ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

黄信号で止まろう!!!

2014年05月31日 | 感じたこと
五月の最終日、何と京都は真夏日の暑さで朝から夜まで、ともかく「暑いね!!」を連発しながら、自営の移動販売有機八百屋の営業日で走っていた。

 今年になって初めて感じたわけではないのだが、平日の月曜日から土曜日までお弁当の配達と八百屋の移動販売で、毎週約400キロ以上を愛用のスバル・サンバー・ディアスで走っている私自身が、特に最近感じるのが、赤信号さえ無視の危険な車の走行である。

 先日なんぞは、右折レーンの先頭で直進車の走行を眺めながら待ち続けて、漸く信号が右折OKの緑信号にかわったので、右折しようとしたら前方から単車が二台赤信号を無視して突っ込んできたので、こちらが悪いわけではないのだが、いったん交差点の真ん中で停止して、直進しようとする2輪バイクを通過させてから、再度安全確認をして右折したのである。

 また、直進中に前方の信号が青から黄色に変わる頃が予測できる場合は少しスピードを落として、敢えて突っ走らないで黄色信号に替わるのを確認して停止するのだが、後続車が私の車をよけるようにハンドルをきって、交差点に進入し、赤信号にかわっていても平気で直進する他の車があり、とまった私の車が悪い感じで、クラクションを鳴らされたりした場合もあった。

 そんな危険なケースばっかりではないのだが、とにかく先を急いでいるのかドライバーが女性であっても、黄色信号で停止する車は少なく、赤信号にかわっていても危険を顧みず、交差点に突入し、さも自分が優先だとでも言いたげに直進する車が後を絶たないのである。

 かつて、自動車学校で自動車免許取得の講習を受けていたときには、たぶん「黄色信号にかわったら止まれ」と学んでいたはずなのに、多くのドライバーは自らの運転に自信を持ってしまうと、なんとも危険な「我が物顔の運転」になってしいまうのだろうか。

 ともかく、毎日何度かは後続の自動車の動向を気にしながら、信号の変わる際の停止をしようとするのだが、どうも急て停止はかえって危険と思った場合は黄色信号でもやむを得ず直進してしまう場合も時折あるのだが、ほとんどの場合は後続車にとっては、たぶん「赤信号」にかわってしまっているはずなのに、ブレーキを踏む感じは全くない感じで、交差点を突っ切って追従して来る感じであり、信号を見ずに先行車である私の車に続いているだけの感じで「ため息」が出るほど危険を感じるのである

 いくら「黄信号はとまれだよ」と、こんなブログで記してもかわらないかもしれないが、事故に繋がる危険性の高い、危険極まりない「黄信号から赤信号での突入車」に「警告」を発せざるを得ない状況が、どこにもあり敢えて再度「黄信号は止まれだ!!」とドライバーが認識するようにと、運転免許証の更新時や取得時に、指導員や講師を務める関係者に、口がすっぱくなる程言っていただきたいと切望するものである。

 交通事故は、「大丈夫だろう!」とか、「たぶん止まるだろう」とか「きっと来ないだろう」とかの「○○だろう!!運転」が起こす場合が大半ではないだろうかと思うのだが、そうした統計的事故頻発の数値は存じ上げないが、間違いなく自動車を運転していて、危険を感じた多くのケースが「信号無視」だと思うので、くれぐれも「安全運転」を志すドライバーの皆さんが、「自らの命と相手の命を守る」ために、この際自重して危険回避のための「黄信号停止」を実施されれば、たぶんこの社会から交通事故は半減すると思われる。

 少子高齢化社会にあって、より交通事故による悲惨な事故をなくし、尊い命を一人でも多く守るために、私たちドライバーが出来ることは、「酒酔い運転、スピードの出し過ぎ、信号無視」を絶対にしないことは当然のことなのだが、敢えてこれからは「赤信号の手前の黄信号で止まる」という習慣を大切に身につけなければならないと自問自答しながら、皆さんに訴えたいと思います。

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孤独死の増加!

2014年05月25日 | 感じたこと
ここ数年、私は高齢者のお宅を中心として、毎日お弁当を配達する仕事を請け負っていて、主に午前中から午後にかけてお届けしているのだが、高齢域にさしかかっても毎日お元気に出歩いたりされている方もおられるのだが、毎日気候のことやよもやな話を少しして届ける方もいるが、毎日お弁当を保冷剤と共にハッポの箱に入れて玄関先に置いてくるお客様も十数軒あり、多様なお暮らしの実態があるのである。

 そんな中に、昨年の正月明けには、一人のご年配の女性で息子さん家族とアパートに同居されていた、推定80くらいのおばぁさんが残念ながら自ら命を絶たれてしまい、正月明けに息子さんたちがアパートに帰られた時に発見されるという痛ましい事件があり、大晦日前にお目にかかっていた私に警察から事情を聞く電話があり、びっくりするやら戸惑うやらの事件に遭遇した。

 ふりかえって思い出してみれば、一年数ヶ月間平日のみとは言え、毎日アパートの玄関口で顔を合わせて、二言三言は喋っていたお客様のお一人だったので、とても信じられないと思うと同時に、それなりの前触れがあった様に感じて、何かしてあげられなかったかと少し後悔する部分を感じたのが正直なところであった。

 というのは、お届けする様になって以来、実の息子さんと奥さんとお孫さんとの同居なのにも関らず、玄関の扉を開けてすぐ右側の六畳間と思われる部屋にそのおばぁさんが一人生活されていて、奥の台所やリビングへは限られた時間しか入れないという約束事になっていた様で、その方が数週間前に、私は針のむしろの様な生活状態だとおっしゃっていたことがあったのである。

 いくら実の息子や孫との同居といえども、日々の生活は息の詰まる様な環境でのつつましい営みであったと想像すると、他人ではあるが何か助け手になってあげることができなかったかと、今も思い出すたびに後悔してやまないのである。

 そして、一年以上経った今年の数ヶ月前のある日、いつもの様にお届けしている一人暮らしのオジイサンのお住まいであるアパートを訪ねると、玄関先の弁当を入れる鍵付BOXの前に、その方が倒れられているいるのをたので、発見したので、お声をかけて様子をお聞きして、救急車を呼びましょうと提案したのだが、大丈夫との返答があったので体の大きな方だったが、抱きかかえてお部屋の中に運び、ベッド迄運んで横になってもらいお水を飲ませて、一段落したときに再び、救急車を呼びましょうと薦めたのだが、「ええ、娘が来ると思うから」と断られたので、携帯電話を枕元に置いて、くれぐれも無理のない様にと告げて、後ろ髪引かれる思いで、「また明日いつもの時間に来るから」と言い残して仕事にもどったのであった。

 ずっと半日た気にはなっていたが、翌日心配していた気持ちが、まさかの結果となって、私がその方のなくなられた第一発見者となってしまったのである。

 翌日いつもの時間に行くと、アパートのその方の部屋の玄関が少し開いていたので、玄関先から大きな声で○○さんとお呼びしたのだが、返事がなく何度か呼んだ後、「失礼しますよ、上がります!」と告げて狭い奥の部屋の昨日寝ておられたベッドのところに行くと、ご本人はベッドからうつ伏せになって下に落ちた状態で冷たくなってしまわれていたのである。

 大きなため息と共に、自らの携帯電話で119番し、救急車の到着までの数分間に、救急隊員の指示があったので心肺停止状態のその方の胸に両手を当てて蘇生をと試みたが、まったく生き返られる様子はなく、現場に到着した救急隊員の確認でなくなられたのことが明確となり、その後の警察官の到着と監視官らしき方の到着で、現場検証的状況にも立ち合うこととなってしまった。

 私自身も立派な高齢域のおっさんになっているのだが、たまたまかもしれないがここ二年に二件の孤独死とでも言うべき事件、事象に関るはめとなってしまい、益々現代における高齢化時代の孤独死や家族関係の崩壊や亀裂がたくさん生じている現状をつぶさに見て、誰もが孤独死を遂げることのない地域と血縁と友人、知人の縁を大切にした高齢時代を送れるようにと望むばかりである。
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集団的自衛権!!!

2014年05月20日 | とんでもない!
ここ数ヶ月、ずっと「きな臭い」話題がテレビ、新聞、雑誌などで話題となっていて、とても不愉快な気分が続いていたが、ついに安倍首相が国民へ「今後の方向性?」と題して記者会見を行い、この「集団的自衛権」の行使について、憲法解釈を変えて出来る様にしないと、何と例として外国での非常事態で日本人の母子の安全が脅かされた時に、自衛隊が救出することが出来ないとパネルに描いた絵と説明を行なったのである。た

 子供だましとでも言うべき「詭弁」で、国民を欺こうとしているとも感じられる記者会見であり、とても不愉快な気分が増幅されて、いくら何でも「お坊ちゃま首相」に、そこまで「馬鹿にされた!!!」と言う感じの記者会見だったと憤慨しているのである。

 そもそも、戦後70年近く日本は外国への派兵はもとより、銃器を伴った戦争状態へは参戦することもなく「平和な日本」を継続させてこられたのは、アメリカ合衆国のお陰だけではなく、「日本国憲法」の第九条という世界に名だたる「戦争放棄と軍隊を持たない」という条文のなせる業であり、それこそ世界に誇れる「世界遺産」として登録されてもいい程の「素晴らしい憲法」のお陰なのである。

 なのに、安倍首相をはじめとする自民党を中心とする「日本を取り戻す!」ことを目標に掲げている勢力が目指すのが、憲法の改悪、日本の軍国化、天皇中心の国家、世界に名だたる帝国主義的日本の復活を願う人たちの集団であり、それに賛同しようとしている日本維新の会、みんなの党、そのほかにも野党と称される政党や組織の中にも、そういう趣旨に賛同する輩がいて国会議員という立場にいる方がいるみたいである。

 戦後70年近く経ち、やっと我が世の春が近づいたとばかりに、衆参両院で過半数を占めるに至った自民党内閣の棟梁である安倍晋三首相、そして自衛隊軍隊オタクの石破幹事長、そして髭の元自衛官佐藤議員らは、国民、メディアをあざ笑うかの如く、着々と自分たちの理想の組織や法律改正を行い、秘密保護法や日本版NSCとか言う防衛軍事の参謀組織をつくり、多くの静かな国民には徐々に「集団的自衛権」の行使が出来ないと、国民を守れない!との印象をインプリント、すなわち「刷り込み」して行くという卑怯で低劣な手法で攻めているのである。

 やっと知識人やメディアからの発言も出だして、国会では創価学会を支持母体とする公明党が抵抗しだして、今国会での意思合意は難しくはなっては来ていると言われているが、安倍自民党は何が何でも、この見解を無理強いしてでも政府見解として通したいという意向であり、防戦に立つ与党を担う公明党もいつまで立ちはだかれるかは甚だ疑問である。

 そういえば、創価学会が「集団的自衛権」の行使には反対との正式見解を表明したとの報道もあったので、すぐさま自民党も公明党との合意は難しいと思っていると思うが、アノ手この手の政治的手法で、いずれはねじ伏せようと虎視眈々と準備している様子であり、石破幹事長に言わせれば、自民党と公明党の違いは薄い壁だとの非公式なコメントまで聞こえてきており、何を機会に何時どの様に「落とし処」を決めるかを模索中と言った感じてあり、とても危険極まりない「きな臭さ」が続いているのである。

 そもそも、憲法解釈を一政府が「変える!!」ということ自体がオカシイし間違いなのだし、「憲法」は国の最高法規であり、時の政府や権力を国民に代わって監視し拘束する絶対的ルールなのであり、現状の自衛隊と言う軍隊も実は日本国憲法の条文からすると間違いない違憲なのである。

 だから、いまさらでもないが、憲法改正?改悪の意思が強い自民党政府ならば、この際手順を踏んで「憲法改正」へと準備を怠りなく進ませぱいいものを、憲法改正の条件としての「国会議員の三分の二以上の賛成」とその後の国民投票の過半数以上の賛成と言うルールが難しいと踏んだのか、とても「姑息」な手法で「憲法解釈」を変更しようと試み様としているのである。

 安倍自民党の「日本を取り戻す。」が、すなわち軍国主義日本の再来という「復古調」一辺倒だとすれば、国民の多くも国際的な世論も、ましてや「同盟国」といつのまにか言われている「USA」アメリカ合衆国も黙ってはいないと思うのだが、その前に馬鹿にされている日本国民一人ひとりが「可笑しい!」「ダメ!」「何を考えてるの?」などと安倍自民党に「NO!」を突きつけなければならない時が来ていると言っても過言ではない。

「いい加減な子供だましの記者会見で、賢明な国民の多くは騙されないよ」

 安倍晋三首相と自民党、そしてその周りで権力と利権を貪りたい輩たちに、はっきりと厳しく「ダメ」だと言いたい。
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