「キャッチポールをしょう」と書いたが野球のことではない。
先程までテレビで「あいのうた」というタイトルのドラマが放映されていて、その一シーンで、主人公の玉置浩二演ずる片岡が子どもたちと公園でキャッチボールをしていたのである。
ドラマのストーリーは全く判らないので、そのシーンの持つ意味は不明だが、何とも懐かしい感じで、子どもたちの嬉しそうな顔と主人公の笑顔が、ボールを投げあう度に、言葉以上にうまくコミュニケートされていることを暗示させていた。
つまり言葉を交わすだけがコミュニケーションを円滑にとる方法ではなく、子供たちとの信頼と愛情の関係がないと、なかなかうまく言葉のコミュニケーションすら取れないのではないだろうか。
私は特に子どもたちと何気なく出会い話すことが大好きでなのだが、先週また起きてしまった少女殺人の容疑者が今日逮捕され、世の中は益々町で子どもたちと言葉を交わすことが非常に困難な状況になってきている。
私のように日中に町にいるおっさんにとって、こうした事件が続出し、子どもたちのみならず他人との会話が、全て『不審者』の様な眼差しで見られる時代になったと言っても過言ではない異常な世の中になってしまったことが残念でならないのである。
こうした見ず知らずの人とのコミュニケーションも拒絶して、社会がより個人主義化して限られた家族や身内としか会話を交わさない状況になりつつあり、必要最小限の言葉しか交わさない大変な社会となっているとの自覚と警鐘を発したい気持ちで一杯なのである。
実は私の町でも最近、私が知る限りでも多数の鉄道に飛び込む痛ましい人身事故が続発していて、こうした自殺に及ぶ行動にも、言葉のキャッチボールの不足が、大変大きな要素としてはらんでいると思うのである。
何故に、鉄道に身を投げて自殺しなければならなかったのかは全く個人、個人の精神的な悩みや、病苦、経済苦、将来を悲観して、失恋など多種多様なのだろうけれど、何故にこうした決断に至る前に、家族が友人が近所の方が、先生が、医者が気づかなかったのだろうと、やっぱり私は思うのである。
私は子どもたちだけではなく、誰とも話すことが大好きである。どうしても『命』を大切に生きることが出来ない絶望に至るまでに、気軽に『声を掛けて話す』ことが出来る人が回りにいなかったのかと、最大の疑問を持つのである。
ある友人の女性が今、パニック症候群の病に苦しんでおり、時折電話で話すのである。先日も20分近く、彼女の心境と苦しい思いの心身の病の現状を聞きながら、言葉を選びながら、出来るだけ明るく話しかけていたのである。
ささやかなことしか出来ないのだが、いつも見守る家族とは違った友人として『声を掛けよう』と思っているのである。
今朝もJRで大阪方面に出かけようと最寄の駅に行ったら、人身事故のため電車が遅れているとアナウンスがあった。どんな事故、事象だったかは定かではないが、またかというため息交じりの思いがよぎらざるを得なかった。
帰りの電車の車内は少し混んでいて、私は最初座席を見つけて座ったのだが、次の駅から小柄な高齢の男性が乗って来られたので、久しぶりに席を立って、その方の肩を軽くたたいて「どうぞ」と席を譲ったのだが、彼は「ありがとうございます」と喜んで座ってくれ、私はこの「ありがとう」を久しぶりに聞き嬉しく思ったのである。
ささやかな言葉で、嬉しくなったり感謝したりと「ことばを掛ける」ことは、他人であっても、気持ちを大きく変えることにつながる場合もあるのではないかと信じている。
どうか遠慮したり、不審者と間違われないかとの危惧を捨てて、町で気づいた出逢いがあったら、「話し掛けよう」ではありませんか。
『言葉のキャッチボール』は他人でも、人を人として生かす力を持っているものだと私は信じている。ぜひ『遠慮なく他人と話そう』特に子どもたちや若い人たちと大いに言葉のキャッチボールで愉しみたいものである。
先程までテレビで「あいのうた」というタイトルのドラマが放映されていて、その一シーンで、主人公の玉置浩二演ずる片岡が子どもたちと公園でキャッチボールをしていたのである。
ドラマのストーリーは全く判らないので、そのシーンの持つ意味は不明だが、何とも懐かしい感じで、子どもたちの嬉しそうな顔と主人公の笑顔が、ボールを投げあう度に、言葉以上にうまくコミュニケートされていることを暗示させていた。
つまり言葉を交わすだけがコミュニケーションを円滑にとる方法ではなく、子供たちとの信頼と愛情の関係がないと、なかなかうまく言葉のコミュニケーションすら取れないのではないだろうか。
私は特に子どもたちと何気なく出会い話すことが大好きでなのだが、先週また起きてしまった少女殺人の容疑者が今日逮捕され、世の中は益々町で子どもたちと言葉を交わすことが非常に困難な状況になってきている。
私のように日中に町にいるおっさんにとって、こうした事件が続出し、子どもたちのみならず他人との会話が、全て『不審者』の様な眼差しで見られる時代になったと言っても過言ではない異常な世の中になってしまったことが残念でならないのである。
こうした見ず知らずの人とのコミュニケーションも拒絶して、社会がより個人主義化して限られた家族や身内としか会話を交わさない状況になりつつあり、必要最小限の言葉しか交わさない大変な社会となっているとの自覚と警鐘を発したい気持ちで一杯なのである。
実は私の町でも最近、私が知る限りでも多数の鉄道に飛び込む痛ましい人身事故が続発していて、こうした自殺に及ぶ行動にも、言葉のキャッチボールの不足が、大変大きな要素としてはらんでいると思うのである。
何故に、鉄道に身を投げて自殺しなければならなかったのかは全く個人、個人の精神的な悩みや、病苦、経済苦、将来を悲観して、失恋など多種多様なのだろうけれど、何故にこうした決断に至る前に、家族が友人が近所の方が、先生が、医者が気づかなかったのだろうと、やっぱり私は思うのである。
私は子どもたちだけではなく、誰とも話すことが大好きである。どうしても『命』を大切に生きることが出来ない絶望に至るまでに、気軽に『声を掛けて話す』ことが出来る人が回りにいなかったのかと、最大の疑問を持つのである。
ある友人の女性が今、パニック症候群の病に苦しんでおり、時折電話で話すのである。先日も20分近く、彼女の心境と苦しい思いの心身の病の現状を聞きながら、言葉を選びながら、出来るだけ明るく話しかけていたのである。
ささやかなことしか出来ないのだが、いつも見守る家族とは違った友人として『声を掛けよう』と思っているのである。
今朝もJRで大阪方面に出かけようと最寄の駅に行ったら、人身事故のため電車が遅れているとアナウンスがあった。どんな事故、事象だったかは定かではないが、またかというため息交じりの思いがよぎらざるを得なかった。
帰りの電車の車内は少し混んでいて、私は最初座席を見つけて座ったのだが、次の駅から小柄な高齢の男性が乗って来られたので、久しぶりに席を立って、その方の肩を軽くたたいて「どうぞ」と席を譲ったのだが、彼は「ありがとうございます」と喜んで座ってくれ、私はこの「ありがとう」を久しぶりに聞き嬉しく思ったのである。
ささやかな言葉で、嬉しくなったり感謝したりと「ことばを掛ける」ことは、他人であっても、気持ちを大きく変えることにつながる場合もあるのではないかと信じている。
どうか遠慮したり、不審者と間違われないかとの危惧を捨てて、町で気づいた出逢いがあったら、「話し掛けよう」ではありませんか。
『言葉のキャッチボール』は他人でも、人を人として生かす力を持っているものだと私は信じている。ぜひ『遠慮なく他人と話そう』特に子どもたちや若い人たちと大いに言葉のキャッチボールで愉しみたいものである。