あの話題の井筒和幸監督の「パッチギ!」から二年経って、感動の新作として、「パッチギ!LOVE&PEACE}を観た。
実は、前作の評判を見聞きしていたのだが、前作を見る機会がなく、今回の作品は必ずみたいと思っていたら、スマスマの吾郎ちゃんの月一の「映画ベスト5」でベスト1とされていたので、早速レイトショーで観たのである。
あの毒舌の元ロマンポルノの監督で、「ゲロッパ」ヤ「のど自慢」などの評価の高い作品を世に生み出している井筒監督に、「フラガール」という傑作の脚本で有名になった羽原大介が脚本を共同で執筆して、今回の「パッチギⅡ」が実現した。
簡単に言うと、在日朝鮮人の家族が、日本での生活で「差別」を意識せざるを得ない中で、第二次世界大戦での「皇軍」として参戦した苦い経験をダブらせながら、現代を力強く生きる「在日家族」の物語である。
舞台は1974年。京都で大暴れしていたアンソン(井坂俊哉)が息子チャンスの難病治療のために、東京に引っ越してきたところから始まった。
ある日、駅で宿敵に遭遇して大乱闘になり、国鉄職員の佐藤(藤井隆)に助けられたが、佐藤元首相が何故かノーベル平和賞を受賞したので、彼はノーベルと呼ばれるのだが、乱闘で相手に重傷を負わせたことで、彼は国鉄を首になりアンソン家族と仲良くなり、アンソンの妹キョンジャ(中村ゆり)に思いを抱くようになる。
キョンジャは焼肉屋のアルバイト中に怪しげな芸能屋にスカウトされ、様々な思いを胸に芸能界に入り、著名な俳優の野村(西島秀俊)に声をかけられ恋に落ちる。
一方でアンソンはチャンスのアメリカでの治療費を捻出するため、危険な仕事にノーベルを誘って賭ける。
そんなストーリーの展開の中で、やはり「朝鮮人」である「差別」で野村と恋に破れたキョンジャが、女優として大作のプロデューサーと寝て、大抜擢されて準主役を演じ、その映画完成の舞台挨拶で、「自分の家族の戦争体験」として朝鮮人であることを告白して、映画は終幕を迎えるのである。
「家族愛」「祖国愛」「友情」「反骨精神」「一生懸命」などの、現代の日本社会に見失われつつある、純粋かつエネルギッシュな「心」が、この映画からはほと走って来た。
「笑い」と「涙」と「感動」という、エンターテーメントの要素を、随所にちりばめながら、現代の日本社会と差別、人権、平和を考えさせてくれる「映画」として仕上がっていた。
「パッチギ」とは、「乗り越える」という意味があり、また「頭突き」という意味も持つそうである。在日に限らず、朝鮮人の力強い「乗り越える」力に敬服した。
実は、前作の評判を見聞きしていたのだが、前作を見る機会がなく、今回の作品は必ずみたいと思っていたら、スマスマの吾郎ちゃんの月一の「映画ベスト5」でベスト1とされていたので、早速レイトショーで観たのである。
あの毒舌の元ロマンポルノの監督で、「ゲロッパ」ヤ「のど自慢」などの評価の高い作品を世に生み出している井筒監督に、「フラガール」という傑作の脚本で有名になった羽原大介が脚本を共同で執筆して、今回の「パッチギⅡ」が実現した。
簡単に言うと、在日朝鮮人の家族が、日本での生活で「差別」を意識せざるを得ない中で、第二次世界大戦での「皇軍」として参戦した苦い経験をダブらせながら、現代を力強く生きる「在日家族」の物語である。
舞台は1974年。京都で大暴れしていたアンソン(井坂俊哉)が息子チャンスの難病治療のために、東京に引っ越してきたところから始まった。
ある日、駅で宿敵に遭遇して大乱闘になり、国鉄職員の佐藤(藤井隆)に助けられたが、佐藤元首相が何故かノーベル平和賞を受賞したので、彼はノーベルと呼ばれるのだが、乱闘で相手に重傷を負わせたことで、彼は国鉄を首になりアンソン家族と仲良くなり、アンソンの妹キョンジャ(中村ゆり)に思いを抱くようになる。
キョンジャは焼肉屋のアルバイト中に怪しげな芸能屋にスカウトされ、様々な思いを胸に芸能界に入り、著名な俳優の野村(西島秀俊)に声をかけられ恋に落ちる。
一方でアンソンはチャンスのアメリカでの治療費を捻出するため、危険な仕事にノーベルを誘って賭ける。
そんなストーリーの展開の中で、やはり「朝鮮人」である「差別」で野村と恋に破れたキョンジャが、女優として大作のプロデューサーと寝て、大抜擢されて準主役を演じ、その映画完成の舞台挨拶で、「自分の家族の戦争体験」として朝鮮人であることを告白して、映画は終幕を迎えるのである。
「家族愛」「祖国愛」「友情」「反骨精神」「一生懸命」などの、現代の日本社会に見失われつつある、純粋かつエネルギッシュな「心」が、この映画からはほと走って来た。
「笑い」と「涙」と「感動」という、エンターテーメントの要素を、随所にちりばめながら、現代の日本社会と差別、人権、平和を考えさせてくれる「映画」として仕上がっていた。
「パッチギ」とは、「乗り越える」という意味があり、また「頭突き」という意味も持つそうである。在日に限らず、朝鮮人の力強い「乗り越える」力に敬服した。