ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

京都に住んで35年。

2013年01月27日 | 地域の話題
 大学二回生の半ばから生活の場を京都市北部の比叡山の麓のような寒々した当時の岩倉の学生寮にしていたので、大阪生まれの大阪育ちの私の京都住まいは、あくまで同僚や先輩たちの交流の場としての居場所であり、それほど生活実感が伴わない期間であった。

 当時の大学は学園闘争や反安保の学生運動などが盛んな時期であり、私のような大阪の人間にとっては意識はしていなかったけれど、京都は仮の住まいにすぎなかった気分であった。

 それから現在の京田辺市に住居を構えての生活が30数年経った今、最近特に自分の人生の半ば以上の期間を京都で暮らしているにも関わらず、やはり自分の心根は大阪人であり、特に言葉は大阪弁が主流であり、どうも京都弁といわれる京ことばは苦手であり、どうもしっくりと身につくところまでは全然達してはいないのが実感である。

 でも、お付き合いする人たちや出会った特にご年配の方々と話していて、最近とみに「京ことば」の良さというか、とても感じのいい表現や言葉文化を感じる機会が多くあり、ちょっと「京ことば」について考えてみたく思ったのである。

 そのきっかけは、京都市内に生まれて現在は川向こうの隣町にお住まいの老夫婦の奥さん、おばあちゃんとの会話からであるのだが、先日の「つめとおすか?」にはじまり、先週は最近使われている「ほっこりした」という言葉の使い方が違うという意見を仰っていて、つまり「ほっこり」とは、暖かいという様な意味ではなくて、「ほっとする」というのが京都ことばとしての意味なのだとの指摘であった。

 世間ではよく京都の人に「ぶぶづけでもどうどす?」と帰り際に聞かれた際に、茶漬け(ぶぶづけ)を本当に遠慮なく食したならば、「やぼなおひとやわ」、つまりわからん人だと内心では批判されるというのだが、最近はめったに「茶漬けでも食べてお行き」などとは言われないし、若い人たちの間では、決っして悪いようにしか使われないとでも言う感じである。

 「いまどき、そんなん言う人なんか、おらしまへん」と言われるのだが、やはり京都ことば独特の「婉曲的」とでも言うべき「いじわる」な表現はいまだに生きていると感じる場合もあるのである。

 「きばっておくれやっしゃ」「おきばりやす」、がんばって下さい。
 「てんごいわはったら、あきまへんぇ」、冗談を言ったら駄目ですよ。
 「はばかりさん」「ご苦労さん。トイレのこととちゃいますで。
 「おいといないと思いますけど」お金にこだわらないと思うけど。
 「お門ガひろおすノニ」、お付き合いがたくさんあるのに、丁寧なお返しをいただき恐縮です。

 などと、いろんな言葉が現在も生きていて、ちょっと聞き流してしまうと、何のことやら、ひょっとしてら逆の意味にとってしまいそうな言葉もあって、丁寧かつ上品な感じの言葉が多いのだが、中には「意地悪な」感じの言葉もまじっているので、じっくりと聞いた上で、わかりにくかったら、聞きなおすくらいの方が失礼がないかもしれない。


 実は大阪弁と京都ことばは隣りあわせの行政区なのだが、やはりニュアンスが全然違っていて、たとえば「乗ってますよ」という標準語が、大阪では「乗ってまっせ」「乗ってんで」となり、京都では「乗ったはる」「乗ったはるぇ」となり、標準語で「~されているの?」と尋ねる場合は、大阪では「してはんの?」「~してんの?」だが、京都むでは「~したはるの?」「したはんの?」となるのである。

 ともかく、大阪弁の方が直接的で私にはわかりやすいのだが、京都ことばはわかりにくいと感じている。

 ちょっとでも京ことばを理解できれば、「ほっこりする」のである。

 
 
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ある男の死。

2012年11月06日 | 地域の話題
 いつもの交差点に掲げられていた葬儀場の告知看板で、私は彼の死を初めて知った

 何とも言い様のない感慨とでも言うべき思いが胸の内に生じたが、他人の死をこんな気持ちで知ることになるというのには、過去の様々な彼に纏わる思い出とでも言うべきエピソードや言葉が脳裏にたくさん残っていたからかも知れない。

 彼は私よりも年上の議員としては先輩だったが、以前の仕事上で知っていたことから、彼が幼い頃からやんちゃ坊主であり、お父上に言わせれば「役場でいい仕事が見つかって良かった」と仰っていた如く、当時の町議会議員に立候補し当選していたので、私が同じく町議会に立候補する際には、「選挙はそう甘いもんやないで、票が足らんかったら分けたるさかい」とまで言われたので、「票なんか分けられるもんか」と自問自答しつつ、彼にだけは負けたくないと思い、初めての選挙で彼よりも得票数が多くて当選出来たので安堵した記憶がある。

 その後の初議会に際しては、彼の部屋に呼ばれて「あんたの会派は俺に下駄を預けんか」と言われたので、私はとんでもないと思って、「あいにく下駄は最近履いてなくて、スニーカーばっかりなので」と訳の判らぬ冗談で断った。

 その後数ヶ月が経ち、彼の住む地域に近い住宅地で、私の知人が私に言われたことはとてもショックであったので、今でもはきりと覚えている。

 それは何と、彼ともう独りの御仁がこの世に存在している限り、「この町は絶対に住み良い町にはならない」と言うのであった。

 この町が少しでも住み良い町になる様にとの思いから、当時の町議会議員に多くのご支援と期待を集めて当選し、積極的に議員として働こうと思っていた矢先に、何とも暗雲が漂う様な強烈かつ不思議な呪文の様な住民の言葉を聴いたのであった。

 しかし、この言葉はまんざらその方の勝手な思いではなく、当時の役場の職員や古くからの町の体質などを知っている住民の方々にとっては、常識的とでも言うべき、まことしやかに語られているジンクスの様な明言だったのであった。

 それ以来、私は既成の政党や組織に属さない立場で、敢えて非所属とか市民派と称して、4期16年議員活動をしたのだったが、彼の行動や言動に議会が操られていたり、恫喝に似た縛りを受けていたりと感じる場面にいろいろと遭遇し、何だかわからないが特殊な権力を有すかの様な彼の振る舞いに、なにやら小さくなっている感じの職員や議員を数多く見たのであった。

 所謂、地方議会のボス的な存在と自他共に認めざるを得ない時期が続いていたのだが、彼が脳梗塞で倒れてからは彼の影響力は低下したと思われたが、車椅子に乗っての議場への出入りのために、議場のバリアフリー化がされたり、少しは彼の存在が役立つ面もあったが、車椅子の移動のために職員が一人多く付き添っての研修でも、先方の市役所の説明や勉強の機会は喫茶店でお茶を飲んでいて、ちっとも研修の場には姿を見せない様な彼の勝手な行動が目立っていた。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/89/6a3a89152daadc1e013117c2e7ced4ff.jpg" border="0">

 私に対しては大声で怒ったりしたこともあったが、何故か「お前も俺も一匹狼みたいや」と声をかけられたり、よくわからないが存在感を認めてくれていた様子であった。

 数年前に私は議会や市役所からも遠のいて、彼の病状も動向も知る由もなかったが、今夕に彼の死を知り、帰り道に立ち寄った図書館で顔なじみの女性職員との立ち話で、彼に纏わる前出のて言葉を思い出して話したのだが、さてこの町は彼の死によって少しでも良くなるのであろうかと自問自答し、彼女もちっとも変わらないだろうと苦笑したのであった。

 良くならないのは他人のせいではなくて、自分たちの努力や思いがまだまだ弱いからなのだろうと、改めてある男の死をめぐって感じさせられたのであった。
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京田辺はかぐや姫の里

2012年02月17日 | 地域の話題
 我が町・京田辺と言えば、「とんちの一休さん」でお馴染みの一休禅師が晩年を過ごされた「酬恩庵」一休寺と、我が母校である同志社大学のキャンパスが1986年に開設されて有名なのだが、今年2月に新たに「竹取翁博物館」が誕生したので、開館後まもない平日に訪ねてみた。

 この「竹取翁博物館」は、館長の小泉芳孝氏が長年の研究、調査の結果、彼の住む京田辺市三山木の「山本」集落が、竹取物語の舞台だと推定されるということで、20年ほど前から彼を中心に「かぐや姫の里」として間違いないとの確信で、地元の郷土史会などで発表されて以来、こつこつと調査、研究の成果を各種古文書や絵図などから立証され、念願の展示公開の場として自宅と隣接する和風住居などを利用して、今年2月に開館されたのである。

 小泉芳孝さんは、長年放送関係の会社に勤務されつつ、全国各地と中国、インドをはじめ世界を旅されながら、かぐや姫に纏わる古文書、絵図だけでなく、シルクロード、稲作民族俗の源流、日本の神社神道、日本とユダヤ同祖論、世界の宗教、柳田民俗学の遠野などにも幅広い興味と調査、研究をされてきた方なので、今回初めて拝見した博物館の展示物を案内していただいただけでも、語り尽くせないほどの諸説、解説をして下さった。

 実は十年ほど前に、京田辺の南の玄関口としての「三山木地区」の特別区画整理事業に関連して、市民からの「まちづくり」の提案をしようと集まった有志一同の中心に小泉さんがおられ、初めてお会いして以来の知人なのだが、現役の仕事も定年を迎えられて退職されて、より一層大好きでもあり最大の関心事でもあった、「かぐや姫の里」としての地元に、長年の調査、研究を重ねられてきた資料や絵図と共に、作成された解説資料などを整理されて、「本館」「別館①」「別館②土蔵展示室」などに分散展示されたのである。

 彼の人生の集大成と言えば大げさではあるが、この博物館の開館に際して、自らが編纂された著書も三冊出版されていて、ほんとうにご本人にとっては、一世一代の大仕事としての「博物館」として産声を上げたところと言った感じであり、今後益々多種多様な展示と地元はもとより、全国各地から興味と関心を寄せて来られる来館者たちとの交流も合わさって、「竹取翁博物館」が発展していくことだろうと感じたのである。

 一般的には「かぐや姫」については、竹から生まれたかぐや姫が、五人の求婚にも関わらず月に帰って行くといった「御伽噺」の様な印象を持っている方が多いと思われるのだが、彼の研究、調査によらずとも、その出典である「竹取物語」は、紫式部が書いたとされる「源氏物語」よりも古い作品であり、作者は不詳とされたているのだが、紫式部はこの竹取物語を物語としての「起承転結」のお手本にしたのではないかと思われるフシもあり、2月中の展示では、「竹取物語」は、あの真言宗の開祖と言われている「空海」が記したのではというテーマでの展示もなされていて、非常に興味深く感じた。

 別館①と称された少し西側の離れ家は、従来住んでおられた方がアメリカへ転居され空き家だったのだが、縁あって小泉さんの手に渡って、和風の古民家を生かした「かぐや姫の館」となっていて、市内在住の染色家、玉井芳泉氏による「かぐや姫絵巻」の大作が染色画や襖絵として展示されているし、人形劇団「ぷくぷく」が制作された「かぐや姫人形たち」も展示されていて、、彼自身の長年の趣味のコレクションやマスコミ一代記の展示など盛りだくさんであり、一度お近くに来られる際には、是非訪ねてご覧になったら如何でしょうかとお薦め致します。

 歴史的史実ではまだまだ研究、調査の余地を残す「かぐや姫」伝説を記した「竹取物語」の里として、彼を中心に名乗りをあげた、わが町「京田辺」に一度足を運ばれては如何でしょうか。

 
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「阪急電車」

2011年11月17日 | 地域の話題
 ひょんなことから、表題の映画「阪急電車」のDVDをレンタルしてきて見たのであった。

めったに自宅のテレビで、レンタルしたDVDを観たり、録画しておいてテレビ番組や映画を観たりすることはないのだが、今回は「芦田愛菜ちゃん」のかわいさに魅せられて、この映画「阪急電車」を観ることとなったのである。

 全くストーリーや映画の脚本の予想もしないままに観たものだから、突然始まったドラマが結婚を約束していた中谷美紀が演ずる女性が、彼氏が別な女性を妊娠させて、その彼女と結婚を宣告するという、とんでもない場面から始まり、彼女は怒り心頭したのだが、結婚式に出席することを条件に、やむ終えず結婚の解消を了承するというくだりがファーストシーンであった。

 中谷美紀が白い花嫁の様なドレスに身を包んで、いやみたらたらで元彼と新婦との結婚式に参列し、あまりにも目立つ衣装のために、新婦から濃い色のショールを少しでも纏ってほしいとの申し出が披露宴中にだされたことから、途中退席し阪急電車に披露宴帰りの目立つ衣装のまま乗るという、非日常的ドラマが始まった。

 原作は、幻冬社文庫から出ている、有川浩氏の同名小説だそうで阪急電車今津線と呼ばれる、宝塚から西宮北口間の往路と復路の約15分間を基本に、物語はいろんな人生の日常が交錯して進んでいくのであった。

 芦田愛菜ちゃん演ずる小学生女児は、おばあちゃんである宮本信子さんと共に阪急電車を乗り降りし、「犬を飼ってほしい」とねだっているのだが、祖母には若い頃の「飼い犬との苦い思い出」があって、なかなか承諾が得られないのであった。

 戸田恵梨香が演ずる女子大生と、すぐに切れる彼氏、また南果歩演ずる子どもの同じ学校の奥さんたちの付き合いでの食事会やお出かけでの、車内での大騒ぎ、また地元関西学院大学の社会学部の同級生同士の出会いと恋、同級生からのいじめに合っている孤独な小学6年生の女の子と、様々な日常に潜む悩みや気になることが、何らかの糸で絡んでいる様に交錯しているのである。

 決して「阪急電車」に限らないのだが、見た目や外見では全く予想も出来ない様な「出会い」や「困ったこと」がその場面、場面に潜んでいたりするのは当然と言えば当然なのだが、そこは小説であり、脚本で何とでもなるものなのであろう。


 特に、南果歩が演ずる普通の奥さんが、子どもの学校の保護者同士というつながりで、賑やかなおばさんの付き合いに振り回されるシーンは印象的で、後半部分で宮本信子が演ずるおばあさんが、この車内で我が物顔で大声を出しておしゃべりし笑うグループの「大阪のおばさん」たちに注意を促す場面、つまり「迷惑をかけるな」という説教をするのだが、実際はこんな場に遭遇しても大半の乗客は「観て観ぬふり」をしてしまっている実態があるので、なんとも「よく言ってくれた」と溜飲を飲む心地になった。

 日常に潜んでいる非日常なのか、それとも非日常的日常なのかは定かではないが、たぶんに阪急電車ならずとも、誰もが「ヨソイキ」の顔をして乗っている電車の車内やプラットホームで、一人ひとりの心の中や、その前後に生じている出来事を、通りすがりの他人が関わったり、口を出すことは非常に稀なことだと思われるのだが、やはり人生の日々は、そうした隠れた日常の悩みや気になることに独り悩んでいたりするものなのだろう。

 映画としての「阪急電車」は、年寄り、若者、中年そして子どもたちの生活の少しを切り取っただけではあるが、その日常に、出来うれば他人がアドバイスできたり、励ましの笑顔を贈るだけでも、「変われたり」、「前進できる」と思える「きっかけ」が生まれるのではないかとの「希望」や「期待」が想像できたのであった。

 大阪を中心とする関西圏では、この映画の題材となった「阪急」をはじめとして、「阪神」、「近鉄」、「京阪」、「南海」などの私鉄電車が走っていて、それぞれの私鉄沿線に住む人たちや住宅地の人柄や人間性の違いなどを、面白可笑しく比較する場合があるのだが、映画「阪急電車」は、そんな庶民の「阪急電車」のイメージとはどうだったのかと言えば、「あんな賑やかなおばさんたち」は、阪急沿線には「いいへんで!」というのが、素直な感想であった。

 ともかく、現代社会が携帯やパソコンなどを通しての顔の見えないツールや情報で動いているのではなくて、生身の人間同士が出会って、話をし、理解したり思いやったりすることのできる、まさに人間性あふれる関係で成り立っているということを、改めて感じさせてくれる映画であったのではないかと思うのである。
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阿倍野区の謂れ

2011年05月24日 | 地域の話題
 今日は大阪の母親が現在住んでいる阿倍野区晴明通に行ってきたのだが、私が生まれ育った「大阪市阿倍野区」の謂れはと考える機会となったのである。

 母親が現在住んでいる晴明通という地名は、実は今から約1000年前に亡くなったといわれる、希代の陰陽師で現在まで続く土御門家の祖ともいえる「安倍晴明」にちんなんでつけられた地名であり、「安倍晴明神社」が御祭神として安倍晴明公を祀っているのである。

 そこで、大阪市阿倍野区の「あべの」は、この「安倍晴明」の「あべ」から地名がつけられたのかと思いきや、「阿倍野」の歴史はなんと弥生時代に始まったといわれ、「阿倍野」の地名の由来には諸説があるらしい。

 古代にこの地を領有していたのが豪族の阿部氏であり、その姓からという説が一番有力だそうだが、「万葉集」の山部赤人の歌からと言う説や古地名の「東生郡餘戸郷」(ひがしなり郡あまべ郷)の「あまべ」からとったという説もあるたいです。

 「あべの」の文字についても古来より「阿倍野」「安倍野」「阿部野」などが使われていたのだが、昭和18年に元の住吉区から分区して「あべの区」が誕生したときに、区役所の土地台帳が「阿倍野」の文字を採用したので「阿倍野区」となったということです。

 大阪出身の方々はお分かりだと思いますが、この阿倍野区の中心的ターミナルはJR天王寺駅、地下鉄天王寺駅なのですが、何故か近鉄電車のターミナル駅は「阿部野橋」となっていて、大阪キタのターミナルもJR大阪駅なのですが、阪神、阪急の私鉄駅は「梅田駅」となっていて、地方から来られた方々には「ややこしい」限りですね。

 話は戻りますが、「阿倍野区」に生まれた「安倍晴明」の安倍家は家伝によれば、孝元天皇(AD300年頃)の第一子の大彦命を先祖とし、その11代目に当たる倉橋麻呂が初めて安倍姓を名乗り、大化の改新後の新政府の左大臣を務め、安倍倉橋麻呂の子供の安倍御主人は文武天皇の右大臣を務めたそうです。

 この安倍御主人(みうし)の名は竹取物語にも出ていて、彼はかぐや姫の求婚者のひとりで「火鼠の皮を持ってきてくれ」と頼まれて、手を尽くしてやっと火鼠の皮を見つけてかぐや姫の前に持って行き、実際に火をつけてみると、あっけなく燃えてしまったそうですが、かぐや姫への求婚者の中で唯一実在の人物だといわれているのが、安倍御主人だそうです。

 そして安倍御主人の8代目にあたる大膳大夫(天皇の料理番の責任者、宮内省所属)の「安倍益材」(ますき)が「安倍晴明」の父とされていて、御主人の曾孫の安倍大家、吉人の兄弟は陰陽頭を務めていて、益材や晴明はその子孫となっています。

 この家系に生まれた「安倍晴明」は、最初は父と同じく大膳大夫となりますが、その後左京権大夫、穀倉院別当などを歴任し、最後には播磨守となっていまが、天文博士にも任じられていて、そうした官位の仕事のほかに、小さい頃から陰陽道(おんみょうどう)を伝える賀茂家の賀茂忠行に師事し、その才能を高く評価されていたそうです。

 その結果、後に安倍晴明は賀茂家から天文道を譲り受けて、暦道を自分の息子に伝え、賀茂・安倍(後に土御門を名乗る)両家が日本の陰陽道の宗家となっていったそうです。


 安倍晴明が陰陽師としてデビューしたのは天徳4年、960年頃だそうですが、菅原道真の怨霊におびえる醍醐天皇が亡くなり朱雀天皇、村上天皇と引き継がれましたが、京都ではこの頃時々怪異の噂があり、宮のあちこちで火事が起き、とうとう内裏が炎上しました。

 そのような時代に晴明ら陰陽師たちは貴族たちの個人的依頼を受けて、種々の相談、祈祷、霊的防御などの仕事に携わったそうです。

 そんなことから、現在の「安倍晴明神社」は、天文を観て個人の人生を占う、「占いの神さま」となっているようです。

 


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統一地方選挙近づく。

2011年02月27日 | 地域の話題
 今年は統一地方選挙の年であり、私たちの地元京田辺市も市議選と市長選が四年ぶりに行われる予定である。

 国会や政局を伝えるニュースでも、民主党政権の危うさと共に自民党、公明党、共産党、みんなの党、社民党などが「統一地方選」を視野に入れて、国会運営や発言を行っているきらいがあって、菅首相の政権も統一地方選挙の結果如何んでは五月の連休明けにも退陣を余儀なくされるという憶測ももっぱら公に語られるようになっている。

 さて、その統一地方選挙だが、府県議会議員や政令指定都市の議会議員選挙は4月1日告示で4月10日投票日の前半の日程で行われるのだが、私たちの町の市長選挙と市議会議員選挙は後半の日程、つのり4月17日告示、4月24日投票のスケジュールで行われるのである。

 いまや恒例となっている選挙前の活動が全国各地で既に繰り広げられており、全国の警察署管内では「地方選挙事前違反取締本部」などの看板があがっていて、京都府でも約1000名もの体制で事前活動の警告、摘発などを行うというニュースが報道されていた。

 実は私自身も四年ぶりの市議会議員への挑戦者として立候補を予定しているのだが、隣町の元市会議員からの電話や非常にお世話になっている老師からも「激励」やら「準備は進んでいるか」との催促ではないが、近況報告を求められたりしていて、何やら「選挙が近づいている」という実感はあるのだが、なかなか仕事をしながらの準備ははかどらない面が多いのである。

 そんな中で、別の隣町の友人からは、無党派で初めて市議会議員に立候補を予定している友人がいるので、ぜひ貴方の経験からアドバイスをしてあげてほしいと依頼されたりして、自分の選挙の準備もはかどらないままに、他人への助言やサポートという脇役までおおせつかっているのである。

 ともかく、どっしりと構えているわけではないのだが、多くの住民、有権者にとっては、当然漠然と新聞、テレビなどの報道を通じて「地方選挙の年」とは知っている人でも、実際はいつから選挙が始まり、投票日がいつかなどは定かにご存じない方の方が多いと思われるのである。

 そんな一般的な普通の市民の生活の中で、やたら政党の宣伝カーなどが「選挙運動」としか言えないようなアナウンスで、一定候補者の名前を連呼したり、すでに選挙戦が始まっているがごとき活動も見られるのである。

 町には事前ポスターと思われる政党や組織、団体の「ふたりが写っている」ポスターがやたら目立っていて、どう見ても選挙の事前ポスターとしか思えないのに、政治活動ならびに政策討論会や集いの宣伝用ポスターだとして暗黙の了解で選挙違反には問われないらしいのである。

 一方、無所属の市民が始めて選挙に立候補するとの思いで、自分の顔写真の印刷されたポスターを闇雲に町に掲示したら、即「選挙違反」として警告されるらしいのである。

 つまり「選挙制度」も「事前活動」も、既存の政党や組織団体には有利なのだが、個人としての被選挙権を行使しようとする一候補者にとっては制約だらけであり、なかなか事前活動が難しい状況となっているのである。

 いずれにせよ、統一地方選まで二ヶ月を切った時期になったので、あせらずとも準備に拍車をかけて選挙民の選択肢のひとりとしての立候補準備を行いたいと思うのである。
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土曜日の授業参観

2010年10月16日 | 地域の話題

 秋晴れの土曜日、私の住む京田辺のある小学校で授業参観が実施され、土曜日ということで日頃の子どもたちの学校生活を垣間見る機会ということもあって、仕事がお休みのお父さんたちも多く参観には参加された様子であった。

 午前中の移動八百屋の訪問時には、いそいそとご両親で小学四年生の男の子の授業参観に出かけられる間際だったために、夕方改めてお客さんをほうもんすることにして、営業用の車を半日走らせて、再びあるお客さんの玄関先に車を停車させると、少し暗くなりかけた薄暮の中、まだ二歳の女の子を抱っこしてお父さんとおかぁさんが顔を出してお買い物をしていただいた。

 「参観はどうでしたか?」と、まずお父さんにお聞きしたところ、不満いっぱいに「あんな授業ならわざわざ観に行く必要はなかった」と仰るのであった。

 ちょっと遅れて財布を持って登場されたママも、異口同音に「あれなら塾にやらしておいた方が良かった」と仰るのであった。

 わけは聞くまでもなく、教師の授業は用意されたマニュアルっぽい進め方が一方的で、わが子だけではなく授業全体がつまらなかった上、子どもの元気さ、明るささえ伝わってくるどころか、みんな静まり返ったような「教室の雰囲気」は以上だとさえ言われたのであった。

 そうしたお話を聞いていて、私もわが子の授業参観に行って、一番印象的だった授業を思い出してしまったのである。

 その授業とは、息子が小学二年生の時で、あまりにも妻や同じクラスの子どもたちの母親たちが先生のことで騒いでいて、とある時は「教育委員会」まで直訴したというケースがあったので、その実態を見てみようと出かけた初めての「授業参観」のとんでもない印象深い思い出であった。

 とある年配のベテランと称された女の先生の社会科の授業だったのだが、保護者たちが「先生を替えてほしい」と直訴していることもあって、学校では前夜に教頭先生が、そのベテラン教師に授業参観のシュミレーションをして、間違いや批判を少なくしようとしていたらしいのだが、授業はとんでもなくちぐはぐで私もこれは問題だと感じざるを得なかった記憶が強い。

 詳細は以前にガリバー通信のブログでも書いたので省略するが、とどのつまり先生が子どもたちの気持ちや感性、率直な素直な反応などに対処できず、自分自身の手順だけで授業を進めるために、子どもたちの方が白けてしまうという最悪のパターンになったのであった。

 つまり、子どもたちの前に立つ大人の教師が、自分の都合やマニュアルに従うだけの授業展開で、ちっとも「子どもの心」をつかめてなく、授業が面白くないばかりか「一体感がない」ので、保護者たちにとっても「観るべきところ」や「子どもの個性や対応ぶり」が見えないという状況しかないのである。

 なぜにそうなるのかと言えば、教師が先生である前に「人間的感性と多様な子どもの個性」を受け止める度量というべきか裁量がないのである。

 つまり、社会人としてだけではなく、人間性豊かな成長がされていない半人前の「こども大人」いや、プロにはなれていないからなのである。

 教師は資格があれば出来るが、本当の意味での先生にはなれていないのではないだろうか。

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ラオスの河海苔。

2010年06月27日 | 地域の話題
 先週、突然に八百屋のお客さんから「ラオス土産」として友だちから貰ったという「河海苔」をたくさんいただいた。

 写真の如く見た目は、確かに「海苔」なのだが、たぶん東南アジアの海に面していない国「ラオス」の特産品で「河海苔」という不思議な感がするが、海で採れる海苔ではないらしい。

 その少し色あせた様な「河海苔」の商品名は未だによく分からないのだが、たくさん戴いたので、多くの他のお客様や食品に興味がありそうな方に、一枚つづでも差し上げたら、いろんな反響があって面白かった。

 私自身は「ミャンマー」と「ベトナム」「タイ」に囲まれた「ラオス」という国については、行ったことがなく、友人が現在写真撮影の為に行っていることや、友人の小さな旅行社が主催旅行を企画していたので、その旅行記などで知っている程度で、少し暗いイメージの仏教国と言った知識しかない。

 しかし、少し調べてみると、ラオス料理は他の東南アジアの国々とは異なっていて、もち米を主食としていて、南姜、レモングラス、パー・デークと称される食材が最も重要な材料で、代表するメニューとしては「ラープ」という、刻み肉とハーブとライムジュースとスパイスから作られる料理があるらしい。

 もうひとつの主要な産物として、オーラムと呼ばれるスパイシーなハーブと肉を煮込んだ料理が有名なのだそうである。

 素朴でハーブなど山と河の幸をふんだんに使ったヘルシーな料理が数多くあり、カオ・ニャオ(もち米)の主食に、鶏、牛、豚などの肉料理や川魚を使った魚料理、パパイヤのサラダなどの野菜料理とディップ、スープなどのおかずと一緒に食べるらしい。

 ティップ・カオと呼ばれるふた付きの丸い籠に入れられた、もち米のカオ・ニャオを手で食べる場合がほとんどで、チェオと呼ばれる炭火で焼いたトマトやナス、唐辛子、コリアンダーから作ったディップは、ラオスの食卓には欠かせないもので、「モック」と呼ばれる魚もしくは魚卵、川海苔などを野菜・ハーブと混ぜて、バナナの葉で巻いて蒸したもの、あるいは炭火で焼いた料理も多いらしい。

 私が戴いた乾いた「川海苔」を油で素揚げしたものは、前菜として食べられたり、食卓を飾っていて、いろんな食べ方に加わるらしい。

 ともかく、川海苔には、ドライトマト、にんにく、そして白ゴマがたくさん入っていて、炙って食べたり、お結びを包んで食べたり、差し上げた方たちにも好評で、特に焼酎やお酒好きの人には、結構面白い「肴」のひとつとなったらしい。

 まだ一度も行ったことのない、「ラオス」だが、ちょっとしたきっかけで戴いた「川海苔」から、いろんな「ラオス」を垣間見る機会が出来たのだが、差し上げたのが「海苔」だけあって、数人の方は、「北海道の羅臼」と勘違いされて「ラウスの海苔?」と間違っておられたのが面白かったです。
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チェロとお琴のコラボ。

2010年06月12日 | 地域の話題
 今日は、三月から準備をすすめていた「チェロとお琴による、ふるさとコンサート」の開催日で、土曜日のため私は移動八百屋の営業日で、午前中に走って午後からのコンサートのために時間を割いて、何とか五時前に無事コンサートを終えて、再びお客さんの待つ有機八百屋の移動販売へと二束わらじで走り回った。

 昨年もこの時期に開催した「ふるさとコンサート」は、会場を前年同様好評だった京田辺市大住の国の重要文化財に指定されている「澤井家住宅」をお借りして行う予定だったのだが、開催予定日の10日前に急遽、澤井家の使用がやんごとなき理由で出来なくなり、コンサートの開催が一時危ぶまれたのだが、幸い市の中央公民館が午後1時から5時まで空いていたためお借りすることが出来て、本日の開催にこぎつけたのであった。

 今回のコンサートは、急遽会場の変更はあったが、西洋楽器の「チェロ」と和楽器の「琴と三味線」のジョイントという珍しい演奏会となり、知る人ぞ知る「玉木光」ファンならずとも興味と関心を持って期待していた「和洋コラボコンサート」となった。

 不幸中の幸いとも言えることは、好天に恵まれた土曜の昼下がりの開催時刻は、外気温も高く非常に暑い日となったために、従来の会場は大きい古い民家だったために扇風機はあってもエアコンによる冷房がないところだったので、一応公共施設の公民館のホールには冷房設備があって快適にコンサートを聴くことができたのである。

 実は、玉木光さんは京都生まれで、現京田辺市の三山木で育った若手の有望なチェロ奏者のため、私たち縁ある者たちが世話人として「ふるさとコンサート」を主催することになり、ここ三年続けてこの時期に開催してきたのだが、今回は昨年の暮れにご結婚なさった、奥様の木村伶香能さんのお琴と三味線という和楽器とのコラボレーションというコンサートが実現したのである。

 一部はお互いの楽器の独特の音色とメロディを楽しみ、休憩後の二部はお二人によるチェロと琴、三味線との初コラボの音色と雰囲気を愉しむこととなった。

 何故かコンサートの司会進行役をおおせつかった私は、一部、二部のスタートの前に聴衆の皆さんに語りかけてお話することになったのだが、お二人の○唱○随の仲の良いリハーサルや準備の様子を見守っていたために、新婚さながらのお二人の共演に、出る幕などない雰囲気でもあったと自戒しているのであるが、とてもいい雰囲気で、お互いの音楽的世界を尊重しつつ、仲むつまじく進行されて無事コンサートはお開きとなった。

 チェロは、ヨハン・セバスチャン・バッハやカール・ダヴィドフの演奏があり、お琴の八橋検校の四季曲や三味線の新ざらしなどの演奏の後、お二人のためにマーティン・リーガンサンが作曲されたさくらをテーマにした新曲で、琴とチェロの共演が実現した。

 この様な和洋コラボの珍しいコンサートは、今後も若いご夫婦となられたお二人の演奏活動として全国、全世界に展開されて行くことになるだろうと期待し、今後のご活躍を祈りつつ、私は急いで「八百屋のおっちゃん」に戻って走ったのであった。
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「いのちの山河」上映会

2010年05月11日 | 地域の話題
 「豪雪、貧困、多病」という、全国的にも多数の社会的問題を抱えていた、山間の小さな村である「岩手県・沢内村」が、全国に先駆けて、幼児と老人の医療費の無料化を開始したというニュースが伝わってから、全国各地の地方自治体でも、住民の「いのちと健康を守る」ための行政としての自主的サービスが徐々に始まったのですが、この画期的な施策を始めた、当時の深沢村長の半生を描いた「映画・いのちの山河・日本の青空Ⅱ」がわが町、京田辺でも来る5月30日に上映される。

 深沢氏は青年期の大半を海外で暮らして、多くの夢を追い続けて辛酸をなめた多くの経験から、人生の後半は故郷の村に戻って、村と村人たちのために奔走し、適材適所に人を配置して、巧みに人材を育てて、皆で力を合わせて困難を乗り越えれば幸せになれると、教育長、村長として村民に自信と希望を与えました。

 つまり、深沢氏は勇気ある行動で日本で最初の医療保険体制の改革を行ったと言っても過言ではない有言実行者だったのです。

 強い信念と熱い気持ちを持って、貧しかった一つの村に力の渦が巻き起こり、どんどんと変わって行き、多くの人を動かし幸せに導いた「革命家」のようでした。

 「生命村長」と呼ばれた、当時の深沢村長は、「人間を尊重するということは、人間の生命と健康を尊重することに始まる」という信念で、生存権を既定した、日本国憲法第25条の精神を盾に、乳幼児と老人医療費の無料化に踏み切り、全国初の乳児死亡率ゼロを達成したのです。

 当時の岩手県、沢内村は現在は合併で西和賀町となっていますが、この村の取り組とは逆行している後期高齢者医療制度や格差社会、ワーキングプア、戦争、貧困、孤立、自殺、少子化になどにも大きなテンションを与える行政施策を、なんと1950年代後半からはじめていた小さな地域の物語なのです。

 現代の様々な「いのち」の問題を考える時に、いま一度、憲法25条の精神、つまり、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有すると国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」を問い質さねばならないのではないでしょうか。

 一人ひとりの「いのち」と平和を守ることは、まさに人間の生きるための車の両輪と言ってもいいのでしょう。

 この映画は、どん底に喘いでいた小さな山間の村、沢内村の人々が力を合わせて大きな苦難に立ち向かい、打開していく姿を忠実に描いていて、憲法25条の具体化のための施策をクローズアップし、人間の命の大切さを訴え、現代から未来へ希望を見出せる社会づくりを目指すものです。

 監督、大澤豊、脚本、宮負秀夫、企画・製作は、前作青空と同様で小室プロデューサー、原作「村長ありき」(及川和男著/れんが書房新社)と「沢内村奮闘記(あけび書房)。

  「いのちの山河~日本の青空Ⅱ~」

 2010年5月30日(日)①10時、②1時、③4時の三回上映、京田辺市立中公民館ホールにて、「上映協力券・前売一般1200円、高校生800円
 
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