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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「なし!」が決まり文句の議員

2006年05月31日 | ちょっと可笑しいよ
 住民のための行政施策について、地方議会でも議員たちが厳しい議論をし、意見交換や質疑に集中しているだろうと思っている有権者市民もいるだろうが、実際はそうではない。
 
 選ばれた議員さんの中には選挙の際は、それなりに住民のために頑張りますと訴えていても、いざ当選したならば、多くの議案審議や議論の場があるにも関わらず、ほとんど発言せず、委員長の「質疑はありますか・・?」の問いに、いつも「なーし!」と言うのを常に習慣の様にしている議員がいる。

 そんな議員がいる中で、私はいつも出来るだけ多くの質疑を心がけているのだが、珍しい出来事が数年前の所属委員会で起きたことをご報告したいと思う。

 七名の委員で構成されている常任委員会だが、その日の出席者は初めから五名で、理由が定かではないが二名は欠席であった。

 私が口火を切って多くの議案審議を済ませて、行政側の提案通り委員会では可決した後、事務調査と称する通告制の委員会所管の行政課題を、私が質疑している時に、その事件は起こったのである。

 いつの間にか副委員長である保守系議員が席を立っていて、定足数と言われる過半数ギリギリの委員しか質疑に参加していなかったのであるが、私の質疑が続く中で、もう一人の保守系議員が急に席を立ち、委員会室から出て行ったのである。

 いつも委員会での質疑は殆んどしない人で、委員長が「質疑はありませんか?」と質疑を促しても「なーし!」と言うだけの議員であった。

 委員長が「ちょっと待って下さい」「定足数を割りましたので、議事を中断します」と言ったので初めて、私は気づいたのである。

 この議員の退席で、議事を続ける最低条件の「定足数」を下回り、委員会の継続が出来なくなったのである。

 私はこの退席議員の真意を憶測だが察知したのであるが、委員長に丁寧に、この委員の再度の出席を促す様にとお願いし、再会を待ち、数十分後に質疑を終えることが出来たのである。

 この事件は、どう考えても可笑しな事件であり、議員の職務である議会出席と委員会への参加の義務を怠り、「職場放棄」を意識的にしたものなのである。

 その後の議会運営委員会で、私は事件を報告し、当該議員に真意を正したところ、「自分は私の演説を聞きたくなく席を立った」と言う確信犯であった。

 あきれた発言であり、全く子どもの発想の様な行動であり、どう考えても議員としては許されない態度であった。

 しかし与党議員であることで、こうした失態や職場放棄や未熟な行動も、特別の叱責や注意を受けることも無く、議員として今も在籍し続けているのである。

 普通の会社や組織だと、こんな低次元の職場放棄や行動をしたならば、同僚や上司の信頼を失い、職場にはいられない立場になっても仕方が無い状況であった。

 でも議会では許されてしまう。そんな議論なしの議員が多く存在するのである.

 
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地元無視の日米合意!!!

2006年05月30日 | 世界の問題
とんでもないことが平然と行われていても、新聞、テレビ等のマスコミの批判的コメントは殆どない。

 沖縄普天間基地の移転や岩国基地の新たな負担、また米軍海兵隊のグァム移転に伴う日本の財政負担など「米軍再編問題」が地元無視で決められている。

 全く遺憾である。政治家としてのポーズとしては、沖縄県知事、名護市長、岩国市長ら地元自治体の首長たちもこぞって遺憾の意を表してはいるが、政府と言う大きな権力は、結局地元振興策とやらの誤魔化しの経済援助でお茶を濁して押し切ろうとしている。

 お偉い小泉首相や安部官房長官、額賀防衛庁長官、麻生外務大臣、谷垣財務大臣と並ぶ政府、自民党の閣僚達には、基地のある町の住民達と米軍と兵士達との軋轢、苦悩と経済的苦しみはわからないのだろう。

 何でも結局「金」に物言わせて解決させる金権政治が未だに、この基地問題ではまかり通っていて、情報公開、市民自治、地方分権と言われる時代だが、全く中央集権の強権政治そのものが強行されようとしている。

 アメリカの利権と経済力による「世界のポリス」の自負を、日本が何故「日米同盟」などと言う迷信に惑わされて協力しなければならないのか。

 日米安保条約は、1960年に岸首相の時代に大変な反対と犠牲の下に締結され、1970年に延長された記憶はあるが、決してその当時は「日米同盟」などとはマスコミさえ言わなかったし、言えなかったはずである。

 ここ数年、特に小泉純一郎が自民党をぶっ壊すと叫んで首相になってからは、日米ガイドライン関連の法制化が進められて、軍事的日米協力関係がより強固になり、日本ならびに自衛隊はアメリカ合衆国の属国ならびに属軍に匹敵する扱いとされているのである。

 憲法改悪の目玉は言わずもがなの「第九条」であり、憲法が時代に合わなくなったのではなく、政治権力が多くの憲法違反を繰り返し、特に自衛隊による「イラクへの人道支援」と言う偽りの海外派兵以来、憲法解釈では説明がつかなくなり、憲法を変えようとしているに過ぎないのである。

 米軍基地の存在は日本のアメリカによる占領体制の継続であり、地元自治体と周辺、地域住民の苦しみと不安、反対の意思を、いとも簡単に札束で納得させようとしている地元地域振興策について、小泉首相は十分話し合って協議したいと、全く強権アメリカ追随の内閣のボスとしての体のいい戯言を言うに過ぎない。

 騙されてはいけない!!。地域振興策と言う名の経済的援助と交換に政府の強権を受け入れてしまうと、より地域環境の悪化を増し、多種多様な社会問題が増幅することは間違いない。

 基地移転や拡張を受け入れたり、、ましてや借金してまで多額の米軍経費を「思いやり予算」として支出する気前のいい、日本政府の財布を、日本の納税者は怒りを持って講義しなくてはならないのではないだろうか。

 アメリカ合衆国は、世界に戦争をしかけて儲ける、資本主義のボス国なのである。それに健気にポチの如く盲従し従う小泉ニッポンよ、自己批判して国民の財産と安心、安全、幸せを自らの知恵で守らる真の独立国にならねばならない。
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人間の顔じゃない!!

2006年05月29日 | とんでもない!
世の中にはいろんな顔がある。特にテレビを中心とするマスメディアでは、連日連夜、多くのタレント、有名人が多種多様な番組に「顔」を出して活躍?なさっている。

 少しテレビに出ていないと「あの人どうしはったん・・・?」と視聴者にとっては「過去の人」となってしまうほど、テレビマスコミを中心とする芸能界などの栄枯盛衰は激しいのである。

 そんな中で、先日何とフジテレビの女子アナウンサーたちをモデルとした「変な顔」コンテストみたいなコーナーが紹介されていたのである。

 今やテレビマスコミを中心とした芸能、タレントに匹敵する如き扱いとバリューを持った、「女子アナ」ブランドは、雑誌や芸能ニュースにも欠かせない貴重な商品となっているのであるが、「ここまでやるか」と言っても過言ではない「ひどい顔」「変な顔」のオンパレードであった。

 名前は忘れたが、若くてかわいいテレビ映りのタレントさんの様な女子アナウンサーが、あまりにも醜い、またけったいな顔に変身させられて、競いあわされているのであった。

 こんなバラエティ番組を垣間見て、ラジオの聴取者から投稿メールのことを思い出したのであるが、「言い間違い」をテーマに募集し、朝の番組で紹介していた中に、とんでもない「面白い」作品があった。

 自分の年頃の娘さんが付き合っていた彼氏に、「何じゃその顔は?」と言われてフラレタと言うので、お父さんは娘を励まそうと思って、「人間は顔じゃない! 」と言おうとしたのだが、何故か「人間の顔じゃない!」と言い違いをしてしまったというのである。

 この一言なら、さもありなん。そんな言い間違いは、たまにはあるかなと思うのだが、続けて、この投稿者は、娘が泣き続けているので、「バカもん!」と再び叱咤激励のつもりで声をかけようとしたところ、「化けモン」と言ってしまったというのである。

 ここまで来ると、どう考えても「面白可笑しい話」としての「つくり話」としか思えない「出来すぎた話」となってしまうのだが、ほんとうに「化けモン!」と叫びたくなるような「顔」に遭遇したことは、皆さんも一度や二度はあるのではないだろうか。

 特にホラー映画や漫画に描かれた、どう見ても「人間の顔じゃない」様な顔に接してしまうと、どうも寝つきが悪くなりそうだし、夢の中で登場する「顔」の中には例えようのない酷い顔や、醜い顔に遭遇することもあった様な気がするのである。

 しかし自分の娘に、どんなに言い間違ったとしても「化けモン」とは叫べないだろうし、「人間の顔じゃない!」と、もし語ったならば、自分自身が責任者として「人間の顔じゃない人の親」であることとなるのである。

 世の中には直接お目にかかったことはなくても、「人間の顔」と言う常識からは、ほど遠い「顔」にテレビ、雑誌などを通じて出会うことはあるものである。

 自分自身は、間違っても「人間の顔じゃない!」と言われない様に、穏やかで優しい「顔」であり続けたいものである。
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雨が降らずにバザール!

2006年05月28日 | 地域の話題
年に二回、初夏と晩秋の日曜日の半日、地域のフリーマーケットを主催し今年で23年目、通算40回目の大住バザールを今日開催した。

 昨今は何処でもフリーマーケットが盛んで、いろんな場所で各種フリマが開かれ珍しくなくなったが、私が84年に始めた頃は、まだガレージセールと称して近くのスーパーの駐車場をお借りしての開催がスタートであった。

 その後新興住宅街の真ん中の小さな緑地周辺で十数回開催し、参加者や買い物客の車が増えたために、近くに出来た市営の住民センターと周辺を借りての開催となって、あっと言う間の二十三年目である。

 最初は私の仕事場でもあった幼稚園の保護者や友人達と始めた小さなガレージセールは、回を重ねるたびに出店者が増えて、一時は50区画、40人を越す盛況となったのである。

 最近は近くの生協やスーパーの駐車場でも、毎月いや毎週の如く、あちこちでフリマやバザーが開催される様になり、参加者は少し落ち着いてきて、のんびりと買い物だけではなく、お喋りや情報交換を愉しむバザールとして定着し他のである。

 今日の一番の問題はお天気であって、先週から天気予報で日曜日は雨と予報していたため、出店者の中にも昨晩までは雨で今回は延期と思っていた人もいて、朝は曇り空だったが次第に晴れてきて、絶好のバザール日和だったにも関わらず、買い物客の出足も悪く、何ともバザール始まって以来と思われる感じの、ちょっと寂しい状況に終わったのである。

 世の中はバブル経済がはじけて以来、長らくの不況、不景気風が吹いていたのだが、ここ数年は持ち返したようなマスコミ情報が多い中で、人々の日常生活における、「もったいない」精神や、物を大事に使う心は果たしてどうなっているのだろうか。

 ゴミ問題でもリユース、リサイクルは当たり前でリデュースと称される排出抑制なども含めた3Rの啓発やアッピールは盛んなのだが、実際の普通の庶民の生活者である、消費者の感覚は未だに使い捨て、決して「もったいない」精神ではない様な気がしてならないのである。

 意識的に、また積極的に、こうしたリサイクルと手作り品のバザールに出店される意欲的な方々と、何でも安いものだけをを求めて、遊びか趣味感覚で買い物に訪れる人々との間に、少なからずの温度差があるようにも感じている。

 とにかく本日の第40回目のバザールは、ちょっと寂しく賑わうところまでは行かなかったのである。

 さて地域の住民が集い、語らい、楽しく、生活日用品や衣類、または趣味の品や子ども用の玩具や絵本なども、お互いに活かして活用する生活の知恵を、今後も何とか伝え続けたいと思っているのだが、皆さんに関心を持ってもらって集ってもらえる知恵と工夫をしなければ、どんどん地域のバザールは低調になっていく危惧を感じたのである。

 新しい地域コミュニケーションのためのイベントとしてのバザールの再生を考えたいと思うのである。
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日本の農業の将来は。

2006年05月27日 | 日本の課題
 地元の京田辺市大住地区の府営の圃場整備が完成し、記念碑の除幕式と完成祝賀式が行われた。

 時折小雨が降る中、地元の農業関係者をはじめとする府や市の来賓を含め、約120名ほどが参加して、式辞に続いて来賓の祝辞が続いた。

 私は、周辺の圃場整備がなされた「田畑」を見ながら、今回の圃場整備、つまり田畑の区画整理に投じられた巨額の税金について思いをめぐらせていた。

 聞くところによると、ほとんどの田畑の持ち主である農業者は、兼業農家となっており、多くても五反か六反程の田んぼで毎年水稲を栽培されているらしく、お米が実って、全て高く売れたとしても、せいぜい80万円ほどの収入にしかならないのが現状であり、そのための農機具などへの投資やローンの返済のために、農業を続けていると言った感が、現実だというのである。

 つまり、キレイになった田畑を、今後も精力的に「日本の農業従事者」として、耕し、農作物を意欲的に作っていくと言った感じの農業者は、ほとんど皆無の、末期的状況になっていると言っても過言ではないのである。

 そんな農村、農業の実態の中で、農地が多額の土木事業として整備されて行く。

 どの様に理解し、見守ったら言いのだろうか。

 つまり現在の多額投資が、将来の日本の農業基盤に大いに役立つならば、嬉しい限りなのだが、殆どはそうした展開を見るよりも、後継者不足、農業従事者が採算性を考えると、やってられないと言う現状から。農地で農業をしなくなる日も近いと思われるのである。

 と言うことは、この「圃場整備」と言う名の公共事業は、いったい何のためになされているのだろうか。穿った見方をすれば、これも地元の土木建築事業者のための、税金によるサービス事業と言うことにもなるのである。

 地元の高齢の農業従事者たちが、いかにもお百姓さんと思える姿ではなく、晴れがましい席ということで、背広にネクタイという出で立ちで列席されてはいたが、果たして胸のうちは、どんな心境だったのだろうと思うのである。

 仕事はきついし、お金にはならない。その上、農薬などの散布による健康被害や体調を壊す人たちもいる中で、晴れがましい「圃場整備完成式」なる記念の日に参列した地元の方々の手は、いかにも百姓の手と思える、黒光りしたごっつい手が多かった。

 これから、この圃場がいつまで、稲作や野菜作りに活かされるのかは、はなはだ疑問ではあるが、少しでも「日本の農業」の担い手が増えて、有効に田畑が活用され、将来の日本の地元産の食の一部でも確保されることを強く望まざるを得ない。

 ほんとうに、この圃場整備が無駄になることのない、素晴らしい農場として、今後も優良農地として続くことを祈っている。

 すぐ傍の田畑は、既に優良農地といわれていたのに、第二名神高速道路の立地予定とリンクして、工業専用地域の拡大事業として、市が買収、造成、整地して、大手企業へ売却されてしまっているのである。

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お久しぶりです。日本が危ない!

2006年05月25日 | 日本の課題
ご承知の方も多いと思いますが、全国的ニュースとしては汚水処理施設建設工事の談合事件の発覚や耐震データ偽造事件の捜査、起訴事件が続いているが、関西では大阪市の関連事業での「飛鳥会」を巡る不正、既得権事件と神戸市の市議逮捕事件が明らかになった。

 今週月曜日に神戸市役所で開催された、都市政治研究所主催の「自治体議員勉強会」に参加し、神戸市議会の「住民投票☆市民力」と言う名の会派の、四人の議員達による報告と問題提起を聞く機会を得た。

 昨年大騒ぎだった「大阪市役所の職員優遇問題」も、この自治体議員勉強会で若手の大阪市議会議員が報告し問題提起を行い、新聞やテレビの報道だけでは真相がわかり難い内容まで知ることが出来たのである。

 今回の事件は宝塚市の現職市長がパチンコ店の出店に絡む汚職事件から飛び火したかの様な形で、神戸市議会自民党の大ボス議員、村岡功議員が産廃施設設置に有利な要綱改正と資源リサイクルセンターの管理業務委託について等で、市へ圧力をかけた疑いで、4月7日に逮捕され、その後息子の村岡龍男議員も逮捕されるという汚職容疑事件である。

 テレビ、新聞等でも報道されているが、長年の株式会社神戸市役所と呼ばれる、市の財政支出の背景に、多くの利権関連で多額の謝礼金や政治献金が支払われていて、ぬくぬくと政治活動をしていたボスが捕まって、やっと神戸市役所の長年のカビと垢を拭えるきっかけが出来たと思われるのである。

 議会における百条委員会と言う、真相を究明するための調査委員会が発足するらしいが、逮捕された二人の現職議員の多額の報酬、賞与は払い続けられており、市民の大きな怒りと矛盾が続くという。

 昔から「憎まれっ子世にはびこる」と言われるが如く、本当の悪者は、なかなか反省もしなければ、「人の噂も75日」の時の経過を待って、逃げ延びようとしているみたいである。

 他にも公明党所属の市議で、同様の私利私欲を満たす者がいるらしく、この際、一網打尽と行けば幸いなのだが、敵も何とか逃れようと、あらゆる手練手札で対抗してくるだろうが、たぶん墓穴を掘るだろうから、そのタイミングを見逃さなければ、自然に悪は正体を晒け出すのではないかと期待しているのである。

 全国で報道されなくても、また逮捕、起訴されてはいないけれど、同様の事件や汚職、不正が日本中に多数潜在している。

 わが市でも、多くの現職議員や市職員は周知の事象に関係する、金銭授受の事件や、どう見ても圧力や鶴の一声で決まった施策などがあって、市長や助役も圧力に屈した形で、平然と市政の執行を行っているケースがある。

 こんな日本、こんな行政体質と利得で動く議員たちを、長い間日本の政界、行政は見過ごしてきたため、取り返しの付かない体質になってしまっている。

 あと得俵一枚しか残っていない様な現状だが、何とか踏ん張って、この窮状を打開し、まさに正義と公平が当たり前の行政と議会に正していかねばならないと思うのである。

 
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音楽と作者死後の著作権

2006年05月17日 | 世界の問題
 世界中に、日本中に、いつの時代にも「音楽」が溢れている。

 私達人間社会に、音楽という文化は欠かすことのできないものであることは、誰もが認めるところであろう。

 私は小さな音楽出版社を東京で立ち上げて、実質的には10年足らずの短い間だったが、音楽ビジネスの世界で飯を食っていたことがある。

 久しぶりに音楽出版の仕事をしていた頃の同僚に旅先で会い、現在の音楽業界や著作権のあり様などの情報を聞く機会となった。

 クラシック音楽と言われる作品などや古い時代の楽曲以外は、作者、つまり作詞、作曲者に音楽著作権があり、音楽出版社の管理などによる楽曲の多くが、JASRACと呼ばれる日本音楽著作権協会を通じて著作権料の支払い及び分配が行われている。

 楽曲の音楽著作権料と称されるものは、いわゆるローヤリティみたいなもので、いろんな音楽の使われ方で単価が定められており、徴収された音楽著作権料は、JASRACの手数料が控除されて、管理する音楽出版社に支払われ、著作者との契約により著作者本人に支払われる仕組みとなっている。

 原則的には著作権は作者の死後50年間は有効とされていて、現在でも多くの有名楽曲は、著作者遺族や家族などの権利継続者に支払われ続けているのである。

 この著作権の保有期間を作者の死後75年に延長しようとする動きがあると聞き、一般の「年金」などは、当事者の死後は配偶者に一定支払われ続けるが、配偶者の死後は権利は消滅し、ただせ単に既得権益のように支払われるべきものではない。

 作者がある音楽作品とは言え、せいぜい作者自身への権利料の支払いがなされた後は、配偶者か親、子の範囲での相続にとどめ、作者の死後の権利継続は短くていいと思うのである。

 音楽、楽曲は、確かに誰かが作ったと言えようが、よーく考えれば個人の創作、想像の結果として生まれてはいるが、人間社会全体の共有財産でもあると思えるのである。

 生まれた詩や曲、作品が多くの人に親しまれて長年伝わり、愛され、また歌われたり、演奏されたり、聞かれたりすることは、素晴らしい文化遺産であることは間違いない。

 ただ作者だけに権利が保有し、経済的還元がなされ続けるべきものなのかどうか、じっくり検討する必要があるのではないだろうか。

 音楽そのものは、全ての地球上の知的、感覚的創作物として、全人類の財産であり、個人が権利主張し経済的利益を得るための手段ではないと私は思うのである。

 作者の死後の権利を延長せず個人権利は短くして、広く全世界で愛され歌われたり、親しまれたりする楽曲が、もっと多く出てほしいと願っている。

 モンゴルの大草原に伝統的に伝わり奏でられている馬頭琴の楽曲や、あの独特の歌唱法でのホーミー等には、著作権など存在しないのである。
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私的に「江ノ電」に乗車

2006年05月16日 | ちょっと可笑しいよ
 藤沢から鎌倉までは、あの有名な江ノ電こと「江ノ島電鉄」が、非常にいいロケーションの中を昔ながらに走っていて、視察に訪れる鎌倉まで約三十分で行けるというのに、議会公務のため少し遠回りは許されないと事務局の許可がでなくてJRで行くという。

 いくら公務とは言え特別な費用がかかるわけではないので、湘南の海沿いと町並みを走る、情緒ある路面電車のような風情のある私鉄で行こうと、再度事務職員と共に提案してみたが却下されてしまった。

 そこで私自身は早起きして朝食前に、せっかくの江ノ電に私的に乗車しようと考えたのである。

 早朝6時前に起きて、身支度して藤沢駅6:25発の鎌倉行きに稲村ヶ崎までの往復切符を買って乗車したのである。
 
 愛用のデジタルカメラを持参して、江ノ電の写真を何枚か撮影してブログに掲載しようと思っているので、乞うご期待あれ!である。

 しかし自宅のパソコン入力環境と全く違うホテルのパソコンからの入力で原稿は送れるが写真の掲載が不可能なため、帰宅してからの写真の掲載となる。

 行政視察の機会は年に2、3度あって、他市や他の地方、地域の自然や町並み、ロケーションを見て行政課題を感じることも多くあるので、観光旅行のような時間はないが、移動の選択肢としてのアクセスを選ぶことなどはあってもいいのではないかと私は思うのである。

 人は、どんな職業、業務であっても、仕事の現場だけではなく、その移動経路や移動時間に感じる感性がきっかけとなる仕事への刺激などが、結構あるものではないだろうか。

 私は公人としての公務の途中に、違う地方、地域の町並み、自然、人の行き来などを見て、多くの示唆や発想を得ることがあるのである。

 ぜひ杓子定規に公務の遂行だけを考えるのではなく、余裕のある移動時間や移動の経路で、議会議員としても私人としても感じる何かが大変大切なのではないでしょうか。

 旅先のホテルでの深夜のパソコン入力によるブログ原稿の送信なので、十分まとまった内容になっていないが、ご容赦いただきたいと思います。

 それでは、またガリバー旅行記としてのコメントをお届けする時に、今回の議員研修の成果としての報告をさせていただきたいと思っています。おやすみなさい。

 さて、翌日自宅に帰って早速、江ノ電の写真をと思ったのだが、デジカメのバッテリーが切れたために、藤沢から稲村ヶ崎へ往復で、早朝の江ノ電に乗車したのに、藤沢に戻ってから携帯の写真を撮ったにすぎなかった。

 これは失態と一時は思ったが、すぐに写真ではなく、車内、車外の様子を、自分の目で見て、感じて、頭に記憶することの大切さを、返って久しぶりに教えてもらった感じで、よーく観察することが出来た。

 鎌倉の私立の小学校に通学する児童たちと高校生達の車内での様子や遊び、そして読書の様子など、際立って賢さと現代の子どもたちの気質や流行の一端をも感じることができたのは、江ノ電に往復45分ほど稲村ヶ崎まで往復したお陰であった。

 湘南海岸は曇り空で天気は良くなかったため、太平洋の眺望は決して遠くまでは見通せなかったが、涼しい海風を感じることの出来た、旅先での早朝の約一時間であった。
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サッカーと愛国心?

2006年05月15日 | 日本の課題
本日、ドイツで開催されるワールドカップに出場するニッポンの23選手が決定し、ジーコ監督自らが発表した。久保選手が選に漏れ、巻選手が選ばれたことが話題となっているが、サッカーファンだけでなくマスコミは大騒ぎだった様である。

 このニュースを冷静に見た後、例の「テレビタックル」で「愛国心」に関わる論議を日本、米国、韓国、中国、イランなどの人たちを交えてしていたのだが、日本人は感情的な人が多い中で、タレントの大竹が「ワールドカップ出場や野球のWBCでの世界一」などの騒ぎは決して「愛国心」によるものでもなく、ただ皆と一緒に騒ぎたいだけなのだと指摘していた。

 政治評論家の三宅氏や現国会議員、自民党の桝添氏、例のハマコー等は、感情的過ぎて、諸外国の民間人の意見や指摘の方が的を得ていたのではないかと思う様な内容であった。

 「日の丸、君が代」の国旗、国歌法制化時には、小渕総理は国会答弁で、はっきりと「内心の自由を強制するものではない」と言っていたのに、現在は東京都の石原知事など右翼政治家は、国旗、国歌を強制強化しようとしているのである。

 「愛する」というあいまいな抽象的概念と、「国家」という、また抽象的概念をつなぎ合わせて、「国を愛する心」を強制したい自民党などの政治勢力と連立内閣公明党は少し難色を示したために、「国と郷土を愛する態度」と教育基本法の改正案は言い換えられていて、今後国会議論は、この文語に集中することが予想される。

 ともかく日本人に「愛国心」たるものを「強制」しなければならない「国家」とは、いったい何だろうか。よっぽど国家としてのニッポンに自信が無いのではなかろうか。

 ニッポンを愛する気持ちは、ニッポンが世界の中にあって素晴らしい国としての体裁、すなわち自然や郷土だけでなく文化、、思想、哲学、人間、政治などあらゆる分野で世界に誇れる実態があれば、とやかく言ったり教育として強制しなくても、国民の愛国心は自ずから高まるものである。

 「君が代」なる国歌と称される歌は「天皇の時代よ永遠に」との意と思い、メロディーも明るくなく元気が無いので好きではないし、「日の丸」は教育現場や行事式典等で起立、礼を強制されなければデザイン的にはシンプルで決して嫌いではない。

 教育基本法の改悪や憲法改悪への議論は、どうも本来の世界に誇れる「日本」の再構築を目指すというより、やはり戦前の日本を再び思い起こせと言った感じのムーブメントとしてしか映らない。

 真の独立国家としてのニッポンが、世界の中で名誉ある地位を獲得するには、21世紀の地球人としての「平和と豊かさ」への貢献なくして他国から尊敬されるニッポンにはなりえないのである。

 特にアジアの国々から尊敬され、リーダーシップを期待され、EUの様なアジア連合を目指したエリア外交と経済、文化交流を大切に、ボーダレスな地球人のアジアン仲間の信頼と協調を獲得したいものである。

 ドイツワールドカップに出場する日本選手たちも、グローバルな社会の一員として、地球人としてのフェアプレイで、世界一を目指してほしいものである。
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いのちを描き、語る。

2006年05月14日 | 地域の話題
 五月十日より六月十日までの一ヶ月間、京都市北区の立命館大学国際平和ミュージアムを会場に、小野今絵画展「平和を築く」が開催されている。

 このブログでは、一回以前に紹介はしているが、本日開催後初めての作者自身による、作品解説が行われるというので、私たち家族は五人で二時前に会場に出かけたのである。

 八十六歳のご高齢になられる小野先生ではあるが、独特の絵画観と共に、平和の尊さ、広島での被曝体験を通じての戦争の悲惨さを語られる時の、矍鑠たるお姿の喋り口は、体験的確信に満ちたものであり、画家としての作品解説の域を超えたものなのである。

 今回の作品はほとんどが小野先生自らが、京田辺市に移り住んで後の作品であり、特に独特の絵画観としての視座から描かれた作品の数々が中心であり、会場入り口には「まわしてみよう!」と言う言葉と共に、先生の何処から見ても見れる作品の二点のレプリカが展示されていた。

 先生は約二十分、その前でご自身の絵画観や戦争と平和について語られた後、会場に聴衆と共に入られて、全点字作品36点について丁寧に解説をされたのである。

 ご高齢にも関わらず、ご自分の生み出した作品の説明については、どんどんと言葉が出てくるので、お疲れが心配になる程熱中されていたのである。

 私は、日頃先生とは親子の様に、いろいろとお話させていただく機会が多いので、特に今日は半分は実の息子のような心境で、先生の久しぶりの「先生らしい」姿とお喋りに耳を傾けたのである。

 やはり圧巻は、広島での被曝体験をベースにした「平和への願い」を描いた作品などであり、また一番最近の作品である「色即是空」の作品紹介も熱心にされていて、「空」なる「いのち」と称する、何もない壁面をも含む作品を説明されていた。

 と言うのは、昨年から今年にかけて二度も入院された経験から、特に「いのち」と「死」について、深く考えられたことからの作品と哲学が語られていたのである。

 今回展示された作品の多くは三年前に、この立命館国際平和ミュージアムに寄贈されたものであり、油彩画のテーマは世界の人々が願望する「平和の構築」と「心の安らぎ」だといわれる。

 常に自然体で生活されている小野先生の京田辺市へ移住されてからの朝の散歩の場所であった「木津川河川敷」に立たれて、気づかれた絵画観と画法、視座がちりばめられた独特の絵の世界は、老若男女を魅了するだけでなく、不思議な命のエンパワメントに気づかされる力作ぞろいである。

 ぜひ京都に出向かれる機会に、一度お時間をとって立命館国際平和ミュージアムへ、六月十日までに行かれて、鑑賞されたいと思います。

 二十八日午後二時からは、再度先生自らによる「作品紹介、解説」が予定されています。ぜひお越し下さい。
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