ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

キャッチボールをしよう!!!

2005年11月30日 | 日本の課題
 「キャッチポールをしょう」と書いたが野球のことではない。

 先程までテレビで「あいのうた」というタイトルのドラマが放映されていて、その一シーンで、主人公の玉置浩二演ずる片岡が子どもたちと公園でキャッチボールをしていたのである。

 ドラマのストーリーは全く判らないので、そのシーンの持つ意味は不明だが、何とも懐かしい感じで、子どもたちの嬉しそうな顔と主人公の笑顔が、ボールを投げあう度に、言葉以上にうまくコミュニケートされていることを暗示させていた。

 つまり言葉を交わすだけがコミュニケーションを円滑にとる方法ではなく、子供たちとの信頼と愛情の関係がないと、なかなかうまく言葉のコミュニケーションすら取れないのではないだろうか。

 私は特に子どもたちと何気なく出会い話すことが大好きでなのだが、先週また起きてしまった少女殺人の容疑者が今日逮捕され、世の中は益々町で子どもたちと言葉を交わすことが非常に困難な状況になってきている。

 私のように日中に町にいるおっさんにとって、こうした事件が続出し、子どもたちのみならず他人との会話が、全て『不審者』の様な眼差しで見られる時代になったと言っても過言ではない異常な世の中になってしまったことが残念でならないのである。

 こうした見ず知らずの人とのコミュニケーションも拒絶して、社会がより個人主義化して限られた家族や身内としか会話を交わさない状況になりつつあり、必要最小限の言葉しか交わさない大変な社会となっているとの自覚と警鐘を発したい気持ちで一杯なのである。

 実は私の町でも最近、私が知る限りでも多数の鉄道に飛び込む痛ましい人身事故が続発していて、こうした自殺に及ぶ行動にも、言葉のキャッチボールの不足が、大変大きな要素としてはらんでいると思うのである。

何故に、鉄道に身を投げて自殺しなければならなかったのかは全く個人、個人の精神的な悩みや、病苦、経済苦、将来を悲観して、失恋など多種多様なのだろうけれど、何故にこうした決断に至る前に、家族が友人が近所の方が、先生が、医者が気づかなかったのだろうと、やっぱり私は思うのである。

 私は子どもたちだけではなく、誰とも話すことが大好きである。どうしても『命』を大切に生きることが出来ない絶望に至るまでに、気軽に『声を掛けて話す』ことが出来る人が回りにいなかったのかと、最大の疑問を持つのである。

 ある友人の女性が今、パニック症候群の病に苦しんでおり、時折電話で話すのである。先日も20分近く、彼女の心境と苦しい思いの心身の病の現状を聞きながら、言葉を選びながら、出来るだけ明るく話しかけていたのである。

 ささやかなことしか出来ないのだが、いつも見守る家族とは違った友人として『声を掛けよう』と思っているのである。

 今朝もJRで大阪方面に出かけようと最寄の駅に行ったら、人身事故のため電車が遅れているとアナウンスがあった。どんな事故、事象だったかは定かではないが、またかというため息交じりの思いがよぎらざるを得なかった。

 帰りの電車の車内は少し混んでいて、私は最初座席を見つけて座ったのだが、次の駅から小柄な高齢の男性が乗って来られたので、久しぶりに席を立って、その方の肩を軽くたたいて「どうぞ」と席を譲ったのだが、彼は「ありがとうございます」と喜んで座ってくれ、私はこの「ありがとう」を久しぶりに聞き嬉しく思ったのである。

 ささやかな言葉で、嬉しくなったり感謝したりと「ことばを掛ける」ことは、他人であっても、気持ちを大きく変えることにつながる場合もあるのではないかと信じている。

 どうか遠慮したり、不審者と間違われないかとの危惧を捨てて、町で気づいた出逢いがあったら、「話し掛けよう」ではありませんか。

 『言葉のキャッチボール』は他人でも、人を人として生かす力を持っているものだと私は信じている。ぜひ『遠慮なく他人と話そう』特に子どもたちや若い人たちと大いに言葉のキャッチボールで愉しみたいものである。

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広島に行って考えたこと。

2005年11月29日 | 世界の問題
 昨日、私も委員として参加している「京田辺市平和都市推進協議会」の会合があり、戦後60年の記念事業として行った「平和のための小・中学生広島派遣事業」の報告がありました。

 先に配布された参加した子どもたちの文集から、中学生の女の子の感想文を転記したいと思います。

 私は戦後と呼ばれる次代に生まれました。平和とは何か考えたこともなく、戦争は良くないことぐらいにしか、意識していませんでした。

 この広島派遣に参加して、核兵器の本当の恐ろしさを見聞きし、まだ完全には平和になっていないことを知りました。

 平和記念公園の資料館には、写真や遺品等、色々な物が展示してあり、恐ろしさのあまり手で顔を覆ってしまいそうになりました。

 放射線とというものが、これ程にも大きな被害を及ぼすということにも驚きました。遺品を見て、家族の大切な形見を手放すのは気が進まないけれど、原爆の恐ろしさを多くの人に伝えるため、皆で協力した資料館だと感じました。

 また、被爆体験者の話を聞き、原爆投下から六十年たった今でも、原爆による被害がまだ残っていることを初めて知りました。

 私は小学生の時に習った「非核三原則」を思い出しました。その頃はその内容が単純なことだと思っていました。でも今、その意味の重さに気づきました。

 人と核兵器は共存できません。全ての核兵器をなくすのは大変だと思いますが、核兵器を持っていることで、自分の国が強くなると考えている人たちに、それは間違っていると気づいてほしいと思います。

 (中略)

私が見た広島の町は、私の住む町と変わりなく平和に見えました。原爆の痕跡は平和記念公園にしか感じられませんでした。人は全てのことを覚えていられません。しかし必ず忘れてはいけないことがあります。

 台風や地震等の自然災害ではなく、人が起こした悲劇を忘れてはいけません。

 「平和とは何だろうか」と考えたこともなかったけれど、恐ろしい核兵器をなくすことが、平和につながるということが判りました。

 広島に行って、本当の平和とは何かを考えることができてよかったです。

 たくさんの人に核兵器がなくなることを願ってもらいたいです。   

 この様に作文に書いた素直な中学1年生の女の子をはじめ、23人の小、中学生の心に深く、戦争と原爆の痛ましさ、悲惨さが刻み込まれたことだろうと思います。

 子どもたちの『気づきと感動、学び』に改めて教えられることが多くあります。

 私たち大人が子どもたちに提供できることは、こうした体験や情報の機会だと思います。大いに素直で好奇心旺盛な子どもたちに「戦争と平和」を考えてもらえる機会を大切に、これからも設けて行きたいと思います。
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うらない10分、200円!

2005年11月27日 | 地域の話題
 今日は、恒例の『大住バザール』を開催した。晩秋の日曜日ではあるが秋のイベント、行事の多い中で、多くのお客さんが足を向けていただき、なかなかの盛況であった。

 主催者として、一番気になるのが天気なのだが、今回の開催日は先週から天気はいいと言われていたので、天気の心配は全くしなかったのだが、こうしたイベントはほんと、当日にならないと全く参加者、お客さんの動向が読めないものであるので、開けてびっくりという時もあるものなのである。

 今日は寒くもなく、暑くもなくと言った絶好のバザール日和と言った感じの半日となったために、午前九時半からのスタートを待たずして、何処からともなくお客さんが集まり、狭い住民センター周辺が人、人、人でにぎわったのである。

 そんな中で今回は初めて、女子大生による「手相占いコーナー」を設けて、物を売るのではなく、『占い』を通じて愉しんでもらおうと考えたのである。

 しかし占いをしてくれる女子大生が京都市内からやってくるためと、着物の着付けに手間取ったせいなのだろうが、会場に椅子を用意して、待ったのだがなかなか現れなかったのである。

 そこで、その椅子に「うらない一回、十分、二百円」と書いた紙を貼って宣伝というか、告知をしていたのであるが、ある女性が近寄ってきて、「うらないのに二百円取るんですか」とのたまうのである。

 つまり、「占い」と漢字で書けば全く意味が分かるのであるが、ひらがなで書いたものだから、「占い」が「売らない」と同音のため、しゃれの様な遊び言葉となってしまったのである。

 しばらくして、明るい着物に身を包んだ、本日の占い師であるYちゃんがやってきて、「手相占い」コーナーは始まり、次から次へと占ってほしい御仁がつめかけて、一人十分と限定していたのに、長い人は二十分近く、いろいろと尋ねたり納得するまで話を聞いたりと大変な熱心さだったのである。

 「うらない占い」だったのだが、結局三時間余の間に、何と15人ものお客さんが来られて、各々自分の人生の過去、現在、未来について、手相から読みとれる真実を聞きながら、これからの人生に生かそうとされていた様子であった。

 女子大生占い師Yちゃんは、にこっと微笑むとかわいらしい女の子で、占い師というには、まだアドケナイ女子大生なのだが、いろいろ好きで占い、手相の勉強をしているので、相当説得力はあった模様であった。

 四方山話では、あまり精力を注いで『占い』に専念しすぎると、自分の運や人生での可能性まで失ってしまう危険性があるので、ほどほどに占うべきだとの忠言もあって、彼女自身も心得ているらしく、淡々と多くの年配の人たちを前に、二十歳そこそこの人生経験しかないが、真面目に占っていたようであった。

 リサイクルと手作りの「お買い物市」であるバザールに、初めて登場した「ものを売らない、占い」は、観衆からは、「元手がいらんで丸儲けやな」という嫉妬も買って大賑わいであった。

 大きな町角の『占い』などは決して二百円では観てもらえないものであり、安くて当たれば、それこそ当たるも八卦、当たらぬも八卦だが、結構嬉しいものなのではないだろうか。

 ありがとう、Yちゃん。いい大学生活の思い出として、ちょっと帯紐のきつかった着付けで、ちょっとしんどかったみたいだが、多くの人たちに喜びと幸いをプレゼントしてくれて、ありがとうね。

 
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ちょっとした譲り合い

2005年11月27日 | とんでもない!
 日頃、車を運転する機会が多い私だが、皆さんもいろいろ感じられていると思うが、自動車教習所や運転免許の更新の際などでも、全く教えられないマナーや常識がある様に思う。

 信号機のない三叉路交差点などでは、直進車と、その道に合流しようとする車が多い場合は、一台づつ交互に譲り合って直進車と合流車が道路に入ればいいと思うのだが、大抵の場合は暗黙の了解で、お互いのアイコンタクトで了解して、譲り合えるものである。

 しかし、時折こうした譲り合いをせずに、我先にと直進する車も見受けられるのである。どうせ少し先は、信号や踏切のため、あんまり急いでも変わらない状況であっても、絶対合流する車を割り込みさせないぞと言った感じの運転手に遭遇することがあるのである。

 先日は、やはり信号より数十メートル手前の駐車場から幹線道路と言っても、片側一車線のメインストリートに出ようとして、車が途切れたので発進しようと道路上に自分の車を少し出したのであるが、後方からやってきた女性ドライバーの赤い車だったのだが、私の車の発進が気に入らなかったのか、大きくセンターラインをオーバーした上で前方の車の後へと付いたのである。

 私は危険性を感じて、車のブレーキをかけて、一旦待ったために接触はしなかったが、勢いで車道に車を出していたら、危うく接触するところであった。

 私は、その後その道を直進し、次の交差点で右折レーンに車を進めたために、先ほどの突っ込んできた赤い車のドライバーの横顔と表情を見ることが出来たのだが、中年のご婦人だったので、何故にそこまで頑張るのかと不思議に感じたものである。

 いつもの様に通過する小さな河川に沿った抜け道があり、市内の要所に行く時にはヨク使う道となっており、少々道が狭い箇所が2,3箇所あるために、お互いの一方通行となる道なのである。

 この道も、いつも利用しているドライバーたちにとっては常識的に、適当な間隔で車同士が判断して、道を譲ってしばらくの間、待ったのち数台が一方へと通行した後、反対側の方向への車が代わって通行しているのが現状となっているところである。

 ここでも時折、数台が一方方向に通行した後、逆方向の車が数台走り出した直後に、数十メートルではあるが、反対方向から車が一台、前方をよく見ていないせいか、それとも自分勝手なのか不明だが突入してきて、途中で行き違いが出来なくなって、狭い堤防上で譲り合いがうまくいかなくなることがあるのである。

 全く真意は分からないのだが、どう観ても進入してきている一台の車の方が常識はずれといおうか、前方からの数台の車の進入を見ていなかったのか、途中の狭い道も行き違いができると過信していたのか、無茶な侵入車と言わざるを得ないのである。

 これらは、普通の道路上での、自動車同士の譲り合いのことなのだが、人間社会には、こうした譲り合いの必要な場所や場合がたくさんある様に思うのである。

 何も、いつでも譲れと言っているのではない。お互いの立場を少しだけ考えてあげれば、お互いが気持ちよく譲り合いながら、次の人や次の車と言った感じで、気持ちよくスムーズに前へと進めることが多くあるのに、我先にとしか思わない人たちや車が多いと、なんとなく殺伐ともするし、気が落ち着かなくなるのではないだろうか。

 「そんなに急いで何処へ行く?」という標語もかつてあったと思うが、一台に道を譲ったからと言って、何分も先に行くのが遅くなるわけではないのである。

 ちょっとした「譲り合い」で、お互いが気持ちよく通行できて、ちょっぴり気持ち良くなることもあるのだから、ぜひ皆さんも焦る気持ちをちょっと抑えてでも、道を譲っていただきたいと思うのである。

 『譲られ、譲る、お互いに』の精神で車だけでなく、人としての社会での活動の全ての分野で、多くの人たちが心がけてくだされば、世の中少しは生きやすく、暮らしやすいと感ずることが出来ると思うのである。

 
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子どもたちの願い!!

2005年11月25日 | 地域の話題
私たちの町の、ある小学校の真向かいの森というには少し狭いかもしれないが、この緑あふれた一帯が伐採されて、ブルトーザーが入って緑の地帯が茶色の土肌がむき出しに見えるようになってきたのである。

 この小学校に籍をおく、ある女の子が私が市議であることを、お母さんに聞いたのか、八百屋のガリバーとして訪れた時に、「なぁ、ガリバー!、あそこの緑を残してほしいねん。家なんか建てんでほしいねん」と訴えたのである。

 私自身、この町にやってきたのが、子どもたちとの遊び場活動であったこともあり、それ以来、この町の緑に囲まれて、遊び、生活してきたものでもあり、議員になって後も、「自然環境の保全と開発の抑制」を一つのテーマとしてきたので、小学生の小さな女の子の直訴に、改めて力のなさというか、無念さを感じたのである。

 おかぁさんは、「ガリバーも緑を残してほしい」って思もてはるよ、とは言ってくれたのだが、私の場合は「緑を守れ」「大切に」と言うだけではだめなのである。如何にしたら緑が保全され、他人の土地ではあるが、自然環境を守れるかの大きなテーマを現実的に実現する手立てがほしいものである。

 つまり、市議として多種多様な問題提起や具体的追及や提案をしているつもりではあるが、現実的にはなかなか理想的な「まちづくり」や「住民本位の施策」の実現には至らないのである。

 素直な女の子の直訴に、真剣にどう応えればいいのだろうかと悩んでしまうほど、現実は私的な地権者の権利や利害を束縛するような形で、勝手な『緑の保全』や「自然環境を守る」こととはならないのである。

 小学生に「資本主義社会は」とか「私的所有者の権利」などと言ってもはじまらないし、「世の中は思うようにはならない」なんて絶望的な言葉もいえない。

 そこで、私がやっと答えられたのは、「ガリバーも、出来れば○○ちゃんと同じように、緑を大切にしてほしいし、あそこに家を建ててほしくない」と言った上で、何とか○○チャンの願いを市長や土地の持ち主のおじさんに伝えることができる様につとめる。としかいえなかったのである。

 何とも虚しい応えである。もっと子どもたちの願いを実現できる施策や自然環境保全を強く訴えて、すこしでも次代を担う子どもたちの時代に、今私たちができることをきちっとしておかないと、子どもたちの未来はとんでもない時代や環境になることは必至なのである。

 市長も常に『子どもたちは国の宝」だと言っておられるが、こうした子どもたちの声に、ちゃんと応えられる術をお持ちではないだろう。

 現代に生きる大人たちが、子どもたちの素直な声に耳を傾けて、しっかりと大切なものは守っていかないと、子どもたちの将来の世界や環境を駄目にしてしまうことになりかねないのではないだろうか。

 ひとつでもいい。こうした子どもたちの願いに、大人としてきちっと応えて、責任を果たせる仕事をしたいものである。
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紅葉を愉しむ

2005年11月23日 | 季節の話題
 今日は『勤労感謝の日』であったが、多くの人たちが秋のお出かけ日和の休日として、一日を愉しまれたかもしれないが、どれ程の方々が「勤労感謝」を意識されて『お休み』を過ごされたことだろうか。

 私も実は、そんな気持ちもほとんどなく、留学生のB君と「もみじ狩」と称して出かける予定を組んで、昼前に市内で待ち合わせてから、車で京都市内は、さぞ「秋の京都」を愉しむ観光客で、何処も満員だろうからと南へと走りだしたのである。

 漠然と車を走らせ、24号線を南下しながら、そうだ「加茂の岩船寺、浄瑠璃寺」あたりへ向かおうと思い出したのであった。

 しかし国道163号を東へ走ったところで、木津川をまたぐ赤い橋を渡って、笠置町の「わかさぎ温泉」の前に出てしまったのである。

 中国、内蒙古から5年前にやってきて、つい先ほど大学院博士課程の入学試験に合格通知をもらったばかりのB君の慰労もかねての「もみじ狩」の予定だったので、彼の温泉好きもあって、早速お昼時の『温泉入浴』となったのである。

 結構、入湯客は多かったが、ゆっくりと温泉につかりながら、「今日は勤労感謝の日」と改めて語りつつ、お互いの『勤労、勤勉?!』を称えながら、誰に『感謝』するのかなと話したのである。

 ほんと屋外にある薬効効果がありそうな「薬湯」に身を浸しながら、「疲れを癒すアロマセラピー的効果を期待して、しばらく大きく深呼吸もしながら温まったのである。

 それから昼食とって一路、日本の何処にでもあるが、とっても心落ち着く「原風景」とも言うべき山道をゆっくりと走って、岩船寺に到着した。

 この岩船寺の境内はあまり広くはないのだが、参拝、観光の人々が本堂に座って、住職の講話とも言うべき解説を聞いておられたので、私たちも後から入って耳を傾けた。

 「仏とは」「死者が仏となるとは」など、たくさんの仏像の簡単な解説と共に、和尚はわかりやすく、日に何度も講話と言う形で、来られる方々に語られているのだと思うが、とっても心安らぎ、知らない仏教的教えのイロハを教わった感じもして、なかなか共感を覚えたものである。

 しかし『紅葉』の方は、まだ少し早いようで、あまり色づいてはいなく、静かな緑と紅葉に向かう木々の佇まいの空間に集う、日頃は果たして信心深い生き方をされている方々がどれだけおられるかは全くわからないが、みんな信心深い仏教徒の様に、この境内にいる間だけでも見えるから不思議なものである。

 私たちは寺の奥を登って、「貝吹岩」と名づけられた小高い山の上にも行ってみたのだが、ここは昔から生駒山と木津川を含む地域を見渡せる場所であり、この岩の上でほら貝を吹いて、種々知らせたとされる所で見晴らしのいい気持ちの晴れる場所であった。

 つづいて『浄瑠璃寺』に向かった。途中、とんでもない小路に車を入れてしまって、引き返すにも引き返せない歩くのがやっとという様な道だつたのだが、無理やり目をつぶって?!、脱出して漸く浄瑠璃寺に着いたのである。

 途中、田舎道のあちこちに、地元の方々が作られた漬物や草団子や、陶器などが売られており、珍しい野菜もあったのである。私は何とも大きな「なた豆」と称される二十センチほどの鞘に豆がいくつも入っている豆をおばさんの食べ方説明を受けて買ったのである。

 浄瑠璃寺は阿弥陀池の畔の「もみじ」がキレイに紅葉しており、とっても温かな秋の日差しの中で輝いていたのである。数枚の写真をとって私たちは夕暮れ時の浄瑠璃寺を後にしたのだが、奈良に近い京都の最南端部の「当尾の里」の一部を歩いて、「勤労感謝の日」を満喫したのである。

 この「当尾の里」は、「とおの」と呼ばれ、数多くの石仏が安置されていて、道筋には土地の土産や産物が吊られた無人販売も並んでいて、仏の世界と現世の本物の安らぎを感じさせてくれる、独特の癒しの里となっていると感じたのである。
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いい夫婦ってどんなん?

2005年11月22日 | ファミリーイベント
 今日は11月22日。この日を「いい夫婦の日」として提唱している団体がある。

 最初は1988年に財団法人余暇開発センターが、夫婦のライフスタイルを提唱した際に、あわせて『いい夫婦の日』を制定したのだそうである。

 現在は、『いい夫婦の日』をすすめる会と言う団体があって、ホームページを持ち、シンボルデザインとふたりの感謝祭2005と入った意匠登録されたイラストがあり、うつみみどり、愛川欣也夫妻が今年のベストカップルらしい。

 何故か、「いい夫婦の日」をすすめる会の名誉会長は、桂文珍氏になっており、にこやかな笑顔の師匠の写真入挨拶は掲載されているが、肝心の「いい夫婦」をイメージするための桂文珍の奥様の顔は載っていませんでした。

 ゆとりのある生活や生きていくことの意味を、夫婦と言う単位から見つめようと「いい夫婦の日」が制定されたらしいのだが、ふたりがお互いを尊重し感謝しあう、365日分の一日であり、それは新しい夫婦の記念日なのだ。とあります。

 私も、その日の月日に意味や記念すべきことを重ねて楽しく暮らすことには異議がなく、「11月22日」の1122の数字を「いい夫婦」と読んでしまうことは分かりますが、何故、この日でなくてはいけないのか、つまり今日なのかは『遊び心』以外では理解できません。

 ところで私たち夫婦も33年余の結婚歴を経験してきましたが、「いい夫婦」かどうか定かではありません。

 今晩も所用で四時頃から市内に外出していて九時前に帰宅したのですが、夕食を食べるか否かを伝えていないことで、帰宅後に叱られてしまいました。

 こんなことは年に数度しかないのですが、家内にとっては「とんでもない」誠意のない行動の様で、そのたびに叱られてしのまうのです。

 私にとっては外出する時は早く帰るつもりでも、その時の仕事や人に会う都合で、予定通り行かない場合もあり時には帰宅が予定より遅くなったり、知人、友人と食事を共にすることになってしまうこともあるものなのです。

 しかし家人にとっては、朝のうちから夕食がいるのか、いらないのかはっきり告げておいてほしい。との要望なのです。

 年に数回しかなくても、彼女にとっては大変な苛立ちと、どっちかわからない待ち時間の経過がたまらないのでしょう。全ての予定が未定とは言いませんが、あくまで予定は、予定通り行かない場合もあるものと言っても理解されないのです。

 例えば、こうしたささやかな行き違いも、夫婦間のちいさな感情のズレや、葛藤となる場合もあって、なかなかいつでも「いい関係」の「いい夫婦に」はなれないものなのです。

 人間の感情のズレや、ちょっとしたボタンの掛け違い等は、どんなに長く連れ添った夫婦でもないとは言えないでしょう。

 私たちも、そうした長い年月を、ちょっとしたボタンの掛け違いや感情のズレを『お互いへの信頼と思いやり』で乗り越えて、少しでも「いい夫婦」だと自他共に認め合える関係性へ、より成長し努力したいと思う「いい夫婦の日」でした。

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女子学生の会話

2005年11月21日 | とんでもない!
 秋の夕刻、駅前の今流行のセルフサービスの喫茶で、ちょっとした休憩を愉しんでいた際に、聞こえてきた隣にいた二人の女子学生と思われる会話を耳にして、改めて現代っ子というべきか、今の若者の思考と本音の一部を知ったのである。

 まず耳に飛び込んできた台詞とでも言うべき言葉が、「この世から消えてしまいたいと思うことがある」であった。続いて「8月はめちゃヤバカッタ」と一方の女の子は、今流行の首筋にひらひらの毛をつけたファッションで、ミニスカートにブーツ姿で語っているのである。

 話の聞き役になっている女の子は主に聞くだけなのだが、時折同意の言葉を返しているが、主にちょつと派手な感じの女の子がしゃべくりまくっているのである。

 『大人じゃん!、こんな話をするのは、○○子だけだけど」と前置きしながら、「わかんないネ、相手の気持ちなんて」「最近どうでもいいかなぁって」「考えてもしょうがないし・・・」と話は続くのであるが。

 結局、彼女たちの話題は、彼氏のことであり、自分自身のことなのであるが、「全てに困っているんだ。将来にしたいことがわからない」などと話続けているのである。

 彼女たちの足元に老いてる紙袋には、教科書か参考書と思われる本が数冊に資料かレポート、もしくはインターネットからプリントした紙が結構分厚く入っている様子であった。

 現代っ子的女子学生特有のファッションかもしれないが、顔の化粧は濃くて、付けまつげをしっかりとつけて、耳ピアスをつけて、タバコをふかしているのである。

 しばらくの間、私自身も温かい珈琲を口に運び、本を読みながら様子を見ながら、耳をそばだてていたわけだが、煙草の煙に燻されそうになり席を立ったのである。

 しかし、この女子学生の生態を垣間見ながら、女子学生の学費や生活費を仕送りしているご両親、ご家庭のことを我がことの如く想像してしまっていて、とんでもないなと思う心境になってしまったのである。

 たがか二十歳前後の女子学生の会話の一部を耳にしただけで、大げさなことを言うな、と言われるかもしれないが、一般的な親の気持ちとして、「育てた親の顔がみたい」とも思ったが、「ええ加減な学生生活を送るな」とも言いたい心境であった。

 女子学生に限らず、多くの真面目な学生たちも多くいることは間違いないのだが、古いとお思いでしょうが、老婆心ながら、やはり「とんでもない!」と思ったのである。

 どう観ても、どう聞いても、親の脛をかじりながら学生時代をおくる女子学生としては、会話の中身が貧困でもあり、命や人生を軽く捉えているとしか思えないのである。

 「めちゃヤバかった」と言う、ヤバさはどんな状態なのかは想像しきれないのだが、「この世から消えてしまいたい」なんて言うからには、相当な状態だつたんだろうと推察されるが、聞き手の女の子も同様のレベルとしか思えない女の子であって、適切なアドバイスも忠告もできない、似た者同士なのである。

 「とんでもない」状態の女子学生の現実と精神状態をケアしたり、カウンセリングできる体制やシステムが、本人の自主申告がない限り、出会えないのだから、ほとんどの学生の問題は、放置されたままなのだと思われるのである。

 結論は、やはり親である。親が経済的負担をするだけでなく、まだまだ未成熟なわが子の精神状態、つまり『心のケア』をする必要があるのだが、我が娘。我が息子でもあるのに、みんな遠慮してか、何もほとんど言わない現実があって、とんでもない状態も放置されているのではないだろうか。

 しっかりとした学生時代を、ぜひ自覚しつつ送っていただきたい。貴重な青春時代の悩みや苦悶を、真剣に聞き、乗り越えるための知恵と生き方を模索してほしいものである。
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自然学校の職員に

2005年11月20日 | 日本の課題
 日本の現代社会は、何を価値観としてベースに持っているのだろうか。

 いろいろな価値観が個人的にはあるものだが、社会全体としての価値観としては、今も経済的価値観とでも言うべき『金』の有無が第一なのではないだろうか。

 そして次に価値観として語られるのが、『地位』であるらしいのである。

 過去に『モンゴル』について書いた時に、子どもたちのモンゴルの子どもたちとの交流への糸口として、手紙を出そうとしたところ、日本の子どもたちが各々質問した中から、やはり「君の家は金持ちか?」と訪ねていて、次に「お前は賢いか?」と訪ねていると記した。

 数年前に「お金や地位が全てではない」として、長年の電気会社勤めをきっぱりとやめて、何と長崎県小値賀町が募集した、「自然学校」の管理運営専任職員に応募して、29名もの応募者の中から選ばれた男が居るのである。

 その男とは、わが町に2001年まで住んでおられた、西本五十六氏(当時51歳)なのであった。

 私は深夜のテレビ番組で初めて知ったのだが、彼は京都でも『山背古道』と称する山城地域の散策道を整備して、自然志向のハイカーや活動をする人たちのネットワークづくりと活動をしていた人なのである。

 彼は、今までの普通の?!サラリーマン生活に見切りをつけて、単身、長崎県の五島列島の孤島、「野島」に渡り住んだのである。

 野生鹿が五百頭いる島で、かつてはたくさんの人たちが漁業を生業にして住んでおられた島だったらしく、今は廃校となった学校を拠点に「自然学校」を主催しながら、小値賀町から委託された島の維持管理につとめておられるのである。

 人口はわずか3人とされている島、野島なのだが、自然環境は素晴らしく、隠れキリスタンの歴史的地域でもあるので、天主堂の建物もあり、お宮さんもあると言う、海に囲まれた島なのである。

 現代の都市部に住む、多くの日本の現代人の日常生活と比較すると、大変異なった生活実態かもしれないが、自然の中の生態系に生きる多くの動植物と共に、時間の流れは同じだろうが、感覚は全く違う現代生活をされていることであろう。

 新しい「現代に生きる価値観」をどの様に感じながら、日々を送っておられるのかは、直接伺ったことは無いのだが、現代的ツールである『インターネット』を通じて、西本五十六氏の生活と考え方の片鱗は感じることができるのである。

 現代社会人に投げかけられた「ひとつの別な生き方」がここにあり、自然人。西本五十六氏が、長崎県小値賀町野島に生きているのである。
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吉岡秀隆くん。

2005年11月19日 | テレビマスコミ
 映画『三丁目の夕日』で、東大出の売れない小説家、茶川龍之介を演ずる俳優「吉岡秀隆」を皆さんは、よくご存知だと思う。

 『吉岡秀隆くん』と呼ばせていただいたのは、私が東京で音楽関係の仕事をしていた際に、「山口さんちのツトム君」のヒットで企画された、「ツトム君ファミリー」のアルバムを制作することになり、ツトム君役に当時まだ六歳だった『吉岡秀隆くん』が選ばれて、一緒に仕事をしたことがあるからなのである。

 先日、出張した埼玉県で京浜東北線を各駅停車で走っていて、『蕨』という駅に停車した際に、実は吉岡秀隆くんの出身地が蕨市であることを思い出したのである。

 彼は1970年生まれで、今年35歳の有名な俳優さんになっているが、今から約30年前1976年に、パパ役が田中星児、ママ役は現在大学の先生になった、小鳩くるみさん、ツトム君役の吉岡秀隆くんの三人が家族的に歌うアルバムを、みなみらんぼうプロデュースで制作したのである。

 吉岡秀隆くんは四歳で劇団若草に入って、映画出演や舞台出演もしていたのだろうが、私たちの『山口さんちのツトム君』のアルバム制作で歌手デビューしたのである。

 当然、山口さんちのツトム君をはじめ、虫歯の誕生日、パパと踊ろう等、数曲をとっても舌足らずのかわいい歌声で、歌っているのである。

 その後に、「北の国から」の純役や、男はつらいよシリーズの光男役などに抜擢されて、俳優を仕事とする様になり、テレビでは「Dr,コトー診療所」の主役、また映画では「学校Ⅱ、Ⅲ」や「雨上がる」「半落ち」などにも出演し、今回の『三丁目の夕日』では、またユニークな役にキャスティングされたのである。

 彼は音楽活動もしており、現在まで三枚のアルバムを制作しており、あの尾崎豊の大ファンであり、生前の尾崎とも交流があったらしいが、とにかく吉岡秀隆の歌手でビューは「山口さんちのツトム君」なのである。

 六歳の頃の「吉岡秀隆くん」と、私は一緒に遊び、肩車したりしながら、お仕事をしていただいた仲なのだが、今や内田友紀さんと結婚し、大俳優への道を確実に歩みつつある彼は、たぶん、もう忘れてしまっていることだと思うのである。

 今回、また新しいキャラクターとでも言うべき、「三丁目の夕日」に茶川龍之介役で出演する「吉岡秀隆くん」を、改めて映画館で観たいと思っているのである。
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