ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

野田首相誕生へ。

2011年08月30日 | 日本の課題
 菅直人首相の退陣表明から約三ヶ月が経って、ようやく民主党の新代表を決める選挙が行われ、ダークホース的存在ではなかったかと思われた、野田佳彦現財務大臣が小沢一郎、鳩山由紀夫氏らが推す、海江田万里現産業経済相を二回目の決戦投票で逆転して、民主党の新代表に選出された。

 昨日午後に一回目の投票が行われた際には、海江田候補の過半数獲得もありえると予想されていたたいだったが、海江田氏の得票は143票、二位に野田氏が102こ票で続き、前原前外務大臣は74票と振るわず、海江田、野田両氏の決選投票、一騎打ちとなったのだが、反小沢のムードが党内にあるためもあって、前原グループと一回目の投票で四位の54票を獲得した鹿野現農水大臣のグループも野田氏支持に回ったために、一回目の投票では過半数は取れなかったが、一位だった海江田氏を野田氏が逆転する形で、215票を獲得し、海江田氏の177票に38票差をつけて勝ったのであった。

 いずれにせよ、民主党所属の衆参国会議員で、現在党員資格停止処分中の小沢一郎元代表をはじめとする投票権のない国会議員を除く、民主党国会議員だけの398名の投票のみで、実質的には次期首相となるべき民主党の代表を決めるという、国民から見れば不条理というべきか、高みの見物しか出来ないという形で、しかも短期決戦とでも言うべき、たった三日間で決着をつけざるを得ないとドラマとしか見えない、代表選挙であった。

 野田佳彦氏は、千葉県選出の衆議院議員だが、ご自分が自ら称される「ドジョー」のような政治家であり、松下政経塾の第一期の出身であり、前原氏などにとっても先輩のまじめかつあまり目立たない議員だったのだが、時折まじめかつ憎めない表情から冗談やユニークな表現も飛び出す、自分自身をよく知る?御仁の様である。

 先ほどの「ドジョー」と自分を例えることは、相田つおさんの言葉から出ているらしいのだが、「ドジョーが金魚になろうとしても所詮、ドジョーはドジョーでしかない」とのたとえ話や、県会議員時代から財務大臣になるまでの25年間、土日を除くほぼ毎日地元の津田沼駅前での街頭演説を欠かさなかったことから、「駅前留学のNOVA」をもじって「駅前演説の野田」と自らを称していたりしたのである。

 富山で農業をしていた祖父母の末っ子として生まれた父と千葉県の農家の末娘の貧しい夫婦から生まれたという野田佳彦氏の政治家としての最初のスタートは、なんと元社会党の熱血漢浅沼稲二郎氏の暴漢による暗殺が契機だと伝えられ、それも三歳の時に起こった事件をテレビで見て、何故と疑問を持ったとのことで、するどい感性ともいうべき気づきや庶民性は、育った環境、プロセスから窺え、早稲田大学出身とはいえ、エリート中のエリートではない普通の人とも感じるのである。

 風貌は決して好男子ともイケメンとも言い難い仏頂面としか言い様がないのだが、芯は強い精神力と共に、何事にも動じない粘り強さや時間をかけても説得するという辛抱強さを持っている人ではないかと感じるので、首相としての采配や政策実行力は未知数ではあるが、期待というよりも「粘り腰でやってくれる」人ではないかと推察できると思うのである。

 今日、国会で首班指名が行われて、晴れて第95代の内閣総理大臣になられるのだが、問題は党内での挙党一致、代表選を争ったしこりを超えて、怨念を超えてのノーサイドの政治を目指すと言われても、親小沢支持の人たちや小沢一郎氏自身の評価によっては、またしても党内野党的攻撃や不一致が生じて、自民党、公明党などの野党との協議以前に内部混乱の可能性も残していて、前途は多難である。

 しかし、ともかく政権交代後二年しか経っていないのに、早くも三人目の首相としてのスタートを切るわけだから、自民党時代の安部、福田、麻生と続いた一年限定首相の継続とならない期間、少なくとも衆議院の任期満了までの後二年間は、震災復興、原発事故収拾、円高経済脱却、財政再建、税負担と福祉社会の構築などの課題を中心に、本当にご自分が信じる「ニッポンの再建」のために尽力を尽くしていただきたいものと思うのである。

 マスコミを中心として、常に批判やないものねだり、足の引っ張り合いを率先してするのではなくて、与党、野党議員も全て、国民のための優先順位を見定めた上での政策立案と実行のために、協力して突き進んでいただきたいと願っているし、我々有権者も、じっくりと見守り、少しでも元気で明るい国、日本を取り戻せるようにと祈っている。
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芸能界の甘いケジメ。

2011年08月26日 | とんでもない!
 今週、テレビマスコミを中心に一番話題を独占したのは、民主党の代表選挙よりも、吉本興業のタレント「島田紳助」の記者会見、突然の引退発表ではなかっただろうか。

 確毎週司会を中心とするレギュラー番組6本を持つ、テレビ界にとっては外せない大物タレントとして、一般の家庭でも知らない人はいないという視聴率も稼ぎ、本人も多額のギャラを稼ぎ、所属会社にとってもドル箱のタレントとしてここ数年は君臨していた島田紳助なので、突然の「引退記者会見」には驚いたものである。

 記者会見の内容を見る限りは暴力団幹部との付き合いを「これぐらいならセーフと思っていたが、業界的にはアウトだと言われた」とか、謹慎処分などでは若手に示しがつかないので、自ら引退という一番厳しい処分を申し出たと「美学」を強調したりの、独断的記者会見に終始し、「いまさらええかっこや嘘はありまりません」と締めくくっていたのであった。

 しかし、翌日、翌々日と新聞、テレビを中心に報道されたり、週刊誌の記事になっている内容から察すれば、十数年前から山口組系暴力団のナンバー4もしくは実質ナンバー2と言われる輩との付き合いが続いていて、その中を取り持つ形で登場しているAさんとは、元ボクシング世界タイトルを獲得したこともある渡辺二郎だったということが判明したらしい。

 島田紳助自身は、「これくらいでやめなあかん」と嘯いていたのだが、結局は大物やくざ屋さんとの付き合いが長年続いていて、暴力団関係者の葬儀にも、自ら赤い派手な外車で赴いて参列したり、「ぜつたいにない」とまで言っていた「直筆の手紙や写真」が、大阪府警の暴力団事務所の別な事件、羽賀けんじ容疑者の恐喝未遂事件、つまり渡辺二郎が懲役刑を言い渡されて現在控訴中の事件の家宅捜索で、間違いなく出てきていたというから、警察情報としての携帯電話のメールなども証拠として挙げられているらしいのであった。

 とにかく、レギュラー番組の司会で一本300万円と言われるギャラを稼ぐ大物タレントに成長した彼だが、やはり若い時代のやんちゃぶりと、その時代に知り合った仲間や人間関係から脱却することができなかった模様で、今回の芋づる的とでも言うべき、他の事件の捜査資料が元での「親密な交際むという腐さり縁が発覚してしまったというべきなのだろう。

 島田紳助自身は、確かに「紳助・竜介」の漫才ブームでの活躍からスターダムにのし上がった後、漫才ブームの終焉で、漫才コンビをいち早く解散して、一人話術を中心とする司会業に転身し、芸能界だけでなく、飲食業、不動産業も含む実業家としての顔も持ち、その発想と金銭感覚、金儲けの手腕も評価され、芸能界では誰もが一目置く存在となっていた。

 特に「ヘキサゴン」や「紳助社長プロデュース」などでは、若いタレントを中心に、「アホタレ」とか「いじりキャラ」の存在を一種のタレントとして一流?に仕上げるという手腕を発揮して、関係した若いタレントからは「おやじさん」として慕われたり、「芸能界の父」としての存在として崇められたりしていたらしいのである。

 テレビ業界での一番組約3000万円と言われる制作費を駆使して、スポンサーの売りたいための宣伝マンとして一役買うというスタイルで、多くのタレントと共に企業宣伝に力を及ぼしたことは否めないが、所詮は「他人の褌で相撲を取る」と言っても過言ではない術を心得たものだったのだろう。

 確かに「島田紳助」の話術は、テレビを観る視聴者にとっては心地よい面もあるくらいで、スピードと共に他人の欠点や恥ずかしい面をもさらけ出させるという、「人をいじる」ことでは天下一品の話術だったと思われるのだが、さてこの話術が「芸術」かといえば決してそうではあるまいと思うものだったのである。

 つまり、「他人の嫌な部分」をおおっぴらにしゃべることは、多くの人がはばかったり、遠慮がちになるものなのだが、彼はそこを「芸」だとして、相手を追い詰めて暴露したりして、周りの人を笑わせたり、時にはスカッとさせたりしていたわけで、決して人間的には褒められたものではなかったのではないだろうか。

 誰もが自分の人生や性格、身体、そして生き様、日常生活について悩んだり葛藤したりしている面が多かれ少なかれあるものだと思われるのだが、実は彼はこれを利用して一般人が日頃は口に出せないことや遠慮がちなことを、事細かくしゃべったり追求したりすることで、それを「芸」だと勘違いしていただけなのではないだろうか。

 つまり、吉本に限らず多くの「お笑い芸人」と称する人たちがテレビを中心に活躍中の現代日本ではあるが、果たしてその中にどれほど「漫才芸」とか言ってもいい「話術」や「脚本」「シナリオ」存在しているのだろうかとさえ、疑いたくなるような様が多く見られるのも現状なのである。

 結局、島田紳助は自らの話術におぼれて、芸でもないものを芸と勘違いし、周りのもてはやし方に踊らされて、自らも他人からの「おしゃべり」や「生き方の指摘」で、引退という名の「失墜」をする羽目になってしまったと言えよう。

 記者会見でも本人が言っていた様に、「頂上に昇ったと思ったら、向こうはがけっぷちだった」のである。

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カダフィ体制崩壊寸前。

2011年08月23日 | 世界の問題
 なんと今年二月に端を発した、アフリカ大陸北部の地中海に面したリビアの42年間も続いたカダフィ独裁政権が、いよいよ首都トリポリの大半を反体制派が掌握したとの報道で、最後の抵抗をカダフィ大佐とその一族と政府軍が行っているようだが、時間の問題で陥落するという状況になっているという。

 あの奇抜な服装と言動で、憲法や国会などの民主的機関もほとんどなく、独裁的軍事政権として君臨してきたカダフィ一族が支配し、国民生活と経済、雇用もでたらめでどうにもならないところまで来たらしく、「アラプの春」と称されたチュニジアとエジプトでの民主化運動のうねりがリビアでも起き、インターネット上のフェイスブックがデモの呼びかけなどに大きな機能を果たして、一気にリビアもという勢いであった。

 しかし、カダフィ大佐自らと大佐の次男であり後継者と言われるセイフ・アルイスラム氏が内戦の危機と称して、首都トリポリなどでは戦闘機がデモ隊を空爆するなど、政府軍の戦いが全国に広がり、地方都市での反政府勢力も一時は劣勢に立ったところもあったようだったが、2月末に国連安保理がリビア制裁決議を採択し、3月には対リビア武力行使容認決議案を安保理が採択したことから、仏英米などの多国籍軍がリビアの空爆を行い出して、反体制派に力が加わって、今日に至ったらしい。

 しかし、いくら民主化が目的とはいえ、一国の内戦状態にNATO、北大西洋条約機構の国々が武力で参戦し、多くの犠牲と戦場化した市民生活が続いたことだろうと思うと、我々がマスコミを通して見聞きする映像や状況報道以上に、極めて悲惨な光景や犠牲がたくさん出たことだろうと推察する。

 しかし、長年にわたる権力を独り占めにしてリビアのみならず、国連や全世界に対しても言いたい放題の言動と行動を繰り返して来たカダフィ大佐は、自国民との戦いに容赦なく軍事力を最大限使って、仏、英、米などの多国籍軍とも戦い、大きな犠牲を国内地方都市も含めて出し続け、自らの身の安全と一族の利益を守ろうと必死の戦いに及んでいた模様である。

 しかし、6月下旬には国際刑事裁判所がカダフィ大佐ら3人に逮捕状を発行し、徐々に首都トリポリのカダフィ体制の牙城をも攻めだして、一昨日頃からほぼトリポリの市街地をも反政府派が制圧した模様で、カダフィ体制が始まる前の三色の赤、黒、緑の旗が翻り、42年にわたる独裁体制の崩壊が近づいたことが明白になったとされている。

 その後の報道では、政府軍が三発のミサイルを発車して抵抗の狼煙を上げているとか言われてはいるが、カダフイ大佐の後継者と言われる次男は既に反政府派に拘束されているらしく、カダフィ大佐本人の居場所は定かではないが、反政府派は殺さず生け捕りにして、その42年間にわたる独裁者を裁判にて裁きたいとしているらしい。

 思い起こせば状況は違うが、あのイラク戦争の挙句、アメリカを中心とする西側諸国の執拗な攻撃と共に、最後の抵抗をしたフセイン元大統領は、地方の小さな町の隠れ家の地中から発見され、どう見ても時の権力者だつたとは言い難き姿で逮捕、拘束されて、裁判の末処刑されたという記憶が残っているので、どうもリビアのカダフィ大佐についても、最後の最後まで抵抗したり反撃したとしても、末路は寂しい姿で拘束されることになるのではないかと想像するしかない。

 アメリカのオバマ大統領は、早速リビアのカダフィ体制の崩壊を明らかにして、次期政権を担うであろう反体制派指導者を名指しで評価したりしているが、彼にとってはリビアの民主化よりも、来年秋の大統領選挙に自らの再選をかけて戦おうとしているのだが、アメリカ経済の先行き不安もあって、支持率が40パーセントを割り込んでいる現状を鑑みると、他国の民主化や自立への協力というよりも、少しでも自らの存在感を高めるかにパフォーマンスしているに過ぎないようにしか写らない。

 このアフリカ北部の国々での「アラプの春」と呼ばれる民主化運動は、紅海の東に位置するシリアやサウジアラビアでも起きている模様で、中東の石油産油国としての国際的な意味からしても、世界の国々が本当の意味での、その国の自立と民主化を願っているというよりも、石油利権を如何に今後スムーズに自国に寄与させるかを考えているに過ぎないのではないかとさえ思える向きもあるのである。

 シリアでは、今回のリビアの反政府派がトリポリをほぼ掌握し、カダフィ大佐が拘束される寸前まで至っていることに対して、「おめでとう、次はバシャル(シリアのアサド大統領)、お前だ」などとシリアの反体制派デモが行われている中部の町ホムスで、多くの人々が街頭に飛び出して叫んでいる模様が、インターネット動画サイトユーチューブに登場しているらしい。

 しかし、安堵してはいけない面もあるらしい。NATOの空爆などの支援もあって、反体制派が追い詰めているリビアの首都トリポリではあるが、カダフィ大佐側の政府軍はまだ降伏しておらず、大統領居住区を中心とした地上ゲリラ戦になる可能性もあると伝えられていて、そうなるとやすやすNATO軍などの国連軍や外国の軍隊が侵攻するわけにも行かず、しばし長期化する恐れもあるという。

 いずれにせよ、一国の自立、民主化への道は、ひと筋縄では成就するわけではなく、たとえカダフィが拘束されたり亡命したとしても、今後の国の形と体制づくりが肝心であり、他国の利益や干渉もなく、自国民だけでどのような国づくりが始まるかが肝心なのであり、国際社会は見守りつつ、必要な手助けだけをするべきなのである。

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次期首相選び?

2011年08月20日 | 日本の課題
東日本大震災から五ヶ月余が経過したが、昨日も震度5弱の余震がまだ続く東北地方を中心に、福島原発事故の放射能汚染、被害は延々と続き、いつ終息するかという目処は全く立っていない現状の日本は、アメリカ経済の不安感の煽りも受けて、円高の兆候に止めがきかず、経済、雇用、エネルギー問題をはじめとした政治的課題が山積している。

 そんな状況下のニッポンなのに、政府を担っている責任政党である「民主党」は、ようやく菅直人首相の退陣という道筋を明らかにしつつ、八月下旬から九月にかけて、次期首相となるべき民主党代表選挙を行うぺく、立候補を予定する候補者たちが推薦人確保をはじめ、党内外で色めき立っている様子である。

 一方、福島、宮城、岩手の東北三県を中心に、震災、津波からの復興事業は徐々には進んではいるものの、原発事故による放射能災害は益々影響が広がり、多大かつ残念な結果が拡大する状況となっている。

 無添加、有機農産物のやおやの取引先の中にも、福島県いわき市の魚介類加工会社や福島県郡山市の鶏肉生産会社があり、魚介類加工に関しては、わかめ、のり、昆布類が全く震災後三陸産は入荷しないばかりか、在庫にあったものも仕入れ値で二倍と高騰し、今後の見通しも立たないし、鶏肉会社は鶏たちの飼料としての米、野菜、草、そして土の上に敷くオガ粉などの放射能汚染が懸念され、五ヶ月間は格闘されてきたのですが、止む無く生産を休止することになった。

 これらはほんの一部の現実的事実に過ぎませんが、事業者にとっては生活のかかった一大事であり、自分たちの命、健康が大事ではありますが、今後の生活再建のための仕事、事業が立ち行かないという現状判断に至っているケースも多々あり、本当に原発災害は大きな人災、しかもいつまでという限度のない危機的状況を各地にもたらしてしまっています。

 今後、政府、東電、原子力事業者を中心に、多種多様な被害に対する賠償保障が遅まきながら進められようとしていると思われますが、ただ端にたお金で解決してしまえるものでもありません。

 長年培ってきた事業への投資、努力、人間関係、、技術、ノウハウなどを持っていても、もう「ここでは出来ない!」と断念した個人や事業者にとっては、今後の生活設計がたたないケースが続出しているはずです。

 目には見えない、こころの痛手や内部被曝的症状もあいまって、長期的なケアが必要なのでありますが、いずれも少しだけ見たり聞いたりした状況判断だけでは、十分な支援には届かないものばっかりではないでしょうか。

 こんな「国難」とまで言われている状況下で、国会は何をしているのかと多くの国民は思っているのですが、永田町を中心とした国会周辺の報道では、全く被災地や被災者の目線、心で支援や復興助成に当たっている人たちの姿や顔が見えるよりも、「私も代表選に出る!」という民主党のいろいろな候補者の姿、顔が連日の如く報道されていることが多くて、なんともやりきれない思いになってしまっています。

 二年ほど前に、歴史的な政権交代を総選挙によって勝ち取った「民主党」のはずですが、鳩山由紀夫首相が沖縄普天間基地の辺野古移転問題での迷走をめぐって退任した後、小沢一郎氏と代表選を争って代表に選出され、首相になった菅直人氏は震災復興への対応振りと指導力のなさからか、、野党だけでなく民主党内からも反発をかって「一定の目処がたったら・・・」という退任宣言を余儀なくされて、ちょっと粘った感はありますが、ここに来て目処の3条件がクリアされたことから、今月末の退任が見えたというのです。

 いずれにせよ、野田財務大臣、海江田経産相、北沢元環境相、鹿野農相や馬渕氏、樽床氏など、党内からの代表選出馬の意向が伝えられる人がたくさんいて、党内での推薦人確保にしのぎを削っているらしいのだが、肝心の「国難」に立ち向かうための、政治信条、政策なとが全く見えてこない中、「原発、エネルギー」、「増税、消費税」「経済政策」、「TPP(環太平洋パートナーシップ協定)対応」、「震災復興」問題への考えが不明確なまま、ただ代表になって首相になりたいだけでは国民は大変困惑しているのである。

 彼らの頭の中はどうなってしまっているのだろうか。最近のマスコミ報道では、何とまたあの実力者「小沢一郎」氏は例の4億円の不正土地購入資金問題などで民主党内での「党員資格停止処分」をされていたのだが、海江田氏も鹿野氏も、いずれも小沢詣でをして、彼の影響が大とされる140人前後の党内国会議員の支持をとりつけたいばかりに、その処分撤回を公言するに至っては、自己中過ぎる発想にしか見得ないのである。

 少なくとも、これから代表選挙までの期間に、民主党内議員に対してだけでなく、国民に対して明確な施策とビジョンを掲げ、懸案の国難に対して、如何に立ち向かうかの具体策をはっきりと示した上で、乱立の感の強い現状から、候補者を絞って少なくとも3、4人でお互いの考え方や政策の違いを議論した上で選挙に臨んでいただきたいと切に願うのみである。

 最後に京都出身の前外務大臣、前原氏の代表選出馬も決断の時期に来ているらしい。
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五山の送り火

2011年08月16日 | イベント
 今年のお盆は静かに送ろうと思って早めに墓参りも済ませ、遠くに旅したり出かけることも自粛?して、自宅に篭りがちに居たので、例年と比べて少し可笑しな気分でもある。

 毎年夏には、二十数年縁あって中国の内モンゴルへの旅にほとんど出かけていたり、事情があって行かない年もインド、ネパールへ出かけたり、昨年はちょうどお盆の時期に「被爆地広島」へと出かけていたりしたので、八百屋のお客さんたちにも「やおやの夏休み」を告げる折に、「ガリバーさん、今年は何処へ行かれるのですか?」と聞かれることが多く、「今年は行きません!」と宣言したりしていた。

 四月の選挙が終わって三ヶ月ほどが経過して、年齢的にも一定の高齢者の仲間入りをする予備軍になっていることも自覚しつつ、まだまだ「働ける」という思いと同時に、そんなにあくせく働かなくてもという思いが葛藤する中で、日々を送っているのだが、なかなかこれっと言った仕事を見つけることも出来ず、子供たちの夏休み期間に入って、自分自身も夏休みモードになってしまっていることに気づくのである。

 ともかく、長年一生懸命に働いて来たつもりなので、ここは慌てず、じっくりと自分自身の今後を考えながら、仕事と生活、または老後の生活設計とやらにも思いをめぐらせて思案する期間だという自覚で、日々を送っているのである。

 今日、8月16日は言わずもがなのお盆の最終日であり、お盆にお帰りになっていた「ご先祖様たち」が、遠くに再び帰られるための「送り火」という形の習慣、伝統行事が各地で行われる日なのだが、京都では「五山の送り火」と称される、「大文字」をはじめ、舟形、妙法、鳥居、左大文字の五つの野火が、京都の北山の五つの山に点火されて、お盆の最大の行事として、夏の風物詩としても印象深いものとなっている。

 今年は3月11日の大震災と大津波の被害で一本だけ残った岩手県陸前高田市の「一本杉」に纏わる残木を京都の五山の送り火で燃して、震災、津波の被災者として亡くなられた方々の「初盆」をも弔おうという思いの計画があったのだが、福島原発の事故による放射能汚染が、その残木にも認められたとかで、結局「震災被災地の残木」を「京都の五山で燃す」という試みが中止になってしまった。

 なんとも後味の悪いニュースとでも言うべきか、それぞれの自治体だけの思惑では事は進まず、多くの住民たちの放射能アレルギー、つまり「過剰な反応」が逆風となって、五山の送り火に使用して、震災犠牲者の霊をも慰めようとした試み、想いが実現するには至らなかったのである。

 いずれにせよ、この8月16日の「五山の送り火」だけでなく、昨日の「敗戦記念日」、そして「広島」「長崎」の被曝の日が続く真夏の8月は、例年以上に「死者の霊」について考えたり、「原爆と原発」について思ったり、戦場と化した沖縄本島をはじめ、日本各地で敗戦の色濃くなった1947年の春から夏にかけて行われた「空襲」などによる、市街地での焼け野原状態は、今年の東北大震災と大津波被災地の現状と見誤る位の惨状であったと言っても過言ではないのであった。

 つまり、今年に限って言えば、戦没者追悼式や戦後66年も経った、第二次世界大戦の終結、歴史上の出来事と、数ヶ月前の平和なニッポンを襲った自然災害とは言え、大地震、大津波に続く人災とまで言われている原発災害の追い討ちは、いまだかつてない戦後日本の「国難」とまで言わせている惨状であり、今後も「被爆者の苦難」がいまだ収束しない様に、放射能被害の延々と続く不安や風評も含めた深刻な痛手が続くことは間違いなく、66年前の敗戦と言う歴史上の大きなショックにつぐ大きなターニングポイントとなることは間違いないだろう。

 NHKのニュースで、沖縄での地上戦で両親と家族全員を目の前で亡くし、戦争孤児として10歳から今まで生きて来られた方が、大津波で両親を亡くした東北大学の二人の学生を訪ねて、自分と重なる「震災孤児」になってしまった学生への励ましと義捐金を贈られたという報道がなされたのだが、突然罪もない家族を一瞬にして奪われた孤児の悔しさと空しさ、そして今後をどう生きて行くべきかとの葛藤に、同じ様な経験者の先輩としての言葉と励ましは、とっても強く伝わったことだろうと推察できるのであった。

 2万人を超すとされる東日本大震災ならびに大津波による犠牲者および行方不明者のご家族やご遺族にとっての「初盆」となる、今年の「送り火」を、自分たちのご先祖様を送る気持ちだけでなく、日本人の心を一つにして、ご冥福を祈る気持ちで観つづけていたい。
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熱戦が続く甲子園。

2011年08月14日 | イベント
 昨日、第93回全国高校野球選手権大会の第8日目の試合を観戦に、朝から孫の小学4年生の野球をやっているK君と二人で出かけた。

 ともかく真夏の炎天下に続く高校生球児の試合なのだが、お盆のお休みに入ったことと地元近畿勢が今年は頑張っていて、昨日も滋賀県代表の八幡商業と大阪府代表の東大阪大柏原高校が二回戦に出場するとあって、甲子園球場のチケットは売り切れ状態で、阪神梅田駅構内では「甲子園球場は入場できない場合もあります」と午前中の第一試合開始後から連呼していた。

 せっかく甲子園へと張り切って来たので、多少待たされても何とか入場するぞという思いで甲子園駅を降りて、国道43号線の高架下のアルプス席の入場券売り場の長い列に並んで、第一試合終了後の学校関係者のアルプス席からの退場の空席を狙って並んでいたら、約一時間後に列の先頭が動き出して追加入場券の発売が開始され、幸いにも3塁側アルプス席のチケットをゲットし勇んで入場したのであった。

 ちょうど第二試合の滋賀代表の八幡商業高校の応援団席のすぐとなり、左翼の外野との境目の黄色いポールの脇の席に陣取っての応援となり、隣の八幡高校関係者の応援グッズである長い風船を二本お借りして、それを両方打ち鳴らしての俄か八商(Hassho)の応援に加わったのであった。

 とにかくグランドでプレイしている選手諸君の名前もよく知らないままに、周りの応援の雰囲気に囲まれて、私たち京都の代表校竜谷大平安高校が緒戦で敗退しているので、お隣の滋賀県代表を郷土の代表のつもりで、しかも強豪優勝候補でもある東東京の帝京高校相手なので、何とか番狂わせでもいいから勝利をとの願いで、熱中症にだけはならないようにと水分補給と、スタンドでの観戦とトイレや売店のある通路を何度か往復しながら、遠くてはっきりとはプレイが見えにくい熱戦を観続けていた。

 帝京のエースである伊藤投手は一塁にいて、控えの背番号10の左腕渡辺投手が投げ続けていたのだが、八幡商業は8回まで、たった2安打しか打てずに0-3とリードされて9回の最後の攻撃となってしまった。

 高校野球では恒例の各都道府県代表の高校関係者だけでなく、郷土の代表校を応援しようとする多種多様な人たちがスタンドにいるが、9回を迎えると「もうだめかな」といったムードが少なからず周辺には漂い出した頃、その時間帯に次の第三試合の試合応援の唐津商の学校関係者が既にスタンド下に陣取って歩みを始めていて、関係者がスタンドからの出口への誘導なども含めて気ぜわしくなってくる中で、せめてもの思いとして「逆転するかもしれない・・・」なんて思いながらも、心身共に席を立つ時刻が近づいたと思っていた。

 何とか食らいついて幸いにも一点を返して、なおも一死満塁の攻撃が続いたのだが、まさかの出来事が次に起こってしまったのであった。

 レフト外野席に近い三塁側アルプス席からはよくわからない状況であったが、八幡商業の5番遠藤君が粘ってフルカウントから打った一撃が、なんとライトスタンド最前列だと思われるのだが、ホームランとなって一挙に逆転満塁本塁打という奇跡的なドラマが待っていたのであった。

 私たちの観客席の周辺のみならず、八幡商業応援団ならびに少なからず縁があって、「八商」を応援していた観客たちは狂喜乱舞とでも言うべきボルテージは最高潮に達して、ソデ摺りあうも何かの縁とでもいうべき感じで、遠慮会釈なくハイタッチで喜びを分かち合ったのであった。

 まさに奇跡的な大逆転勝利に我がごとの様に喜べたのも、高校球児たちの真剣かつ一生懸命のプレイのれ結果に感動したからに他ならないのだが、相手の帝京高校にとってはエースを3回戦にと温存したことが最悪の結果を招いたこととなったために、諦めきれない悔しい涙の一戦であったと思われてならない。

 その後の佐賀代表唐津商業と栃木作新学院戦も見ごたえある接戦だったが、ネームバリュー?で作新学院が逆転勝ちで勝利を収め、私たちの本命である、お目当ての大阪府代表の東大阪柏原高校の広島如水館高校との第4試合となった。

 まだまだ暑いとは言え、さすがに4時を回ると日差しも少し和らぎ、アルプススタンドにも時折涼しげな風が吹き出して、やっと観戦するにも苦にならない程度の暑さとになりつつあったが、逆に甲子園球場特有の内野席を覆っている大きな銀傘の向こうから差し込んでくる西日が、ちょうど目線の線上にあって、逆光とでもいうべき状態で、本塁ベース上の打者と相手捕手、審判の姿を見るためには、手で日差しを遮るか団扇を陽に翳さなければ試合の動向が見えない状態が続いた。

 柏原高校が先取点をあげたものの、如水館も迫力ある攻撃で七回表に3点を取って有利にゲームを進め、柏原高校もその裏に2点を返して同点とし、カクテル光線の延長戦ナイターとなり、10回表にエース福山君を7回途中から救援していた白根君が打たれて、惜しくも3点を献上しくやしい敗退となってしまった。

 アルプススタンドでは、柏原高校出身らしいお笑いタレントの間貫平さんが応援に駆けつけていたらしく、応援団の元気な賑わいだけでなく、盛り上がる観衆も注目度が高かったが、柏原高校は応援空しく大阪予選の決勝戦の様な大逆転劇は起きなかった。

 今年の甲子園高校野球は、逆転劇や雌雄つけ難い熱戦が続いていて、大会9日目の今日も、北北海道代表の白樺学園と智弁和歌山、また西東京代表の日大三の試合も5,6点の劣勢を相手チームがいったんは跳ね返しての逆転劇があった後に、いずれも強豪校として名を馳せている智弁和歌山と日大三高校が勝利を収めて三回戦へと駒を進めたのだが、とにかく打ちまくり、デッドボールやエラーも含めてめまぐるしく戦いが動く、しかもテンポが速い、若さと熱い勝利への執念や願い、夢、祈りが交錯する戦いの連続であり、プロ野球やJリーグの様な次の戦いのない、一発勝負の一生懸命さが伝わってくる、素晴らしいゲームを甲子園でもテレビ中継でも見せてくれているのだが、試合の内容や詳細はやっぱお茶の間でのテレビ観戦が一番分かりやすいものである。
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「戦力外通告」

2011年08月12日 | プロスポーツ
 先日、サッカーJFLリーグの松本山雅という地方チームに所属していた、元日本代表選手でもあった松田選手がけ練習中のピッチで倒れ、心筋梗塞という突然の病で還らぬ人となってしまったことは、プロサッカーファンのみならず、多くのスポーツファンにとってはショックでもあり驚きの出来事であった。

 松田選手といえば日韓ワールドカップの際に日本代表チームの一員として熱いプレイでチームをベスト16に入れた立役者のひとりで、とても激しいディフェンス選手として活躍した一流のプロ選手であり、J1横浜マリノスで16年間プレイしたミスターマリノスとも称され、サッカーファンにとっては忘れがたい選手であった。

 同僚の中村選手をはじめ多くの後輩サッカー選手にとっても、憧れ的存在で面倒見の良い先輩選手として自他共に認められたプロのアスリートであったのだが、昨年横浜マリノスから戦力外通告という、プロ選手にとってはとっても厳しい通告、つまり「クビ」を宣告されて、マリノスを去るピッチ上で「サッカーが好きだから!」と叫ぶような最後の言葉をサポーターたちに残して、なんとJ1でもJ2でもない、その下の下部リーグである「松本山雅」に移籍したという男であった。

 マリノスを去った後、中東のカタールから松田選手に1億円の年俸での誘いのオファーがあったそうなのだが、彼は「お金よりも自分を本当に必要と誘ってくれた」という理由で国内のJFLリーグの「松本山雅」に入団したのであった。

 しかし、彼の心境は如何だったのだろうか。憶測にしか過ぎないのだが、一流のプロアスリートとして、まだまだやれると思っていた矢先に、所属するチームから「戦力外」という「もういらない!」という宣告を受けたわけだから、心の中では忸怩たる思い、すなわち「まだまだやれる!」という、とっても残念かつ大きなストレスを感じていたに違いないと思われるのである。

 そうしたストレスは、決してスポーツ選手だけではないと思われるが、一般人としての「定年退職」などにおいても、まだまだ健康で仕事に対する経験だけでなく、たくさんの人生経験を積んだ熟年パワーと技術力を持って、まだまだやれると感じている御仁も多くいると思われるのだが、よっぽどの特技かコネか実力が伴わなければ、継続して仕事に従事することは難しい場合が多い様である。

 話はスポーツ界に戻るが、今晩のプロ野球「阪神VSヤクルト戦」のゲスト解説者としてテレビの野球実況に出演していた、元西武ライオンズ投手で通算228勝をあげて既に名球界入りを果たしている工藤公康氏は、現在48歳ではあるが、今年も現役選手として「野球がしたい」と心身共にトレーニングを忘れず、日本のプロ野球界で29年という最長の経験があり、渡り歩いた球団は、たぶん西武、ダイエー、巨人、横浜、そして古巣の西武ライオンズだったと思うのだが、昨年のシーズンオフに「戦力外」を通告された選手のひとりであった。

 しかし、彼は今直「現役投手」に拘りを抱いていて、日本のプロ野球チームからの来てくれというオファーがないのなら、単身アメリカに渡ってでも、新たな環境での野球、すなわちベースボールを経験したいという思いで、現在もメジャーリーグだけでなく、野球の本場アメリカでプレイすることに夢を抱いて、日夜トレーニングに励んでいるというのである。

 つまり、本人は「まだまだやれる」と思っているのに、組織、団体、会社、グループ、球団などから、「あなたは必要ない」と宣告されるという、とっても辛くて苦しい言い渡しを受けても、「別な所でやって」、戦力外を宣告した組織を見返してやりたいといった感じの「ど根性魂」を持ち合わせたアスリートの一人だと思われるのである。


 毎年、毎シーズン、野球界、サッカー界だけではないが、多くのスポーツアスリートたちが、球団や組織から「戦力外」通告を受けているのだが、特にプロスポーツ選手にとっての「引退」や「現役続行」の決断は、自分自身だけでは決められない背景や事情がある場合も多いと思われるのだが、ぜひ工藤公康投手の現役続行については、後1シーズンとは言わないが、少なくとももう一度プロのマウンドを踏んでの「全力投球」を見せてもらいたいものだと思うのである。

 我が愛する阪神タイガースにも、工藤選手よりは若いが、金本、檜山、下柳といった現役選手がいるのだが、今シーズンもしくは来シーズンで引退か戦力外通告を受けかねないる年齢的な衰えとも言える状況が見え隠れしているのが現状なので、ファンとしては一年でも長く活躍はしてほしいと思う反面、無理したりお情けで現役続行では、プロスポーツ界では許されないという厳しさの中での球団か個人の決断が今シーズン終了時には待っていると思われるのである。
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「墓参り」のはしご。

2011年08月11日 | ファミリーイベント
 八月十一日、今週末から来週にかけたお盆休みに、先祖の「墓参り」には行かねばと思っていたのだが、ちょうど家内が昨晩、明日は1974年に亡くなった自分の父、私にとっては義父が建立した自分の両親、つまり妻にとっての祖父母と共に埋葬されている義父のお墓参りに行くというので、久しぶりに私も同行し「泉南メモリアルパーク」と称する「大規模お墓団地」に出かけ、その帰りに私の父を含む先祖が眠る「大阪市瓜破墓地」に出かけることとなった。

 たぶん、13日の土曜からは、大変な混雑さえ予想される「お墓参り」のピークなので、少しでも早く行けたらと思っていたのだが、実は義父の命日が17年前の今日なので、お墓参りということで妻が思い立ったのであった。

 実は、17年前の義父が亡くなった日には私は生憎、中国内蒙古自治区へ出かけていて、数日前に義父とは大阪の妻の実家で話もして入院の件は知っていたが、その数日後にまさか亡くなるとは夢にも思っていなかったので、数年前からの恒例となっていた、夏休みの「内モンゴルツアー」を企画し数人の仲間を引率する形で、大草原での遊牧民との交流とゲル生活、おまけに乗馬を楽しむ一週間を過ごしていたのであった。

 当時はまだ関西空港がなかったので、大阪伊丹空港から北京へ飛んで、翌日に夜行列車で内蒙古自治区の東南部にある中核都市赤峰に入り、それから一泊二日かかって内モンゴルの大草原に到着するという旅で、たぶん草原生活の四日目か五日目だったと思うが、私自身が落馬し腰をしたたかに打ったために翌日、翌々日に激痛が走り、なんとか北京に戻った際に日中友好病院での診察を受けたのだが、なんと「骨折している。二ヶ月入院すると共に三ヶ月はコルセットで固定せよ」との医者の診断にびっくりしたことを今でもはっきりと覚えている。

 そこで、やむを得ず国際電話で大阪の実家にいる妻に「骨折した」ことを伝えようと電話をして、はじめて義父が亡くなったことを知ったのであった。

 今から17年前の出来事だが、当時はまだ携帯電話が内モンゴル草原からは送信したりできない状態だったので、私の事故?による「骨折」を伝えるまでに3日間がかかったことになるが、当時も感じたのだが義父が亡くなった命日になった日に私は、ひょっとしたら落馬していたのかもしれないのであった。

 すぐに帰国できる状態ではなく、同行されている仲間を北京郊外の万里の長城にお連れする予定も、私の不慮の事故での骨折で止む無く、慣れ親しんでいた北京の通訳さんと私の友人の張さんに引率を委ねて、私は北京のホテルの一室で腰の痛みを我慢しつつ、衛星放送テレビで一日中、夏の高校野球の準々決勝戦の四試合を観続けていたのであった。

 骨折と診断された私の腰だったが、病院の医師に入院が出来ないので痛み止め注射と服用薬を貰い、念のためにレントゲンの写真を預かって返り、帰国してから自分自身で日本の病院に行って再度診察をしてもらって必要な処置と入院が必要ならしょうがないと思って帰国の途についた。

 当然、義父の通夜や告別式は全て終わっていて、私自身はとんでもないというべきか人生初の骨折という大変な事態の最中にあって、妻をはじめ私の家族、友人たちも巻き込んで「大変なことになった」と、帰国した大阪国際空港に妻と友人たちが車椅子まで用意してもらって待っていてくれたのであった。

 私は北京空港でだいぶ痛さがましに感じたのかストレッチャーも使わず歩いて帰国の途についていたので、帰国手続きを済ませて自らの足で歩いて妻たちの待つロビーへと帰れたのであった。

 大騒ぎとなっていたのは、「もう下半身不随の生活となる」とか「車椅子生活を余儀なくされる」とか最悪のパターンの想像が拡大していたらしく、妻や友人たちは自分の足で帰ってきた私を観て「拍子抜け」したらしいのであった。

 実は、翌日大阪のとある病院の外科の診察を受けて、中国から持ち帰ったレントゲン写真も見せたところ、日本の医者は「全く骨折はない、強打した打撲傷」だと診察してくれて、診察通りその後一週間ほどで全く痛みもなくなり、幸いにも平常生活に戻れたのであった。

 とにかく、人騒がせなこととなったのだったが、私自身の大怪我、骨折はなく良かったのだが、妻の父の死に目には会うことが出来ないばかりか、馬からの落馬で骨折という事故や診断がなかったら、電話すらしてなかったと思われるので、なにやら「ムシの知らせ」ではあるまいが、帰国の途についた折には義父が亡くなったことを知る立場であったことだけは幸いだったのかねも知れない。

 私の記憶では義父が亡くなる約10日前に妻の実家の玄関先の部屋で、亡くなった義父としばらくいろいろと話していたので、なんだかお別れの会話となったのかもしれないのだが、なんとも信じられない義父の訃報であった。

 それから17年経った今日、義父のお墓参りをし、また42年前に亡くなった私の父の墓参りも夫婦ですることが出来、ほんとうに人の一生、いのちがいつ何時どういう形で亡くなってしまうのかは予想もつかない場合が多いのだが、間違いなくそうした祖父母や父母、また親戚があってこそ、今の自分たちが生きていることなのだから、やはり当たり前のことなのだが、祖先に感謝して元気に墓参りが出来る幸せを感じた一日であった。
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夏の甲子園。

2011年08月10日 | イベント
 夏の恒例の全国高校野球選手権大会が球児たちの憧れの地「阪神甲子園球場」で始まって、私の孫のK君も昨年の夏前から軟式野球ではありますが、地元の少年野球チームに参加して、土日を中心に練習、試合を続けて頑張っているので、とても高校野球にも興味があるのだろうと思っていたのですが、何故か試合の動向よりも民放テレビの中継の合間のCMタイムに出てくる「じゃんけんぽん」が一番気に入っているたいで、毎日盛り上がっているみたいです。

 しかし、一応野球少年ですので、今年も一度だけでも甲子園球場に出かけて、生の高校野球の応援をしたいと言い出して、今日地元の京都府代表の龍谷大学平安高校が勝てば、次の試合の予定日は行けないけれど、準々決勝の予定日に京都も含めた強豪8チームを観戦できるので、その日に観に行こうという約束をしたのであった。

 しかし、生憎本日の第三試合でなんと富山県代表の新湊高校に1-4で惜しくも負けてしまったので、それでは私の実家、出身地でもある大阪府代表の初出場高ではありますが、地方大会決勝で見事な逆転劇で代表になった東大阪大柏原高校の三回戦の試合、つまり8月13日の試合を観に行くことを考えようということとなりました。

 四時過ぎに私の娘、すなわちK君の母ちゃんの携帯電話から着信があり、出てるとK君が「平安負けたな!、どうしよう?」と相談の電話でした。

 竜谷大平安高校は、なんと高校野球界ではとんでもない名門で今回夏の大会は戦前を含めて93回目ですが、春の選抜36回、そして夏の大会は今までに31回も勝ち上がって京都もしくは京滋代表として甲子園球場で戦ったことのある実績のチームなのでしたが、富山の新湊高校はたぶん春夏合わせて7回ほどの出場経験しかない高校なのですが、やはり名前だけでは勝てませんね、九回の攻防でも外野フライで三塁ランナーがタッチアップして本塁へと帰ったのでしたが、離塁が早かったらしくアウトとなってしまい残念な結果で敗退してしまった様です。

 一方の大阪代表、東大阪柏原高校は初出場とはいえ、強豪高がひしめく大阪大会で毎回ベスト8を狙える実力のあるチームとして注目を集めていたらしいのですが、大阪大会ではなんと大阪桐蔭高校との決勝戦に駒を進めて、伝統と実力の兼ね備わった大阪桐蔭高校にリードされながら、奇跡的とも言える勝ち方で初の甲子園出場を決めたラッキーチームであります。

 大阪府の高校野球大会は、全国でも北海道、東京に次ぐ大混戦で実力伯仲の大型お野球チームがひしめいているのですが、北海道は北と南、東京は西と東と、同都道から二チーム出場枠があるのにもかかわらず、大阪府や神奈川県はたぶん100校以上が参加する地域ですが、たった1チームだけが代表校として出場できるという大変な狭き門をくぐっての出場ですので、多府県代表よりもより競った結果の代表チームと言えるでしょう。

 大阪府では、あの清原、桑田を生んだPL学園をはじめ、今年の地方大会では惜しくも負けた大阪桐蔭高校、現在プロ野球で活躍する日本ハムファイターズの若き4番の中田外野手や阪神タイガースの岩田投手が在籍していた強豪チーム、またオリックスのT岡田外野手の履正社、メジャーに行った元巨人の上原投手東海大仰星、他にもオリックスの現岡田監督の出身校である北陽高校、元巨人の元木ら選手の上宮高校、近大付属高校など目白押しの激戦区なのです。

 ともかく、全国4千数百校の高校が地方大会に参加して凌ぎをけづって戦った結果、晴れの代表チームとして甲子園球場に出向いても、あっさりと負けてしまって遠い道のりを悔しさと共に涙や記念の甲子園の土と共に帰郷しなければならない高校球児たちが圧倒的に多い中で、今年の夏の甲子園大会は、果たしてどの高校、どの地方代表が栄冠の優勝旗を持ち帰ることができるのでしょうか。

 残念ながら、今年の春に大惨事に見舞われた東北三県をはじめとする被災地のチームはなんとか代表選抜の大会を通して甲子園球場へそれぞれの代表校を送り込みましたが、今のところなかなか戦いは厳しく、今年も東北への真紅の優勝旗が凱旋するといった夢のような話にはなりそうにもありません。
 
 しかし、たとえ優勝できなくても、昨年の春夏連覇の沖縄代表として初出場として甲子園に足を踏み入れた「糸満高校」もそのひとつですが、精一杯の青春の思い出として、真夏の炎天下での独特の雰囲気の中、たとえ敗戦したとしても、大観衆の声援を背に受けての高校球児としての素晴らしい体験と記憶を残して、堂々と帰郷してもらいたいものだと痛感しています。

 てなわけで、私の孫の小学四年生の野球少年K君との甲子園球場での夏の高校野球観戦は、私のふるさとである大阪代表、東大阪大柏原高校の次の試合が行われる、今月13日土曜日になれそうです。彼にとっても祖父母である私や妻の出身地の大阪府代表を応援することは、京都府代表の「平安高校」、彼にとっては、阪神タイガースの「平野選手」と「安藤投手」の「平」と「安」なので、漢字をまだ習っていない時には、「ひらあん」と呼んでいた「竜大平安」が負けてしまった今は、当然大阪代表に強いエールを送るしかありませんので、汗をかきかき「カチ割り」を口に含みながら甲子園を満喫して来たいと思っています。

 とにかく、甲子園球児たちの汗と精一杯のプレイを楽しみにしています。
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「立秋・涼風至」

2011年08月09日 | 季節の話題
 昨日は、「立秋」であり、暦の上では「秋の始まり」だそうだが、今年の夏の暑さはこれからと言った感じで、我が家でも早朝から「蝉の合唱」とでも言うべき蝉が大量に鳴いている。

 蝉が鳴くといっても、蝉の羽音だと思われるのだが、地中に長く生き続けていた蝉が地上に這い出して、地上での生活を謳歌するのは、たった七日間だと知らされているので、なんとも「はかない」感じではあるが、一生懸命子孫を残すために「精一杯生きて」いる姿と習性には、改めて感心するやら呆れたりもするのは、人間様の驕りだろうか。

 とは言え、人間の日常生活も蝉とは全く異なるように見えて、長いか短いかはその人個人によって全く感覚的にも違うのだろうが、人生を七日間に例えて見れば、私の年齢に達すると少なくとも五日目、もうあと一日とちょっとしかないのかもしれない人生なのかもしれないのに、至って暢気に日々を送り、一喜一憂の平凡な出来事はあるものの、切羽詰った気分など全くなく過ごしているのである。

 「蝉の一生」を改めて考えてようと思ったわけではないが、これほどまでに「蝉の声」を耳にしていると、小さな命かもしれないが、必死で生きている感じだけは、ほんとうに見習わねばいけない部分があると感じざるを得ないのである。

 ところで、「立秋」という暦上とは言え言葉を目にし感じると、もう「暑中見舞い」ではなく、「残暑見舞い」の季節となったのだという、人間界でのシキタリや季節的慣わしを考えて、こんなに暑い最中なのに「もう残暑なのか」と自問自答している自分に気づいたり苦笑いをしたりしているのである。

 子供たちは長い夏休みの真っ最中のために、連日連夜暑さをも諸共せずに、遊び、食べ、水遊びをし、大声と笑い声で走り回っている光景や音を、このご近所でも見聞きするし、我が家でも9歳と4歳のやんちゃ坊主兄弟がやってくると、にわかに家中が賑やかになり、今年の夏は東北の大地震の影響で「節電」が全国的に叫ばれているの二もかかわらず、日頃はめったに付けない「エアコン」が、孫の到来時には、いつのまにか当たり前の如くスイッチオンされていて、孫に優しい?、いや孫に甘くて孫思いのばぁばの仕業であることがよくわかる。

 もう一度「蝉の一生」の話に戻るが、蝉は一般的には七年間も地中にいて、地上で生きているのはたった7日間と言われているのが通説なのですが、人間で考えれば10倍したとして、生まれて七十年間眠ったままだった人が突然夏に飛び起きて、七十日つまり真夏の二ヶ月ちょっとだけこの世での活動、人生を謳歌して死ぬといった感じなわけで、蝉の鳴き声は約五センチの油蝉や熊ゼミだとすると人間の大きさと比較すれば30分の一以下なのだから、音が届く範囲が100メートルとしても、なんと3キロ先まで届く大声で鳴いていることとなり、そりゃぁ二ヶ月以上も大声で叫び続けりゃ疲れて死んでしまうのは当たり前と言った感じなのです。
 
 また、蝉の鳴き音は、オスの成虫の腹腔内にある音を出す発音筋と発音膜、そして音を大きくする共鳴室から成り立っていて、腹弁などの発音器官が発達していて、鳴いてメスを呼んでいるといわれているが、メスの成虫は腹腔内は大きな卵巣で満たされていて、尾部には硬い産卵管が発達していて、ともかく子孫を残すための生殖のため一週間を精一杯生きていることがよくわかるのである。

 真夏の現在、よく鳴いている蝉はたぶんアブラゼミかクマゼミと思われるのだが、幼虫として地下生活をしているといわれる3年~17年という長さは、実は短命ではなく昆虫の仲間の中ではとっても上位に入る寿命の長い生き物だともいえるのである。

 一般的には、午前中はクマゼミが鳴き、午後にはアブラゼミやツクツクボウシ、朝夕の比較的気温が低いときに鳴いているのがヒグラシといわれ、ニイニイゼミは早朝から夕暮れまで鳴いているという。

 真夏に鳴くといわれる蝉だが、一番暑い日中は少なくなるようで、朝夕の比較的涼しい時間帯の方が、多くの蝉の鳴き声が聞けるのだが、地上での短い一生の蝉をとろうとする子供たちがいて、失敗するとよく「おしっこ」をかけられるというのは、「仕返し」や「攻め」のためではなく、実際には飛翔の際に体を軽くするために排泄するという説や膀胱が弱いからと言われていて、体内の余剰水分や消化吸収中の樹液を外に排泄しているだけで外敵狙いではなく、樹液を吸っている時にもよく排泄しているという。

 真夏の象徴でもある「蝉の一生」は、真夏の一瞬の交尾からメスが産卵し、翌年孵化した幼虫が木の根っこなどに前脚で穴を掘り、土中にもぐり込んで長い地下生活に入り、導管より樹液などを吸って成長し、地中生活でも数回脱皮を行い、天敵のモグラ、ケラ、ゴミムシなどや菌類、いわゆる冬虫夏草などに食べられたり冒されたりする危険性を逃れた幼虫が、晴れて数年たって地上に這い出し、まだ若い全身が白い幼虫が羽化して、やっと成虫となるのだが、この羽化がまたとってもドラマチックなショーの様で、観る私たちを感動させてくれるものである。

 いずれにせよ、まだまだ真夏、今日は真夏日、熱帯夜となりそうで、「立秋」や「涼風至」という暦上の言葉が白々しい日々が続くと思われるのだが、皆様くれぐれもお大事に。残暑お見舞い申し上げます。

 

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