昨今の映画界は意外と邦画が善戦模様で、外国映画の観客動員数を昨年は、邦画が久しぶりに超えたそうである。
昨年の日本映画では、フラガール、ゆれる、武士の一分、硫黄島からの手紙、雪に願うこと、嫌われ松子の一生などが話題作としてあげられるそうだが、私は残念ながら、「武士の一分」しか見ていないのである。
その中で、オダギリジョーと香川照之が兄弟を演じた「ゆれる」という作品の評価が高く、キネマ旬報ベストテンの二位、ブルーリボン賞、朝日ベストテン映画賞一位、横浜映画祭一位、そして毎日映画コンクールでも一位を獲得している。
この「ゆれる」という作品は、独立系の映画会社の制作のため、全国的にマイナー映画を上演する数少ない映画館でしか上映されなかったこともあって、観た人は多くはないと思われるが、日本映画としては二本目の監督作品となる32歳の西川美和監督の作品である。
私は観ていないのだが、この作品の「ゆれる」というタイトルに、大変興味を抱いていて、予告編をインターネットで観ただけなのだが、東京で有名なカメラマンをしている弟、オダギリジョーと、家業を継いでいる兄、香川照之の、「橋を渡るまでは、兄弟だつた」というキャッチフレーズに秘められた、兄弟の人間関係と、兄が犯した「殺人か事件か」という裁判を通してストーリーは展開しているようである。
人間関係には愛情と裏腹に憎しみや打算が、表裏一体になっていることが多くあって、最近報道される事件の残虐さや、信じられない惨劇を見聞きするにつけて、もともとは「優しい人」だったはずの人が豹変して「殺人者」になってしまったとしか思えないケースが続出しているように思えてならない。
人間の心の中は、自分が一番よく知っているつもりなのであるが、ちょっとした出来事がきっかけになって、「揺れだした心」を終息させることが出来なくなって、恨みつらみが重なって、取り返しが付かない憎悪となって、突然噴出してね凶行に走ると言ったケースとしか想定できない事件の数々が今年に入っても連続して報道されているのである。
何が人の心を、そうまでも「揺らす」のかは、個々のケースや、個人の資質によって大きく異なるのであろうが、とにかく「ゆれる」心の奥底に潜んだ「憎しみ」や「悪意」を、翻すことが出来ない人間が、確実に増加していると思われる。
すぐに「切れる」と昨今の子供達のことを言う大人が、自らの心の中の「大きなゆれ」に気づいているのだろうか。
「ゆれる」は、人間特有の理性とモラルの間で、誰しもが、多種多様に経験していることではあるが、その「ゆれ」を少しでも宥めていく術を知らない大人たちが増えていることも確かである。
いっぱい「揺れてもいい」が、「ゆれる」両極端な答えに、身を任してしまったら、人間の行動や言動は、とんでもない方向へとなびいてしまう危険性を秘めているのである。
「ゆれて、ゆられて」、是非、人間らしい「いい結果」を導き出そう。
昨年の日本映画では、フラガール、ゆれる、武士の一分、硫黄島からの手紙、雪に願うこと、嫌われ松子の一生などが話題作としてあげられるそうだが、私は残念ながら、「武士の一分」しか見ていないのである。
その中で、オダギリジョーと香川照之が兄弟を演じた「ゆれる」という作品の評価が高く、キネマ旬報ベストテンの二位、ブルーリボン賞、朝日ベストテン映画賞一位、横浜映画祭一位、そして毎日映画コンクールでも一位を獲得している。
この「ゆれる」という作品は、独立系の映画会社の制作のため、全国的にマイナー映画を上演する数少ない映画館でしか上映されなかったこともあって、観た人は多くはないと思われるが、日本映画としては二本目の監督作品となる32歳の西川美和監督の作品である。
私は観ていないのだが、この作品の「ゆれる」というタイトルに、大変興味を抱いていて、予告編をインターネットで観ただけなのだが、東京で有名なカメラマンをしている弟、オダギリジョーと、家業を継いでいる兄、香川照之の、「橋を渡るまでは、兄弟だつた」というキャッチフレーズに秘められた、兄弟の人間関係と、兄が犯した「殺人か事件か」という裁判を通してストーリーは展開しているようである。
人間関係には愛情と裏腹に憎しみや打算が、表裏一体になっていることが多くあって、最近報道される事件の残虐さや、信じられない惨劇を見聞きするにつけて、もともとは「優しい人」だったはずの人が豹変して「殺人者」になってしまったとしか思えないケースが続出しているように思えてならない。
人間の心の中は、自分が一番よく知っているつもりなのであるが、ちょっとした出来事がきっかけになって、「揺れだした心」を終息させることが出来なくなって、恨みつらみが重なって、取り返しが付かない憎悪となって、突然噴出してね凶行に走ると言ったケースとしか想定できない事件の数々が今年に入っても連続して報道されているのである。
何が人の心を、そうまでも「揺らす」のかは、個々のケースや、個人の資質によって大きく異なるのであろうが、とにかく「ゆれる」心の奥底に潜んだ「憎しみ」や「悪意」を、翻すことが出来ない人間が、確実に増加していると思われる。
すぐに「切れる」と昨今の子供達のことを言う大人が、自らの心の中の「大きなゆれ」に気づいているのだろうか。
「ゆれる」は、人間特有の理性とモラルの間で、誰しもが、多種多様に経験していることではあるが、その「ゆれ」を少しでも宥めていく術を知らない大人たちが増えていることも確かである。
いっぱい「揺れてもいい」が、「ゆれる」両極端な答えに、身を任してしまったら、人間の行動や言動は、とんでもない方向へとなびいてしまう危険性を秘めているのである。
「ゆれて、ゆられて」、是非、人間らしい「いい結果」を導き出そう。