ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

禁煙or喫煙?/大変な旅

2006年06月30日 | ガリバー旅行記
 先日、議会の研修で神奈川県秦野市、伊勢原市を行政視察したのだが、一行9名のうち、何と喫煙愛好家が7人を占めていて、列車内はもとより先方の市役所、施設、宿泊旅館、食事の場所と、何処へ行っても「煙草を吸う」ことに関心があった様子である。

 私は幸いか不幸か未だかつて喫煙をしたことが無く、この喫煙者の行動並びに強い嗜好に半ば諦めに近い感情を抱きながら、あの煙草の煙だけは歓迎できるものではないので、その度に「あっち喫煙者、こっち非喫煙者」とセパレートを試みざるを得なかった。

 間接喫煙防止法という法律が施行されて以来、我が市の市役所、公共施設でもほぼ全面施設内禁煙が実施されているにも関わらず、喫煙者の関心は如何に何処で煙草を吸うかに気が向いているようである。

 最近の地元地方紙に、市役所は禁煙なはずなのに、議場等のあるに市役所5階では、会派控え室会等で議員自らが喫煙しているらしく、職員も屋外に設置されたプレハブ的な喫煙室で日頃は喫煙を余儀なくされているが、議会開催時には、この盲点の議会会派室でちゃっかり喫煙していると報道されたのである。

 私の会派控え室は、私と年長のベテラン議員の二人だけのため、両名が喫煙しないので全くそんな他の部屋の状況を知るよしも無かった。

 しかし新聞紙上で指摘されて、何ともカッコの悪い状況の当の喫煙議員さんたちの多くは、全く何処吹く風で研修中の関心は、相変わらず喫煙のチャンスを模索することであったと言っても過言ではなかった。

喫煙議員たちは間接喫煙防止などには殆ど関心はなく、自分達の喫煙場所とチャンスを得ることだけに関心があり、挙句の果てには議会の同僚議員が、何と煙草税が市に年間3億円も入っているのだから、喫煙者への見返り策が必要との質問までする始末である。

 如何に喫煙が本人だけでなく周辺の人たちや環境にまで悪影響を及ぼしているのかを想像する力すら持ち合わせていない議員たちの、弱者のための政治や高齢者、障害者、健康増進策などの充実に関する質疑が、白々しく思える。

 もう一度周囲を見回していただきたい。子供たち、妊婦さん、病気持ちの高齢者、喘息や気管支炎の症状のある方々など、如何に煙草の喫煙が周囲の環境と人に嫌な思いと必要の無い気遣いを使わせているかを。

 迷惑料としての税金や他人の健康まで侵害しているための医療費などを概算すると、今日七月一日から再び値上げになった煙草税などは、まだ安いくらいである。
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阪神の阪急との合併

2006年06月29日 | 日本の課題
 我が阪神タイガースの親会社阪神電鉄と何と阪急ホールディングスとの統合を決める各々の株主総会が今日開催された。

 3月末決算の株主会社は三ヶ月以内に株主総会を開催するので、今年も約55%の株主総会が今日に集中して開催された。

 いわゆる「総会屋」と称する連中が株主総会で無理難題や提案をして、株主総会を混乱させたりする迷惑行為の回避のため、解決協力金等を支払う悪習慣を断ち切ろうと、一時は95%もの会社の株主総会が6月末の同じ日に開催された年もある。

 今年は「ホリエモン」ことライブドアの堀江貴文社長と村上ファンドの村上義彰社長の証券取引法等の違反容疑での逮捕と言う日本社会に衝撃と話題を提供した事件が上半期に発生し、特に阪神電鉄株の大量取得による村上ファンドの攻勢に、一時は「村上タイガース」の出現の話題が沸騰した。

 その後阪神株の47%強を巡って、関西大手私鉄の再編へと世論は動き出し、阪神とタッグを組む電鉄として、過去に球団経営をしていない京阪電鉄が路線的にも阪神との競合もなく、現在工事中の中の島線で繋がれば、京都出町柳から神戸三宮までの新たな路線が生まれる可能性もあり期待した。

 しかし庶民の期待や見方とは裏腹に、何と阪神間のライバル会社として長年競い合ってきた阪神と阪急が、互いの全く違う個性と気質を超えて統合する動きへと加速し、大阪梅田と神戸三宮での激しい商戦も含む客の奪い合いも、新たな拡大を期して合併する方向へと歩んだのである。

 どうも阪急の軍門に阪神が下ったと言ってもよい、なんとも少し情けない結論となってしまったと、阪神ファンの大半が感じざるを得ない。

 今や阪神タイガースは関西圏のプロ野球団ではなく、全国的ブランド球団に成長し、2年目の交流戦も含め、全国でたくさんの黄色いタイガースカラーの応援と、あの恒例の風船飛ばしが定着し、アウェイの球場でも阪神ファンが占拠した感じの応援風景が定番となっている。

 阪神電車は阪神間の海側を走り、工業地帯や尼崎あたりのイメージは、派手さは無く庶民的で少し生活臭が漂い、時には神崎川の泥臭い臭い迄が阪神やなと感じさせるほどのイメージである。

 一方山手を走る上品かつ派手なイメージの阪急は、お嬢様やセレブ的なマダムや今風のトレンドやブランド志向の世界が感じられ、全く異なる沿線のキャラが、うまく合体してやっていけるのかが一番不安なのである。

 「阪神タイガース」は創立70周年をセリーグ優勝で飾った老舗球団だが、阪急、阪神ホールディングスの傘下となっても、名は変えることは出来ないが、どうも家柄が違う結婚とのイメージが抜け切らないのである。

 阪急、阪神の株主総会で統合案が今日承認され、今年10月から阪急阪神ホールディングスが発足するが、秋には阪神タイガースがセリーグ連続制覇と念願の日本一を達成し、阪神、阪急の両百貨店や梅田、三宮で、祝優勝セールが開催されることを期待するものである。

 
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鶴巻温泉「陣屋」に一泊!

2006年06月28日 | ちょっと可笑しいよ
今日は神奈川県秦野市にやって来た。あの「となりのトトロ」で有名な宮崎駿監督の一族が経営されている、由緒ある江戸時代からの400年にも及ぶ建物も現存する旅館である「陣屋」に一泊することとなった。

宿の女将によれば、「千と千尋の神隠し」も、「ハルルの城」のモチーフも宮崎監督が若い頃に遊んだ、この陣屋と周辺の緑の影響が大らしいのである。

また、ここの旅館は将棋や囲碁の名人戦などの舞台に昔から何度も使われて、私達が知る大山康晴名人を初め、升田、谷川、最近では羽生名人などが熱戦を戦わせた場所らしく、夕食を食べた部屋の床の間には、原田九段が書かれた「堂々と勝ち、堂々と負け」の書があった。

 実は、市議会の建設経済常任委員会の管外視察で、秦野市に出向き、「まちづくり条例」並びに「景観まちづくり条例」策定へのプロセスと現況、また市民参画による条例策定を学んだのである。

 秦野市の担当職員のレクチャーによれば、この旅館周辺の「鶴巻温泉」地域が、昔はひなびた丹沢山系への登山口上り口としての温泉場だったのに、小田急線「鶴巻温泉」駅が出来てバブル経済の勢いの中で、周辺のみどりの里山や竹林、雑木林を造成してマンション建設が始まり、「まちづくり条例」の必要性が生まれたのだそうだ。

 旅館の女将の話でも、一万坪のお庭と静寂の自然環境、すなわち「トトロの森」や環境を守ろうにも、現在の都市計画や地区計画などでは、ほとんど守れない現状を憂い、結局すぐ傍に7,8階建てのマンションが建ってしまったと言う。

 わが市でも、室町時代に「とんちで有名な一休さんが晩年に建立した禅寺」として有名な「酬恩庵、一休寺」があり、近年その周辺が多くの開発業者の手で用地買収され、宅地開発のための造成が始まったのである。

 由緒ある禅寺の方丈から見ることのできる「枯山水」のお庭は、借景と呼ばれる周辺の緑の環境をも含み、大切な歴史と文化と自然のマッチした保全すべき環境なのである。

 しかし市街化区域であるため、「開発指導要綱」という開発を前提とした規則、指導しか出来ない市政、すなわち行政の姿勢では経済的利益を優先する開発事業者の思いのままで、里山や雑木林も造成、開発されてしまう危険性が迫っているのである。

 「秦野市のまちづくり条例及び景観まちづくり条例」の制定のプロセスと内容に多くを学び、わが市でも早急に(仮称)「開発まちづくり条例」の検討が始まっている。

 同行した建設部長も、この歴史と文化を感じさせられる秦野市の鶴巻温泉の緑に包まれた旅館「陣屋」に一泊し、その環境の尊さと共に、周辺に隣接した高層マンションの現状を見られ、多くの示唆を感じられたことだと確信する。

 宮崎駿監督作品の「トトロの森」を連想する「陣屋旅館」の一泊は、我々にも多くのインパクトを与えてくれたはずである。
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捨てられない、片付かない。

2006年06月27日 | 感じたこと
 この地に住んで25年が経過して、我が書斎兼事務所のような私の仕事部屋も増築して14年が経過した。

 その間、仕事上の書類や資料、書籍が増えて、仕事空間は十年以上使用中のワープロとここ数年使っているパソコン、プリンター、印刷機などがあり、自分のスペースを確保するのがやっとで日夜、ごそごそとやっているのである。

 先日来、少しは片付けようと大きなゴミ袋を手にしながら、空いた時間に書類の積み重なった山から少しづつ捨てようと心がけているのだが、それがなかなかはかどらない。

 数年前、超整理法なる書が流行ったりして、読んでは見たが、根っからの片付け下手なのか、一向に書類の山が減らないで困っている。

 そこへ子供たちの引越しやらで家人が他の部屋を整理して、押入れや納戸から、いろんな昔の「思い出の品」を持ち出してきたのである。

 家人は私の書斎に袋ごと、「思い出の品」を持ち込み、整理して「捨てて下さい」と頼むのだが、その中に青春時代の思い出や交友関係が一杯詰まった「古い手紙や葉書類」の一塊があったのである。

 この一塊の「古い手紙類」を取り出して、整理しようと試みると、ひとつひとつの手紙や葉書の、友人、知人、家族の筆跡、文章、言葉に目と心が奪われて、一枚も「捨てる」心境にはならないばかりか、読みふけっている自分に驚かされていたのである。

 中には学生寮の生活、東京山谷の一ヶ月半ほどの土方生活の頃、また北海道の室蘭での研修に出向いた夏休みの期間などの手紙類の中に、多くの青春の思い出がちりばめられた、ドキドキ、うきうきとユウツが交錯する自分の字も見受けられたのである。

 その中に一枚の便箋があり、自分の父が亡くなる一年半ほど前に、私に宛てて書いてくれた簡単な手紙が見つかった。

 その手紙には「元気でやっているか」「だいぶ字が落ち着いて読みやすくなった」などと書かれていて、今は亡き父のしっかりとした筆跡が残っていたのである。

 また若き恋多き時代、いや恋というよりも多感な学生時代の交友関係の中で、今も消息を知る友人達からの手紙や葉書も多数あるが、差出人の名前を全く覚えていない女性からの手紙などもあり、しばし考えさせられる時間もある。

 いずれにせよ、多感かつ若さゆえに、行動力だけは誰にも負けずと、いろんな社会経験を積極的にしようとエネルギッシュに動いていた20代の頃の自分が、走馬灯の如く蘇ってきたのである。

 体中が熱くなり、いつも何かを求めていた若き自分。いろんな失礼をも省みず、発言し、家族や友人達に心配をかけていた、かつての自分がいたのである。

 あっと言う間に時間が経って、ほとんど片付かない「古い手紙と葉書」の前で、ある種の感動を覚えながら、ため息をついている自分に気づいた。

 捨てられるはずがない。片付かないのは当たり前である。
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リセットしたかった。

2006年06月26日 | とんでもない!
 連日、連夜のワールドカップ、ドイツ大会の中継、報道の一方で、同時に奈良の高校生による、家族殺人、放火事件、東大阪の大学生らによる岡山の生埋め殺人事件、秋田の豪憲君殺害事件、山口県光市の母子殺人事件の最高裁の判定など、数々の殺人事件が多様に報道されている。

 特に奈良の東大、京大などへの進学率の高い有名私立高校で、普通の成績とされる頭のいい少年の、今回の凶行に及ぶ過程と家庭の人間関係などがクローズアップされ、教育評論家たちも交え議論が盛んだ。

 行動や考え方に幼さを感じる、この少年の事件への動機として「自分の人生をリセットしたかった」と言う言葉が強烈に印象的であった。

 一、二年前に現代の小学生たちの意識調査結果として、「いのちはリセットできる」と思っている児童が約四割もいるという報告に唖然としながら、「ゲーム世代」の感覚としては当たり前になっている現実を知った。

 「ファイティングバトル」とでも言うのか、テレビゲームや携帯端末で闘いの遊びの世界は、虚像のモデルが負けそうになったり完全に死んでも、直ぐに「リセットすれば・・・」、また最初からゲームを開始できる。

 将棋やテーブルゲーム、トランプなどでも、昔から負けを察した者が、駒やゲーム台をぐちゃぐちゃにして、「止めた、やめた。もう一回やり直し」と自分勝手にゲームを投げ出したり、再度勝つまで必死になることはあった。

 しかし、「いのち」について、リセットが可能かどうかを見極める価値観と心は、誰もが普通に抱いていたはずである。

 あるタレントが雑誌のインタビューに、家で犬を三匹飼っているのが、子供たちに「死」を体験させるためだと語っていた記憶がある。

 愛する、愛すべき存在の家族や身近な『命』を亡くすことが、如何に悲しいことかを、大切に愛するペットとして飼う『犬』で体感、経験させたいとの思いに、そのタレントの個性以上に関心させられたことがある。

 今、父親、母親、教師たちも「いのちは大切に」とか「命はひとつ」と言葉で語る機会はあるだろう。しかし長寿高齢化社会になった現代社会で、子供たちが生身の家族や愛すべき存在を身近に失うこと、すなわち「死に直面」することは極めて稀になっている。

 テレビや報道を通して多くの「死」が語られはしているが、全て他人事であり、自分との強い絆が失われたり、存在そのものが永遠に消えてしまう悲しみへの実感は皆無なのだろう。

 『死』は、ほとんどの子供たちにはフィクションそのものであり、ドラマで死んだとされる役者が、別のドラマや番組では『生きて』いるから、ゲーム中の人物同様リセットすれば、もう一度生き返る感覚になるのだろう。

 「死」が持つ意味、すなわち永遠に大切な存在が消えてしまう。自分との関わりが途絶えてしまう、恐ろしさ、悲しさ、重さが伝わらないのだろう。

 生きるとは、生かされているのであり、他人も同様に生かされている貴重な存在であることを改めて認識し、「リセットできない」自分と向き合い、語り合い、伝え合い、乗り越える力を育む「愛」が大切なのだろう。
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カーリングとマラソン

2006年06月25日 | プロスポーツ
 梅雨のシーズンなのに突然、冬をベストシーズンとするマラソンとカーリングについて書く。

 自分は決して得意ではないのに、何故かマラソンが昔から大好きで、時間があればよくテレビ観戦するのだが、トリノ冬季五輪以来、カーリングという氷上のスポーツも大変興味を持つ様になった。

 マラソンとカーリング、どちらも何故好きなのかとじっくり考えて気づいたのだが、やはり共通項がある。

 マラソンはよく人生に譬えられることがあるスポーツだが、テレビ観戦をしていて、やはり42.195キロという長丁場に、「人の人生」の如きドラマと変化があるのである。

 高橋キューちゃんこと尚子選手がシドニーオリンピックで女子マラソンで初優勝し、アテネでも野口みずき選手が金メダルを取ったが、二人の個性や能力には大きな違いがあっても、42キロ余を駆け抜けるゲーム運びというか、二時間余の時間に凝縮された人生を重ね合わせることができるドラマを感じるのである。

 マラソンを人生にタブらせて観る考え方は、多くの人が感じていると思うが、トリノの青森県女子チームの活躍で市民権を得た如きカーリングはどうだろうか。
 
 彼女達の笑顔やアイコンタクトを通じて、このマイナーなスポーツが人気を博した原因が何かと考えた。

 やはりマラソンとは全く違うスポーツなのに、人生や人間性を彷彿とさせる共通点があることに気づいたのである。

 つまり4人の選手がお互いの性格や能力をわきまえて、的確に指示や納得を得られる作戦などを、ゲーム中に何度も繰り返しながら相談し、相手の出方や戦術をもシュミレーションしながら、作戦を決めて時にはアイコンタクトも交えて、一人2投つづを、全員の協力で一番理想の場所に置くのである。

 しっかりとした作戦があっても相手の出方や作戦、相手の位置によって、その都度戦況が変わる中で、的確な判断と敵を読む能力も交えた総合的コミュニケーション能力が必要なスポーツだと思われる。

 子供たちから大人まで、現代人が苦手になっている他人とのコミュニケーション能力、つまりマニュアルに頼ったり、リセットが利くような対応ではなく、その都度相手の表情や言葉に素直に気づき反応し、次の展開を予想する等の「気づき」が大切なスポーツなのではないだろうか。

 ただ勝ち負けや記録ではなく、そのゲームのプロセスをゆっくりと楽しめる要素が「マラソン」と「カーリング」にはあって、共通しているのである。

 じっくりとマラソンやカーリングを楽しめる心の余裕と洞察力や考える力、すなわち人間関係や仕事にも生かせる「センス」が両スポーツを観るには必要なのである。
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サムライ、大和魂!

2006年06月24日 | とんでもない!
ワールドカップ一次予選でニッポンはFグループ最下位で敗退し、残念ながらジーコ監督率いる「サムライブルー」のユニホームの日本のWCドイツ大会は終わってしまった。

 決勝トーナメントへは王者ブラジル、地元ドイツ、ベッカムのイングランド、そしてスペイン、フランス、アルゼンチン、ポルトガル、イタリアなどの強豪チームが進出し、本当の「ワールドカップ」を競い合うのである。

 日本サッカーの世界での歴史はまだ浅く、連続三回出場と言っても自力でアジア予選を勝ち抜いての出場はフランス大会と今回だけなのに、いかにもサッカー先進国と肩を並べた如く「大騒ぎ」していた背景に、いつも「サムライ」と「大和魂」があったと思われる。

 果たして「侍」とは、そんなに強く、偉大な存在だったのだろうか。また「大和魂」と呼ばれる精神性も、そんなに日本人の心にしか存在しない強い精神力だったのだろうか。

 日本人ならずとも、スポーツも含め多くの競争社会において、誰もが勝利に向かって精一杯努力し、頑張る気持ちは疑いの余地も無いのだが、常に「戦い」には、勝者がいて敗者もいるのである。

 日本の昭和史は戦争の歴史とも言われているが、日清、日露、そして第一次世界大戦と、日本は世界的戦争に何故か勝利してきたのである。

 その勝利の裏には多くの兵士達の戦死や戦病死、傷ついた兵士達や痛ましい家族の生活などの犠牲もあったが、ともかく勝てば日本軍兵士たちは、「大和魂」のある「サムライ」として絶大なる評価を受けたのであろう。

 日本人特有の歴史的精神性が無いとは思わないが、日本人の志や忍耐力や魂、すなわち生命力に共通の「力」が全ての兵士に存在するはずはなく、ただ時の権力国家や軍が、国民兵士の士気を高めるために、イメージ的に「大和魂」や「武士道」「サムライ心」などを都合よく解釈して使っていたに過ぎないのである。

 すなわち今回だけではないが、オリンピックや世界的スポーツイベントでは、よくこの「大和魂」と「サムライ精神」が引用されて、具体性の無い精神論が、勝利への祈願とダブらせて用いられているに過ぎないのである。

 最近の国の進める憲法や教育基本法の改悪等の背景にも、同様の「日本人たる歴史と伝統を重んじる心や志」が全く同様に強要されようとしていて、決して「大和魂」や「サムライ精神」に通じる精神性は「かっこよい」ものではなく、自らの大切な生命を有無を言わさず、「お国や天皇」のために捧げよという精神そのものなのである。

 非人間的な人権を無視した、上意下達の絶対服従による全体主義的な思想、精神の一元化で、何が何でも目的のためには自分を殺してでも捧げ,遣える精神性を求めているのが、いわゆる「大和魂」であり、「サムライ精神」なのである。

 決して「大和魂」や「サムライ精神」はかっこよくなく、騙されてはいけない。
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少年の心の闇!!!

2006年06月22日 | 日本の課題
 一昨日に起きた、奈良の医者家族三人の焼死事件で、行方不明だった長男、16歳の少年が京都で二日ぶりに発見され、殺人、放火容疑で逮捕された。

 有名な中高一貫教育の高校二年生の少年の「心の闇」に今回も、ほとんど誰もが気づくことなく、取り返しのつかない事件、犯罪行為を犯してしまったみたいである。

 何故か在籍していた高校の校長が度々インタビューに応えているが、どうも違和感があるのだが、小学校時代の同級生、その保護者、近所の住民たち等、誰もが勉強のよく出来る明るい、いい子であると証言しているのである。

 しかし彼の心の中には、人に話さない「心の闇」とでも言うべき、葛藤と憎しみに近い非人間的な感情が、いつのまにか蓄積していたのであろう。

 今朝、京都市内の邸宅に忍び込みワールドカップをテレビで観て、眠ってしまっていたところを、その家の住人に見つかり110番され、近くの路上で自転車に乗っていて職務質問され、住所、名前を名乗り、おとなしく任意同行されたらしい。

 二日前の全く信じられない様な凶行に及んだ少年とは思えない、「おとなしそうな坊ちゃん」として一目には映った少年が、本人が供述したところによると、親父に成績のことで叱られて、父が当直でいない我が家で、母と二人の幼い兄弟を犠牲に、殺意を持って放火、殺人を計画的に行ったらしいのである。

 どうも周辺の彼を知る多くの友達や近所の住民、知人達の証言とのギャップが、今回の事件でも大きすぎるし、想像を絶する「心の闇」を察知することが出来なかった、両親を初め、多くの教育関係者も含む大人たちの「見え方」「見かた」に問題があるのかもしれない。

 JR環状線のある駅に電車が到着し、小学生の男女4.50名が教師と思われる人の引率で駅のプラットホームに整列させられているところに出くわした。

 しばらく様子を見ていると、いくつかのグループに分かれて点呼をとり、確認して次の行動へと移るのだが、先生の目に後姿の子供が目に映った。

 「○○、また何で××にちょっかい出すんや」「自分がしてほしくないことは、他人にはせんとけ」と注意を投げかけた先生、注意を受けた少年がいた。

 傍にいた年配のおじさんが自問自答していた。「今は手を出せへんし、ちょっとしたことで暴力、体罰やと言われるもんな」と・・・。

 その御仁にしてみれば、何でピシャツッと悪い子を叩けへんの?と言いたげであった。

 叩けば良いと言うのではないが、他人の痛みや苦しみ、辛さ、情けなさなど、子供の頃から家庭や学校での人間関係の中で、人と人との感情の軋轢やすれ違いを明確にお互いが認識して、我慢したり、反省したり、話し合ったりする機会と自覚が殆ど無いのではないのだろうかと思った。

 少年の「心の闇」の解明は、これからされるのだが、この根は深く、衝動的な様で、今までの生育過程での長期に渡って熟成された感情として、育まれていたのではないかと感じている。
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夏至の京都で考えよう!

2006年06月21日 | 季節の話題
 京都に住んでいながら京都らしい街中を歩くことが少ないので、夏至を迎えた今日は下鴨神社の近くの小さな画廊に、ちょっとした写真展を見に出かけた。

 小さなギャラリーに年配の写真家の白黒の作品が20点ほど並んでいるだけの写真展だったが、「瀬戸内ノスタルジー」と称された作品は、ほんとに大正から昭和にかけての田舎町の町並みと飾らぬ庶民の生活を彷彿とさせる趣があった。

 今回は作者の人となりを少し事前に聞いていたので、会場におられた当人に話しかけようと思ったが先客がおられて話されていたので、遠慮して声をかけずに作品を数回じっくりと拝見して、「ありがとうございました」と会場を後にした。

 いつもは「作品に対する感想」と共に、作者がわかった場合は「出会い」の機会を大切に、しばらくの時でも話してくるのだが、今回は友人の情報が既に頭の中にあったので敢えて話をせずに、作品から「感じること」を優先して見るだけで帰ったのである。

 多くの芸術活動をされている作家や素人さんがおられるが、こうした個展やギャラリー展示、絵画展などを見る度に、作家の人となりと人生の一こまをダブらせて、いろいろ考えるきっかけとするのだが、簡単にレッテルを貼ってしまう危険性もあると自戒している。

 夏至の日、キャンドルナイトと称し、電気を消そうと呼びかける地球温暖化との関連イベントがされているが、京都の夕刻の町は明かりが煌々と点いていて、北から南に川端通りを鴨川沿いに下り、二条あたりから高瀬川沿いの木屋町に出た。

 今から約400年前、まだ電気のない時代に、角倉了以という人が二条通りから伏見港と呼ぶ宇治川までの約10キロに物資の運搬用に掘削して作った「高瀬川」が今も当時の風情を垣間見る如く残っているところである。

 江戸から大正にかけて難波を中心とする物資を、京都の市中と繁華街に水路で運んでいた当時の面影と共に、幕末の若き志士たちが行き交ったであろう、飲み屋街に多様な歴史と若者達の情熱を感じるところである。

 その頃は「人生50年」と言われた時代だろうと思うが、当時の20代から30代の青年達は、この地で、国を思い、自分達の生活と将来の国のあり様に思いを巡らせて、日夜、この高瀬川、木屋町界隈で話し合い、出会い、行動をしていたのだろう。

 今何処、学生もサラリーマンも、そんな真剣な風情は現在は微塵もなく、享楽の繁華街と化している木屋町、高瀬川界隈を通りながら、現代日本の多くの課題が脳裏をよぎり、共謀罪の新設や憲法、教育基本法の改悪、また自衛隊のイラクでの配置転換?、アメリカ追従の日本国、天皇制など、議論すべき時だと敢えて思ったのである。

 新緑から梅雨本番の京都、木屋町、高瀬川。

 ぜひ一度訪れてみてください。ただ単に「京都」を感じるだけでなく、たった100数十年前の、幕末から大正デモクラシーと称された時代の息吹と若者達のエネルギーを感じる町でもありますぞ。
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東京ラブストーリー

2006年06月20日 | テレビマスコミ
 突然ですが、1991年一月から三月にかけて放映されていたフジテレビ系の月九ドラマ「東京ラブストーリー」を15年ぶりに見たのである。

 何気なしにビデオとして録画されてしまわれていた作品群の中から、東ラブの第一回放送分の「出会いと再会」を見てしまったのである。

 ご存知、鈴木保奈美演ずる赤名リカと織田裕二演ずる永尾完治を中心とする青春恋愛ドラマなのだが、両人の初々しい演技と共に、三上、さとみ等が絡んだ青春の一ページ、一ページを柴門ふみの漫画原作を超えて描かれていて、大好評を得たドラマなのである。

 その当時、この「カンチ・・・」と呼ぶ、リカの屈託のないストレートな声掛けが、さすが帰国子女の走りのような、ちょっと日本人離れした感覚と共に、名台詞となった「ねぇSEXしょう!」と共に新鮮であり、ドキドキさせられたものである。

 時代はバブル全盛期の頂点から破綻の時期に差し掛かる時ではあったが、テレビドラマとしての支持は、非常に高く最終的には30%を越す高視聴率をとった伝説のドラマとして今も語り継がれている。
 
 リカ役の鈴木保奈美は、あのトンネルズの石橋貴之と結婚してしまいブラウン管から姿を消してしまい真に残念で現在の姿は不明だが、カンチ役の織田裕二の活躍は「踊る捜査線」を初め各種ドラマ、映画で見られスマップの慎吾君に真似される耳の大きさも変わっていない。

 私達の記憶と脳裏に深く新鮮に映った「東ラブ」のテレビ放映の11巻のビデオコレクションは、多少映像が時の経過で乱れていても、この15年の歳月を簡単に取り戻してくれて、心の琴線に響くものであることは間違いない。

 果たして今、再び「東ラブ」をリメイク作品としてドラマ化するとしたら、誰が主役の二人に適役なタレントがいるだろうか。

 リカは上戸彩でもいけるが、カンチは誰だろうか。なかなか適任が浮かばないほど、この二人のイメージが強く残っているのである。

 たぶん「東ラブ」ファンにとっては、主人公のリカとカンチはそっとそのままにしておいて、自分は三上や関口などの脇役的な立場のキャラクターとダブらせて、いろいろと自分の青春時代の恋やデイトをイメージすることが一度はあったのではないだろうか。

 夢の中で、もし叶うならば「東ラブの記憶」が強くある人たちは、一度は自分を主人公としての「○○ラブストーリー」をシュミレーションしながら、夢の中で演じてみたいと思っているのではないだろうか。

 久しぶりに青春の鼓動を感じることが出来た時のいたずらでした。
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