安倍内閣における、画策、日本を戦争の出来る国へと移行させようとする輩たちの提案や憲法改悪への足音が日増しに近づいてきていて、決っして「他人事」ではない、重大な国家が目指す「権力にとっての都合」が隠されているのである。

 つまり、現在日本の自民党内閣が画策している「特定秘密保持法案」などという法案は、ずばりは自分たちの権力行使に都合の悪い問題、秘密、決定事項などを外部に漏らした場合、公務員などを十年くらいの懲役刑に服させるというものであり、現在議論中とは言え、マスコミや知識人、そしてその全容は知る由もなくても、「危険性」を予測する庶民たちの中でも、このような「緘口令」に通じる「言論の抑圧」や「危惧」を感じる人たちによる「反対!」の言論や行動が高まっているのである。

 中国における、少数民族への差別、軋轢、経済格差、人権無視などの漢族を中心とする中国政府の管理体制は、今にはじまったわけではなく、中国全土の約6割をも占める国土を有する、少数民族の自治区や居住区に、どんどんと「開発」を掲げて、地下資源や経済発展の波が押し寄せていて、その中心は漢族であり、14億人にも及ぶ中国全土の人口の一割にも満たない少数民族、とりわけウイグル、モンゴル、チベット族などには不満がたまっているのである。

 いずれにせよ、中国政府歯、今回の事件をも「ウイグル族のテロ」と断定した上で、国内の特に少数民族の人たちの動向や言動に神経を尖らせて、監視し取り締まるという形で、今後もよりいっそうの「少数民族差別」や「言論の自由の抑圧」「反対分子の摘発」などをあからさまにするとするならば、国際世論の厳しい批判と共に国内外での中国政府の信頼性は非常に弱まるという「地すべり的現象」が起きる可能性があると思われるのである。

 隣の国家権力の状況もさることながら、わが国の非常事態を回避する手立てを皆さんも声を出して考えようではありませんか。わが国でも例えば「原発情報」などが「秘密事項」として隠されたり、「反原発」を唱える国民が「処罰」されたりする時代が来ないことを祈ると共に、「戦争に参加する日本」にしないために、安倍内閣の策謀に反対しなければなりません。
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困っているのは人間なんです。

2013年10月21日 | 感じたこと
 毎日仕事で通る街中の小さな寺院の角に、仏の言葉や著名人の名句や教訓などが、たぶん住職の手書きの墨字で記されているのだが、ここ数日前から書かれている言葉が頭から離れないのは何故なんだろうか。

 そこには、「世の中が便利になって一番困っているのは、実は人間なんです」と書かれてあるのです。

 いつもは全ては仏の御心があなたを導いてくれるとか仏の光があなたの人生を照らしていますとか書かれていることが多かったのだが、この文章は誰の言葉かは定かではないが、とてもシンプルなのだが、とても現代人としての生活者である我々には「ぐさり」と来る真意を秘めていると感じたのである。

 一番最初に浮かんだのは、やはり「原発と核」である。

 原子力と言う科学的メカニズムでのエネルギーを人間があたかも手に入れたが如く、核開発や平和利用と称した「原子力発電所」を建設して日本ではなんと一時期は、全国で54基もの原発が稼動していたのだが、アメリカのスリーマイル島原発事故、ウクライナのチェルノブイリ原発事故に続いて、福島原発の事故が起きてしまって、全世界がその後の日本政府と東京電力の放射能汚染に対する対応や汚染水漏れ事件の防護策について注目しているだけでなく、もはや制御しきれなくなっていると言う感じの対応の遅れや絶対的な拡散防止策の無さなどが露呈していて、世界の知識人だけでなく多くの庶民、国民も「もういい加減にしてくれ!」とでも言いたげな心境に陥ち入っていると言っても過言ではあるまい。

 そんな状況下の日本の原発政策に対して、なんと政界を引退したはずの小泉純一郎元総理が「原発廃止」を直訴する講演やコメントを発信しだしているのは、とてもいいタイミングだと思うのだが、彼の頭の中には息子で衆議院議員の次男坊の将来を期待して、父として出来るメッセージとして、ややパフォーマンス気味ではあるが発言したとも言えよう。

 しかし、「世の中が便利になった」と感じているかどうかは別にしても、この巨大な利害がともなっている「原子力発電所」を稼動し、増設し輸出しようとする勢力にとっては、少なからず「いい加減なことを言うなよ」といった心境かもしれないが、確かに原子力発電所から出るウランをはじめとする放射性物質を大量に含んだ汚染物及び廃棄物の処理は極めて困難で、現在も日本国内にはまともな処理場や廃棄物の埋め立て施設は無いに等しく、永遠に核廃棄物の捨て場に困窮し、多くの地方や過疎地がその捨て場として利用されるしかないとの観測である。

 すなわち、人間の活動をより豊かに?するためのエネルギーとして、とても低コストで発電でき安全だといい続けてきた「原子力発電」が、汚染物の処理や捨て場の無い「巨大なトイレ」の如き邪魔者であることが明白になっているわけで、確かに「一番困っているのは実は人間なんです」そのものなのです。

 また、便利だととても急速に普及したパソコン、そしてスマートフォンなどの端末IT機器だが、先日の女子高校生ストーカー殺人事件だけではないが、多くの犯罪や詐欺、危ない交信などに使われている現状を思うとき、必ずしも世の中が便利になったと言う側面だけでは語り得ない「闇」か「悪」の世界との繋がり、つまり「匿名の見えない罠」とでも言うべき、とても恐ろしい手立てに利用されている部分が間違いなくあり、やはり「一番困っいるのは、実は人間なんです」という言葉の、もう一つの現実だと思うのです。

 いじめや個人的な中傷誹謗、何処で知られたかは不明な差出人からの突然の嫌なメールや批判、言論の自由とかいう範疇ではない、一方的なヘイトスピーチと呼ばれる「嫌がらせ」など、とても不快かつ人権無視の横暴がまかり通る世の中は決して「便利になった」とは言えない「困まった世の中」なのです。
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「そして父になる」

2013年10月03日 | テレビマスコミ
 今夜、久しぶりに妻と映画を観に行った。

 是枝監督作品で、福山雅治と尾野真知子、真木ようことリリーフランキーの夫婦の子供が、病院で取り違えられていたことが判明し、両夫婦にとって、六年間もの間「我が子」として育ててきた最愛の息子を、果たして半年かけて交流しながら、取り替えることができるのだろうかという、非常に稀なる事例を題材にした家族の物語である。

 是枝監督は今までもとても日本人の機微に迫る家族間の問題などをテーマに映画を撮り続けてきた人なので、今回の映画の題材をも、巧みな脚本と演出で約2時間近くの物語を、観衆に飽きさせることもなく演出し、真の主人公ともいえるお互いの六歳になる男児の好演もあって、カンヌ映画祭では「審査員特別賞」を受賞したらしい作品である。

 仕事終わりに毎週木曜日は、体育館のジムで約二時間汗をかきかき、歩いたりストレッチをしたりをする木曜日の夕刻だったので、体の疲れも感じていたので、映画の上映中に眠たくなるのではないかと危惧していたのだが、あいにく映画のストーリー展開に魅せられて、眠りもせずに最後まで観ることができたのは、やはり出演者の演技が秀逸であったせいかもしれない。

 そんな中で、やはり気になったのが群馬・前橋で小さな電気屋を営む、一方の親父であるリリーフランキーが演ずる役の、変な関西弁であり、何処の出身という想定かは知らないが、たぶん九州出身の彼にとって、いくら方言指導があったとしても、私たち大阪人にとっては、可笑しな関西弁であり、なんとも歯がゆい感じで、最後まで違和感があった。

 映画のテーマ自体は、ありえない想定ではあるし、その原因が出産した病院の女性看護士の「いたづら」的犯行の結果だとする原作か脚本の想定もありえない感じで、ちょっと甘い構成だとも思うのだが、誰にとっても我が子とむ信じて育てていた男の子が小学校に進学、入学するという時期に、「実はその子はあなたの子ではなく、他人の子と取り違えました」という事実を突きつけられれば、動揺もするだろうし、取替え事件をどのように解決すべきかは、大変な苦悩と選択が待っていて困ることになるだろうとは、誰もが想像できることである。

 こういう重くて暗いテーマを、脚本では出来るだけ明るく描こうとしている工夫があり、子供たちの好演によっていずれの夫婦もいろいろと悩みつつ、子供たちと遊んだり押し問答したりと、お互いにちがった子供と父、母の関係を取り戻そうと躍起になるのである。

 しかし、福山雅治を父として育った少年は、父から人間として強くなるためのミッションだと告げられ、気が進まないままに相手方のリリーフランキー、真木よう子夫妻の田舎の電気店に行くのであるが、結局は育ての父である福山雅治と尾野真知子夫婦が六年間育てた他人の子供を見捨てることが出来ず、前橋まで会いに行き、少年に「ミッションの終わり」を告げたのであった。

 『産みの母より、育ての母」と昔から言われるように、この映画ではその後のお互いの生活や子供の気持ちなどは、まったく描かれてはいないのだが、たぶん作品を通じて、観客には結論は各々が出されたらいいと暗示していると感じられる結末であった。

 もし、自分の子として育てていた我が子が、他人の子供だと年月が経って告げられたとしても、人間の情はやはり永い付き合いと関係性が重要であり、簡単に血の繋がりだけでは、親しくなったり、一緒にすぐには暮らすという形は取れても、親子や肉親、身内としての情愛は簡単には生まれないだろうと痛感した次第である。
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小中女子がターゲット!

2013年10月02日 | 感じたこと
世の中が変化するのは当たり前だが、消費税の8パーセントへの値上げが本決まりとなって、世の中は5パーセントの消費税のうちにという、駆け込み需要がこれから半年、経済を賑わと、日本経済も少しは上向きとなるのかもしれない。

 しかし、問題はその後であり、本当に消費税値上げ分が高齢者を中心とした年金や福祉の財源に回るかと思いきや、ほとんどは公共事業という名の土建業者などへの利益還元や借金の返済に充てられてしまい、そう簡単に高齢社会に対応した福祉の充実や医療、年金への支えとはなるまいと言われている。

 一方、少子高齢化と言われて久しい我が国日本は、本当に低所得者も多く、年金の減額や高齢者雇用の少なさ、非正規雇用者の収入減など、厳しい庶民の生活実態も浮き彫りにされていて、日常的な日々の食費や日常品の値上がりで、生活が苦しくなるという予測を感じている人たちも多くいるのである。

 だけれども、テレビの特集で報じられているところによると、現在衣服や化粧品を中心に、なんと小中学生の少女たちをターゲットとしたビジネスチャンスが拡大し、衣料品店、ブランド品店、化粧品メーカーなども色めきたっているというのである。

 猫も杓子も、タレントやアイドルに7なれるわけではないのだが、多くの少女たちが読者モデルやファッションモデルと言う、一見きらびやかなステージや雑誌、またはテレビや映画媒体にも、子役や幼い演技者がいるので、そんな狭き門にむらがっているのだという。

 しかし、世間はそう甘くは無く、ほとんどの少女たちは、タレントやアイドルの擬似体験デモするかのように、着飾った衣装とおませな髪型、そしてモデルの如きしぐさと小物を身に着けて、町を闊歩したり、繁華街を小中学生とは思えない大人びた雰囲気で行きカッテいるのである。

 これらの現象は、都会を中心に田舎にも少女雑誌やマスコミ、ミニコミを通じて拡大していて、いまや現代の社会現象とまで言われかねない状況を呈していると思われるぐらいに波及しているらしいのである。

 しかし、これらは幼い少女心を「ビジネス対象」として宣伝と営業に力を入れている衣料品や化粧品業界の、少子高齢化時代の新しいビジネスターゲットーとしての戦略に、少女心をかつて抱いていた現在の若きママたちの「一人か二人」の我が娘に対しての、自分がなし得なかった「憧れ」や「希望」の代役として、少女たちに「消費」を通じて「子育て」と勘違いしている母親たちの愚かな母親たちがいるのである。

 「愚かな母親」と断言してしまうとお叱りを受けるかもしれないが、「まんまと業界の戦略」に母子とも乗せられてしまったとも言うべき実態と言っても過言ではあるまいと思うのである。

 すぐに、「かわいい!!!」と言い放つ言葉が散乱しているのだが、本当に「かわいい」と感じる様な少女や衣装、化粧、スタイル、輝きはほんの少ししかないのだが、お互いが「同病相哀れむ」如く、まず相手を「かわいい!!」と絶賛し、自らも「かわいい!!」という賛辞を真に受けて、さもタレントやアイドルにでもなった錯覚で存在し、多額の消費を余儀なくされて、業界の儲けと発展に寄与しているのである。

 いまや、こうした傾向や兆候を支えているのが、なんと両親だけでなく、我が孫がかわいくてしょうがない祖父母二組と併せて、なんと「財布が6つ」あると言われ、「シックスポケット」と称されて、狙われているのが現状なのである。
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「おじいちゃん、おばぁちゃん」

2013年10月01日 | 感じたこと
 早くも10月になった。

 九月は「敬老の日」と「秋分の日」が国民の祝日としてお休みの旗日であった。

 しかし、敬老月間であるはずの九月も、世間はさほど高齢者に優しくしたり、高齢者を敬うなんてことはなかった様に感じている。

 以前は「60歳」を過ぎれば、立派な「たが、年寄り扱いむをされた時代があったが、昨今は60歳を過ぎただけでは社会的には「高齢者」扱いされない時代に突入したと言っても過言ではあるまい。

 いたるところで、「シニア割引」とか言う、高齢者対象の割引制度も多くなったが、たいていは65歳以上だし、なんとラジオで聞いたのだが、切り絵作家で有名な藤森清治さんの美術館がては最近オープンしたらしいのだが、ここの入館料は藤森清治さん自身の年齢を超える人だけがシニア割引、入館料が安くなるという情報もあり、なかなか普通の高齢者にとっては、費用がかさむ場合もあって、必ずしも高齢者優先や割引にはよくしない場合もある。

 今日、仕事帰りに寄ったコンビニには、高齢者マークのついた自動車の優先駐車スペースが表示されていて、障碍者マークのついた駐車スペースと同様の配慮がされていた。

 ところで、このブログこをご覧いただいている方々の中にも、高齢者の仲間入りを意識せずとも世間的には高齢者扱いをされだしている方々もおられると思うのだが、気軽にご年配の方々を「おじいちゃん」、「おばぁちゃん」などと呼ぶのは避けた方が良い場合が多いと思われるので、ここに記すこととしよう。

 数年前のことだが、ご近所の顔見知りの「おばぁちゃん」にお会いした時に、何気なく最近いつもご一緒たった「おじいさん」をお見かけしなかったので、つい「おじいさんは?」と気軽に尋ねてしまったのであったが、よほど機嫌が悪いタイミングだったのかもしれないが、とんでもない顔で「あなたのおじいさんではないでしょう!」、「私の主人ですから・・・」とタシナメられたのであった。

 あぁ、悪いことをしたと反省しきりで、とても落ち込んだのだが、数ヶ月後に再びそのご婦人と郵便局で会ったので、今回はちゃんと「ご主人様はお元気ですか?」と尋ねようと思っていたら、先方の方から何気ない感じで近寄ってこられて、「主人の書いた和歌の本ですが、どうぞ受けとって下さい!」と丁寧にお話いただき恐縮したことがあった。

 たぶん、前回の場合はご主人がご病気療養中で、少し疲れておられたのかもしれないのだが、はっきり言って確かに私は、そのご婦人の孫でもないので、他人様のご主人を「おじいさん」と呼ぶのは失礼だったことは間違いないのだが、普通に「おじいさん」と声をかけること全てが失礼にあたるのかどうかは疑問である。

 「おじいちゃん」や「おばぁちゃん」だけでなく、普通のご家庭でも子供が出来てしばらくすると、子供が呼ぶ呼称としての「おかぁさん」や「お父さん」が日常的に使われている場合が多いと思われるのだが、ご他聞にもれず我が家でも子供たちが結婚し家を出てからも、女房のことを「おかぁさん」と呼び、妻は私のことは「お父さん」と呼んでいて、いつもは問題ないのである。

 しかし、何にか妻の機嫌が悪くなっている時に、私が女房に「おかぁさん!」と呼んでしまうと、とんでもない返答が返ってくることとなり、「私はあんたのおかぁさん」ではない!!!。

 敬老月間だけでなく、十月になっても遅くないし、年中高齢者を労わりつつ、できるだけ「おばぁちゃん」や「おじいちゃん」と呼ばずに、出来れば「お名前」を気軽に呼び合える関係性をつくって過ごせればと思うのだが、孫から「じいじ」や「ばぁば」と呼ばれるのは嬉しくとも、子供や他人から「じいさん」「ばぁさん」と呼ばれたくないと思っている高齢者が多いのではないかと思うので、十分注意し配慮したいと感じでいるのである。

 
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