ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

3間の間で幸せを感じる

2013年05月27日 | 感じたこと
 五月も下旬、一番いい気候の頃だと思うが、明日には近畿地方も早くも「梅雨入り」するとの予報がもたらされていて、一年の半分が過ぎようとしている今年も、寒さが続いていたかと思うと突然に暑さがやってくるといった感じで、人間だけでなく自然界の草花や小動物たちも困惑しているに違いない感じである。

 ここ数日は、仕事で自家用車を走らせていても、町並みの中の生垣や各住宅地に咲き誇る「さつき」や「バラ」そして、名は知らぬがとても初夏を感じさせてくれる草花の美しさが目を楽しませてくれるばかりか、心から「幸せ」を感じさせてくれるのである。

 特に大きな喜びごとや出来事があるわけではないが、日々の移ろいの中で健康に働けて、出会う人々との何気ない挨拶や会話が如何に自分自身を元気付けてくれているのかがよくわかるのである。

 それぞれの出会いは何も予定されたものではなくても、日々の天候や草花の咲き誇る様や中にはミツバチの動向や飼い犬や猫の様子といった普通の話題や会話が自然の移ろいの中で生きている自分たち「人間」の営みを形づくっているという、当たり前の日々の時間と空間の中での存在感を意識させてくれるのである。

 人間にとっ手、大切な「間」として上げられる3つの「間」、つまり「人間」「時間」「空間」を無意識のうちに移動したり感じたりしながら、一日24時間を過ごしているのが毎日なのだが、如何に大切にこの3つの「間」とつきあっているかどうかを考えると、少し流れに任せている感が強いのだが、それでも日々の時間と空間の間で「人間」と出会う自らに喜びを感じる「幸せ」という価値観がつまっている。

 自然の移ろいとしての季節の移り変わりの中で、直接会って話せる人、電話で話せる人、そしてメールやフェイスブック等を通じてコミュニケーションしている友人や知人たち。

 時間の経過とは関係なしに、日々の移ろいをツイッターの如く情報のひとつとして発信している人たちと、直接ではないが間接的にスマホというツールを通じてつながっているという存在感は、自分だけの一方通行ではなくて友人、知人たちとの相互確認として存在しているのであろうと思うと、ちょっとした記事に対しての「いいね」のクリックさえも、少し楽しくて幸せに感じたりするものである。

 ある毎日訪れるお客様の玄関先では、愛犬のベルンが私の車の音を遠くから早く察知して、思い切りしっぽをふってお出迎えしてくれて、玄関先の網の隙間から私の手の指を嬉しそうに舐めまくるのが習慣となっていて、その家の御仁もほんとうにびっくりする程のセレモニー的しぐさとなっているのである。

 また、ある上品なおばぁちゃんは、いつも丁寧に挨拶をしていただき、季節の天候の話し、お庭の草花のこと、毎朝お部屋から聞こえて来る音楽のことなど、数分間ではあるがおしゃべりを楽しみにしていただいている様子であり、今朝もご高齢ではあるが生きている限りの「夢」についての話をしたのである。

 哲学的な難しい話ではなく、今を生きていて今日も出会うという必然に対して、やはり大切な時としての自覚が重要であり、ひょっとしたらその時が最後になるかもしれないということもありうるのが、私たちの日々であり、特に出会いは偶然ではなく必然的なことだからである。

 そういう日々の空間、時間の必然的な人間の出会いを、如何に楽しむかが私たちの幸せ感につながっているわけで、如何にそのことが幸せかを直感できれば、日々は素晴らしい時の連続となるのである。

 今年のプロ野球も開幕から約二ヶ月が経過して、ただいま交流戦のまっ最中なのだが、昨夜の阪神のドラフト1位の藤浪晋太郎投手と日ハムの同じく一位ルーキー大谷祥平選手の甲子園でのプロとしての初めての対決という必然的なシーンは、満員の球場に駆けつけたファンだけでなく、全国の野球ファン、とりわけ阪神ファンにとっては結果としての勝利も含めて、最高の幸せなひと時でもあったのである。

 これからも続く、この二人の必然的な運命の対決は、プロ野球シーンに多くの幸せを運び、歴史に名を残すほどのこととなりそうである。
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母の日ありがとう!

2013年05月12日 | ファミリーイベント
母の日である。私の母は96歳で現在私の実家である大阪の阿倍野の有料老人ホームに入居しているが、幸い健やかに日々を送っていて私たち兄弟にとっても嬉しいことである。

 私の妻の母も一つ年下とは言え、95歳で現在も妻が生まれた実家のすぐ前のマンションの9階に一人暮らしをしていているが、いたって健やかで妻が週に一度は訪ねて買い物や病院通いのお共をするが幸いなことに携帯電話での会話や孫とのメール交換もしていて楽しく日々を過ごしている。

 超高齢化時代を迎えた象徴的な高齢者の仲間入りはしていて、老人ホームの職員さんやホームヘルパーさんのお世話にはなってはいるが、寝たきりとか入院中とかいった状態ではなく、毎日朝、昼、夜と食事をとり、美味しいと感じ、花を愛でたり孫を慈しんだり出来る幸せの中にいることは、とても感謝である。

 幸い私たち夫婦も65歳と言う社会的には高齢者の仲間入りをしたのであろう年齢に達っしてはいるが、幸い大きな病気には縁がなく、日々をつづが無く暮らしている。

 やっと春らしい、いや初夏を思わせる様な気候となった今日の「母の日」なので、ともに自分たちの母に感謝の時を持ちたいと考えて、大阪にいる母を訪ねることとしている。

 妻の方は娘と孫二人を連れて、姉と娘にとっては従姉妹であるSちゃんも横浜から来るので、たぶん義母のいるマンションに集って、みんなで賑やかに楽しくお喋りをして、食事をともにすることになるのだろう。

 私の方も昼前に姉と妹と私が母のお世話になっている老人ホームを訪ねて、たぶん天気がいいので、母を車椅子に乗せて散歩がてらに外出し、近くのレストランでささやかに母に感謝の昼食を共にいただくこととなると思うのだが、先月中旬に一番上の姉が亡くなったので、少し寂しく4人兄弟が3人になって、母を囲んでの食事会となる予定である。

 いずれにしても、自分たちを産み育ててくれた母の健康と今の暮らしを少しでもサポートしながら、日々のつつがない暮らしを続けられることに感謝をしながら、一日でも長く母たちが健やかに過ごせることを願う気持ちに変わりはない。

 今年だけではないとは思うが、天候異変と言う言葉に馴れてしまうほど、五月になったにも関わらず「寒さ」を感じる朝晩が続いたり、東北、北海道などでは積雪があったり、桜やつづじの花が小鳥たちの餌としてつぼみが食べられてほとんど咲かなかったりなど、山にも里にも小動物や虫や小鳥たちにも異変が生じている自然界である。

 たぶん、花粉症も黄砂やPM2.5なる微粒子などの公害的問題物質なども、間違いなく人間たちの生活と生産活動などで排出される微粒子が複合的汚染として、人間たちの生活に跳ね返ってきたものだろうと思うし、自然界の生態系を壊しているのは私たち人間の活動が原因だと断言してもいいと思える現況の中、アベノミクスなどというふざけた造語で経済的欲求だけを追い求めている様な人間の活動では、この地球上が生き物が生存しにくい状況をますます増加させてしまうこととなりそうである。

 安倍首相は連休中の外遊でトルコなどを旅行し、日本の財界が求めるセールスマン的役割を演じ、世界一安全?というふれこみで「原発輸出」の商談を決めてきたらしいし、国内では国民栄誉賞とか何とかにかこつけて、巨人軍の長嶋、松井選手両元選手を利用して、背番号96の憲法96条改正へのパフォーマンスを演ずるなど有頂天だが、国民の多くは冷ややかに見ているし、アメリカからは国粋的右翼思考の安倍首相に対する懸念も一部で出ていることは否めない事実となっていて、初夏の候ではあるがアベノミクスなどと浮かれてはいられない危惧を感じているのである。

 ともかく初夏の陽気の今日は、母の日にちなんで全ての人たちが母に感謝し、今ある人生を素直に正しく心豊かに健康に過ごせることだけを願いながら、誠実に質素に省エネ的に暮らすことを心して日々を送れるようにと祈りたいと思います。

 いくら天候が優れようとも、政治や経済をリードする輩達の愚行や思惑には惑わされること無く、信じる全うな生き方、価値観を大切に日々を母に感謝しつつ生きたいと思うのみである。
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「憲法記念日」

2013年05月03日 | ちょっと可笑しいよ
 日本国憲法が制定されて66年が経ち、戦後の日本の平和と経済的発展を支えてた来たはずの憲法を、自民党安倍首相は改正目的のために改正条件としての憲法96条をまず国会議員の過半数の賛成で出来る様にと提言し、何をどう改悪しようとしているのかは定かには明言しないまま突っ走ろうとしている。

 決して護憲だけが日本の生きる道などとは言わないが、やはり憲法9条の戦争の放棄という、世界に稀なる平和憲法の中心的条文を、戦争が出来る国として、自衛隊を国軍に規定し、国民に徴兵制を義務付けて、東アジアだけではないだろうが、日本の安全保障のために寄与出来る組織に改変したいとの思いがひしひしと伝わってくるのである。

 今の政治家、特に50代以上の中高年齢層の方々にとっては、間違いなく自らが戦争に赴いて、前線で戦う兵士になるなんてことはないと断言できるのだろうが、若き若年層の青年たちや子供たちが成人する頃に、無責任な徴兵制や戦争や紛争地に自衛隊もしくは国軍が出向いて、敵を攻撃するなどという状況を生んではいけないのである。

 いまや世界は核兵器の自時代であり、北朝鮮の無謀な権力者の発言や行動に対する危惧だけではなく、まだまだ全世界に自らの権力維持のためなら、軍事力をバックに強権的政治を進めるという国の指導者がいて、宗教、経済力、領土、民族などの違いを利害が反するとして、徹底抗戦の構えを崩さない愚かな国や地域があることは事実である。

 だからと言って、わが国も核保有国となるべきとか、米軍の力を傘により一層の軍事力を高めて、周りの国などから軽んじられない国にしなければならないと謂う様な幻想を抱く時代でもなく、一発の核兵器が如何に愚かな人類の象徴として国を滅ぼすだけでなく、地球の生態系や生きる糧までをも奪ってしまうことになるなんてことは、誰もが想像も出来ればシュミレーション出きる事実なのである。

 国内の問題として、一番大きな課題だと言われている原発問題にしても、55基もあった原発が現在は大飯原発の2基だけの稼動でも十分、国内の電力需要を賄えている事実からしても、原発の再稼動がなければ日本のエネルギー問題は重大な危機を迎えるなんてことはなく、現在に至るまでに使用された原発から出された核廃棄物の処分ならびに半永久的に続く危険性だけでも多大なコストと不安を抱かせているのである。

 また、国策として多くの公共事業が多額の税金を用いてされてはいるが、豊かて安全な生活に寄与している道路や施設も多々あるとは思うが、無駄なダムや海や川の護岸工事など、長年の浪費から現在は賛否両論で今後の土木建設越路は無用とされる様な事業も多くあるのだが、国、自治体とゼネコンや企業の利害のためだけに事業が継続されるなんて言う実例がたくさんあるのである。

 そうした多くの無駄な事業が国土を破壊し、自然と生態系に取り返しのつかないダメージを与えてしまった事業が全国各地に多々存在しているのだが、マスコミもあまり批判的な見解を記事にしたり指摘したりしないまま、新しい話題としての「憲法改正」問題へとシフトしている感が強い。

 「憲法」とは、国民が国を監視し、国会議員と言えども「好き勝手できない」ための基本的考え方を定めたものなのだから、軽はずみに国会議員の過半数の賛成などで改悪されては7いけないのである。

 「憲法記念日」の今日、憲法の大切さを改めて認識し、無謀な改悪をさせない良識有る国民、有権者であることを願うものである。 
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