ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「ガリバー通信」しばらく休止!

2006年01月05日 | 感じたこと
インターネットへのアクセス不良のため1月いっぱい、残念ながら「ガリバー通信」はお休みさせていただきます。いつもご覧下さる方々にはお詫び申し上げます。再開の節は、またよろしくお願いしまーす。〓(_ _)Zzz。ガリバー。

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お正月は家族で食事

2006年01月03日 | 日本の課題
 家族で食事と言っても、家庭での日常ではない。お正月ならではで、お父さんもお仕事がお休みだし、お母さんかお父さんの実家に里帰りしているので、みんなで「正月のお節」にも飽きたので、外食となったのかもしれないが、楽しそうな家族の外食レストランでの食事風景が、あちこちで見られたのである。

 私も年末に高齢の母が風邪をひいて熱を出していたので、正月が明けてからの例年は年末に必ず行っていた「墓参り」の帰り道に、母と昼食をとろうと車で立ち寄った和風レストランは、お昼時を過ぎた午後二時前なのに、大変混んでいて、しばらく待たされてしまったのである。

 この間に出入りするお客は、ほとんどがファミリーと言った感じのグループで、特に年老いたおじいちゃん、おばぁちゃんと共に小さな子供連れの二世代、三世代のファミリーの食事のための様子であった。

 隣も後ろも、さぞ賑やかな食事風景だろうと、待つ間しばらく観察していたのだが、メニューを各々が見て、注文してしまうと、小さな子どもたちは何やら話している場合もあったが、みんな静かで、黙々と自分の前の注文した食事を食べているに過ぎないのである。

 何故に、その様に感じたかと言うと、どうも『一家団欒』と言った賑やかさや親しい会話が、ほとんど聞こえてこないからなのである。

 『食事』は、普通一日三回、それぞれに好きなものを食しているのだろうが、『一家団欒」と言った感じの食事風景が、今や一般家庭からも消え失せ様としているのではないかと思うほど、覗いて見たわけではないのだが、『和気藹々』の「おしゃべり」をしながらの楽しい「家族の団欒」が無くなり、家族と言う名の同居人が、各々好きな食物を好きな時に、それぞれ食べているにすぎないのではないかと推察するに至ったのである。

 そもそも食事は人間が生きるためには欠かしえないものだが、ただ何か食せばいいのではなく、一緒にあるいは時には一人であったとしても、その食事をいただくことの感謝と共に、原材料を作ったり、飼ったり、捕らえたりした方々や、加工した方、運んだ方、そして販売したり、いただいた方がいて、家庭やレストランで調理していただいて、食する場面に登場して、やっと我々の口に入るのである。

 そうした『食事』に至る。多くの人や関わりがあってこそ、私たちの『食』は成り立っており、その感謝と共に、家族や友人、知人が寄って、一緒に食する意味は、お互いの「生きている」ことの確認と励ましでもあるのではないだろうか。

 現代社会は、一見便利になり、お金さえあれば、『食』には困らない。コンビニ、スーパー、お弁当屋さん、食材配達屋などなどと、全く一人でも、調理しなくても、家族と一緒に食さなくても困らないであろう。

 しかしである。『一家団欒』を忘れた『食事の風景』は、どうも寂しいし、何やら拍子抜けの感じてはなかろうか。

 特に小さな幼児から子ども時代に、この「一家団欒の食事」が大切であり、楽しい食事を外食ではなく、家庭でどれほど経験したかが、その子が大人になってから、家庭を持った時の「食事」の価値観となることは間違いないのである。

 楽しい『一家団欒』の食事を、大いに贅沢せずに家庭でとろうではないか。
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初夢。

2006年01月02日 | 季節の話題
 初夢の理想は、「一富士、二鷹、三なすび」と一般的には言うのだが、今までの人生で、富士山、鷹、なすびの夢を見たことは一度も無いのである。

 2006年が明けて、たぶん初めての夢を昨晩見たのであるが、その「夢」は、何とも「まじめな夢」であった。

 一つ目の『夢』は、一生懸命に原稿用紙か何かに今から講演か文章として残すための内容を、まとめようとしているのである。

 たぶん、一つの目的は市議会議員としての、「質問原稿」の推敲だと思われるし、もう一つは、このブログ「ガリバー通信」に書く予定のテーマや内容を探しながら推敲している『原稿』のためだと思われるのだが、もうひとつは具体的に現在は頼まれてはいない「講演」のための「演題」をまとめていたらしいのである。

 今朝、三時前に一旦目覚めた時に、どうも「つまらない夢」だなと感じていて、もう一度寝直したら、もっと楽しい「いい夢」を見ることが出来るのではないかと「夢」見て寝床に再び入ったのである。

 そして見た「夢」は二本立てであって、最初の「夢」はお正月の「お節料理とみかんとお餅」であったので、まだまだ食欲が勝っているのだろうと感じたのである。

 今朝方、目覚める前に見ていたであろう「夢」が一番の正夢になる可能性が高いかもしれないのだが、その「夢の内容」は、簡単に他人に披露できるものではないものであった。

 ちょっと「不真面目」にも感じられる面もあったが、今年の飛躍を期すためには、大いに「力」を与えてくれるイメージが含まれていたと、自分自身は強く感じたので、この「夢」のお告げを信じて、今年も真面目に精一杯やろうと決意したのである。

 「初夢」は、決して「富士・鷹・なすび」などの、現実とはかけ離れた世界を見させてくれるのではなくて、日常生活における自分自身のあり方、生き方を「示唆」してくれる場合が多くあって、その夢をどの様に感じるかが、課題なのである.

 若い頃は、よく「追いかけられる夢」や「空を飛ぶ夢」を見たものだが、中高年の域に達すると、なかなかそう言った「夢」を見ることが出来なくなり、逆に現実的な課題や関わり方を示唆されるような「夢」を見ることで、「明日」を、また「今年」をどう生きるかを教えられる楽しさがあって、私は大満足である。

 皆さんも昨晩見ることが出来た「夢」を覚えていますか。もし「夢」を見なかったり、見ていても忘れた人は今晩改めて、今年最初の「初夢」を期待して、寝床に入られたらいいと思います。

 きっと素敵な「今年の生き方」を示唆してくれる、「夢」に出会えるはずです。

 「夢」も「占い」と一緒で、言葉や結果ではなく、その事実やシュミレーションを、どう現実の生活に活かしていくかが課題であり、自分らしさでもあるのです。

 僕も今晩もう一度、今年を示唆する素敵な「初夢」の見直しをしてみたいと思っています。

 
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年賀状の不思議

2006年01月01日 | 季節の話題
 毎年元旦の楽しみは、やはり「年賀状」である。

 現代はメールや携帯電話の普及で、ほとんど手紙や葉書を事務的なお知らせや公的通知以外書かなくなったし、必要としなくなったのだが、「年賀状」だけはやはり別の楽しみであり、「年賀葉書」は無くしてはならない文化ではないだろうか。

 今年の干支に因んだ年賀状として、いろんな「戌」「犬」が印刷されている賀状が多い中で、差出人が「誰」か判らない人からの賀状があるから不思議である。

 例年一、二枚、差出人の名が書かれていない「賀状」があり、消印のない葉書のために、なかなか推察もできないものがあって、いつも「不思議」のまま、お正月を終えているのだが、今年は差出人の住所、名前が記載されているのに誰か判らないという賀状があったのである。

 相手は私の住所、氏名を知って、投函されていることは間違いないので、ゆっくり推察したり、考えたりは出来る情報は十分なはずなのだが、この賀状を受け取って半日が経つが、いまだに「誰」からかがわからないのである。

 それも何処かの商社やお店からの「お客様」としての顧客への賀状などである場合は、自分の意識や記憶とは裏腹に一方的に賀状をいただく場合もあるとは思うが、この一枚はそうではなく、ちゃんと個人名が記載されているので、余計にちょっと心配になるほど、不思議な賀状となっているのである。

 毎年いただく賀状の中に当然市内在住者からの「賀状」も多くあるのだが、自分の立場が市会議員ということで、こちらからは公職選挙法のため違反となるので、賀状や挨拶状は出せないので、いただいた場合は返礼をしないと失礼になるので、手書きの宛名書きと一筆を必ず加えて出すことにしている。

 多くの年賀状を見る楽しみは多くの出逢いと今までの付き合いからの人間的な行き来の「縁」であり、それぞれの人生の「ちょっとした変化」や「人生の転機」などに加えて、友人、知人の健康や仕事の状況、家族の状態なども知らせてくれる余禄があるものである。

 中には、ご年配が故に少しご健康状態を危ぶむ相手もあって、その方からの手書きの宛名として書かれた、自分の住所、名前の「筆感」の揺れや力の無さに、先方の健康状態を案じる場合もあって、「微妙」なものでもある。

 十代の元気一杯の「賀状」から七十、八十代の高齢でも矍鑠たる賀状まで、自分との関わりを大切にして下さる、友人、知人として、とっても有難い感謝の念で、一枚、一枚の『賀状』をじっくり何度も、繰り返し見たいものである。
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