ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

大晦日、除夜の鐘。

2008年12月31日 | ファミリーイベント
 いよいよ2008年も最終日、12月31日、大晦日である。

 今朝はなんともけったいなカミサンの悪夢で起こされてしまった。

 何と、私が孫を連れて行って、どこかで孫を誘拐されたというのである。

 「夢」に怯えて叫ぶ声で早朝に起こされてしまった挙句、私が孫の誘拐犯人の様に言われてはたまつたものではないが、何せ「夢」なのでやむ得ないが、すっきりしない目覚めであった。

 とにかく、今年は幼児の誘拐や残虐な殺傷事件が多かったせいで、そんなけったいな夢を家人が見るに及んだのかもしれないが、世の中とんでもなくすさんでいる感じもする年の暮れである。

 昨日、ようやく宛名書きと一言添えての年賀状を一応書き終えたので、今日は大阪へと家族で出かけて、まずは実家の老いた母を連れて、亡き父と兄の墓を中心に年末の「墓参り」を済ませないといけない。

 娘にとっての従姉妹も來阪しているというので、彼女に久しぶりに会うのも目的のひとつで、我が自家用の八百屋営業と兼用のディアスサンバーで孫も連れての五人旅である。

 今日は昨日とがらりと変わって、冬将軍の寒気団がやってきているそうで、京都の最高気温は摂氏7度しか上らず、最低気温は0度だと言う寒い日中となりそうである。

 年老いた母との「墓参り」は、年末の恒例となっているが、高齢ののため無理はせず、お花を捧げるだけで寒いお墓での長居は禁物と肝に銘じてはいるが、果たしてすぐに退散できるかどうか疑問である。

 2008年最後のちょっとした「親孝行」になるかもとの思いでの「墓参り」だが、天上にいるであろう父と兄は何を思うだろうか。

 一昨年から流行った「お墓の前で泣かないで下さい。私はそこにはいません」と歌う「千の風になって」の影響からか、「墓石」が売れないという話を聞いたが、私たちが先祖を敬い、墓参りをする気持ちは変わらない。

 大晦日なので、少し早い「年越しそば」か「年越しうどん」でも温かい麺類を家族で食べてから京都に帰り、夜は定番の「紅白歌合戦」を垣間見ながら、無事元気で育っている孫たちと過ごして、夜半に近くの「とんちの一休さん」で有名な一休禅師が晩年を過ごされた、通称「一休寺」、本名?「酬恩庵」に、除夜の鐘を撞きに出かける予定である。

 2008年の一年の感謝と悪い風情を吹き飛ばして、新たな年、2009年への「希望」と「期待」を胸に抱いて、謙虚な気持ちで家族揃って「除夜の鐘撞き」を厳かに敬虔に行おうと思っている。

 今年一番の寒気団の到来する大晦日から新年元旦に向けて、今日一日の無事を祈り、感謝の一年を振り返ろう。
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年賀状書き疲れ。

2008年12月30日 | ファミリーイベント
 さぁ、今年もあと30時間もなくなった。

 例年のことなのだが、クリスマスが終わって仕事に一段落してからの「年賀状づくり」が日曜日から始まった。

 まずパソコンの調子とにらめっこし、機嫌よく動いてくれるのを確かめながら、まずは来年の干支の「丑年」にちなんだ図柄と文章、住所、氏名などの書き込みをレイアウトして「デザイン」決定までに数時間。

 そして決定したレイアウトデザインを印刷にかかるわけだが、何せ500枚もの賀状を印刷するので、同じデザイン裏面では飽きてしまうので、百枚毎にデザインを替えて印刷するので、また数時間が必要だった。

 初日から二日にかけての年賀状の裏面印刷に10時間くらい費やしたように感じているが、それからが大変だった。

 例年のパソコンに入力していた「宛名入力ソフト」のCDロムが見つからず、パソコン内のアイコンにあった「宛名ソフト」のアイコンも数ヶ月前のパソコンのダウンで消えてしまっていた。

 そこで宛名のパソコン入力、印刷を諦めて手書きで書き出したのが、昨日の午後となったので、昨晩と今日正午ごろと先ほど夕方と、4回に分けて出来上がった分から郵便局に少しでも早くとの願いから投函しに行ったのである。

 その間、食事とトイレ以外は、書斎のデスクに昨年の賀状をいただいた名簿録を中心に昔のアドレス帳、同窓会名簿、今年知り合って賀状を出したい人の住所、名前を控えたメモなどを机に広げて、基本的にはアイウエオ順に、ボールペンで宛名、住所、一言と書き添えていった。

 当然、右手のペンは走り書きになって、思いつくまま感じたままに「一言」の文章が出てくるままに書き綴ったので、何を言いたいのか、まるで意味不明のものも少しはあったが、気持ちが伝わればとの思いで、宛名の人物を思い浮かべて書いた。

 懐かしい顔、心配な顔、幼き頃の顔しか浮かばぬ人など、長い人生で出会ったり、仲間として働いたり、よく遊んだり、議論したり、笑顔や怒った顔も時々思い出しながら、手は疲れるが楽しいひと時を一生懸命浮かべながら書き綴ったのである。

 北は北海道根室から南は沖縄に至るほぼ全国都道府県に友人、知人がいるので、郵便番号も00台から99台まで数字を赤く囲った四角の窓にちゃんと書くのも大変であった。

 なにせ書き続けて疲れた右手は、思うように動かない時も出てきて、書いているつもりの文字が自分でも読みづらい、けったいな文字に変貌してしまっていることがあって、白い修正ペイントで塗りつぶして書き直しも必要だった。

 五種類に及んだイラスト、レイアウトの年賀状はたぶん初めてだと思うが、誰にどのデザインで送るかも、咄嗟の判断、嗜好で選ぶので相手方に「気持ち」を直にちょっとでも伝えれるようにと工夫したつもりである。

 今午後8時、ほとんど書き終えて、今日のブログに取り掛かったのだが、まだ宛名不明や出したい人の詮索が続いている。

 明日は大晦日。賀状を全部投函してから、実家の母と年末最後の墓参りに出かける予定である。



 
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クリスマスの訃報。

2008年12月28日 | 感じたこと
 「飯島愛」という元タレントが亡くなっていたというニュースがテレビを駆け巡った。

 バラエティ番組を中心に陽気であっけらかんとしたキャラクターとしてタレント活動していた彼女のテレビを通じての姿や言動は見聞きしたことがあったが、昨年突如芸能活動を引退して、どうしていたかなどは知る由もなかった。

 東京のど真ん中の高層マンションの最上階の家賃が月100万円という住まいにひとり暮らしだったというのだが、2001年に自叙伝的なエッセイ集「プラトニックラブ」がベストセラー本となりも約150万部売り上げたというのだから、相当な著作権印税の収入があったのだろうが、私たちの金銭感覚では想像できない競れ部な生活をしていたのだろうか。

 とは言っても、最近の彼女の心身の変化は「落ち込んでいた」らしく、関係者、彼女自身のブログなどからも、その傾向は結果的には読み取れたという。

 「飯島愛」という元タレントなのだが、彼女が若くして一人の人間としての死を迎えるにあたっての心境は、誰とて知る由もないのかもしれないが、どうも精神安定剤と思われる薬の大量の飲みすぎによる死去という推察が今のところされているみたいである。

 私自身は、彼女に特別な関心や興味を持つものでは決してないのだが、こうしたテレビを通じてのタレント業を生業にしていた人たちにある、ひとつの虚像と自分自身という生の人間性との間にある「ギャップ」が彼女を死に至らしめたような気がしてならない。

 すなわち、飯島愛という女性が本名かどうかも知らないが、高校生の時に家出をして、転々としてAVビデオの女優や水商売にも足を突っ込んで、いろんな派手な稼ぎの職業につきながら、ひとつの成功といえるのかどうかは判断しがたいが、有名な存在になって、晩年は「テレビタレント」として活躍したことは事実である。

 しかし<その「飯島愛」という私たちが知る一部の「虚像」が、果たして本人自身の実像と一緒だったかどうかは全く知る由もないのである。

 つまり、彼女が「飯島愛」を演じ続けることに「疲れた」のでせはないだろうかと私は推察するのである。

 私たち凡人にあっても、他人との人間関係の中で、自分自身という「弱さ」や「しんどさ」を素直に表したり、本心を語ることの難しさの中で、「まぁいいか」と言った軽い感じで、相手や他人のイメージを放置しながら、いつの間にか「自分に対する特定のイメージ」が定着していて、「あれ自分らしくない」と感じる様な「自分を演じて」しまっている時があるのではないだろうか。

 結局、人は自分という個性やキャラクター、資質に対して一番よくわかっている様に見えて、実は自分自身のアイデンティティと正面から向き合ったり、しっかりとした自分らしさを確認できずにいる場合も多いのではないだろうか。

 つまり、自分らしさを求めつつ、他人がイメージした「自分自身の虚像」を半身半疑ながら、知らぬ間に自分として演じつつ、ある時、本来の自分らしさとの大きなギャップを埋めることが出来なくなって苦しんだり、落ち込んだりはしていないだろうか。

 自分らしく生きることの難しさ、素直に生きることの大切さを改めて気づいた。
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クリスマスの初体験。

2008年12月24日 | 季節の話題
 Merry X'mas to You !!!

 みなさん、クリスマスおめでとうございます。

 静かに楽しいクリスマスを迎えられましたか。

 私の今年のクリスマスは、なんと「初体験」な出来事がありました。


 22日の日は、小学一年生の孫のK君の二学期の終業式でしたが、「伸び行く記録?」という「通信簿」をもらって帰ってすぐに、私たちと共に「クリスマスプレゼント」のひとつとして、大阪のUSJ、すなわち「ユニパーサル・スタジオ・ジャパン」へ行ってきました。

 どうも、銀行の「UFJ」と紛らわしい名前なので、何度も「ユーエフジェー」と間違いつつも、初めての近場の大型アメリカ資本のテーマパークに出かけたのでした。

 今まで「東京ディズニー・ランド」にも一度も行ったことがなく、家人も機会あるごとに「一度も行ったことがない」と言っていたので、JRの車内のつり広告で見た「ナイトパス」、つまり割引半日入場券で入場する「初体験」を試みたのでした。

 当日は、K君の終業式が終わって昼食後、車で迎えに行って、最寄のJR駅から学研都市線京橋経由、環状線、ゆめさき線で「ユニバーサル・シテイ駅」へと始めての孫との電車の旅となりました。

 約一時間余、7歳になったばかりのK君は、ずっと学校のことを中心にお喋りを展開し、誰に似たのか「お話」は、延々と続き、あっという間にUSJのゲート前に到着しました。

 何の予備知識や資料もなく、突然初めてのテーマパークに3時過ぎに入場し、さて何からどうして見たり体験したりしたらよいのかわからないまま、スタッフに聞きながら「待ち時間の少ない」アトラクションや乗り物を探して、場内を行ったり来たりし、「オズの魔法使い」「バックドラフト」「ET」「セサミ4D」「ピーターパン」と見学、鑑賞、体験しました。

 その間約5時間半のUSJ体験で、スナック菓子や飲み物、ちょっと早めの夕食と飲んだり食べたりしながら、30分以下の待ち時間のコーナーばかりを探して楽しみました。

 すばらしく美しく大きなクリスマスツリーの点灯とファンタジーあふれるミュージカルショーも見て、帰路につくころにはK君はすっかり「おねむ」の様相でした。

 23日から24日にかけては、昨年同様に内モンゴルからの留学生である、パオ兄妹とのクリスマスを楽しむために、単身で名古屋に一泊旅行してきました。

 名古屋市内を彼の自宅、妹の下宿、大学なども見学しながら、羊肉の寄せ鍋を囲み、カラオケ、岩盤浴を含むスーパー銭湯と、レンタカーを借りた彼の運転と私がハンドルを握りあっちこっちへ走りました。

 夜は積もる話を彼と交わしながら、早朝のバイトに向かう彼を栄に送ったり、彼女の大学の先生とも歓談できました。

 今年のクリスマスは「USJ」と「岩盤浴」の初体験をし、イブの夜は静かにディナーとケーキに舌鼓をうちました。
 
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M1グランプリ。

2008年12月21日 | テレビマスコミ
 もうすぐクリスマス。我が家の孫たちに届けるサンタのクリスマスプレゼントがようやく大分県日田市から届いた。

 二十数年前に知り合った友人とだんなさんが木工玩具の製作をしているので、久しぶりに下の孫の誕生日にプレゼントしようとカタログ送付を今春に頼んでいたのだが、なんと忘れられていて12月初旬に再度依頼して、急いで製作してくれた作品が届いたのである。

 今の子供たちは本当に幸せいっぱいで、両親からのクリスマスにプレゼントを「サンタの贈り物」としてもらうことが多いだろうが、お正月には「お年玉」と称する現金収入を見込んでいる子供も多いはずである。

 私の子供時代にはクリスマスプレゼントをもらった記憶はほとんどないのだが、ひとつだけ思い出したのが、何年生の時だったかは忘れたが、大好きな野球にちなんだ「野球ゲーム盤」をもらった記憶だけがよみがえってきた。

 あのパチンコ玉より少し小さな金属ボールをピッチャープレートの上に置いて、バネ仕掛けの手動のスタートで投球すると、磁石が下に備わっていて、カーブ、シュート、そして落ちる玉を選択して投げられるという、その当時としては画期的な「野球ゲーム盤」で、何年も遊んだ記憶が一番であった。

 話は全く変わるが、いい年のおっさんになった今、特にクリスマスプレゼントをもらうあてはないが、今晩テレビで放映された漫才の「M1グランプリ」だけは愉しみにしていた。

 昨年の第七回のM1グランプリでは、それまで全く知らなかった「サントイッチマン」の二人が敗者復活戦から勝ち抜いて唯一決勝に出てきて、そのままの勢いで1000万円賞金のグランプリを獲得するという大金星という、スターダムにのし上がったことは記憶に新しい。

 今年の第八回は、昨年僅差で準優勝のキングコングかノンスタイルかと下馬評では思っていたのだが、決勝トーナメントというべき九組の漫才を七人のベテラン審査員が点数評価する予選で、なんと「キングコング」は敗退してしまい最後の三組には残れなかったのである。

 敗者復活戦を勝ち上がった「オードリー」と「ノンスタイル」と「ナイツ」が最後の決戦の二度目のネタで勝負をして、一番面白かったコンビを七人の審査員が選んだ結果は、「ノンスタイル」が5人、「オードリー」が2人という圧倒的な評価で細身の石田君とちょっとがきっぽい井上君のコンビの「ノンスタイル」が栄冠を獲得した。

 どうもオカマっぽくて白いジーンズの細身の石田と頭ボサボサの黒っぽい井上コンビが結成8年目で待望のM1グランプリを圧倒的な勝利で飾ったのである。

 昨年の「サンドイッチマン」の様な今後の活躍と「面白い漫才」を続けて私たち聴視者に聞かせてくれるかどうか、早速年末年始のテレビを中心に楽しみたいと思うのである。

 「お笑い好き」の私にとっての「ささやかなクリスマスプレゼント」であった。
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コンビニのサービスとは?

2008年12月18日 | 感じたこと
たわい話と言えばそれまでなのだが、今回のお話は「ローソンかセブンイレブンか」なのである。

 今やコンピニエンスストア、つまり「コンビ二」がある風景は町の目印であったり、便利なトイレであったり、ちょっとした買い物場所であるばかりか休憩所にもなっている。

 私が知っているだけでも、大手のコンビ二チェーンは、セブンイレブンを筆頭に、ローソン、ファミマ、サークルKサンクス、AM、PMなど多種多様であり、全国、いや全世界に出店を展開している国内資本のチェーン店もあり、外資の日本上陸も近いかもしれない。

 その「コンビニ」について、たまたま面白い話を聞いた。

 ある中年の奥さんは近くにあるコンビニを何かにつけて利用されているらしく、家の近くの等距離にある、セブンイレブンとローソンを必要に応じてよく利用されているという。

 ある朝、同居されている弟さんが早朝の仕事で家を出られて、近くの最寄の駅へと彼女が車を運転して送ったのだという。

 まだ暗い朝の5時頃だったという。

 駅に送り届けて家に帰られたのだが、あわてて家を出たために自宅の玄関の鍵を持って出てなくて、同じく同居しているおばぁちゃんが物音に気づいて玄関の鍵を内から閉めてしまって眠りについていたというのである。

 なんども玄関のドアを叩いて、家にいる家族に知らせて玄関の鍵を開けてもらおうと試みたが誰も自室に入り込んで眠っているみたいで寒空の下で彼女は困ったのだという。

 当然、お金も携帯電話も持たずに家を飛び出していたので、「そうだコンビ二がある」と気づいて、まず近くのセブンイレブンに行ったのだという。

 24時間営業の店には客はまだいなくて、アルバイトのお兄ちゃんがカウンターのレジの前にいたので、事情を話して「電話を貸してほしい」とお願いしたというのである。

 彼は「お客様には店の電話は貸せません」と断るので、オーナーに尋ねて許可を得て貸してほしいと再度要望すると、彼は奥に引っ込んでオーナーに確認したというのだが、返答は変わらず「ダメだ」とのこと。

 彼女はお得意さんでもある自分が困っている時に、少しでも助けてくれるのがお店ではないかと懇願したが、返事はやはり「NO」であった。

 やむを得ず、反対方向の「ローソン」へと来るまで走って、同様の要望をすると、すぐさま「OK」が出て、自分の家へ電話して家族が目を覚まして鍵が開けられ一件落着したというのであった。

 どうもセブンイレブンの対応が気にいらなかったために、そま後再び足を運んでオーナーに一部始終を話したところ、店主は「申し訳なかった」と謝られたそうだが、困った人をサポートできるのも、コンビ二のサービスではないかと感じた。

 「子ども110番」とか、「緊急連絡所」とか記してあっても、肝心の多様な要望や緊急時に、どの様に対応できるか。

 少しでも困った人を助けられるかが本当のサービスではないだろうか。

 
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社会が欝状況。

2008年12月17日 | 日本の課題
 ここ数ヶ月の間に急速に日本全土が「社会的うつ状態」に陥ってしまったみたいである。

 急激なアメリカ経済の冷え込みに端を発した世界的金融危機が、日本人特有の「欝症状」を加速させて、日本中が社会的欝状態になっている様である。

 リストラ、解雇、派遣中止、年金記録の改ざん、各種手当不払い、雇用保険の不適用、社宅退去命令、内定採用中止、健康保険料不払いで病院に行けないなど、多種多様な行き詰まり状態に陥って、「プチうつ」状態だった人たちが完全なうつ病、精神的不安の極致に陥ってしまった。

 目に見えない「社会的欝」の嵐が、この年末から新年にかけて烏合の衆のごとく日本列島に当たり前の症状として確認されるという異常事態が迫っている。

 なのに、麻生首相は「解散、総選挙より緊急経済対策」と豪語していたのに、まったく言葉だけで、第二次補正予算も、来年の臨時国会まで棚上げしたまま、国会議員や政府官僚はぬくぬくと年を越そうとしている。

 この経済危機をモロに被って年越しもままならぬ失業者たちとは裏腹に、彼ら官僚や国会議員には12月10日に多額の「冬のボーナス」が支給されて、彼らの財布は庶民の苦しさや節約とは縁遠いホクホク状態なのである。

 日本の「経済格差」は、富める者は益々経済的には裕福となり、貧しいものは益々貧乏になるという社会構造と共に、モラルなき社会性に特異な厳しさが潜んでいる。

 今夏旅したインド、ネパールでは、確かにカースト制度も起因して貧しい人々が多くみられる状況ではあったが、中産階級を中心とした富める国民たちが自分たちの役割として「貧しい人々を支える」という習慣と言うべきモラルが自然のごとく存在していた。

 私が北部インド地域を移動した経験では、夜行列車に多くの貧しい人々が車内にやってきては、乗客に「金や食べ物」を強請るのであるが、列車に乗って移動できる経済力のある人々は、各々可能な援助をさらりと施す習慣とでも言うべき行動をとっていた。

 路上でも多くの「物乞い」や「乞食」が一日中座って、通る人々に器を差し出して願うのを日課としているみたいだが、必ず観光客や地元の人々も日課のように、そうした人々に援助の何がしかの物と金を与えていた。

 日本人は経済的「分け与える」精神に欠けているのではないだろうかと思えるほど、この「経済的格差」を補う知恵がなさ過ぎて、公的支援や制度に頼らざるを得ない現状がある。

 上から目線ではなくて、あるものを分かち合う「互助精神」での助け合いを、もう一度考え直して、物心両面での隣人へのサポートが必要な時代に突入していると言えよう。

 社会が欝状態に陥った感のある現代日本では、みんなが声を掛け合い、助け合う日本古来の「相互扶助」の精神の再現でしか明るい未来は見えて来ないのではないだろうか。

 地方自治体、政府がそうした「相互扶助精神」を奨励し、具体的サポートをしてほしいと願うものである。
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生活不安の年の瀬。

2008年12月16日 | 世界の問題
 米国のサブプライムローンの破綻に端を発する「世界的金融危機」とやらが大きく影響を及ぼす形で日本経済にも影を落とし、1974年の石油ショック以来の大企業、製造業の業況判断指数が悪化している。

 ここ数ヶ月、テレビ、新聞を中心とするマスコミ各社の論評も「景気が坂道を転げる様に落ち込んでいる実態」をいろんな業界からの報告や町の声として報道してきた。

 その中で、日本を代表する主要自動車や電機会社などの大手企業の減産に伴う売り上げの下方修正が相次ぎ、雇用カット、下請け受注の発注減、臨時雇用や派遣労働者の失業が現実化し、緊急事態となっている。

 この煽りが大きく続けば、中小企業の倒産や人員の大幅カットによるリストラが急速に増して、日本経済は「本当の極寒」を迎えることとなろう。

 大企業、製造業の業況判断指数と言われるDIが日銀短観によれば、第一次石油危機の1974年8月の26ポイント下落のマイナス16と比較すると、本年12月が21ポイント下落のマイナス24だとのことで、まさしく「石油危機を超える」影響が出ているといえよう。

 トヨタの95万台余の減産、期間従業員6000人カットをはじめ、ホンダ、日産、スズキなどの自動車メーカー各社とソニーのテレビ100万台、デジカメ200万台減産と世界で正社員、派遣社員など1万6千人以上の削減など、東芝、NEC、シャープ、日本IBMなどの電器各社の減産、人員削減も相次いでいる。

 日本の製造業は1ドル88円にまでになった円高状況の中で、瀕死の重傷とも言える危機的状況下にあり、これだけのリストラ、生産調整をしても多額の赤字決算が否めないという。

 こうした日本経済の失速状況の中でも生きていかねばならないのだが、この年末に突如パートや臨時採用を解雇された人、派遣先から「今月いっぱいで」と打ち切りを宣告された人などが多数出ている模様である。

 しかし、各地のターミナルの繁華街や大手スーパーなどのショッピング街に行くと人出は多くて、銀行などのATMの前では十数人が並んで現金の払い戻しを待っている。

 どんな経済状態が悪化し収入は減っても、日常生活の日々の食事や普段の日用品の買い物は必要なので、当然の如くに必死の生活を守ろうと躍起になっているといえよう。

 表面的には公務員や大手企業のボーナスが出て、町はクリスマス、年末セールに入った商業ゾーンの一部だけは賑わってはいるが、先行き不安でどうも暗いムードが背景には潜んでいる感じになってきた。

 特に、貯金や財産が少ない多くの庶民にとっては、仕事がなくなり収入が途絶えることが一番厳しいのだから、とにかく健康に元気に暮らせるようにしなければなるまい。

 健康でさえあれば、仕事の取捨選択を厳しくしなれば、なんとしてでも生きてはいけるのである。

 「健康ありき」の生活防衛を心がけようと思う今年の年の瀬である。
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ブッシュの終焉。

2008年12月15日 | 世界の問題
 昨日は新聞休刊日だったのでテレビニュースで知ったが、ジョージ。ブッシュ米大統領が突然4度目のイラク訪問をし、イラクのマリキ首相と記者会見を行っている最中に、地元イラクの独立系テレビ、バグダディアのムンタダール。ザイディ記者から靴を投げられたのである。

 突然の靴投げに対して、ブッシュは余裕で見事に二回とも当たるのを避けた逃げ方の上手なこと、隣のマリキ首相は最初の靴投げでは全く動じず直立不動のままだったが、二回目は何とか手を出して払い落とそうとしていた。

 この「靴を投げた」行為そのものに対して、イラク国民は喝采を送り、中には英雄視するものさえ現れているらしいし、中国でも「よくやった」とメディアで評価されているという。

 あの忌まわしい「イラク戦争」を仕掛けた張本人であるアメリカ大統領ブッシュに対して、共同記者会見場で、「犬め」と罵って、最大の屈辱的行為の一つである「靴投げ」をした行為に地元メディアは「英雄的行為」と報道している。

 あの「大量化学兵器」を隠し持っているという妄想に端を発してアメリカが始めた「イラク戦争」だったが、イギリスも日本もオーストラリアも米国追従の姿勢で多額の戦費援助と国民が容認したか疑問だが最大級の軍隊の派遣を行った。

 日本も憲法解釈などという範囲を大いに逸脱して、イラク復興支援と称して多くの陸海空自衛隊を海外派兵して、大量破壊兵器の発見を目指す米英などの軍隊をサポートした。

 イラク本土が戦場となり、多くの民間人を含むイラク兵士が亡くなり、米兵の戦死者や復興活動中のテロなどによる死者も予想をはるかに超える犠牲者が出た。

 イギリスの首相もアメリカ大統領も、やむ終えず「大量破壊兵器」の存在はなかったことを認めざるを得なくなり、全く「大義なき戦争」となってしまったのだが、多額の戦費と多くの経済的損出と犠牲者と遺族、また帰還兵の精神的ショックなど、ベトナム戦争の二の舞と言われる「戦争とその後」となってしまった。

 しかし、ブッシュは自分の過ちは認めず、間違った情報の性にして、ぬけぬけと大統領任期を後一ヶ月を残すのみとなった先週に4度目のイラク訪問を敢行した。

 長年にわたるアメリカ合衆国の独断、偏見による戦争開始でフセイン政権は崩壊したが、果たしてイラク国民とイラクの発展に寄与したものが何かあったのであろうか。

 そんな戦争の悲劇の演出者でもあるブッシュ大統領に対するイラク国民、世論の怒りは死をも覚悟するほどのものだろうが、かわいく「靴投げ」で表現した勇気ある記者に拍手である。

 イラクでは最低の蔑みにあたる「犬呼ばわり」とイスラム教徒の「靴投げ」の屈辱をブッシュは、どのように受け止めただろうか。

 ブッシュ大統領の終焉のエピソードに過ぎないが、最後まで「ノー天気」なお馬鹿ぶりの世界のポリス、アメリカの大統領であったと記憶されるだろう。
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老母の誕生日。

2008年12月14日 | ファミリーイベント
 昨日のブログに90才で天寿を全うされて静かに美しく亡くなられた知人のご主人のおかぁさんのことを記しましたが、今日は私の実の母が満92歳を迎えるので、兄弟が寄って老いた母の誕生日祝いの昼食会をしました。

 母は大正5年12月18日に、岡山県井原市の醤油造りの商店の次女として誕生し、19歳で大阪に嫁いで以来、約70年余を大阪で生活しているのですが、約40年前に私の父が病死したため、一人暮らしでがんばってきました。

 昨年秋に姉や妹たちとも相談の上、実家に近い有料老人ホームに入居してお世話になっていますが、幸い至って元気で、耳が遠いことを除けば、健康に暮らしています。

 しかし、母の誕生日については二つの日があり、ひとつは戸籍上に届けられた大正6年一月一日であり、もうひとつが実際の誕生の月日である12月18日というのです。

 あの時代は、年齢を数えで語ることが常で、特に女性は「お正月を迎えると一つ年を取る」とのことだったので、両親が生まれてすぐに正月を迎えて二歳になってしまうことを避けるために、わざわざお正月1月1日生まれとして届けたとのことでした。

 母は、ずっとこのことを気にしていて、私たちは誕生日を迎える度に、「私の本当の誕生日は・・・」と教えられ、その経緯を何度も聞いてきました。

 その母が「私は幾つになったのかなぁ」と言う様な高齢となった今、私たち兄弟もすべて60歳を超える年齢となり、各々の連れ合いも幸い元気であるために、母を囲んでの誕生日祝いの会食を共にすることが出来て感謝感激なのです。

 母を迎えにお世話になっているホームに昼前に行くと、母はとてもすっきりした顔でロビーのソファでお茶を飲んで寛いでいました。

 「お風呂に入って少しノボセ気味の顔をしていましたが、機嫌よく身支度をして近くのターミナルの和食料理屋へと向かいました。

 先付けから始まり、食前酒、刺身、てんぷら、鯛のアラだき、煮物と次から次へと出てくるお料理を全部平らげて、美味しそうに満足げに笑っていました。

 とにかく92歳になるという老いた母ですが、食欲は旺盛で、「よく食べる人は元気」を地で行く健やかさでした。

 私たちは四人兄弟であり、その連れ合いであるご主人と私の妻を入れると8人が健康に恵まれて今に至っているのも、この元気な母の賜物だと思い、感謝の念でいっぱいで歓談しました。

 これからの寒さがます冬の本格的な季節、クリスマスから年の瀬、そして新年を迎える日々を「風邪をひかずに」元気に健やかに過ごしてほしいと改めて願いつつ、ホームの玄関口で何度も手を振る老いた母に別れを告げて帰ってきのました。

 「いつまでも元気でいてほしい母」の姿に見送られる私たちは、後ろ髪ひかれる思いでもありました。
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