ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

大分のカボス。

2009年09月30日 | 季節の話題
 秋が深まる季節になり、毎年の様にこの季節に私の友人から贈られてくるうれしい贈り物が届きました。

 大分県豊後大野市の市長に今年の春なった橋本裕輔氏からのプレゼントで、「カボス」であります。

 この「カボス」は、間違いなく私の大好きな柑橘類の一種なのですが、スダチ(酢橘)よりも大きく漢字で表記すると臭橙、香母酢と書くそうで、英語ではCitrus、つまりシトラスと称して、男性の整髪剤や芳香剤によく使用されているものと同様の香り高いミカン科の常緑樹になる果実なのです。

 柚子の一種とも言われる近縁種で、枝には鋭い棘があるそうで収穫には注意が必要らしい

 小さこれからのな箱一杯に鮮やかな緑色した「カボス」がたくさん詰められていて、これからの「秋の味覚」を楽しむには、相当活躍しそうな柑橘類として大変嬉しい贈り物なのである。

 カボスの果肉は黄白色で、多汁で酸味が強く果汁を絞って食用、つまり「秋刀魚」や「サラダ野菜」などに搾って使うと、とっても美味が増して「秋の香り」を更に楽しめるのである。

 カボスが大きいと表現したが、スダチが平均30~40グラム程度なのに比べると三倍強の100グラムから150グラムもあり、生汁を絞って、砂糖を適量入れてカボスジュースにしても美味である。

 カボスの果汁の香りは独特な酸味であり、刺身や焼き魚などの薬味として用いられることが多いが、鍋料理のポン酢や酢の物の調理にも用いられる。

 大分県の友人が栽培して毎年秋に送ってくれている「カボス」は、大分県の農産物の中でも有名な特産品のひとつで、多種多様なカボス人形やストラップなどにもなっていて、多様なキャラクターグッズの販売もされ、テレビ番組「カボスタイム」も放映され活躍しているみたいである。

 地元大分県では、カボスの需要は日常的であるらしく、味噌汁、パスタに絞られる他、種々の料理に日常的に多用されているらしい。

 カボスは、最近話題になっている「エコノミークラス症候群」と称される、長時間の航空機機内での足のむくみなどの血栓症に対しての予防効果がある可能性が高いとの研究結果が2006年7月に発表され、商品化の取り組みが行われているらしいし、カボスにはヘスペリジンと称される物質が多量に含んでいて、善玉コレステロールを増やし、血栓の溶解につながるらしい。

 2003年に大分県で開催された「全国都市緑化フェア」では、マスコットとして「カボたん」もカボスをモチーフにして活躍し、フェア終了後も様々なイベントでも親しまれて、みうらじゅん氏から「ゆるキャラ」に認定されたみたいである。

 いずれにせよ、毎年恒例となった大分からの大きなカボスの贈り物が、我が家に「食欲の秋」をもたらせてくれるきっかけとなるであろう。
 
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執着からの自由が真理。

2009年09月29日 | 感じたこと
 政権交代によって、野党に転落した自由民主党の総裁選挙が全く盛り上がらないままに終わった。

 世代交代や派閥解消を唱えた河野太郎氏と西村氏共に46歳の国会議員としては若手の二人だったが、64歳の谷垣禎一氏が国会議員票も全国の自民党党員票も六割を獲得して「首相でない総裁」に選出された。

 どうも、谷垣新総裁の自民党が再度政権を奪取するという掛け声が、遠吠えの犬の空元気の様にしか聞こえなかったのは、気のせいなのだろうか。

 いずれにせよ、十数年前の細川連立内閣の時に総裁に選ばれた河野太郎氏の親父と同様に、戦後の自民党政治の中では、二度目の首相でない総裁として、次期参議院選挙や四年任期の衆議院選挙まで、どのような野党としての国会論争を聞かせてくれるのか楽しみである。

 二週間が経過した新内閣も、ようやく鳩山首相のアメリカでの国連総会をはじめとした初の外交日程からの帰国で、実質的な指示系統や組織と手法が見えてきたようである。

 「国家戦略室」という名は如何なものかと思うのだが、従来の省庁の縦割り的「省益を守る」ことを最優先に官僚たちが八月末に提出していた来年度予算の概算要求を白紙に戻して、民主党のマニフェストに記されていた「国民との約束」を最重要課題として、まず予算を捻出し、無駄の多かった従来型の予算の組み方を改めて、ゼロベースから見直すという。

 菅直人国家戦略室担当大臣をリーダーに、仙石行政刷新担当大臣らとスクラムを組んで、自民党、公明党連立内閣時代の官僚主導の予算の決め方、執行の仕方を改めて、政治家主導の大臣、副大臣、政務官のトリオでの協議、決定を最優先した各省庁運営が始まるのである。

 つまり、今までの政治の考え方は、ともかく「前例主義」、「踏襲型」であったのだが、今後は各省庁の国家公務員、省庁職員は、政治家である大臣の指示、予算案を遂行するための「公僕」としての仕事に従事する、本来の公務員の姿になるのである。

 政治に理念が必要なのだが、従来の自民党型政治の根本は、地域や組織、団体への利益誘導が主な仕事であり、国民目線、生活者としての有権者の声なき声がほとんど届かない「理念なき政治」だったと言わざるを得ない。

 今後少なくとも四年間を託した鳩山首相をトップとした新内閣は、従来のあらゆる「執着からの自由を」目指していただきたい。

 その「自由」こそ、その新しい理念こそが「真理」であるという自信を持って「理念ある政治」をリードしていただきたいと願うものである。

 この「執着からの自由とは神を真理として現実化させることである」と語った、あのインド独立の師、マハトマ・ガンジーの名文句である。

 マハトマ・ガンジーは、非暴力運動で、インドのイギリス連邦からの独立を指導した政治家であり、西洋文明とは別の考え方に異議を唱え、独特の大きな愛でインドをリードした素晴らしい政治家でもあった。
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三回言うて分からん奴はアホ。

2009年09月28日 | 地域の話題
 秋が深まりだした感じの今日この頃だが、日中に暑さを感じても間違いなく夕刻から夜半にかけては、虫の音も聞こえて「秋を感じる」季節となった。

 「暑さ、寒さも彼岸まで」という言い伝え通りの「秋の季節」は、何をするにも快適で、先週の日曜日などは、全国的に「運動会」日和で各地で元気な子どもたちの歓声が聞こえていて、お母さん、お父さんだけでなく、最近はおばぁちゃん、おじいちゃんの観戦、参加が多く賑わっているようである。

 近くの地元の小学校の一つは、残念ながらの「インフルエンザの流行」で、例のシルバーウイーク前に「全校休校」となったために、一週間運動会を延期したというが、来週には実施されるらしいので、一件落着である。

 そういえば、この「インフルエンザ騒動」は、今年の2月頃から「メキシコでの大流行」や「豚インフルエンザ」として紹介されて以来、日本では5月頃にテレビマスコミを中心に、自民党内閣の前桝添厚生労働大臣の早朝、深夜の記者会見という異常なパフォーマンスで、大騒ぎした頃は、町行く人の多くがマスクを着用し、マスク不足で、百円ショップのマスクがウェブ上で千円以上で取引されたりと大変であった。

 しかし、今や日本中での毎日の患者数が何万人という状態にも関わらず、街中ではほとんど「マスク着用」の人を見かけないという、珍現象になんとも可笑しな「熱しやすく覚めやすい」、国民性とでも言うべき、不可思議さを感じるのは私だけではあるまい。

 先週末の私のささやかな移動有機八百屋のお客さんとの会話の中で、ある奥さんとの楽しいおしゃべりがあった。

 それは、その奥さんのお姑さん、つまりご主人のおかぁさんが何かにつけて仰っていた「三回言うてわからん奴は、アホと諦めなあかん」という迷文句であった。

 世の中に、ほんとに聞き分けが悪いとでも言うべきか、何度言っても理解すら出来ない輩がたくさんいるのであって、政治家の世界にも異常に多くいると思われるのである。

 せっかくの民主党を中心とする連立内閣が発足して、まだ二週間も経っていないのに、亀井某国民新党代表である新大臣の発言に対して、藤井財務大臣が手を焼いているし、石原都知事の先棒をかついでか、鳩山首相が2016年のオリンピック開催地として名乗りを上げている誘致活動の決定時にデンマークにわざわざ行くという日程を組むらしい。

 私にとっては、どちらも必要のない行動や言動だと思うのだが、亀井大臣は少数政党の代表であるだけで、内閣の中枢である民主党の財務大臣が遠慮せず、はっきりと決断すべきだし、鳩山首相も東京オリンピック誘致などに力を注ぐ石原都知事に協力する必要はなく、無駄遣いの一つとして「オリンピック誘致」を断念させるくらいの指導力が必要なのではと思っている。

 あの一世を風靡した「世界のナベアツ」も、今は昔、時の人だつた頃には、幼稚園児まで、「一、二、さーん」と「アホ顔とアホ声」を上げていたのが嘘の様に消えてしのまっている。

 「三回言うて分からん奴はアホや」は、庶民の知恵としての名言である。

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石川遼君来洛。

2009年09月27日 | プロスポーツ
 今日、午前中から午後にかけて、私の住む京田辺に流れる木津川の対岸に近い城陽カントリークラブ周辺の鴻巣山一帯は異常な人出で賑わっていた。

 ここで開催されている「パナソニック・オープン」と称する日本プロゴルフ協会に属するプロゴルファーたちが出場する「賞金争奪のゴルフ大会」が、その原因であり、その大半のギャラリーというべきかお客さんが、あのハニカミ王子と一時騒がれた「石川遼選手」みたさの見物客のせいであった。

 地元の最寄の駅前からは、何台もの直接現地のゴルフ場へと送迎する「チャーターバス」が行き交い、道路のあちこちには警備員が立って、交通整理を必要とするぐらいの賑わいとなっていた。

 四日間の大会の最終日であり日曜日の晴天で、どっと人出が増えたのかもしれないが、若い女の子たちの連れも混じってはいたが、多くは中年のおばちゃんたちであった感じである。

 日頃は、「ゴルフなんてやらない」おばちゃんたちが、テレビで一躍有名になったタレントや俳優、歌手を追っかけるように見物に出向くのと同じと思われる心理で、プロゴルファーたちの戦いの場である「ゴルフ場」に大挙押しかけて、思い思いのモラルなきシャッター攻勢やおしゃべりで、彼らのスポーツを邪魔しているようである。

 確かにプロスポーツは、魅せるものだが見世物として観に来る人たちによって成り立っている背景はあるのだが、全く選手、競技者の心境や真剣さを省みずに、邪魔な物見遊山のファンというよりも、輩たちが混じっているのである。

 昨日か一昨日に出かけたある近所の中年の夫妻の弁によれば、石川遼選手も、あまりにも酷い、観客のカメラのシャッター音に根をあげて、「静かにしてください!」と叱ったそうであった。

 それでも、お喋りをやめない人やカメラのシャッターを自分勝手に切る人たちに対して、キャディーさんも怒って、注意を繰り返していたそうである。

 先日18歳になったばかりの、まだ高校生でもある「石川遼選手」は、今や世界に名を馳せている「プロゴルフ界のプリンス」なのだが、ただ直接顔を見たいだけのミーハー的精神で、ゴルフのプレーそのものの邪魔をしている人たちの失礼さはあまりにも許せないものである。

 世界の「タイガー・ウッズ」に憧れ、尊敬し目標とする偉大なゴルファーに少しでも近づこうと必死に努力し練習し頑張っている若き天才的ゴルファーの将来を祈りつつ、決して野次馬的観客として集まっている人たちに恨みはないが、自重していただきたいと思ったものである。

 今回の「パナソニック・オープン」の四日間の成績は、優勝した選手に遠く10打差以上及ばない、パーマイナス3の結果だった「石川遼」選手だったが、決して観客だけのせいではないと思うが、観客のマナーの悪さに少しは苛立っていたことだけは確かな状況があったらしいので、敢えて苦言を呈したいと思った。

 
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厚生労働省の改革。

2009年09月26日 | ちょっと可笑しいよ
 鳩山首相の下で組閣された各大臣ポストの内、一番たぶん嫌がられた感の強いのが、厚生労働省の「長妻昭新大臣」だろうと思われる。

 初登庁の日のテレビ報道の映像でも、厚生労働省の職員が玄関で出迎えてはいるが、みんな笑顔がなく、誰も拍手もされなかった様子であった。

 そもそも、民主党の「年金追求の先鋒」と呼ばれた、長妻昭議員なのだが、今後の厚生労働省が抱える課題は多種多様であり、「年金改革」だけではなく、後期高齢者医療制度と障害者自立支援法という、自民党政権末期に制定された「弱者に応分負担」をという天下の悪法のいずれも廃止の方向へのチェンジがある。

 厚生労働省という役所は、いつのまにか「厚生省」と「労働省」という従来の霞ヶ関の官僚を一緒に同居させた新しくて古い省なのだが、桝添前大臣の場合もそうであったように、厚生省管轄のテーマや政策は目立つのだが、労働省管轄の政策や問題がなかなか報道されていないのか、分かりにくいのである。

 やはり現代日本社会での多種多様な課題の中で、一般国民、庶民が願う「雇用問題」や「子育て、育児をしながら」の就職、雇用の現実が非常に厳しい状態にあると言っていいと思う。

 確かに幼い子どもを持つ母親の「雇用と保育」の問題では、厚生省管轄の保育所政策と雇用と就職による「子育て世代」の仕事という労働省管轄の施策が、うまく連携が取れればいいのだが、現実は、仕事が先か、保育が先かで、若き母親たちは右往左往しているのである。

 ぜひ、せっかくの「厚生労働省」なのだから、この従来からの矛盾した問題にも、新たな連携ある施策を打ち出していただき、幼い子どもたちを子育てしながら、働きやすい環境づくりを、すっきりとした制度としての「受け皿」を二重行政ではなく、分かりやすく便利に活用できるようにしてもらいたいものである。

 民主党政権での多くのチェンジ、改革の期待の中でも「厚生労働省」管轄の目玉は、なんと言っても「弱者切捨て」の感があった、「後期高齢者医療制度」と「障害者自立支援法」の二つの「法律の廃止」による、新たな社会的弱者に暖かい「生き方支援」が必要なのである。

 特に「障害者」という社会的にも「生き難い」方たちに、生きるための支援やサービス毎に「一割負担」させるという「いじめ」にも等しい制度の廃止と、長寿を喜ぶはずなのに、75歳になると新たな負担を強いられる「後期高齢者医療負担制度」を抜本的に改めて、健康で長生きするための支援を根本的に見直していただきたい。

 ニッポンという国が、本当の意味で、高齢者や障害者に「優しい国」、つまり「福祉国家」と呼ばれるためには、多くの議論と共に北欧先進国などの「支援と自立」に繋がる「法律」を学び、日本的解決策を時間をかけて提示していただきたいと切に願っている。

 誰もが、いずれは「高齢者」や「障害者」と呼ばれる長寿やハンディを持つ者になるのだから。
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25%への挑戦!

2009年09月24日 | 世界の問題
 民主党の新政権を担う、鳩山由紀夫首相が初の外交日程としての「国連総会」での演説で、日本は地球温暖化対策として、二酸化炭素の排出量を1990年を100として、なんと25%削減すると全世界に公約した。

 民主党を中心とする「政権交代」の目玉的施策として、首相に選任された直後から鳩山首相は、この達成目標値を掲げて、2020年には目標を達成したいと述べていた。

 世界の主要国だけでなくたいていの国が参集している「国連総会」においての一般演説で、思い切った日本の発言は、おおむね歓迎されていて、「言うだけでなく実行可能な努力が必要」といやみな苦言も呈されている。

 世界の先進国の中には40%削減を打ち出している国もあるが、日本の前内閣の麻生首相は8パーセントを公言していたので、突如政権が変わると3倍強の目標値になったことになり、世界各国から思い切った日本のリーダーシップに期待する声も起こっている。

 「言うや易し、行うは難し」の格言の如く、世界にアッピールした発言とはなったが、日本国内の特に産業界からは一部ブーイングに近い苦言と共に、経済がより停滞するのではないかとの懸念が取りざたされている。

 何事も思い切った決断と方針を掲げた場合は、抵抗や反対意見が出るのが常なのだが、今回の地球温暖化防止に向けての日本政府の決断と決意については、「チャレンジ」あるのみなので、多種多様な方策を具体的に早速提案していただきたいものである。

 一部には「高速道路の無料化」や「ガソリン暫定税率の撤廃」などの新政権の政策で自動車交通の排出するCO2の排出量が増加し、この25%とは逆行した施策ではないかとの論議も出ている。

 鳩山由紀夫首相や福山哲郎議員などの説明によると、国内での排出権取引をはじめ、先進的省エネ科学技術力の著しい発展による、排出量の大幅削減が見込まれ、大企業や二酸化炭素を大量に排出する企業が積極的設備投資をし、家庭生活での排出量の削減努力も加えれば、十分可能な削減目標だといわれている。

 しかし、2009年現在、既に1990年度に排出した二酸化炭素排出量を100として場合、一昨年度でも12パーセント強の増加を記録していると言われている日本の現状にあって、2020年に25%削減に近づけるのは並大抵の努力だけでは達成できない大変な数値なのである。

 ヨーロッパ、EU諸国の先進国の削減目標はそれ相当の覚悟で国ごとに設定されているが、問題は間違いなく世界一の経済大国である「アメリカ合衆国」と第二の経済大国にのし上がっている「中華人民共和国」であり、続いてインドを含むアジア諸国、アフリカの新興国なのである。

 地球環境問題と言われている所以はそこにあって、決して一国、一政府の決断や決定で「地球環境保全」が達成できるわけではないのは自明の理なのだから、この国連における「鳩山演説」を機に世界に積極的に、日本の地球環境への負荷を削減する技術とアイデアを売り込み、世界全体で努力、協力するイニシアティブを持つべきだと思うのである。

 平和と地球環境保全への貢献は、日本が自信を持ってリーダーシップをとれる政策なのだから。
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「孫」と「母」の手をひいて。

2009年09月23日 | ファミリーイベント
 昨日、いつものように母のいる大阪へと妻と娘と孫二人を連れて一緒に行った。

 一昨日が敬老の日で、今日が秋分の日だということもあって、ちょっとした「親孝行」のつもりもあって、元気な二歳半の男の子ともうすぐ八歳になるお兄ちゃんを連れての老人ホームへの訪問だった。

 昼下がりの住宅街を母を誘って散歩に出た。

 一ヶ月前に「閉塞性黄疸」のために緊急入院して、処置をしていただいてから約三週間で退院した母だが、実年齢が今年の暮れの誕生日を迎えると、なんと93歳になるという長寿の母の健康のためもあっての「近くの公園への散歩」であった。

 近くの公園までは二百メートルほどの距離だが、辛うじて自分で杖もつかずに歩ける母の手をとって、ゆっくりと一緒に歩くのであった。

 もうずいぶん前から、こうして母の手を軽く握っての散歩を時々しているのだが、よーく考えると幼き頃、逆に母に手を握られて歩いていた頃のことを、もうすっかりと忘れている自分に気づきつつ、なんともちょっとシャイな気持ちになることがある。

 そう言えば、妻の手も、もちろん娘の手も最近握ったり、手を繋ぐことがないことに気づきつつ、何かあっても、ちょっと恥ずかしさとテレもあって、素直に手を差し出すことが出来ない自分に気づくことがあった。

 母のやわらかく年老いた手のぬくもりを感じながら、公園からの帰途は右手に母の手、そして左手は孫の手を握って歩いていた。

 右手につながれた老母の手は、92歳の年齢を感じさせない『苦労の手』、そして左手には、2歳と六ヶ月の元気なやんちゃ坊主の孫の手である。

 なんとも不思議な感触が両手から伝わってきて、ともかく「幸せ」な散歩のひと時となった。

 男性、女性の性別はともかく、それなりの大人になると、恋する時代を除いては、なかなか人と人が手を繋ぐことが少なくなってしまうのだが、やはり「人間の手」は、「手から手へ」と感じる温もりや優しさが直接感じられていいものである。

 決して「孫の手」だけでなく、突然「手を繋ぐ」とビックリされるかも知れないが、たまにはチャンス?があれば、妻や娘や友人たちの出会いの際にもね「手を繋いで」みたいものである。

 男同士や、久しぶりに会った友人たちとは、「握手をする」ことはあるのだが、一緒に歩いたりする時に「手を繋ぐ」ことは全くない。

 野山や自然の中を散策する時などは、自然にお互いを思いやって「手を差し伸べる」チャンスがたくさんあるようにも思うが、日頃の習慣になってしまっているためか、なかなか素直に手を出せない場合が多いものである。

 余談だが、鳩山由紀夫新首相が、初の外交日程としてのアメリカ訪問の旅に出て、政府専用機と思われる飛行機のタラップを降りる時に、幸夫人と手を繋いでおられる光景を見て、ちよっと羨ましくもあり、ちょっとした勇気が必要だとも思った。

 母の手と孫の手だけでなく、妻や娘ともたまには「手を繋ごう」と思った。
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敬老の日。

2009年09月22日 | 感じたこと
 ここ数日を今年は「シルバーウイーク」と称して、高速道路の千円割引を口実に全国津々浦々で「渋滞」が生じていると行楽や旅行ばかりが報道されているが、もともと、この九月は「敬老の日」と「秋分の日」というちゃんとした「祝日」があったのだ。

 一連のゴールデンウイークもそうだが、「国民の祝日法」なるものを勝手に改正して、連休を作って経済的効果を狙うという安手の大売出しのような施策で、結局国民の多くは「何の日」とか、意味をかみ締めたり記念したりという感覚が遠のいているようである。

 決して文句を言っているのではないが、この「敬老の日」の意味は、これからもっと高齢化社会になる日本社会の現実にとっては重要かつ、将来を憂う人たちと共に、国民全てが真剣に考えねばならない課題ではないだろうか。

 確かに「年金問題」や「高齢者の雇用」の問題も大きな政治課題であり、新たな民主党政権による再検討ならびに可能な限りの改革を期待したいところだが、人は金のみで生きるわけではなく、生きがいや幸せを感じる日々が大切なのである。

 私の母も超高齢者の一人で、日常は有料老人ホームの自分の居住空間で過ごしていて、朝、昼、夕の食事はもとより、部屋の掃除、お風呂の介助、おやつタイムやレクレーションと、施設の職員の方々のお世話になっている。

 私自身は、仕事の休みの日を利用して、一週間から二週間に一度は大阪の母を訪ねることにしているのだが、今日は娘と孫の男の子二人と共に夫婦で、母を訪ねた。

 いつものようにロビーのテレビの前で寛いでいた老いた母は、私たちの訪問に目を細めて喜んでくれ、特に幼いひ孫たちの訪問には喜びを顔中にあらわせていたようであった。

 そういえば、老人福祉施設においての、特に認知症のお年寄りたちに対する「アニマルセラピー」と称される、犬や猫を連れて行っての「癒しの時間」を定期的にスケジュールに入れている施設があると聞いていた。

 かわいいアニマルたちの訪問で、お年寄りたちが和むことは大いに結構だと思うのだが、犬や猫が嫌いなお年よりもおられるはずで、必ずしも万人に「セラピー効果」があるとは言い難い。

 今日、何気なくひ孫たちの行動や言動を見聞きして、喜んでいた老いた母を見ていたのだが、施設の他のお年よりも、間違いなく目を細めて嬉しそうに見守っておられたことを目撃したのであった。

 「チャイルドセラピー」とは、別の意味で行われている、自己啓発的行為であったりもするらしいが、何気ないお年寄りたちの空間に明るく元気な幼い子どもたちが加わるだけで、どんなにか高齢者の心に「和みと癒し」を与えることができるかと痛切に感じたのである。

 これからの超高齢化社会にあって、地域社会においても、施設においても、ぜひ普通の人間関係としての、子どもたちのいる空間をお年寄りたちにも感じられる機会、すなわち「チャイルドセラピー」を意識した活動やイベントを企画してみては如何だろうかと提案したい。
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発想の転換。

2009年09月21日 | テレビマスコミ
 鳩山由紀夫首相をリーダーとする民主党、社民党、国民新党の連立内閣が始動して、まもなく一週間という時が経過しようとしている。

 早くもテレビマスコミをはじめ新聞各社においても、新政権についての感想や支持率のアンケート結果などを発表し、新しい内閣への期待度を背景に、大いに議論がなされている。

 そんな状況の中で、特に目立つのが従来の与党であった自民党ならびに公明党などの議員からの「財源問題」や「脱官僚政治」に対する疑問や反発である。

 そう急ぎなさんな。とでも言いたい感じだが、彼らの発想そのものが、長年続いた自民党を中心とする政治、すなわち「戦後ニッポンの政治スタイル」そのものの考え方を背景にした問題提起にすぎないと感じるのである。

 民主党新政権が掲げる各種マニフェストを実現するためには、思い切った「発想の転換」がなければ実現しないと言っても過言ではない「政策」「手法」が目白押しだからである。

 その顕著たる象徴が「国土交通省」と「厚生労働省」であり、前原誠司大臣と長妻昭大臣をトップとする政治家主導の行政運営なのだろう。

 特に、前原国土交通大臣と馬渕副大臣、辻元(社民党)副大臣のトリオを中心とした若手の政治手法ならびに政策実行力に期待したいものである。

「八ツ場ダム」問題だけでなく、全ての公共事業としての建設を中心とした「設備投資」を総点検し、ほんとうの「無駄」を洗い出して、再検討の土俵で議論してもらいたいものである。

 ニッポンの政治風土そのものが、昔から「土建屋政治」と揶揄されてきた如く、まず税金を「おいらの地域、地方に落としてくれる」という地元実力者と言われた旧態型の政治家によって進められていたという「手法」そのものに問題があったのだから。

 私が市議会議員をしていた頃、京都府下の地方都市の市議会議員選挙の応援に個人的に行った時のことであった。

 著名な実力派の自民党大物代議士のお膝元といえる、その地方都市で元気な市民運動をバックに「市民派として立候補」した女性候補者が街頭で演説していたのだが、ある年配のおじさんが犬の散歩の途中で、我々の選挙活動の前を通って、私にこう質問したのであった。

 「あの人、力あるんか?」、つまり、あの女性候補者は、「地方に税金を還元する実力」があるのかと問うたのであった。

 その後、その御仁は、延々と地元有力自民党代議士の「実力ぶり」をほのめかして、嘲笑する様に去っていったのであった。

 しかし、駅前で街頭演説していた自民党系市長候補のおじさんは、ほとんど何も自分の言葉では語らず、ウグイス嬢と称される女性が、とにかく書かれた原稿の公約的コメントを繰り返し読んでいたので、私が直接候補者に問うてみたのであった。

 しかし、その中年候補者は「頭を下げる」だけで、自分自身の言葉でやはり語ることはなかった。

 「何をやりたい」「どういう社会にしたい」などと言う政治家としての理想や夢がないままに、他人から推されて立候補したとしか思えない御仁であった。

 ともかく「発想の転換」は、不可欠であり、私たち有権者、市民も「発想」を転換して見守らねばならないのである。
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とっても美味しい「芋ご飯」

2009年09月20日 | 季節の話題
 暑さ寒さも彼岸までとは昔の人が言った言葉だが、今も間違いなく「秋のお彼岸」を前にして、朝晩は特に涼しくなつてきて、「秋本番」を感じさせてくれる季節となった。

 ただ厄介なのは、例のインフルエンザの流行であり、我が京田辺市の北部地域の地元の小学校は、なんと運動会を前に大流行の様子で、クラス閉鎖が相次いだ上に、シルバーウィークの連休前に「全校閉鎖」、すなわち学校が休校となってしまった。

 楽しみにしていた子どもたちの運動会を来週に控えていたこともあっての決断らしく、この一週間になんとか皆が元気になるか風邪をひいてしまつた人も全快して、一週間延期されることになった「秋の運動会」を無事行えればとの決定だったと思われる。

 いずれにせよ、秋本番は間違いなく、運動会をはじめとするスポーツの秋を筆頭に、美術、文学、行楽など秋にふさわしい楽しみが一杯だが、やっぱり忘れてはならないのが、「食欲の秋」ではなかろうか。

 私たち団塊の世代を中心に20年近く続いている「男の料理サークル」の有志が始めた「月一ランチ」もめでたく一周年を迎えるのだが、9月のメニューは、「芋ご飯」と「甘酢あんかけ秋野菜」、「ベトナム風春巻き」であり、これにお豆腐の味噌汁と香の物がついて、しめて600円のワンメニューだが、自然派ランチで美味しく召し上がっていただくために、一週前の今夕に念入りのリハーサル、つまり試作と試食を行った。

 主要メンバー五人が集い、あれやこれやと手順と段取りを決めながら、いつもの調子で料理する時間は長くても1時間ほどで、出来上がった料理に舌鼓を打ちながらの合評が続き、来週の正式メニューと食材が決まるのだが、今日の「芋ご飯」はとてもうまかった。

 私より年配の戦前派の御仁は、「芋ご飯」と聞けば、戦時中を思い出すと言われていたが、ご飯というよりも米の代用食としての「サツマイモ」を主とした主食で、米は少ししか入っていなかったという。

 また「芋粥」や「押麦入りのご飯」など、懐かしさというよりも、その時代の辛さや食糧事情の悪さを思い出されることとなったみたいで、私の様に「美味しい!」と手放しで感じられたかどうかは定かではない。

 この「サツマイモ」の甘さと有機の芋なので、皮ごと小さな角切りにして炊き込んだので、色も茶と黄色が鮮やかな上に、甘さが引き立っていてご飯はいくらでも食せる感じだった。

 おかずとなった「甘酢あんかけの秋野菜」は、秋茄子を焼いた上に、秋野菜としてブロッコリーと万願寺とうがらし、シメジなどを煮込み、タイガー海老を入れて、色も鮮やかにして餡をかけたもので、ちょっぴり秋を感じた。

 でも、庶民の料理であるがゆえに、松茸や高価な食材は用意してないのだが、みんな思い思いに家庭れ料理の経験から、ああした方が美味しいとか好きだとか提案や手法の異論も出た。

 秋の夜長、私たちは月に一度の第四日曜日に、宇治の宇治警察署手前の赤提灯の古い店で、自然派ランチを出している。

 ぜひ、一度近くにお越しの節はお立ち寄りくださり、味わっていただきたいものです。
 
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