ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

阪神優勝!!日本一へ!!!

2005年09月29日 | プロスポーツ
やりました!!!!!。岡田阪神タイガース、球団創立70周年に期待通りのセリーグ制覇を果たしました。「おめでとう、選手たち。おめでとうファンの皆さん」

 ただいま阪神タイガース優勝共同記者会見中で、岡田監督をはじめ今岡選手会長、赤星副選手会長、金本外野手、矢野捕手、下柳投手、鳥谷内野手、藤川投手、シーツ内野手と阪神の全員野球の勝利の喜びと共に、日本シリーズでの2年前の雪辱を期した選手たちの顔、顔、顔が続き、とっても素敵な優勝会見でした。

 今日の試合でも、下柳のナイスピッチングに、金本、赤星、桧山、矢野らの打とJFKの活躍で宿敵ジャイアンツを堂々と破って、地元阪神甲子園球場での優勝の瞬間は、今までの優勝にない特別の感動、感激だったと喜んでいる。

 予定通りのレフト金本がウイニングボールをつかんで、マウンドの久保田投手と矢野捕手が歓喜の抱擁を交わして、各選手が集まり岡田監督の胴上げがなされたが、五回宙に舞った監督は、最後はグランドに落とされていた様子を、私は見逃さなかったよ。しっかりせえよ、選手たち。

 喜びの渦の中で、選手として涙を流していたのは、藤川球児ただ一人だったのだろうか、他の選手たちや裏方的球団職員らも含めて、喜びの大集合ぶりが甲子園球場いっぱいに広がっていた様であった。

 日本一を争う日本シリーズは、来月22日から始まる予定だそうだが、パリーグの覇者はソフトバンクなのか、ロッテか、それとも五割にも達しなかった西武なのか、まだ分からないが、ともかく残り試合と調整を加えて、全員野球での日本一を必ず獲得してくれることを期待して止まないのである。

 「六甲おろし」が流れる阪神甲子園球場のファンのウェーブや、大阪戎橋、梅田などの盛り上がりが続く中、いよいよ深夜の12時を過ぎてから、祝勝会場でのビールかけが始まったのである。

 そこにはメインのスターではない秀太、片岡、中村豊、安藤、橋本、杉山、江草、ウィリアムス、久慈、関本、浜中、ブラウン、町田らの顔もあり、阪神ファンのひとりとして格別の喜びが、再び伝わってきたのである。

 私にとっては、1962、64年の藤本定義監督の優勝から20年目の1985年の吉田義男監督の優勝、そして、それから18年ぶりの2003年の星野監督での優勝に次ぐ、五度目の優勝であり、阪神の優勝を四回見ると死ぬしかないと言われたジンクスを破って、これからの常勝タイガースを見続けたいと思うのみである。
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「ファイト!」が今週終了。

2005年09月28日 | テレビマスコミ
 今年春から半年間、朝の茶の間の時計代りの「朝の連ドラ」として、素敵な笑顔の本仮屋ユイカちゃんが演ずる「木戸優」を主人公とする「ファイト!」が放送された。

 この朝のテレビドラマは、月曜から土曜日までの朝15分間の放映で、40年以上前の「娘と私」が連続テレビ小説の最初だったと思うが、まだテレビ画像が白黒の時代だった。

 現代の朝ドラは半年ごとの東京、大阪制作の交互で続いているようだが、久しぶりに東京制作分の「ファイト」を見たのは、この優ちゃんのかわいらしさと、馬の「サイゴージョンコ」の演技?によるところが大きいと思える。

 ドラマは、出来すぎた美男、美女の夫婦役、緒方直人と酒井法子の家庭に、様々な問題が起きる中で、15歳の女子中学生が大学生になる約四年間を、半年間の長丁場で見せたのである。

 群馬県高崎市のある小さなバネ製造工場を、親の代から経営する緒方直人の木戸家の長女である優は明るく純粋な女の子。ソフトボールと馬が大好きな多感な現代っ子である。

 父の工場が、大手取引会社のバネのすり替え事件から営業が困難になり、一家は父と離れて、酒井法子の縁のある四万温泉の駒乃館に弟の檀と共に身を寄せて、工場の閉鎖と共に優は高校不登校となり、仲居見習いで仕事をしながら苦闘するのである。

 その間も自分が縁あって名づけた馬「サイゴージョンコ」に、落ち込んだり悩んだ時に元気をもらっていて、自らの将来も「馬が人間を元気にさせる」仕事を夢見るようになって行ったのである。

 女優というにはまだ若い「本仮屋ユイカ」さんだが、ほんとうに素敵な笑顔のお嬢さんであり、村上厩舎の若き厩務員の太郎さんに恋こがれつつ、同級生の岡部や工場をどん底に陥れた父の友人の娘の里夏とも、いろいろ紆余曲折があったが、仲良く高校時代を送るのである。

 若い世代も含め、夢を抱くことが難しい時代となったと言われる現代にあって、純粋に友達や家族、そして好意を寄せる人々との人間関係に悩みながらも、大好きな馬のジョンコに励まされた自分に気づいて、馬と共に「人間を元気にさせる」仕事を夢見る、主人公の「優」と「馬」がドラマを盛り上げたのである。

 久々に朝ドラを楽しみに見続けて、大変うれしい気分と元気をもらった気がして、一日をはじめることができた半年であった。

 ありがとう「ファイト」、ありがとう「優ちゃん」ありがとう「サイゴージョンコ」。これからも若い「本仮屋ユイカ」ちゃんと岡部を演じた「三浦春馬」クンを応援しようと思う。
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琴欧州と野口みずき

2005年09月26日 | プロスポーツ
 昨日の日曜日は、「スポーツの秋」を象徴するかの様なプロスポーツの華やかなゲームやレース、または試合のテレビ中継が目白押しであった。

 当然、私の「阪神タイガース」が、9回今岡の起死回生の3ランで広島に逆転勝ちし、セリーグ制覇のマジックを3としたことが一番であったのだが、他にも相撲、ゴルフ、マラソンと素晴らしいアスリートが活躍した中継やニュースが盛りだくさんであった。

 そんな中、204㎝の大相撲の琴欧州と150㎝のマラソンの野口みずきに注目が集まったのではないだろうか。

 琴欧州は相撲人気がかげりを見せる中で、モンゴルからやって来た横綱、朝青龍の一人勝ち状態を阻止すべく放たれた、国際秘密相撲結社の諜報部員の様にブルガリアからやって来て、まだ日が浅いながらも新関脇の地位に上り詰めた、長身204センチの関取である。

 双葉山以来という新関脇としての初日から12連勝の離れ業をやってのけた「相撲界のベッカム」と称される、国際的ニッポンの国技の「若き英雄」である。

 母国ブルガリアでオリンピックを目指すレスリングの選手だった琴欧州が、東洋の異国ニッポンに遥々渡ってきて、全く文化、風俗、食生活、言葉、習慣の異なる「相撲界」に入門して約4年、戒律と稽古の厳しさに耐え、言葉のハンディを乗り越えて、異国の国技の頂点の見える位置の「幕内の関脇」の座をゲットしたことだけでも、たいしたものなのである。

 1936年夏場所に優勝した新関脇「双葉山」以来の幕内優勝と、所要18場所という最速優勝は逃したが、貧しい東欧の農業国ブルガリアの国民や東欧諸国の多くの人たちに、日本と相撲を認識させて関心を向けさせる、きっかけを創った功労者となった。

 この偉大な東欧の204センチの若者力士に、史上2人目の大鵬以来と言う6連続幕内優勝の大記録で逆転優勝した、モンゴルの英雄「朝青龍」のかげは薄くなってしまったといえよう。しかし朝青龍はすごい奴である。

 一方150㎝の小兵、マラソンの野口みずきはアテネオリンピック女子マラソンで金メダルをシドニーの高橋尚子についで獲得して以来、13ケ月ぶりのフルマラソンでベルリンマラソンを選んで、記録に挑戦したのである。

 4ケ月に及ぶ長期の高地トレーニングで、中距離ランナーと同じようなスピードを身につけて、2時間18分台の日本新記録を目指して、彼女は大きな背丈の4人の男性ペースメーカーランナーに囲まれた孤独な戦いに終始し、黙々と時間との戦いを立派に制したのである。

 気温が20度にも及ぶ予想より悪条件の中で、給水ペットを取り損ねたりペースメーカーと交錯してバランスを崩したりはしたが、正々堂々と目標タイムを少し下回ったものの、日本記録を29秒短縮する2時間19分12秒の「素晴らしい記録」でゴールインしたのである。
 
 たぶん、ゴールの瞬間の「サングラスを取ってのウイナーポーズ」と、その後の「マラソンシューズの片方を脱いで掲げる」パフォーマンスは、孤独な戦いの途中で脳裏によぎり計画されていたものなのだろうが、全く嫌味のない、小さな巨人のささやかな派手な演出であった様である。

 琴欧州は、優勝のチャンスを逃したわりには、淡々と「2回のチャンスを2回とも負けた。」と語り、大きな関取の小さな優しい心と次にかけた闘争心が見え隠れしていた様に思えたのである。

 いずれにせよ、204センチの欧州からやってきた優しい二枚目関取と、たった150センチの漲る敢志いっぱいの女性マラソンランナーの快挙に、日本中がさわやかな嬉しい気分にさせてもらった気がするのである。

 女子ゴルフでの横峯さくらの宮城ダンロップ女子オープンの優勝、女子米国ツアー予選を2位,3位で通過して帰国した宮里藍と諸見里しのぶなどの若き女子プレーヤーの活躍も目を見張るものがあるほか、ボクシングでもWBCバンタム級で長谷川穂積が、またミニマム級でも新井田豊が共にタイトルマッチを制して世界チャンピオンとなっているのである。

 スポーツの秋の到来である。タイガースの優勝までカウントダウンは3である。

 
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買うものがない!!!!!

2005年09月25日 | 感じたこと


 女性に限らずショッピングは、現代人の好きなことのひとつである。

 しかし、現在のコンビ二や百円ショップの出現などが、その消費的ショッピングの魅力ではない、「何か買おう」とか「何か買いたい」という現代人の衝動を何とか、その場だけ満足させる仕掛けのような場所として機能させている様な気がしてならないのである。

 というのは、衣食住を含む多種多様な現代生活で新たに売り出されている商品類の中で、本当に必要不可欠で、ないと困る様な商品などは、もうほとんどないのではないだろうか。

 たとえば、電化製品では二昔前は洗濯機、テレビ、冷蔵庫、クーラー等が、どの家でもほしい電化製品という時代だったのだが、一昔前になってはパソコン、DVDプレーヤー、デジカメ等と変遷してきて、現在はほとんど新しい電化製品ではなくて、新しい機種かデジタル化した製品への買い替えにのみ消費意欲があるに過ぎないのである。

 自動車も同じようである。一家に二台、三台も当たり前の時代となっており、息子や娘も車に乗り出して、小さな家の駐車場を拡張したり、改装したりとなるのである。

 テレビ、新聞で多くの大型スーパーを展開してきた、ダイエーやイトーヨーカドー等の業績不振や店舗閉鎖などのニュースが日常的に見られるのが、今日この頃となっているのである。

 普通の日常生活をおくる人々は、毎日の食事のための食材と日常生活の消耗品は買うだろうけれど、特に電化製品や家庭生活に必要不可欠な高価な商品などは、ほとんど買う必要がないのである。

 バブル経済と言われた時代には、金が金を呼ぶ時代と思われていたのか、財布の紐も緩んで散財したり、より大きなもの、より上等なものと買い換えたり、新しい商品の購入が当たり前のような時期があった。

 しかし、あの「泡の様なバブル」がはじけて数年後から、やっと日本人も一部を除いて目覚めたと思われ、不必要なものを衝動買いすることも控えて、ちょっとした買い物衝動はコンビ二か百円ショップで満たす様な傾向になり、一般零細小売店だけでなく、大手スーパーなども売り上げ不振に陥っているのである。

 よーく考えてみれば、確かに消費しなければ経済は大きくは動かないのだが、人口増加もピークを超えて、これからは少子高齢化の時代であり、大量生産、消費、破棄の時代の無駄とエネルギー、排出リスク等に気づいてブレーキがかかっているのである。

 「買うものがない」のに、「何か買おう」とする衝動を抑えて、金を使わない健康的なスポーツや文化活動、人とのコミュニケーションで、現代人としてのストレスや不健康な衝動を満たせれば、結構なのではないだろうか。

 誰もが「年金」や「年を取ってからの介護や生活」への不安を抱く時代ではあるが、本当に必要な最低限の衣食住を除けば、たいして大きなお金を必要とするような経済的心配は要らないのである。

 必要ないものは買わない。買うものがない生活を大いに楽しもうではないか。

 





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豊かさに負けた・・・?

2005年09月24日 | 日本の課題
 
 運動会日和の土曜日、市内の小学校で運動会が行われた。私の地域の小学校では、小学生の金管バンドによるファンファーレで運動会の開会が告られ、全児童が裸足で運動場を入場行進するユニークなスタートであった。

 小学生たちの入場行進を見ながら、少し気になったのが再び小学生の肥満が増えている様に感じたことであった。

 今から二十数年以上前に一時肥満の幼稚園児、小学生児童が急増した時期があり、世の中で多くの幼児、児童の肥満を解消する教室やジムが流行ったが、バブル経済とは関係がないかもしれないが、その後は肥満児は減少し、あまり目立たなくなっていた様に思っていた。

 しかし私の目には、間違いなく子どもたちの肥満がまた増えだしていると確信したのである。なぜなんだろうか。一人っ子が多くなり、核家族化した家庭での子どもたちの存在は、二人、三人の家庭もあるが、子どもたちの環境、食、物などが飛躍的によくなり、物量も質も大変豊かになっているといえよう。

 そんな中で子どもたちは、何でも買ってもらったり、おねだりしたら得られると言った状況に生きており、そうした環境や実態を「豊かさ」とも感じないで当然のように過ごしているのである。
 
 子どもたちだけではない。お母さんもお父さんも、ほとんど「貧しさに負けた」という歌「昭和枯れすすき」に代表される「貧しさ」を知らない世代なのである。

 子どもたちにとっては、おじいちゃん、おばあちゃんなどから、たまに聞いたり、テレビドラマで見ることがあっても、現実的には想像もつかないので、「貧しさ」がわからないのは当然で、逆の「豊かさ」もわからないのである。

 敢えて言えば、現代社会での子どもたちや大人たちは「豊かさに負けた」と言っても過言ではない時代に突入しているのではないだろうか。

 「豊かさ」ゆえに、「考えたり、工夫したり、知恵を絞る」必要もなく、何でも与えられ獲得できるので、想像したり、自分たちで作り出すことも必要ないのである。

 そんな「豊かな時代」に生きている現代人が、地震や風水害なども含む天災や予期せぬ出来事に遭遇した時、どのように対処したり乗り切ったらいいのか、自分たちだけでは見当すらつかないのである。

 たとえば、電気、ガス、水、ガソリン等のエネルギーが突然なくなったり、提供されなくなったら、蝋燭や野火、川や雨の水、また自転車やリヤカー等の人力や自然、代替のエネルギーで補うことができるだろうか。

 また携帯電話やメールによる通信を、日々必要でなくても、誰かとしていないと落ち着かなくなる現代の新人類は、携帯をなくしたり携帯による通信ができなくなると、「生きていけない」などと言う若者も多くいるのである.

 道行く若者が歩きながら、自転車に乗りながら、自動車を運転しながら、電車の車内で,駅で,コンビニで、学校で、自分の部屋でと、何処でも肌身離さず携帯を手に持って、見たり入力したりしている様を見ると、ほんとうに「豊かさに負けた」世代だと思えてならないのである。

 人は道具や物に頼らないと生きられないわけはない。何もなくとも友達や家族や知人や地域の人々がいれば生きていけるはずなのである。

 家族、友達、コミュニティの人々との交流や出会いと繋がりを大切にした生き方ができる人間力があれば、エネルギーや携帯などの道具がなくても生きていけるはずである。

 「豊かさ」に騙されたり、錯覚したり、負けることのない「生き方」をもう一度見直したり、見つけ出そうではないか。

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47歳のボクサーへの想い。

2005年09月23日 | テレビマスコミ
 とんでもない依頼だと最初は思った。あの大変な視聴率の朝日放送テレビ、金曜夜の「探偵ナイトスクープ」の今夜の作品のひとつであった。

 福岡のお母さんと娘さんからの依頼で、47歳のお父さんが40年間のボクシング観戦歴しかないのに、いつも「俺はちょっと鍛えれば、ボクシングで北京オリンピックへ行ける」と言うので、ぜひ福岡までちょっと来てもらって、この自信の鼻をへし折ってもらいたいと言う「けったいな依頼」だったのである。

 探偵が博多に早朝に着いたのは何と五時半頃である。何でこんな早朝に訪ねるのだろうと思ったのだが、お父さんの仕事がお休みの火曜日、一日でトレーニングと試合を大阪で済ますための時間的計算からだったのである。

 七時半の飛行機で家族三人と探偵のセイキ君が大阪へ飛び、まず訪ねたのが何故か北京飯店という名の中華料理屋だったのである。

 実は、このお店の二十三才の女店主も、探偵ナイトスクープに「ボクシング歴半年だが、ぜひお店の名前にちなんで北京オリンピックへ行きたい」というのであった。

 そこで、この二人の願いを一度にかなえようと、大阪市内のボクシングジムで、半日トレーニングをした後に、この二人を戦わせて探偵ナイトとしての「北京オリンピック」への推薦をしようとの試みとなったのである。

 女性の方は米国留学中にボクシングと出会って、これまでに二度リングに上がった経験もあり、一度はTKO、もう一試合もKOで勝ったという、体重別ではミドル級クラスのスラッガーなのであった。

 どう見ても、このお父さんの夢は無茶であり、とんでもない結果になるだろうと想像ができてしまったのである。

しかし展開は全く予想に反して、この47歳のただのおっさんの実力は、驚くばかりのセンスと「何かある」とジムのスタッフに言わしめた特性があったのだろうが、1ラウンド2分の3ラウンドを戦い抜いて、ほぼイーブンの戦い結果となったのである。

 お父さんは「ちょっと最後は思った様に足が動かなかった」と汗いっぱいの疲れた顔であったが、娘さんは「お父さんを見直した」と語り、奥さんは「娘にお父さんのいいところを示せてよかった」と満足顔であった。

 四十七歳の男の突如の挑戦。日頃何度も言っていた自信は、まんざらでもなかったことが証明されたわけで、冗談で語っていた北京オリンピックは、残念ながら年齢制限34歳のため出場できないことがわかったのであった。

 北京飯店の23歳のミドル級女性ボクサーは、その後も今回の練習をしたハラダボクシングジムに、その後も通って真面目に北京オリンピックを目指しているらしい。

 とにかく中年お父さんのたわごとは、ただの夢や非現実的なことではなかったのである。人の夢や信念は、こうも肉体や精神をも変えることができるのかと驚くばかりであった。
 
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虫の音しか聞こえない夜半に思う。

2005年09月22日 | ちょっと可笑しいよ
 
 あわただしい毎日をおくる現代人の一人ではあるが、時にはこんな時間を過ごすことがある。

 只今9月議会の会期中なので、自分に課せられた一般質問と委員会での議案審議、補正予算審議を精一杯して、事前に通告していた「アスベスト調査と対策」についての事務調査も終えて、当初の予定通りの議会日程をこなし、今日から3日間は議会はお休みである。

 我が阪神タイガースのセリーグ制覇に向けての戦いも、幸いにも中日との最終戦に完勝してマジックが6になり、試合日程も今日はお休みなのである。

 今日は朝から午後5時半頃まで、私が所属する建設経済常任委員会の審議、質疑で一日明け暮れて、充分疲れているのだが何か空しさを感じざるを得ないのである。

 委員長が不在だったので、たまたま副委員長である私が主に議事進行を行いつつ、議員としての仕事であり義務でもある質問を、6人の委員の中では一番多くするので、その度に委員長席を年長議員にお願いし、質問を多角的かつ多種多様な情報と勉強した成果も加えてしたのだが、時間的に5時を越えると委員会室の雰囲気は変わってしまうのである。

 行政側の市長や理事者、市職員は責務上、特に時間延長などについては心の中では思っていても口には決して出さないが、市民の信託を受けている議員の中から、「もうやめとけや」とか「まだすんのか?」とかと言う声が聞こえ、私の質問中の見解や情報、先進自治体の紹介や、事実に基づく知識などを基にした発言に対して、「そんなことわかっとるやないか」等と、ともかく「早く終われ」としか思っていない、ため息交じりの批判しか聞こえなくなるのである。

 たった6人しかいない審議に加わる委員の議員の多くが、そういった感じの姿勢、態度であり、そう言う委員は、いつもほとんど質問や提案もしないのである。

 結局、よっぽど支援者や関係利害を有する住民などからの依頼や要求、願いがない限り、自分で考えて議案審議に当たる準備と問題点の勉強などしていないと思える対応であり、行政サイドの肩を持っているとしか思えない、通過儀礼の様な審議を早く済ませたいと言う「本音」しか見えないのである。

 私は常に100%とはいえないものの、精一杯全ての提案議案に対しての問題点、関連の現状確認を通しての質疑事項を見つけ出して、最低1回は何らかの質問を投げかける様心がけているのだが、大半の議員は「質疑はありませんか?」の委員長の問いかけに、「なし」と答えることを旨として、ほとんど議論しないのである。

 私は今回のアスベスト問題に対する質疑の中で、行政の認識の甘さや事実誤認の恐れのある「安全」とする見解などに対して、強く抗議と共に訂正や厳しい認識を求めて、声のトーンが高まる場面もあったが、ある議員は、自分は何も質疑はないのに、「もっとトーンを下げてやれ」と茶々を入れるありさまなのである。

 議員の仕事は議会で「議論すること」なのだから、時には激しく時には穏やかに事と次第に応じた質疑のやり方があってしかるべきなのである。それなのに一時の状況だけで他人の発言内容などお構いなしに批判めいた野次や苦言だけしか言えない議員の先生方に、はっきりもの申したい心境である。

 静かな虫の音しか聞こえない夜半に、誰とは申しませんが「よーく考えよう、議論は大事だよ」と議員としてのイロハと共に、議員の責務と仕事をまず率先してやってもらいたいものだと言いたいのである。

 秋を告げる虫たちは、この人間主体の世の中をどう思って鳴いているのかは分からないが、愚かな人間達の抗争や、たわいない揉め事に一喜一憂しているのではないだろうか。

 大きくて小さな人間社会を、あざ笑うかの様に自然の生態系のひとつの命として、精一杯の鳴き声を聴かせてくれているのではないだろうか。

 
 
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命の大切さを伝える教育を

2005年09月21日 | 地域の話題
 今朝、毎日新聞京都地域ニュースの「京の人、今日の人」欄に、私の敬愛する、この地での「お父さん」とも言える「小野忠ヒロ」先生が紹介されました。

「戦争をとめよう」とご自分の手書きのゼッケンを手にした、小野先生の写真入りで、「ゼッケンに反戦の願い」というタイトルで、先生の生い立ちから現在に至る人生と「平和を祈る」思いを中心に、簡単に紹介されているのである。

 私は15年ほど前の田辺町時代に「まちぐるみ公園化構想」を考える、ざっくばらんな懇話会に参加して、初めて小野先生に出会ったのであるが、この記事の取材の日に偶然先生の自宅にうかがたために、毎日新聞の中野彩子記者が先生にインタビューされている部屋で、私も同席し私が知らなかった先生のエピソードなども聞くことができたのである。

 先生の人生の大きなテーマである、「平和」への原点は、間違いなく広島への原爆投下であり、その体験を通して、「平和の素晴らしさと戦争の悲惨さ」をずっと教育現場と絵画を通して表現されて来たのである。

 二十歳の時に画家になろうと美術学校に合格されたのだが、「画家で飯が食えるか」との家族の反対で止むを得ず、郷里の高校の社会科の教師になられ、山口大学、広島大学で「考古地理学」という新しい研究分野を開拓し、「高地性住居」の研究者としての功績は多大であったが、65歳で退官されて、画家をするため京都府田辺町に引っ越してこられた人なのである。

 いつも優しい口調で、私は公私共に多くの示唆に富んだ言葉をいただき、特に議員としては、生活者の感覚を忘れないための多くの指摘や問題点などをお教えいただいた、いわば私の師でも在るのである。

 現在85歳になられた小野先生は昨年秋に自宅で転倒され脊髄を痛められたことが契機で、今までに描かれた多くの独特の画風のユニークな作品の整理を始められており、このブログに掲載した作品も、今は京都立命館大学の平和ミュージアムに展示され、その他の多くの作品も広く交流があった人々や公共施設などに引き取られることとなりそうなのである。

 私は小野先生との出会いに感謝しつつ、先生の作品と共に「平和」を祈願する先生の強い意志に敬服し、これからもお元気に私たちへの提言や「生き様」を通してのコミュニケーションを期待して止まないものである。

 小野先生の「命の大切さを伝える」教育の大切さと、今後の教育にかかわる人たちの、強い意志と熱いメッセージを期待して、先生の意思を私たちも伝える人になりたいと願っているのである。

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石舞台の満月!!!

2005年09月19日 | 季節の話題
昨夜が暦の上での「中秋の名月」だったのだが、一日遅れの満月を奈良明日香村の石舞台に見に行った。

 少し曇り空の天気だったが、石舞台周辺の明日香村は、小さな飛鳥の名の入ったコップの灯篭を道の両サイドに並べて、魅惑的な演出をして観光客や地元の皆さんを迎えていた。

 あの真夏の暑さが、いつのまにか消えて、日中はまだ三十度を越す日もあるが、間違いない秋の兆しが朝晩を中心として忍び寄っている今日このごろになったが、やはり夜半になると、秋を感じる涼しい風と夜空に、ほっと心が落ち着くものである。

 久しぶりに明日香村の石舞台を訪ねたのだが、日が落ちてから、この地にやってきたのは初めてだった。

 多くの観光客、地元の人たちに混じって中高年のカメラグループと思われる人たちが、石舞台の前で、背景の山の間から姿を出すであろう、中秋の名月をカメラに収めようと待機されていて、たくさんの人でにぎわっていた.

 私たちは、ちょうど7時半くらいに石舞台に着いて、灯篭が照らす小路を石室の中まで歩んだあと、広い石舞台を眺めながら、満月が登場するのを少し待った。

 東の地平線に満月が昇ったあと一時間ほど経って、ようやく石舞台の背景の山の合間から、朧月の姿を現したのである。

 聖徳太子の時代にも、この地で中秋の名月を眺めていた人たちも居たであろうが、時代は大きく時を刻み、2005年の今夜、この地で月を眺める人たちのことを、この古墳に葬られていた人たちは知る由もないのである。

 今後、また数百年から一千年以上、時が流れた後、この地、飛鳥の石舞台が現状のまま残っていたとしても、その時代の日本人が、どんな心境で中秋の名月を眺めるのかは想像すらできないのである。

 とにかく、平和な日本であり、平和な世界であってほしいと願わずにはおれないのだが、小泉自民党と公明党の与党の大勝利についで、民主党党首も若返ったのはいいのだが、憲法第九条の二項は改憲して、現実に沿った軍隊の所持と自衛権の発動を明記するという考えであるというので、大変危惧せざるを得ない心境なのである。

 自民、公明、民主のいずれの政党も、戦争放棄のお題目だけは変えないが、実質的な軍隊の所有と戦争事態での戦闘行為を認めるという考えになっており、憲法の改悪がますます必至な状態となったといえよう.

 平和な夜空に浮かぶ、中秋の名月は心を静ずめ、心の豊かな感性を刺激してくれるのだが、事態がきな臭い時代に向かっているとすれば、おちおちと月見だと風情を楽しんでは、いられなくなるのである。

 
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ボレロが聴きたい!!

2005年09月18日 | 日本の課題
 ある元日本軍兵士による、戦争出前噺「ボレロが聴きたい」を京都YWCAで聞くことができた。

 91歳の本田立太郎さんは、白内障の手術後のサングラスをはずして、お孫さんからのプレゼントのピンクのネクタイのいでたちで話し出された。

 彼は、この戦争出前講座を19年前より始められ、今回が1082回目だということであり、戦後60年の節目の年も語り続けられている、非常に元気な語り部であり、おっかけのファンまでおられる有名人なのである。

 今日も和歌山県南部町から来られたそうで、お話はとっても自然な流れの、しっかりとした口調で、説得力と共に感動の内容だったのである。

 1939年、昭和14年5月に「オメシキタ、スグカエレ、チチ」の電報で、当時東京で生活していた彼は、呼び戻されて出征することになったのだが、出征への出発の日に、どうしても別れを告げたい人がいて、いつも時間があると珈琲を飲みに行っていたクラシックの音楽喫茶に、出征の報告に行ったそうなのである。

 彼はそれまで幾度となく、その喫茶店に足を運んでいたのだが、一言も彼女と話したことはなかったそうで、その日は店に入ると彼女が目前に立っていて、出征の報告をすると、「いつですか?」と聞かれ,「今晩です」と答えるのがやっとだったそうである。

 すると彼女は、すぐにお店の中に姿を消してしまい、そのうち今までのクラシックから急に彼が大好きで、今までも時折リクエストしてかけてもらっていた「ボレロ」が流れ出したのだそうである。

 それからしばらくの間、何度も何度も「ボレロ」が流されて、彼を送る思いをお店の主人も了承して、クラシックの店にしては珍しい「ボレロ」が4、5回演奏されたのだそうである。

 そして彼女への好意を口にすることもできないまま、出征した本田さんは、中国へ出兵し、過酷で悲惨な軍隊生活を経てシベリア抑留も経験して、八年後帰国して、悲しい事実を知らされるのである。

 戦地での多くの戦友の死を見送った彼は、中国兵の捕虜を上官の命令「処分せよ」に、迷いできないと思ったが、陸軍刑法に背くと大変な刑に処されるのだとの思いで、殺害したことまで話されたのである。

 殺さなければ、殺される。いくら戦時下とは言え、上官、天皇陛下の命令に背けなかった行為は殺人であり、死ぬまで持ち続ける恥ずかしい事実であり、「実に無念、恥ずかしく、くやしい。」と供述されるのである。

 現在、高校三年生のお孫さんがおられ、お孫さんが二歳の時から彼は孫に宛てた日記を書き続けていて、負の記憶である「戦争の事実」を語り、伝えることが自分の務めだと10年間12冊に及んだというのである。

 中国の戦地で亡くなった兵士たちは、誰も天皇陛下万歳と言って死んだ者はなく、みんな「おかぁさん!」と言って亡くなっていると語り、今なお多くの屍が中国の各地に眠っているのだとおっしゃっている。

 決して厚生省の言う様に遺骨の収集は終わっていないし、死んだ兵士の指を持ち帰った兵士も多くいるが、それでも何も遺骨箱には入っていない戦死者もいるのだと告白されているのである。

 「かわいい孫には、絶対軍服を着せたくない」という思いを「ボレロを聴きたい」と題した戦争出前噺の中で、ゆっくりと語り続ける本田立太郎さんから、多く示唆に富んだの熱い思いを受け、戦争のできる国へと歩みだした今の日本への、大いなる警告を感じざるを得なかった。
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