ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

格安航空券

2009年07月31日 | ガリバー旅行記
 皆さん、子どもたちは夏休みですが、大人の夏休みの予定、計画はいかがでしょうか。

 私も毎年の様に「夏休み」をいただいて、海外へと旅立つ習慣になっているのですが、今年はちょつと事情が違って、このブログでも告知した様に「モンゴル族を訪ねる旅」を計画していたのですが、生憎ロシアのブリヤート族を訪ねるためのビザ取得がうまく行かず、今夏の海外の旅を断念しました。

 それにしても、国内、海外を問わず、航空チケットの価格がとんでもなく違うとでも言うべきか、格安チケットと正規のチケットとの差が著しく違っていて、旅の費用が倍以上違うことも結構あるのです。

 今年の夏の旅の予定が決まらないので、いろいろとネットで調べてみると、たとえばベトナムのホーチミンへと飛ぶとしても、一番安いチケットは32000円ほどですが、それを逃すと旅行客が多い、お盆周辺になると何と12万円強と4倍近くになってしまうのです。

 どうしても、この日、この期間しか旅行や所用の旅ができない場合はやむ得ませんが、スケジュールに余裕があったり、いつでも良かったならば、とんでもなく安い航空チケットを利用しない手はないと思います。

 先日沖縄に家族で旅行された私の友人の話だと、三泊四日で航空運賃と宿泊代で、一人10万円以上かかったと言うのですが、今日の新聞の広告によれば、ラストサマー沖縄スペシャルと題した2泊3日の宿泊付往復航空券が、なんと23800円から、39800円ですから、絶対お得ですよね。

 私の息子夫婦が沖縄に住んでいますので、家人も時々行きたいと言うので、秋にでも行こうかと思っていたので、ちょうど安い航空チケットで夫婦そろって沖縄に3泊4日の旅をしても豪華ホテルに泊まって、一人3万円と格安なのです。

 海外に旅立たれる皆さんも、既に利用されたり、検討されていると思いますが、庶民が旅行するには、こうした格安チケットを利用して、楽しく割安に旅をするのがコツではないでしょうか。

 急がば回れではありませんが、緊急の用件や仕事の旅はやむ得ませんが、じっくり研究したり調べた上で、安く上手に旅することが肝心ではないでしょうか。

 職場の同僚で若い奥さんは、夏休みに「台湾」にご主人と共に旅行をされるそうですが、何と大阪関空と台湾台北間の往復チケットが、一人9000円だそうで、東京へ新幹線で片道行くより安いとご満悦でした。

 夏休みの国内旅行も海外旅行も、ゆっくりと検討したり調べた上で計画すると、とんでもなく経済的に旅することが出来るわけです。

 とりわけ、現在の経済状況下での旅行は、我々庶民にとってのささやかな楽しみなのですが、家計に打撃を与える様な無理をせず、たとえ近場でも意外とお金がかかる旅行よりも、じっくり考慮した旅で、ばっちり、がっちり行きましょう。

 いつの間にか、モンゴル縦断の旅が、沖縄の息子夫婦に会いに行く旅にチェンジしそうな、今年の夏休みとなりそうです。

 暑中お見舞い申し上げます。
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「ハリポタ」も6作目。

2009年07月30日 | ファミリーイベント
 「ハリー・ポッターと謎のプリンス」を観た。

 今日、仕事仲間に「ハリポタ」の新作を今夕に観にいくと行ったら、小学2年生の男の子を持つママでもある同僚が言うには、前作を観にいった時は面白かったと言っていた息子が、テレビでの上映を観ようとしたら、「見たくない」と言ったというのである。

 何故かと思って、問いただしてみると「怖いから」と一言。

 まだ幼い小学生には、やはり「ハリーポッター」は、おどおどしく怖い映画なのかもしれない。

 妻と一緒に行ったのだが、孫のK君を連れて行ってくれる予定ではなかったのかと娘からのメールがあったそうだが、ファンタジー小説ではあるが、まだまだ小学低学年には理解が難しいし怖い場面があるのではないかと思った。

 というのは、私自身が映画を鑑賞中に「鳥肌が立つ」場面があって、背筋も寒くなる感じで、大人でも怖くなる場面が確かにあるからであった。

 今までの5作、たぶん全て観ているのだが、途中必ずと言っていいほど目を瞑ってしまう場面があったり、暗いシーンが続くと眠たくなることもあったと記憶している。

 ハリー・ポッターも少年時代のクリフ君と違って、ずいぶん大人びた感じに成長しているし、あのかわいいハーマイオニー役のエマ・ワトソンも美しい娘に成長著しく、ロン役のルバート・クリント君や悪役のドラコ・マルフィー役も青年となっていて、雰囲気が大きく違っている。

 ハリー・ポッターの最初の物語として映画化されたのが「ハリー・ポッターと賢者の石」で、今から8年前の2001年だったから、無理もないのである。

 かわいい悪がきと少女だった、ハリーとロン、そしてハーマイオニーの三人がボグワーツ魔法学校に入学した時の初々しさと子どもらしさは、今は昔の感じであり、余計にストーリーの展開も難解であり、子どもには分かりにくく怖い作品となってしまった感があると思われる。

 それに加えて、今回の作品を通して感じたのが、「呪う」とか「嫉妬」とか「逆襲」といった人間社会にある相克とでもいうべき「どろどろした」心の葛藤や戦いに終始していたと思うのである。

 確かに、人間の心の裏表には、そうした感情はつき物なのだが、せめて子どもたちの「夢」や「ファンタジー」としての空想の世界を描く「小説」なのだから、脚本や演出で、もう少し心温まる話や描写があってもいいのではないかと感じた。

 せっかくの「子どもたちの夏休み」だけれど、中学生以上だと問題なく理解できたり怖がったりはしないだろうが、小学生には難解でもあり怖い映画となってしまっていたことは残念である。

 当然、イギリスの作家、JK、ローリングの傑作ファンタジー小説の映画化としては忠実なのだろうが、2作目の「秘密の部屋」、3作目「アズガバンの囚人」、4作目「炎のゴブレット」、5作目「不死鳥の騎士団」と出演の子どもたちが大人に近づくに連れて、内容が暗いイメージと恐怖感を抱く作品となってしまったと感じたのである。

 
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他愛無い喜び

2009年07月29日 | 感じたこと
 毎日の営業仕事で外回りをしているので、お昼休みの昼食は、どうしても定食パターンになってしまって、贅沢は出来ないので、普通は「饂飩と丼」のセットメニューになってしまい、少しマンネリ化している。

 時には仕事での契約がうまく行った時など、自分へのご褒美も兼ねて、ちょっと美味しいものをと思うのだが、仕事の同僚が弁当持ちの場合は、スーパーなどのフードコートなどでの定食となってしまうのである。

 昨日はお客様との約束もあって一人で行動していたので、昼食の時間が大幅に遅れてしまったが、めでたく契約できたこともあって、現場への帰途に立ち寄った沿線沿いの「すし屋」に入った。

 しかし、握りずしを贅沢に頼んだのではなくて、昼食メニューとして玄関先に宣伝書きされていた、「天丼と鉄火巻き」赤出汁と香の物付を注文したのである。

 海老が二匹と野菜の天麩羅が乗った「天丼」も美味しかったが、さすが「すし屋」だけあって、「鉄火巻き」がついていた上に、「赤だし」「香物」で〆て730円で「安い!」と感じて食べたのだが、何と食後のデザートとして、「赤い西瓜」が一切れついていたのである。

 ちょっとした庶民の「昼食メニュー」のサービスではあったが、なんとも「幸せな気分」になったのである。

 たかが昼食、「昼ごはん」なのだが、この「スイカの一切れ」のおまけだけで、幸せを感じられるというのは、所詮平凡な日常を送っていてる証拠なのかもしれない。

 平日の仕事場への行き来の帰りに、ちょっとした贅沢として「コーヒー」を飲むために郊外型の「スタバ」に寄ったり、「マクド」で百円マックと称されるコーヒーやシェイクを口に運びながらの「仕事と家」の切り替えを行う暫しの時間を持つ場合の「ひと時」も、他愛無い喜びの一つである。

 今夕は、仕事帰りに自分の車のエンジンオイルとエレメント交換とバッテリー点検に「オートバックス」に寄ったのだが、手持ちの小銭がないのでカードで支払いを済ませた。

 しかし、自宅への近道は「百円橋」と地元では称されている「京奈和自動車道」の木津川橋を渡るコースなのだが、百円玉すらなかったので、やむを得ず国道一号線へと遠周りして帰るしかないと思っていた。

 なのに、「百円橋」を渡って帰ることができたのは、まさに「他愛無い喜び」であったのである。

 「オートバックス」の店員が「バッテリー点検」をしてくれた時に、私の愛車のバッテリーが助手席のシートの下にあるので、シートを上げて点検したところ、シートの下から105円が出てきたと言って、点検終了後手渡してくれたからなのである。

 まさに「ラッキー!」であった。

 「100円の通行料」が必要な「百円橋」を渡って短時間で帰ることができたのは、日頃の八百屋で使用している「小銭入れ」が時折バラけて、小銭が座席周辺に散らばってシートなどの下に隠れていたからなのである。

 とっても「ラッキー」、「他愛無い喜び」を感じて帰宅したのであった。
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「男と女」の違いと謎

2009年07月28日 | とんでもない!
 いろんな奥さんたちと仕事を通じておしゃべりしていて、特に小さな男のお子さんをお持ちの若いおかぁさんやお孫さんについて語るおばぁちゃんが仰るには、「男の子は何をするか分からない」というのである。

 ある時、ご年配のおばぁちゃんとお話していると、「ガリバーさんも男なのに失礼ですが」と前置きして、「男って別な生き物ですね」と仰ったのである。

 彼女は二人の子どもさんを育て上げて結婚して各々別の家庭を営む娘さんをお持ちのお母さんでもあるのだが、お孫さんに男の子が生まれて、長年の幼稚園の先生を通じて「男の子」にも多く接してこられたのにも関わらず、我が孫の男の子に対してビックリすることが多いと言う。

 ともかく女の子は、自分も幼少の頃から時代が変わっても同じようなことに興味を持って、同じような遊びや行動をしてきたので、「かわいいな」と思ったり、「ああ、そうか」と納得する言動が多く理解しやすいと言う。

 しかし、「男の子」は、今優しい眼差しでそこに居たかと思うのに、次の瞬間には全く予想もしていなかった行動に出ることがあって、予測できないので止めることも出来ないのだという。

 おじいちゃんの大事に育てられた花壇の花がきれいに咲きそろったと言って、喜んでいたと思うと、庭撒き用のホースの水をシャワーではなく、ジェット水流で花に当てて、花を根こそぎ散らしてしまったり、塀の上に飛び乗って渡り歩くと言った実例を挙げられていた。

 女も男も同じ人間のはずなのに、何故にこうも言動、行動の発想や思い付きが違うのか「違いを考えて」いる内に、結局、「男女は性的な違い」だけでなく、根本的に脳の仕組みから、生物としての成り立ちが違うと思われたそうである。

 「男って別な生き物ですね。」と言われて、私は女性らしさや女性特有の繊細さ、優美さ、優しさなどの特徴を感じてはいるが、「女性は別な生き物」と感じたことはなかったので、苦笑しながらお話を面白く拝聴したのであった。

 そう言えば、2002年に刊行されて、日本で200万部以上、世界でも600万部以上のベストセラーとなった、『話を聞かない男、地図が読めない女』を思い出した。

 オーストラリア在住のピーズ夫妻の著書なのだが、私にとっては「地図が読めない女」というフレーズが印象的な有名な本である。

 男性は古代から食物を得るための「狩猟」に集中し、女は子どもを産んで家庭を守るという、男女の性別的役割を長年にわたってこなしてきたので、男性、女性の「脳のつくり」や「学習、経験」が全く異なっていて、違う「脳」を持つ生き物となったと言われている。

 「男脳」は、感情に惑わされず、データやコスト、結果を正確に予測し、「女脳」は、感情や感覚で物事を判断し、わずかなデータからでも問題を認識する。

 なんて言われても、男と女しかいない世の中、お互いの性の特徴、得意、不得意をカバーしながら、地図を読み、話を聞いて、仲良く生きて行くしかないのである。

 
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災いの種。

2009年07月27日 | 世界の問題
 皆さん、「遺伝子組み換え食品」という言葉はご存知ですよね。

 ここ数年、スーパーやお店で、「豆腐や乳製品、またはお肉類」を買うときに、この「遺伝子組み換え作物」を使用していない食品や、餌としての作物にもNGMすなわち、「遺伝子組み換え作物未使用」をうたった食品を選んでいる方が多いと思います。

 日本では一般的には栽培されていない「GM」作物として、有名なのが大豆、トウモロコシ、菜種、綿花などであり、アメリカ合衆国を中心とする「種子会社」が開発する、「遺伝子組み換え作物」が相当な勢いで世界の農産物に拡大しているのです。

 この遺伝子組み換え作物とは害虫や病原菌から、食用植物の成長を守るためと、「一回きり」の植物収穫で来期の「種」を残さないので、種子会社が何度も「儲かる種」でもあるわけです。

 世界中に急速に拡大している「遺伝子組み換え種子」は、アメリカ合衆国の「モンサント社」を筆頭とする巨大な農業バイテク企業が仕掛けた「災いの種」なのです。

 ちょっと考えれば分かることですが、作物の種として、毎年独占的な種子企業に頼らなければ、世界の食料生産が立ち行かなくなる危険性が生まれつつあるのです。

 世界中の遺伝子組み換え作物の大半をアメリカ、カナダ、メキシコ、ブラジルの北米と南米の国で生産している現状ですが、その栽培面積は異常に拡大しており、毎年前年比で10%以上の伸びを示し、アジア、アフリカ、オセアニアなどの大陸での農業者にも多大な影響を与えつつあるのです。

 農業者にとっては「販売需要」があれば、大量な農場での人件費や燃料代を含むコスト削減につながるのですが、果たして、このGM作物が、どういった人体や家畜に影響を及ぼすかは、いまだはっきりとは分かっていないのです。

 日本をはじめEU諸国などは、今のところ慎重な態度を示しており、アメリカのモンサント社をはじめとする、この「GM種子」の攻勢に対して、遺伝子組み換えをしていない従来品種の種子を死守しているのですが、時間の問題ではないかという危惧もあります。

 昨年、実は日本では大きなニュースとして報道されていませんが、NPO・国際アグリバイオ事業団によれば、2007年の世界のGM作付け面積が発展途上国で拡大し、「バイオテクニック」による作物が安定して優良な生産をなし、農家に大きな経済、環境、健康、社会上の便益を与えたと報告しています。

 しかし、モンサント、シンジェンタ、BASF等の大手バイテク種子企業は、世界中の農業、産業、NGOの代表や専門家が参加する国連後援の「開発のための農業科学、技術国際アセスメント」のプロセスからは撤退してしまったのです。

 「世界の農業」にとっての「災いの種」は、身勝手な企業の営利主義のみの動きであり、世界の貧困、飢餓問題の解決策として、将来的にGM種子が本当に役立つかの議論が大いに必要です。
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日本のニュース報道。

2009年07月26日 | 日本の課題
 日本の新聞発行部数は人口千人について580部(1999年)だそうで、世界でリヒテンシュタイン、ノルウェーについで3位だそうである。

 またテレビ局も全国ネットの国営放送的NHKをはじめ、フジテレビ、日本放送、テレビ朝日系列やテレビ東京などのローカル放送局など全国に多数のテレビ局があり、ラジオもAM、FM局が多数存在している。

 しかし、日常的な報道を垣間見ていると分かるのだが、どのテレビ局も同じような報道内容で競っていて、殺人事件や災害事故などと共に、国会、政局報道に関しても、いつも同じ場所からレポーターや報道アナウンサーが同じ内容の情報を伝えている。

 新聞各紙を見ていても、おそらく同じような内容の情報を少しは違う切り口、もしくはコラムや記事として記事にはしていると思われるが、ほとんどが同じと言っても過言ではあるまい。

 手元に私が購読している「毎日新聞」の日曜日朝刊があるのだが、一面は「どうする地方分権」と題した、総選挙に向けての「選択の手引き」を記事に特集しているトップ記事と米公文書で明らかになったとして、CIAが緒方竹虎を首相にとの工作を行っていたとする記事を掲載している。

 下段の「余禄」、朝日新聞だと「天声人語」の欄には、昔の中国に杞という国があり、「天が落ちてきたらどうしよう」と心配で夜も眠れない人がいたという書き出しで、「核爆発が起きた」「放射能が漏れている」など、河南省のある農村で村人たちがパニックに陥ったそうである。

 「根拠のない心配はするな」との教訓として語られて、デマを流したとして数人の村人が捕まったそうだが、企業や役人が情報公開を拒んだためにパニックが起きたのだとし、杞憂ではないと世論は同情したという。

 つまり、「杞憂」とは、「いらぬ心配をすること」や「とりこし苦労」のことを言うのだが、果たして庶民や市民が感じる素直で根拠のない心配ごとが、全て「杞憂」だとは言えないと思えることが多い、昨今の報道ぶりである。

 すなわち、私たち庶民に知らされている膨大なる情報と思われている内容は、ほんの世界で起きていたりしている事実や結果のごく一部であり、日本国内の情報に関しても全く一部に過ぎないのである。

 毎日新聞の朝刊、26ページの中で「国際」と銘打って記事が書かれているのは、たった一ページであり、世界中にいるように思っている特派員や支局の送信された記事のごく一部に過ぎないばかりではなく、ニュースソースそのものが限られているのである。

 よく、共同通信、時事通信、AP、UPI、ラジオプレスなどの情報として伝わっている報道の一部が掲載されたり、特集されたりしているだけで、大きな世界の経済や政治の動向のほとんどは、よっぽど日本と関係が深くあると思われるもの以外は報道されていないのである。

 「グローバル世界」とか「国際化」と呼ばれているだけで、日本ほど「島国ニッポン」のまま、アメリカを中心とした報道の傘の下で、少しだけ国際的ニュースがある国も少ないのではないだろうか。
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「夏バテ」にご用心。

2009年07月25日 | 季節の話題
 7月23日は暦の上では「大暑」、8月7日には「立秋」を迎えるというわけで、まだ梅雨明け宣言がされていないのに、京都地方は、「祇園祭」の山鉾巡行も終わって、もう既に「真夏の候」である。

 週末だけの「有機八百屋」の移動販売でお客さん宅を訪ねると、すでに「夏バテ」気味だとおっしゃるご年配のご婦人がおられ、「大丈夫かしら」、「今年の夏を乗り越えられるだろうか」と語られた。

 人間様だけではなくて、飼い犬の老犬が「暑さに参っていて」、耳も聞こえにくく、人間同様の「痴呆症」も患っていて、足腰も弱くなっていて、それに「夏ばて」も重なって、食欲も落ちているとのご心配もあった。

 いずれにせよ、年毎に誰もが平等に歳をとっているのだが、「年々、暑さが身にしみますね」と仰る奥さん方が増えているようにも思う。

 「地球温暖化」の影響もあって、確かに「夏の暑さ」は年毎に増しているように思うのは、私自身も歳を重ねてきて、人様だけでなく高齢化している性なのかもしれない。

 しかし、よくよく考えてみれば、私たちの生活のあり方、家での過ごし方の変化も大きく、小中学生の頃、すなわち1960年代、今から4、50年前にはほとんどの家庭に「クーラー」や「エアコン」なんてなく、扇風機とうちわ、扇子で「涼を感じる」程度の日常であった。

 「夏バテ」の大きな原因のひとつとして、この「冷え過ぎ」があると言われている。

 ついつい、暑さを凌ごうと「エアコン」を入れっ放して、冷たい食品ばっかりを食べているという日常生活では、体が冷えのぼせを起こしたり、足腰が冷え過ぎることで、冷たい血が胃腸や内臓を冷やしながら心臓に戻るために、食欲不振や消化不良や体調を壊すといったケースが多いようです。

 すなわち、足腰が冷えると熱は上半身の方に逃げて、肩や頭に熱がこもって「冷えのぼせ」という現象になってしまい、のどの渇きや肩こり、頭痛などが起きるようです。

 また、「アイスクリーム」や清涼飲料水など、冷たい飲食物ばかりをとっていると、身体の内側が冷え過ぎて、血管が収縮し、血液の流れが悪くなり、脳がうっ血状態になったりして、「脳梗塞」や「耳鳴り」「不眠症」などのトラブルが発生しやすくなるそうです。

 解決策は、まず「エアコン」など出来るだけ使用せず、扇風機やうちわ、扇子などで涼を取り、たまに冷たい食品はいいですが、「熱いお茶」や「夏野菜たっぷり」の味噌汁や食事を意識的に増やすことが、自然な体調に戻してくれる、「いい薬」となることでしょう。

 特に「夏野菜」と称される、トマト、なすび、キュウリ、かぼちゃ、オクラ、インゲン、モロヘイヤ、トウモロコシなど、色とりどりの「美味しい野菜」たちは、多くの水分と共に、「夏を乗り切る」ための栄養分をふんだんに含んでいて、とっても胃腸にも優しく、体調のバランスを良くしてくれるものです。

 「小食」と「早寝、早起き」、そして塩分を十分に補給する「お茶」として、麦茶や番茶がおすすめです。
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「まちづくり」の現実は。

2009年07月23日 | ちょっと可笑しいよ
 全国各地で、多種多様な「まちづくり」や「地域活性化策」が盛んに行われている。

 しかし、国の地域活性化推進のための助成金などもあるが、果たして真の住民たちが期待する「地域活性化策」や「まちづくり」に役立っているのだろうか。

 私も長年の地方議会議員として、市の「まちづくり総合計画」の委員会や協議会委員もさせていただいたが、たたき台としての「計画実施案」の段階から、民間の「コンサルタント会社」が立案、文章化したものをベースに「意見を聞く」と言った形式的な協議だけが「民主的に」行われて、結局は個人個人の「夢や期待」のプランなんぞは全く採用されたりはしないのであった。

 というのは、市長をはじめ行政マンの多くも、または議会議員たちも、「自分たちのプランや夢」を持ち合わせてはいなくて、ただ「将来像」としての「計画案」を作らなければいけないので、一応仕事として「協議会」を作ったりして、「民主主義」の形式としての「議論の場」を作っているに過ぎないのであった。

 いろんな建設的意見や希望や夢は、ほとんどが一章にされて、ただ市民参画といった形式をとったというアリバイづくりに「市民代表」や「学生代表」「議会議員」「学識経験者?」などを入れて「協議した・・・」という実績作りだけのための「通過儀礼」に過ぎなかった。

 つまり、行政も大半の議員たちも「まちづくり」そのものには殆ど関心はなく、自分たちの仕事に関連した「仕事」や「予算」につながる可能性だけを確認するに留まっているのである。

 すなわち、「まちのグランドデザイン」としての「まちづくり」の展望や可能性と共に、将来の住民にとって、「どんなまち」が理想なのか、などは考えていないのである。

 目先の道路や建物、直接的な利益、利権につながる予算をどう組んでもらえるかが最大の関心事であり、住民代表も選んでもらった行政側に配慮した?、「気を使った意見」しか述べないのである。

 つまり、大半の市長、議会議員、住民代表にとって、その場を問題なく過ごすことだけが目的であり、自分自身の保身や公金から出費される「謝礼」などを貰う手前の遠慮か「迷惑をかけない」ことだけが義務のような立ち振る舞いと意見の少なさが目立っていた。

 日本全国の地域の表玄関である駅や駅前が全く個性的でない画一的なミニ新宿駅や東京駅になってしまっているのが、その実態であり、個性的かつ十分検討されたユニークな「まちづくり」は、非常に稀な地方にのみ少しだけ存在しているのである。

 それは、結局、有名な建築家やコンサルタントに「丸投げ」された場合のみが、大きな権力側の意図とは裏腹に、住民や訪問客にとっても「際立つまちづくり」の結果として観ることができるのである。

 日本の政治の土台、それが「土木、建築業」をベースにした「利権構造」で成り立っているために、自ずから、そうしかならないのである。

 今回の総選挙は、こうした「まちづくり」に少しでも地方色豊かな「グランドデザイン」を注入する、いい機会になればと期待している。
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シンクロ惨敗。

2009年07月22日 | 日本の課題
 水泳の世界選手権が20日からイタリアの首都ローマで始まっているが、解散、総選挙や皆既日食の騒ぎでなかなかニュースにならないようである。

 しかしテレビ朝日系列のテレビ局は、前々から独占中継を予告して宣伝していたので、今晩もゴールデンタイムに、シンクロ女子のフリーコンビネーションを中継し、小谷実可子さんと例の熱い男、松岡修三のコンビでやたら盛り上がっていた。

 しかし、日本は前日の予選での5位と変わらず決勝でも5位に甘んじてメダルを逸したらしい。

 私は金メダルを獲得したスペインの演技と日本の演技しか観ていないのだが、10人の選手たちのチームプレイとしてのまとまりとプールの水面から足が出る高さに歴然とした違いを感じた。

 日本は、フリーコンビネーションと言われる団体競技では2007年には銀メダルを取ったのだが、今回は何故か同じプログラムで演技し、前回の97.833点を大きく下回る94.833しか評価されない結果であった。

 最大10人が、ソロ、デュエット、チームとしての演技を総合的にひとつのプログラムとして織り込んで見せる演技をフリーコンビネーションというらしいが、日本の演技力も技術力も、総合評価としては低かったようである。

 このシンクロナイズドスイミンク゛では五輪、世界選手権と必ずメダルを獲得していたデュエット競技においても、日本は昨日メダルを逃したようである。

 大きな世界大会での演技は強豪がひしめく中でのプレッシャーも相当なものだったろうと推察できるが、ロシアの欠場の中でのフリーコンビネーション競技でのメダルなしの5位に終わったことは、日本のシンクロにとって今後の見通しは暗い。

 先日の「スポーツ界でのライバル」のテレビ特集でも取り上げられていた、小谷実可子と奥野史子についで、シンクロ界のデュエットで頑張っていた立花美哉や武田美保たちの後釜が育っていないようで、今後の厳しい選手育成が課題となっている。

 北京オリンピックでは、辛うじて鈴木絵美子、原田早穂のデュエットペアが銅メダルを獲得したのだが、その後のシンクロチームには精細さダイナミックさを兼ね備えたスター選手が出ていないような気がする。

 確かにスター的存在のずば抜けた選手がいないし、失礼だが選手としての魅力のひとつでもある女性としての美しさを感じる人も少なく、相当抜本的な選手強化と育成を根本的に一からやり直さなければ、日本女子シンクロの将来は暗いとしか言いようがない今回の敗北だったと思われる。

 体力だけでなく、芸術的評価、技術的評価など、チームとしての調和と共に、多くのチェックポイントのある「シンクロナイズドスイミング」は、審判員の先入観や個人的評価もあって、非常に難しい採点競技だけに、一度評価が下がってしまった日本チームならびに個人としての選手の評価は今後益々厳しくなるであろう。

 ぜひ、日本女子シンクロの復活を期待したいものである。

 
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破れかぶれ解散!

2009年07月21日 | 日本の課題
 やっとこさの解散である。

 昨年9月に頓挫した前首相の安部晋三氏の後を受けて、選挙管理内閣と称された自民党総裁の麻生太郎氏が首相となって以来、「解散、総選挙」を要請する民主党をはじめとする野党の攻勢だけでなく、自民党内での「麻生おろし」が吹く中で、ほとんど衆議院の任期満了直前の解散となった。

 あの若さと甘さで「お坊ちゃま宰相」と言われていた麻生太郎氏も、髪も少なくなり皺も増え、苦虫つぶしたような顔立ちで、今日の両院議員懇談会に出席し、その後、河野衆議院議長が「解散証書」を読み上げ、何故か「万歳、万歳」で、総選挙へと気勢をあげた。

 何と言っても、国民、有権者のことを考えての「解散、総選挙」というには、あまりにも勝手すぎる、自民党内部の権力闘争と自分の議員としての地位を如何に繋ぎとめられるかしか考えていない「先生方」の烏合の衆としか思えない「解散シーン」であった。

 今期をもって国会議員を引退すると決意していた、小泉元首相や河野衆議院議長、津島派会長などにとっては、晴れて「卒業」の待ち遠しかった日がやっと来たという感じであった。

 早速、各テレビ局や新聞各紙は、来月18日公示、8月30日投開票の衆議院選挙の前哨戦の幕が切って落とされたとして、立候補予定者や各政党の幹事長、党首などの、今回の選挙戦でのテーマやマニフェスト、政策、目標議席数などをインタビューしているが、国民の多くは「やっとこさの解散、総選挙」に少しはうんざりしているのである。

 「オオカミ少年」よろしく、幾度となく「しかる時に私の決断で解散する」と言い続けてきた麻生太郎首相が、あの満面の笑みが消えて、疲れ果てた老人の顔になって、「一致団結して戦う」とコメントしていることに違和感すら感じたのである。

 しかし、麻生おろしの急先鋒とも見られていた中川元幹事長や加藤の乱と称された時の人ともなった加藤元幹事長らの麻生批判は、何故か急に収まってしまい、麻生首相と握手するというパフォーマンスまで演出しても、なんら自民党の「一致団結」なんて伝わってこないのだ。

 一方の民主党も、「早期解散」を主張し続けていたが、やっと解散、総選挙に対して、いまだ「政権担当能力」がありやなしやと吹聴されている始末で、まだまだ「一枚岩」とはいえない、「寄り合い世帯」丸出しの実態のままである。

 公明党の「生活を守る」も、社民党の「平和憲法遵守」も、共産党の「政治の中身を変える」も、全く新鮮味のない前宣伝であり、一体この国の将来を誰に、任せばいいのやらと言ったところが、ほとんどの有権者の偽らざる心境ではないだろうか。

 でも、衆議院は解散されて、40日後には、小選挙区の候補者と比例代表での政党を選ぶ、国民の権利と義務を慎重に考えて実行しなければ、この国の将来を期待することは出来ないのである。

 今回の「解散、総選挙」は、麻生首相による「破れかぶれ解散」としかいい様がない。

 
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