ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

説明になっていない。

2010年08月31日 | ちょっと可笑しいよ
 昨年八月の総選挙で圧倒的な勝利を獲得し「政権交代!」を果たした「民主党」だが、丸一周年たっただけなのに、党内の嵐と言うべきか、国民不在の権力闘争は自民党時代とあまり変わらないヘンなムードである。

 先日来の菅直人首相の続投への民主党代表選挙への対抗馬として、前幹事長の「小沢一郎」が出馬との憶測の中、鳩山由紀夫前首相が仲介役を務めた形で、菅と小沢の会談がようやく実現したと思ったら、大方の予想を裏切った形で「小沢前幹事長代表戦に立候補」というどんでん返し的結論が出た模様である。

 それにしても多くの新聞、テレビを中心とするマスメディアの報道の方向は、鳩山が仲介した「挙党態勢」と言う名の「小沢、菅、鳩山」のトロイカ方式の民主党結党当時、すなわち「旧民主党」と小沢一郎率いる「自由党」が合併した時期の原点にたち戻って「初心を貫くため」、小沢一郎の代表選出馬は回避されるという見通しであった。

 しかし、菅と小沢の一時間余の会談後の午後6時前の「小沢一郎」の記者会見の模様をテレビの生中継で見たのだが、全く「理解に苦しむ」内容とでも言うべきか、政治家の言動としての慎重さは理解できるが、「挙党体制」を確認しながら、なぜ「小沢一郎」が出るのかが全く理解できない説明であった。

 今回の「民主党」内のお家騒動とでも言うべき「代表選挙」を前にした権力闘争は、全く国民の思いとはかけ離れていることは明らかであり、各種世論調査による「次期首相」にふさわしい人とのアンケート結果は、菅直人現首相が7割以上で、小沢一郎を推す意見は、2割に満たない絶対少数であった。

 にもかかわらず「小沢一郎」が民主党代表選挙に立候補するという決意は、明日の記者会見で明らかになるのかも知れないが、国民不在の党内事情と旧態依然とした「政治家たちの駆け引きと損得」の表れとしか思えないのである。

 それにしても、あの小沢一郎氏の記者会見の「意味不明」のごたごたとした説明になっていない「おしゃべり」の中で、何度も「鳩山先生、輿石先生」という表現が使われていて、私は何とも言い難い、「政治家の心」を読み取る術を知らないが、不快感で一杯となった。

 多くの政治家が政治家同志を「○○先生」呼ばわりするのは如何なことなのだろうと常日頃から私は感じていて、表向きは「○○先生」と敬うような物腰ではあるが、心底は決して他の政治家を尊重しているのではなくて、自分を支持してもらう手前、表現としては尊敬と謙譲の言葉を用いているだけなのだと思っている。

 自民党政権時代の若き幹事長に抜擢された、生え抜きの保守政治家であり、幾多の権力の離合離散を見てきた張本人でもあり、自らがその仕掛け人となって政界再編を繰り返してきた男である「小沢一郎」の最後の勝負が、ここに隠されているように感じるのである。

 国民、有権者に分かりやすい政治家としての説明の務めでもある「記者会見」で、こうも「わからない」言葉の羅列を聴かされる、一有権者として、今回の「政変」に繋がりかねない国民不在の「党内主導権争い」に対して強い不信感と不快感を覚えるものである。
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「ルオム」って自然農法。

2010年08月28日 | 感じたこと
 ほんと何度も言うが、今夏の猛暑は表現しようもないほどの極暑で、至るところで熱中症でで倒れる人があるし、百歳以上の戸籍上は生きていても実際は死んでいるという奇妙な現象とでも言うべきか、縦割り行政のいい加減さが全国で露呈し、なんと186歳と計算上は言える幕末時代の坂本龍馬さんと同年輩の人まで生きていることとなっていたという、とんでもない現実がニュースとして伝わっている。

 一方、国民のためと言いつつも、政党内の権力闘争を露にしている民主党の代表選挙に向けて、何とこともあろうに「小沢一郎」が出馬を表明し、前首相の鳩山由紀夫氏が支持を語り、現首相の菅直人陣営との熾烈な国会議員の囲い込みや全国の民主党支持者への訴えとやらで、経済問題、年金問題、バラマキ助成問題、農業問題、雇用問題、福祉問題と課題山積の政府なのに、なんとも溜息しか出ない党内状況となっているらしい。

 そんな民主党の中にも、こんな権力闘争とはかけ離れたところで、自らの経験や主張を何とか国の政策へと提案し続けている男もいるのである。

 その名は、参議院議員のツルネン・マルティ氏であり、昨年暮れに出した著書は避暑でもある石井茂氏との共著で「自然に従う生き方と農法・ルオム」というタイトルの本を紹介しよう。

 「ルオム」とは、ツルネン氏の生まれ故郷のフィンランドで「自然に従う生き方」を意味する言葉であり、有機農業、自然農法、オーガニックなど、これからの新しい農法を総称するフィンランド語として語られているのです。「ルオム」は、生存環境が危機的になっていると言われている現代の人間社会と地球環境を蘇生させる、新しい概念になると著者は確信している。

 「自然に従う農法」である「ルオム」にたずさわる個人団体は、それぞれに極めて優れた知識や栽培技術を持っていて、これからの日本の農業の宝とも言うべき貴重な経験が積み重なっているので、この経験を活かせば、日本の農業と食糧自給の未来に、希望が生まれてくると確信していると著者は語っている。

 とにかく、帰化したフィンランド人の珍しい国会議員である、ツルネン・マルティさんは、1967年にキリスト教会の宣教師として来日したが、1974年に宣教師を辞職し、1979年に日本に帰化、長野県安曇野村で農業を中心に生活した後に、神奈川県湯河原町の町会議員に1992年に当選したという変わった経歴の持ち主なのだ。

 湯河原町町会議員としての環境問題や福祉、農業などの分野での活躍で一躍時の人となった後、あの大橋巨泉氏が参議院議員に当選してまもなく辞職したために、繰上げ当選と言う形で参議院議員に初当選し、2004年に「有機農業推進議員連盟」を設立し、事務局長に就任し、2006年の「有機農業の推進に関する法律」の制定に尽力された、政策的行動力のある政治家なのである。

 現在2007年の参議院選に再選されて、ユニークな著書や活動をされていて、「ツルネンの人と地球のエコライフ」、「そうだ国会議員になろう」、「日本人になりたい」などを著し、紫式部や井原西鶴などの日本古典文学などの翻訳著書もある「ヘンな国会議員」でもある。
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「素直になろう!」

2010年08月25日 | 感じたこと
 八月の猛暑はいつまで続くのだろか。全国的に平均気温で二度以上高くなった今年の夏なのだが、気象庁の予報によれば、あと二週間は残暑が続くというのだ。

 ほんとうに「あじぃー」としか言いようのない猛暑に、全国的に「熱中症」で倒れるこ人が続出し、死者もたくさん出ているのだが、日本だけの減少ではなく、あの北緯が日本より当然高い広い国土を誇る「ロシア」でも熱帯夜が続いていたり、自然発火の森林火災でモスクワ周辺は黒いすすで覆われて、暑さと共に呼吸も困難になるというほどのダブルパンチで多くの人がマスクをして通行している様は、地球温暖化の影響が強い。

 そんな毎日だが、仕事を終えて汗びっしょりで帰宅した時や就寝前には必ず、シャワーで汗を流さねば、体が熱中症まで行かなくてもすっきりしなくて、風呂場に行くのだが、毎日朝晩日課の如く行く洗面所と風呂場には、ちょっとした漫画っぽい絵と詩が書いてある「カレンダー」が掛かっている。

 その八月の絵は、子供たちが「水遊びしている」絵なのだが、言葉は「裸になろう!、素直になろう!」であったので、忘れかけている自分の心に言い聞かせるように声に出して久しぶりに読んだ。

 確かにお風呂に入る脱衣場を兼ねた洗面所なので、「裸になろう!」は、何の抵抗もなく浮けいられるのだが、「素直になろう!」は、簡単ではないと思ってしまう。

 二人目の孫である三歳五ヶ月の男の子R君は、間違いなく「素直である」を地で行くほどの幼子であり、いつも笑顔とはっきりとした口調で「素直な心」に感じたままの言葉を発してくれるので、老いつつある「じいじ」は、いつも彼の言葉に「心洗われる」思いにさせられることが多く、愉しくもあり気付くのである。

 なかなか大人になるということは、「素直な心」が大切なことは百も承知だが、すぐには「素直な心」が発揮しにくくなっていて、「ちょっと考えてから」とか、「だけど・・・」ということになってしまうのである。

 孫のお兄ちゃんの方のK君は、素直な心の持ち主なのだが、なかなか「ごめんなさい」とか「ありがとう」がすぐには言えないので、母親である娘からしょっちゅう「素直に言えばいいのに」と言われているみたいだが、癖の様にかたくなに「ごめん」や「ありがとう」が出なくて、「へりくつ」や「だって・・・」となってしまうのである。

 私たちにとっても、ほんと「素直になろう!」がお風呂に入る時のように「裸になろう!」の如く自然に出来たら、どんなにか自分自身も気持ちがいいことだろうかと思うのである。

 大人になってしまうと、どうしても計算や都合、そして自分勝手な思いの方が先行してしまい、素直な心で行動したり発言したりすることが、如何にも損の如く反対の行動や言葉を発してしまうのはなぜなんだろうか。

 幾つになっても、もう一度「素直になろう!」という単純かつ明快な戒めを心に刻み込んで行動し、発言し、いつも笑顔で気持ちよく暮らしたいものである。
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『挙党』体制って?!

2010年08月23日 | 日本の課題
 連日の猛暑が続く中、国民から選ばれたはずの「民主党」を中心とする国会議員の先生たちが、なにやら研修会やら勉強会やらと称して、前首相の軽井沢の大別荘に集まったりして、小沢大将がやって来たとかなんやらと大騒ぎしている一方で、どっしりと構えてはいない「菅首相」も、若手議員との懇談会をここ三日間催して、九月に行われる「民主党代表選挙」の票固めだといわれている。

 通常国会を急いで終えて、参議院選挙を行って「民主党大敗!」と称される結果で、再び衆参のねじれ現象となったといわれる「国会運営」だが、参議院議長選挙と首相の施政方針演説はあったものの、肝心な政策論議や予算審議もほとんど行わずに「夏休み」に入ってしまった衆参両院だったが、議員さんたちの動きは、どう見ても「国民のため」とは口先だけで、ほとんどが「派閥や親方」との交流や駆け引きに終始していると言っても過言ではない。

 菅直人首相陣営も、この間の政界の動向や世論、マスコミの動向に気を向けていて、少しでも「人気回復と信頼を」と躍起になっているらしく、小沢グループとの距離を縮め、小沢前幹事長とも会談し、「挙党体制」を確認したいとの見方も出てきている。

 一方の「小沢一郎」大将は、「鳩山由紀夫」前首相の別荘研修会に顔を出して、健在振りと共に、九月の代表選挙に向けてのアッピールを印象づけていて、こちらも言葉では「挙党体制」を説いているという。

 いずれにせよ、この「挙党体制」なのだが、本来の国会議員の一番大切な役割である「国民、有権者」の願いや問題点についての議論や政策研究などではなく、「我が党のため」と「次の選挙に当選」するための「主な活動」としての動きとしか見えない状況でしかない。

 「政党」や「組織」は、国会議員の諸先生方には「一番大事なもの」なのかも知れませんが、いい加減にしてほしいとさえ思ってしまうほど、この間の「民主党代表選挙」を睨んだ動向には甚だ憂いてしまうのは、多くの国民の本音ではないでしょうか。

 さらに、その中身が、「小沢代表」を実現して、「菅体制」を早く交代させねるという、どう考えても「小沢一郎NO!」を突きつけている「国民、有権者」を無視した、彼らの勝手な行動に思えてなりません。

 政治資金規正法違反に問われた「陸山会問題」だけでなく、違法か違法でないかの法的判断の是非以前の問題としての、古き田中角栄首相当時の自民党の幹事長だった、小沢一郎氏の政治手法や権力志向及び「裏将軍」の様な人間性に、多くの国民が「もういい加減にしてほしい!」と「NO」と叫んでいるのに、まだ「民主党」は、小沢頼みなのですか。

 結局、九月に正式人気の二年間の「民主党代表」を改らたに選出するための「権力闘争」を如何にも国民のための「挙党体制」という言葉で明らかに「誤魔化している」今の国会議員たちの「テイタラク」に怒りすら覚えます。
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夏の温泉旅行。

2010年08月21日 | 季節の話題
 いつもは「お父さんたちの手作りランチ」を月に一度だけ提供している、男の料理サークルの仲間と共に、八月は「ゆめカフェ」と称するランチづくりをお休みして、山陰は鳥取県の皆生温泉へ、一泊二日の「温泉ツアー」に出かけた。

 ここ二年ほど続けている「オーガニックランチ」の料理仲間なので、お互いの遠慮や気遣いは最低限で、気の向くまま、お互いの個性を尊重しつつ、愉しい「温泉ツアー」出来たらと、日帰りも含めて今回が三度目の「温泉」となった。

 昨年と今春には、山中温泉、敦賀トンネル温泉を訪ねたが、お盆は過ぎたとはいえ、格安の温泉旅館と往復バスで一万円少々という「湯快リゾート」と称する、「日本の温泉を身近にする」というキャッチフレーズの温泉ツアーは大人気で、家族連れも含めて大変賑わっていた。

 今回は、鳥取県の「皆生温泉」ということで、京都駅を朝八時四十分に出発したバスが、現地の旅館に到着したのは午後四時近くになっていたから、結構旅路の距離はあって、途中の蒜山を望むレストランで昼食をとって、おしゃべりしながら現地に着いた。

 あまり予定や計画を立てずに、目的地だけ予約しての五人のおっさんの気楽な温泉ツアーだったが、翌日の現地出発が四時過ぎと聞いたので、早速バス車内から翌日の半日をレンタカーを手配して、鳥取、島根の近郊を観光することとなった。

 当然目的のひとつが「温泉」なので、早速大きな湯船の「大浴場」へと普通は足を向けるのだが、すぐそばに内海の海水浴場が隣接していたので、浜辺を散歩ついでに、久しぶりに海へと入った。

 海水パンツなど用意していなかったが、すぐに着の身着のままで浜辺から大浴場へと行けるので、パンツ一丁で海水浴としゃれ込んだ。

 西日が遠くに見えていたと思ったが、やはり夏至を過ぎてすでに2ヶ月近く経っているために、「つるべ落とし」の如く日は傾き、夕日が海岸線に沈むのをしばし眺めてから、急いで大浴場での二回目の入浴となった。

 ともかく、「温泉に行けば」、最低三回、つまりホテルや旅館到着後、夕食前に一回と、眠る前に再度入浴し、早朝の朝食前にも入浴するという感じで、「温泉を愉しむ」のだが、今回は都合、海水浴をしたために四回も入浴したこととなる。

 夕食後は部屋で持ち込んだビールなどを飲みながらの歓談の機会となったが、翌朝は五時には早々と大浴場へと向かって、「朝飯前」の気持ちのいい「温泉三昧」を愉しんでから、レンタカーで、今話題の「ゲゲゲの女房」の主人公でもある。漫画家「水木しげる」さんの故郷、「境港の水木ロード」へと向かった。

 今や139体にもなった、水木しげる作の独創的な「妖怪石像」たちが並ぶ商店街を汗をふきふき散策して、昼は宍道湖のほとりで「鰻」を食した。

 いろんな観光地もあったが、なにせ暑さ故か、五人の個性のためかなかなか行き先が定まらずの約100キロのドライブを愉しんで、ちょっと渋滞気味の高速道路のお陰で、京都に帰ったのは10時近くであった。

 久々の「夏の温泉」と「仲間の旅」を満喫して、「盆休み」は終了し、来週からは平常通りの生活に戻ることとなる。
 
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大文字の送り火。

2010年08月18日 | 季節の話題
 京都では毎年八月十六日の夜「五山の送り火」があり、通称「大文字山」と呼ばれる左京区浄土寺にある如意ヶ岳に午後八時に点火されて、あとは「松ヶ崎妙法」、「舟形万灯篭」、「左大文字」、「鳥居形松明」と順次に字や形に薪火の炎が上がり、「お精霊(しょうらい)さん」と呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届ける行事とされている。

 所謂「大文字の送り火」であり、夜空を照らす「五山の送り火」として、京都の四大名物行事のひとつとされていて、五月の「葵祭」、七月の「祇園祭」、そして十月の「時代祭」と共に多くの観光客だけでなく、市民や府民の八月「お盆」の恒例行事となっている。

 この「大文字」は、如意ヶ岳と呼ばれる主峰472mの西側の前峰465.4mを現在は「大文字山」と呼び、特に「左大文字」と区別する時は「右大文字」と呼ぶのだが、大の字の中央には大師堂と称する「弘法大師」を祀った小さなお堂があるそうである。

 地元浄土寺では、大の文字は人の形を表し、人間の75の煩悩を燃やし尽くすといった意があるとの言い伝えがあり、嘉永6年(1853年)に記された文献が残っているが、それ以前の記録は浄土寺村の大火で焼失し、詳しい成り立ちは不明だそうだが、地元では弘法大師起源説が支持されているらしい。

 五山の中では唯一一般の人が自由に登れる山でもあるので、上り口の銀閣寺の北側からの主なルートを平常時は気軽に「大文字さん」に登る市民や常連さんがいるのである。

 「大文字さん」として親しまれるが、古くから山そのものが尊ばれているようで、大文字の送り火の際の「火床」は、木を組んで土台を作り 松明をその上に突き立てて、火をつける方法で燃やしていて、「鳥居形」を除く他山でも同じやり方で火を燃しているという。

 山に描かれた字跡に点火する行為の起源は、平安時代とも江戸時代とも言われているが、公式な記録が存在しないが、江戸時代の前期から中期には既に「お盆の魂祭り」として紹介されていて、大文字、妙法、舟形と加えて所々の山、原野で火をつけていてたらしい。

 その中には、「い」「一」「竹の先に鈴」「蛇」「長刀」などもあったとされているが、これらの送り火がいつ消滅したかもはっきりとはしていないらしい。

 「大文字焼き」とも言われる宗教行事でもあるのだが、奈良若草山で毎年正月の成人式前後に行われる「山焼き」とは全く異なる目的であり、奈良の「山焼き」は新芽を出させるために山腹の広い範囲を焼くことが目的なのだ。

 この伝統行事の「大文字焼き」も、明治5年には京都府が文明の進歩を妨げるとして明治16年まで中止させられたり、第二次世界大戦の末期、1943年から45年までは「灯火管制」として中止されていたらしい。

 余談だが、2003年9月13日の夜には、当時18年ぶりに優勝した阪神タイガースのファンが大文字山に登って、懐中電灯で阪神のHTマークを照らして話題となった騒ぎもあった。

 多くの「お盆に帰っていた霊魂」が無事還られることを祈る。
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海で水死。

2010年08月15日 | 季節の話題
 一昨日の朝、私の友人でもある47歳の元気なお父さんが家族旅行での海で亡くなったという悲しい知らせが届いた。

 彼とは20数年前、彼が学生だった頃からの付き合いで、子どもたちの遊び場活動のリーダーとして、数年間は共に同じ職場で仕事し、仲間としていろんな子どもたちやリーダーたちとの愉しいひと時を共にした友人であった。

 その後、彼は出身地の大阪に戻って、遊びの活動を通じて出会った若い明るい奥さんと共に三人の子どもに恵まれて、仕事も本来の彼の専門でもあるデザイン関係の事務所を自営するに至って、仕事も家庭も順調に暮らしていたのに、突然の海の事故で亡くなったのである。

 昨夜の通夜には、多くの昔の仲間が集まり、彼の死を悼みつつ、昔話や近況をお互いに確認しあう、職場の同窓会の様な感じとなつた。

 会場の大阪のセレモニー会館には、遠くは福岡から家族総出で駆けつけたKファミリーや三重の松阪からやって来て、帰りの時間を気にしていたKさんもいたが、青春時代を共に汗し笑い愉しんだ仲間の突然の死には、落胆の気持ちと共に、若くして未亡人となってしまったMさんの心境を察して、各々が慰めたり励ましたりする姿があった。

 それにしても、この季節は「水の事故」と「熱中症」で倒れたり、亡くなったりする人の数が毎日のように報道されていて、私たちにとっても「季節的ニュース」の一つとして見聞きしているのだが、まさか自分たちに近い知人や友人が、そういったニュースの犠牲者になろうとは思っても見なかったのである。

 でも、よーく思い出して見ると、私自身も高校三年生の時の夏休みに、行った淡路島の海で、ちょっとした時に沖で溺れて、九死に一生を得た経験があるし、近くのプールで近所の小学生が溺れているのを発見した女性の急報で助かったという事件も身近にあった。

 この季節、特に今年は暑さが厳しく、海や山、プールにと、暑さを凌ぐためもあって、このお盆のお休みの期間にも、多くの人たちが家族と共に、または友人、知人たちとの行楽で出かけられていることだろうと思うが、くれぐれも安全第一を心がけていただきたいと切望する。

 私たちが出会った、子どもたちの遊び場活動でも、現在も日本海に面する宮津へ海辺のキャンプにたくさんの子どもたちを連れて、現在のリーダーたちが引率して行っていると思うのだが、今までにも水の事故だけでなく、大きな怪我や死亡事故はなかったことは幸いである。

 たくさんの子どもたちだけでなく、大人たちにとってもちょっとした油断?や過信が、事故に繋がってしまうことがあると思うのだが、多くの人たちが暮らし、いろんな行動をする人間とは言え、常に「生命の危険」が、そこには潜んでいることを自覚しなければならない。

 大阪で行われた「通夜式」への行き来も、自家用車で高速道路を走りながら、自動車事故の危険性も孕んでいることを自覚しつつ、若くして亡くなってしまったI君の冥福を祈りつつ、残されたまだ小さい子どもさんたちと奥さんのMさんの今後を祈らざるを得なかった。
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「日航機墜落事故」25年。

2010年08月11日 | 感じたこと
 1985年8月12日、午後6時過ぎに羽田を飛び立った日本航空123便が消息を絶ち、群馬県の御巣鷹山付近に墜落炎上し、何と航空機史上最多の520名もの死者が出たという大事件が、その日のゴールデンタイムのテレビを通じて全国に伝えられた。

 私は当時の職場の研修会を兼ねた一泊旅行での旅先で、夕食後の憩いの時間にこの大事故を知ったのであるが、「上を向いて歩こう」などの庶民的なヒット曲で有名だった、歌手「坂本九」さんが同乗していたらしいとの知らせと共にあまりにも多数の犠牲者が出たと伝えるテレビニュースに釘づけになっていたことを思い出す。

 翌日にかけての大ニュースは、一夜明けてより鮮明に事故の大きさを伝えると共に、九死に一生を得た4人の生存者についても報道されていたことを鮮明に覚えている。

 あの暑い日から25年が経ったが、関係者や遺族の方々にとっては、忘れることが絶対に出来ない「思い出の日」となってしまった。

 今年も、多くのテレビ、新聞などの報道で、この日本航空の墜落大事故を振り返る報道がなされているが、一昨年だったか公開された、山崎豊子さんの原作で映画化された「沈まぬ太陽」の実際の舞台となった「日本航空と墜落事故」に関連した、一社員を主人公としたドラマが再び蘇ってくる感じだが、当のJAL、日本航空は今年一月に遂に会社更生法の適用を受けるという形で、倒産を余儀なくされ、大幅なリストラと事業縮小に踏み切らざるを得ない状態に陥っている。

 日本のナショナルフラッグと言われ、全世界を飛び回っていた「日本航空」は、戦後の高度経済成長期と共に巨大化し、「安全運行」が第一であるはずなのに、こんな大事故を起こしてしまい、間違いなくここから会社の命運が下がりだしたと言っても過言ではあるまい。

 迷走し安定飛行が出来なくなった、この事故機JAL123便に乗っていて犠牲となった、ある中年男性が家族宛に手帳に走り書きした「遺書」が公開されているが、「飛行機なんかに乗りたくない」と綴ってあった。

 日本航空の機体の整備を担当する職員、技術者たちも多くがリストラで退職し、今は当時の事故を知っている社員は、10分の1となってしまったというが、残された整備担当の職員は、この遺書にある「飛行機には乗りたくない」の記載が、一番心に残るキツイ一言だと語っていた。

 『安全、安心』をうたい文句にした交通機関は他にも当然あるのだが、飛行機ほど早くて便利で快適な乗り物はないのだが、もし事故が起これば殆どの場合が死に至るという危険性が高い乗り物なので、「乗らない」のが得策なのかもしれないとも言える。

 多くの死者の魂への祈りは、遺族、関係者だけでなく、全世界の祈りだが、幸い奇跡的に生還した4人の生存者のその後は如何なのだろうかと推察したい気持ちもあって、暗いニュースや悲観的な問題提起だけでなく、一つの光としての「生きている」生存者の今も知りたい物である。
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「日韓併合」は1910年

2010年08月10日 | 感じたこと
 中学時代の社会科の歴史で「1910年に日韓併合」と習ったので、年号だけは覚えていたが、それ以来100年が経ったというので、民主党の菅直人首相が首相談話という形で、この歴史的事実に関して、「植民地支配について、痛切な反省と心からのおわびの気持ち」という形で、95年の村山富市首相談話以来の明確な姿勢を示した。

 この「日韓併合」という歴史的事実は、1910年8月22日に告示された「韓国併合に関する条約」に基づき、大日本帝国が大韓帝国を併合したというもので、「朝鮮合併」、「日韓合邦」などと表記される場合もあるが、韓国では当然「韓日併合」、中国では「日韓併合」と称されている。

 この「日韓併合」により、大韓帝国は消滅し、大日本帝国はその領土であった朝鮮半島を領有し、1945年の第二次世界大戦終戦に伴い、日本の実効支配が喪失し、1945年9月2日のポツダム宣言の受託によって「降伏文書」が調印され、正式に日本帝国による朝鮮支配が終了したのである。

 この歴史的事実の背景には、日清戦争、日露戦争があり、当時朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮が鎖国状態にあったために、中国、ロシア、そして日本などが開国を要求し、西欧列強と共に、朝鮮に圧力をかけていたのであった。

 朝鮮半島をはさんで日本と清国の関係が緊張する中で、李氏朝鮮内部の内乱の鎮圧を名目に朝鮮半島に出兵したが、農民勢力と政府が既に和解したため、清国の圧力排除の好機として、陸奥宗光など、日本帝国政府は李氏朝鮮に駐兵を続け、1894年に日清戦争が勃発し、勝利した大日本帝国が清国との下関条約を締結し、日本が朝鮮での独占的利権を得て、清国の影響力を排除した。

 その後の日露戦争を勝利した日本が、桂太郎首相と小村寿太郎外相の下、「韓国を併合するより外に他策なかるべき」と当初反対だった伊藤博文公を説得し、「韓国併合」の大綱を是認させたのだが、伊藤博文は後に暗殺された。

 近くて遠い国のひとつにさせてしまった歴史上の事実が、今もなお日本と韓国、また北朝鮮の人々の間の「蟠り」や「偏見」「差別」「批判」になどに繋がっているのだが、よくよく考えれば、日本にとっても朝鮮半島にとっても、長年の人々の行き来を中心として、「文化」「芸術」「物資」「言葉」「食べ物」「習慣」など多岐にわたっての交流や影響をお互いの歴史で交わってきたのである。

 この20世紀前半の約半世紀の間の「ワダカマリ」が今もなお、両国の間に暗い影や重たい気持ちを抱かせていることは事実なので、菅直人首相を中心とする現政府の「談話発表」を契機に、少しつづでも新しい「未来志向」の日韓関係を築いて行くことが出来ることを期待し祈りたいと思う。

 

 

 

 
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お盆と死者。

2010年08月09日 | 季節の話題
 暑い夏も半ばに差し掛かったと言えるが、日本の多くの地方では「お盆」に纏わる行事や花火大会や祭りが繰り広げられている。

 日本人にとって、「お盆」は、先祖代々の「霊」が帰って来て、故郷におられて、また「送り火」という形で「あの世」に帰って行かれるという「信仰」と言うべきか「言い伝え」により、多くの人たちはお盆に里帰りやお墓参りをされるのである。

 京都では五山の送り火として、「大文字」、左大文字、舟形などの焚き火で山に字や形を描いて、死者の霊を送る慣わしが昔から続いていて、今や「季節の風物詩」として、観光客のお目当ての「見物」の対象ともなっている。

 全国各地で行われている風習や宗教的行事も、その謂れや意味よりも、近頃は「花火大会」や「お祭り」と同様に、みんなが愉しむ「季節行事」としてのイベントと化している場合の方が多いようである。

 今日仕事で出会った80歳になるというおばぁさんは、小柄だがしっかりとして口調で20数年前に亡くなられたご主人のことを話されていた。

 まだ55歳だったというご主人が仕事帰りに地元の狭い幹線道を20キロほどの速度で家路へと軽自動車を走らせておられたところ、何と猛スピードで横道からパトカーに追走されて走りぬけようとした3ナンバーの大型自動車に運転席を直撃されて、40分後に救命処置の甲斐なく亡くなられたというのである。

 一方的な衝突で、突然の死を迎えられたご主人の無念さを、今も思い出すと涙が出てくると仰るのだが、その加害者の運転手と同乗者は、なんと16歳の無免許運転でシンナーを吸っている少年たちだったというのである。

 彼女の無念なお話を聞きながら、「お盆にお墓参り」にいかれますかと訪ねると、いや主人の墓地は遠いし、そこに主人はいないから、自分の家の仏前や遺影に手を毎日合わせていると言われるのであった。

 そういえば、「私はそこにはいません・・・」と歌った「千の風になって」が大流行して、私の孫もピアノを片手で弾いて、この曲を演奏していたことがあったっけと思い出した。

 今日は、長崎に原爆が投下された日から65年の日だったのだが、広島被爆の日と共に、日本では8月15日の第二次世界大戦の終結の日である日と共に、一連の「お盆週間」という感じとなっているので、この期間の前後が日本国中が、「鎮魂の日々」となっているようである。

 しかし、昨今は戦後65年も経ったせいか、「お盆休み」としてのレジャーや帰郷、または海外旅行をはじめとした避暑や海辺への行楽のための「お休み」といった感が強くなっている。

 確かに、死者は見えないし、本当に「霊」が帰ってきてるのかは定かではないので、各々が心の中で、先祖や死者を敬う気持ちで少しでも過ごせたら、形だけではなく良いのだろうと感じている。

 テレビのインタビューに答えていた男の人が、「あの世でもカンバッテほしい!」と言っていたが、なにを頑張るのか、違和感すら感じたコメントもあり、それぞれの思いを死者に重ねて「祈り」「願い」「思い出す」期間としたいものだと思った。
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