ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

人生の特等席

2012年11月29日 | ファミリーイベント
 先日の勤労感謝の日に記したと思うのだが、自分への勤労を感謝する意味もこめて、久しぶりに妻と映画を観に行った。
 
 最初は私たちの世代の男性の永遠のマドンナでもある吉永小百合主演の「北のカナリアたち」を観よう思ったのだが、妻は気乗りではなく、いずれテレビでも放映するから「ええわ」と誘いに乗らないので、妻も若い頃からよく知る、クリントイースドウッド主演の「人生の特等席」を観ることになった。

 古くは1960年代のテレビに登場していた懐かしの「ローハイド」にも出演していたイースドウッドなのだが、その当時のモノクロテレビを通じての小さな画面だったが、かっこいいロディというカウボーイ姿はとても魅力的な俳優だと、多くの日本の視聴者がファンになったことだと思うのである。

 このロディというニックネームは、ROWDYつまり「荒くれ者」という意味であるのだが、テレビ西部劇として約7年間にわたり150話近くが製作された人気シリーズとなったので、イースドウッドの知名度と人気は世界的に高まり、その後イタリアに招かれて「マカロニウエスタン」の代表作ともなった「荒野の用心棒」に出演し、「夕陽のガンマン」「続夕陽のガンマン、地獄の決闘」と都合3作のセルジオ・レオーネ監督作品で、名無しの男を演じヨーロッパでの名声を得て、アメリカに逆輸入された形で、その後は「ダーティー・ハリー」シリーズで型破りの刑事、ハリー・キャラバンを演じて、人気アクションスターとしての地位を不動のものとしたらしい。

 彼は、映画制作会社設立し、監督業と俳優をこなして、「許されざる者」や「マディソン郡の橋」「ミスティック・リバー」等を製作し、「許されざる者」では、アカデミー賞の監督賞、作品賞を受賞し、2004年の「ミリオンダラー・ベイビー」で二度目のアカデミー賞、作品賞と監督賞を74歳という最高齢で受賞している。

 2006年に「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」を製作し、日米双方からの視点で太平洋戦争を描き、ゴールデン・グローブ賞、最優秀外国語映画賞を「硫黄島・・・」で受賞している。

 今回の「人生の特等席」は、老いたメジャーリーグのスカウトマン役であり、スタッフとしてではなく俳優としての4年ぶりの出演であるが、82歳という高齢での演技は渋くて見ごたえはあるのだが、ロードショーの映画館でのアップ画面は、少々皺が多すぎて厳しいところたが、映画に対する並々ならぬ情熱と人間性はすばらしい表現者としての姿からにじみ出ている。

 彼は、政治的活動にも積曲的で、1986年にはカリフォルニア州の西海岸のカーメル市の市長に当選し、1期2年間だけ市長を務め、その後も民主党のカリフォルニア知事の退陣を迫る投票を呼びかけたり、民主的な政治家の政治参加を求めるテレビCMを製作したりし、2003年5月には開戦したばかりのイラク戦争に対して、「極めて重大な過ちを犯した」と批判したりもしている。

 話は「人生の特等席」に戻るが、野球好きな私にとっては、とても楽しくもあり、また幼い時に別れてしまった娘との再会、そしてその娘が老いた父を労わりながら、少しづつ自分の父との7わだかまりを解消しつつ、昔父がスカウトしてメジャーリーガーになった男だが、肩を壊して現役選手としてはリタイアしている青年との恋に何とかゴールインし、父としてのイースドウッドが車ではなく、バスで一人で帰るといったラストシーンで終わるのである。

 老いて目がしっかりと見えなくなった主人公は、娘が幼い頃に連れまわした野球場や試合の状況から、いつの間にか野球通になっていて、彼女が最後には無名の選手のスカウトをして、球団関係者を唸らせるという「おまけ」もついていて、さすがアメリカ映画のサービス精神も兼ね備えた秀作であったと思う。
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何と、角福戦争の再来?

2012年11月28日 | ちょっと可笑しいよ
 衆議院総選挙まで後1週間ちょっとしかないところまで来て、突然の如く嘉田滋賀県知事がたちあがった様な形で「日本未来の党」なる新党が生まれ、ともかく「卒原発」をスローガンに総選挙を戦い、小選挙区を中心に100名もの候補者を立てるということになった。

 今回の総選挙を前に、何とも理解に苦しむ様な「少数政党の林立」が始まり、一時は既成政党も含めて14党や15党という多数の政党による国会議員選挙という史上稀なる選挙戦が予想されて、マスメディアは連日各政党の特徴、主張などの違いを報じようとしているのだが、国民有権者には、まるで競馬レースの○頭立ての様な感じで、どの馬が本命なのか対抗馬なのか、それとも穴なのか、全然見当がつかないと言った様相を呈していた。てか

 そんな状況の中で、第三極と称されている自民、民主の二大政党とは異なる既成政党以外の新興勢力的政党間での連携や協力といった選挙の前哨戦的駆け引きや話し合いが行われていたらしく、石原慎太郎氏と橋下徹氏がタッグを組んだを日本維新の会一派と袂を分かつ勢力の結集を図るべく誕生したのが、「未来の党」というわけである。


 確かに昨年春の東日本大震災てという未曾有の大災害を受けてメルトダウンをおこしてしまった、東京電力福島第一原子力発電所の1号機から4号機の破滅的な事故による、放射性物質の飛散、拡散の影響は多大であり、いまだに故郷の住み慣れた場所へは帰れない人々が多くおられる中、政府民主党はマニフェストで一応2030年代での原発ゼロを目指すとしているが、自民党にいたっては経済界の強い要望もあってか、これから3年間で原発に依存しないエネルギー政策を考えるというお題目を唱えているに過ぎない。

 そんな両党はともかく、共産党や社民党などの既成政党の中では、政策公約としての原発ゼロや脱原発を掲げる政党はあるものの、すでに手垢がついた政党とのイメージも強くて、国民有権者の中に多くの不安と共に、いったい誰がどの政党が「原発を無くして代替エネルギーへの移行」を強力に進めてくれるのか甚だ疑問だし、今回の総選挙では投票できる政党がわからないという声さえあったのである。

 そうした衆議院選挙を前に、何と水面下であの小沢一郎氏が動いていたらしく、約2ヶ月前から今回の嘉田滋賀県知事とは会っていて、数日前の未来の党の記者会見から数時間後には、既成事実の様に「国民の生活が第一」という自らの党を解党し、嘉田知事を代表とする「日本未来の党」に合流を決めたのである。

 何とも手際のいいと言うべきか、それとも自分は表に出ないで影の人として演出しようとしているのかは定かではないが、結局は小沢新党だと揶揄されるに至る様な工作というべき働きを、実は小沢一郎氏がまたもやしていたわけである。

 実は、自民党時代の小沢一郎氏は若くして党の幹事長という要職を担うなどの大物ぶりを示していたのだが、全ては時の首相であった田中角栄氏の下での政治家としての出世でもあり、当時の自民党内での「角福戦争」とまで言われた福田赳夫氏一派に属していた感のある石原慎太郎氏とは因縁の仲、つまり犬猿の仲の延長なのである。

 つまり、第三極を目指す少数政党が乱立する中で、如何に主導権を握れるのかという権力闘争が、水面下で行われていて、ついに小沢一郎はクリーンなイメージが強い、女性であり卒原発を主張する嘉田滋賀県知事を説得し、河村名古屋市長や山田元農水大臣などの民主党離党組の中でも著名な政治家と共に、坂本隆一氏や脳科学者、加藤登紀子などの有名人や稲盛京セラ会長なども登場させて、イメージアップを図ろうとしているのである。

 結論的には、私自身は卒原発という目標には賛成なのだが、その目的のためには日本未来の党を支援するかと問われれば、別次元の話と思えてならないのである。

 角福戦争の再来などと揶揄される様な権力闘争では、日本の未来は決して安心できる暮らしの国とはならないと思うからである。
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マラソン日和!!

2012年11月26日 | イベント
昨日の日曜日はとてもいい天気に恵まれ、関西でも大阪マラソンと神戸マラソンが開催されて、在阪の民放局のアナウンサーやタレントたちも多数参加し、思い思いのレースを楽しんだらしく、昨夜から今日にかけて、その模様があちこちで放映されていた。

 私は三連休とはいえ金曜、土曜日はいつもの有機八百屋の仕事でだが、走っていたのきなかったのだが、日曜日は妻と久しぶりの日帰り旅行で小豆島寒霞渓紅葉バスツアーに参加したが、小豆島でもタートルマラソンと称したマラソン大会が行われていたらしく、全国各地でこの秋から冬にかけては、一般参加が出来るマラソン大会が目白押しの様である。

 先週の勤労感謝の日にも福知山マラソンが開催され、私の友人も日頃の練習の成果を発輝し完走したらしいのだが、これだけ多くのマラソン大会が開催されて、初心者ランナーの参加も多く、途中で足が痛くなってリタイアする人もいて、必ずしも42,195キロの長距離を誰もが完走できるわけないのだが、マラソンブームとなってしまったために十分な練習や準備もせずに参加して大変な目にあった人も少なくないという。

 昨日の大阪マラソンには3万人以上、神戸マラソンにも約2万人が参加したらしいが、闇雲に走りたいから参加するということでは、参加者だけでなくボランティアや大会関係者に大変な迷惑をかけてしまう場合もあるのではないだろうか。

 来週の12月になってからも沖縄のNAHAマラソンが開催され、私の息子のパートナーであるRさんが参加し完走を目指してるが、彼女は先月のハーフマラソンでは2時間20分台で走っているので、今回はたぶん5時間を切る記録でゴールインできるだろうと思うが、何せ沖縄なので直接応援にかけつけることは出来ないので、テレパシー?で彼女の走りを応援したいと思っている。

 また、私の孫のK君も今週末に小学校でのマラソン大会が予定されていて、彼自身は日頃毎朝の如く4,5キロの距離を20分ちょっとで走れてるとのことなので、ベストテン入りを目指して張り切って走ることだろうと思うが、このミニマラソン大会も私は仕事で応援することはきできないが、娘と妻がたぶん声援をおくって彼の快走を期待できそうである。

 いずれにしても、全国各地でのマラソン大会に参加する人たちは、まず参加希望にノミネートして抽選で参加が決まれば、参加費として1万円から5万円ほどの支払いをし、その上遠隔地の開催地の場合には前日からの現地への旅費、宿泊費なども負担し、中にはご家族や仲間が応援にかけつけるケースもあり、さらに経済的な負担が必要なのだが、とても強いマラソンへのモチベーションを持つ人が多くて、ともかく42キロ強を走り終えた時の達成感と充実感は、一度経験すると病みつきになるほどに魅力あるものだと言うのである。

 今後も12月9日奈良マラソン、そして日本人が参加者の約半数以上だというハワイのホノルルマラソンも年内に行われる予定だが、来春にも2月3日に大阪淀川寛平マラソン、そして地元京都マラソンが3月10に予定されているし、4月21日には四国のとくしまマラソンが予定されている。

 私はといえば、いずれはマラソンを走ってみたいとの希望を抱きつつ、現在は週に二回は市内のジムで約二時間、歩いたり走ったりで約5キロとエアロバイクで約15キロをこいで、およそ500から600カロリーを消費しての基礎体力の強化に努めていて、この秋から冬にかけての期間に、自分の体力の強化と共に、いずれマラソンを走れる脚力と持続力を身につけようと思って、可能性に向けて夢を抱いて汗をかいてるのである。
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勤労感謝の日

2012年11月23日 | 感じたこと
 今日は「勤労感謝の日」という祝日なのだが、誰が誰に対して感謝してくれる日なのか、昔からはなはだ疑問なのである。

 日本の国民の祝日として戦後の昭和23年に出来た祝日法によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民が互いに感謝しあう」ことを趣旨としているらしいが、農業国家であった日本は、古くから神々に五穀の収穫を祝う風習があり、秋のその年の収穫物は国家としての一年を養う大切な蓄えとなることから、収穫物に感謝する大事な行事として、飛鳥時代の皇極天皇の時代にはじまったとされる「新嘗祭」という日が第二次世界大戦、つまり太平洋戦争の敗戦後のGHQの占領政策による天皇行事や国事行為から切り離すとの目的で、形を改めて「勤労感謝の日」となったらしい。

 日本における祝日の多くは、いまだに天皇主権の時代の名残とも言える形のものが多く、果たして国民の勤労に対して国が感謝したり、また家族が働き手であるお父さんやお母さんに感謝する日としての意味合いは少ない様で、どうしても何が勤労感謝だと自問自答している向きも多いと思われるのである。

 特に定年を迎えて、毎日が祝祭日だと自認されているご年配の方々にとっては、かつての働き人だったにもかかわらず、妻や息子や娘からも粗大ごみや濡れ落ち葉の如くあしらわれているのではないかと、とてもさびしく悩まれている方の声をたまに耳にするのだが、もう少し働きづくめであった労働者、特に定年後のおじさん族に対して、暖かなまなざしと共に労わりの気持ちを表わす、そんな勤労感謝の日であってほしいと、今朝ある方のフェスイブックのつぶやきコメントを見て感じた次第である。

 ともかく、今日は私にとっても久しぶりの半日の休息日となる予定なので、早朝からのいつもの週末八百屋の仕入れから帰って、夕刻の営業に向けての準備までの貴重な時間を、自分自身の今までの勤労?に対する、せめてもの感謝?と、プチご褒美の印的なことをしようと思い、久しぶり映画鑑賞に行こうと妻を誘ったのである。

 今日は金曜日で、映画の封切り日でもあり、今日から上映される邦画、洋画の中であの名優であるクリントイーストウッドが17年ぶりに主演するという、「人生の特等席」というタイトルのアメリカ映画を観たいと思っている。

 名優だが、人生半ばで市長になったり、もう映画には出演しないとも言っていた82歳になる老齢のイースドウッドが、メジャーリーグのスカウトとしての晩年の姿を演ずるというストーリーらしいので、野球好きな私にとっても楽しめる人生ドラマだと思い、期待して楽しみたいとおもっている。

 二階の自室でこのブログを書いていたら、下から妻の声がして、「行けるで!」、それでは勤労感謝の日のささやかなイベントとして、人生の特等席を観に行って来ます。

 帰ったら、夕刻からいつもの仕事が待っていますが、しばらくの骨休め、半日の休日を楽しんできたいと思います。
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性善説か性悪説か

2012年11月22日 | 感じたこと
 朝の連続テレビドラマを時計替わりに見ていたら、今朝は何故か性善説か性悪説かという考え方の違いを主人公たちが話していたので、最近の仕事を通じて日頃感じていることについて記そうと思った。

 自分自身の心の中にも、決っして善なる心だけが宿っているわけではなく、時には何故にそんな考え方をしてしまうのかと自問自答しつつ、自分の心根とも言うべき価値観やモノの考え方に嫌気を感じること、すなわち悪なる気持ちがよぎることもあるのだが、私自身は出来うればという条件つきなのだが、性善説的考え方で生きたいと思っている一人だと信じている。

 この性善説と性悪説は、決して人の本性は善であるとか人の本性は悪であるという簡単なものではないと思うのだが、性善説は孟子が首唱したとされているのだが、人間は善を行うべき道徳的な本性を先天的に具有していて、悪の行為はその本性を汚損、隠蔽することから起こるとする説であり、性悪説とは人間の本性を利己的欲望とみて、善の行為は後天的習得によってのみ可能とするという説であり、孟子の性善説に対して旬子(竹冠でなく草冠)が首唱したとされている。

 いずれにせよ、この地球上に70億有余の人間が生存していて、ある種の競争社会を形成しているのだから、とにかく自分が生きて行くための手立てや知恵がこの世に誕生してから習得せざるを得ないのかもしれないのだが、ともかく最近問題視されている学校でのいじめ問題だけでなく、テレビ、新聞、週刊誌、インターネットなどを通して知る事件のニュースのほとんどが、何でこうなるの?とでも言いたくなる様な、殺人、虐待、ストーカー、詐欺、脅迫、盗み等の事件のオンパレードである。

 実は先日、近くのスタバでコーヒーを飲みながら、プチ贅沢な読書の時間を楽しんでいたら、隣の席に陣どったおばちゃん(失礼)三人組の話し声がもろ聞こえてきて、やかましいくらいだったのだが、その話の内容がたぶん何処かのスーパーか何かのパート従業員同士の悪口としか思えない内容で聞くに堪えない他人の批判ばっかりであった。

 誰もが仕事や生活、日常に不満を抱いているのかもしれないが、その原因は決っして自分の努力の足りなさとか自分の性格や考え方が原因だとはほとんどの人は思っていないのかわからないのだが、すぐに他人のせい、つまり上司や夫や妻が悪いと自分勝手に感じている場合が多いようである。

 私が毎日訪問しているお客様のご家庭でも、ほんの少しなのだが何故にそうなるの?感じている事象があって、人間は何故に親しい家族の一員に対してさえ、きつく当ったり厳しく怒ったり批判攻めにしたりするのだろうかと自問自答せざるを得ない現実を見てしまうのである。
 
 一例はあるご年配のおかぁさんなのだが、息子夫婦と同居されてはいるが、ご本人曰く「袋の鼠の生活」とまで言わせる不自由かつ一部屋に閉じ込められた様な日々を送られていて、お気の毒にとしか言い様がないのだが、ある旦那さんは一見品のいい奥様との二人暮らしなのだが、私と会話している時の奥さんと玄関先を出てからしばらくして聞こえて来る、奥さんが旦那を鋭く叱っておられる声のギャップが大きく、何とも言えぬ思いで、その家を後にすることがあるのである。

 どんな家族でも長年の生活を通じて遠慮なく言いたいことを言いあったり、ちょっとしたけんかをすることはあるだろうが、自分自身がしてほしくないことは他人もしてほしくないはずなのだから、他人ばかりを叱ったり批判したり怒ったりせずに、少しはやさしく穏やかに過ごせたら、どんなにか日々が楽しく幸せに感じられるものかと思うのである。

 たいそうなテーマの割には平凡な結論なのだが、ともかく人間は性善説的に生きた方が、間違いなく幸せであり、無駄な労力や嫌な気分を少しでも味わうことが少なくて済む気がしてならないのである。

 もっと人は優しく穏やかになれるはずである。自分の置かれている境遇や環境に感謝して日々を心豊かに生きたいものである。
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軍隊と徴兵制

2012年11月20日 | ちょっと可笑しいよ
 いよいよ、師走の総選挙へまっしぐらと言う感じの選挙戦が実質的に始まっていて、ポスターや事前運動的選挙活動が俄かに全国で行われている。

 テレビマスコミを含む主要メディアは、13党から15党に及ぶ少数政党が林立した選挙戦となるとの見通しから、各党の政策の違いは何かと連日報道合戦を繰り返しているが、消費税、原発、TPP問題などを中心に比較はされているのだが、私は肝心要の日本の将来の平和を如何に守るかという観点での政策的違いがほとんど説明されていない様に感じている。

 中でもいつのまにやら野合とまで言われている橋下徹大阪市長が率いる日本維新の会と石原元東京都知事が率いる太陽の党が合併し、石原慎太郎氏が新日本維新の会の代表となり、橋下徹氏は代表代行という形になったとされる「維新の会」が何故にそんなにもてはやされるのかが
判らないのである。

 確かに従来の官僚機構や行政の枠組みをぶっ壊して、何かやってくれるのではという庶民の期待を抱かせる様な、独特の橋下徹氏のタレント性とでも言うべき挑戦的物言いは、時には頑張れと言いたくなる気持ちにさせられるのは理解できるのだが、彼と石原慎太郎氏が組んで国政に挑戦する新しい政党とは、実は日本に軍隊を保有し、徴兵制をひいて世界と、つまりアメリカとも中国とも対等に戦える国としたいという野望を抱いている二人の輩の野合に他ならないのではないだろうか。

 とてもきな臭いとでも言うべき、この二人の右翼的保守政治家が、混迷している二大政党化時代を迎えた現代に、何故か第三極、いや当人らに言わせれば第二極を目指して、国政での一定の議席数、今回の総選挙ではまず50議席から70議席を獲得して、一定の発言力を確保したら、石原老体代表は退いて、橋下徹氏が代表として国会に参戦して、いずれは首相を目指すとされているのである。

 とても危ういことであり、威勢のいい啖呵やスローガン、そしてマスメディアをうまく使っての自己宣伝に長けた橋下現大阪市長が、最終的に目指していると思われる国家観とでも言うべきビジョンの全貌はなかなか示されてはいないのだが、彼の野望とイメージする日本国は、とんでもない憲法改悪と戦争が出来る国ニッポンの実現ではないだろうか。

 今回の選挙のスローガンを見ていて気づいたことが、もうひとつあるのだが、あの戦後の日本をいい意味でも悪い意味でも長年の政権で築いてきた自由民主党、つまり自民党が再び日本を立て直すと言っているし、創価学会公明党も何故か日本再建と称したポスターを掲示していて、やはりこの自民、公明の二党は名前は違うが二人三脚の別働隊であり、再び日本を利権と権力のマッヂングで、バブル期をもう一度ではあるまいが、経済大国を目指している用でる。

 いずれにしても、確かに山積する日本の課題は多いことは間違いないが、目先の消費税、TPP、社会保障、少子高齢化、経済不況という問題などへの政策の議論も大切だが、原発の是非、教育の将来、そして何よりも日本が再び戦争が出来る国へと変貌させることが出来る憲法改悪などを目論んでいる勢力などを見極めて、目先の「頑張っている」とか「やってくれそう」などという印象だけでの期待はやめるべきではないだろうか。

 ぜひ、日本の将来、子供や孫たちの生きる時代をどのような日本にしたいかを見定めての、しっかりと見据えた大人の賢い選択を、来る総選挙にはしていただきたいと強く思うものである。
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明日衆議院解散!!

2012年11月15日 | ちょっと可笑しいよ
何やら、政権政党の民主党と野党第一党の自民党との出来レースの様な「衆議院解散!」という日程が突如、昨日の党首討論の最中に野田首相の口から条件付で飛び出して、一気に総選挙が12月16日に行われるという日程まで、明日の衆議院本会議での解散のイベントまでに報じられるという茶番劇が行われている。

 2009年の8月に政権交代という日本の政治史上では画期的な出来事が生じて以来、たった3年2ヶ月余で、鳩山、菅、そして野田首相と三人の民主党代表が首相となって悪戦苦闘してきたのだが、埋蔵金目当ての大判振る舞いの感の強かった選挙時の民主党マニフェストによる子ども手当、高速道路無料化、高校無償化などの有権者に都合のいい耳障りの良い政策と言うか公約のほとんどが頓挫したり出来なかったりした代わりに、マニフェストにはなかった消費税の値上げという決断を強引にやってのけたつけは、民主党という与党から国民の生活第一をはじめとする離党者が続出し、解散を前に民主党は衆議院での過半数割れという事態になっての総選挙という最悪のシナリオとなった様である。

 昨日の野田首相と自民党の安倍総裁の党首討論という名のパフォーマンスにおいても、実際のところの党首間の議論というよりも、あらかじめ用意された台本があるが如きシチュエーションで、突然に野田首相が「憲法違反といわれる衆議院の選挙区の改正を最悪の場合でも来年の通常国会で協力して改める確約をしてくれるのなら、年内解散を考えても言いというのならまだ判るのだが、突如2日後の解散を示唆したのは合点が行かない。

 というよりも、国民、有権者の多くがテレビ報道の街頭インタビュー等で答えている様に、支持率が20パーセントを下回った民主党野田内閣なのだから、どう粘っても早々に解散せねば示しがつかない状況に陥ちいっていたことは事実なのだが、もう少し国民に対して明確な理由と説明を首相が示しての解散へとプロセスを明確に示してほしいものである。

 いずれにしても、来月に行われることになった総選挙だが、下馬評とでも言うべき週刊誌や新聞の大胆な予想では、その大半が自民党の勝利と民主党の惨敗を予想し、第三極と言われている橋下徹代表の日本維新の会めぐる連携の模索は、みんなの党、太陽の党、減税日本などが大同団結することは難しく、何が何やら小さな政党が雨後のたけのこの如く林立する選挙となりそうである。

 議会制民主主義という日本の衆参両院を中心とする民主主義的議会制度というのだが、何とも何が民主主義なのかも含め、新たに有権者国民がしっかりと考えて、新たな統治制度とも言うべき、首相公選制や政党条件の緩和による立候補の可能性の拡大なども行わないと、一有権者がお国のためや地域のまたため、また未来を担う子供たちのためになどと決意して国会議員になろうとしても、まず立候補自体が困難である。

 日本維新の会だけではないが、すべでの政党、グループは如何にマスコミを中心とした媒体に頼らざるを得ない様な、ネームバリューが優先し、その候補者の思いや政策、そして人間性などはほとんど問題にされずに、どれほど著名か有名かで議員になる可能性が決まると言っても過言ではないのではないだろうか。

 インターネツト時代に突入している現代なのにも関わらず、いまだに選挙でのネット利用は制限されているし、個別訪問をはじめとした公職選挙法で禁止されたり制限されている、候補者の行為の内、当然票の買収行為などは厳罰が必要だが、それ以外はアメリカの大統領選挙や先進的な活動が明確により自由にされるべきだと痛感している。

 ただし、立候補者に金銭的余裕や支持的母体の地域や団体がなくても、一定の推薦者がいれば公費で選挙が戦えるくらいの、大幅な選挙の改革、または選挙制度の抜本的改革なども必要であり、権力指向や自己顕示欲の塊の様な候補者ばかりの選挙では、行く末の日本の民主主義は、たぶん今よりも悪い状況となってしまうのではないだろうかと最大の危惧を感じざるを得ないのである。
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日本人の宗教心

2012年11月13日 | 感じたこと
 たいそうなタイトルとなっているが、日ごろ感じていることのひとつに日本人の信仰心や宗教観はどないなってんねんという感じがあるので、ここに少し記すこととした。

 今朝も仕事で通る、いつもの街中の小さな寺院の玄関先に掲げられた看板に「阿弥陀様は、暗くて長い夜にも明るく照らす言葉を持っておられるという意味の言葉が書かれてあり、私はクリスチャンの端くれなのだが、そうか仏様はいつも私たちを明るく照らして下さっているのかと自問自答しつつ、次のお客様のところに伺った。

 その家の80過ぎのおばあさんは、私が近くのお寺の玄関先に掲げられた仏の言葉と思われる掲示に思うところがあると話すと、自分は大して信仰心もなければ、お寺やお宮さんに行くこともほとんどないのだが、お葬式とか法事だけは何故か仏式で行うと安心できるので、そうしていると仰るのであった。 

 確かに言葉は悪いが「葬式仏教」と呼ばれる様な要素があって、日頃はさほど仏教徒らしい生活や信心を形で行うことはないのだが、弔いごとや故人を偲びまつりごとをする時だけは、仏式で行うと落ち着くという感じの人が多い様である。

 世界三大宗教と言われている「キリスト教、イスラム教、仏教」の中では日本人の多くが仏教徒かと思われる様な部分はあるのだが、決して信心深い仏教徒としてカウントされているとすれば、本当かなと思う様な日常生活を送っている人も多いと思われるのである。

 キリスト教国とかイスラム教国と呼ばれる国々、または民族の大半がそうした宗教心で日常生活を送っている国や地域に生きる人たちの日常は、まさに○○教徒と呼ばれることに不思議がないほど、身なりから時間の使い方、礼拝の持ち方まで普通の感覚で生活の中に溶け込んでいるセレモニーが行われているのである。

 アメリカやヨーロッパのキリスト教徒の日曜日の教会と礼拝、アジアも含む中近東を中心とするイスラム教徒のモスクと礼拝や儀式の数々、ラマダンと呼ばれる断食の期間など、それぞれの日常生活の中で、彼らは普通の如く宗教的掟や儀式を守っていることが多い。

 日本人だけではあるまいが、特に熱心と呼ばれる信者の人々を除いては、お寺やお宮さん、教会などでで定期的な祈りを捧げている人は、たぶん日本人の人口の1割にも満たないと思われるのだが、日本国中に寺院、神社、教会と名がつく礼拝所はともかく多くあり、ちょっとした人が住む地域には必ず、何らかの教会、寺院、神社があって、その地域の守り神や宗教的集会場だけでなく、地域の寄合場的場所にもなっているところが多い。

 日本国内の宗教法人格を持つ団体は何と20万社以上あって、そのいずれの団体もが届けている総信者数の合計は、何と日本の人口をはるかに超える2億数千万人に及んでいるらしく、一人でいくつもの宗教団体、グループにカウントトされている人がいるということで、どうやら法人としてのメリットの最大の要素である非課税なるものに利用されていると言う状態ではなかろうか。

 日本人の多くは地球上に生まれ生まれた時は無宗教な状態なのだが、お宮参り、七五三は神社で行い、結婚式は流行の?キリスト教式で、そしてお葬式と法事は仏式でという様は、如何にも日本人らしいのかもしれないが、果たして人の一生を支えてくれるはずの心の価値観としての宗教心が、こうまでいい加減な状況に陥ったのはどうしてであろうか。

 私自身は18歳でキリスト教の洗礼を受けて、50年近くの人生をクリスチャンと自認して生きているつもりだが、決して寺院や神社での礼拝や儀式を非礼にすることはなく、今も他の人たちの信仰心を阻害したり、認めないということはなく、誰もが自分の信じる形や心で祈ったり行動したりしたらいいと思っているので、新興宗教やいくつかの宗教グループによる布教活動や行動には不快感を感じることもあるが、いいことは良しという立場で、教えや教訓、または偉大な宗教者たちの言葉には耳を傾けたり、言葉をかみ締めたりして学ぶことにしている。
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米中に揺れる日本

2012年11月10日 | 世界の問題
 この一週間は、アメリカ大統領選挙においてのオバマ大統領の再選と中国共産党大会においての胡錦涛国家主席から習近平氏への後継指名という、二大経済大国であるアメリカ合衆国と中華人民共和国、つまり米中の二大国家のトップの交代という政治的権力の移行が大ニュースとなって、日本の野田民主党内閣と自民党などの野党との国会を舞台とした政局、特に解散、総選挙を睨んだ対立などはほとんど影が薄いといった感であった。

 とにかく民主党のオバマ現大統領と共和党のロムニー大統領候補との実質は両者の一騎打ちの戦いは、ほほ一年以上の選挙戦のクライマックスとでも言うべきスーパーチューズディの選挙人を選ぶ最終結果が、接戦との予想に反して意外な大差で日本時間の水曜日の午後には、オバマ大統領の再選が報じられて、オバマ大統領の地元であるイリノイ州シカゴ周辺をはじめ、少年時代に過ごしたことがあるというインドネシアでも勝利を喜ぶお祭り騒ぎが報じられていたが、何と日本国内の福井県小浜市でもオバマ再選を喜ぶ市民がニュースとなっていたほどである。

 いずれにしても、共和党の大統領候補のロムニー氏と現職大統領のオバマ氏の論戦や政策的違いでは、この四年間をリードしたアメリカ経済や雇用問題などの現実的問題と照らし合わせて、新しい大統領をとの期待も大きく、ほぼ支持率は互角とまで言われていたのだが、オバマ大統領の劇的な再選になった大きな要因は、ミッシェル夫人の人気と共に、選挙前にアメリカ東海岸周辺に多大な被害をもたらしたハリケーンに対す現職大統領としての救援や対応ぶりが幸いしたとの見方が大きく、オバマの勝利は奥さんと台風のおかげだとの説が有力だという。

 アメリカ大統領の4年に一度の選挙は、アメリカ全土で約1年以上、政治的お祭り騒ぎとでも言うべきイベントでもあり、国民の多くの関心と共に一大マスメディアの餌食とでも言うべき対象として候補者自身だけでなく、支持者、家族、そしてネガティブキャンペーンとまで言われる中傷合戦にも発展し、両陣営とも巨額の資金を使っての大宣伝を繰り返したそうなのだが、それでも両者とも元気に長丁場の選挙戦を乗り切って投票日当日まで精力的な選挙遊説を続けたという。

 一方の中国共産党の5年に一度の中央大会で、胡錦涛国家主席の隣に何と前任者である江沢民氏が座っていたことは驚きだったが、この共産党大会が終了した翌日に、次期国家主席に内定していると言われている習近平氏への指名が行われる予定と言われているのだが、どうもアメリカ大統領選挙後の中国の最高権力指導者の交代劇に関しては、たぶん14億以上といわれる中国人民の大半は、そうなのかといった実感の伴わない既成の事実としてセレモニー的な人事として遂行されるのだろう。

 かつての冷戦時代は西のアメリカ合衆国と東のソビエト連邦を首領とする二大政治勢力が、自由主義経済圏と社会主義経済圏とに分別され、互いの政治的イデオロギーもあいまって対立していたのだが、現在では米中が地球上の同じ自由経済の市場で、GNPの世界第一位と第二位を誇る経済大国として君臨するようになって、日本はいずれの政治権力と経済的動向にも揺さぶられる存在の、GNP世界第三位の国として揺れているのである。

 かつてはアメリカが風邪をひいたら日本もくしゃみをする如く言われていたが、最近は中国の反日デモや日本製品の不買運動など、尖閣列島の国有化以降の中国政府の反発で、日本経済も大いに影響を受けていて、経済分野だけでなく民間交流やスポーツ大会への不参加、締め出しなども生じていて、くしゃみどころか扁桃腺を腫らしている様な状況となっている。

 米中の二大大国の権力移行に伴う、多大な軍事力なども背景とした国家の威信に対して、日本国内の新たな政治勢力と言われる幾多のグループの台頭が、何故か憲法改正と徴兵制を伴う軍隊の保有を目指すという理念が先行しているとの懸念と危惧を感じている。
 


 
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ある男の死。

2012年11月06日 | 地域の話題
 いつもの交差点に掲げられていた葬儀場の告知看板で、私は彼の死を初めて知った

 何とも言い様のない感慨とでも言うべき思いが胸の内に生じたが、他人の死をこんな気持ちで知ることになるというのには、過去の様々な彼に纏わる思い出とでも言うべきエピソードや言葉が脳裏にたくさん残っていたからかも知れない。

 彼は私よりも年上の議員としては先輩だったが、以前の仕事上で知っていたことから、彼が幼い頃からやんちゃ坊主であり、お父上に言わせれば「役場でいい仕事が見つかって良かった」と仰っていた如く、当時の町議会議員に立候補し当選していたので、私が同じく町議会に立候補する際には、「選挙はそう甘いもんやないで、票が足らんかったら分けたるさかい」とまで言われたので、「票なんか分けられるもんか」と自問自答しつつ、彼にだけは負けたくないと思い、初めての選挙で彼よりも得票数が多くて当選出来たので安堵した記憶がある。

 その後の初議会に際しては、彼の部屋に呼ばれて「あんたの会派は俺に下駄を預けんか」と言われたので、私はとんでもないと思って、「あいにく下駄は最近履いてなくて、スニーカーばっかりなので」と訳の判らぬ冗談で断った。

 その後数ヶ月が経ち、彼の住む地域に近い住宅地で、私の知人が私に言われたことはとてもショックであったので、今でもはきりと覚えている。

 それは何と、彼ともう独りの御仁がこの世に存在している限り、「この町は絶対に住み良い町にはならない」と言うのであった。

 この町が少しでも住み良い町になる様にとの思いから、当時の町議会議員に多くのご支援と期待を集めて当選し、積極的に議員として働こうと思っていた矢先に、何とも暗雲が漂う様な強烈かつ不思議な呪文の様な住民の言葉を聴いたのであった。

 しかし、この言葉はまんざらその方の勝手な思いではなく、当時の役場の職員や古くからの町の体質などを知っている住民の方々にとっては、常識的とでも言うべき、まことしやかに語られているジンクスの様な明言だったのであった。

 それ以来、私は既成の政党や組織に属さない立場で、敢えて非所属とか市民派と称して、4期16年議員活動をしたのだったが、彼の行動や言動に議会が操られていたり、恫喝に似た縛りを受けていたりと感じる場面にいろいろと遭遇し、何だかわからないが特殊な権力を有すかの様な彼の振る舞いに、なにやら小さくなっている感じの職員や議員を数多く見たのであった。

 所謂、地方議会のボス的な存在と自他共に認めざるを得ない時期が続いていたのだが、彼が脳梗塞で倒れてからは彼の影響力は低下したと思われたが、車椅子に乗っての議場への出入りのために、議場のバリアフリー化がされたり、少しは彼の存在が役立つ面もあったが、車椅子の移動のために職員が一人多く付き添っての研修でも、先方の市役所の説明や勉強の機会は喫茶店でお茶を飲んでいて、ちっとも研修の場には姿を見せない様な彼の勝手な行動が目立っていた。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/89/6a3a89152daadc1e013117c2e7ced4ff.jpg" border="0">

 私に対しては大声で怒ったりしたこともあったが、何故か「お前も俺も一匹狼みたいや」と声をかけられたり、よくわからないが存在感を認めてくれていた様子であった。

 数年前に私は議会や市役所からも遠のいて、彼の病状も動向も知る由もなかったが、今夕に彼の死を知り、帰り道に立ち寄った図書館で顔なじみの女性職員との立ち話で、彼に纏わる前出のて言葉を思い出して話したのだが、さてこの町は彼の死によって少しでも良くなるのであろうかと自問自答し、彼女もちっとも変わらないだろうと苦笑したのであった。

 良くならないのは他人のせいではなくて、自分たちの努力や思いがまだまだ弱いからなのだろうと、改めてある男の死をめぐって感じさせられたのであった。
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