ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

東北の被災地支援に出発!

2011年06月26日 | ガリバー旅行記
 東北大地震から、早や100日を越えましたが、未だに被災地の皆さんの生活は当然だと思いますが、前の状態に戻るわけはありません。

 しかし、東北地方も本格的な梅雨入りをして、大津波に見舞われた地域の中には地盤沈下や防波堤の損壊などで日常的に浸水していて、日常生活もままならぬ地域もたくさんあると思われます。

 やはり義捐金も必要ですが、赤十字の義捐金もまだ相当額が被災者や被災地支援に直接活かせる形では届いていないと言われている現状だと聞きますので、ここは一度は直接に現地に行って、少しでも支援のお役立ちをしたいと思い、今晩の夜行バスで一路仙台へと向かうこととなりました。

 全国社協が窓口の天災型ボランティア保険にだけは加入手続きをして、久しぶりのリュックに簡易な一人用テントと寝袋と着替えを入れて、ポンチョ、軍手、長靴などの必需品は携行して出かける準備を整えました。

 さて、東北大震災の被災地は縦に長く広範囲ですので、何処に行くかは確定はしていませんが、昔音楽関係の仕事をしていた時期に一年間、宮城県仙台市に一週間に一度必ず仕事として仙台に日帰りで行っていた関係で、現在も仙台を中心に知人、友人がたくさんいるので、やはり人間関係としての縁のある、宮城県にボランティアとして行く事としました。

 行く途中に石巻出身の元気な高齢者で東京でお仕事を続けておられるOさんに会って、石巻を中心とした生の情報や希望を少しはお聞きしてから、仙台から再びバスか電車で太平洋沿岸の町へと行くつもりです。

 一応、インターネットを通じて事前情報とでも言うべき各地域の被災状況と各地域の社協やボランティア窓口の状況を調べていますが、少しでも微力ながらお役に立ちたいとの思いですので、最終的には何処にたどり着いて役立つ仕事が出来るかはわかりません。

 そのために、今週金曜日までは「ガリバー通信」のブログも半分お休みとなると思いますが、時間と携帯の充電が可能であれば、少しだけ現地からの情報、感想が送れるかもしれません。

 ともかく、こんなおっさんでも困っている人、被災地の方々のちょっとでもお役に直接立ちたいとの思いですので、16年前の阪神淡路大震災の際のトラックに支援物資を満載しての二日間の現地救援とは違った形での、ひとり旅ですがぜひ有意義なものにしたいし、新たな被災地の皆さんや社協関係者、ボランティアの人たちとの出会いも楽しみに出かけたいと思います。

 京都もここ数日真夏なの暑さになり、まだ梅雨の真っ最中なので暑さが身に知る時期ですが、家や仕事場を失い、中には大切な人やペットやあらゆるものを失くしてしまった人々の悲しみの地域にも、容赦なくこの暑さと梅雨が襲い掛かっていると思いますが、決してくじけない「ガンバロー精神」の人々が多いと聞いている東北の人たちから返って勇気と励ましを受ける旅になるのかもしれないと思っていますが、私らしく老若男女を問わず、いろいろとお話もして体を動かし汗をかきたいと思っています。

 ぜひ、京都に帰ってきたら、ささやかな報告と感想をガリバー通信でお届けできればとも思っていますので、よろしくお願いします。では行って来マース!
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「山谷」で出会ったTさんの訃報。

2011年06月20日 | ガリバー旅行記
 今月の13日、一週間前に学生時代に「東京・山谷」で出会って以来の知人であったTさんが亡くなっていたという知らせが大学時代の同級生からの電話で届いた。

 突然の訃報ではあったが、ここ数年彼の体調は好くなかったことはうすうす知っていたので、残念ではあるが驚きは特になく、同級生との電話でも、ご家族での家族葬を済まされているとのことだったので、まともなお別れは出来なかったのだが、彼を知る友人、知人たちに呼びかけて秋にでも「彼は偲ぶ会」でも企画しようということとなった。

 実は私がTさんと会ったのは、今から40年以上前の大学一年生の後期試験が終わって直行した「東京・山谷」だったのだが、それ以来折に触れては訪ねて来てくれたり、彼独特の手書きのハガキで近況を知らせてくれたり、また彼の人生のライフワークともいえる「東京・山谷」と「キリスト教」に関する自書や発行物を郵送してくれたりと、なかなかのエネルギッシュなおっさんであった。

 体格は非常に小柄であったが、独特のしゃべり口調と時折見せる人なつっこい笑顔に彼を知る多くの知人たちは魅せられたりして、ユニークな世界を醸し出してくれた御仁であった。

 私たちが出会った当時既に30歳を超えていたと思われるので享年とって70歳は過ぎての死去なので、決して若い死とは言えないが、彼にとっては東日本大震災、大津波、原発災害という未曾有の大事件の年に、静かに息を引き取るということは夢にも思っていなかったのではないだろうと想像するしか出来ないのである。

 いつも何かに向かって挑戦し続けていた男だと思うので、ともかく生前のエネルギーの最後に何をしょうと考えていたのだろうかとも思ってやまないが、今は亡き男となってしまったので憶測することすら出来ないのは当たり前である。

 1967年2月下旬に、初めて東京・山谷の「泪橋」という電停付近で「立ちんぼう」と呼ばれる「日雇い労働者」のひとりとして「仕事待ち」をしたことから始まる「私の山谷体験」は、それから約二ヶ月間、当時の山谷にあった「隅田川伝道所」と名づけられた小さなキリスト教の教会との出会い、そしてその伝道所の自称「書記」と称する男Tとの交流として続いたのであった。

 実は、私が「山谷」に行くことを決意したのは、一斉を風靡した「フォークの神様」と後に呼ばれる男、「岡林信康」の多大なる影響であり、大学一回生の夏休みが終わった9月下旬に、初めて「山谷」という日雇い労働者の町に行った岡林の体験談を同志社大学のキャンパスの南側にある「御所」で聞いたことに起因していた。

 まだ?まじめな学生だった私は、とにかく一年生の後期試験を終えたら、自分も社会勉強のつもりで東京・山谷に行こうと決めていたので、最終試験が終わった日の夜行列車で東京へと向かったのであった。

 学生スタイルのジーパンとTシャツに少し長髪だったと思うのだが、何故か足元だけは革靴を履いていたために、安宿に泊まった翌朝の仕事を求めての「立ちんぼう」では他の仕事を求める男たちとは異なった異彩を放っていたことだろうと昔のことだが思い出すのである。

 仕事が終われば、「江戸の男は宵越しの金は持たない」とまで言う形で、男たちは酒を飲み、日銭を稼いでも翌朝には「ドヤ代」を払ったら一文無しという生き方の輩たちも多く、夜通しに近く語り合ったり議論をしたものだったが、その中心に常にTさんがいたのであった。

 日本の資本主義社会の矛盾と現実を凝縮した様な町「東京・山谷」での経験は、私にとってはとんでもなく強いカルチャーショックとも言える初体験であり、その後の社会的活動や思考に大きな機転となるに至ったと言っても過言ではないわけなので、「山谷とTさん」との出会いは、私の人生にも大きな影響を与えことは間違いない事実である。

 それから私は大学中退を余儀なくされ数年後に、Tさんのちょっとした誘いもあって、前述した岡林が所属するフォーク音楽をプロデュースする事務所の系列のマイナーなレコード会社に就職し、自らも小さな音楽出版の事務所を設立するに至って、例のみなみらんぼうの詩曲の「山口さんちのツトム君」というヒット曲の出版権とプロデューサーとしての仕事に出くわすこととなったのだから、やはりT氏の存在がなかったら、音楽事務所の仕事にはついていなかったのだろうといえるのである。

 懐かしさもこめて思い出すのは、彼が山谷から大阪に来て、西成の釜ヶ崎で小さな無認可保育所があり、そこの保母さんに惚れて押しの一手で結婚したことであり、間接的ではあるが私も未亡人となられたNさんの仕事ぶりを知っているひとりだったので、それで良かったのかなと疑心暗鬼の時期もあったが、よくぞNさんが添い遂げられたことだと思い、彼女の勇気と忍耐強さにも敬服する次第である。

 Tさんのご冥福を心から祈るものである。
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「一枚の葉書」

2011年06月02日 | ガリバー旅行記
 「一枚の葉書」に感動をお覚えたり、勇気づけられることがある。

 私の場合、20代から30代にかけて「音楽」関係の仕事に関わっていたので、よく地方へキャンペーンやコンサートやライブに出かけていたし、30代から40代にかけては「子供の遊び」に関わる仕事の関係で、「遊陣」と称する「遊び場情報誌」の取材の仕事もしていたので、いまになって思えば全国各地に多種多様な出会いからの知人、友人がいて、現在もそのうちの多くの人たちと年賀状を含む葉書や手紙、そしてメールや携帯電話でのこうの交流が続いている。

 そんな中の私よりずっと先輩のO氏から「一枚の葉書」を先日いただいたのである。

 「一枚のハガキ」といえば、現在98歳にになられた日本映画の著名な監督のひとりである新藤兼人監督が昨秋クランクアップした49作目の映画が「一枚のはがき」というタイトルで、今夏に全国的に上映される予定だと知ったのだが、この映画は戦時下で、一枚のハガキか召集令状で戦地に赴いた、ひとりの兵士が妻からのハガキに対しての返信を同僚兵士に託して、戦死してしまうのだが、この同僚兵士が生きて帰国し彼の実家や妻を探して訪ね歩くというストーリーらしい。

 しかし、私の手元に届いた「一枚のハガキ」は全く違ったものなのだが、黒のサインペンで丁寧に一字一字書かれた東京からのハガキであり、「拝啓」という今時珍しいとも言える書き出しで縦書きで書かれた丁寧な「一枚のハガキ」であった。

 少しづつ梅雨の気配ですが、お元気ですか。と文章が始まっていて、私の方は、元気で相変わらず会社勤めですが、昔いた石巻市が津波で、家は流失、妹は無事という状況です。と現在東京に住まわれているOさんの近況が綴ってあり、そのあとに私の近況を尋ねられて気遣っておられる様子が記されていました。

 そして「私のところも一から出直し、シンプルライフでいきます。目標がある人は幸せです。私は先日80歳になりましたが、90代に向かって何か一つやりたい気分でおります。がんばれ日本!がんばれガリバーさん!と結んであったのです。

 このハガキを郵便受けで見つけた時は、ちょうど車ででかける時だったので、「一枚のハガキ」を手にとって所用を済ませようと出発したのですが、途中の信号待ちでハガキの文章を読んで、とっても強い感動を覚えて嬉しくてたまりませんでした。

 なんと80歳になるOさんが、まだまだその足元にも及ばないヒヨッ子のような後輩の私に、最大の賛辞と共に自らは90歳に向かって目標を持って生きれることの幸せを記しつつ、私に対しての最大のエール!を送ってくれていたのでした。

 彼との出会いは私が20代の後半に東京で小さな音楽事務所を設立し、所属タレントの生まれ故郷に近い仙台の東北放送ラジオでの深夜番組のパーソナリティーとして一年仕事をした折に、マネージャーとして付き添いながら毎週収録のために東京から日帰りで仙台に行っていた際に、スポンサーの企画社員として初めて会ったのでした。

 それから一年間、彼は何かにつけて番組の構成やイベント企画などと直接表には出なかったけれど、いつもにこやかな笑顔で私たちを包んで下さり、出演者だけではなく関係者である私とも親しく付き合ってくれた御仁だったのでした。

 それから私たちの仕事も終了し、80年代には私自身も京都に移り住んで、音楽業界の仕事とも直接的には縁がなくなったのですが、彼とは年賀状だけでなく何かにつけて交流機会ができていたのでした。

 京都に住んで十数年経ってから、Oさんは居を東京に構えてフリーランスな形で仕事をしていたらしいのですが、定年後は京都の会社で数年間は、広告宣伝のコピーライターとして仕事をされていたこともあって二度ほど京都駅周辺でお会いしたことがありました。

 その後、東京に戻られてからも時折お手紙やハガキをいただくのですが、その都度「年をとっても何かに挑戦し続けている」というOさんの近況にはいつも励まされていたのでずが、今回も二十歳近く年上の先輩でありながら、非常に温かい文章と字体で私に励ましの一文を送って下さったことに、心からの感謝とともに「返礼」の「一枚のハガキ」をお送りしました。

 人生には「しんどい時」「つらい時」「心が沈んだ時」など幾度となくあるものですが、大震災と大津波で被災された石巻が故郷であるばかりでなく、今年「古希」を迎えられた人生の大先輩に、この様な「一枚のハガキ」で激励をうけたことに感激したことを「きっかけ」に、私も友人、知人への「一枚のハガキ」を大切に書こうと心に誓ったのです。

 今回のOさんからの「ハガキ」だけでなく、匿名の二児の母とする若いママからの「一枚のハガキ」もあって、大事に私の書斎の引き出しにしまってあるのですが、私も届ける相手に喜んでいただける「一枚のハガキ」を出せるようにと思っています。
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3度目のマルガリータ。

2011年05月01日 | ガリバー旅行記
 選挙が終って、心身共に疲れが残る日々だが、ゆっくりと温泉にでも行きたい心境だったが、近くのスーパー銭湯に行って、少しでものんびりしたくなって出かけた。

 そこでジェット風呂やエステ風呂、おまけに薬用風呂なども体験して、露天風呂で寛いでいるときに、ふと浮かんだのが「マルガリ」であった。

 ちょうど銭湯に、散髪屋が併設されていたので、早速風呂上りに銭湯で「丸刈り」にしていただいた。

 さて、「何ミリにしますか?」と尋ねられて、さぁ何ミリが適切なのかは咄嗟のことなので少し迷ったが、過去の経験?から、スキンヘッドではなく、一番「丸刈りらしい」長さはと思案していたら、お店の方が「6ミリで一部刈ってみて、手触り感を見てから必要なら、もっと短くできます」試みてくれた。

 そこで、「そりじゃあ、3ミリでお願いします!」と決断して、あとは目をつぶって「丸刈り」の完成を待つのみであった。

 そういえば、今回の「敗者のけじめ」の「丸刈り」は、生まれて3度目の「決意」の「丸刈り」だったのである。

 戦後の生まれの団塊の世代の私なので、生まれてたぶん小学校に行くまでは、自分の意思ではなく「丸刈り少年」であったことは、幼児期の残された白黒写真で知っているのだが、小学生時代は普通の少年のような調髪をしていたのに、再び中学校入学時には「丸刈りにせなあかん」と言う世間?の目があったようで、素直に再び丸刈りにして高校時代を卒業するまでは普通の丸刈り青年時代を送っていた。

 そして、それから40年余は、どちらかというと「長髪のぶるい」に入ると思われる少し長めの髪形を好んで散髪屋さんには、三ヶ月に一度くらいしか行かない「超経済的」な、あまり髪型やファッション的に自分の顔、形に合うか合わないかなど考えずに、自分流に「ガリバー風」に過ごしてきた。

 しかし、還暦を迎えた後にネパール、インドを一人旅した折に、インドのブッダの生誕地ルンビニや、ブッダガヤ、ヒンズー教徒の聖地となっているガンジス川のヴェナレスを巡って、約10日間歩き疲れて、最終日夜行列車に乗って、あの世界遺産にもなっている「タージマハール」のあるアグラの町に行く夕刻、時間があったので「仏心」が身について、「断髪」をしたのが二度目の「丸刈り」であった。

 その「丸刈り」は、駅外れの小さな「床屋」で、「スキンヘッド?、オールヘアーカット!」などという怪しげなブロークン英語で店主に伝えての「70ルピー」のカット代を「50ルピー」に値切っての「マルガリータ」であった。

 インド風か中国風かはわからないが、カンフーやラストエンペラーなどの映画に出てくる人の様に、丸刈りなのに後ろ髪が少しだけ残されての「面白い丸刈り」であったのだが、それから3年余、こういう形で再び「丸刈り」をすることになろうとは思っても見なかったのだが、あっさり、すっきりと「3ミリカット」になってしまった。

 なかなか、実際の写真ではお見せできないのだが、やはり年波を感じる姿、顔になったなと実感している今日、この頃である。
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「私の恋文」が届いた!

2011年01月27日 | ガリバー旅行記
 20数年前にひょんなことから出会った、当時は広島県庄原郡総領町の「和田芳治」さんから、年賀状代りの「私の恋文」NO.377号が届いた。

 家内が年賀状の「お年玉抽選」の当選番号も発表されたので、今年いただいた年賀状を整理してくれているのだが、どうしても葉書大ではない数点の年賀代わりの通信がファイルにはしまいきれずに、新聞などをいれている日常のいまにる小さな整理籠に、この和田芳治氏からの「私の恋文」は入ったままなのであった。

 彼との出会いは、何がきっかけだったのかは忘れてしまったが、私がかかっわっていた子どもたちの遊び場活動「プレイスクール」の「夏の発明学校」の開催地として、いろんな情報の中で「過疎を逆手に考える会」というのを主宰されていた、当時広島県北部に位置する「総領町」で、社会教育やリクレーション活動などを精力的にされていた彼を紹介されて、車で遠くの過疎の町を訪ねたことがあったのである。

 その後。無事「発明学校」を四泊五日くらいで開催し、多大なお世話になったはずなのだが、それ以来お会いする機会は何度かあったのだが、いまだゆっくりと再び現在は平成の合併で広島県庄原市になってしまった総領町を訪ねることができずに今日に至っているのである。

 しかし、彼が主宰する「人間幸学研究所」と称するグループが発行する、書き手はもちろん和田芳治氏本人なのだが、「私の恋文」が送付されてくるようになったのである。

 今号のトップには、「あんた自分を騙しちゃぁいませんか」とあり、もっと「甚六流」ねすなわち自分流に、もっともっと人を大切に。とご本人の墨字で書かれているのです。

 「2011年の夢」としては、人のほ世は「円」よりも「縁」と信じたいとタイトルし、今年も「金よりも大切なものがある」の物差しで、「いい人」との「縁」を求めて出歩きます。汗します。しゃべります。出来ればあなたも「人間幸学笑店」の「地縁店」になってくださいとあります。

 彼は総領町の教育長まで務めた人なのだが、「和田芳治」は、間違いなく「例外人間」であることを確認しましたと記す中では、「フツー人」という立場を大切にしてきましたが、「私は間違いなく例外人間である」ことを受け入れて、今後は「百歳まで生きて、お返しがしたい!」と、想伝想祭「輝爆剤」出版記念、結婚記念40周年祝賀パーティーで、自ら語っている方です。

 いつも言葉遊び的な造語も含めて、奇想天外な企画や活動を次から次へと仲間に呼びかけては機動力として働き、アイデアと人脈を駆使して、「もっと遊びましょう!」と、呼びかけている御仁なのです。

 実は、彼は今年70歳くらいだと思うのですが、「生前葬」とやらを行ったそうで、「お別れの言葉=遺言」を一時間話し、参列者からは全員スピーチ(弔辞)をもらったそうです。

 「やりたいことを楽しみながら私のためにやる」、出来ればそれが、みんなのため、地域のためになればいうことなしの「遊び半分」で。

 「私は人間大好き派。素敵な人を求めて汗し続け、そんな人に出逢ったら、その人から学ぶだけでなく、力や志を志援しながら私も輝きたい。

 「越えて行くあなたが私の後継者」と決め、「越えて行く人」を志援することのできる人間でありたい。

 これが和田芳治さんのこだわり、やってきたことで、「面白がればなんだって面白い」の「究極のいのちを輝かす法」につながる生き方と確信したと生前葬の遺言で語られたそうです。素晴らしいことです。賛同です。習いたいと思います。
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珍獣・バビルサ。

2011年01月16日 | ガリバー旅行記
 正月明けのPCメールに、バリ島ウブド村通信があり、「バビルサに赤ちゃんが生まれました」というタイトルで小さなカパの様な写真が送られてきました。

 私はいろんなメールの送受信をしているうちに、ウブドに住むMさんに「カバの赤ちゃんの誕生」と返信してしまい、M氏から再度、「カバではなくてバルビサです」と訂正のメールが届きました。

 聞きなれない動物の名前だったことと、実際に見たことの記憶のない動物だったためにタイトルに明記されているのに早やとちりというか、間違って記述してしまったわけなので、お詫びして訂正して、その「バビルサ」という動物について改めて学びました。

 バリ動物園で飼育されている「バビルサ」とは、直訳すると「豚鹿」で、雄には鹿のような牙が生えていて、インドネシアのスラウェシ島北部にしか生息していない珍獣といわれている動物なのです。

 絶滅危惧種の動物で、インドネシアのスラバヤ動物園を中心に飼育、保護活動が進められており、そのうちのオス一頭、メス2頭、計3頭がバリ動物園で飼育されていて、その一頭に子供が生まれたというのですから、正月にふさわしい明るくうれしい話題だったわけなのです。

 バビルサが危機に瀕しているのは、森の減少と深く関わっていて、昨年バリの森を考える会では、そのバルビサを見て森のことに関心を深めようと見学会を実施したりされていて、日本人で唯ひとり十数年間にわたって、バビルサの保護活動に取り組む伊東政明さんという方がおられ、バビルサの現状について、ウブドの「ビラ・ビンタン」で報告会をされたらしいのです。

 二頭いるメスのうち一頭が昨年12月2日に雄、雌双子の赤ちゃんを産み、その前にはもう一頭のメスも赤ちゃんを産んでいて、二重の喜びだそうで、どの赤ちゃんも丸みを帯びた体格で順調に成長していて、家畜の子豚と比べると四肢と尾が細長いの特徴で、とてもかわいくよく見るとビロードのように赤みを帯びた茶色の短い体毛が生えていて、猪の子供ウリ坊のような縞模様はないそうです。

 もともとバビルサは一回の出産で一頭しか生まれないのが減少の一因とされているのですが、今回は非常に珍しいケースで双子の父親も双子のうちの一頭だったらしく、血統的に双子が生まれたらしいといわれているようです。

 現在バリ島のウブド近くのロットンドゥに「バビルサ基金本部」を伊東さんが設立され、東京に支部をおいて活動をされるそうなので、今後もバビルサの種の保存と個体数が増えることを守りつつ、少ない個体からの出産による近親交配の課題はあるものの、うれしいこのニュースは地元の「じゃかるた新聞」や「バリポスト」でも報告されていて、今後もバリの森を考える会もバルビサの子どもを見る会を企画したり、双子の赤ちゃんの成長を見守っていくそうです。

 NHKテレビの「ダーウィンが来た!」で、今晩このバリ島の「バルビサ」が紹介された模様です。

 
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ジェゴグの公演の夢。

2011年01月10日 | ガリバー旅行記
 一昨年の春に、前年の夏の内モンゴルツアーでお世話になった小さな旅行社の懸賞というのか、抽選でプレゼントされたのが、バリ島往復航空券だったことから、初めてインドネシアのバリ島に出かけて4泊5日の異文化体験をしたのであった。

 その折の旅行記というか感想も、我がブログで以前に記したと思うのだが、そのバリ島の山岳部の麓の町ウブドに滞在し、素敵なコテージを経営しているMさんとの交流のネット通信が正月明けのPCメールの解禁でたくさん舞い込んだのである。

 その中で思い出したことがあって、M氏に返信したところ、バリのウブドで出会ったSさんが夢見ている、日本でのバリ民族楽器の演奏「ジェゴグの日本公演」は、まだ実現していないとのことであった。

 ご存知の方も多いと思うのだが、この「ジェゴグ」というバリの民族楽器による演奏は、とても迫力のある大きな竹筒や竹をビブラフォンの如く組んだ楽器を主に、多くの男たちが上半身裸でたくましく演奏するので有名であり、バリ島を訪れる観光客の多くは、この伝統的な素朴で強烈な民族楽器の演奏に魅せられるのである。

 私もバリ・ウブドでの滞在の三日目の夜、このジェゴグの演奏会を聞きに行って、とても感動したのだが、演奏している男たちの中に何人かのコテージで働く従業員の顔があって、彼らが仕事をしながら伝統的なバリの音楽演奏を練習し演奏し続けていることに改めて感銘をうけたことを覚えている。

 この「バリ民族楽器演奏・ジェゴグ」に魅せられて、自らの大学院での研究テーマとして、現在修士論文をまとめ中の女性が、近い将来に「日本でジェゴグの演奏会」をとの夢を抱いているのだが、相当の人数の演奏する男たちの日本への渡航費や宿泊経費などとジェゴグの独特の楽器である大きな竹筒や民族楽器の輸送、運搬についても多額の費用がかかると予想されることから、多額のスポンサーを探しつつ、今後ぜひ実現したいという大きな計画を温めているのである。

 確かに多額の資金を要する「バリのジェゴグ日本公演」だと思うのだが、「夢」はいずれ現実のものとなると私は確信しているのだが、具体的な見通しは見えないし、何から光が見えてくることやらと本人は思っているのかも知れないが、ともかくいろんな機会、場所で「ジェゴグを呼びたい!」と言い続けることだろうと思っている。

 多くのバリ島に魅せられた日本人観光客をはじめ、民族音楽を研究したり愛する人々の情報や交信を通じて、いつかこの計画が夢ではなく実験する方向へと歩みだすことだろうと私は楽観的に考えているのだが、大変なことには違いない。

 ぜひ、多くの皆さんにバリの民族楽器演奏、ジェゴグを日本国内でも聴いていただける機会としての「ジェゴグ日本公演」の実現に、私も微力ながらサポートしたいと思うので、皆さんもその節にはよろしくご協力、ご支援をお願いいたします。
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越南、印度、泰国、ラオス。

2010年12月19日 | ガリバー旅行記
 「ゴードウリヤー交差点」とタイトルがついた、私の知人の若き奥様の旅行記を預かって読んだのである。

 たぶん二十代に結婚した若き新婚夫婦が選んだ海外旅行先の最初がベトナムであったらしく、2004年に越南、2005年に印度。2006年に泰国、そして2008年にはラオスへと夫婦で出かけた時の彼女の旅行記なのだが、なかなか瑞々しい感性で書かれた旅行記は、私にも新鮮で一気に読み更けって400数頁の小さなサイズの自己出版の本なのだが一ヶ月足らずで読了したのであった。

 彼女は数ヶ月同じ仕事場でご一緒だった縁で、数回お昼ご飯を共にした時に語っただけなのだが、新婚間もない奥さんである彼女の方が積極的な旅志向の持ち主であり、だんなさんの方はともかく慎重派の典型的な旅志向だと思える食い違いや喧嘩が「旅」に関しては絶えない仲のいい夫婦の様であった。

 私自身は多くはないが、中国は内モンゴルへの20数回の旅経験を中心に、東南アジアではタイ、フィリッピン、バリ島、南アジアではインド、ネパールに旅したり、あとはオーストラリアと当時のソビエト連邦、現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシなどを旅した経験しかないのだが、やはり地元の庶民の生活の中まで、出来るだけ行っては食文化をはじめ、その地域、国の文化や生活習慣を見たり経験したりしたい方なので、いわゆるパック旅行や団体旅行は苦手だし、あまり行きたくはないのである。

 この本を自費出版で何冊か印刷したという彼女は、若き女性としては珍しい方かもしれないが、ちょっとした冒険心の持ち主であって、時間さえあれば現地の庶民生活の中に入って行って、簡単な英語とボディラングェージを駆使してでも、現地の人と少しでもコミュニケーションを取りたいという旅の仕方をしている人なのである。

 だから、東南アジアの前記した四つの国、越南、印度、泰国、ラオスを旅した時の旅行記の随所には、ご主人である彼との選択肢の違いや行動力の違いが出ていて、なかなか逆に楽しく読ましてくれる作品となっていたのであった。

 たぶん、私と妻が一緒に海外旅行したのは唯一オーストラリアしかないのだが、真逆と言ってもいい感じで、私は暴走こそしないが、やはり現地の生活者とのふれあいやコミュニケーションや出会いを少しでも求めて旅をしたい方なのだが、妻はたぶん「安全かつ慎重」な選択をする方の性格と思われるので、彼女は欧米志向の旅の希望はあると思うのだが、モンゴルや東南アジアへは、あまり行きたがらないのである。

 私は、彼女の旅志向が本を通じても共感できるためもあって、楽しく読ませていただけたのだが、やはり「旅の楽しさ」の根本に価値観というべき志向が異なっていると、あまり面白くは感じないのかも知れないと思ったのであった。

 まだまだ若い者には負けない?なんて言うのではないが、世界だけでなく日本の中も含めて、時間と金に余裕があれば、いろいろと旅して見たいと思っている私にとっては、彼女の書いている旅の記録や仕方が自分の志向に似ていて、余計に刺激になったのであった。

 何故、自分の旅行記を若くして記したのかと聞いて見ると、意外な返答が返ってきたのである。

 まだ30代の彼女なのだが、自分の孫におばあちゃんはどう生きたかを残しておきたいとのことであった。

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突然の心の旅。

2010年10月19日 | ガリバー旅行記
 秋空を眺めていると、ふと旅に出たくなると言った感じの、とっても気持ちのいい季節がやって来た。

 今日も仕事だったのだが、なぜか現場に向かう車を運転しながら、感傷的になったわけでもないのに「涙がでそうになった」のである。

 その理由はと?自らに問うてみても、すぐにはその原因が分からなかった。

 仕事を終えて、帰宅してしばらくして、そういえばと昨夜の電話を思い出したのであった。

 その電話というのは、昔、むかしの小学校時代の知人からの一本の電話であり、ご高齢になられた元教師の方が、奈良県にお住まいで、近々同窓会とでもいうべき集いを持たれ、私にも来てほしいとのお誘いの電話だったのである。

 その元先生との面識はあるのだが、なにせ50数年前の小学校時代に音楽を学んだことがあるのか、それともただ隣のクラスの担任だっただけなのか定かではないが、いちおう存じ上げている先生なので、お誘いの機会なので参加してみようと思ったのである。

 その元教師は小学校時代の器楽部の顧問というか指導をされていたので、よく覚えてはいるが、私自身は一度も器楽部に所属したこともなければ、歌も楽器の演奏も「音楽は好き」なのだが、自分自身がピアノやギターを弾いたり楽器演奏が出来るわけではないので、ちょっと遠い存在でもあった。

 しかし、私の小学校時代からの数人の友人や双子の妹A子も、この小学校の器楽部に所属していたことがあったので、私が連絡係となって、電話をすることになった。

 昨夜の友人の一人は、現在は高校の英語の教師の任を離れて、好きなバスケットボールの指導のためのコーチや監督、強化合宿の指導者として忙しい毎日を過ごしていて、夜半に電話に出た彼としばらくぶりの話題で話込んだのである。

 彼は数年前に奥さんをガンで亡くし、現在は単身で衣食住の全てに関して精一杯やっているらしく、高校の教師をしていた時代よりも忙しいのだと話していた。

 私はそんな事情を聞きながらも、「自分らしさ」を大切に、健康が第一だからと忠告しながら、話を聞いた。

 彼特有の『人を育てる』大切さを電話を通じて力説しながら、人生の後半で伴侶を亡くしての悲しみに耐えながら、元気に飛び回っている様子が伝わってきて、嬉しい部分と共に、なにやらヤルセナイ人生の悲哀を感じることとなったのであった。

 一言で言うことができないし、記すことも出来ないのだが、なにか「心の旅」という言葉と共に、チューリップが1972年にヒットさせた「心の旅」という有名な曲を思い出して口づさんでいたのであった。

 カラオケに行く機会はほとんどないのだが、かつて一度か二度、友人たちとカラオケに行った際に、なぜか選んで歌ったことのある曲で、なにやら少し寂しくて、しかも人生の悲哀を乗り越えて行く、男たちの応援歌の様に感じている曲であり、彼の人生へのエールとしても心で口づさんだ感じであった。

 ハリソン・フォード主演の「心の旅」という映画や、いろんな作品のタイトルとして使われている「心の旅」だが、私の人生の「心の旅」は、いつまでどの様に続くのであろうか。
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バルセロナからの青年。

2010年09月30日 | ガリバー旅行記
 ほんとうに京都もお彼岸過ぎから「秋到来」といった感じで、日中も外歩きの営業仕事をしている私にとっても暑さを感じることの少ない快適な気温になって、清清しく仕事に専念しているのだが、なぜか「蚊」が京都の東山、伏見区の山手を回っていると多くて痒みに耐えられずに、九月も下旬なのに「かゆみ止め」の塗り薬を急遽買ったほどひどく刺されてしまっている。

 それはともかく、日中営業での外歩きとはいえ、京都市内は寺の多い地域もあって、秋の気候の良さも手伝って、多くの観光客がそこら中を歩き回っておられて、よくすれ違ったり道を聞かれたりすることがある。

 今回っている地域に近い東福寺や伏見大社への道を聞かれることが多いのだが、先日は自転車に乗って颯爽と走ってきた外国人の青年がニコニコと近寄ってきて、手持ちの地図を広げて「伏見稲荷はどういったら行ったらいいか?」と英語で尋ねてきたのである。

 突然のことでもあったが、せっかく私を見つけて訊ねているので、何とか教えてあげようと思って「この坂を下ってメインストリートに出たら、左に曲がって約二キロ付近だ」と適当な英語で返答したのだが、なんとか通じたらしく笑顔で「サンキュー!」とお礼を言われたので、すぐさま「何処から来たの?」と訊ねてみた。

 すると「スペインのバルセロナ」というではないか。

 「バルセロナ」と言えば、「あの高い塔で有名なガウディの建造物」が真っ先に思い浮かんだので、何とか話そうとしたら、青年の方が察して「○○教会でしょ!」とサンタ○○という覚えられない有名な建造物の固有名詞を語ってくれた。

 それからと思い出しながら、サッカーの「FCバルセロナ」に「メッシ」という有名な選手がいることや何年前だったろうか「バルセロナ・オリンピック」のこと、そして「バルセロナ・チェア」など、「バルセロナ」には行ったことがないが、何とか話題を見つけて数分立ち止まって話すこととなった。

 話題が途切れたときに、彼はにこやかに笑って私の「グッドラック!」というお別れ言葉に答えて再び「サンキュー」と言い残して自転車で元気に坂を下って行ったのであった。

 彼は日本に来て二週間しか経っておらず、東京で一週間過ごし、京都に来て一週間だが、「京都は素晴らしい!」とお世辞とも聞こえる「賛辞」を残して立ち去ったのであった。

 ほんの数分だったが、遠い国からはるばるやって来た単身の観光客に対して、日本人いや京都人のひとりとして、にこやかに応対し少しでも京都の日本の印象の一こまになれたことに喜びを感じたのであった。

 それから一時間余、仕事に専念した後、軽の会社の車で帰社しようとメインストリートに出たところ、反対方向、つまり「伏見稲荷大社」の方から、先ほどのスペインの青年が自転車に乗って岐路についていたと見えて、再び私とすれ違ったのだが、私は車内からクラクションを小さく鳴らして彼に合図を送ったが彼は気付かずに走り去った。

 しかし、彼の行きたい場所のひとつであった「伏見稲荷大社」の方向からご機嫌の様子で帰ってきた雰囲気だったので、「良かった!」と自分自身は安堵感で一杯となった。

 
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