ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

チェルノブイリから26年

2012年04月26日 | 感じたこと
今日の夕刊のトップ記事は、小沢一郎元民主党代表の陸山会事件を巡る検察庁の強制起訴で無罪判決が出たことであった。

 私の脳裏には、そんなことよりも大事な原発に纏わる問題点が多様に論じられている中で、1986年4月26日に世界を震撼させた旧ソビエト連邦白ロシアのチェルノブイリ原発が爆発し、地球上のいたるところに放射能汚染の大被害を与えただけでなく、現在は独立したペラルーシ共和国の事故原発の周辺30キロ圏内は人が住めない禁止区域となっていて、当時ソ連が発表した原発事故による死者数は少なかったが、その後事故原発を密閉するための石棺作りにかり出された労働者なども含め、風下の村と呼ばれたウクライナとベラルーシ両国での放射能被害による甲状腺癌をはじめとする死者は多数に及び、今も多くの患者が苦しんでいるのである。

 特に赤ん坊から子どもたちに影響が多大であり、日本のNPO法人をはじめ全世界の医者や科学者の協力の下、多様な支援と援助がなされてはいるが、まだまだ悲惨な原発事故の影響は減少するどころか広まっているのである。

 そんな原発事故先進国?でもある旧ソ連、現在のロシアはやはり社会主義国にありがちな秘密主義的国家体制が続いているため、なかなかチェルノブイリ事故以降の周辺住民の動向や農作物を含む生態系の異常や実情については報告したりしていないこともあって、実際のところの真相はまだ闇の中といった部分が多いと言われている。

 いずれにせよ、26年経ったとはいえ、チェルノブイリの現実はまだまだ余談を許すどころか厳しい現実も迫っているらしく、あの事故後急遽突貫工事で建造された、所謂「死の石棺」と呼ばれる、爆発事故を起こした巨大な4号基を覆う形のコンクリートカバーが、早くも朽ちだしているらしく、新たな更に大きな覆いを造る準備が進んでいるというのである。

 あの忌まわしい世界を震撼させた原発事故からまだ26年しか経っていないのだが、この惨状を更に悪化させないため、つまりこれ以上の放射能漏れを少しでも食い止めるためには、更に巨大な覆いを早急に建造し続けなければならないということは、福島原発事故の今後も、いくら原発4基を既に「廃炉」と決定しているが、今後の後始末に少なくとも数十年以上の期間が必要だし、巨額な処理費用が必要なのである。

 昨年春の福島原発事故から、まだ1年余しか経っていない日本の現状は、決して大飯原発の再稼動などを検討している場合ではなく、福島原発事故の原因の究明と共に、今後の廃炉処理の過程で、これ以上の汚染粋の垂れ流しや放射能漏れを如何に防止するかの対策を講じることが最大の仕事であるのだろう。

 しかし、政府民主党は、原発関連4閣僚、すなわち野田首相、枝野経産相、細野原発担当相と藤村官房長官によるトップ会談によって、何を根拠にかは定かではないが、今夏の関西電力管内での電力の供給不足の予測を最大の理由として、大飯原発の再稼動を求める方向で、福井県と地元おおい町などに説明をしたのである。

 福島原発事故は、昨年春に起きた不幸な事故であったと総括されてしまう様な事故、事件ではなく、今後の日本のエネルギー政策そのものを大きく転換せざるを得ないターニングポイントとして位置づけて、産業界も新たな電力の買い上げ価格の見通しを見定めた上で、太陽熱、風力、地熱などによるクリーンエネルギーの開発、実用化に本腰を入れて取り組めそうな機運が高まっているので、その方向性を拡大し、ここ数年は節電と共に次世代のエネルギー需要も抑制しつつ、安全、安心の社会作りに邁進する好機が来ていると認識しているのだろう。

 一番の問題は、原発関連企業を中心とした「金儲け」を逃したくない利権集団の企業と政治家である。
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尼崎JR事故から7年

2012年04月25日 | ちょっと可笑しいよ
 2005年4月25日の朝に起きた、JR福知山線電車転覆事故から7年が経った。

 このガリバー通信をプログとして記し始めて数ヶ月しか経っていない春の出来事だったのだが、事故が起きたJR福知山線は私の住まいする京都府京田辺市を通るJR片町線と大阪市内で結ばれて、計画段階では福知山線と片町線が繋がって奈良から兵庫まで京都駅を経由しなくても行き来できる新線として計画されていたのだが、完成を見て営業運転が開始される際には、わが町に同志社大学のキャンパスと京阪奈学研都市計画が進行していたので、大阪市内の地下部分を中心とした接続新線を東西線と称し、大阪の京橋を経由してわが町を経由して京都府山城地方を木津まで走る片町線を「学研都市線」と呼ぶようになっていた。

 つまり大阪市内も含めて兵庫県東部地域からわが町にある同志社大学キャンパスに通う学生さんたちが利用する電車として、特に朝の登校時間には結構な乗客が乗車し、この日も同志社前駅を目指して福知山線を南下し、尼崎から東西線を経由して、京橋から学研都市線に入りダイヤ通りに営業運転されていたのであった。

 しかし、あの事故が起きた尼崎駅に向かうカーブに差し掛かった時に、電車は数分の遅れが生じていたらしく、時間通りに電車を進行させることに一生懸命だった運転手がカーブの制限時速を無視したスピードで突入し、7両連結の快速車両の一両目から三両目までが完全に脱線した形でカーブに立っていたマンションに激突する形で事故が発生し大惨事となったのであった。

 私の当時のブログ記事によると、死者50名、負傷者430名という数字で紹介していて、その時点では今なお1両目の車内に取り残された乗客の内、生存者の救出作業が続いているとテレビが伝えていると記している。

 ということは、その後死亡が確認された方が増え、また重傷で最寄の病院に救急搬送された乗客の中で後日死亡された方々も合わせると、なんと乗客106名と若い事故を起こした運転手の計107人の命が、この尼崎脱線転覆事故で犠牲となったのであった。

 私にとっても同志社大学は母校であることから、縁あってその若き現代の学生さんたちが通うキャンパスのある町である京田辺市に住み、当時は地元の市議会議員をしていたこともあったので、非常に強烈に悲しみと共に怒りにも似た感情を覚えたことを今もはっきりと記憶していて、妻はたまたま義兄の病気のお見舞いにと横浜の地に行っていて、メイルでこの事故に対する驚きを伝えてきていたのだったが、その義兄がその後逝去したこともあって、今年は義兄の8回忌ともなるので、とても印象深くもあるのである。

 いずれにせよ、その後のJR西日本の事故対応及び事故の原因究明と共に誠意ある犠牲者関係家族の方々に対する謝罪と賠償問題などを通じて、果たして企業としての事故責任が如何にいい加減にされているかという現実的問題の指摘が多々なされてきた。

 その上、当時の運行責任者であり、その後社長となった山崎正夫前社長の業務上過失致死傷容疑の裁判は無罪が確定し、同罪で強制起訴されている井手正敬被告ら三人の歴代社長の裁判も7月6日に始まるらしいが、鉄道事業者としての大事故の責任を何処まで社長という立場の個人に問えるのかが危惧されている。

 昨年春に起きた東日本大震災の影響で生じた東京電力の福島第一原発のメルトダウンによる放射能災害においては、国が賠償金などと共に東京電力そのものの経営管理に及ぶ資金調達など多大な税金を投入しているし、今後も原子力の後始末に巨額な国費が必要とされているが、果たしてどれほど東京電力の経営陣などに対する個人的責任が問われるかは甚だ疑問視されていると思われる。

 日本における企業犯罪に近い事故責任は個人としての自己責任には至らないたいである。
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「いわさきちひろ展」

2012年04月24日 | イベント
 あの独特の優しい子供たちの眼差しを中心に描かれた水彩画が心を癒してくれる、絵本作家として誰もが何処かで目にしていて、印象に残っていると思われる、希世の画家である「いわさきちひろ」の絵画展が関西でも開かれるというので、兵庫県立美術館まで家内と共に出かけて鑑賞した。

 数年前に友人と共に信州をドライブした際に、安曇野で見つけた「安曇野ちひろ美術館」に立ち寄って、彼女の作品の数々を実際に目にして、改めて「いわさきちひろ」さんの世界が、とても子どもを中心とした母親としての眼差しを大切にしつつも、世界中の子どもたちんなが平和で幸せに暮らせることを希求した作品であることを強く印象的に感じていた。

 今回のちひろ展は、毎日新聞創刊140年記念事業として開催されたものだったので、妻が新聞配達店に要望していただいた招待券を手に、久しぶりの神戸へと向かったのだったが、平日の午前中というのにも関わらず、大変な盛況であり、大勢の観客が次から次へと会場に入っていて、まるで中高年齢の特に女性たちの集会場の様に化している様にも感じるほどであった。

 ざっと見渡して、観客としての入場者のおよそ9割と言っても過言ではないくらいに女性たちが観に来ている感じで、しかも現在も進行中の高齢化時代を象徴するが如き年配層が、ともかく大勢何処から沸いて来たのかと思うほど集まっていたのには、想像以上にビックリであった。

 自分たちももうすぐ立派な高齢者と呼ばれる年齢の仲間入りをすることは間違いないのだが、こんなにも健康?で暇をモテアマシテイル(失礼!)歩くことのできる高齢者がたくさんいるものだと関心するやら驚くやらであって、自分たちのことを棚に上げた上で、日本の今後の高齢者の年金問題や若年層の負担割合が強くなるという現実を予測できる現状の一コマでもある様に感じた。

 余談はさておき、いわさきちひろさんは1974年に55歳の若さで病気の為この世を去ってしまった女性画家なのだが、若き頃から絵が上手で書にも長けた才能の持ち主であったが、大正生まれの時代背景からすると、とても女性としてはしっかりとした意思を強く持った女性であり、画家になるために単身で東京に出たというから、ともかく内に秘めたる自信ともいうべき強い気持ちの持ち主であったことは間違いない。

 しかし、経歴を見てると20歳の若さで結婚をされているのだが、その翌年に旦那さんが自殺されているという不遇とでも言うべき、大変辛い経験もされていて、太平洋戦争前後の作品のほとんどは焼失していることもあって、なかなかその心境は窺えない面もあると感じた。

 戦後のちひろさんの画家としての活躍は、とても華々しいとも言えるが、絵本作家としても子どもの世界を描く女性作家としての地位とでも言うべき存在感を出版界や世間に認識させるためにも、自ら絵本作家のグループを作ったり、小学校の教科書などへの挿絵や表紙絵を描く仕事を熱心にして、女性絵本作家としての地位と共に、当時まだ著作権としての作者の権利についての認識が希薄だった時代なので、原画の返却を明確に求めたりと、あの優しくゆったりとした子どもたちの表情を描く作家としてのイメージだけでなく、しっかりとした権利主張と共に母親としての子育ての眼差しと平和であることの大切さなども訴えておられる作家であったのである。

 毎日新聞社が主催するちひろ展は、毎月新聞代の集金時に届けられる「毎日夫人」と称する小冊子の表紙が長年、いわさきちひろサンの作品であったことのご縁からだと思うのだが、淡い色遣いが多い「ちひろワールド」は、見る私たちにほっとする心の安らぎとほのかな希望や明るい未来を提示してくれてる様に感じるのだが、これらはやはり素直で無垢な子どもたちの純粋な眼差しや表情に拠るところから来ているのだろうと強く感じたのであった。

 
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車がまたも凶器となった。

2012年04月23日 | とんでもない!
 自動車による殺傷事件がまたもや京都で発生し、車は凶器になるケースが続いて起きてしまった。

 今朝、京都府亀岡市篠町の府道を小学校へと向かう集団登校の列に、なんと18歳の無免許運転の車が突っ込んで、小学生の一年から五年までの男女9人と保護者で付き添っていた26歳の女性がはねられて、児童3人が意識不明の重体、女性を含む4人が重傷3人が軽傷で、女性は妊娠中で夕方のニュースでは母子共に死亡したとの報道があった。

 無免許運転していた無職の少年は友人らとなぜか一晩中、車で走っていたといい、運転過失傷害容疑で逮捕されたが、本人は「事故を起こしたのは間違いない」と供述しているらしいが、とんでもない事故に至った原因は、ともかく無免許であったことと共に若さで一晩中運転していて、たぶん居眠り運転ではなかったかと想像できるのだが、無謀な凶器が幼い子どもたちと妊婦を跳ね飛ばしたという悲惨な事故となった。

 この亀岡市内での悲惨な交通事故、いや暴走事故のニュースで、先々週起きた同じく京都府内の京都市祇園で発生した暴走事故がダブって、なぜに京都でまたもやこんな事故いや事件が続けて起きてしまったのかと溜息交じりでテレビ報道を見なければならなかった。

 常に、「車は凶器になり得る」という思いで、私も日頃の運転を慎重にと心がけているつもりなのだが、今回も先々週も二十歳前と二十代の若者の運転だったこともあって、若さゆえの暴走なのか、それとも前回の事故の真相は究明されてはいないようだが、てんかん症の発作との関連の疑いもあるらしいので、軽率には語れない面もあるのだが、いずれにしても結果的には「暴走」であり、車を凶器としてしまった罪ははなはだしく大きく、言い訳の余地のない憤りすら感じるのである。

 京都市内東山区の大和大路四条交差点付近を中心に起きた祇園暴走事故では、幸い死は免れたが重傷を負われた被害者の一人である68歳の男性は、交差点の信号が青に変わったので、交差点北側の横断歩道を真ん中まで歩いた時に、「ドカン」。大きな音が二回して、交差点付近を見ると、4.5人が空中に跳ね上がっていて、手荷物や土産品が舞っていたと仰る。

 白い軽自動車が突進してくるので、小走りで横断歩道を渡り切ったが、前のめりに転んで転倒し手首を亜脱臼する怪我を負われたのだったが、相当なスピードで通り過ぎる車の風圧を感じ、再び交差点を見ると、9人ほどが倒れていて誰もが身動きしていなかったと証言されていた。

 一歩間違えれば、自分も命を落としていたかもしれないと思われたのだったが、横断歩道の自分の後ろを歩いていた人は亡くなったと後日になって警察官に聞き、その後恐怖の日々を過ごされているというのである。

 事故発生から一週間経って漸く、事故現場を訪れて、亡くなった方々への思いで手を合わせられたのだつたが、「生き残ったことを素直に喜べない。亡くなった方に何と言ったらいいのか」と言葉を詰まらせておられたという。

 この祇園の暴走事故では4人が死亡され、15人もの人が重軽傷を負われたのだが、暴走運転手はその後電柱に飛び込んだ形で停車した車の中で死亡したため、その原因や運転中の意識などを確かめることすら出来ないので、警察の事故調査や検証はされていると思うが、実際上の罪を問うことは被疑者死亡で出来ないのである。

 今朝起きた亀岡市の事故、事件でも夕方のニュースでは先述した妊婦と小学生一人の死亡が確認されたらしく、若き保護者が出産を控えていたにも関わらず、お腹の赤ちゃんと共に亡くなるという、悲惨かつ許されることの出来ない惨事となってしまっていて、18歳の無免許運転の暴走運転手に、如何なる罪が問えるのかも疑問である。

 いずれにせよ、無茶な運転をする運転手が多くなっている昨今である、くれぐれも慎重にハンドルを握ろうと自問自答するしかない。
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「ビッグコミック」の表紙絵

2012年04月22日 | 感じたこと
 先週の金曜日の朝刊の三面記事欄に、漫画誌表紙40年日暮さんが死亡「ビッグコミック」と題する記事が掲載されていた。

 その訃報記事で初めて、そのマンガ雑誌をかつて愛読していた一人なのだが、表紙絵を描き続けていた漫画家と言うべきかイラストレーターの名が、日暮修一さんであることを知ったのであった。

 その記事の中に亡くなられた本人の顔写真と共に、小学館から出版されていた週刊ビッグコミックという漫画週刊誌の表紙として、日暮修一さんが最後に描いた女優である「綾瀬はるか」の表紙イラスト絵が掲載されていたのだが、その出版月日が2011.11.25とあったので、昨秋で長きにわたった連載というべきライフワークの様な仕事は終了していたらしいが、とても懐かしさが蘇ってきた。

 かつて東京に住んで音楽関係の仕事をしていた時代によく買って読んでいたのが、このビッコミック誌だったのたが、数多い漫画週刊誌がその当時から出版されていて、仲間や事務所の若いスタッフたちが楽しみにしていた「少年サンデー」や「少年マガジン」などの分厚い漫画雑誌を読む興味がない思いだったのだが、唯一楽しめたのがビッグコミックであり、この似顔絵的イラスト絵がタイスキだったのであった。

 芸能人やスポーツ選手、また政治家や時の人を、とてもリアルなのだがちょっとデフォルメしながら、その人物の表情や特徴を的確に捉えたイラスト絵を描く描写力は並大抵ではなく、どんな人物もとても親しみやすく善人の様に描かれていた様に記憶している。

 その表紙絵の導入もあってか、週刊ビッグコミックの内容も、一部週刊漫画雑誌では性描写や暴力描写などが酷いというか過剰な表現とも取れる漫画劇画が多く見受けられる中で、小さい子供がいる家庭に持ち帰っても安心とでもいうべきか、とてもユーモラスで漫画本来の楽しさを味わえる作品が多かった様に感じていた。

 その中の作品のひとつが、今年のお正月に公開されて私たちも映画館で鑑賞した西岸良平作の「三丁目の夕日」であり、そのキャスティングには欠かせない吉岡秀隆君が演ずる売れない小説家、茶川龍之介であったことを思うと、ビッグコミックの縁が現在の吉岡君との縁にも繋がっている様に感じている。

 またビッグコミック紙上で出会った作品として、とても印象深くて、今でもファンの一人だと断言できるのが、「山口六平太」と題するちょっとダサいが親しみがあるサラリーマン物語であり、とんでもないいい加減な相撲取りが活躍する「のたり松太郎」という相撲漫画と、今でも人気のある「ゴルゴ13」であった。

 今もビッグコミック自体は続いて出版されているので、よく店頭や電車に乗る時に目にはしているのだが、あの親しみやすい日暮氏の描く表紙イラストが無くなっているとすれば、たぶん目に留まる頻度は少なくなってしまうのではないかと心配せざるを得ないほど、ビッグコミックと日暮さんの絵は一心同体とでも言うべきマッチングであったと言えよう。

 かつて発行されていたコンサートや映画情報誌の大御所的専門誌であった「びあ」も今は廃刊となってしまったが、この情報誌の表紙は及川正通氏が長期にわたって、やはり独特のイラストを描いていたのが、トレードマークの如くなっていたのだったが今はもうないし、週刊新潮の谷内六郎さんの表紙絵も今はもうない。

 やはり親しまれる雑誌や週刊誌は、その表紙が如何に目に留まるかがいのちだと思うので、日暮氏のイラストは絶品であり、彼の冥福を祈るしかない。


 
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「つつがなく」暮らしたい。

2012年04月21日 | 感じたこと
 ほんとうに春本番といった感じの気候の中、いつもの移動有機八百屋で昨日と今日車を走らせて、いろんなお客様と話をして楽しいひとときを過ごせた。

 あるご年配のご婦人とは、その方の二人の娘さんを小学生の頃から知っている関係もあって、いつも何やら近所のおばちゃんとの会話の如くお喋りをすることが多いのだが、今日も隣の小さな公園の桜の木は殆ど葉桜となってしまっていたが、その方のご主人が定年後に庭仕事と花作りに湖ってられる方なので、玄関先からお庭に至るまで、たくさんの春の花がプランターを中心に処狭しと咲き乱れていて、とても春を感じるし、正直なもので輝いて見えたのであった。

 奥さんとの会話は、私がよく知っている二人の娘さんのお子さんたち、すなわち彼女の五人のお孫さんたちの話になることが多いのだが、ご主人は昔の国鉄職員であったらしく、あまり知らない人とは話されるのが苦手なシャイな方なのだが、奥さんは元幼稚園の園長さんであったこともあって、お喋りは得意だし話題も豊富で、いつも楽しませていただくのであった。

 私自身も最近富に感じることでもあるのだが、季節の移ろいとでも言うべき季節の移り変わりの機微や四季の変化に一喜一憂することが多くなり、特に春待ち遠しい感じで迎えた、今年の春は何とも格別な喜びを感じたものだから、その様な感想をお喋りしていると、彼女曰く「つつがない日々が一番ですね」とのこと、本当に久しぶりに、この「つつがない」という最近は死語に近くなった言葉を聴いて、ひとしきり「つづがない生活」を共に感じたままにおしゃべりしたのであった。

 この「つづがない」とは、一般的には「無事であるむ「問題がない」という意味なのだが、「つつが」とは「病気や災難」を意味する「恙(つつが)」であり、漢字で記すと「恙無い」、「恙無く」と記すのだが、同源で動詞として使用すると、病気になるとか差し障りがあるという意味にもなるので、つまり「病気や障害のない暮らし」が「つづがない暮らし」となる様である。

 「つづがない」の語源は、「ツツガムシ」というダニの様な虫が病気の原因となることから生まれたとする説があるが、「つつがなし」よりも後に見られる「ツツガムシ」の名とするのは少しおかしいと言われてもいるらしい。

 ともかく、感覚的には「生憎、矍鑠、元気、丈夫、大丈夫、慎む、健康、安全第一、達者、溌剌、へっちゃら、愁眉をひらく、無病息災などに通じる言葉であり、何事も大事に至らずに、のんびりと清清しく健康に暮らせることを願う人々の言葉であることは間違いないのだが、若い人たちはほとんど使わない言葉となってしまっている様である。

 ということは、私も含めて間違いなく、年配者もしくは高齢者と呼ばれる世代の一員に社会的には称される人々にとっての、最大の価値観とでも言うべき願いや祈りを凝縮したとでも言ってもいい言葉として、この「つつがなく暮らす」という言葉を大切にしたいと自らも思ったのであった。

 20代や30代の頃は、春になって桜が咲いて、菜の花が咲いていても「綺麗だな」と感じることはあっても、そこで立ちどまって感慨深く「四季の移ろい」を愛でたり、感謝したりというところまでは自分の感情が至ることもなく、当たり前の季節の光景としてしか捕らえてなかった様な気がするのだが、ここ数年は本当に春が待ち遠しいし、そういった会話を多くの人たちと交わしながら、今年も桜の花に出会えたという、健康と自分のいのちに対する感謝で感慨深くなることが多いのである。

 先週の水曜日に漸く、大阪の有料老人ホームに入所している老母を車椅子で近所の公園へと一緒に連れ出して、散りかけ出していたソメイヨシノの桜を共に愛でて、公園の奥にひっそりとしかし堂々と咲き誇っていた「ボタン桜」は満開だったので、共に鑑賞することが出来、母はとても嬉しそうに花を見上げて微笑んでくれたのであった。

 「つつがなく暮らす」日々が続くことを願うのみである。
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政治家の言葉

2012年04月17日 | 感じたこと
 今に始まったことではないのだが、なぜに国会議員たちの言葉の暴言というべきか、思慮の足りない思い付きの発言がこんなにも多いのかが不思議とというべきか、当然それなりの立場には立ってはいても、その責任と職責を余にもワキマエテいない素人の様な「言ってしまった!」発言が続いている。

 現在、昨年春の東日本大震災と大津波という自然災害の影響をモロに受けて大事故に及んだ、東京電力福島第一発電所の1号機から4号機までの原子力発電基のメルトダウンを含む事故の因果関係が明確には分かっていない段階なのにも関わらず、政府は政治判断と称して、関西電力大飯発電所の定期検査で止まっている原子力発電の再稼動について、稼動するについての安全基準を満たしているとの見解で、福井県ならびにおおい町に対する説明を行ったという。

 とんでもないいい加減な状況下にも関わらず、見切り発車と称するしかない様な「政治判断」は、何処から来ているのであろうかと多くの国民が感じている最中に、政府としての監督官庁の長である枝野経済産業相が、15日に徳島県内で講演した際に、現在唯一運行中の原発である、北海道電力の泊原発3号機が5月5日に定期検査で停止することを受けて、日本国内で原発が「一瞬ゼロになる」と発言したのである。

 今朝の閣議後の記者会見で枝野氏は「少なくともいったんはゼロになる」と発言すべきだったと陳謝し、大変申し訳なく、様々な心配や影響を与えたことをお詫びすると語ったらしい。

 「お詫び」はしたものの、枝野氏の本音が出た発言と言わざるを得ないのだが、つまり泊原発が止まってもすぐに大飯原発を再稼動させるから、「一瞬ゼロになるだけだ」と言ったに過ぎないのである。

 結局、政府の原発担当相としては細野氏がいるのだが、全て私の責任で「ちゃんと再稼動させる」と言っている様なものであり、野田首相、藤村官房長官、そして細野、枝野の両大臣の四人で協議した上で、原発を稼動させるという大きなテーマについて、福島原発事故を受けて原子力規制庁の設置などを目指し、第三機関による「原発の安全性」の再検討などを示すと言っていたはずなのに、十分な検討内容やプロセスが説明されない内に、「原発再稼動ありき」の姿勢が暴露されたと言っていいだろう。

 また政権政党である民主党の仙石元官房長官が先日述べた言葉の中に、「原子力発電の抑制や中止」に対する多くの要望や国民の不安や安全性に対する疑問が渦巻く中、原発の再稼動を慎重にとの意見に対して、なんと「集団自殺のようだ」と発言したと伝えられていて、これまた何たる例えだろうか、人格や思想まで疑いたくなる暴言である。

 民主党に限ったことではないのだが、余にも政治家たちの発言や言動が「軽る過ぎる」と感じているのは私だけではないと思うのだが、福島原発の事故に伴う多くの避難民だけでなく、福島県を中心として農業、漁業などの第一次産業に従事する人々はもとより、多くの地域の人たちが仕事を失い、故郷を追われる様に避難したり、今直仮設や県外での生活を余儀なくされている現状を、どの様に感じているのか、全く政治家からはその心根に思いやりや配慮を感じられないのである。

 そんな政治家が毎日の様に発する見解や発言ではあるが、原発問題ではないが、またもや石原慎太郎都知事がとんでもない発言をしたのだが、中国が領有権を主張しだしているとは言え、国際法上もれっきとした日本の固有の領土であるといわれている、尖閣諸島をなんと東京都が買い取るというのである。

 一昨年の尖閣列島付近での海上保安庁の警備艇に衝突させた中国漁船の事件に見られた、日本政府の弱腰に対しての「活を入れる」という意味もあるのだろうが、外交的政策を飛び越えての一自治体の知事が決断する問題ではないのだ。
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菜の花

2012年04月14日 | 季節の話題
 皆さん、春の代表的な日本の花と言えば、誰もが「桜の花」と即座に答えられるのではないでしょうか。しかし、その桜の花が咲く周辺に、黄色い美しく輝いた「菜の花」が彩りを添えている場所が結構多いと感じておられる方もいると思いますが、この桜と菜の花の美しい光景が、まさにニッポンの春といった感動に繋がるのではないでしょうか。

 私のタイに長く住んでいる日本人の友人が、この季節の菜の花と桜を思い浮かべて、この季節だけでも日本に帰りたいとコメントしていましたが、私たちにとっては普通の春の風景だと思っている「菜の花と桜」のシーズンが、春の嵐と雨によってかき消されようとしています。
 
 菜の花と言えば、「菜の花畑に入り日うすれ・・・」と歌いだされる「おぼろ月夜」という歌を思い出される方々もいると思いますが、この「菜の花」は日本人の春には桜の次に欠かせない花の一つではないでしょうか。

 しかし、「菜の花」と誰もが称している花なのですが、いろんな種類の黄色い可憐な花を総称して「菜の花」と呼んでいる様で、一版的にはアブラナまたはセイヨアブラナの別名なのですが、アブラナ科アブラナ属の花を指しているのですが、この「菜の花」は食用、観賞用、そして修景用と用途も多く、黄色い花以外の「ダイコンの花」の様な白い花もあり、「白い菜の花」ということもある様です。

 実は、この1月から3月の季節には、私が営んでいる八百屋の仕入れ野菜の中でも「菜の花」が登場し、一般的な調理方法としては「菜の花の胡麻和え」などが季節の食材として利用されているのですが、この菜の花の正体と言えば、在来種のアブラナ系の花野菜だけでなく、白菜菜の花、かぶら菜の花、そしてみずな菜の花などがあって、納品される農家や取次ぎの窓口によっては、全く異なった「菜の花」が届くこともあるのです。

 最近では、中国野菜由来の「菜の花」もあって、一般のスーパーなどでは入荷している様ですが、国内では主に食用として「菜の花」を生産しているのが多いところとしては香川県、高知県、千葉県、三重県など、やはり温暖な気候の太平洋岸の地域での生産が多いようです。

 しかし、食用の菜の花の中には黄色い蕾の部分が切り取ってある、脇芽だけを袋詰めにした「菜花」が主流になってきているようなのですが、やはり「菜の花」を感じる黄色い蕾が付いた「菜の花」の方が食材としての見た目も美しいし、その食感とちょっとした苦味と甘味が同時に味わえて、「春の野菜」として実感できるものなので、私はこの菜の花をお薦めしたいと思います。

 野菜としては、この時期の旬であることは間違いないのですが、足は早い方なので、保存には一応加熱して冷蔵庫でタッパーウェアなどに入れておけば、いつでもお惣菜の一品として「辛子和え」にでも出来て重宝する季節の贈り物だと思います。

 ビタミンCやミネラルが豊富な緑黄野菜として便利ですし、灰汁はほうれん草の20分の1以下なので、調理の際には茹ですぎないことが大事な野菜でもあります。

 野菜としては、地方色も感じられ、三重なばな、伏見寒咲き花菜、博多菜などとも呼ばれ、とうな、かき菜、小松菜、アスパラ菜と呼称する場合もある様ですし、信州ではノザワナの菜の花が5月頃に見られるようです。

 食用に偏ってしまいましたが、私たちが桜と共に目にして「春を感じる」美しい菜の花畑は、鑑賞用として栽培されている場合も多く、中には「菜種油」の採取用のアブラナ畑もあるし、種子採取用の菜の花畑もある様です。

 また、切花としての利用や修景用と言って、丈夫な川原や荒れた土地に繁茂する植物として、河川敷や堤防、空き地や休耕田などに菜の花畑を作って、鑑賞と土地の修復に生かしているところもある様です。

 
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「夢」

2012年04月13日 | イベント
 今朝、面白い「夢」を見た。

 何故だか全く分からないのだが、夢に出て来たのは何処かの大学か高校の50周年か100周年の記念行事の一環で、あのカナダ出身のかつて名声を博したフォークシンガーの「ジョニー・ミッチェル」が来ることを知った私が、何とか9月22日から25日の間に、コンサートを企画したいと学校関係者に要望しているというものであった。

 突然、ジョニー・ミッチェルと言っても、多くの方は「それって誰ですか?」と言う感じだと思うのだが、特に強い思い入れがあるわけではないのだけれど、我が青春時代に多くのフォーク、ロックなどのレコードを購入したりして聞いていたレコードコレクションの中に、若き彼女のレコードが数枚あったことは確かなのだが、コンサートの交渉に関しての手紙は彼女の作品のひとつである「ブルー」の色の便箋に記した方が良いとも進言したりしていて、細かなリテール?迄「夢」に出てきたのであった。

 「夢」と言えば、現実的な人生での将来の夢とか、老後の夢?も含めて、実現への意思と共に可能性にチャレンジする夢と、睡眠中に見る「夢」があるのだけれど、時にはこの「夢」が「正夢」とか言われる、現実と睡眠中の夢が重なった現実的な夢になる場合もあるらしい。

 私の「夢談」からすると、ちょうど町会議員をしていた初期に、当時のH町長への議会質問で、何を問うたのだろうか具体的には覚えてはいないのだが、町長さんの答弁は「私にも夢があります。あなたの様な大きなゆめではありませんが、小さな夢はあります」と間違いなく記憶している答弁があったのである。

 彼は町が市制化し京田辺市になる前に町長選で初代市長にはなれなかったのだったが、今思えばひょっとしたら彼の夢は「初代市長」だつたかもしれないと思うのだが、彼も数年前に他界してしまったので、その小さな夢の真相は聞くことができないが、誰しも大きい、小さいではなく夢があるということ自体が嬉しいものである。

 先日、私自身にも小さな夢の到来かと思われる出来ごとがあり、三十代初期から四十代前半まで私がたずさわってきた「プレイリーダー」と称された、子どもたちと遊ぶという仕事の世界の延長で、ある学校の留守家庭児童会なるものを、その保護者たちが運営していて、その担当者として白羽の矢が飛んできたらしく、出来ればと要請されたのであった。

 しかし子どもと野山を走ったり、ものづくりやキャンプ、そして多種多様に遊んでいた時代から二十年もの年月が経過しているので、果たして小学生の子どもたちと遊んだり時間を楽しく過ごすための体力があるかどうかと心配する向きもあって、一度見学も兼ねてとのお誘いがあったのだつたが、その翌日に左足の太股に強い神経痛の様な痛みを感じる出来事があった。

 その痛みは、眠っている夜半から翌日の夕刻まであったのだったが、二日後には全く忘れているほどどうもなくなり、あの痛みは何だったのだろうと振り返って考えてみると、自分自身のことながら、気持ちは若くても体力的には決して無理が効かない年齢の域に達していることを、痛みを通じて体が知らせてくれたのだと知ったのであった。

 つまり、子どもたちと一緒に若い頃と同様に走り回ったり遊んだりと、まだまだ出きるつもりでいる私の気持ちに対して、無理したらあかんで、止めときなさいと忠告してくれた様な感じだったのである。

 「夢」を見ることは自由だし、誰にも「夢」があっていいのだが、現実の生活や人生においては、やはり「夢は夢に終わる」ことも多いものではないかと、なんだか残念な思いも残っているのだが、それは現実ではなかろうかと自問自答しているのである。

 それにしても、冒頭に記した「ジョニー・ミッチェル」のコンサート開催の夢のお告げは、何を意味しているのだろうか。

 その「ブルー」のレコードも今はもうない。

 
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今年は「お花見」

2012年04月09日 | イベント
 昨年は大震災の影響で「お花見自粛」のムードだった記憶だけが残っていたが、今年は待ちに待ったという感じで桜の開花時期を待っていたが、お彼岸を過ぎても一向に「桜の開花」の知らせが届かない感じだった。

 しかし、先週の春の大嵐を境に、全国一斉にあちこちの桜が咲き出し今週が一番の花見日和だとのことで、テレビのニュースやワイドショーからも、全国のお花見状況がわんさか伝わってきた。

 大阪では大阪城の天守閣が拝める大阪城公園に、そして東京では上野公園の桜並木の沿道に、とてもたくさんのお花見客が殺到し、東京上野は先週の土日の休みに、なんと50万人もの人たちがお花見に訪れたそうで、昼夜とも表参道や竹下通りの雑踏の如き賑わいで、まっすぐには歩けないほどの盛況だつた様だし、大阪城公園でも中国や香港からの花見客も含めて、大勢の外国人もニッポンの桜の花見をメインに観光ツアーでやってきているという実態が報道されていた。

 私の町でも近くでは田辺カントリーゴルフ場の入口付近や枚方カントリーゴルフの沿道など目だった処や、馬坂川や虚空蔵谷川沿いなど地元の住民にとっても手軽で楽しめる「桜の花見」スポットがいくつもあるので、今週中に散策してたいと思っている。

 ところで、昨日はちょっと車で一時間半ほどかかったが、奈良県の王寺町まで出かけて、なんと小学校時代の同級生とのミニ同窓会を兼ねての「お花見会」に参加したのだったが、当時の恩師のひとりが健在で、当地に住んでおられるので集合したのが王寺駅前だったのだが、車を走らせて行ったスポットが「馬見丘陵公園」と称する奈良県の公営公園であったのだが、駐車場に車を停めようにも全く余地がないほど混んでいたために諦めて、近くの恩師が現在家庭菜園的になさっている借地の畑に隣接した場所で、参加した七名でお弁当を食べたのであった。

 駅で集合した時点で気を利かせて全員分の花見弁当を購入していただいていたのだったが、さてと敷物を広げてお弁当を配って、各々が食そうとして気づいたのだったが、お箸が入っていないことで困ったということになったのだったが、私は常に腰につけているポシェットに「マイ箸」を入れていたので、それを出して使用できたのだったが、大の大人がなんと手でお弁当を食べざるを得ない実態となってしまったのであった。

 遠くに見える桜の花の下、何十年も昔の小学校時代の話や昨今の生活や子どもや孫や連れ合いとの生活ぶりなどを、とてもフランクに遠慮せず包み隠さずさらけ出して話せる仲間というのか、同級生というのはなんとタイムスリップした如く、昔の呼び名の「○○ちゃん」で呼び合える不思議な時間となっていた。

 食後のコーヒータイムをはさんで、近くの畑の「菜の花」を摘みながら、白菜、蕪、ミズナと「菜の花」と一口に言っても、いろんな種類の野菜の黄色い花をつける植物の総称として「菜花」と称することを実際の畑で確認しながら、食用の菜花としては緑の若い葉っぱの美味しそうな株をちぎり、花としての鑑賞用には葉の少ないのびのびと育った菜の花を摘んだりしたのである。

 土手には「土筆」がたくさん出ていたので、夕飯の一品として「土筆の卵とじ」をお薦めしながら、見付け出したら集中して土筆摘みにも集中したのであった。

 ひとしきり話が盛りあがった楽しいひと時を終えて、お昼時には満員だった先ほど訪れた「馬見丘陵公園」に再び行ってると、辛うじて駐車スペースに空きが出来ていたので、皆でぞろぞろと桜咲く場所を求めて歩きながら談笑し、いたるところで桜と共に友や恩師の写真を撮ったのであった。

 美しい桜の季節の楽しいひと時を過ごせたことに感謝しながら、一年は経ったが被災地の皆さんの復興への強い思いを後押し出きる本当の支援や絆を再認識する機会ともなったようである。
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