ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

インターホンの返答

2007年06月28日 | 感じたこと
 私は現在、おっさんフリーターである。

 4月下旬の統一地方選挙で、市長選に立候補し落選した時から、私は実質的に無職のおっさんになったわけである。

 4期16年間、地方議員として活動してきたわけだが、市長選への立候補で、市議会議員は同時に「失職」となり、ただの人となったわけである。

 するとたちまち、資産も蓄えも無い中年おっさんにとっては、全く収入が途絶えてしまうし、年金をもらえるまでは、まだ月日がある。

 しかも、たとえ前倒しで60歳から「年金」を請求したとしても、毎月の年金収入は微々たるものである。

 そこで、友人の進めもあって、5月中旬から「おっさんフリーター」として、ある事業所のお客さん獲得のための営業パートの仕事に就いたのである。

 「営業パート」と言えば、カッコつけすぎで、ようは住宅街を回って「ピンポーン」とインターホンを押しながら、初めての家を回っての「顧客の獲得」のためのトークをする仕事である。

 梅雨に入ったとは言え、連日早や真夏日が続く日中に、当ても無く続けて「ピンポーン」と押し続けて歩くのは、結構忍耐がいるもんである。

 一日、約5時間、相手が返答してくれるのを期待しながら、「ピンポーン」を続けているのである。

 住宅街によるが、日中の在宅率はよくて3割、悪ければ10軒に一軒ぐらいしかない場合もある。

 「コンニチワ、お忙しいところスミマセン。○○と申します。そして簡単な説明をしようとすると・・・。

 「今、ちょっと忙しいので・・・」、「今、手が離せませんので・・・」なんて断り方はまだいいほうである。

 中には「何しに来たの?」、「関係ありません」「興味ありません」などと言う返答もある。

 面白いのは、返答されているのに、「誰もいません。」という、大抵は男の人の声である。

 先日は、「担当者(つまり奥さん)がいません。」という適確な返答もあったが、「あなたは何物?」と聞き正したくなる珍答とも受け取られる。

 子供が「おかぁさんはいない」と言うのは、よく分るのだが、世の男性たちは、如何に家事や家のことが皆目分らないとの証明でもあるみたいである。

 最近の返答で一番ビックリしたのは、「今大変なことをしているので・・・」という答だった。

 娘に、この返答のことを話すと、「そりゃー、ご主人でも殺している最中だったのかも」という、とんでもない想像力の感想が返って来た。

 ともかく、とんでもない返答も飛び出す、「インターホン」の返答であるが、なかなか、面白い人間観察の連続とも言えるのである。

 中には、ご丁寧な方もいて、「ご苦労様です。わざわざすみませんね」と労を労ってくださる方もいて、ホットすることもある。

 「ピンポーン」、返事が無い。
 
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奇跡の日

2007年06月27日 | 季節の話題
 今日は、「奇跡の日」だそうである。

 何故かと問えば、三重苦とも言われた聴覚と視覚を失い、話せないという障害を持ちながら、世界各地を歴訪し、自らの障害を背負いつつ、身体障害者の教育、福祉に多大な貢献をした女性だったため、「奇跡の人」と呼ばれるからである。

 彼女が1980年の6月27日にアメリカ合衆国、アラバマ州、タスカンビアの地主の娘として生まれたのだが、2歳になる前の生後19ヶ月の時に熱病にかかって、医師、家族の懸命な治療でいのちは取りとめたが、耳は聞こえず、目は見えず、話すことができない障害を背負ってしまったのである。

 彼女が7歳になった時に、両親は聴覚障害児の研究をしていた電話の発明者でもある、グラハム・ベルに相談し、彼の紹介でパーキンス盲学校の校長に手紙を出し、家庭教師を要請したところ、あの「奇跡の人」で有名な、当時弱冠まだ20歳の同学校を優秀な成績で卒業したばかりのアン・サリヴァンがやってきたのである。

 その出会いが、あの映画や舞台でも有名になった「奇跡の人」のへレン・ケラーと並ぶ主役的存在のサリヴァン女史として、その後約50年間、教師として、友人として、ヘレン・ケラーを支えたのである。

 まさに、奇跡の人はヘレン・ケラー自身と思われがちなのだが、実は、このサリヴァン女史が奇跡を起こした人なのである。

 ヘレン・ケラー自身も、サリヴァン女史によって、ただ三重苦を克服した「奇跡の人」ではないのである。

 彼女は、障害者の教育、福祉活動だけではなく、広範囲な市民活動や政治活動もした人だったのである。

 まだ20世紀の当初から、アメリカ社会党に入党し、男女同権論、婦人参政権、避妊具の普及、人種差別反対、過酷な若年労働禁止、死刑制度反対、戦争での殺戮反対など、多種多様な現代的課題に対する、はっきりとしたメッセージを強く持っていたのである。

 彼女の有名な言葉に、「人生は恐れを知らぬ冒険か、無か。」があるが、彼女こそ、「恐れを知らぬ、本当の人間としての真理を追究した」、「奇跡の人」である。

 私達の日々の生活の中で、どうしたも無難に事なかれ主義的に暮らしてしまう日常を、時には振り返って、「「奇跡の日」にちなんで、少しでも「恐れを知らぬ冒険的な生き方」を試みてみては、どうだろうか。

 一度しかない人生だ。しかも我々は、見え、聞こえ、喋れるではないか。

 「奇跡の日」という、6月27日に、ヘレン・ケラーからのメッセージが届いている。

 彼女は、20世紀の三大重要人物に、エジソン、チャップリン、レーニンを上げているが、私はレーニンではなく、ヘレン・ケラー自身が加わるべきだと思う。
 
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憲法9条は死に体です。

2007年06月26日 | とんでもない!
 「憲法9条」という世界的遺産を、安倍内閣と政府自民、公明、そしてついでに民主の各党がめちゃめちゃにしようとしている。

 今に始まったわけではないが、戦後自民党の最大の「悲願」とまで言われている、「憲法改正」が、安倍ぼんぼん内閣の超目玉商品として公言され、国民投票法なる、問題多い「憲法改正」手続き整備が着々と進められつつある。

 そんな中、6月18日には、写真の如く、久間防衛大臣?と米軍の作戦部長が握手し、いよいよ米軍の極東亜細亜での再編が進められようとしている。

 「日米安保条約」という、米国軍隊が日本国内で基地を存続させ、思いやり予算をはじめとした厚遇での日本での米軍の活動と生活を保障したルールの拡大解釈がどんどんと進んでいる。

 一方で、見坊では持たないと明確に宣言している、「軍隊」を戦後すぐに警察予備隊という名で発足させて、いまやジャパニーズアーミーと世界では呼ばれている「自衛隊」として成長させ、全世界の紛争地へ、米軍の手助けに出かける及んでいる。

 政府は今迄の「防衛庁」を「防衛省」に昇格させ、久間長官を防衛大臣と呼称するようになり、いよいよ「集団的自衛権」と呼ばれる、戦争へ武器を持って参画できるようにする「解釈」の拡大から、裏から「憲法を改悪」しようとしつつある。

 もう、黙っておれないと多くの国民が、「憲法九条を守る」ために、立ち上がっている。

 その中の一人が沖縄県の元読谷村長で、後の太田知事時代に沖縄県の出納長を務めた「山内徳信さん」である。

 私は、彼が読谷村長の時代に、どうしても会いたくて、沖縄旅行の折にレンタカーを走らせて、読谷村役場で、小柄だが熱い信念の人、山内徳信さんにお会いしたのである。

 何と言っても、読谷村という人口当時4万人を超える大きな「村」の村長が、米軍基地内に「役場」を新築するという、力強い政策を掲げて、沖縄にあった米軍施設関係者や政府への陳情や訴えはもとより、結局は米国のホワイトハウスやペンタゴンにも乗り込んで、主張し「不可能とされた計画を実現させた」人なのである。

 ともかく「信念の人」であり、県出納長時代にも、米軍基地反対闘争の先頭に立っておられ、今度は沖縄から「憲法九条」を守るために、東京霞ヶ関、永田町へとジャンプして、国会議員を目指すというエネルギーの持ち主である。

 全国各地で「憲法九条」を守る戦いは、一般庶民の中でも渦巻いてはいるが、マスコミにも登場する著名人や、本当に芯のある信念の政治家達が立ち上がっていて、国民の無知や新保守と言われる若者たちにもメッセージを送りつつある。

 危機的な「死に体」になりつつある、日本国憲法の世界に誇れる「世界遺産」として、憲法9条を守る戦いに、微力でも無力ではない市民の力を結集しなければならない。



 
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何かイコンがありますか?

2007年06月25日 | 感じたこと
みなさん、日常的な生活の中で、いつのまにか習慣になっているちょっとした「儀式」や「祈り」の場所や対象が、何かおありでしょうか。

 私と妻はクリスチャンのため、家の中に神棚や仏壇がありません。

 最近のご家庭では、信仰の対象としてだけでなく、ご先祖を祭った「祭壇」などが無いご家庭も多いと思われます。

 しかし、私の父と妻の父の二人の写真、つまり遺影のスナップ写真が、いつの頃からか居間のテレビの横の昔からあるレコードケースとでも言うべき、小さな開きと引き出しのあるタンスの上に飾ってあるのです。

 そこで、私達の毎朝の習慣としての簡単な「儀式」として、この二人の遺影の前に、朝一番に沸かしたお湯で入れた「お茶」を供えて、手を合わすということが始まり、現在まで続いています。

 ある時、妻が所用があって家を三四日留守にした時がありました。

 私は、いつもの様に朝目覚めてお湯を沸かしてお茶を入れて、このタンスの上の二人の父の遺影の前に供える儀式を忘れてしまいました。

 どうも、気がつかなかっただけなのですが、三日目の朝、何か変な感覚になりました。

 日頃の朝のリズムの中で、どうも何か変だと気づいたのでした。

 「あっ、そうだ。お茶を入れるのを忘れていたのだ」と。

 実は、その三四日は、外出しても、どうも何か変なのです。

 どうも「三隣亡」とでも言うのでしょうか。思う様に事が運ばないとでも言うのでしょうか。うまく行かないことが連続的に起こったのでした。

 ちょっとへこんで、{なんでやろう?}と自問自答していたのですが、どうもはっきりとした理由が見当たらなかったのです。

 しかし、どうも、この三四日の朝の「お茶」を忘れていたことと関係があるのではないかと四日目の朝に、気がついたのです。

 そう大したことではないのですが、いつも行っていること、習慣として「儀式」の様に自然に行っていることを飛ばしたり、忘れてしまっていたことが、生活のリズムや仕事に影響をもたらしたのではないかと思ったわけです。

 皆さんにとっても、きっと一つか二つはあると思います。

 「イコン」とは、ギリシャ正教でいう自分の礼拝の対象とする聖画像のことですが、信仰という次元でなくても何か毎日行う、ささやかな儀式に私達の日常の生活のリズムが保たれているということでしょう。

 何気ない、ささやかな心の支えや糧が、日常生活の中にいつのまにか入り込んでいて、その対象に対する「気」を忘れると、どうもすっきりとしない日々に突入してしまうことが、よくあると思われます。

 ぜひ、ささやかでも日々の、自分の「イコン」に対する「拝する心」を忘れず、大切に過ごしたいものですね。
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偽装牛肉なんて判らない。

2007年06月24日 | とんでもない!
 北海道苫小牧市の食肉加工会社「ミートホープ」の牛肉偽装事件は、社長の指示でなされた「確信犯」であった。

 生協などに出荷されていた「牛肉コロッケ」などに加工された原材料に、何と豚の心臓や羊、鶏、などの細切れ肉を大量に混入していたのである。

 「どうせ味はわからない」から、コストを削減して儲けを出そうとする、あくどい商法で、結局、消費者の口に運ぶ食品の原材料を誤魔化し偽っていたのである。

 許しがたい商法、いや「詐欺」である。

 記者会見で社長は、取締役でもある長男に諭されて、やっと「曖昧な発言」から、「指示したことがあった」と偽装を認めたのである。

 当時の工場長は、偽装は判っていたが「社長は雲の上の人だから何にも言えなかった」と会見で語った。

 何たることだ。とんでもない!!。

 消費者を欺いても、自分達の利益や自分達を守ることの方が大事なのだ。

 今回の事件の食品は、全国の「生協」、つまり「安心・安全」を掲げた組織で売られていたのである。

 ただの安売り食品店やスーパーで販売されていたのではなく、信頼のブランドである「せいきょう」で販売されていたのである。

 ある家庭の主婦が「生協なんて信じられない」と語っていた真意が判明した。

 過去にも、生産者表示と箱の表示が全く違っていたり、中国産のポストハーベストの恐れのある農産物が大量に輸入され協の店頭に並んでいたり、最近の「せいきょう」は、まったく安売りスーパー並になっているとの指摘をよく聞く。

 以前に、地元の男の料理サークルの例会に間に合わせるために、近くの生協に「有機米」を購入に走ったことがあった。

 しかし、店頭を歩いても、「有機米」や「無農薬、減農薬」の表示のある「お米」がなかったのである。

 生協の店員に聞いたら、「売れないから」置いてないとの返答であった。

 「売れるもの」をという理屈だけで、全ての食品や農産物が生産、加工、売買されるとすれば、何でも安ければいいということになってしまう。

 せめて、安くするために施した食品の原材料や調味料、添加物などと防腐剤、凝固剤、発泡剤、蛍光剤など多種多様な化学的物質や加工の表示は厳正に行うべきである。

 口に入る食品の「安心、安全」を消費者が確認したり、確かめることのできる状態で、商品として売っていただきたい。

 また消費者に、選べる「選択肢」として、「無添加」「化学調味料など無使用」の加工品も、少し割り高でも表示して購入できる様に配慮して貰いたいと、強く訴える。

 消費者も、これを契機にしっかりと表示を確認し、安ければ何でも良いという食品購入を考え直す必要があるのではないか。

 大切な健康と「いのち」のために。
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「日本から出て行け!!」

2007年06月23日 | ファミリーイベント
 昨日、私は「日本から出て行け!」と、孫に突然言われた。

 五歳のK君と仲良く遊んでいたのだが、思い通りにならないことがあり、彼は半べそをかきながら「じいじなんか日本から出て行け!」と突然言ったのである。

 子供の頭の中に、どんな発想、言葉が潜んでいるかは知る由もないが、突然の言葉に唖然としながら、「あと二ヶ月もしたら出て行くから」と彼にはよくわからない返答をしている自分がいた。

 彼は今までも、何か自分の思い通りにならなかったり、うまく行かなかったら、「じいじのせいや」と他人、特に私に恩着せがましく「責任転嫁」することが「くせ」になっていたのだが、まさか「日本から出て行け」って言われるとは思わなかった。

 考えてみれば私に対する一種の甘えかもしれないが、私なら「何を言っても怒らない」と思っているのか、潜在的には一種の対抗心を持っているのかも知れない。

 いずれにせよ、「日本から出て行け」という言葉は衝撃的であるのだが、昔一度同様の言葉を言われたことがあるのを思い出した。

 今から20年ほど前に、数人の仲間で「教育を考える会」という地域のささやかなグループに加わっていた頃のことだった。

 京都の二度目の国体開催を期に、小中学校の入学式や卒業式に、「日の丸の掲揚」と「君が代の斉唱」が義務付けられようとした問題があった。

 私たちは子供の保護者として住民として、「学校行事」に、「日の丸、君が代」はいらないとの思いから、ビラを配ったり集会を開いたりしていたら、地域のある人が、「そんなに日本が嫌なら日本から出て行け」と言ったのである。

 何とも短絡した発想と言葉に驚いたのだが、彼は「北朝鮮でも何処でも好きな国に行ったらいいやん」と言うのだ。

 彼らにとっては、「日の丸や君が代」が嫌な人は日本人ではなく、愛国心のかけらもない人だと思っているみたいで、非常に低次元の発想としか思えない「日本から出て行け」発言となったと思われる。

 果たして、「日の丸の掲揚」や「君が代の斉唱」が好きな、いや無意識に従ったり、無批判の人たちの神経は、どないなっているんだろうと当時は思ったものである。

 それ以来、全く背景や意味も違うが、同様の「日本から出て行け」という発言を、まさか自分の孫の口から浴びせられるとは夢にも思わなかったのでビックリした。

 私は後2ヶ月足らずで、恒例の「中国、内モンゴルツアー」のため、「日本から出て行く」予定なので、孫は「日本から出て行くじいじ」を見送ってくれるのだろか。

 この一件を娘に告げると彼女は、「あんたこそ、世界に出て行け!」と期待と呆れた思いをダブらせて息子に言ったのだが、孫にとっては意味不明な言葉だった。
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みんな必死で働いている。

2007年06月21日 | 感じたこと
 「格差社会」って言われて久しいが、何を何と比べてのことだろうか。

 国民の平均年収を400数十万円とする統計があり、国民ひとりあたりの貯蓄額が700万円を超えるといわれるニッポンの現状の真実はどうなのだろうか。

 一部の「セレブ」と呼ばれる著名な人々の贅沢な暮らしや年収が、テレビマスコミやバラエティ番組ではもてはやされているが、多くの働く人々の中にワーキングプアと言われる実態がある。

 ある昼間のパート労働者の事業所には、いろんな現実を抱えた人々が勤めている。

 20代前半の幼い二人の子供のママは、子供を保育園に送り迎えしながら10時から4時までのパート労働をしている。旦那も当然働いてはいるので、幼い子供は母親に預かって貰っていると言う。

40代のお母さんは、ご主人がご病気で仕事をやめ無職のため、中学生の息子と小学生を抱えての生活。保険の外交の仕事は時間が不規則で子供の面倒を見れないと、時間の自由の利く昼間のパート仕事に変わったそうである。

 30代の男性は夕刻からお店を友人から任されてやっているが、収入が安定しないので、昼間の時間を有効に使うべくパート仕事についたらしい。

 30代の主婦は9歳を頭に三人のお子さんのママであり、一週間の前半と後半に違ったパート仕事をしながら、保育所に預けた子供を仕事帰りに迎えに行くという。

 一方には、最近話題の社会保険庁の職員だけでなく、市役所や役場の公務員と呼ばれる職員さんたちは、平均年収が700万円をゆうに越すという。

 夫婦揃って頑張っても、ようやく300万円を少し超えるだけの年収で、ギリギリの生活を余儀なくされている家庭がそこら中にあるというのに。

 平均なんて、取り方次第では何ともなるので、錯覚しがちに陥ってしまう。

 大企業のエリートサラリーマンたちの平均年収が1000万円を越す時代だが、そんな裕福な経済状態の家庭はごく一部であり、一割あるかないかである。

 それなのに、テレビマスコミを中心に取り上げられる平均的家族像は、未だに夫婦と子供二人で、年収800万円近い経済力の家庭をモデルにした話が中心になっている。

 いつも怒りを覚えるのが、大手銀行関連のサラ金を含めて年率12パーセント以上の高金利の「高利貸し」が堂々とテレビや新聞で、「ご利用は計画的に!」と宣伝している実態がニッポンにはある。

 なんとこの国は貧しい国なんだろうと思う。

 大手資本が、貧しい低所得者や家族を食い物にする「高利」の金貸しで稼ぎ、のうのうと高収入を得ているのが実情であり、銀行マンや大手エリートサラリーマンを筆頭に、絶対に「格差」なんて是正されないのである。

 ともかく、必死で働く人たちが深夜から早朝にかけての「コンビニ」や「運送業」などのパート従業員にも、たくさんいる。

 働いても働いても生活は一向に向上しない。いわゆる「ワーキングプア」の現実の一部を垣間見ながら、ニッポンの実態をひしひしと感じている。
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夏至は蛍を楽しもう!!

2007年06月20日 | 季節の話題
みなさん、明後日6月22日は夏至、つまり昼の時間が一年で一番長い日であり、春から夏への分岐点である。

 この日を、キャンドルライトで過ごそうと呼びかける、TEAM GOGO!2007のキャンペーンをご存知だろうか。

 ここ数年、毎年、地球温暖化対策の一環として、誰もができる削減への一助となる、夏至の夜8時から10時に、電気を消してローソクの明かりで過ごそうという呼びかけである。

 今年は何と「豪快な号外」と銘打った「30秒で世界を変えちゃう新聞」と名づけられた「号外」を全国で3000万部発行し、絶望的な地球の未来をみんなで少しでも考えて、身の回りで出来ることをやろうとすれば、まだ間に合うかも知れないとする呼びかけなのである。

 数日前に、近くの宇治田原町の田原川沿いの散歩道の近くに、やおやの営業で通りかかったのだが、何と夜半9時近かったが、どうも川べりが賑やかなので、もしやと思いながら近づいてみると、何と「蛍」がとんでもなく多く飛翔していたのである。

 小さな子供連れの家族やカップルなども含めて、金曜日の夜だったが、人口も少ない田舎町の小さな川沿いに、「ホタル」を見に多くの地元の人たちが出ていたのである。

 そうだと思いついたのである。今年はこんなに多くのホタルたちが発生して、人々を喜ばしてくれているのだから、是非、夏至の日の夜に、家の中にこもってローソクの灯を眺めているのもいいかも知れないが、屋外に出て、ホタルの明かりを楽しむなんて、風流な遊びをしながら、2時間ばかりの電気の消灯に協力するのも「かっこいい」と思ったのである。

 梅雨入り宣言はしたが、あんまり雨の降らない日々が続くのを幸いとして、ぜひ6月22日(金)の夜は、お近くの「ほたる」の出る水辺や川へと足を向けて、暫しの悠久の時を、地球環境保全に一役買うことも意識して、愉しんではいかがでしょうか。

 全国各地に、近年は「ホタルの里」や「ホタル」を愉しむ集いなどが催されたりして、近くの川や水辺空間を「ホタル」の住める環境へと浄化しようとする運動や活動が盛んに行われている。

 こんな時代にこそ、暫しの「ホタル」と対話する時という素晴らしい時間を、地球環境への負荷を少しでも少なくしようとする試みと共に、愉しんで行動しようではないか。

 何でも、「地球環境問題」と難しく考えるだけでなく、今年は何故か「ホタル」の当たり年!!なのかもしれないので、「ホタル」に感謝しつつ、夏至の夜を「ホタル」と共に、愉しもうではありませんか。


 「豪快な号外」にも、「しょうがない」すなわち、「笑がない」と諦めるのではなく、「やってみま笑」と笑い楽しみながら、半径3メートルを変えたら、世界が、そして「地球温暖化」をストップできると記してあった。

 皆さん、「やってみま笑!!!」。ぜひ夏至の夜を「ホタル」で楽しんで下さい。
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うまい「出し巻き卵」!

2007年06月18日 | ガリバー旅行記
先日、やおやのお客さんとお話してて突然思い出したんだが、私が学生時代に食べた「出し巻き卵」の味が忘れられないし、最高にうまかったのだ。

 大学二年生の冬だったと思うが、寮の同僚学生に誘われてのバイトで食したものだった。

 京都三条蹴上にある「都ホテル」に入っている某日本料理店の「ホテル朝食」の段取りと片付けのバイトであった。

 寒い冬の夜、朝早いバイトのため、まだ夜の街として賑わっている祇園界隈の路地を入った職人宿のような場所の二階に、せんべ布団がいくつもあって、そこで一夜を過ごして、早朝に連れ立ってホテルへ出勤するのである。

 夜のネオンが二階の窓からちかちかと見え隠れする中、夜半に我々バイト生は、週刊誌や漫画本を枕にして浅い眠りについて、まだ暗い早朝に目覚めて仕事に行くのである。

 三条通りに出て、四、五人の学生がタクシー待ちをしていると、おまわりさんに職務質問された時があるくらい、風情はちょっと危うい感じの学生集団に見えたのだろう。

 おまわりさんに、「どこから来たか?」と問われて、「あっち」と答えたり、「どこへ行くのか?」に対しては、「あっち!」などと答えて、しっかり叱られたりもした記憶も蘇ってきた。学生運動が華やかな時代だった。

 ともかく立派な一流ホテルの日本料理の「朝定食」は、当時で一人前500円だったのである。

そんな高価な「朝定食」を食べるホテルの宿泊客がどういう人たちかは知るよしもないが、ともかく「出し巻き卵」と「赤だし」が絶品であり、最高にうまかったのである。

 ホテルに入っていた有名な日本料理店は、「出しまき卵」と「赤だし」が勝負と見えて、毎朝、番頭さんがやってきては、「出し巻き卵」と「赤だし」の味を味見してチェックするのが日課となっていたようである。

 その番頭さんは年の候なら、30歳を過ぎたばかりと思われる御仁なのだが、いつも当時流行っていた、千昌夫の「星影のワルツ」を口づさみながら、味見にやってくるので、私たちは、さすが伝統の日本料理屋だと納得と感心をしていたのである。

 出された「朝定食」が、全く手もつけずに戻ってくることもあり、我々貧乏学生にとっては、信じられないセレブな人たちの「財布」を想像したりもしたもんだ。

 朝食の時間がほぼ終わる頃、私たちは皿を片付けて一段落して、この「朝定食」の「出し巻き卵」と「赤だし」を食すのだが、これが何とも贅沢の極みと言った感じのプレゼントだったのである。

 夜から泊りがけの朝10時頃までのバイト料は、当時のお金で800円位だったと思うので、この500円の「朝定食」のうまさと値段は、格別の感があった。

 今、この「出し巻き卵」の味が続いているとしても、さぞかし2000円か、3000円の「朝定食」となっているのではと思うほどの絶品だった。

 このうまい「出し巻き卵」の味に、も一度出会うには、ホテルに泊まるしかないのかな。

 
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「父の日」の別れ。

2007年06月17日 | ファミリーイベント
 今日は「父の日」である。五月第二日曜日の「母の日」と比較すると、どうも影が薄い。

 でも昼過ぎに孫達を連れた娘が我が家にやってきて、「父の日」のプレゼントを私に手渡してくれたのは、ありがたいことである。

 夕刻、私にとっては長年の「宝物」でもあった、秘蔵のレコードとの、寂しい「別れ」が待っていた。

 というのは、1960年代後半からの自分のレコードコレクションを片付けるついでに売却することにしたからである。

 夕方、広島からわざわざ中古レコードのバイヤーで、私より少し若い男性がやってきて、600枚ほどあった私の古いレコードをチェックして、ダンボール箱に8箱、一箱に平均50枚としても四百枚ものレコードを買い取って、宅配便で持ち帰ったのである。

 実を言うと、私自身が71年から当時のURCレコードと呼ばれる、レコード会社でしばらく仕事をし、その当時のフォーク、ロック系の日本盤と、好きで買い集めた洋盤など多種多様のレコードを所有していたからである。

 大阪の実家を皮切りに、東京に移住し再び関西に帰って、京都南部に自分の家を購入し住むに至るまで4回の引越しを経験したので、その度大量のレコードを箱に積めて引っ越してきたのである。

 そんな際に家人に言わせれば、だいぶ処分したとのことでシングルレコードや記憶に多少でも残っているいくつかのレコードは、既に今はなかった。

 でも、中古レコードの買取歴20年に及ぶという、広島からやってきた彼によって選別されたレコードは、それなりに売買価値のあるものもあったようである。

 一枚は「林亭」と呼ばれるLP盤で、帯と呼ばれるレコードジャケットに巻いてあるの紙はないものだが、2万円の価値があると、彼は喜んでいた。

 他にも、とっても価値のあるものも数点あったようだが、なにせ40年近く経っているものもあって、ほとんどのレコードに「帯」がないのである。

 彼は、これだけの中古レコードの掘り出し物で帯があったら、とんでもない値がつくのだが、と溜息混じりに一枚一枚のレコードをチェックしながら語るのである。

 レコードジャケットの「帯」にそれほど価値があるとは考えても見なかった。

 彼は、とんでもない希少価値のレコードで一枚中古で200万円近くするものもあるが、「帯がない」と、たった1万円の価値にしかならないものもあると言うのである。

 誰も、「売るために」レコードを買ったりコレクションする人はいないので、そんなことはつゆ知らず、整理したりストックするために、帯は邪魔だと破って捨ててしまう場合が多いのである。

 いずれにせよ、昔のレコードやアーチストに関わる談義をしながら、ダンボール箱に詰められて行った、「僕のレコード」との「別れ」は、ちょっと寂しい儀式となった。

 これが「父の日の別れ」であった。

 
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