ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

内モンゴルに生きる

2005年08月31日 | ガリバー旅行記
 内モンゴル地球散歩のエピソード3をお送りします。

 私が中国内蒙古自治区の大草原に行くきっかけとなったのは、91年に開催した「内モンゴル地球学校」なのだが、この日本の子供たちを100名、内蒙古の白音オーボウへ連れて行った企画に起因している。

 その準備の段階から数えて15回目の内モンゴル訪問となっているのだが、この企画イベントから、その縁を絶やさず、交流したいとの思いで、毎年夏に、この指たかれ方式で、ほとんど毎年同じ草原に行くようになったのである。

 実は、91年の交流活動の時に、内モンゴル草原に生活する蒙古族の子供たち24名ほどが参加してくれたのだが、その中に、今回も大変お世話になったB君がいて、それから10数年後の現在、B君のご両親に私たちのツアーのサポートをしていただくことになっているのである。

 草原近くの町に現在は生活するBさんは、ほんとうに我々日本人の大きなルーツであることを現実的に明確に知らせてくれようなフレンドリーで、とことん親切なサポートとお世話をしていただいているのである。

 息子や子供たちが、遠い異国の地、京都でお世話になっているので、当然のことと謙虚におっしゃって最大限の歓迎とお世話をしていただくことに、まことに恐縮しながら大変感謝しているのである。

 Bさんファミリーは実は6人家族なのだが、現在そのうちの3人の兄妹が、日本に留学していて、京都宇治の3DKの団地で、仲良く暮らしながら勉学に励んでいるのである。

 兄は大学院の修士課程の学生で、成績優秀のため各種奨学金をもらっており、妹も現在来日して5ヶ月しかたっていないが、日本語習得の特別科での成績は兄貴以上に優秀な状態で、来年度大学受験と共に、奨学金申請すると立派に支給される実績と今後の期待を獲得できる人材である。

 このように真ん中の弟を含めて3人の子供たちを、日本に留学させている親父とお袋の懐の深さは、相当なもので大家族的ファミリーが、その生き方をサポートされているのである。

 ともかくBファミリーは、内モンゴルに生きる蒙古族の見本のような家族であり、とても親日的で、子供たちが将来益々日蒙の友好交流に活躍することを夢見ておられるのである。

 しかし今回のツアーに参加したB君の所属する大学の職員であるTさんは、熱心に内モンゴルのご両親に語ったのである。

 こんな素晴らしい大自然と素朴だが豊かな生活をおくることのできる故郷を捨てて、日本みたいな経済力は世界のトップレベルでも、人間的社会かどうかを見極めてみれば、こんな危うく崩壊寸前の国はなく、ぜひ留学もほどほどにして母国の故郷に早く帰るべきだと主張したのである。

 観光目的や勉学目的で短期間訪れることは歓迎するが、経済優先の見せ掛けの先進国、経済力だけの人間の本来の素朴でも人間らしい生き方、生き様が暮らしの中にほとんど欠落した現代日本に長く留まることは止めた方がいいと強調したのである。

 どっこい蒙古人は、経済力や地位、名誉ではなく、人間的な暮らしを自然環境厳しい中でも代々送っている。素晴らしい民族であり、この自然に生きる生き方を忘れてもらってはいけないのである。

 内モンゴルに生きるBさんファミリーの蒙古民族としての伝統と歴史を重んじた暮らしを、誇りを持って続けていただきたいと、心から願うものである。
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政治の怠慢!アスベスト規制。

2005年08月30日 | 日本の課題
 衆議院議員選挙が公示され、テレビマスコミ中心の賑やかな総選挙が始まった。

 私も地方議員の一人であるが、政党、組織と関係のない市民派的議員として活動しているので、個人的投票行動は必ず欠かさないが、全く選挙運動や協力、応援とは無縁なので、今朝もテレビ、新聞を通しての一有権者としての朝を迎えたに過ぎない。

 ところで、総選挙は郵政民営化や年金問題などを軸に選挙戦が戦われるみたいであるが、6月下旬に大々的に新聞紙上で公表された、兵庫県尼崎市のアスベスト関連工場、クボタ㈱の旧神崎工場での79名に及ぶ石綿関連病での死亡と、周辺住民5名(内2名死亡)の中皮腫感染の報道以来の業界団体や政府の「クボタショック」は話題にすらなっていない。

 国会は自民党の内紛的要素の強い郵政民営化騒動に終始して、1970年代から多くの危険性が指摘されていたのに、アスベスト規制案も上程せず、92年に旧社会党が議員立法として出した「アスベスト規正法」を自民党と業界が反対して廃案にした経緯もある、 
 業界とともに政治家、政党の怠慢が招いた犯罪的行為の結果とも言える現状ではないだろうか。総選挙が行われている現在も、アスベストによる中皮腫や肺がんなどで、痛みと呼吸困難な病状に苦しむ人たちが多くいるはずである。

 このアスベストによる因果と思われる中皮腫や肺がんの発症発は、何と30年近くかかるために、直接アスベストに触れる仕事に従事した人たちは、因果関係に思い当たる節があろうが、周辺住民や飛散した解体現場等の目に見えないアスベストを大量に吸引した人などは全く記憶にない人もいて、今後数十年間に相当数のアスベスト被災者が発症するであろうと予測されるが、その対策と補償や対応も含めて企業責任だけでなく、政府、国の政策的対応が充分示されていない。

 国会議員は自らの生活権でもある、「国会議員」になることが先決であり、議員にならなければ、ただのおっさん、おばさんに戻ってしまうので、必死なのはよく理解できるが、是非ベールにまだ包まれている感の強い、アスベスト問題の規制と被災者支援と救済をしていただきたいと強く要望するものである。

 何と皮肉にも、あの4月25日に起きたJR福知山線電車転覆事故で、マスコミ取材陣がごった返していたJR尼崎駅前周辺で、翌26日に重大な被災者3人が、クボタの責任者達と尼崎市議2人と接触して、何と一人200万円の見舞金に相当する企業側からの支払いの授受を決めていたのである。

 日本のマスコミの実態が、ここにも如実に現れており、ひとつの事件の報道に集中し出すと、とことん根堀り葉おりと追求していくが、すぐそばの別の事件、事象にはほとんど関心も示さず、後になって発覚するや、猫も杓子もと言った感じで殺到するのである。

 マスコミ、企業の一過性や、情報隠しや知らぬ存ぜぬは、今に始まったことではないが、今回もクボタは、周辺住民の中皮腫による病状と死者がいたことに驚いていたというが、社内工場で80名に及ぶ被災者、労災認定死者が出ていて、周辺住民への影響について知らないはずは無かったはずである。

 政府、厚生労働省、国土交通省、文部科学省、環境省なども、こうした一連のマスコミ報道と企業の情報開示で、初めてアスベストの危険性と規制の緊急性を知ったのではなく、欧米や諸外国の規制の情報や法制化も充分情報として知っていながら、業界団体や利権に関わる議員達の手前か、対策を取らず放置していたわけで、政治の怠慢による、犯罪的事件であると言えよう。

 今後の政府ならびに地方自治体も含めた行政の調査、管理、規制、対策、被災者サポートに期待するとともに、企業責任を明らかにした上での賠償とアスベスト除去工事の費用負担と業務無償提供を実現しなければならないと思っている。
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大草原に携帯落としちゃった!

2005年08月29日 | ガリバー旅行記
 ガリバーの内モンゴルツアー・エピソード2です。

 内モンゴルの大草原の眺望は、字で表すことの限界を感じるほどの素晴らしいもので、私は毎年、内蒙古自治区、赤峰市、克旗、白音オーボゥに行っているのだが、今年も好天気に恵まれた草原での乗馬遊びを楽しみにしていた。

 白音オーボゥという名の、遊牧民ならずとも信仰の山となっている、それは美しい小高い山の麓に、私達は草原生活2日目からゲル(中国語でパオ)と言う名の移動式天幕を建てて3日間を過ごしたのだが、遊牧の民の所有するおとなしい馬を借りての乗馬の時間を求めて、河を渡って02年にもお世話になった牧民の家を目指した。

 河が8月に入ってからの季節外れの雨で増水して、あいにく車で渡るのが危険なため、私達は裸足になって各々が浅いところを見つけて渡り、牧民の家に向かって歩いている時だった。

 後ろから小学生の女の子が何やら草原で見つけたバッタを、私の背中に入れようと追いかけて来たので、私は草原を珍しく逃げるように自分のウエストポーチを肩に抱えて、走ったのである。

 約2キロほどの道程だったが、当然道なき道の草原の上を適当に走っていたが、牧民の家に到着して、時計替りにポシェットの外袋に入れていた、私の携帯電話を落としたことに気づいたのである。

 なにぶん大草原の上であり道などないに等しい大地の何処かに、携帯電話を落としたのは確実なのだが、携帯に電話をかけて呼び出し音で探すこともできないし、皆目探す当てのない落し物探しとなったのである。

 昨日も乗った乗りなれた馬に直ぐに跨って、真っ先に来た道と思える付近を、じっくりと捜しながら、河も馬で渡って車のところまで探しに往復したのである。

 しかし約30分近くの馬での広い草原での落し物探しは、結局は携帯電話を見つけることもできず、ただ小さな鞍に我がお尻が何度も擦れて、摩擦と接触のために太股からお尻にかけての皮がめくれるに至っていたみたいである。

 帰国して4日目の今も、お尻の下の方にカサブタが出来ているので、相当擦れていた模様で暫くは痛みも感じるほどであった。

 2時間近く周辺の草原で数人の仲間が、乗馬遊びを愉しんでいる頃、私は既に落とした携帯電話を見つけることは不可能だと悟り、諦めの想いの中で海外旅行傷害保険の携帯品補償かNTTドコモの1年間補償のどちらかで、新しい携帯を代替品としてゲットする手法を考えていた。

 草原の夕暮れ時が近づき、この旅の出発前に柔道の試合で左腕の肘を骨折して、三角巾でギブスを攣っている小学生の少年を、私が馬に乗せてサポートしながら手綱をひいて、折角のモンゴル草原での乗馬体験をと、暫く歩んでいた時である。

 白い羊の群れが緑の草原の前方に広がっていて、その美しさに魅せられて、群れのそばで記念写真を撮ろうと思って、ゆっくりと接近したところ、前方に光るものを発見して驚いたのである。「携帯があった!!」とお互いに叫ばずにはいられなかった。

 ほんとうに広い大草原の一角に、私が落とした大切なシルバーとブルーのツートンカラーの小さな携帯電話が、「ここにあるよ」と言わんばかりに輝いて見えたから不思議であった。本当にありがとう。感謝である。

 折角の内モンゴルの快適かつノートラブルの旅なのに、ちょっとした不注意だとは言え、大事なメモリーや送受信のメールや写真の記録された形態電話を無くした私自身には、神様が示してくださった恩恵だとも思えるほどのラッキーであった。

 大草原で落とした携帯電話は、約三時間後に無事に私の目の前に、その姿を現して再び私のポケットに収容されたのである。めでたし、メデタシ!
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夏休み最後の甲子園

2005年08月28日 | プロスポーツ
 ちびっこ達やご家族で夏休み最後の日曜日に、阪神甲子園球場に出向いた阪神ファンは、宿敵巨人に連勝したタイガースのかっこよさに、今宵は酔いしれたことだろう。

 地元甲子園を高校野球に明渡しての「死のロード」を何とか10勝9敗と辛うじて勝ち越したタイガースだったが、最後の広島戦に連敗し、約1ケ月ぶりに帰ってきたホームグランド甲子園での巨人戦初戦は、ローテーションの谷間とは言え来日初先発のダーウィンなどが打たれ、球界最年長投手の工藤に3安打だけで無様な3連敗、阪神ファンは中日の好調もあって少しやきもきしていたのである。

 しかし昨日は、先発安藤の好投と兄貴金本の2本塁打などで快勝し、本日は杉山の粘投と、やはり主砲金本の一発で逆転し、今岡、桧山、矢野らの活躍で、ちょっと体調を崩したセットアッパー藤川抜きで、ウィリアムス、久保田の継投で快勝、2連勝したのだ。

 今シーズンは最下位に近いところで喘いでいる巨人軍とは言え、阪神ファンにとっては、憎き巨人を倒すことは格別のものであり、迫り来る中日ドラゴンズの足音も気にはなるが巨人に勝って気分すっきりで、明後日以降の首位決戦、中日戦へのはずみがついたと言えよう。

 満員の甲子園球場は今年からの入場者数の実数表示で4万8千人余の満杯であり、立錐の余地の無い甲子園のスタンドの中で、各選手毎への熱いメッセージつき応援歌を歌うファンの熱心さは、どの球団のファンより群を抜いて素晴らしいものなのである。

 幼児からご年配まで永年のファンから俄かファンまで、分け隔てなく甲子園に入れば、独特の一体感の中で、いつのまにか応援のリズムに体と声を合わせている自分に気づくほど、自然な連帯感での応援の輪にはまって、甲子園独特の興奮に魅せられてしまうのである。

 今日のような宿敵巨人を徹底的に叩きのめしての勝利は、また格別であり、夏休み最後の大きな思い出として、多くのちびっこ達だけでなく、私達テレビ画像を通じて熱い応援を余儀なくされている、全国のタイガースファンにとっても誇らしい喜びである。

 今年も26試合を残して2位中日と、僅か1.5ゲームしか離れていないが、一昨年以来のセリーグ制覇だけでなく、03年には惜しくもなし得なかった日本一を勝ち取るチャンスが到来しているのである。

 明後日以降の秋のペナントレースに注目し、2005年の阪神タイガースの優勝を見届けたいものである。

 充実した投手陣と、赤星、鳥谷、シーツ、金本、今岡、桧山、矢野、藤本のレギュラー陣に、関本、スペンサー、片岡、浜中、町田らの控え選手の充実が重なって、03年の勢いだけの優勝とは違った、大人のプロ野球の醍醐味を、存分に見せてくれる阪神タイガースの2年ぶりの優勝を信じて疑わない50年来のファンのひとりとして、一区切りの夏の終わりの、巨人に連勝した本日の喜びを、伝えたいと思うのである。
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20年ぶり京都で再会!

2005年08月27日 | 感じたこと
 
 台風一過で関西地方は真夏のような暑さが甦ってきて、京都は今日も35度近くになっている。

 そんな中、学生時代に京都の大学の教員養成課程で学んだ5人の当時女子大生だった仲間が、申し合わせて1年に一度は京都に集まって、ミニ同窓会をしているという。

 私は20年ほど前、子供達の遊び場活動のリーダーをしていた関係で、彼女達が大学2、3年生の頃、1年ないし2年間、毎週土曜日ごとの活動日にサポートボランティアとして来てくれていたため、出会っている学生達なのである。

 それから大学を卒業した彼女達は帰郷し、結婚し、小学校の教師として頑張っている人が多く、地方都市に行ったときに時間を作って会ったり、電話で話したりはしているが、全く年賀状だけのつきあいの人もいて、20年ぶりに会ったと思われる2人も、京都駅のホテルのロビーで会った瞬間に、「ガリバー!」って、20年前と変らぬ笑顔で、声をかけてくれたのである。

 5人の同窓生の内のひとりは全く初対面だったが、なにぶん全員が教員免許を持ち、幼稚園や小学校の教師としての経験がある人たちなので、現在の教育現場のことや、子供達とのかかわりなど、教育や子育ての話をするうちに、すぐにうちとけて一緒に話の輪に加わっていたのである。

 現在も小学校の担任教師の現役と、今年の3月に我が子とじっくり向き合うために長年の教師生活にピリオドを打った者もいて、他の三人も、それぞれの経験があるために共通の話題が続いたのである。

 皆んな家庭婦人でもあるため、ご主人のことや子どもの話も飛び出すが、食育談義や地域での行政とのぶつかりでの運動に関わっている現実や、子供達の自由で幅広い将来のための活動現場を求めているなど、母親としての苦労や実態も遠慮なく披露されていたのである。

 私自身は、20年前の彼女達と子供達の遊び場活動を通じて知り合っただけの関係なのだが、全く年齢差や時代の流れに関係なく、昔からの同世代の友人の如く、バイキングと自由なパスタ料理が選択できる食事をしながら、あっと言う間の3時間近くを過ごしていたことになる。

 普通、女性の場合は、結婚して各々がご主人の故郷や仕事の関係の深い町や地方に住む場合も多く、また子育ての煩雑さや家庭生活にバタバタで、なかなか学生時代の同窓生と
も簡単に再会することも難しく、つい連絡が途切れたりして、なかなか限られた友人以外
とは会えないことが多いのだが、彼女達は、しっかりと毎年一度は再会しているらしく、ほんとに学生時代同様の仲の良さで語りあっていた。

 私は遠慮してお先に失礼したのだが、彼女達5人と大分からやってきた女性の6年生になるお嬢さんも含めて、それからもざっくばらんな会話や近況報告が続いたことだと推察する。

 3人は日帰りで夫の待つ地方へ今日中に帰る予定だそうだが、あとの二人と女の子は、京都に一泊して、たぶん夜通し語り明かすのではないだろうか。ひょっとしたら枕もとにビールかワインを置いて、飲み明かすのかも知れない。

 とても明るく、とても自由な雰囲気の中で、昔のままのお互いの個性や性格を時には笑いながら、お互いの悩みや実情での困りごとをも、ざっくばらんに話せる、いい仲間として、昔の出会いを大切に今もお互いを信頼している、いい関係がここにある。

 みなさん、ありがとう。僕も女子大の卒業生でないのに、昔からの友人として昼食をしながらの皆さんの会話の輪に加えて下さって、ほんとうに感謝です。また新しい友人もできました。四国にお遍路に行ったら、また讃岐うどんを本場で食べたくなったら、きっと寄りますよ。覚えておいてくださいね。

 SEE YOU AGAIN!また会いたいね。感謝。
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モンゴルから帰国!

2005年08月26日 | ガリバー旅行記

 お久しぶりです。16日から10日間、中国内蒙古自治区の大草原に、「心の洗濯ツアー」に行って、昨晩帰国しました。

 蒙古族の遊牧生活が行われている、内蒙古、赤峰、克旗の白音オー包の大草原で、牧民生活と共に、ゲルを建てての5日間を過ごしました。

 今回は、小学生の男女、大学生の男女と老夫婦と私と大学職員の8名のメンバーで、老若男女の典型的なメンバーが、とっても愉しく9泊10日の旅を行うことができて、関係者、牧民、老朋友、旅行社の人々、通訳さん、そして私の91年からの友人である、B君
のご両親に、大変お世話になり感謝でした。

 初日は、関西空港出発が使用機の延着で、2時間も送れ、雨天の北京に着いたのが既に8時過ぎで、真っ暗な町を通り抜けて、北京郊外の金山嶺長城の麓までワゴン車で走りました。

 時刻は10時を回っており、夕食を予定していたホテルのレストランの灯も消えていて、初日からアンラッキーで、食事にありつけないかと一時は心配しましたが、車のクラクションとライトの点滅に、やっと服務員が出てきてくれて、30分後に遅い夕食の卓を通訳と運転手も含めて、10人で美味しくいただくことができました。

 山荘のコテージといった感じの金山嶺賓館のベッドに疲れを癒して、眠り込んで、翌朝は5時過ぎに目を覚まして、みんな元気に、ほとんど観光客のいない貸切状態の「万里の長城」の登頂を愉しみました。

 2000年ほど前に、漢族が北方の少数民族であった、モンゴル族や満族の侵入を恐れて、巨大かつ美しい、宇宙から唯一見えるという地球上の建造物と言われる、6千5百キロに及ぶ、万里の長城を築いた、歴史と現実を、まず見定めて、モンゴルへの旅を始める儀式の様な感じで、必ず、内蒙古への旅の前には、行くこととしているのです。

 それからの草原での遊牧民や蒙古族との交流生活と数々の旅のエピソードは、追ってブログ「ガリバー通信」に掲載していきますので、お楽しみに。

 ともかく雄大かつダイナミックな大自然の中で、不思議な癒しの空間とも感じるような蒙古の人々との素直な人間的な関わりは、心と体をリフレッシュさせてくれるに、余りある「命の洗濯」となりました。

 セイノー、タラハジナ、バイアステ。こんにちわ、ありがとう、さようなら。
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敗戦記念日

2005年08月15日 | 日本の課題

 1945年8月15日正午、やっとこさ昭和天皇の玉音放送とやらで、国民に第二次世界大戦、太平洋戦争の終戦が宣言されたのである。

 日本の大いなる大東亜共栄圏を目指す、侵略の野望がついに断念せざるを得ない、数百万の命と悲惨な惨状と多大な損失という犠牲を積み上げての、最終的「無条件降伏」の敗戦宣言となったのである。

 「聖断拝し大東亜戦終結」と、その日のことを毎日新聞は大見出しで終戦を伝えたそうです。日本は敗北感と虚脱感に包まれて、日本の支配を受けて、戦争で多数の犠牲者が出たアジアの人々は歓喜にわいたそうです。

日本は過去を反省し、平和国家、民主主義国家としての再生の道を歩み出しました。しかし、戦争の記憶の風化からか、戦後60年経った現在、再び「戦争ができる国」への国づくりのため、「国際社会での普通の国」を目指して、憲法を改悪し、教育基本法も改悪し、国際社会で、武力と兵力による「平和貢献」をしようと歩み出しています。

 「あの戦争は間違っていた」とする全国世論調査での、昨日のアンケートでは、意外と少ない43%のみの答えだったそうで、「やむを得ない」とするものも、29%もいたそうです。

 一番問題なのが「分からない」とする26%もの人たちがいることです。

 日本にとって、あの60年前の敗戦は、「二度と繰り返してはならない」「戦争をした責任」を強く感じていたはずなのに、60年に及ぶ「平和ボケ」からか、現在の戦争への認識は低下する一方です。

 まさに「天の啓示」であった、日本の敗戦宣言を、もう一度重く受け止めて、憲法改悪、教育基本法改悪を始めとする、とんでもない「戦争ができる国」への歩みをストップさせる、国民の主張と行動が今こそ必要な時です。

 
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お盆の墓参り

2005年08月14日 | ファミリーイベント

 先祖代々と父親と兄が眠る、我が家の墓所に、年に何回お参りするだろうかと考えれば、私の21歳の時に父親を亡くしているので、それまではあまり積極的ではない「墓参り」だったが、父親や家族と共に年に一度は行っていた。

 自分が結婚し所帯を持ってからは、若い頃東京に8年間生活していたので、この間は夏休みに帰る時と、年末暮れに帰郷した時の2回だった様に思う。

 近年は母親が高齢化し、実家でずっと一人住まいなので、自分ひとりで墓参りには行かないので、私が春と秋のお彼岸の前後と、夏のお盆前と年末の一年の締めくくりと、都合がつきさえすれば、年に4回も「墓参り」をすることになっているのである。

 今回の「墓参り」も、母と共に都合のつく姉妹に呼びかけて、本日11時に「お墓」に集合と携帯メールでお知らせしたところ、三姉妹のうち二姉妹が夫を伴って参加してくれたのである。も一人の姉夫婦も2日前に「お墓」に立ち寄ってくれたそうで、今年は母と共に、兄弟全てが連れ合いを伴って「墓参り」してくれたことを大変喜んでいる。

 戦前は大阪阿倍野の斎場周辺にあった先祖の墓だが、大阪市営墓地として戦後東住吉区の瓜破の墓地に移され今に至っているのである。我が家の墓所には、先祖代々の墓と釈名がついた、私にとっては祖父、祖母と伯父さんたちの墓が正面左右に並んでおり、その小さな墓所の北側に、新たに父が亡くなった1969年5月に、父と兄を納骨した墓石を立てたのである。

 いまどきの墓といえば、多くは小さな区画の墓地が整然と並んでいる墓所が多くて、先日、久しぶりに行った家内の父の墓所も、大阪市が建設した巨大な「泉南メモリアルパーク」と称する墓地公園であり、まったく違った印象の墓地である。

 中にはお寺さんの納骨堂の中に、コインロッカーの様に収められている「墓所」もあるし、一方では沖縄で有名な「亀甲墓」と称される巨大な墓所を、各家が所有している地方もあって、「お墓事情」は千差万別である。

 幸い、わが実家の墓所は、我が実家から車で20分程度の場所にあるために、現在89歳になった母にしても、私たちが車で送迎さえすれば、気軽に「墓参り」ができる距離なので、大変ありがたく年に4回も行く気になれば、行けるから感謝である。

 日本人にとっての「お墓」は特別な意味を持っており、今日も多くの「お墓参り」の家族連れの姿が周辺を行き来して、いつもは殺風景な墓地周辺が色とりどりの花で飾られて賑わっていた。

 昼前に「墓参」を終えて、母と三夫婦の七人で、賑やかな昼食の時を外食で持ったのだが、日曜日の昼下がりの少し広めの和風のレストランが満員で20分ほど待たされたが、ゆっくりと歓談することができたのも幸いであった。

 実は、お盆の墓参りは私にとっては恒例となっている、中国内蒙古へのツアー前の恒例行事となっており、明後日から10日間「命の洗濯に」に、7人の参加者メンバーと共に、中国内蒙古自治区克旗のモンゴル大草原に生活する遊牧の民との交流を求めて、旅立つ前の「祈りの時」なのである。

 今年も元気に内モンゴルへ旅立ちます。感謝と安全への祈りを、日頃の健康と幸せの感謝の祈りと共に墓前に捧げて、いつも出発しているので、これもライフワーク的ファミリーイベントとなっているのである。

 やっぱりお盆に先祖代々のお墓をお参りすると、何故か気持ちが落ち着くし、現代を生きる子孫としての最低の努めと感謝の証として、納得できる行為であり、ほっとできるものである。感謝。
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日本国憲法

2005年08月13日 | 感じたこと
 戦後60年の2005年の8月を迎え、日本の今後の国と国民の歩むべき方向性の舵を取らなければいけない、大切な節目を迎えていると言えると思うのである。

 ここ数年、政府、特に小泉首相の権力者としての動向は、大きな歴史の転換点における、大変な過ちを犯し続けているのではないだろうか。

 自衛隊の保持、そのものも憲法違反であることは明らかなことではあるが、その自衛隊を「憲法解釈」との言葉のすり替えで、日本軍隊として海外に派兵する道を、しかも明らかな国際法上でも違反となる行為を正当化してまで、アメリカ、ブッシュ政権の忠実な犬的立場で、追従し、アフガニスタン、イラクへの米軍支援を主たる目的とした「海外派兵」を断行しているのである。

 「日本国憲法」は、敗戦国ニッポンが再び、軍事的侵略行為に至らない様に、国民が政治家と政治的権力を監視し、権力の行使の主体者としての「主権在民」、つまり国政は国民の代表者があたるのだが、「政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こることの無いようにすることを」決意したものなのである。

 敗戦国ニッポンの占領下の内閣であった「幣原内閣」の下に、憲法草案の検討がなされたが、天皇主権や軍隊の保持など、敗戦国ニッポンを、民主的な新しい権力構造に変えることができなかったために、マッカーサー率いる占領軍が提示した「憲法草案」を検討し直して創られた経緯はあるが、日本国民が重大な決意で定めた「日本国憲法」なのである。

 この「日本国憲法」のお陰で、戦後60年もの間、直接的には戦争に関与することもなく、「平和な日本」を保つことができたのである。

 「国際社会における普通の国」と改憲派の人々は力説するが、軍隊と核や軍事力で、敵国視した他国や他民族を敵視することが、「普通の国」ではあるまい。アメリカ合衆国は決して普通の国ではなく、軍事力と資本主義経済の力で、他国や他民族を圧倒している「異常な国」なのである。

 その「異常な国」に隷属、盲従して「普通の国」を目指すと言っている、権力関係者のギャップに気づかなければならないのではないだろうか。

 軍隊を持たない国、コスタリカや永久中立を宣言しているスイスなどと共に、日本は国際社会にあって、特別な「憲法前文と第9条の戦争放棄と戦力を持たない、戦わない」ことを謳った「憲法」を持つ国として、堂々と軍事力に依存しない世界平和への国際貢献」を果たすことが、国際社会における、「名誉ある地位」なのである。

 もう一度、「日本国憲法」の精神と、素晴らしい前文と第9条の「崇高な精神と具体的記述」を素直に受け止めて、「憲法解釈」をゆがめてまで、突き進めようとしている、現在の政府の権力行使に、ストップをかけることが大切な国民の義務であると思う。

 米国の横暴さに釘を刺した「9.11」事件の、その日に奇しくも、総選挙が行われることとなったことは、いみじくも、我々国民の責務と、しっかりとした批判と自主的な考えによる、政府権力への評価をしなければならない、時として与えられたチャンスだと考えられるのである。

 しっかりと見据えて、私達の国の行く末を、次代を担う子供達や孫達のためにも、責任ある有権者として、一票、一票を投じる必要があるのである。

 「選挙制度」そのものが、非常に「政党政治」に偏った「小選挙区制」になり、選挙運動も、なかなか自由に「普通の人」が立候補しにくい体制となってしまっているが、じっくり見極めて、しっかりと議論できる、国会議員を選ばなければ、この国は間違った方向に歩み出していることわ、止めることはできないのである。

 世界に誇れる「日本国憲法」を大切にした、国際社会での日本の「名誉ある地位」を目指して、国民としての大切な一票を、必ず投じたいと思っている。
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日航ジャンボ機墜落から20年

2005年08月12日 | テレビマスコミ
 昨夜から今朝、そして今晩にかけてテレビマスコミは、20年前の1985年8月12日を風化させまいと、こぞって報道をしています。

 当日の夕刻に、尾翼を失い彷徨い続けた日航機は、群馬県上野村の御巣鷹山付近に墜落した模様で、日本航空、東京羽田発大阪伊丹行きの123便には、乗員、乗客524名がおり、奇跡的に4名の生存者があったものの、航空機事故史上最大の520名もの尊い命が失われた、とんでもない衝撃の事故でした。

 私は青少年活動団体の組織的合宿で、ある温泉宿に宿泊していたのだが、夕食後の数時間は、このテレビニュースに釘付けになって、夕闇が迫り、そのうち真っ暗になった山間に墜落したと思われるジャンボ機の機体の一部が発見され、歌手の坂本九さんや、阪神タイガースの球団社長を含む、多種多彩な人々が犠牲になった大事故として、鮮明に記憶しているのである。

 その当時12歳だった、川上慶子さんと他3人が奇跡的に救出され、自衛隊のヘリコプターで翌日、吊り上げられて病院に搬送される場面も、テレビ映像を通じて見たような気がしているが、後日の新聞、雑誌を含むマスコミ映像で、何度も見ているために、翌日のライブとして見たように思っているだけかもしれない。

 ともかく520人もの犠牲者と4人の生存者の、ひとりひとりの人生の大きな出来事に、直接縁や関係が無い、私達にとっても衝撃的で、今も鮮明な記憶として残っている大事故であるので、遺族や関係者にとっては、一日も忘れることのできなかった20年だろうと推察できるのである。

 今朝のテレビでの報道によれば、被害者遺族と加害者となつた日航の元社員との交流というか、相対する立場を乗り越えて、共に墜落現場の慰霊碑や御巣鷹に登る姿が、何組か紹介され、ある九州の遺族の母親は、息子の死から20年経った今、昨年地元の上野村に移住して、毎年息子の眠る山に来るのではなく、今は一緒にここにいると言う実感で暮らしておられるというのである。

 多くの人生が突然、途中でストップしてしまった犠牲者の気持ちも無念だが、残されたより多くのご遺族や関係者の人生も大きく変化せざるを得なかった、それぞれのドラマに大きな感慨と共に、事故の恐ろしさ、安全への人間の務めの重大さを改めて知らされるのである。

 あのJR福知山線の電車転覆事故は、今年4月25日に起きて、107名の死者と500名を越す負傷者が出たのは、記憶に新しいが、どちらも公共交通機関としての「安全性重視」の精神としっかりとした仕事、確認が欠けていたことが明白であるのである。

 スペースシャトル、ディスカバリーは無事、宇宙から1日以上伸びて、予定を変更して、予定のケネディ宇宙基地ではない、西部のエドワード空軍基地に帰還したことは、幸いだったが、NASA、アメリカ宇宙局は、とうぶん宇宙船の安全性の確認ができるまで、スペースシャトルの打ち上げはしないと発表している。

 「危ない」「怪しい」「ちょっと疑問だ」「問題がある」、いろんな言い方、表現がされるが、ともかく安全性の追求が、第一番であり、人命よりも経済性が優先されていた、と思われるような事故の結果を、二度と繰り返さない、硬い決意と人間の英知を集めた、検査、調査を徹底した上での、公共交通機関としての電車、バス、自動車、船、飛行機などであってほしいものである。

 再び、テレビマスコミや新聞紙上で報道される、犠牲者の遺族や関係者の証言など、多くの記事や映像が、ただ20年を記念し、「あぁ、そんなこともあったな」とする、記憶の再確認だけに終わらせないものとして、大切に再び安全性第一主義の明確な安全マニュアルの確認作業を的確に行っていただく決意の機会としてほしいと強く願うものである。
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