ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

不思議な本に出会った。

2006年09月30日 | 地域の話題
 不思議な本に出会い、あっと言う間に読みきってしまったのである。

 その本のタイトルは、「地球へのラブレター」~意識を超えた旅。著者は西野樹里、出版社は明窓出版である。

 見えない世界、エネルギーの世界というのは、驚くほど科学的ではないかと私は考えているのですが、いかがでしようか。知らず知らず踏み込んでしまった世界のそんなこんなを、もう少し気が済むまで追いかけてみようかと思うのです。

 そう「地球(ガイア)へのラブレター」の本の帯に記した著者自身から、実はこの本を手渡されたのである。

 以前より彼女の『気の力』や瞑想での世界については聞かされていたことがあるのだが、まるで「奇なる小説」を読むが如く、集中して読みふけってしまったのである。

 とつぜん体の中から鳴り響いた声に、私は棒立ちになった。
 これがその後に続く、想像だにできない内なる旅の序章になろうとは、夢にも思わなかった。

 幼い子を片腕に抱いた、買い物からの帰り道だった。「立ち止まるなーっ。前に進め、精進せよ」さらにもう一度、その声は同じ言葉を繰り返した。

 一徹な老人を感じさせたが、その声は断固として威厳があった。内側から響くものだから、逃れられないだけにただ怖ろしく、固まったまましばらく動けなかった。硬直しながら、しかし私には思いあたることがあった。

 この様な書き出しで、始まるこの本の著者は、私の10数年来の友人でもあり、近くの田舎町の町議会議員を2期、8年務めたあと、海外への旅を重ねながら、「あなたは地球に恋している」と内なる方に言われるままに、醸成期間を経て、その方の指示通り、原稿に向かう日々を没頭されて、出版された本なのである。

 彼女は6人の子どもを生み育て、一人の娘さんを心臓病で亡くされている母だが、過去世回帰、リーディング、エーテル、エネルギー、瞑想、自然農法、シンクロニシティ、守護神、ディーヴァ界、天使、進化、関係のカルマ、アカシックレコードなどについて書き込んでいる。

 アカシックレコードと称される、地球の図書館や歴史の全ての記録を覗き見しながら、自らや周囲の人々の過去世にも出会い、幽冥の境を踏み越えて、人の進化の数値化をしたり、もうひとつの世界を旅する自由人なのである。

 現代の怪談と思う人もいるだろうし、そんな荒唐無稽なことと感じる人もいるだろうが、ともかく精神世界の情報を求める人にとっては、面白く読みふけってしまう不思議な本なのである。

 自分の生命が何処から何度もの転生を繰り返してやってきたかを、彼女はまさに見ることができ、その周辺にいる人々と内なる心で会話することができるのである。

 彼女は亡くした娘さんやお母さんとも、そして太左衛門さんや妖精たちとも話ができたのである。

 私も自分の前世だけではなく、宇宙空間の歴史の中で生き続けてきた「生命」を捜し求めて、自分のルーツと対話出来ればと思いました。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SHINJYO・63の引退

2006年09月28日 | プロスポーツ
 北海道日本ハムファイターズは今シーズンの最終ゲームを札幌ドームでソフトバンク・ホークスと戦い、武田勝、ダルビッシュ有、武田久、マイケル中村の投手リレーと森本、セギノールのホームラン等で勝ち、パリーグのレギュラーシーズンの一位を決めた。

 レギュラーシーズンが終わった時点で優勝が決まるのがスポーツの常なのに、パリーグのルールで、「北海道日本ハムファイターズ」は、まだパリーグの覇者とは言えないのだが、よくも後半戦を追撃し『プレイオフ』へ1勝のアドバンスがある一位になったものである。

 北海道、札幌を本拠地にして3年目に、北海道日本ハムファイターズが25年ぶりのパリーグの覇者になろうとは誰もが予想しなかったのではないだろうか。

 メジャーリーグから帰国して入団した新庄は、何と5月早々に「今シーズン限りでユニホームを脱ぐ」と「引退宣言」をしていたのだが、『記録に残る男ではなく、記憶に残る男」としてかつてない活躍をし続けていたのである。

 昨夜は、阪神タイガースに福岡の高校からドラフトで入団して3年間、一軍のレギュラー選手になるまでの時期につけていた背番号「63」を、今日の最終戦のために同僚と球団の了解を得て、登録変更申請をして「一夜限り」のパフォーマンスをやってのけたのである。

 昨夜の成績は、空振三振、ショートフライ、セカンドゴロと3打数ノーヒットであり、福岡から駆けつけていた親父さんも「打たんでもええ」と言わしめる存在感で、チームの勝利が小笠原のミットにボールが収まって決まった瞬間、右手を外野の人工芝につけて動かなかった。

 しばらく遅れて一位通過の歓喜の輪に加わった新庄だったが、日本ハムへの入団記者会見で「札幌ドームを満員にしたい」と語った通りの「超満員のスタンド」が新庄Tシャツの赤と日ハムのユニホームの白で染まっていることに、彼自身の誇りと満足感があったことだろう。

 最終戦のセレモニーが終わった後、札幌ドームは暗転となり、SHINJYOの引退セレモニーが始まった。

 18分間もの新庄剛志の幼少期からの写真や映像がバックスクリーンに流され、まるで「結婚披露宴」の様な特別な計らいと演出の中で、背番号63の彼自身は、何を思い、何を心に描いていたのだろうか。

 外野のセンターポジションに、愛用のグラブ、リストバンド、そして63番のユニホームを脱ぎ、きれいに並べて黙って立ち去る新庄。大型ビジョンは本人直筆の誓いが写され、グランドを去る彼自身の黒いシャツにも、博多弁でのメッセージが白くプリントされていて、退場したのである。

 山口百恵の引退やキャンディーズの解散を思い出させる!(古いな)演出だった。今シーズンは打率2割5分8厘、ホームラン16本の成績なのに、大観衆の前で、素晴らしい引退セレモニーをしてもらえる選手は、今後誕生しないだろうと思うほどの「類稀なるプロ野球選手」として、記憶に残るだろう。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特別功労者表彰を辞退

2006年09月27日 | ちょっと可笑しいよ
 市議会議員として4期16年目、今までも不思議にも感じ必要のない表彰ではないかと疑問を抱いていた、市長による7年以上の議員歴に対する「特別功労表彰」を同僚議員と共に辞退することにした。

 その疑問というのは、議員として行政のあり方に異議を唱えたり、議論したり、提案したりと、市民の立場に立って活動するのは当たり前の職責であるにも関わらず、その対象である行政の長である、市長から推薦を受けて「表彰」されること自体が可笑しいと思えたからである。

 また何処の地方自治体においても、財政難や行政改革がうたわれている現状において、少なくとも、その問題指摘を市民の立場から行うべき議員が、自らの自治体財政からの支出である、公費での表彰状及び記念品を受け取ることの「無駄」である。

 今回の特別功労表彰の対象議員は何と12人で、全議員20人の6割りにも及び、初当選以来2期以上の議員は、4年ごとに表彰を受けることになっているという表彰条例の解釈に基づく、ただ歴任した年数による事務的表彰規定によるものなのである。

 市表彰条例によれば、「7年以上市議会議員若しくは助役の職にあった者、ある者を表彰し、表彰後4年を経過するごとに行うことができる。」とあり、市長はこれを遂行し、議会も無批判に、これに従って「ありがたく頂戴していた」ワケなのである。

 今回、私達の2名の議員は、以前より『特別功労表彰』を含む、自治功労者表彰や行政功労者表彰などにも疑問を感じており、市長が公費を支出する「特別功労表彰」を辞退することにしたとする『通知』を議長宛に提出し、事務当局へも「辞退」の確認書を提出した。

 市の表彰条例による対象被表彰者の推薦は、全て職責の歴任年数によるものであり、その個人の職務の市への功労の内容を問うものではなく、こうした表彰が定期的に頻繁に行われることは、住民自治の立場や行財政改革の必要性が問われる中で、ふさわしくないと判断し、表彰状及び記念品の受け取りを辞退し、議員としての市民に託された職務に専念すること改めて確認するものです。

 今後は市議会議員として、こうした市表彰条例の改正や市民のコンセンサスを得られない褒章、表彰の廃止を訴えつつ、顕著に市政や市民活動に多大なる貢献や実績のあった方への、市民が納得できる表彰や顕彰への提案をしていきたいと思います。

 という「表彰辞退の通知」という文書を議長、議会事務局及び市長公室職員に手渡して、議会定例会前の表彰式に出席した。

 既に口頭で通知していたので、表彰を受ける議員から我々2名は省かれていて、自治功労者表彰を受けられた農業委員と学校薬剤師を永年された各々一名の市民表彰の後、共産党議員3名も含む10名の議員が、仰々しく市長からの表彰を受けたのである。

 何とも奇妙な落ち着かない心境の下で、議場では感情の入らない拍手が儀礼的に続いていたが、私は拍手もすることなく見守るだけであった。

 「無駄」「無意味」な表彰は、いらない。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

YS11の引退!

2006年09月26日 | テレビマスコミ
 戦後国産飛行機として華々しくデビューしたご存知「YS11」が、いよいよ9月30日をもって引退することになったそうである。

 私も学生時代に初めて搭乗した飛行機が「YS11」だったし、何度か国内でお世話になったことのある懐かしい双発のプロペラ中型飛行機が、引退の時期を迎えたことに感慨と共に、年月の流れを感じ悲しさと寂しさを感じる。

 一番華々しく国民の目の前に登場したのは、たぶん東京オリンピック(1964年)の時の聖火リレーを北は北海道、南は沖縄まで、この戦後初の国産飛行機として、運ぶという大役を果たした時だと記憶しているが、その後は全日空での営業機として「オリンピア」の名で親しまれ、TDK等の飛行機の代名詞でもあった。

 この「YS11」という機種名は、第二次世界大戦に敗けたニッポンが、占領軍のGHQから、軍用機も含む全ての飛行機製造を禁止されて、戦後10年が経った1955年に、やっと戦前の飛行機製造のノウハウのある、三菱、富士、川崎、新明和重工業と日本飛行機、昭和飛行機の6社で、「輸送機設計研究協会」を発足させて、翌年に「輸送機のYと設計のSの頭文字とエンジン番号1と機体番号の1を併せて、「YS11」と命名したものである。

 しかし10年近い航空機国産製造のブランクのため、なかなかうまく行かず、やっと試験飛行が1962年に行われ、東京オリンピックに国産機として花を添えることが出来たのである。

 1200メートルの短い滑走路での離着陸が可能であり、日本国内の地方空港や離島の小さな飛行場との行き来を中心に活躍したことで、多くの利用者の印象には強く残っていることだと思う。

 当時は既にボーイング社やダグラス社のジェット大型旅客機が台頭していた時代ではあったが、よくも42年間に渡って、日本の空だけでなく全世界の短距離航空輸送に貢献したものだと思う。

 こうした「YS11」の製造、販売へのプロジェクトは、NHKの例の「プロジェクトX」でも放送されたことがあるが、採算ラインの300機には手が届かず、182機が製造されただけで、360億円もの赤字を残して、1982年に製造を担当した「日本航空機製造」が解散している。

 今月30日の最後の営業飛行を終えた後は、国内では青森市の「みちのく北方漁船博物館」、三沢の「青森県立航空科学館」、成田近郊の「航空科学博物館」、そして所沢の「航空発祥記念館」などに展示されるので、見ることは可能である。

 航空運賃が半額になる「スカイメイト」という制度と共に、私の飛行経験は外国産の「フレンドシップ号」と国産「YS11号」に搭乗したことが始まりで、独特のプロペラ音に飛行機の醍醐味を感じつつ、手に少し汗を握る不安も抱いて旅したことは若き日の強い思い出である。

 ありがとう「YS11」。お疲れ様!
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飲酒運転は厳罰でなくなるか?

2006年09月25日 | 日本の課題
 福岡での若い市職員による飲酒運転で、一家五人の乗った乗用車が追突され川に転落し、幼い3人の子どもの命を救おうとママが頑張ったが、三人とも還らぬ人となった悲劇から、やっと急に全国的に「飲酒運転」「酒気帯び運転」に対する厳しい対応が出てきたが、この秋の交通安全週間だけでも4000人近い運転手が検挙されるという、無法状態が続いている。

 今日のニュースによれば、県議会が酒を飲んだ運転手だけでなく、酒を提供した人やお店の店主、従業員など、運転する可能性のある人に酒を提供し、運転を止めなかった場合は、運転手と同罪に課すという条例を検討しているという。

 確かに、飲酒運転幇助罪というのは必要だとは思うが、果たして幇助したとみなされた人を飲酒運転した当事者と同罪に問うことが必要なのか疑問を感じざるを得ないのである。

 やはり当人の問題が一番であって、周りの者も気づけば「止める勇気」が必要だが、犯罪的行為者と同等に周囲の人間を扱うのは行きすぎである。

 どうすれば飲酒運転、酒気帯び運転が無くなるかは、本人の自覚とモラルが一番なのだが、携帯電話の運転中の使用なども含めて、危険な運転中の行為が後を絶たないのが現状である。

 自動車運転中のシートベルトの着用は、ここ数年で相当運転者自身のモラルとして定着した感があるが、自らの命を守るために必要との自覚が生まれたからであろう。

 しかし自動二輪などのヘルメットの着用義務は、未だに若者を中心に自分自身の命を粗末に思っているのか、かっこ悪いとして着用しない若者が多い。中には紐を首に巻いているだけで、ヘルメットを飾りの様にぶら下げている若者をよく見かける。

 いずれにせよ自分の命だけでなく、他人の命をも巻き添えにする危険極まりない状態での運転そのものを如何に防止するかを真剣に検討しなければならない。

 自動車やバイクのエンジンキーをかける時に、アルコール検出装置で確認しなければ作動しないというシステムの開発、装備が急がれる対策の一つであろう。

 また、一度飲酒運転及び酒気帯び運転が発覚したり検挙された場合は、社会的制裁としての職業の解雇や一定期間の研修を義務付けし、多大な経済的リスクを負うという処罰が必要である。

 「自分だけは大丈夫」と思っている多くのドライバーが、まだいることも事実なので、本人のモラルや自覚に訴えつつも、物理的に運転できなくなる仕組みづくりと社会的ルールが必要である。

 絶対「飲んだら乗らない」「乗るなら飲まない」の徹底を、特に営業する店も協力し、自動車のお客さんから車のキーを預かり、絶対飲まない誓約をした人にキーを返すシステムなどを徹底する必要がある。

 幼い子ども達も含む痛ましい飲酒事故による犠牲者を絶対出さない「誓い」を各人がするしかないのではないか。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イサム・ノグチの足跡と札幌

2006年09月24日 | テレビマスコミ
 今年7月に北海道、札幌市に久しぶりに行った時に、上田文雄札幌市長の今日の札幌市のまちづくりに欠かすことの出来ない、「二人の偉大なアーチストの遺産」についての講演を聞く機会を得たのである。

 その一人が世界的な空間芸術や環境彫刻家として知られる「イサム・ノグチ」であり、もう一人が世界的に有名な音楽家であり指揮者のレナード・バーンスタインであった。

 この二人は奇しくも、札幌市の依頼を受けての大きな仕事を終えた後に、この世を84歳と72歳で去るという残念な形での最大の協力を札幌市には遺産として残したのである。

 イサム・ノグチ氏が残した仕事は、札幌市の東北部にあり、豊平川の旧河川が残した三日月湖を含む約190ヘクタール、東京ドーム40個分の広さの「モエレ沼公園」を「公園全体を一つの彫刻とみなす」というコンセプトで造成デザインしたもので、1988年暮れにまとまった構想から16年経って、漸くグランドオープンしたという大プロジェクトだったのである。

 またレナード・バーンスタインも1990年から始まる若手の世界的な音楽家の登竜門的、国際教育音楽祭としてのPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティパル)ノ構想を提唱し、現在にも続く毎年7月から8月にかけての1ヶ月間、札幌でのホールコンサートやセミナーを通じて、世界の若手音楽家の鍛錬の場でもあり、市民をはじめ多くの音楽に親しむ人たちの交流の場として発展している。

 いずれも国際的な文化、芸術の偉大な先達による晩年のエネルギーが、偶然にも『札幌』の地に注がれて、イサム・ノグチの「モエレ沼公園」とバーンスタインのPMFとして、札幌市の『街づくりと人々の交流」に多大な影響を与えつつ、札幌市民の誇りとなっているようである。

 イサム・ノグチについては、知る人ぞ知る著名な日系人であるが、1904年に米国、ロサンジェルスに私生児として生まれて、2歳になって漸く母レオニー・ギルモアと父である国際的詩人であった野口米次郎の祖国、ニッポンに来日し、母の建てた茅ヶ崎で13歳まで暮らしていたという。

 しかし、日系人つまりハーフとしての風貌と母子生活の中で偏見、差別に苦しみ孤独な少年時代を過ごしていたので、母の決断で単身13歳の時にアメリカの全寮制の学校に入学し、彼の木彫りや手の器用さの才能が開花し、最初はコロンビア大学で医者を目指していたという。

 母の薦めで大学に学びながら美術学校にも通い出して、ミケランジェロの再来とまで評価され、入学三ヶ月で個展まで開くようになり、東洋と西洋の融合した芸術性を発揮しだしたのである。

 時は太平洋戦争に突入したため、彼は強制収容所に入っての生活も経験したが、パリに留学し、抽象彫刻を学び東洋への旅で再び日本にやってきて、徐々に未来の彫刻は、地球そのものを刻み込む環境芸術だとの視点からの仕事に発展したらしい。

 彼は晩年ニューヨークと香川県を行き来して、地球は石から出来ていて、人間も石に還る時が来たと言い残して、この世を去ったと言う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運動会シーズン

2006年09月23日 | 地域の話題
 秋風を朝晩感じられるようになり、運動会の練習の声が近くの小学校のグランド付近から聞こえてくる季節になった。

 今年も残暑厳しいかと思っていたが、「暑さ、寒さも彼岸まで」の言葉通りに、今朝は涼しい風を感じたが、近くの小学校の運動会が始まる頃になると少し暑さを感じる、まだ本格的な秋には間があるが、もう「運動会」と言った感じだった。

 『運動会』と言えば、二学期が始まって練習を重ねて、10月に入ってから保護者や家族、地域の人々に見てもらう「運動会」本番の開催が普通だったが、年々早くなる感じで、学校行事としての扱いも早く済ませて、秋の季節のいい時には勉強に専念させようとしているみたいである。

 市内一斉に小学校の運動会が開催され、何処でも「運動会日和」が挨拶などで語られていたと思うが、先週の中学校の体育大会同様まだ早い感じなのである。

 学校や先生方にとっては集中的に練習をさせて、運動会や体育大会という秋の学校行事を早く済ませたいという思いが、二学期始まって短期間のの詰込み、叩き込みの練習と本番になり忙しない限りである。

 児童、生徒にとっては本当に昔から運動会、体育大会を楽しみにしている子ども達が必ずいて、日頃の授業では目立たぬ、あまり勉強の方は得意ではない子どもたちでも、この運動会シーズンや学芸会、文化祭シーズンに頭角を現し活躍する子どもが必ずいる。

 今の学校現場は、「子どもが主人公」とか「個性ある子どもを育てる」とかキャッチフレーズや目標には掲げているが、決してそういう体育、文化活動に秀でた子どもたちに活躍の場をとの意識ではなく、先生たちの一応の建前に過ぎないのではないか。

 すなわち、本当に運動能力や表現能力に優れた子ども達の発表の場や活躍の場を作るというのなら、もっと子ども達の意見や発想を大事に、運動会、体育大会を開催すればと思うのだが、毎年プログラムも中身の競技も全く前年度と同じで、児童、生徒と共に「作り上げよう!」と開会式などで先生方や生徒代表が語ってはいるが、内容や手法は従来からの踏襲に過ぎないものが殆どである。

 昔の小学校の運動会は、ほんとうに地域の重大行事であり、家族揃って応援に駆けつけて、お昼のお弁当がたくさんで賑やかに楽しみであったのだが、現在の多くは給食であり家族とは別々に昼食をとるか、家に帰ってしまうのである。

 今日は、たまたま秋分の日の祝日の土曜日であったので、ご家族が校庭に応援に来られていた方が多く感じられたが、殆どが平日か土曜日開催なので、日曜日開催に戻したらいいのではと思うのである。

 現状は学校五日制と同じく、先生たちの労働者のしての要求や希望が優先されていて、決して子ども達が主人公ではない。

 もう一度、運動会を子ども達を主人公にした地域の愉しい秋のイベントに作り変えねばならない気がするのは、私だけであろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国旗.国歌の強制は違憲!

2006年09月21日 | 日本の課題
 東京地裁は、東京都教育委員会が学校行事などでの国旗掲揚や国歌斉唱の実施指針に基づく職務命令に従わなかったとして、教師401人を懲戒処分等としたことに対して教職員が東京都を訴えた裁判で、思想の自由の侵害と東京都に賠償命令を出し、強制や処分は違憲だとの判決を出した。

 国旗、国歌法が成立して以来、国会での首相答弁でも、「内心の自由を束縛するものではない」と断言されていたのに、全国各地の教育現場で「日の丸、君が代」の掲揚と斉唱を巡る強制やトラブルが続出していた。

 特に東京都では石原慎太郎知事になって以来、都教育委員会は知事の個人的見解の「公務員は国旗、国歌に従うのは当然」との姿勢を背景に、式典でピアノ伴奏を拒否したり、教師が起立しなかったり斉唱しなかった場合や生徒らへの指導のやり方まで踏み込みんで、次々と学習指導要領や校長の職務命令違反だとして、先生たちを懲戒処分する暴挙に出たのである。

 とんでもないことである。そもそも日本国憲法において、思想、信条の自由は保障されているのに、その憲法下で成立した「国旗、国歌法」を背景に強圧的姿勢が続いた。「国歌、国旗法」は、日の丸を国旗、君が代を国歌とすると規定しているだけだ。

 また「学習指導要領」は、全国的に誰もが標準的教育内容を一定水準受けられるための一定の基準に過ぎず、決して「国旗、国歌を尊重する」ことと国旗、国歌にひれ伏したり、起立したり、大声で歌ったりを強制させるものではない。

 今回の東京高裁での画期的な判決は、「日の丸、君が代が明治時代以来、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として使われてきたことは否めないとはっきりと判決文で語り、思想、良心の自由は、公共の福祉に反しない限り、憲法上で保護すべきものであるとしている。

 つまり「日の丸、君が代」への異議や対応に対しての処分は憲法違反であり、教育委員会や都の裁量権の範囲を逸脱した違法的行為だと判断したのである。

 結局、裁判長は原告一人当たり、内心の自由、思想、信条の自由を侵され、職務命令違反として処分を受けた精神的な苦痛や心情に対する補償としては、少なくとも3万円を下らないとして、原告全員に東京都が賠償金を支払えと命じたのである。

 自民党総裁として安倍晋三氏が選出された翌日に、このような判決が出されたことはグッドタイミングであり、26日に次期首相に選出される安倍晋三が政策として第一に掲げた「教育基本法の改悪」の背景にも大きな棘になるのではないかと期待したい。

 安倍次期首相よ、教育内容にまで言及したり異議を唱えている貴方こそ、現在の教育基本法違反であり、政治的権力で教育を歪めようとしている犯罪的行為者なのだ。

 難波孝一裁判長は、「通達は不当な強制にあたり、憲法が認める思想.良心の自由を侵し、教育基本法にも違反する」と明確に指摘した、原告全面勝訴の判決を言い渡したのだが、東京都教育委員会は控訴し、安倍首相、石原都知事をバックに、まだ戦うつもりでいる。

 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木を植えましょう

2006年09月20日 | テレビマスコミ
 私の友人でもある今年80歳になられるヨガのK先生に久しぶりにお会いした。

 議会が終わっての帰り道、ちょっと頭を入れ替えたくて、時々駅前の喫茶店に足が向くのだが、この日もマンゴージュースをオーダーして、禁煙席に腰を下ろして新聞を開ろげようと思ったら、隣の席に深く帽子をかぶった初老の紳士がいたのである。

 「しばらくです、お元気ですか」と声をかけて話こんでしまった。

 先生は、京都山科の学校体育館での熱心なスポーツ講座を続けておられる地域のリーダーに頼まれて、ヨガの指導に出向かれる前だったのである。

 30分ほどの会話の中で彼は今週末から約2週間、ヨガの聖地でもあるインドを再び訪ねる旅に出られるということで、益々お元気な80歳なのである。

 話の流れで、「正木高志さんを知っていますか?」と聞かれてたのだが、名前は聞いた記憶があるが、「どういう方かは存じません」と答えると、彼の人となりを語ってくれ、ともかく面白いパワーと独特の価値観を持った男で、「木を植えましょう!」という運動を続けているというのである。

 まさに、現代版の「木を植えた男」だなと私は感じて嬉しくなったのである。

 20年ほど前に私が出会った絵本とアニメ映画に、「木を植えた男」があり、フランスの作家、ジャン・ジオノの原作で、フレデリック・バックの絵の感動的な作品を思い出したのである。

 エルゼアール・ブフィエという男が55歳になった時に、せめて死ぬまでに何か世のためになることをしたいと、フランスのプロヴァンス地方の荒れ果てた山中に、毎日どんぐりの実を植えていき、彼が亡くなった数年後には、見事な森が生まれたという話なのである。

 この話を奥さんから薦められて読んだという、新井満氏は特別な感動を覚えて、作者に会えればとフランスに奥様と二人で訪ねられたが、作者のジャン・ジオノは既に亡くなっていたので、彼のお墓を訪ねてお参りをし、ご遺族に会われたという。

 彼らは二人はね帰国後「木を植えた男を訪ねて、プロヴァンスの旅」をモチーフにした、エッセイと写真集を刊行された。

 ともかく「木を植えましょう!」と呼びかけて実践しているという正木高志なる人物と、ご夫人と娘さんによるコンサートとトークが全国各地で行われているらしく、日本版の「木を植える男」になっているようである。

 今年の夏の内モンゴルツアーの行き帰りにも、日本人の「緑の十字軍」の様なグループに飛行機で出会ったが、鳥取大学の砂漠研究の大御所であった遠山先生の影響もあって、中国各地での植林ボランティアも盛んに日本人によって行われている。

 正木高志さんの話に戻るが、彼のもうひとつの著書「出アメリカ記」もとっても面白い本だと教えられたのだが、ヒッピー文化の源である、インドに60年代に行き来した正木氏が80年代に熊本で帰農し、アメリカ的なものからの脱出を訴えて、環境問題と木を植える運動に没頭されているらしく、益々興味深い人だと感じて実際に出会いたいと思った。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロビーコンサート!

2006年09月19日 | 地域の話題
私はとある町の市議会議員をしているので、このブログも政治家のブログあるいはホームページとして紹介されていて、知る人ぞ知る「ガリバー通信」となってしまっている。

 決して隠れているわけでもないし匿名のつもりでもないが、「ブログ」という自由な毎日の日記風の記述をしているだけなのだが、時には「議会や政治のこと」が書かれていることが少ないと、ちゃんと議員活動や政治に関わる言動があるのかと皮肉を言われることもある。

 あまり私個人は政治家なぞという意識で書いてはいないのだが、あまり一般的な社会の日常生活の一こま、一こまを自分らしい感想や批判を書いていても、やっぱり議員としての仕事の角度の発言や行動がたまには見えないと、皮肉交じりの批評をいただくことになる。

 今、実は9月定例会の真っ最中であり、私の所属する建設経済常任委員会ではないので、委員外委員としての傍聴を朝から夕刻までしていたのである。

 午前の委員会が終了し昼食を階下の食堂でと階段を下りていると、下から何やら愉しそうな音楽が聞こえてきたのである。

 月に一度、数年前から市役所の2階ロビーの一角のフリースペースと言っても、決して充分な舞台や空間があるわけではないが、アマチュアの市民や音楽愛好家たちの申し出で行われている「市民ふれあいロビーコンサート」の開催日だったのである。

 今日の出演者はクロマチックハーモニカのグループで、約30人ほどのお客さんがいたのだが、市職員が笑顔で私にも「プログラム」と「アンケート」を配布してくれたので、座席について鑑賞することとなった。

 クロマチックハーモニカとは、普通の複音ハーモニカとは少し異なったもので、スライドボタンを押すと半音階(クロマチック)を出せるハーモニカであり、どんなキーの音楽も、一本のハーモニカで演奏できるという優れものなのである。

 演奏された曲は、ムーンライトセレナーデ(グレン・ミラー)、スターウォーズ組曲、大きな古時計、さとうきび畑、地上の星、セントルイス・ブルース・マーチなどであり、カラオケの演奏と併せてソロの男性と女性三人での演奏があった。

 心地よいリズムと音色は素敵な音楽だったが、市役所の玄関の出入口付近であり、音楽など関心のない業者の出入りや周りの人々の行き来もあり、決して音楽を聴いて愉しむ最適な場所ではなかった。

 隣にいた知人の文化活動で活躍されている女性も、この時を愉しみながら、市の「文化施策」としての特に「文化ホール」や「展示スペース」の不足を嘆いておられ、「寂しい」「悲しい」と言葉を重ねて、私にも語りかけてこられたのである。

 私は9月議会の一般質問でも、今までの機会ある度に十数回以上、「音楽ホール」や「文化ホール」の必要性を訴え、計画を要望しているが、またも同様の市民の声を聞く機会ともなったのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする