大学二回生の半ばから生活の場を京都市北部の比叡山の麓のような寒々した当時の岩倉の学生寮にしていたので、大阪生まれの大阪育ちの私の京都住まいは、あくまで同僚や先輩たちの交流の場としての居場所であり、それほど生活実感が伴わない期間であった。
当時の大学は学園闘争や反安保の学生運動などが盛んな時期であり、私のような大阪の人間にとっては意識はしていなかったけれど、京都は仮の住まいにすぎなかった気分であった。
それから現在の京田辺市に住居を構えての生活が30数年経った今、最近特に自分の人生の半ば以上の期間を京都で暮らしているにも関わらず、やはり自分の心根は大阪人であり、特に言葉は大阪弁が主流であり、どうも京都弁といわれる京ことばは苦手であり、どうもしっくりと身につくところまでは全然達してはいないのが実感である。
でも、お付き合いする人たちや出会った特にご年配の方々と話していて、最近とみに「京ことば」の良さというか、とても感じのいい表現や言葉文化を感じる機会が多くあり、ちょっと「京ことば」について考えてみたく思ったのである。
そのきっかけは、京都市内に生まれて現在は川向こうの隣町にお住まいの老夫婦の奥さん、おばあちゃんとの会話からであるのだが、先日の「つめとおすか?」にはじまり、先週は最近使われている「ほっこりした」という言葉の使い方が違うという意見を仰っていて、つまり「ほっこり」とは、暖かいという様な意味ではなくて、「ほっとする」というのが京都ことばとしての意味なのだとの指摘であった。
世間ではよく京都の人に「ぶぶづけでもどうどす?」と帰り際に聞かれた際に、茶漬け(ぶぶづけ)を本当に遠慮なく食したならば、「やぼなおひとやわ」、つまりわからん人だと内心では批判されるというのだが、最近はめったに「茶漬けでも食べてお行き」などとは言われないし、若い人たちの間では、決っして悪いようにしか使われないとでも言う感じである。
と
「いまどき、そんなん言う人なんか、おらしまへん」と言われるのだが、やはり京都ことば独特の「婉曲的」とでも言うべき「いじわる」な表現はいまだに生きていると感じる場合もあるのである。
「きばっておくれやっしゃ」「おきばりやす」、がんばって下さい。
「てんごいわはったら、あきまへんぇ」、冗談を言ったら駄目ですよ。
「はばかりさん」「ご苦労さん。トイレのこととちゃいますで。
「おいといないと思いますけど」お金にこだわらないと思うけど。
「お門ガひろおすノニ」、お付き合いがたくさんあるのに、丁寧なお返しをいただき恐縮です。
などと、いろんな言葉が現在も生きていて、ちょっと聞き流してしまうと、何のことやら、ひょっとしてら逆の意味にとってしまいそうな言葉もあって、丁寧かつ上品な感じの言葉が多いのだが、中には「意地悪な」感じの言葉もまじっているので、じっくりと聞いた上で、わかりにくかったら、聞きなおすくらいの方が失礼がないかもしれない。
実は大阪弁と京都ことばは隣りあわせの行政区なのだが、やはりニュアンスが全然違っていて、たとえば「乗ってますよ」という標準語が、大阪では「乗ってまっせ」「乗ってんで」となり、京都では「乗ったはる」「乗ったはるぇ」となり、標準語で「~されているの?」と尋ねる場合は、大阪では「してはんの?」「~してんの?」だが、京都むでは「~したはるの?」「したはんの?」となるのである。
ともかく、大阪弁の方が直接的で私にはわかりやすいのだが、京都ことばはわかりにくいと感じている。
ちょっとでも京ことばを理解できれば、「ほっこりする」のである。
当時の大学は学園闘争や反安保の学生運動などが盛んな時期であり、私のような大阪の人間にとっては意識はしていなかったけれど、京都は仮の住まいにすぎなかった気分であった。
それから現在の京田辺市に住居を構えての生活が30数年経った今、最近特に自分の人生の半ば以上の期間を京都で暮らしているにも関わらず、やはり自分の心根は大阪人であり、特に言葉は大阪弁が主流であり、どうも京都弁といわれる京ことばは苦手であり、どうもしっくりと身につくところまでは全然達してはいないのが実感である。
でも、お付き合いする人たちや出会った特にご年配の方々と話していて、最近とみに「京ことば」の良さというか、とても感じのいい表現や言葉文化を感じる機会が多くあり、ちょっと「京ことば」について考えてみたく思ったのである。
そのきっかけは、京都市内に生まれて現在は川向こうの隣町にお住まいの老夫婦の奥さん、おばあちゃんとの会話からであるのだが、先日の「つめとおすか?」にはじまり、先週は最近使われている「ほっこりした」という言葉の使い方が違うという意見を仰っていて、つまり「ほっこり」とは、暖かいという様な意味ではなくて、「ほっとする」というのが京都ことばとしての意味なのだとの指摘であった。
世間ではよく京都の人に「ぶぶづけでもどうどす?」と帰り際に聞かれた際に、茶漬け(ぶぶづけ)を本当に遠慮なく食したならば、「やぼなおひとやわ」、つまりわからん人だと内心では批判されるというのだが、最近はめったに「茶漬けでも食べてお行き」などとは言われないし、若い人たちの間では、決っして悪いようにしか使われないとでも言う感じである。
と
「いまどき、そんなん言う人なんか、おらしまへん」と言われるのだが、やはり京都ことば独特の「婉曲的」とでも言うべき「いじわる」な表現はいまだに生きていると感じる場合もあるのである。
「きばっておくれやっしゃ」「おきばりやす」、がんばって下さい。
「てんごいわはったら、あきまへんぇ」、冗談を言ったら駄目ですよ。
「はばかりさん」「ご苦労さん。トイレのこととちゃいますで。
「おいといないと思いますけど」お金にこだわらないと思うけど。
「お門ガひろおすノニ」、お付き合いがたくさんあるのに、丁寧なお返しをいただき恐縮です。
などと、いろんな言葉が現在も生きていて、ちょっと聞き流してしまうと、何のことやら、ひょっとしてら逆の意味にとってしまいそうな言葉もあって、丁寧かつ上品な感じの言葉が多いのだが、中には「意地悪な」感じの言葉もまじっているので、じっくりと聞いた上で、わかりにくかったら、聞きなおすくらいの方が失礼がないかもしれない。
実は大阪弁と京都ことばは隣りあわせの行政区なのだが、やはりニュアンスが全然違っていて、たとえば「乗ってますよ」という標準語が、大阪では「乗ってまっせ」「乗ってんで」となり、京都では「乗ったはる」「乗ったはるぇ」となり、標準語で「~されているの?」と尋ねる場合は、大阪では「してはんの?」「~してんの?」だが、京都むでは「~したはるの?」「したはんの?」となるのである。
ともかく、大阪弁の方が直接的で私にはわかりやすいのだが、京都ことばはわかりにくいと感じている。
ちょっとでも京ことばを理解できれば、「ほっこりする」のである。