ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

後見サポーター養成!!!

2014年03月23日 | 感じたこと
昨年の秋から、友人の薦めもあって参加した「法人後見サポーター養成講座」の全課程の講義と施設見学、家庭裁判所見学など全日程を修了したため、本日他の6名の受講生と共に、修了証書を授与されて、何とか後見人のサポーターとして、近いうちにデビューし、被後見人の方のためのお手伝いが出来る様になったのである。

 と言っても、特別な資格や専門家としてのスキルや知識を得たというわけではなく、基本的な後見制度を取り巻く情報、知識を学習したに過ぎず、これからが本番と言うべきか、実際の被後見人、つまり認知症や精神障がい、知的障がいなどの事情により、自分の日常生活における簡単なことから、財産管理なども含む、判断能力が低下もしくは厳しくなった方々に対する後見人の委嘱があった方をサポートするお手伝いを始めることで、より細かな実態にあった多種多様な対応を、法的にも学びながら、その方のより良い生活のために少しでも役立つお手伝いが出来ればという気持ちで行なうささやかな支援活動となるのだろうと思う。

 世の中では、まだ多くの方々に市民権を得たとは言えない、成年後見制度なのだが、現代の日本社会が少子高齢化の進む中で、私たちも社会的には所謂「高齢者」の仲間入りをしているのだけれど、幸い心身ともに健康に恵まれているために、所謂社会的弱者とも言われるところの、自己判断や管理能力の低下した高齢者や障がい者の手助けをするという、民法をはじめとする法的根拠のある活動としての「後見人制度」なのだが、まだまだ認知されているとは言いがたいのが現状ではないだろうか。

 私自身は、大学時代の同級生の友人の誘いから、この後見人制度の現状を少しづつ知り、今回約6ヶ月間で50単位に及ぶ講義とスケジュールを経験し、後見人を必要としている認知症や障がい者の現状を知るに至たったのだが、今までの人生での出会いや仕事の関わりからの出会いで、出来れば後見人がおられれば、より日常生活の安心や向上が図れるのではないかと思われる方々とも出会う機会があったので、今後の経験を踏まえて、徐々にお役に立てるケースが増えて来るのではないかと思うのである。

 例えば、後見に関る個人の方の情報や特定できる様な具体的名称などは、当然公的な制度による後見人制度なので、全てが守秘義務が生じるのは当然なので、具体例としては記すことは出来ないのだが、ある障がい者と目されるご家族の場合、家庭生活上での財産管理と共に生活環境の整備というべきか、衛生面も含む家の内外の基本的な整理や清掃がほとんど出来ていない現状などを見聞きしていて、可能ならば後見制度の利用を活かせれば、たぶんその方の家庭生活のクオリティが上昇することは間違いないと思うケースがある。

 また認知症の進み具合によっては、ご一緒に住まわれているご家族がおられない場合、ご本人の金銭管理や日常生活での食事や冷暖房などに必要な火気の取り扱いなどのリスクとも言うべき危惧に対しての、身上監護と財産管理をご家族の中のどなたかか、第三者の後見人の委嘱を通じて、より安心かつ、ご本人にとってより望ましいと思われる状況に近づけることのお手伝いが出来るものと確信するのだが、なかなか後見という制度ならびに後見人という第三者に依頼するという信頼を得るまでには時間が要する場合も多いと思われるのである。

 多種多様な家族関係や、孤独な一人暮らしのお年寄りもおられる現状ですが、20世紀までの社会福祉の制度は大半が、国や自治体行政が一方的に良かれという「措置」という形でサービスもしくは支援をしていたのですが、21世紀に入り日本でも介護保険制度がスタートし、まだまだ課題は多い部分もありますが、一応サービスを受ける側である高齢者や障がい者が選択できる支援制度に変化していることは、皆さんかもご承知だと思いますが、この後見人制度も、その精神の下で民法や後見制度に関する法律に基づいた公的支援制度なので、今後の活用が拡大されることが期待されているのが現状です。

 私たち、今回後見サポーターとして養成講座を修了した者は、七人と少ないですが、昨年の受講修了者10人と共に、少しでもたくさんの後見人を必要とされている方の増加の時代に、後見人をサポートして、直接、間接的に被後見人である、認知症や知的、精神などの障がいによる判断能力の低下した方々の生活の安心と向上のために、少しでも寄与できればと、今後少しづつ担当して支援にお役に立てるようにと今日終了証を手にして決意した次第です。
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大阪、京都の選挙

2014年03月11日 | イベント
 大阪市長選挙が告示され、橋下徹前市長とその他3人の候補者が立候補された。

 多くの市民だけでなく、全国の国民が「何で?」と不思議に感じていると思うのだが、橋下前市長当人だけは?、大義名分があると言い放っていて、他の候補者はそれぞれに、「都構想」には批判的に第一声を上げたらしいと、告示日のテレビは伝えていた。

 私も元大阪市民として、この市長選は何のために行なわれるのか甚だ疑問どころか、橋下徹前市長のお坊ちゃん的我儘としか思えないし、そのために使われる税金が5億円とか6億円とか耳にすると、益々無駄遣いの選挙だとしか思えないのである。

 ところで私の住む京都府でも、もうすぐ知事選挙が行なわれる予定で、今のところ現職の山田知事が自民、公明、民主などの推薦を受けて立候補される予定だが、対抗馬として立候補を予定されているのは共産党が推す尾崎さんというお医者さんだけという対決になりそうなのである。
 
 全国各地で行なわれる地方選挙は、47都道府県の知事を筆頭に現在ある700以上の市長と町村長選挙と共に、各都道府県議会議員、市町村議会議員とたくさんあるのだが、大抵は国会で政権を握り、与党と称されている自民党と公明党が推薦する候補と中には民主党などの野党も推薦するという統一候補がいて、それに対抗する候補者は共産党が推す候補だけという構図が圧倒的に多く、選挙という民主主義的手法がほとんど効力を発揮していないと言っても過言ではない選挙が多いのである。

 本来は、その自治体に住む誰もが被選挙権を有しているのだから、首長選挙はその地に住民票が無くても立候補できるという実態はあるが、いずれにしても選挙と言う手法が必ずしも選挙民である住民の意思の反映と言う形で首長や議員が選ばれているとは限らないのではないだろうか。

 と言うのは、政党やバックとなる組織的力量とでも言うべき力、すなわち金と応援する人たちの力によって、選挙運動の効果はてき面であり、一市民がいくら理想や夢を抱いて思い切って立候補したとしても、大半の場合は「勝利」することはあり得ないと感じている。

 東京都知事選挙が行なわれたのだが、舛添要一さんという候補者を自民党と公明党が推したが故に当選したという事実をテレビや新聞を中心とするマスメディアを通じて報道された情報などとは異なった結果だったと感じた人たちも多くいたと思うのだが、果たして選挙というのは公正正大に行なわれたと言えるのだろうか。

 例えば、原発についての国民感情は、いろんなアンケートの結果でも、原発は徐々にでも縮小してほしいとの願いを持つ国民と原発は廃止してほしいと願う国民が、約八割を占めているという現実があっても、原発推進派の舛添都知事が誕生してしまうのだし、国民、有権者の真の声や願いが必ずしも選挙結果に結びつくとは限らないのである。

 大阪市長と大阪府知事は、現在大阪維新の会、つまり日本維新の会をバックに当選した橋下徹氏と松井知事が務めていたのだが、現在の政治の風とでも言うべき、政党支持率では到底、他の政党がちゃんとした候補者を立てれば、維新の会の候補者が必ずしも当選するという土壌は既にもうないと見て間違いないだろう。

 しかし、今回の大阪市長選挙には維新の会以外の政党は、候補者を立てないという方針で市長選挙の告示を迎えてしまい、全然盛り上がりに欠く選挙戦となっていることは容易に想像できるので、来たる投票日の投票率も伸びないだろうし、低投票率でも橋下前市長の当選が自ずから決まってしまい、住民の意思とは関係ない感じで、橋下徹氏の独断的政治手法が続くだけと言う感じである。

 我が京都府知事選挙も、対抗馬としての尾崎氏を推す共産党がいくら頑張っても、現職知事を推している自民、公明、民主という政党的選挙戦と連合などの労働組合的組織のバックものを言うのは当然だとの見方が大半であり、多くの府民、有権者にとっても投票に行くというモチベーションが低い選挙であり、京都府知事選挙も低投票率となることは避けられないだろう。

 つまり、民主主
手も義という市民、国民、有権者の意思や政策選択と言う選挙の目的そのものが、とても危うい状況に瀕していると言っても過言ではない現状を、どう打開してらいいのだろうか。一人ひとりの有権者市民が真剣に考えねばならない危機の中にいる様に思うのは私だけであろうか。
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「頚椎症」だそうだ。

2014年03月09日 | とんでもない!
 先日、二月の末に珍しく風邪の症状が出て、たぶん10数年ぶりに健康診断以外で内科の医者の診察を受けることとなった。

 幸い、インフルエンザではなく3,4日は微熱があり、仕事をしていてもしんどくて大変だったのだが、何とかお客さんには迷惑をかけずに、いつもの愛車で木、金、土曜と走り、家に帰ればすぐに寝床で横になるという生活をして乗り越えることができた。

 しかし、昨年の暮れから背中、肩、そして左腕の痛みがとれず、約二ヶ月間も友人の整体院でマッサージを中心に、時には鍼を打ってもらって治療に専念したのだが、一向に治癒せず、車を運転していても左腕がだるく痛みがあり、右手でハンドルを握りつつも、左腕は伸ばしたりストレッチ気味に屈伸を繰り返したりして、何とか痛みと格闘していたのだが、この際内科医でもわかるだろうと症状を訴えたのである。

 すると、そたの内科医は「それは頚椎やね」と断言し、整形外科医に診てもらうようにとアドバイスしてくれたので、翌週に近くの整形外科に行き、レントゲンをとってもらったところ、間違いなく「頚椎症」だとの診断が下ったのであった。

 首から背骨に沿って並んでいる人間の大切な中心柱ともいえる「頚椎」なのだが、第一頚椎から第七頚椎まである中の、第五頚椎と第六頚椎の間と第六頚椎から第七頚椎にかけてが明らかに他と比べると狭くなっていて、この狭さが神経を圧迫し、痛みが生じてむいるということが判明したのである。

 その症状は、帰宅後ネットで調べたりもしたのだが、テレビの健康番組でちょうど「頚椎症状」についての特集をしていて、四十代の女性が急に手に痺れが生じて、お台所でもものをしっかりとつかむことが出来なくなり、お皿や食材を落としたりするようになり、しばらくして症状が進んで、手の痺れだけでなく、歩くことすらできなくなると言うひどい症状に苦しんでおられたという。

 しかし、MRIで細かく検査をされたところ、この「頚椎症」ということがわかり、思いきって手術をされ、頚椎の狭くなったところを切断し、金属を入れて補強し、狭くなった神経の通り道の脊椎には金具を入れて、今後狭くなるのを防止するという、まるで体内の工事の様な手法で大手術をされたことで、三ヶ月経過した現在は、毎日自由に歩ける幸せをかみ締めておられるという具体的な症例が紹介されていた。

 その費用は100万円以上かかるそうだが、高額医療費の負担は還付されるため、10数万円の保険医療費の負担で済み、何とか痛みや歩けないという症状からは回復されて、笑顔の毎日をおくっておられるという実例であった。

 私の場合は、よく考えてみれば昨年の夏に仕事中に国道を一直線に走行中に、たぶん居眠り運転だと推測される小型トラックに追突されたことがあり、その時は全然大丈夫だとていたのだが、ひょっとしたらその時に「頚椎」に異常が生じていたのかもしれないと、今になって思うのだが、後の祭りと言うべきか自動車事故の保険金などの処理は、昨年秋には終了していて、いまさら加害者だとか相手の運転手を攻めることも出来ないので、ゆっくりと整形外科の医者の診断と治療を根気ヨクしていくしかないと痛感している。

 意外と自分自身は、痛みの原因がほぼ間違いなく判明したことで、なんとも言えずすっきりとした感じであり、長くなるかもしれないが、この症状とつきあって行くしかないのだなと観念しているのである。

 それにしても、この痛みと痺れは、どうしたら楽になるのだろうと日夜考える日々が続きそうである。整形外科の医者はしばらくは「漢方薬」を処方してくれたので、様子を見ながら治療に専念していくこととなるであろうが、まさか「手術」を要するような大事には至らないことを祈るしかない心境である。
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