ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

民主主義だろうか?

2013年01月31日 | 日本の課題
私たち戦後生まれの世代は、日本は民主主義国家として生まれ変わったと教えられ、その基本的ルールを定めた最高の規定が「日本国憲法」だと習いました。

 そして戦後も60数年が経ち、安部政権は憲法改正への必要性を徐々に語りつつ、国会での憲法改正に必要な可決条件の緩和、すなわち2/3以上の賛成ではなく、過半数の賛成で可能にしようと言いだしているのです。

 日本は本当に民主主義国家であると言えるのでしょうか。

 確かに地方自治体も国会議員も国民、有権者の投票によって選出されるという制度であり、間接的民主主義ならびに議員内閣制と言う形での政治家が討論、相談して物事を決めるという体制にはなっているので形式的には民主主義国家だと言えるのだろうと思います。

 しかし、その背景に潜む利害や意見の対立は、簡単に過半数つまり多数決という数の論理だけで決定していいのだろうかと思える物事もあり、本当に十分な議論や少数意見の尊重なども含めた「民主主義」の理想とはほど遠いと感じる実態があるように感じています。

 最近特に福島原発のメルトダウンという未曾有の原発事故に端を発っした「反原発」、つまり「原発いらない」という多くの住民の声を、何とか行政府である地方自治体や電力会社に届けようと、数多くの活動や運動が進められている中で、全国の原発立地の地域で、原発をめぐる住民投票をとの運動が展開され、その地方の自治体議会に対しての、住民投票をして下さいとの願いを込めて、署名活動がされて一定以上の署名が集約されて、知事あるいは首長の意見を添えて議会に提出されていたのにもかかわらず、全てが議会によって否決されているのが現状なのです。

 すなわち、住民の多数の方々が行政府である議会や首長が明確に示さない「原発の今後のあり方」などについて、明確な住民の意思などを尋ねようと試みているのですが、議会は一方的に住民投票の必要性を「いらない」と否定してしまっているのです。

 今朝のラジオで、皮肉まじりで隣の大国である中国は、世界のたくさんの商品だけでなく、ありとあらゆる物のコピーや偽もの作りが上手いが、民主主義だけは真似しようともしないし出来ないのだと言っていましたが、中国や北朝鮮の一党独裁や封建的な政治制度などを批判したりしているだけではなく、我々の日本がちゃんとした民主主義国家として、多くの住民、国民の民意が政治や行政にも反映できる可能性を、もう一度見直す必要性を強く感じています。

 政権政党が変わろうと、大手企業や既得権益的な事業が続いていても、住民、国民の将来への願いや夢を少しでも汲み取って、政治や行政サービスに活かせる様な手段や手法が、形だけで実際は取り入れられないという現実では困るのです。

 徳島の吉野川可動堰の住民投票による中止などの実績も一部にはありますが、長崎諫早湾干拓問題やダムは無駄と言うスローガンで一端は中止されていたダム工事、また大型公共事業や復興関連事業なども含め、本来ならば地元自治体や行政が住民の民意や願いを受け止めて、事業の是非を判断出来れば問題はないのただが、多くは地元の意思や想いとは関係ない利害や国が、工事の継続や予算の投入を決めてしまっているケースが多い様です。

 何でも反対意見を通せと言うのではなく、少数意見も含めて結論ありきの風土とも言えるような議会や行政の対応ではなく、謙虚に真摯に問題の重大さを指摘したりしている住民や専門家の意見にも耳を傾けて、議会や行政が自分たちの利や都合で「ノー」と決定するのではなく、じっくりと協議し、ものごとの是非を議論したり決定するという民主主義の有るべき姿を、もう一度模索しなければ、日本も隣の国を笑うことは出来ないのではないだろうか。
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借金まみれの予算。

2013年01月30日 | 感じたこと
 昨年の総選挙で自民党が政権政党に返り咲き、アベノミクスとか言う呪文の様な言葉が行き交い、政府は何と来年度予算総額92兆円を超えるという大型予算案を決定し、今国会での審議を経て「日本経済の再生」へ船出するのだという。

 新聞によると、安倍家の家計簿として、給料(税収)が年額431万、アルバイト代(税収外収入)41万円と併せて472万円なのに対して、支出が926万円になるという、とんでもない家計簿となっている。

 いくら国債発行費が税収を下回ったと言われていても、総額国債残高が750兆円になり、地方の借金を合わせると977兆円となるらしく、上記の家計簿の額で比較すると、約1億円近い借金がある状況で、さぞかし毎月、毎年の生活は不安に苛まれる「借金地獄」の様相を呈しているのである。

 こんな家計の状態をつくってしまった長年の日本経済の舵取り役だったのが、当の自民党の長期政権であり、今回再登場した安倍首相は、そんな責任なぞ何処噴く風の如く、「日本経済の再生!」を高々と掲げて、再び公共事業費を増額し、物価上昇を2パーセントに設定したインフレ目標を日本銀行と共に定めて、経済を上向きにさせて日本の復興を目指すのだと言うのだ。

 私はこんなバラマキ予算化で、簡単日本経済の復興などありえないと思うのだが、その根拠はともかく人口の減少傾向が、ここ数年続いていて、少子高齢化の社会が日本の現状なのにも関わらず、バブル経済の時代をもう一度ではないだろうが、日本経済を右肩上がりに浮上させようとすること自体が非常に無理なことではないかという根本的な疑問を抱いているのである。

 すなわち、国際社会での中国、ヨーロッパ経済などの不調ぶりの影響と、日本を取り巻く輸出産業の低迷は、ちょっとした金融緩和や予算での財政出動などの刺激だけでは回復するはずもなく、つまり経済の担い手である人々の消費や収入が低下しているだけでなく、もの余りや消費物資が足りている感の強い現状の中では、小さくなっているパイを如何に上手に分け与えるかが問題であって、従来のように「イケイケどんどん」というわけには行かないのが当然なのである。

 若年層は将来の年金なんか貰えないだろうとの不安もあり、年金保険料も払いたくなかったり、車や家をほしいとも思わない人が増えているし、ましてやそれなりに自分自身が健康で働けて食べて行ければ、結婚して家庭を持つことすら期待しないという若者が増えつつあるのである。

 一方、私たちも含めた中高年齢層の健康志向と長寿化はますます助長していて、年金、福祉、医療費を中心とする財政的負担は間違いなく年々増加するのは避けられないので、若者たちは一層国や自治体に対しての支援や将来的期待を持とうとはしていないのである。

 そうした長いスパーンでの日本の年代別人口構成を見据えた上で、その場凌ぎの財政出動や大手企業を中心とした財界の期待に応える様な施策を出したとしても、一般庶民である我々の財布や周辺には「財政再建」や「経済復興」などは絵空ごとであり、実感の伴わない「空手形」の様な空虚感しか感じないだろと推察している。

 確かに経済は大切な要素ではあるが、私たち庶民にとっては如何に日々を家族を中心として憩い、和み、友人、知人とのコミュニケーションを大切にしつつ、大きなチャレンジではないだろうが、心温まり、生きていて良かったと実感できる機会を自らが少しでも演出したり、出会いと行き来を大切に関わって行けるかであると信じている。

 ここ数ヶ月間の国会審議や報道を見守りつつも、私は自民党だけでなくお国に期待するのではなく、自らが信じる生き方を与えられた健康を維持しつつ、日々の喜びを大切に生き続けたいと願っているのである。

 アベノミクスなどと言われる呪文の様な言葉に騙されたり、期待したりすることはやめて、堅実かつ有意義で楽しい日々を暮らす知恵と経験を大切に生きたいと思うのである。
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京都に住んで35年。

2013年01月27日 | 地域の話題
 大学二回生の半ばから生活の場を京都市北部の比叡山の麓のような寒々した当時の岩倉の学生寮にしていたので、大阪生まれの大阪育ちの私の京都住まいは、あくまで同僚や先輩たちの交流の場としての居場所であり、それほど生活実感が伴わない期間であった。

 当時の大学は学園闘争や反安保の学生運動などが盛んな時期であり、私のような大阪の人間にとっては意識はしていなかったけれど、京都は仮の住まいにすぎなかった気分であった。

 それから現在の京田辺市に住居を構えての生活が30数年経った今、最近特に自分の人生の半ば以上の期間を京都で暮らしているにも関わらず、やはり自分の心根は大阪人であり、特に言葉は大阪弁が主流であり、どうも京都弁といわれる京ことばは苦手であり、どうもしっくりと身につくところまでは全然達してはいないのが実感である。

 でも、お付き合いする人たちや出会った特にご年配の方々と話していて、最近とみに「京ことば」の良さというか、とても感じのいい表現や言葉文化を感じる機会が多くあり、ちょっと「京ことば」について考えてみたく思ったのである。

 そのきっかけは、京都市内に生まれて現在は川向こうの隣町にお住まいの老夫婦の奥さん、おばあちゃんとの会話からであるのだが、先日の「つめとおすか?」にはじまり、先週は最近使われている「ほっこりした」という言葉の使い方が違うという意見を仰っていて、つまり「ほっこり」とは、暖かいという様な意味ではなくて、「ほっとする」というのが京都ことばとしての意味なのだとの指摘であった。

 世間ではよく京都の人に「ぶぶづけでもどうどす?」と帰り際に聞かれた際に、茶漬け(ぶぶづけ)を本当に遠慮なく食したならば、「やぼなおひとやわ」、つまりわからん人だと内心では批判されるというのだが、最近はめったに「茶漬けでも食べてお行き」などとは言われないし、若い人たちの間では、決っして悪いようにしか使われないとでも言う感じである。

 「いまどき、そんなん言う人なんか、おらしまへん」と言われるのだが、やはり京都ことば独特の「婉曲的」とでも言うべき「いじわる」な表現はいまだに生きていると感じる場合もあるのである。

 「きばっておくれやっしゃ」「おきばりやす」、がんばって下さい。
 「てんごいわはったら、あきまへんぇ」、冗談を言ったら駄目ですよ。
 「はばかりさん」「ご苦労さん。トイレのこととちゃいますで。
 「おいといないと思いますけど」お金にこだわらないと思うけど。
 「お門ガひろおすノニ」、お付き合いがたくさんあるのに、丁寧なお返しをいただき恐縮です。

 などと、いろんな言葉が現在も生きていて、ちょっと聞き流してしまうと、何のことやら、ひょっとしてら逆の意味にとってしまいそうな言葉もあって、丁寧かつ上品な感じの言葉が多いのだが、中には「意地悪な」感じの言葉もまじっているので、じっくりと聞いた上で、わかりにくかったら、聞きなおすくらいの方が失礼がないかもしれない。


 実は大阪弁と京都ことばは隣りあわせの行政区なのだが、やはりニュアンスが全然違っていて、たとえば「乗ってますよ」という標準語が、大阪では「乗ってまっせ」「乗ってんで」となり、京都では「乗ったはる」「乗ったはるぇ」となり、標準語で「~されているの?」と尋ねる場合は、大阪では「してはんの?」「~してんの?」だが、京都むでは「~したはるの?」「したはんの?」となるのである。

 ともかく、大阪弁の方が直接的で私にはわかりやすいのだが、京都ことばはわかりにくいと感じている。

 ちょっとでも京ことばを理解できれば、「ほっこりする」のである。

 
 
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久々に涙しました。

2013年01月23日 | イベント
 小津安二郎に捧ぐという形で、山田洋次監督がメガホンをとった「東京家族」を観た。

 一昨年の東日本大震災と福島原発の事故と言う未曾有の大災害に見舞われたために、クランクインが一年延期されて、昨年ようやく再スタートを切って撮影されたという作品なのだが、最近少なくなった日本人と日本の家族をテーマにした秀作として完成したというので、妻と映画館で鑑賞したのである。

 平日の夕方のシネコンは、まるで中高年の同窓会のようで、あちこちの席は自分たちも含めて、定年後の夫婦やおばちゃん、いやおばぁちゃんたちの大集合であった。

 山田洋次監督と言えば、先日亡くなった大島渚監督と同期で松竹に入社したという監督なのだが、大島監督とは全く異なって「寅さん」シリーズや「幸せの黄色いハンカチ」「学校」「おとうと」など多くの家族や日本人としての人間の姿や思いを映画化してきた人で、今回は監督生活50周年という記念の作品として、小津安二郎の名作「東京物語」(1953年)をモチーフにした現代版「東京物語」として製作されたらしい。

 ちょうど60年前の小津作品は白黒映画で笠智衆と原節子が主人公だったと思うが、私はちゃんと見た記憶がなく、今回の作品で橋爪功が演ずる夫平山周吉が妻の吉行和子演ずる平山とみこを亡くした後、広島の自宅の居間で爪を自ら切るシーンが、妻に言わせれば小津の東京物語では笠智衆が演じたシーンとほぼ同じイメージに映画化されているらしいのであった。

 「東京家族」の主なストーリーは、広島に住む老夫婦が子供たちの住む東京へと出て行き、医者の長男家族と美容院を営む長女夫婦、そしてフリーターのような仕事を続けている次男の三人の子供たちの生活を垣間見ながら、それぞれの生き方、そして将来を考えたり話したりするくだりがあるのだが、老夫婦にとっては一番心配な妻夫木聡演ずる昌次の狭いアパートに一泊泊まることとなった母親のとみこが息子の彼女を紹介されて、とてもいい娘さんだと喜び安心した翌日の夜、長男家族の家で突然倒れて救急車で入院し、帰らぬ人となってしまうのであった。

 蒼井優が演ずる間宮紀子という書店で仕事する彼女と出会った母親はとても嬉しそうにしていたのだが、父である周吉には息子昌次の口から話すすべきと言うことで、その晩も夫には話さないまま亡くなってしまったのだが、葬儀が終わった広島の実家で仕事を休んで数日間、一人ぼっちになってしまった周吉の世話をする紀子に、父親は初めて息子をよろしくと挨拶し、亡くなってはた妻の形見として長年称していた腕時計を手渡すのであった。

 やはり、山田洋次監督の脚本と演出は、今の日本映画界にあっては秀逸であり、案の定涙を余儀なくされてしまったのであった。

 主人公の老夫婦の子供たちとして、長男の幸一夫妻はは西村雅彦と夏川結衣が演じていたが、長女の美容院を自営する夫婦は、あの北の国からで蛍を演じていた中嶋朋子と落語家林家正蔵がキャスティングされていて、あのじゅんと共に北の国で好演していた中嶋朋子も、立派なおばちゃんを演ずる年齢になっていたことと、髪結いの亭主とでも言うべき林家正蔵は適役だったと感じた。

 夫平山周吉の仕事仲間だった沼田三平役の小林稔侍と居酒屋の女将役の風吹ジュンもいつもの変わらぬ演技で年を取ったなぁと感じながら、自分を取り巻く老いた母たちや娘や息子たちんから見た我々夫婦の今後や、世の中の今から老夫婦になりつつある団塊の世代や現代の高齢化社会を改めて思わざるを得なかった。 
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大島渚監督の死。

2013年01月16日 | 感じたこと
 大島渚、映画監督だが、多くの現代の若者にはテレビで毒舌を放ち、朝まで生テレビ出演の折には、討論に参加した相手を「馬鹿もん!」
と怒鳴りつける、ちょっと変わった豪快な親父と言ったイメージであっただろう。

 96年に「御法度」の製作発表後に脳梗塞に倒れた後は、奥さんである女優の小山晶子さんの介護とサポートの元でリハビリに精を出しておられて、常に次回作を胸に抱いておられた様子であったが、残念ながら叶わずして天上の人となられてしまった。

 私たちの青春時代に強烈なインパクトを持つ映画監督として登場したのが、桑野みゆきさんと川津祐介さんが主演した「青春酷物語」であり、当時ヌーベルバーグと騒がれた社会派的テーマと斬新かつ裸体をも表現する手法での作品製作で、篠田正浩、吉田喜重監督と共に松竹の一世を風靡したことは記憶に鮮明である。

 実は、私にとって一番強烈な印象を持つ映画の一つとして、大島渚監督の「絞首刑」という作品があり、たぶん大学3回生の時に観た記憶が鮮明なのだが、在日韓国人の死刑囚が、絞首刑を受ける前に「国家権力」による殺人とも言える「死刑」という刑罰に対して、「国家て、権力」とは?と自問自答するのだが、暗い刑務所の独房から明るい屋上に出た際に、あまりの太陽の日差しに主人公がたじろぐ場面があって、「それが国家権力だ」との声が聞こえたのであった。

 当時、学生運動や反安保闘争などの街頭闘争が盛んだったのだが、大きな衝撃とでも言うべき「国家権力」というテーマを、この映画を通じて意識させられたという深い思い出になっている。

 それ以来、大島渚の話題作はほとんど観ていなかったのだが、あの美しい旋律のメロディーが多くの人の脳裏に残っている「戦場のメリークリスマス」は見た。
 
 第二次世界大戦で捕虜となった日本兵としてビートたけしが出演していて、この名曲を作曲した坂本龍一も出演していたのだが、実は最初のキャスティングでは、この坂本龍一が演じた日本人将校の役は、何故か秋田のフォークシンガーで、とても訛りのきつい「友川かずき」だったらしく、あまりにも訛りが酷く矯正しようとしたら、友川が辞退したらしく坂本自身に変更されたと聞くと、大島が出演者として友川を選んだきっかけを知りたいとも思うのであった。

 ともかく、反体制的な主張の言動を常に語る監督としての社会的影響は大きく、その後のテレビコメンテーター的な出演やタレント的活動でも、その片鱗は見せていて、体制擁護やスポンサーのご機嫌を取る様な言動でテレビやメディアを泳いでいる感じのタレントさんたちが多い中では、間違いなく異彩をはなっていたのである。

 現在は、あまり反体制とか社会派とか称される映画監督が少なく感じているのだが、大島渚の映画づくりへの情熱や意欲を受け継ぐ作り手が現れることを強く期待して、彼の冥福を心から祈りたいと思うものである。
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体罰自殺の背景

2013年01月15日 | 感じたこと
 昨年12月に大阪市立桜宮高校の男子バスケット部のキャプテンだった高校2年生がクラブの顧問の度重なる体罰を苦に自殺した問題から、多くのテレビ、新聞マスコミを中心にいろいろと騒いでいる。

 そんな中、一年数ヶ月前に同じ高校のバレー部で起きた体罰についての校長への直訴で、指導教官が三ヶ月の懲戒休養の処分をされながら、その後同じバレー部の顧問として復帰し、再び昨年11月に部員に体罰を加えていたことと、バレー部部員が克明に記録した教師の体罰のリアルな実態が明らかになっている。

 そんな報道の中に、そのバレー部顧問の休養中の研修を一任された前校長が、一冊の本を読ませて感想文を書かせただけで、十分な研修ではなかったかもというコメントを語っていた。

 まるで、本当に他人事の如く語る関係教師や校長、そして教育委員会の連中の頭の中はどういうことになて、っているのだろうか。

 彼らの大半は、とんでもないことが発覚してしまって、自分たちまで巻き添えをくらって大変迷惑しているという感じであり、ちっとも当事者としての責任や自殺した当事者の死に至るまでの悲壮な思いを想像することすら出来ない輩ではないかとさえ思うのである。

 この事件に関してだけではなく、多くの教育現場でのいじめや差別、体罰、生徒への暴言など、教師としての立場や職業的習性からか、多くの教師は、身の保身だけを考えて行動し発言する人間と化していると言っても過言ではないと思われるほど、ひどい状況に馴れてしまっている人たちの集団となっていると言えよう。

 随分昔の体験ではあるが、私が子どもたちの遊び場活動のリーダーとして仕事をしていた頃だったが、私の子供も通っていた地域の小学校の地域懇談会に一度だけ参加した時のことである。

 あまりにも、先生方が子供の視点や子供たちの気持ちを十分理解をしないで、叱ったり指示したりされることが多く、もっと子供たちの個性や性格を重視して丁寧に関わっていただきたいとの趣旨発言をしたら、教務主任の様な先生が、「お父さん、先生方は一生懸命されているのですから、そんなこと言わないで下さい」と言われたので、呆れてものが言えなくなった記憶が鮮明に今もある。

 つまり、多くの先生方は自分たちと同僚の先生方の悪口や批判をされても、一法的にかばったり否定したりして、物事の真実や事実を見たり確認したりはせずに、うやむやにするか無かったことにするのである。

 教育委員会という実際は、小中学校をはじめとする教育現場を行政の立場から指導、監督すべき役所の部門、しかも政治的関係から独立した専門分野の職員で構成されているはずの部署のはずなのだが、実際は先生たちの出向や元校長や教師の定年後の受け入れ先の様になっていて、真摯な態度で、しかも子供が主人公だとうたいながら、子供たちの目線や心や体を見守る視点が多くは欠けている行政の「吹き溜まり」とも言われている状態のところが多いのである。

 しかし、元教師であったり校長であったというプライドや自信だけは失せていない傲慢な人間が多く、自分の職責に傷がつくことだけを恐れていて、たいていの問題に対しては、秘密にしたり黙認したり口封じすることを職責だと勘違いしている人がたくさんいる部署なのである。

 私の地域の中学でも、かつて管理教育華々しい時代には、生徒の鼻の骨を折る暴力教師や女生徒の髪の毛が長いとして、隣町に強制的に連れて言って「おかっぱ」に断髪させたり、挙句は飲酒運転の末、専門学校生徒らのバイクを跳ねて死亡させても、数ヶ月の謹慎後教壇に復帰し、現在も何食わぬ顔で管理職を務めている教師すらいるのである。

 体罰、暴力教師に関わらず、研修や謹慎処分などては、人間としての人格や病気とでも言うべき性癖は変わらないと思うので、教師としての失格者は教員免許更新を停止するべきだし、暴力やセクハラ、不良教師は学内や教育委員会処分ではなく、逮捕し刑に服すべきである。

 
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マスコミの批判のなさ。

2013年01月12日 | 感じたこと
 昨年12月の総選挙での自民党の圧倒的勝利により首相に返り咲いた安倍普三自民党総裁の言動や立ち振る舞い、そして経済再生を掲げて政策推進などに、新聞各紙とNHK、民放各社の報道ぶりに大変な危惧を感じられずにはいられない。

 いよいよ具体的に動き出した安倍新内閣による政策推進は、民主党への政権交代による期待が大きく裏切られたとの国民の多くの失望感の中で、新政権は「経済再建!」とぱかりに大型補正予算と来年度予算を合体した15ヶ月予算を策定し、一応野党の一角を占めるはずの「維新」の橋下代表代行との会談を首相自らが大阪に赴いて実施し、維新の協力をも取り付けた模様だとの報道がされている。

 実際の会談の中身を全て知る由もないが、選挙告示前の野田首相の解散宣言以来の、大手新聞5社の選挙予測の見出しや社説、そして論調などを見るにつけ、ともかく自民党安倍新内閣の「イケイケどんどん」的報道が目立っていて、安倍内閣の危うさや憲法改悪、国防軍、徴兵制なども視野に入れた大変危険な右傾化に対する問題提起や批判的論調が急にカゲを潜めていると思える。

 新政権に期待するのは日本経済の再生、復興だとの期待が財界をバックに全国民の願いだと言わんばかりの大合唱となっていて、公共事業の拡大や自民党政権時代に利権をむさぼっていた大手企業や財界の一流会社などが、三年数ヶ月ぶりに水を得た魚の如く大きな口をパクパク開けて、美味しい餌を待っているという構図が見てとれるが、多くの論調は経済の再生なくして日本は沈没すると言うような悲観論を背景に、ほとんど無批判的な見出しや記事が並んでいるとしか思えない。

 日本に在住して長い奥さんが日本人の知人のアメリカ男性は、日本の新聞はどうなってしまったのかと不可思議そうに感じておられる様で、私と話しながら「日本の新聞は野党的意見や考えを掲載しない」とまで言っておられた。

 私は現在は毎日新聞を購読しているが、以前の朝日新聞と共にどちらかと言えば体制批判や現政権に対して批判的な記事や問題提起的な社説なども掲載していた新聞なのだが、日本の五大紙とされる中では読売と産経がどちらかと言えば現体制支持的な記事や少し右寄りと思われる社説などを掲載してたのが、昨年暮れの総選挙を前には、何とほぼ全紙が自民党の圧勝を予測し報じていて、とても驚いたが、何と予測以上に自民党的勢力が勝利をものにしてしまい、まるで愚民がメディアに誘導されたとでも感じられた結果となったと言えよう。

 全てをマスコミ、メディアのせいにしようと言うのではないが、新聞、テレビなどの日常的報道媒体は、少なくとも公平かつ平等な伝達に重きを置いて、少なくとも現政権の施策について報道するとしても、野党的意見や見解についても報道すべきなので、全てが「イケイケどんどん!」的な体制派的報道だけでは困るのである。

 ちょうど、中国での政治の民主化を記事に掲げた中国の新聞が地元行政の事前検閲で書き換えを余儀なくされた事件が大変な問題となっているが、日本には事前検閲など非民主的なルール違反は現在はないが、不可解な自主規制的な風潮や批判的意見を自重したりする傾向がむくむくと頭をもたげたりする時期がある様である。

 確かに民主党政権下の三年数ヶ月の反動的期待感があるとはいえ、私たち一般の生活者ではなくて、大手企業経営者や財界に身をおく人や投資家たちにとっては、円安傾向が加速し株価が上昇機運にのって、自分たちの利益が増える期待度は大きいと思われるが、大半の庶民にとっては、大型公共事業や建設国債等の拡大など、直接的には縁もなく一部の金持ちにとって喜ばしい施策だというだけである。

 マスメディアは、政府発表、すなわち大本営発表だけを報じるという、何とも戦時中の言論統制時代ではないのだから、与党的見解を報じる場合も、野党的見解や反対意見または批判的意見も掲載したり問題提起しないと、メディアとしての責任やジャーナリスティックな媒体とは言えなくなるし、自らの首を絞める様な自殺行為とさえ言いたいのである。

 


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初の初詣三連ちゃん!!!

2013年01月07日 | イベント
正月三が日が終わって4日は初仕事で出勤をしたのだが、どうも新年のお祝いムードに水をさすような事件があって間接的とは言え、何とも心重たい気分になっていたのだが、昨年の12月半ば頃に決めていたささやかな一泊バス旅行へと妻と共にでかけたのであった。

 目的は前々からニュースや観光案内では知っていたが一度も観たことがなかった「なばなの里のイルミネーション」というテーマパークとでも言うべきイベントであり、寒いこの季節に観光客に足を向けてもらうためにいつもは季節の花で賑わう「なばなの里が」10年ほど前から企画し好評だとのことだったので、土日続けて休めることがめったにないので、お正月休みを生かして思いたってでかけたのであ田った。

 京都から三重県長島町にある「なばなの里」へ行くバスは、昼過ぎに立ち寄ったのが伊勢神宮であり、何と記憶にある限りでは小学校の修学旅行以来という感じで、まだまだ初詣客や伊勢参りを目指す人々でごったがえす参道を歩いて、内宮の本宮へと足を進めた。

 私たち夫婦は実はクリスチャンでもあるので、意識的ではないのだが毎年「初詣」などという感じで「お宮」さんや「お寺」参りをしたことがほとんどなかったのだが、妻の母の出身地が伊勢でもあり、妻の実家は実は神棚のある神道が家の宗教という家だったので、なにやら里帰りといった感もあった。

 小学生の時の記憶では内宮に通じる宇治橋の前で記念撮影したことと、五十鈴川のほとりで水に触れたことぐらいしか覚えていなかつたが、20年に一度の「遷宮」の年が今年ということもあってか、ともかく大変な人出で行列状態だった正面の参拝を避けて、お急ぎの方のための右側階段を上って参拝を済ませ、一度は立ち寄ってみたかった「おかげ横丁」に足を運んでしばらくの間を楽しんだ。

 目的地の「なばなの里」のイルミネーションは、言うまでもなく壮大で美しく、さすが-780万個のLED電球での装飾的デザインされた各種の光の企画は、目と心を楽しませ、癒してくれて大変満足であった。

 その夜は、滋賀県長浜市の琵琶湖湖畔のホテルに泊り、露天風呂の温泉でゆっくりと体を休めたのだが、翌日は長浜の街中の黒壁ストリートを見学散歩した後、ここも初めてであったが「お多賀さん」の愛称で親しまれているという「多賀大社」にも詣で、何と神社の初詣三軒目という形で、近江八幡の「日牟礼八幡」にも詣でたのであった。

 私たちは近江八幡では、もっぱら関心のあった宣教師で建築家であったヴォーリスさんの建造物を足早に見学してまわったのだが、同じバスで観光した多くの乗客たちは、和菓子の「たねや」さんとバウムクーヘンで有名だーそうな洋菓子店に集中しておみやげ物の買い物をなさっていたらしく、帰りのバス内では同じ包み袋が目白押しであった。

 ともかく、ちょっとした思いつきの一泊バスの旅への参加だったのだが、何とも人生「初の初詣の3連荘」と言う記憶に残る小旅行となったのであった。
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忘れてはいけない!!

2013年01月03日 | 感じたこと
正月三が日が終わろうとしていますが、私たち家族は恒例の京田辺市薪にある甘南備山の初登山に孫たちも一緒に6人で参加して、正月の二日間の運動不足の解消と市内の友人、知人たちとの新年のご挨拶の機会となりました。

 と言っても、京田辺市民にとってのシンボル的な山なのですが、標高は200メートルちょっとという丘の様な山なので、頂上まで登るのに一時間もかからないナダラカな山なので、60歳を過ぎるまでは何の大変さも感じずにすいすいと登っていたのですが、孫のお兄ちゃんの方が小学5年生ともなると、同じペースで登るのがしんどく感じるほど、自分の体力の衰えを感じざるを得ないひと時ともなりました。

 頂上付近で恒例の京田辺市の歌をみんなで歌った後、今年は昨秋に初めて開催された京田辺第九コンサートの出演者の有志がドイツ語での第九の合唱の一部分を歌われるおまけもあって、我が孫で五歳の男児も耳から聞いていた歌詞を覚えていて一緒に口づさんでいました。

 しっかり汗して帰宅した私でしたが、着替えてから私にとっては地元の父と母と慕う方のお宅にお年始の挨拶を兼ねて伺い、日頃は毎月の様にお会いはできるものの、ゆっくりとお話を聞く時間がないので、正月休みくらいはじっくりとお話を伺おうと出かけました。

 この老夫婦は今年ご結婚67年目を迎えられるという人生の大先輩なのですが、私を幼い時に亡くされた長男のように思っていただいていて、毎回時間の許す限りいろんなお話を聞かせていただく父と母と言った感じの老夫婦なのでした。

 今回は90歳を過ぎられた父なる先生と80代も後半になられたお母さんがご自分たちのご結婚に至る思い出から、戦争中のご経験や広島での被爆者の支援運動や平和を守るための憲法を守る大切な活動に参加される経緯とでも言うべき、貴重かつ大変な経験について詳しくお話して下さいました。

 お父さんの召集令状が来てからの思いや妹さんが広島で被爆された直後に広島に行かれての二次被爆の体験から、戦後十数年経過した後に被爆者手帳を交付され、被爆者の救済活動に積極的に参加されたことや奥様も同様の活動に参加された思いなども熱く、しかも胸のうちをアカラサマニ語って下さいました。

 お母さんは戦時中に大阪のご実家を後にして広島へと向かう日に大阪大空襲に遭遇されて、幸い地下鉄で動物園前から梅田へと移動中となったために災禍に見舞われることは避けられたとのことや、人生での大変な苦しみや痛みの部分までお話くださいました。

 現代の日本に生活している我々にとって、平和であることは当たり前のことだと思っているかもしれませんが、とんでもない犠牲と惨禍から戦後67年有余続いている戦争のない日本は、間違いなく平和憲法のお陰なのであって、憲法改悪やましてや国防軍の設立、徴兵制などを力強く語る輩の思い通りにしては断じていけないのだとの決意を伝えられました。

 お正月のおめでたい楽しい三が日でしたが、しつかりと伝えるべきことを伝え、子供や孫たちにも伝承していくことは当然ですが、戦争を知らない子供たちの私たち以降の世代に語り続けなければとの思いを新たにしました。
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あけましておめでとうございます。

2013年01月02日 | イベント
 昨年末は総選挙の結果と安倍再登板首相の原発の新設に意欲と言う、とんでもない状況の変化に驚きつつ、数十年ぶりに大晦日にも仕事をしていたので、このブログ「ガリバー通信」の更新も少なく、いろいろと思うことは多くあっても記してアップすることが少なくなり、申し訳けありませんでした。

 スマホを携帯しだしたこともあって、フェイスブックを通じての簡単たためもあって、ツイッターの如きつぶやきも出来る様になったために、どうしても長文になりがちなブログの投稿回数が予想通り減ったことは、忙しさにかまけての私の怠惰の感も否めなく、今年は気持ちを改めてパソコンにも向かいたいと思っています。

 大晦日は恒例の地元の一休寺の除夜の鐘を衝きに家族そろって6人で行きました。

 今年も紅白歌合戦を舘ひろしの石原裕次郎「俺らはドラマー」を聴いてからYUKIを耳にしながら家を出て、元気なプリプリの再結成バンドによる「Diamond」を車中聞いて一休寺に到着した頃、娘家族の孫二人も合流し、少し暗い参道から一休寺の鐘楼前に並びました。

 小学5年生のK君によれば、今回は10番目か11番目で、阪神タイガースの背番号に例えれば永久欠番だと予測していたのですが、実際は6番目に鐘を衝くことが出来て、昨秋引退した我らが兄貴、金本の背番号と一緒だったので、彼は大変上機嫌でありました。

 鐘を気持ちを込めて衝くという一瞬の仕事なのですが、一年を感謝し新たな新年への祈りも込めて衝いたので、今回はとてもうまく綺麗に力強く衝けたと自己満足しています。

 その後私はクリスチャンなのですが、一休寺さんの本道に入って新年のお勤めをされている一休寺住職の田辺宗一さんの後姿を仰ぎながら、一休禅師の遺髪をつけているご神体的正面を拝んで手を合わせ、家族の健康と世界平和を祈りました。

 毎年のことなのですが、お寺の一角に置いてある祈念ノートに2013年最初の記帳をさせていただいて、思いも新たに新年を迎えることができました。

 初夢とは正月元旦の夜ではなくて、二日の夜に見る夢だと聞いているのですが、昨晩と言っても今朝方見た私にとっての初夢は、何故か「バン屋さん」の夢で、忙しくお客様たちが喜んで下さるパンの数々を焼いていましたが、すぐに売り切れてしまうという縁起のいい感じの夢でした。

 しかし、晦日の夜かその数日前に見た夢で、昨年の最後かも知れない記憶に残った夢は、これまた何と不思議な夢で、私が何処かの劇団員として練習に明け暮れていて、なかなか台詞が覚えられなくて苦労している内容でした。

 さて、今年の日本はそした私を取り巻く周辺とせ生活は、昨晩の繁盛しているパン屋さんの夢か、それとも昨年暮れに見た劇団員として苦労している夢か、どちらの夢が現実の暮らしの中で近いと感じる正夢となるのでしょうか。

 いずれにしても、今年も明るく元気に一日、一日を健康に過ごせる様にと祈っています。

 皆さんのご健康とご多幸を祈りつつ、今年もガリバー通信通じての交流、発信もよろしくお願いいたします。
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