ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

訃報相次ぐ、喪中葉書も。

2009年11月30日 | 季節の話題
 毎年11月の半ばから「年賀状欠礼」の「喪中葉書」があちこちから集まってきて、「えぇ!あの方が亡くなられたの?」とか、そういえば「○月だったんだ」と回想することになるケースもあるが、とにかく「喪中葉書」が毎日の様に届き、年々増えている様に思う。

 友人の母上や父上の訃報が多い中、私より若い夫婦の奥さんが50代で亡くなられた報に接して、知人に電話して詳細を知ろうとしたら、その知人の母上も今年4月に闘病生活の上亡くなられたとの言葉に、二重三重の悲しみを感じつつ、「ご冥福を祈ります」とのありふれた言葉しか伝えることの出来ない自分がいた。

 家人は、毎年増える「喪中葉書」を小さな紙箱に入れていて、たぶん来年の賀状を書く頃に、間違いなく失礼のないようにと準備してくれているのだが、11月中に既に20通もの喪中葉書をいただくと、年末までには何枚になるのだろうかと不安というか驚きを感じている。

 さて、明日からは12月なので、例年恒例の我が家の玄関横の小さなツタの壁に、ミニXマス・イルミネーションを飾り付けて点灯するのだが、昨日伸び過ぎた小枝や葉っぱを落とした小さなスペースに、明日からの点灯のための準備を行っていたら、携帯電話が鳴った。

 何と、一昨日には「元気ですか?」と電話で話した20年来の隣町の元気な友人が、突然昨夜亡くなったとの知らせであった。

 ともかくビックリ!!。虫の知らせではなかったのだが、ほぼ一年ぶりにちょっとした情報を聞くために電話して、お互いの健康と日常を簡単に報告しあった矢先なのに、「何故?どうして?」と言った感じの突然死の報であった。

 そういえば、今年は著名人の死も相次いだ年で、マイケル・ジャクソンの突然死が外人では一番印象的だが、日本人では昨年亡くなられた筑紫哲也氏と共に尊敬するジャーナリストであった、元参議院議員でもあった田英夫氏の訃報が印象的であった。

 彼は、太平洋戦争当時の「特攻兵士」であり、難を免れて?生を得た一人の若者がジャーナリスとなり、「平和のための行動」を重視して、ニュースキャスターをやり、参議院議員になっても、戦争反対の持論を全面に出しての政治家として、いつも語りつつ行動されていた方であった。

 あの「優しい語り口」と、穏やかな中に鋭い眼差しを持って、日本のジャーナリストの一人として、日本中に発信し続けた田英夫氏の生き様を、私は忘れまい。

 今年亡くなられた著名人としては、俳優・森繁久弥氏、タレント・水之江滝子さん、水泳・古橋広之進氏、落語家・三遊亭円楽さん、女優・南田洋子さん、プロ野球広島・三村敏之氏、漫才師・亀山房代さん、元宝塚・大浦みずきさん、政治家・中川元大臣らは覚えてはいるが、やはり身近な知人、友人の死が、こんなにも多いと感じる年はないのではないだろうか。

 
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亀田興毅が勝った!

2009年11月29日 | プロスポーツ
 因縁の対決とまで言われた、プロボクシングWBC世界フライ級選手権「内藤大助VS亀田興毅」戦が、今晩さいたまスーパーアリーナを会場に2万人以上のお客さんを集めて注目の中行われた。

 今日の日曜日はプロスポーツ界では、ゴルフの女子国内ツアー最終戦が宮崎カントリークラブで行われ、横峯さくらが諸見里しのぶを逆転して今年度の女子賞金王に輝き、男子では最終戦の優勝賞金4000万円を残し、石川遼選手が今日の高知での試合で惜しくも2位となったため、最終戦に賞金王決定が持ち越された。

 大相撲九州場所の福岡国際センターでは、宿敵のモンゴル出身横綱である、白鵬が朝青龍を破って全勝優勝を果たし、年間6場所で86勝というとんでもない最多勝の新記録を出して今年最後を有終の美で飾った。

 サッカーJリーグは昨日首位の鹿島アントラーズが今シーズンチーム最多得点の5ゴールをあげてガンバ大阪に圧勝し、川崎フロンターレとの優勝決定を、Jリーグとしては5年連続、最終戦に持ち越すという戦いをした。

 そんなサッカーJリーグ戦の白熱の中、我らが「ゴン」ごと中山雅史選手が、長年所属した磐田の広島サンフレッチェとの最終戦で後半37分から出場し、42歳2ヶ月5日のJ1最年長出場記録を達成し、来期の戦力外通告を受け、サポーターたちの胴上げで同チームを去ったが、本人はまだ現役としてピッチに立ちたい意欲を持っていて、他チームでの希望を捨てていない。

 たくさんのプロスポーツが華やかに行われる中、伊達公子選手が39歳で再び女子トーナメントで優勝するなど、全国各地で多彩なスポーツが多くの観客の視線の中で熱戦を繰り広げていた。

 今夜の「内藤大助vs亀田興毅」のプロボクシングのテレビ中継は見ごたえのある試合だったと感じているが、8時半過ぎに始まった12ラウンドの真剣勝負は、目が離せない両者の打ち合いとなり、近年まれな日本人同士の世界タイトルマッチで因縁の戦いが盛り上がり、テレビ中継視聴率もさぞ高かったことだろう。

 三人のジャッジが全て亀田興毅の勝ちを判定したほど、あのフテブテシイほどの強気でやんちゃな兄貴が、今夜は「デビュー戦から今までで一番落ち着いている」と前夜の計量時に語っていた通り、挑戦者でありながら、内藤大助チャンピオン以上に冷静に戦った様子であった。

 一方のチャンピオンの内藤大助は、入場の時から相当な興奮振りと見え、前夜語った「ボクシング人気を上げ、ボクシングは面白いと世間に思わせたい」という抱負は叶える様な戦いぶりだったが、亀田興毅のペースに引き込まれての惜敗となった。

 内藤大助は35歳で六度目の日本人最高齢の世界チャンピオン獲得はならず、たぶん引退すると思われるが、なかなかのお人好しぶりと独特の優しいキャラクターだから、今後も後進の育成だけでなく、タレント的活動も続けられるだろうと思うので、鼻と同様に膨れ上がった強打された痛々しい顔から回復したら、笑顔でまた登場してもらいたいものだ。

 十分ボクシングの面白さ、楽しさを味あわせていただいたて今夜の試合だった。

 
 
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ああ結婚!

2009年11月28日 | テレビマスコミ
 先日から予告されていたテレビ朝日系列の橋田寿賀子ドラマスペシャル「結婚」を2時間余観てしまった。

 なにせ、上戸彩ちゃんが花嫁候補を演じていて、とってもかわいいからもあって見入ってしまったのである。

 「結婚~一人っ子同士の結婚大騒動」と新聞のテレビ欄には書かれていて、娘を溺愛する父VS息子一筋の母が激突!!親の心、子知らず・・・今まで一生懸命育ててきたのに・・・親の心からの叫びを石井ふく子プロデュースと前宣伝の文句も記された番組案内が続いていた。

 結局テレビドラマとしての脚色は、面白く構成されていたと思うのだが、どうもキャスティングの主人公,老舗和装小物店の一人娘である「ちかげ(上戸彩)と結婚相手に決めた一人息子を演ずる徳重聡は好演なのだが、どうも両方の両親役がちょっと違う感じであった。

 渡哲也の頑固な父と高橋恵子の母では、渡がどうも上戸彩の父としては年を取り過ぎていて、顔も厳しすぎる感じて、もう少し中年層の適任の役者がいそうに思ったし、一方の徳重の母役の松坂恵子は太りすぎなのか顔がむくんで見えて、凛々しいスレンダーな徳重の母としては合わない感じてあった。

 物分りのいい、上戸彩のおばさん役の若尾文子もドラマの中の台詞は若い両人にとってはいいアドバイスもあり、的確な脚本だと思うが、如何せん年を取り過ぎている様で、上戸と徳重のカップルの叔母役はきつかった。

 いずれにせよ、テレビドラマなんだから、どうせフィクションで、キャスティングは誰でもいいのだろうが、以前のドラマでは渡哲也が父で松坂恵子が母と言うパターンもあって、どうも組み合わせが違ったみたいであった。

 脚本は流石で、橋田寿賀子さんという方は、日本人の家族や三世代の価値観の違いや日常を確かに細かに観察されている方で、なかなかの花嫁の父や一人っ子の親の気持ちの部分の代弁者の如く、台詞やストーリーの展開の中で「なるほど」と思わせる様な脚本の演出をされていると感心した。

 「結婚」とは「相手に何かを要求ばかりするものではなく、相手に何をしてあげられるか」をお互いが考え行動するところから始まる」との考え方と共に、結局は一人っ子であろうとなかろうと、二人の両親の愛と育みによって成長して大人になったのだから、両親の愛と支えに感謝して、新たなパートナーとの出発、結婚に踏み切るべきとの「大きなメッセージ」が言いたかった様である。

 結婚は、当事者である彼と彼女だけのものではなく、新しい家庭を作れるのは、自分たちを育ててくれた家族、両親のお陰なのだからと、敢えて若い結婚適齢期の青年たちに親世代が言いたい、メッセージが背景にあるのであった。

 ドラマの中で彼と彼女の父親同士が酒を酌み交わして唄う場面があり、さすがの西郷輝彦と渡哲也のご両人は、歌手としての側面もあったので、少し笑えたが、そういえば松坂恵子さんにも「愛の水中花」のヒット曲があったが歌を唄う場面はなかったな。
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「ごめんねの日」制定。

2009年11月26日 | 感じたこと
 突然ですが、12月10日を「ごめんのね日」制定委員会が気軽に謝れる日として制定したそうなんです。

 全く関係ありませんが、12月10日は私の息子の誕生日であり、我が阪神タイガースの前身、大阪タイガースの球団創立記念日でもありますが、何故にこの日が「ごめんの日」になったのでしょうか。

 謝罪に対する意識を調べるために実施したアンケート調査の結果、半数以上の人が「今謝りたいことがある」と回答し、謝りたい相手としては意外にも「両親」が39.5%でダントツだったそうです。

 その他では、15%前後で夫、恋人、子ども、妻が上位を占めていたとのことです。

 身近にいる存在に対しての謝罪が一番難しかったり、素直に謝れなかったりしているケースが多く、つい後回しになってしまっているが、いつか謝りたいと思っている様です。

 そこで「今まで、素直に『ごめんなさい』を言えなくて後悔したことはありますか」という質問に対しては、「素直に謝れなくて後悔している」と回答した人が何と約66%もいたそうです。

 その理由としては、「タイミングを逃した」が61%と圧倒的に多く、「意地をはってしまった」、「大人になれなかった」など、感情の問題が続いて上位を占めたそうです。

 男女比の集計結果では、男性が後悔している率が約58%なのに対して、女性は74%と圧倒的に多く、女性は20代、30代とも同数なのに対して、男性の場合は30代の方が20代より10%も多く、世代の違いと社会的責任や自覚の成長などの変化が見られたようです。

 そこで、「謝れそうな(謝りたい)時期」として、10月から12月にかけての時期が一年の終盤でもあり、「年内に謝っておきたい」などとする気持ちもあって、約半数の人が、その年の反省もこめて「素直に謝りたい」と思っているようです。

 この結果を受けて、「ごめんねの日」制定委員会が、「謝りたい時期」として一番多かった時期を元に「国民全体が気軽に誤れる日」として、12月10日を「ごめんねの日」として制定されたようです。

 ほんとうに多くの人が、「謝る」ことの大切さを知りながら、なかなかタイミングよく上手に素直に謝ることが出来なくて、後悔している事実が多いと思われるので、こうした「ごめんねの日」は、一役買うかもしれませんね。

 そう言えば、我が孫の男の子たちも、小学2年生のお兄ちゃんは何故か「ごめんなさい」がほとんど言えないのに、2歳8ヶ月の弟の方は何かして怒られたり注意をされると、すぐさま「ごめんなさい」と言ってしまう要領のよさが身についている様です。

 そう、「言っちゃった方が楽になる」のに、ごねたり、意地を張って、結局余計な悪い気分や、後腐れの悪い思いを引きずってしまうことになるのなら、そうすぐさま素直に「ごめんなさい」と言って仕舞った方がいいのに決まっていますよね。

 でも、なかなか言えない「ごめんね」を軽く言ってしまえる特別な日に、ほんとうに12月10日の「ごめんねの日」がなるかどうかは、頑固で素直でない多くの人の心の変化にかかっていますよね。
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全ては話す力から。

2009年11月25日 | テレビマスコミ
 先ほど、NHKテレビの「クローズアップ現代」を偶然観たら、「言語力を鍛えろ-鍵は会話に」放送していた。

 最近仕事を通じて二十代、三十代の若者と仕事の現場への行き帰りの車内で、男三人でよくお喋りをしていて感じるのだが、時代の変化と世代の違いもあって、話が途切れるかと思いきや、意外と多くの話題で価値観や感じ方は違えども会話が続くことが多い。

 私にとっては、特に特別な会話ではないのだが、二人の20代と30代の青年たちにとっては、自分の親父と同じ世代である私との会話が時には不思議な感じだと言うのである。

 つまり、自分の親父とはほとんど最小限度の必要なことしか喋らないのだが、仕事上での偶然の同僚となった私とは、気楽に多くを語り、プライベートなことまで話してしまっている自分に気づくとも言われたのである。

 彼らが特別な若者だとは思わないのだが、私たちの世代から見ると、時には自分という人間の自己表現がうまく出来ない青年たちもいて、「もっと自然に自分らしさを出せ」と言いたくなるケースがある。

 と言うのは、たぶんそれなりに自分というか彼らの言いたいことや欲求、要望、感想などがあるはずなのだが、うまく同僚や先輩を問わず、自分から言い難い面もあるのだろうが、ちっとも話さない、しかも話せない感じの青年たちも多い様に感じている。

 仕事を通じて彼らを見ていると、女性たちはわりと簡単な文章表現もうまく表しながら自分流に経験を積んでミヨウ見真似でもやっている様なのだが、男性の場合が返って「下手」というべきか要領を得ない様なケースが見受けられるのである。

 人が成長し大人になる過程で、誰もが両親や家族、兄弟との会話を通じて言語を覚え、いつのまにかコミュニケーション能力なるものも身につけていく様なのだが、最近の若者に限らないけれど、その表現力や言語力が低下していると言っても過言ではないと思われるのである。

 シュミレーションや予想できる問答集やマニュアルはこなせても、咄嗟に発せられた質問や会話に、如何に答えられるか、または会話を広げたり面白く展開していけるかが問題なのである。

 誰もが家族や友人、知人との会話だけなら、喩えケイタイメールの文字や絵文字だけでも意思の疎通は出来るのだが、赤の他人や見ず知らずの年齢さ、経験の違う世界の職種や出身者との突然の会話やコミュニケーション力に不足していると言えよう。

 原因として考えられるのは、幼い時からの親子や兄弟との会話経験の量の少なさ、つまりあまり話さなかった子どもの成長期における経験の有無が、成人してからのその人の言語力に大きな影響を与えている様である。

 何事も、「三つ子の魂百まで」と言うと笑われるかもしれないが、大切な幼少期に如何に多くの楽しい会話やお喋りが経験されているかが大きくその人の大人としての「言語力」と「対応力」を左右していること間違いなしと言えよう。

 ぜひ、まだお喋りしない頃の乳幼児から成長期のお子さんと大いに、いろんなことを話し合い、議論し、楽しい会話の経験と考えて話す面白さを味あわせて上げて下さい。
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「脱サラ開業」の危機。

2009年11月24日 | とんでもない!
 昨日は勤労感謝の日のだったので、久しぶりに昼食に「そば」をいただくことにして、住宅地の一角にある小さな「蕎麦屋」に入りました。

 12、3人で満員となりそうな小さな店でしたが、五十代の大将が一人でやっている様子でした。

 実は二週間ほど前に見つけた蕎麦屋で、最初は仕事仲間と一緒に昼飯を食おうと入って、他の客も三人ほどいたのですが、昨日は「ランチタイム」にも関わらず、客は私ひとりでした。

 先日も注文した「胡麻ダレ蕎麦」とミニかやくご飯をセットで食し700円でしたが、蕎麦は2、8の割で手作りされた美味しいものでした。

 北海道のそばを仕入れ、福井県の美味しい湧き水を休みの時に車で取りに行って、毎朝蕎麦を自ら打っているそうで、数少ない蕎麦主体の数種のメニューだけが書かれていました。

 蕎麦屋の大将は訥々と語ったのですが、彼は「脱サラ」で始めて約6、7年になるのだが、「サラリーマンの方が楽やった」と述べていました。

 奥さんやご家族がおられるのかどうかは定かではありませんが、、一週に一日だけ休みで、営業時間はお昼前の11時半から16時までで、夜の営業はしていないそうでした。

 「蕎麦」好きの私は、秋から冬にかけては「暖かなそぱ」もいただきますが、やはり「蕎麦の風味」を楽しむのには、「冷やしそば」、すなわち「ざる蕎麦」が一番美味しいのではないかと思います。

 大将も、やはり蕎麦屋を始めるだけあって、「蕎麦」に関しての薀蓄や経験、逸話がたくさんおありの様で、私の拙い質問や疑問に対しても、ゆっくりと答えてくださいました。

 それにしても、いくら休日の昼下がりとは言っても、こうもお客が来ないと、一見さんに等しい私でも、とっても心配になりました。

 いろいろと伺っているうちに、お昼休みの時間がなくなり御代を払って店を出ましたが、最近の若い青年たちとの会話でも、「脱サラして店をやりたい」との話をよく聴くので、いろいろと考えさせられました。

 この不況下で飲食店の経営は何処も大変で、大型店やチェーン展開している有名店でも四苦八苦している店も多いと聴いています。

 テレビの特集なのでも、評判の飲食店やグルメ料理だけでなく、B級グルメと呼ばれる大衆的な食べ物やお店の人気や話題の紹介が殆どで、脱サラで開業された飲食店の多くがしばらくして「閉店」を余儀なくされていることは殆ど報道されることはありません。

 安易に飲食店を開業出来るが如き、ハウツー本やコンサルタントによる起業奨励がなされていますが、ちょっと待ってください。

 店の家賃、内装費用、厨房設備費、調理器具、皿器費、間接物品費だけでなく、水光熱費、人件費、食材費など雑多な投資が必要な割には、お客さんが思ったよりも来ない現実にぶち当たって、赤字で閉店やむなきに至るケースが続出している様です。

 そうあまくはありません。脱サラによる飲食店開業はいつでも危機的です。

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新嘗祭なんだって!

2009年11月23日 | 季節の話題
 皆さん、今日は「勤労感謝の日」だったんですね。

 しかし、多くのサラリーマンやOLさんたちは仕事に明け暮れた人もいたことでしょう。

 特に非正規労働者と呼ばれる、アルバイト、パート、臨時職員、サービス業などに従事する労働者の皆さんは、「お休み」ではなく、通常通りの勤務だった人が多くおられたのではないでしょうか。

 そういう私自身も、非正規労働者の一人として「おっさんフリーター」如き仕事をしている関係で、今日は「国民の祝日」のひとつで、日頃お留守がちなご家庭のお宅を訪問して、たぶん在宅されている人が多かろうと思って、仕事の現場に若い青年と共に出勤して出ましたが、ほとんど平日と変わりない感じで、お留守のお宅が多かったです。

 逆に感じたのは、日頃お仕事の旦那さん方が在宅されているのに、奥さんの方がパートや時給形式のアルバイトだったりして、休めば直接お給料が減るので出勤しているといったケースが多い様に見受けられた。

 「勤労感謝の日」というと、いかにも国民と共に政府が、国民の勤労に対して感謝してくれる日かとも勘違いしがちですが、全く行政や国からの「ご褒美」や「感謝の言葉」もなく、家庭においても、ほとんど「勤労なんぞは忘れられている」感じの「祝日」だった様な気がします。

 それもそのはず、そもそも「勤労感謝の日」と戦後祝日法によって、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」となっている祝日なのですが、この日は戦前の祝日であった「新嘗祭」と言う名の天皇家にまつわる行事の日を、そのまま「勤労感謝の日」と言う名で祝日にした日なのです。

 それでは、「新嘗祭」とは、どんな日だと説明しますと、「天皇が新穀を天神地祀に勧めて神を祀り、身ずからも食す」日で、戦後は皇室典範に記載された儀式からは外され、法的にはこの儀式を行う必要がなくなったようですが、皇室においては重要な行事として現在も宮中で継続されているそうです。

 新嘗祭の歴史は古く、日本書紀での記録で天武天皇六年(677年)の11月乙卯の日に行った記録があり、仁徳天皇40年にも新嘗祭の記述があると言われていて、史実かどうかは定かではありませんが、神話に近い十分古い儀式だとわかります。

 この際に捧げられる米、栗は各都道府県ごとに2軒の農家が選ばれて献納するそうで、明治25年から全国の都府県知事の要請で始まり、当時は北海道は入っていなかったとのことで、戦後は農協を中心に天皇家への献上を続けているそうです。

 いずれにせよ、日本の戦後の祝日の多くは、戦前の天皇国家の時代の謂れや縁での休日が多く、「勤労感謝の日」なんてのは、全く本来の題目の意味とはかけ離れた「収穫感謝」をこの日にくっつけただけの祝日に過ぎないために、現代に至っても、多くの国民にとってはただの休日であったり、秋の行楽、紅葉見物の日であったりするだけで、真の労働者への「勤労感謝の日」にはなっていない様です。
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「むかごご飯」

2009年11月22日 | 季節の話題
 今日は毎月第四日曜日に開催している、私たち男の料理サークルOB(オールドボーイ)たちによる、宇治ゆめカフェの「自然派ランチ」の日であった。

 先週末の土曜日にリハーサルをして、今回のランチメニューである、「むかごご飯」と「ロール白菜」、「林檎と柿の白和え」、そして季節野菜の味噌汁と香の物で、しめてたった600円というポッキリ価格のオーガニックランチなのであった。

 少し午後から雨になったためにお客さんの出足が気になったが、いつもの顔ぶれに久々のお客様も交えて、楽しく調理させていただいた「ランチ」をお話しながら20人近くのお客様にご賞味いただいた。

 今回の「丼メニュー」の中心は、表題の通りの「むかごご飯」だつたのだが、秋から冬に移ろうとする季節感のある食材として、突然「むかご」に出会ったのだが、この「むかご」って奴は、自然著の葉っぱの茎に出来る小さな芋球なのである。

 私は昨日、宇治のゆめハウスという小さな作業所を訪れた際に、初めて「零余子」と書いて「むかご」と読ませるということを知ったのである。

 辞書によれば、「零」とは静かに降る雨のことだそうだが、「零余」とは、少しばかりの余り。「はした」だそうなのである。

 お客さんたちのの会話の中で、しずく?の余りという解釈がされていたが、「零」はしずくではなく、雨が落ちる様を表す漢字だそうだが、この「零余子」と人間が書く表現では、「むかご」が自分自身は「余り」や「はした」ではないと怒っているのではないかという話題となった。

 つまり、自然著が主役で、その「脇役」としてしか見られていない「むかご」ではあるが、列記とした「むかごご飯」では「主役」なのであるから、「余り」などとは失礼なのではないかということである。

 いずれにせよ、「零余子」が山里からちょっとした森や山に入ると、野性として生えている自然が最近は減ってはいるが、小さい時や山歩きが好きな人は、未だにちょっとした散策で「むかご」を見つけて少し採取することもあると思われる。

 今日使った「零余子」は、偶然見つけた「奈良産直センター」から仕入れた、奈良県五條市で栽培されたものだったが、とても大きくてしっかりとした味わいがある「むかご」であった。

 米に洗った「むかご」を入れて、油揚げを一口大にして加え、塩、みりん、醤油、酒と昆布で炊き込みご飯として炊いて、炊き上がったら「シラス干し」を加えて出来上がりという「むかごご飯」としてお出ししたのだが、とっても好評でし

 「少しばかりの余りの子」という漢字をあてられた「むかご」に人間が勝手につけた漢字の当て字に、御免ねと謝りつつ「ランチ」をいただいた感謝の日だった。

 「季節のほのかな自然の味わいと香り」を愉しみ、美味しかったです。

 
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「内閣官房報償費」って?

2009年11月21日 | ちょっと可笑しいよ
 20日の衆議院内閣委員会で、麻生前政権下の内閣官房報償費(官房機密費)の支払いの資料を基に共産党の委員が指摘したことで発覚した、8月末の総選挙後に自民党が大敗し、政権交代が確実となった時点、すなわち9月1日に、当時の河村建夫官房長官名で、何と2億5千万円もの突出した多額請求があったことが明らかになった。

 そもそも、正式名称は内閣官房報償費というそうだが、所謂官房機密費そのものが領収書や使い道を明かすことなく、自由に五千万円単位で官房長官が請求できる経費だそうで、過去麻生内閣の今年度では、4月以降の毎月1億円が内閣府会計課長宛に請求されて支出されていたらしいが、総選挙後の突出した2億5千万円の使途が自民党の当落線上の候補者に対する支援費として使われたのではないかという疑惑が浮上している。

 河村前官房長官は、「今は政権内におらず、答える立場にない」とのコメントで詳細な実態の説明は避けたのだが、現平野官房長官も、就任時には「官邸の金庫には機密費はなかった」とコメントし、いずれも「官房機密費」の使途や具体的目的などは明らかにしなかった。

 機密費そのものは、官房長官の判断で国益に直結する情報収集などに使われ、「非公開」扱いを原則としているものだそうだが、2009年度は14億6165万円が計上されていて、麻生政権下で計8億5千万円が支出され、鳩山政権下でも既に2億円以上が支出されているという。

 以前から、この「機密費」は、「権力の潤滑油」などと呼ばれていて、不透明な支出に疑惑の目が注がれているのだが、外遊する国会議員の選別や野党議員への国会対策費などにも使われていると言われ、マスコミ対策、一部有名人や評論家にも「権力批判」や「政府批判」を少なくするためにも用いられているとの噂もある。

 こんな不明瞭な国費の支出が政治家のパーティー券購入や会食、紳士服の購入など私的な目的にも乱用されている疑惑も噴出していて、2001年の外務省機密費流用事件が発覚したことから世間の注目を集め、「機密費流用防止法案」を民主党が提出したのだが、廃案となっていて、今回の政権交代で実現するのかと思いきや、透明化への動きはどうなったのか、民主党も政権につくと、「機密費をオープンにすることは考えていない」と表明した。

 確かに外交上、止む得ない状況下での「国策」的支出はありえると思われるが、せめて「私的流用」や「国会対策」「議員や評論家、有名人」への批判回避への「報償」などには使ってほしくないと思うのである。

 これに似た性格の経費として、各都道府県の警察が「捜査報償費」として支出している、有力な情報提供者に対する「謝礼」などがあるが、いずれも警察署での「裏金」としてプールされていたり、行政府の長の都合のいい支出を秘密裏に行うものとなっていてはいけないのである。

 「政治には金が要る」という権力の輩の、自由な税金流用に使われてはならない。
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「人生」と『金』

2009年11月19日 | 感じたこと
 昨夜、何気なく見ていたテレビのドキュメンタリーで、ダウン症の女の子が書道の才能に秀でて、現在は日本全国で「書道の個展」を開く活躍をしているという現実が報じられていた。

 一方、別のテレビ番組では「年収150万円で暮らす」という一家三人の生活が報じられていて、毎月の出費が6万円の家賃以外は、食費は何と1万円で、ほぼ毎日食パンの耳を十円で買ってきて主食の如く生活しているのに、一年に一度は海外旅行をして、その時だけ買いたいものを買うという「貧乏」なのか「贅沢」なのかわからない一家のドキュメントだった。

 偶然二つの番組の一部分だけを観たに過ぎないのだが、ダウン症の書家の作品に「人生」と書いた字があって、縦書きの書は一見すると「人生」の文字が引っ付いていて「金」とも読める漢字に仕上がっていたのを発見して、驚くやら関心するやら複雑な気分になった。

 いろんな人と話す機会があるのだが、「人生は金次第」という方もおられて、私自身は逆で、人生に金は必要だが、人生の全てが金次第とは思ったこともなければ、そう思いたくもないという考え方なので、どうも「人生」が「金」と読めたこと自体が可笑しいと感じている。

 しかし、「世の中、金がなければ何も始まらない」と思っている人々が多いのが現実なのだが、一家三人の生活費としての年収が150万円でも、それを「貧しい」とは感じていないご家族もいることを知っても、さもありなんと関心したわけである。

 私が現在、おっさんフリーターとして仕事をしている職場には、子どもを持つ30代から40代を主とした女性たちが多く働いているのだが、不況下のご主人の収入が低下して、少しでも家計の足しにと奥さんが働いているケースが大半なのだが、若い青年単身者もふたりいて、「人生」と「お金」に対する価値観や考え方が異なっている。

 家庭の家計を司るおかぁさんたちは、如何に扶養家族としての控除額をキープしつつ、自分の働くパートのお給料を有効に家計に役立たせるかで、熱心に話し合ったり情報交換をされている。

 30代前後の単身の男性たちは、現在の自分の生活費を何とか最低限キープしながら、近い将来にやりたい仕事の準備や、土日祝日や夕方から夜にかけて、別なバイトや仕事をこなして、何とか人生の金のやりくりをしようとしているらしい。

 誰しもが、やはり自分の人生の途上で、人生をどう生きるかではなくて、生きるためにどうお金を稼ぐかという課題を優先した「生き様」になってしまっていると痛感せざるを得ない現実がある。

 全世界の金融危機に端を発する、大手企業の先行き不安や倒産や業務縮小、リストラ、派遣切りなど、多くの雇用不安を抱える中、何とか自分たちの生活の安定、いや少しでも足しになる仕事をとみんな必死で仕事を探し働いているのである。

 やはり、「人生」が「金」と見えるのは、私だけではなく現実社会の実態であり、綺麗ごとでは生きていけない厳しさがにじみ出た「漢字」であり、「書」だったのかも知れない。
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