ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

沖縄出身のスリムクラブ。

2011年01月31日 | テレビマスコミ
 昨年暮れに行われた、恒例の「M1グランプリ」で、ダークホース的存在として初めて決勝に進出し、見事七人の審査員中、三人の評価を得て、堂々の準優勝に輝いた「スリムクラブ」という沖縄出身の漫才コンビが気になってしょうがないのである。

 ご存知の方も多いなのだろうが、私自身は昨年暮れの「M1」で初めて知って、その虜になりそうなカルチャーショックと言ってもいいほどの型破りの漫才トークに魅せられて、決勝の二回目のライブを真剣にテレビで見ようと思った矢先に、なんと沖縄からの携帯電話への電話がかかってきたために、約4分間の決勝トークを聞き逃してしまったためである。

 「スリムクラブ」は、よしもと所属のお笑いコンビで、NSC東京の8期生で、二人とも琉球大学在学中に知り合って、2005年2月に正式にコンビを結成したというから、まだ経験は数年と言うコンビなのだが、二人ともB型の180センチ以上ある大男なのにも関わらず、ゆっくりとした喋りとノリ、ツッコミも独特のリズムで、いつのまにか引き込まれてしまう様な不思議な魅力を持った漫才コンビであることは間違いない。

 前田ではなく、真栄田(まえだ)賢と内間政成からなるコンビなのだが、「エンタの神様」というテレビ番組では結構話題になっていたコンビらしいのだが、真栄田がフランチェン役で内間が博士役というキャラクターで活躍していたらしいのである。

 真栄田のフランチェンは、フランケンシュタインをモチーフに「ザ・タカシ」をアレンジして、丸いサングラスをかけて、内間の演ずる博士の指示を行おうとするのだが、いつもズレたことをして、つっこまれて、最後は頭や股間を強く打って思考停止となって「思考停止・・・パニッパニ、パニッパニ。パニパニパニック、パラッパニ、パニッパニ、バニパニクニッパ!」と踊りながら言って終わるらしい。最後は博士の「次回もお前の力を見せてくれるか?」の問いかけに対して、「いいよ~」と答えるのだが、声質上、「ええょ!」と聞こえるらしい。

 とにかく真栄田は、琉球大学教育学部卒業で小、中、高の各教員免許状を取得していて、中、高は保健体育科の資格を持ち、特技はラグビーで高校時代に沖縄県選抜で国体に出場もしたことがあり、現在も市町村選抜としてと沖縄県の社会人ラグビー選手権には招待されるほどの実力の持ち主でもあり、体力的にも大柄な如何にもフランケンシュタインと言った感じで、内間の坊主頭とは対照的なぼさぼさ頭である。

 M1グランプリの最終大会で辛うじて優勝した「笑い飯」にも勝ると言っていいほどの不気味な笑いを誘う、彼らの芸はほんまものなのかどうかは定かではないので、もう一度機会があればじっくりと彼らの漫才を聞いて見たいと思っているのだが、2010年のM1決勝戦で審査員を務めた宮迫博之は「ツッコミではなく、説得ですね」と言ったし、今田耕司は「最小の言葉数で決勝に出た」と評するほど、彼らの漫才中のネタでのセリフは少ない様である。

 今後期待される新しいタイプの漫才コンビとして、沖縄出身の「スリムクラブ」に注目である。

 
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アジアカップ制覇!

2011年01月30日 | プロスポーツ
 アジアカップ、カタール・ドーハ大会で、ザックジャパン、サムライブルーが粘りに粘って、オーストラリアを延長戦の後半で李のボレイシュートで虎の子の一点を獲って、苦しんだ末の栄冠を獲得したのである。

 久々に深夜に始まった国際大会のテレビ中継を土曜日の夜とは言え、最後まで見る覚悟で応援していたのだが、準決勝の韓国戦での延長戦までもつれ込んだ上に、両国が譲らず同点となっての宿命のライバル同士のPK戦は、ニッポンの一方的な3-0で勝利をもぎ取っての決勝進出だったが、今回の決勝はワールドカップでも1-3で逆転負けしたFIFAランクでも一枚上位のオーストラリアとの戦いだったので、18年前のドーハの悲劇をどうしても思い出す場面の多い戦いとなった。

 しかし、ドーハの悲劇の戦いのメンバーだった、三浦カズやラモス、北沢、ゴン中山らの時代と異なり、長谷部を主将として遠藤、本田、岡崎、長友らをようして、鉄壁のゴールキーパー川島の布陣で戦い抜いた、今回のアジアカップの代表選手は、ほんとうに新鮮でよくやったのである。

 得点を入れたのも、予選れリーグから本田、岡崎、香川、吉田、遠藤、細貝らと日替わりで活躍するという理想的な展開で、ヨルダン、サウジアラビア、シリアの予選リーグをトップで勝ち進み、カタール、韓国を決勝リーグで打破しての決勝戦、オーストラリア戦であった。

 深夜12時からのキックオフであったので、風呂も入ってお茶とおやつを用意して、毛布とガスファンヒーターで暖をとりながらの長期戦の観戦となったので、前後半戦の中休みと延長戦に突入時にトイレに行ったりとなかなかテレビの前を離れがたい熱戦となった。

 一進一退の攻防だったのだが、オーストラリアの攻撃の速さと高さに、一時は先取点を覚悟しなければならない危機があったのだが、川島のファインセーブやチーム一丸となっての防御で辛うじて失点を防ぐ中、ようやく延長戦の後半4分頃に延長戦の途中から出場機会を得た、李忠成選手が長友選手の絶妙のセンター右スペースへのパスに妨害もなく素晴らしいボレーシュートをゴール左上に決めたのであった。

 夜中の2時を過ぎていたが、私だけではないと思うが歓喜の「やった!」という叫び声と共に、左手のこぶしを握り締めて強く突き出すガッツポーズを他に誰もいない居間でひとり熱くなっている自分がいたのであった。

 ニッポンのアジアカップ勝利は四回目ということだつたが、MVPに選出された本田選手をはじめ、怪我で決勝戦には出場できなかった香川選手、そして岡崎、遠藤、長友、長谷部、川島らの殊勲選手がたくさんいる中で、最後の決勝ゴールを決めたのが在日四世で北京オリンピック前に帰化して晴れてニッポン代表選手となっていた李忠成選手であったという偶然でもなく、日韓両国の魂を持つ選手のゴールで優勝がきまったという、劇的アジアカップとして終結したことは素晴らしいパフォーマンスだったと感じたのであった。

 たぶんFIFAランクでのニッポンチームの評価も少しは上位に上がるだろうし、2014年のブラジル・ワールドカップに向けての侍ブルーのユニフォームの日本チームは益々注目を集める国際的なサッカーチームとなるであろうと確信したのであった。

 とにかく政治、経済とも不調や不人気で、閉塞感の漂う日本社会の現代において、国民の多くに勇気と感動を与えてくれたイレブンに感謝と共に労を労いたい心境で床についたのであった。
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「私の恋文」が届いた!

2011年01月27日 | ガリバー旅行記
 20数年前にひょんなことから出会った、当時は広島県庄原郡総領町の「和田芳治」さんから、年賀状代りの「私の恋文」NO.377号が届いた。

 家内が年賀状の「お年玉抽選」の当選番号も発表されたので、今年いただいた年賀状を整理してくれているのだが、どうしても葉書大ではない数点の年賀代わりの通信がファイルにはしまいきれずに、新聞などをいれている日常のいまにる小さな整理籠に、この和田芳治氏からの「私の恋文」は入ったままなのであった。

 彼との出会いは、何がきっかけだったのかは忘れてしまったが、私がかかっわっていた子どもたちの遊び場活動「プレイスクール」の「夏の発明学校」の開催地として、いろんな情報の中で「過疎を逆手に考える会」というのを主宰されていた、当時広島県北部に位置する「総領町」で、社会教育やリクレーション活動などを精力的にされていた彼を紹介されて、車で遠くの過疎の町を訪ねたことがあったのである。

 その後。無事「発明学校」を四泊五日くらいで開催し、多大なお世話になったはずなのだが、それ以来お会いする機会は何度かあったのだが、いまだゆっくりと再び現在は平成の合併で広島県庄原市になってしまった総領町を訪ねることができずに今日に至っているのである。

 しかし、彼が主宰する「人間幸学研究所」と称するグループが発行する、書き手はもちろん和田芳治氏本人なのだが、「私の恋文」が送付されてくるようになったのである。

 今号のトップには、「あんた自分を騙しちゃぁいませんか」とあり、もっと「甚六流」ねすなわち自分流に、もっともっと人を大切に。とご本人の墨字で書かれているのです。

 「2011年の夢」としては、人のほ世は「円」よりも「縁」と信じたいとタイトルし、今年も「金よりも大切なものがある」の物差しで、「いい人」との「縁」を求めて出歩きます。汗します。しゃべります。出来ればあなたも「人間幸学笑店」の「地縁店」になってくださいとあります。

 彼は総領町の教育長まで務めた人なのだが、「和田芳治」は、間違いなく「例外人間」であることを確認しましたと記す中では、「フツー人」という立場を大切にしてきましたが、「私は間違いなく例外人間である」ことを受け入れて、今後は「百歳まで生きて、お返しがしたい!」と、想伝想祭「輝爆剤」出版記念、結婚記念40周年祝賀パーティーで、自ら語っている方です。

 いつも言葉遊び的な造語も含めて、奇想天外な企画や活動を次から次へと仲間に呼びかけては機動力として働き、アイデアと人脈を駆使して、「もっと遊びましょう!」と、呼びかけている御仁なのです。

 実は、彼は今年70歳くらいだと思うのですが、「生前葬」とやらを行ったそうで、「お別れの言葉=遺言」を一時間話し、参列者からは全員スピーチ(弔辞)をもらったそうです。

 「やりたいことを楽しみながら私のためにやる」、出来ればそれが、みんなのため、地域のためになればいうことなしの「遊び半分」で。

 「私は人間大好き派。素敵な人を求めて汗し続け、そんな人に出逢ったら、その人から学ぶだけでなく、力や志を志援しながら私も輝きたい。

 「越えて行くあなたが私の後継者」と決め、「越えて行く人」を志援することのできる人間でありたい。

 これが和田芳治さんのこだわり、やってきたことで、「面白がればなんだって面白い」の「究極のいのちを輝かす法」につながる生き方と確信したと生前葬の遺言で語られたそうです。素晴らしいことです。賛同です。習いたいと思います。
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「中坊公平」元弁護士。

2011年01月26日 | 感じたこと
 とある喫茶店で友人と話をしたのだが、そのカウンター下に十数冊の古本が並べてあって、ご自由にお持ち帰りくださいとあったので、タイトルを見ただけだが数冊帰り際に手にして持ち帰った中に、「中坊公平・私の事件簿」とタイトルされた新書本があり、一度しか会ったことのない名物弁護士の中坊氏の70歳を超えられた時期に書かれた著書として、読んでみたのである。

 中坊公平氏は現在81歳のご高齢なのだが、元日弁連の会長までされた名物弁護士だったが、「平成の鬼兵」と呼ばれた弁護士だったのに、住宅金融債権管理機構の債権回収で不適切な回収が行われたことが明らかになり、この責任をとる形で弁護士を廃業されたのであった。

 京都市出身で、隣町の井手町育ちの中坊公平氏なので、私はその風貌もあいまって非常に熱血漢でありながら、情と正義感においてはするどい臭覚と感性を持つ弁護士のひとりとして尊敬できる人物と思っていたので、弁護士登録の取り消しや廃業といった形で晩年をおくられていることを非常に残念に思うひとりでもある。

 我が母校でもある同志社大学の大先輩でもあるので、親しみを感じるところもあるのだが、戦前に同志社中学に入学され、学徒動員で尼崎市の三菱電機配属で仕事をされて、戦後に新制同志社大学に入学されたのだが、一年後に退学し同志社外事専門学校に編入学した後、京都大学法学部に入学されて、1952年に初の司法試験では二度も不合格であったり、ヤミ米の摘発に列車内であい、間違われて摘発され激怒したことから公務執行妨害で検挙されたこともあったらしい。

 その後三度目の司法試験で合格し、司法修習生となるが給料は全て自分の小遣いとして散財し、父親まで騙して無心と放蕩三昧の日々をしばらくは送っていたというのであった。

 しかし、結婚を機に実家からの干渉を断って、自らの力でと大阪に事務所を構えて独立したが、仕事はなく終日タバコを吸うかパチンコをして過ごす日々が続いていたらしい。

 1960年になって事務所の存続が危機になったが、町工場の債権処理の依頼を受け、工場の再建にメドをつけたことから、事務所に仕事が来るようになり、現場主義に目覚め始めたというのである。

 その後は森永ヒ素ミルク中毒事件、豊田商事の管財人、産業廃棄物の豊島問題の弁護士などとして活躍し、日本弁護士連合会会長、いわゆる日弁連会長に就任もし、龍谷大学客員教授ともなったのであった。

 小渕内閣では内閣特別顧問に任命されたりもしたが、住宅金融債権機構の社長、整理回収機構の社長に就任し、その後当時の回収で不適切な回収が行われていたとして責任をとる形で、弁護士登録の取消届を出して2005年11月に廃業が決まった。

 その後2007年3月に大阪弁護士会に入会申込書と弁護士登録請求書を提出したが、7月に自ら登録請求を取り下げて、弁護士会への再登録を断念されたのである。

 彼の弁護士人生は、森永ヒ素ミルク事件に関わるか否かを迷っていた時期に、父親から「赤ちゃんに一体何の罪があるというのだ」と一喝されたことをきっかけに、弁護士としての同事件の解決に奔走し、その後の千日デパート火災、甲山事件、豊島不法投棄事件など多数の事件の裁判に関わった功績は偉大であるといえると思うのである。
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「肉声で伝える」大切さ。

2011年01月25日 | 感じたこと
 今朝の毎日新聞の朝刊に、「肉声で語る」と題する論説委員のコラムがあり、京都の哲学の道に近い「法然院」といお寺で昨秋に行われた興味ぶかい勉強会の際に、住職が「パソコンを使わないでお願いします」という条件をつけて、「人間とは何か」を語るという催しとなったというのである。

 その勉強会は、チンパンジーとゴリラの研究者による「人間とは何か」というテーマでの講演を交えての会だったのだが、近頃流行というべきか多くの講演会やシンポジウムなどでは、パソコンを使ったスライドや資料、中には映像をも映し出して行うやり方が主流となっていて、講演者や話す人よりも図式や写真、映像が主として観客、聴衆の目を奪っている場合が多いというのである。

 確かにパソコンの普及と共に、一般の聴衆や参集者に対して、よりわかりやすくという講演者や主催者の配慮もあってか、大きなスクリーンに映し出された資料、図式、写真、映像を見るために会場を暗くしたりするケースもあって、余計に講演者が肉声で語る場面が少なかったり、講演者が見えなかったりもするのである。

 私はこの記事を読みながら、昨今の若者だけではないが多くの日本人が特に携帯メールでの知人、友人との情報交換に始まって、パソコンからの資料、知識、情報の取得はいいのだが、お互いの人間関係の交流、交歓にも携帯やパソコンツールが主体になってしまっているという感じがしてならないのである。

 電車の中の座っている人だけでなく、二人に一人は必ず携帯を片手にメールの送受信をしているといった感じの場合が多くて、昨今の携帯の進化としてのスマホトフォンやアイパッドなどの端末機器となると、全く家庭の室内にあるパソコンそのものを外出時にも携帯しているのと同じような機能を搭載しているようで、まさしく他人や知人との交流において、肉声で会話したりだべったりする機会が激減しているのではないかとさえ思ってしまうのである。

 私自身は「おしゃべりが好き」ということもあってか、意識的に相手の生身の会話を楽しむことが多く、ここ二十年近くやっている有機の移動八百屋などでは、仕事の営業というよりも知人、友人を含むお客さんとの会話を肉声で楽しむためにやっていると言っても過言ではないくらいに喋っていると言えよう。

 ほんとうに相手に自分の思いや感じ方、考え方を伝えるのには、やはり「肉声で伝える」のが一番大切なのだが、ついつい便利なツールでもある「携帯メール」の数行で簡略に要点を伝える、つまり必要最小限の情報だけ記すという伝達ツールでは、本当の思いや、いわゆる行間や心の思いまでもを正確に伝えることは難しいと言ってもいいのではないだろうか。

 恋人や彼氏、彼に愛や思いを伝えたい時に、声の抑揚や大きさトーンが変わったり変化するのは当然であり、そうした伝達手段である「肉声ならでは」の気持ちを伝える大切さが、少しつづ現在の携帯やパソコンツールだけで話したり伝えようとすると、何かが不足したり十分に伝えることが出来ないのではないかと心配しているのである。

 ぜひ、必要最小限にメールやパソコン利用による情報収集や伝達を抑えて、直接会うか電話で話して、相手に大切なことを伝える努力をもう一度見直して行うようにしようではありませんか。
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「ぜんざい」の美味しさ。

2011年01月24日 | 季節の話題
 正月もあと一週間で2月という時期とんなって、つくづく時の経つのは早いなぁと思っている方も多いと思われるが、正月には「餅」を食べるというのが、一般的だと思っていたのだが今時の若者や子どもたちの中には、「餅」をあまり食べないという傾向もあって、私なんかは「何故?あんなに美味しいのに!」と自問自答してしまうのである。

 今年も正月三が日は、当然の如く「お雑煮」に餅を数個入れては食べて、おかわりをしたり昼飯がわりに餅を焼いて、砂糖醤油につけたり黄な粉でまぶしたりと、思い思いの餅の食べ方の違いはあっても、やっぱり「味付け海苔」や「焼き海苔」でくるんで食べる餅が最高に旨かったと思うのである。

 そして、正月七日の「七草粥」にも餅を入れて、十一日の鏡開きでも「おかゆに餅」、十五日の小正月には「小豆粥に餅」というように、本当に「餅正月」と言ってもいいほど、お正月には餅が似合うし、とっても美味しいのである。

 今日、仕事の現場に向かう社用車の中でFMを聴いていたら、ちょうど「小豆ぜんざい」のことについて語っていたので、再び「ぜんざい」が食べたくなったのだが、この「ぜんざい」のユワレに関して、わが町にある一休禅寺が晩年を過ごされた酬恩庵一休寺にまつわる話があったので、特筆すべきと思って、ここに再び記すこととする。

 一般的には「ぜんざい」とは、小豆の粒が存在するものを「ぜんざい」といい、漉し餡の汁粉は大阪では「こしあんのぜんざい」と呼んでいて、東日本などの地域では粒餡を使用したぜんざいを汁粉(しるこ)と呼ぶなど、関西と関東では少し違っているのだが、一休禅師、すなわちあの一休さんの愛称で親しまれている「一休宗純」が最初に食べて、あまりの美味しさに「よきかな」、つまり「善哉」と叫んだことから、「ぜんざい」と呼ぶようになったとの説があり、仏が弟子を褒める時に使う言葉とされている「善哉」、よきかなに通ずると言われている。

 また別の一説には、出雲地方の神事として神様が一同に集まる「神有月」に行われる「神在祭」で振舞われた「神在餅」に由来するとも言われ、この「神在」を「じんざい」とも読めるので、「じんざい」が出雲地方の訛りで、「ぜんざい」に変化して京に伝わったととも言われているのである。

 その根拠としての島根県松江市鹿島町にある、「佐太神社」のHPには、神前に供えられた餅と小豆を一緒に煮て、小豆雑煮を作って再び供えたものを「神在餅」、「じんざいもち」と呼び、この「神在餅」が転化して「ぜんざい」になったと言われていると記されているのです。

 いずれにせよ、この冬の一番寒い季節にいただく「ぜんざい」は格別であり、私も正月明けの移動八百屋のお客様から、この「ぜんざい」を振舞われたこともあって、とってもハッピーな気分になれました。

 ところで、愛知県下では、「ぜんざい」だけでなく、いつも「小豆の餡子」を食べる習慣があるそうで、喫茶店のモーニングサービスでも、「餡子」がついてくると言った状態でびっくりしたことがありました。
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個人と組織。

2011年01月23日 | 感じたこと
 先日から始まっているサッカーのアジアカップで、日本は一昨日のカタール戦に逆転勝利を挙げて、四大会連続のベスト4進出を決め、準決勝で宿敵韓国と25日戦って、チャンピオンを目指すという活躍を見せてくれている。

 日頃のJリーグの試合はほとんど関心なく、テレビ中継があっても見ることもなく、今日も京都サンガは負けたらしいと、友人のサンガファンに、「弱いなぁ!」と責めたり冗談を飛ばして話題にしている程度のサッカーファンなのだけれど、いざ国際試合となると、やっぱり「ニッポンがんばれ!」と応援したくなるのは、変なナショナリズムではなく、単純にわが国が勝ってほしいからに過ぎないミーハー的ファンに即席になってしまうだけである。

 でも、予選リーグでの苦戦はあったが、準々決勝進出を決めたサウジアラビア戦だけは、久しぶりに前半の3点と後半の2点、岡崎のハットトリックと前田の2点で快勝したので、あの「ドーハの悲劇」の開催地でのリベンジが出来たような気分で、とっても気持ちよく嬉しくなって、夜も快眠であった。

 サッカーゲームに限らないのだが、今回のイタリア人監督による本格的な国際試合としての注目もあって、アジアの頂点を目指す「日本チーム」は、先のワールドカップの代表チームのメンバーとは大幅に選手が入れ替わって、新鮮な若手も含めた期待のチーム編成となっていて、あとは監督の手腕に賭ける期待が強かったのである。

 そんな日本チームが迎える韓国との戦いはどうなるのかは予想はつかないのだが、いずれにせよサッカーはチームプレイと共に個人的選手の経験と体力、センスがものを言うプレイを楽しみつつ、結果としてはゴールを如何に奪えるかに、勝利の方程式のプロセスがかかっのであるが、今回の戦いはそのバリエイションが豊富で、観戦する素人でも大変楽しめるものとなっている。

 昔から私自身は、個人と組織という永遠の課題に対しては、どちらかというと組織的な動きやチームプレイが苦手というよりも自分の個性には馬が合わないとでも言うべきか、あまり好きではなく、よく言えば個性的活動を好んでいて、それが自分のアイデンティテイを構成しているものと信じていて、幾つになっても組織的仕事や活動には付き合うが馴染めないといった感じである。

 すなわち、好き嫌いではないのだが、やはり個人が優先されてなんぼという考え方が主流で、組織のために個人を犠牲にするなんていう考え方はあまり馴染めないまま、この年齢まで仕事も市民活動もやってきていて、議員としての4期16年も全く組織や政党などとの関わりは一切なく、自称「市民派・非所属」を通してきたのである。

 決して無理したり、その方が得だとかやりやすいとか言うのではなく、自然に自分らしくやろうとすれば、そうせざるを得なかっただけなのだが、よく言えば「市民派・無所属」を一貫して歩んできたという、信念の持ち主の様にも思えるが、逆に言えば不器用で、そうしか出来なかっただけのことなのである。

 今年の四月の統一地方選挙に、再び市議会議員へのチャレンジをしようと決めた今、やはりそういう考え方、立場からしか出ることができない自らをじっくりと観察しながら、少しでも市民と共に市政がよくなることを願って挑戦したいと思っている。
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おまけの命、人生。

2011年01月22日 | とんでもない!
 この写真は、ご存知の様にパンだの双子の赤ちゃんなのですが、実は私も双子の片割れでして、母が四度目のお産で産んだ女児の誕生後、後産も済んで「先生、終わりましたよ」と母が告げたところ、「もうひとりおりまっせ!」と告げられて、びっくりする間もなく誕生したのが「私」だったと、母から物心ついた頃から数回聞かされていました。

 私の兄弟は八つ上の姉と三つ上の姉と私と妹の四人なのですが、実は私は写真でしか知らないのですが、二人の姉の間に私にとっては兄にあたる男の子が誕生していたのですが、生憎一歳半の時に幼い命のまま、この世を去ってしまっていたので、実際は私は戸籍上は次男の実質は長男のようで、私の家では唯一の男の子として育ったわけなんです。

 母のリアルな証言によれば、昔のことですから祖母が男の子が幼くして亡くなっていたので、「男の子が生まれれば」と願っていたらしいのですが、母が四度目の子どもを授かって、予定日より早く産院に入院していて、未経験の初産の方や同室の妊婦さんの世話などもしながら出産の時を待っていたらしいのです。

 七月十一日、私が誕生した日なのですが、お昼のパンを近くの商店に買いに行って、同室の方の分も買って帰っていた時に、産気づいて、自ら医師に伝えた後、分娩台にのぼって出産の時を迎えたそうなのです。

 しばらくして小さな女の赤ちゃんが産声をあげて誕生し、「あぁ女の子だったか」と正直思ったそうです。

 そして前述したように「終わったですよ」、と医師に告げたところ、「もうひとりおりますよ!」と告げられて、初めて双子を身ごもっていたことを知ったというのですから、びっくりですし、母親も一人分の産着などしか用意していなかったそうなのです。

 三十分ほどして、長細くて青白い決して大きくはない男の子が誕生したのですが、どう考えても「おまけ!」と言った感じの誕生劇だったようで、体重も約1800グラム、先に誕生した妹はもっと小さく1400グラムしかない、現在ならば間違いない「未熟児」として誕生したらしいのです。

 しかし、現在のような「保育器」と呼ばれる「未熟児」が入る器具や施設、対応も少なく、小さいなりに女と男の子の双子として自宅に帰って育ちだしたのでした。

 その当時の親父の月給を越えるような値段の粉ミルクを母は母乳が出なかったらしく、結婚当時に嫁入り道具として持ってきた着物などを質に入れても、私たちのミルク代を工面して飲ませてくれたというのです。

 でも、私の場合は二歳になるまでに数回も病気にかかって入院し、二度は「今晩が山ですよ」と命の危険にさらされたこともあったようなのですが、幸い命は取り留めて現在まで生きてこれたのです。

 おなかが減ってもおやつのない時には「エビオス錠」という名の整腸剤としての錠剤を、一度に四十から五十錠を食べて、空腹をしのいだりしていたせいもあってか、「成長剤」となったのではないかと私は信じているほど、すくすくと大きくなって、60を過ぎたおっさんとしては身長が182センチの大男になったので、ガリバーというあだ名が後についたのです。

 私が二十歳の時に、実父が弱冠?60歳の若さでこの世を去ったために、私の命が60歳を超えたときに、「私の人生」は、これからは「おまけ」だと実感しました。

 「おまけの命がおまけの人生」を与えられたのですから、これからは少しでも人のために役立つ生き方、役割をもう一度担える人生の第4ステージを歩みたいと、ささやかですが強く感じています。
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団塊の世代と二十歳。

2011年01月20日 | 感じたこと
 団塊の世代と堺屋太一氏が我々昭和22年から25年までの戦後のベビーブームの落とし子たちを名づけてから、何年が経ったのだろうか。

 いいにつけ悪しきにつけ、我々の世代は日本社会の中で、いろんな実験台にされたり、社会の先駆的役割を担ったかと思いきや、逆に社会の進歩や発展を妨げたかのような批評までされてきた、特殊な世代だったのだろうか。

 その「団塊の世代」の今もなお、日本の人口に占める割合の多い、一般的には社会的年齢としては定年リタイア期を迎えた中高年齢層が、今後益々年金問題をはじめ、医療、介護問題など、社会的負担が増す大きな要因として注目されたり、危機感を募らせられたりしつつあるのである。

 現にまだまだ精神的には若いつもりで、社会の一線で仕事をし活躍している「団塊の世代」も多いのだが、若年層の就職難や正規雇用が進まない状況の中では、若者に仕事をゆだねたり、リタイアを奨励されたりと、今になっても邪魔者扱いに近い視線で見られたり、厄介者扱いされることも増えつつある。

 決して被害妄想的な考え方で述べているのではなく、少子高齢化と言われて久しい日本社会の構造的変化の矢面に立たされるケースが、今までにもこの世代は常にあり、当たり前の如く背負って生きてきた世代でもあるのである。

 ところで先日偶然にも、ある友人宅で今年二十歳になったという女子大学生と話す機会を得て、雑談ではあったが私たちの二十歳前後の思い出と共に、今の学生気質や生き方との比較となった部分があったのである。

 彼女は、友だと同世代とお茶をしたりよく話すそうなのだが、特に個性的な魅力ある同世代に出会うことも少なく、あまり刺激的な出会いや考え方に出くわすこともなく、平々凡々の学生生活を送っているというのを、少し不満げに語ってくれたのである。

 そういえば、私たちの二十歳前後は間違いなく、学生運動も盛んだったし安保闘争と言われる政治活動も、多くの学生が関心を持たざるを得ないほど、当たり前に日常的に学内外で、身近に動きがあったので、「あなたはどうするの?」といつも問われている感じで、常に自分の態度決定や行動、考え方を問われ続けていたと言っても過言ではないような時代であったと言えよう。

 それに引き換え、現代の学生生活の多くは、学内でもそんな刺激的な活動やムーブメントもないばかりか、多くの学生自身は自分の世界に小さくまとまっていて、彼女や彼との人間関係とクラブや同好会などの小さなサークル内の人間関係とアルバイトくらいが自分以外の人との出会いであり、携帯電話でのメールや電話、そしてインターネットを中心とする情報収集など、とても便利になったツールは駆使しているものの、やはり日常生活にはあまり刺激や課題が見えて来ないと言うのであった。

 つまり、時代が自ずから大きくウネリを持ち、目の前で激しく動いていた、あの時代に生きた我々にとっては、どうしても自分の態度、思考を友人や同年輩だけでなく語り合ったり、議論しあう場がたくさんあって、いつのまにか自分自身も能動的に関わりだした課題が出来たりしていたのであった。

 そういった社会状況がうらやましいと、彼女は言ったのだが、果たして現代にはそういった状況や対応が必要な場面はないのだろうか。

 老婆心ながら、自らのポジティブな考え方や行動から、少しはそういったチャンスや出会いに出くわすはずだと、私はこの年になっても思っているのだが、若者たちもぜひ能動的に興味や関心のある世界に飛び込んで行ってもらいたいものだと痛感したのであった。
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明日は「大寒」。春は近い!

2011年01月19日 | 季節の話題
 今晩のお月さんをご覧にになりましたか?

 私は仕事帰りに、とっても大きな夕日、真っ赤に燃えたような太陽が西の空に沈むのを帰宅途中の車の中から見ましたが、今夕は満月で、月齢が15.7の大きなお月さんが日没直後に東の空から昇ってきているはずでしたが、都会の町ではしばらくは見ることができませんでしたが、ようやく17時過ぎから東の空に浮かぶ冷たく感じる冬の満月を見つけることができました。

 明日は二十日正月ともいう日ですが、やっとこさ正月気分から抜け出せた感じの方もいると思いますが、二三日前からの大潮が続いていて、海釣りや仕事で海に関わる人たちにとっては注意が必要な時期でもあるようです。

 この寒い季節、特に「大寒」と称される季節に、日本各地では「禊の儀式」や「寒中水泳」または、「滝に打たれる修行」などを行う慣わしや行が行われているところも多く、写真の鹿島神宮の「寒中の禊」も約150人もの男たちが褌一丁になって上半身裸で洗足池に浸かって、体ごとの禊を行うという行事が伝統的に行われているようです。

 現代生活においては、多くの日本人はエアコンやストーブ、炬燵などの暖房器具のおかげで、室内でも20度を越す快適な室温の中で、寒さをあまり感じずに朝と夜を過ごしている人が多いと思いますが、我が家ではめったにエアコンをオンにすることはないためもあって、室温は常に10度前後のままで、居間でくつろぐときは毛布をひざや腰までかけて寒さをしのぐ程度で、冷え切った体を毎日お風呂で温めてから出ないと休めない感じの日々を送っています。

 「地球温暖化防止」のためとは言いませんが、全国各地の暖房に費やされているエネルギー、すなわち電気代、灯油代、ガス代は相当なものだと思いますし、この冬は夏の暑さもあったのに厳寒だといわれていて、相当量の排出ガス、二酸化炭素が出ていると思われます。

 人間の体力は間違いなく江戸時代や明治時代と比べると落ちているといわざるを得ませんが、こうした室内環境だけでなく、町やビルでも一時の様な「クールビズ」に相当するような「ウォームビズ」などを積極的に取り組んでいる公共施設やたくさんの人が集まる場所が少なくなっているようにも思いますが、実際に日本人の忍耐力や少し寒い程度でも我慢する心や体を持ち合わせた人々が少なくなっているようにも思います。

 そんな日本人の多くにとって、信じられないような水風呂や寒中水泳、滝に打たれたり禊の池への入水など、一方では精神を鍛えたり、信心深さを証明するがごとき荒行が行われているのですが、さて皆さんはこの寒さ、大寒を迎える厳しい寒さの中で、何か我慢したり厳しいリスクを自分に負荷しての生活の一部を行っておられるでしょうか。

 やせ我慢ではなくて、自分の心と体を鍛え、地球環境にもやさしい貢献をなんらかな形で、ちょっとトライしてみては如何でしょうか。

 寒空に浮かぶ満月を少し我慢して、エアコンを切った室内から窓を全開して見るのも、ひとつのチャレンジかもしれませんね。
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