ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

君が代起立命令。

2011年05月31日 | とんでもない!
 今から約25年前、1986年、昭和61年に京都で開催される、都道府県持ち回りの二巡目の最初の京都大会を機に、国旗「日の丸」と国歌「君が代」の掲揚と斉唱が実質的には、義務教育である小中学校の公立校には義務付けられるようになったと、私は記憶している。

 この年、私は子供たちの「入学、卒業式や運動会」には、日の丸、君が代はいらないと訴えて活動したが、徐々に政府は国旗、国歌の法的根拠を定める法制化をはかり、また学校現場には「日の丸、君が代」の励行を義務付けたり、強制したりする暴挙を続けだしのであった。

 つまり、1989年3月に、入学式、卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱を学習指導要領で義務付ける形で告示し、それから10年後の1999年にようやく、「国旗、国歌法」が制定されて、「日の丸」を国旗とし、「君が代」を国歌と初めて正式に政府、国会が定めたのであった。」

 多くの学校現場の先生たちや保護者の中に、それまでは「日の丸」の掲揚と「君が代」の起立斉唱には反対する人たちも多くいたのだが、特に先生たちのそうした行動や君が代不起立の姿勢を崩そうと、2002年4月に大阪府教委が君が代斉唱時の起立を文書で指示したり、翌2003年4月には東京都教委が、日の丸掲揚と君が代起立斉唱を義務化したのであった。

 その後は、いたちごっこと言うべきか、教育委員会、学校長と現場に立つ教師たちの間で、君が代ピアノ伴奏拒否の教師の処分や君が代斉唱時不起立をした定年教師の再任用採用を職務命令違反の前科があるとして却下したりしたために、両者が処分不当、違憲だとして訴訟したのであった。

 こうした目だった戦いのほかにも、多くの教師の君が代斉唱不起立や日の丸掲揚反対の行動はあったのだが、徐々に「懲罰」の対象とするという脅しで、表面的には数が少なくなっていただけではないだろうか。

 実は私は学校教師ではないが、一地方都市の議員として4期16年間、主に地元の小中学校の入学式、卒業式には欠かさず来賓として出席していたが、一度も「君が代」斉唱と起立は行わなかったのである。

 多くの会衆がいる前でもあり、入学、卒業に際しての「厳粛なる儀式」の場ではあったが、「立たない」ささやかな「勇気」を続け、「国歌」や「国旗」についての考え方についても、多様な自由な姿勢や思想に基づく態度、行動があってもいいという「お手本」のつもりで堂々と座っていたのだが、やはり大きなプレッシャーを感じる時もあった。

 たとえば、隣に座っていた地元の来賓の一人が、あからさまに「何故立たないのか?」と問うてきたり、これ見よがしに「君が代」を私の身元で絶叫したりして、「おまえは非国民だ」とても言わんばかりに睨みつけられたりもしたことがあった。

 思想、信条、宗教などの自由は、日本国憲法でも保障されているはずなのに、わざわざ「君が代」という明治時代に「天皇賛美」の精神から生まれた歌を歌わなければならないのか、また多くの戦争で「国家の御旗」として特にアジア、太平洋の国々や地域に侵略の戦いを仕掛けてきたニッポンの歴史上の「日の丸」は、デザイン的にはシンプルで決して悪くはないが、戦後の民主国家としての「ニッポン」の国旗としては、あまり評価も出来ないし、敗戦国日本が生まれ変わって出直す戦後に、新たな国旗を創るべきだったのに、その時期を逸してしまっただけなのであると思うのである。

 いずれにせよ、今回の「君が代起立命令」最高裁での合憲判決は、今後の教育現場だけでなく、国会、スポーツ、芸能、地方議会、NHKなども含む、日本社会での「挙国一致」とか「富国強兵」だった時代と同じく、すべてが同じ価値観や行動を強いられるという、とんでもない「ファシズム」的方向へのターニングポイントとなる危険性を孕んでいるといえよう。

 おまけに、大阪府の橋下徹知事が代表する「大阪維新の会」が、大阪府議会で公立学校教師の「君が代起立斉唱」を義務付ける条例を来月提案し可決しようとするなど、全く民主主義に反する政治家の横暴であり、橋下知事の「きちんとした判断が出た」というコメントは、末恐ろしい地方ファシズムの再来のスタートともなるのではないだろうか。
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「究極の選択」

2011年05月30日 | テレビマスコミ
 先日NHKテレビ深夜のEチャンネルで放映されたという、震災後の日本人の被災地の地域の人たちの冷静かつ助け合う姿勢に対して、全世界からの賞賛の声に呼応して、ハーバード大学教授で政治哲学者の「マイケル・サンデル氏」が進行役を務めて特別講義する形での討論番組「究極の選択」の録画を借りて観た。

 確かに東北関東大震災の被災地での日本人被災者の行動や冷静沈着な考え方などは、全世界中から賞賛されたというニュースは聞いていたが、日本人にとっては「当然のこと」、「特に特別なことではない」と思える相互扶助的、または自己犠牲的にうつる行為や言動が多くの国際的評価となっていたらしいのである。

 マイケル・サンデル教授は、『これからの「正義」の話をしよう』という~今生き延びるたるめの哲学~という40万部以上売れたというベストセラー本の著者ではあるが、彼は日本人にとっての「公共の意味」から問いただすというやり方で、中国上海の復旦大学生、アメリカボストンのハーバード大学生、それに日本の東京大学などの学生を主体に、スタジオには日本人ゲストとして、女優、作家、実業家、音楽家を招いての討論番組を展開していた。

 その「究極の選択」と名づけられた討論のテーマは、「震災後の日本人の対応」を話の切り口として、「公共の意味」、「個人主義VS共同体意識」、「原発問題」、「支援の輪は拡がるか」などを的確にリードし、学生たちの意識や意見の違いを明確に打ち出して、ゲストの意見も聞き、最後には全世界的視野から、人種、民族、国家、地域を越えて「グローバルコミュニティ」としての価値観や共感を得られる人間性について言及するといったものであった。

 顕著な意見としては、日本人が世界に示したとされる「震災での冷静、平穏な対応」については、「当たり前のこと」であり、「シャイな国民性」、「間違ったことはしない」という儒教や精神風土から来る伝統的な意識が背景で、他の国々のような他民族国家ではない、単一民族で農耕社会から来る「相互扶助」精神だと感じられた。

 「個人主義VS共同体意識」では、まず「家族」を大切にし、次に地域、同郷、同窓などと地縁、血縁を中心に「助け合う」のが当然と言った意識が強く、「国家のため」とか「地域のため」が先決だという意識ではないが、結局外国人から見れば、「自己犠牲」や「連帯意識」「公共意識」が絶大だと思えたのだろう。

 「原発の対応」では、放射能汚染の多大なリスクがある「原発事故の処理」は、危険が伴う業務なのだが、果たして高額な報酬で自発的労務を提供させるのか、それとも自衛官や東電社員、消防隊員などの職務の義務として行わせるべきなのかという議論があったが、私も高報酬でリスクを伴う仕事を請け負わせるという形は、貧困や弱い立場の人たちを労働者として利用するという差別となりがちなので、「お金で雇う」というインセンティブは良くないと感じたのであった。

 「原発の将来」については、賛否両論あったのだが、ある東大の女子学生が「NIMB」(ニンブ)
を語ったのには驚いたのだが、「Not In My Backyard」の略で、私の庭ではイヤ!という自己主義的発想の「原発立地」の不当性について述べていたのが印象的であった。

 つまり「都会の利用者と田舎の原発立地」という関係性の中での差別感やリスクを迷惑料や地域振興支援という形で買う、「アメとムチ」の構造で成り立っているという現実がおかしいのであるという指摘だと思われた。

 今回の大震災と大津波、また原発事故に際しての、全世界からの救援隊の派遣や義捐金、援助の申し出は驚くほどあって、国や地域を越えた、グローバルな共感を得られる価値観に繋がるかとの問いに対しては、決して政治家や国家レベルでの対立関係を和らげるものではなく、自然災害に対する人道的支援であって、国際的市民としての「共感」にはなりえないのではないだろうかというのであった。

 最後に中世の哲学者「ルソー」が言ったと言われる「国を越えたグローバルな共感はない」という言葉を乗り越えて、情報が寸時に共有できる時代の現代になったので、ぜひ国際的なコミュニケーションの輪が拡がり、自然と人類の共存のための共有できる思想と行動理論を確立できる時としようと結びに語られていたのだと思う。

 見終わった感想としては、人道的支援の精神が全世界に拡がって、平和と安心な人類の生活を助け合い精神を大切に生き抜こうというメッセージとして哲学的というよりも、次代を担う日、中、米の優秀な学生たちが考え話し合った意義が非常に深いと感銘をうけたのであった。
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内閣不信任してどうするの?

2011年05月29日 | 日本の課題
 民主党、菅直人首相が先進国首脳会議、G8に旅立ってフランスでにこやかにサルコジ大統領らと歓談している隙に、なんと民主党小沢一郎と犬猿の仲だと称されていた渡辺恒三氏が、なんとダブル誕生日祝賀会なるものを企てて、菅首相の退陣要求への姿勢を小沢氏が明らかにしたかと思うと、小沢一派もしくは小沢チルドレンと言われる民主党衆議院議員の中には、あからさまに菅退陣を口にする者も出てきたし、民主党を離党してでも現内閣ではだめだと飛び出す若手議員も出ている。

 一方の野党自民党の谷垣総裁と公明党の山口委員長も仲良く記者会見し、内閣不信任案の提出を口にし、菅首相の帰国後の国会は波乱含みの様相を呈しているらしい。

 フランスでのサミットでは、日本の福島原子力発電所の放射能漏れ事故の後始末?の見通しと共に、今後の各国の電力エネルギーの依存を脱原発もしくは自然エネルギーの開発拡大へと方向転換する方針を打ち出したドイツやスイス、また原発計画を推進しない方針を固めたイタリアと、反対に原発依存が7割を越すフランス、4割を越すアメリカなどは安全性を高めて今後も原発推進を確認しているらしいが、果たして日本は明言できないでいるのである。

 フランスやアメリカと比べることの出来ない「地震大国ニッポン」の首相として、堂々と現在ある原発の老朽化や点検なども含めて約2/3が実質的には稼動していない現状から、自然エネルギーへの転換を2020年代までに20%までの目標で取り組むとは言ったが、脱原発への政策転換を明言できなかったのである。

 たぶんホスト国フランスや同盟国と言われているアメリカへの遠慮か配慮かは知らないが、民主党の前回までのマニフェストには、菅首相の以前の思いとしての脱原発ではなく、原発の推進がうたってあったのだが、今回の福島原発の大事故で堂々と政策転換を打ち出せば、首相としての存在感も少しは増したと思うのだが、それが出来ない菅首相なら、自民党時代に拡大した原発ニッポン列島を安全、安心の国にするという方向性が見えないのではないだろうか。

 すなわち、3月11日に起きた東北関東大震災は、民主党政権にとっても菅直人首相にとっても大きな政策転換へのターニングポイントとしての大チャンスだったはずなのである。

 決して菅直人首相が素晴らしいとは思わないが、内閣不信任や菅おろしを口にしているほとんどの政治家たちが、「無責任」だとか「いい加減」だとか「行き当たりばったり」とか首相をはじめとする官房長官、経済産業大臣などの閣僚や東京電力、原子力安全保安院などの関係者を批判しているのだが、果たして彼らの口から「自分たちならこうする!」と言った対案や説明がされたケースはほとんどないのである。

 つまり、批判のための批判、すなわち攻撃のための言葉ばかりで、具体的に首相として誰を担ぐとか、どんな大地震対応や原発政策をするのかと言った肝心要の考え方や方針を語って、新たな議論を巻き起こしたり、アッピールする政治家が見当たらないのである。

 結局は、自分たちの派閥やグループの今後の選挙での当選のためには、どういう立場で批判すれば有利かと言った様な「政局」や「次の選挙」を目的とした動きであって、大局的な展望や日本のエネルギー政策、被災地の復興、支援、計画的サポートなど、具体的な話が聞こえてこないという情けない状況としか思えないのである。

 経済も復興も一筋縄では行かない、とっても困難な状況にあって、「内輪もめ」や「批判ごっこ」をしている場合ではなかろうと思うのだが、いつも政治家せんせい達の大半は、どうしてこうなってしまうのだろうかと、国民の大半は思っているのである。

 与野党とかいった敵対したり、お互いが批判ごっこをする国会ではなく、建設的かつ独創的な議論を積み重ねて、次なる世代のニッポンを新たな視点で創って行く「気概」を持って、仕事をしていだだきたいものである。
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パワースポット?

2011年05月28日 | 感じたこと
 さて、北海道を除く日本全国が、今年は早くも「梅雨入り」して、沖縄には台風2号がやってきて、日本中が雨模様となっている、あまり好きな季節とは言いがたいシーズンの到来である。

 東北北関東では、いまだに余震が続く日々がテレビの地震速報、警報を観るたびに、そんなに東日本に住む人たちや地域を「いじめんといて!」と言いたくなるのは私だけではあるまい。

 3月11日に発生した東北関東大地震(最初はこう名づけられていた)による予期せぬ?想定外の大津波の影響で、福島第一原子力発電所のなんと1号基から3号基までもが実質的には、メルトダウンと呼ばれる「炉心溶融」を起こしていたということが、事故発生以来2ヶ月も経って判明したと思ったら、今度は東京電力の社長が当時、関西に公務で出かけていたという東電側の発表が嘘であめることがほぼ判明し、なんと夫婦で秘書を連れて奈良東大寺の「お水取り」見学の観光旅行を二泊三日の予定で平日に行っていたらしいのであった。

 いくら社長でもたまには休まれることはご自由だが、何故にそれを隠して「社用」とか「公務」とか言って誤魔化そうとしたのかが不可解なのだが、大きな組織や団体の隠蔽体質なのか、政治家も含まれるが、ばれないと思っての嘘なのかもしれないが、いずれは分かってしまうものなのである。

 それはそうと、何故に「東大寺・二月堂」の「お水取り」行事を見学に来られたかは不明だが、ひよっとすると今流行の「パワースポット」のひとつとして、「何かの力を借りたかった」思いからかも知れないと詮索せざるを得ない感じである。

 ともかく、誰が称したのかは定かではないが、神社仏閣、山、海、滝、石、水、そして森など、千差万別のパワースポットと称される場所が全国にあって、猫も杓子も、いや特に若い女性たちを中心に、ちょっとした旅や観光の目的に「パワースポット」めぐりが大流行しているというのである。

 この「パワースポット」なるネーミングは、完全に和製英語であり、地球上に存在する「特別な場」のことと称されていて、エネルギースポット、「気場」とも言われているそうである。

 「世界のパワースポット・癒しと自分回復の旅ガイド」という本では、パワースポットには人を癒す「水」があったり、人に語りかける「岩」があったり、あるいは磁力を要する「断層」があったりすると解説されているそうである。

 荒俣宏氏は、「パワースポット」は、大地の力(気)がみなぎる場所と考えればよいと言い、パワースポットという言葉は清田益章氏が作った造語なのだが、昔から大地の力を得ようとする人々の試み、たとえば「熊野三山詣で」などで元気をもらうという、擬似科学的信仰のようなものだと説明している。

 つまり、本来ならば厳しい修行、修験を行ってはじめて得られるといわれている「力」をその場所に行くだけで、詣でるだけで身分性別素性を問われることなく得られるという、安易な迷信の様なものなのである。

 もともとは伊勢神宮や縁結びで知られる出雲大社などの神社が、「お参り」するだけで、ご利益があるというのかパワー、願いが叶うなどと人づてに伝えられる、信仰の場であり自然崇拝の行われていた場所などか、パワースポットやスピリチャルスポットと呼ばれる様になっただけなのである。

 混沌とした現代社会にあって、人々が「癒し」を感じたり「何かの力」を得たいという気持ちは、十分理解はできるのだが、あまりにも安易な宣伝や流行で、特に苦労や努力もせずに、「力や縁」が得られるという、もっぱら「ミーハー的」としか言えないような「パワースポット」騒ぎには閉口である。

 「風水」や「占い」ねまたは「星座」など、楽しみながら話題として遊ぶ世界はあってもいいと思うが、真剣かつ時間とお金をかけてまで、安易な「パワースポットめぐり」をしても何のご利益も因果もないことを知った上で、宣伝に乗せられている消費者、利用者として観光や地元の商業発展に寄与するなら許されるものなのだろう。

 
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グリーンカーテンの試み。

2011年05月27日 | 季節の話題
 昨日、久しぶりに私の自宅の南側の「猫の額」ほどの小さな庭の雑草掃除を行った。

 初夏の昼前とはいえ、先日来は梅雨のような雨が適度に降っていたので、小さな庭の雑草たちも喜んで元気にこれから育とうとしているところに、珍しく「雑草」と呼ばれて、人間の手で摘まれてしまう植物たちも気の毒と言えば、そうなんだけれど草たちだけでなく小さな昆虫たちも犠牲となった様子であった。

 というのは、雑草を摘んで行くと、こんもりと土が盛り上がっていたところなどに、小さな虫たちが寝床?を造っていたりりして、突然土ごと雑草が抜かれたりして、びっくり仰天!で、逃げ出さざるを得なくなった様子であった。

 古くなったプランターにも、枯れ葉がたくさん積もっていたので、その枯葉を取り除こうとしたら、一緒に下の土が持ち上げられて、小さなアリ達の住処だったりして、卵とともに急に明るい日差しに照らされて、どうしようかと逃げ惑うアリたちが右往左往していたのであった。

 小さな庭の形容に、「猫の額ほどの・・・」と言ってはたが、「猫の額」は、さすがに小さいけれど、庭となるとそんな狭いものではなく、やっぱり日頃のづぼらも手伝ってか、結構たくさんの雑草や根っこのついた土まで含んで、大きなビニールのごみ袋3袋にいっぱいの成果となり、今朝方ごみの回収日に間に合わせて、玄関先からゴミ収集車に乗せられて行った。

 そういえば、このゴミ袋の中にも、たぶん数匹ではきかない「虫たち」が土や抜かれた雑草と一緒に運ばれて行ったと思われるのだけれど、果たして運ばた虫たちの運命や如何に!なんて考えてしまうほど、突然の雑草抜きと掃除に戸惑っただけでなく、小さないのちをゴミと一緒に葬ってしまった感じてあり、虫たちにゴメンナサイである。

 そんな「虫たち」の中には、さなぎ状態のものもあったし、名も知れぬ小さな昆虫とはいえ、子孫を残すために一生懸命生きていたものだろうに、突然の人間の勝手からとは言え、自分のいのちだけではなくて、自分のDNAを残すことを絶たれてしまったことになるので、とんでもないことをしたのかも知れない。

 まったく小さな虫たちのこととはいえ、先般突然発生した「東日本大震災」による「大津波」なども、多くの尊い「いのち」として、多くの人たちが亡くなったわけだが、人間だけでなく動植物の「類」と言われてしまうのかもしれないが、多くのいのちが絶たれたのだろうと改めて考えてしまったのであった。

 そこでとういうわけではないが、きれいになった「猫の額ほどの庭」の一角に、今年は「省エネ」を兼ねて、「グリーンカーテン」なるものを試みようと思ったのである。

 その代表的な植物として「ゴーヤ」があげられているのだが、ゴーヤだけでなく朝顔やへちま、あけび、きゅうりなども趣があるとの情報の中で、ゴーヤも白ゴーヤもあれば、朝顔も西洋朝顔や琉球朝顔もあるというので、我が息子が長く沖縄に住んでいるご縁もあるので、「沖縄産ゴーヤ」と「琉球朝顔」を一緒に植えてようと思ったのである。

 五月下旬に我が家の居間の南側の二階のベランダの下のところに、プランターを2,3個並べて、グリーンカーテン用の緑のネットを張って、たぶん緑の芽が出ている苗を近くのホームセンターで購入してきて、日曜日に植え付けをしようと決めたのである。

 小さないのちを葬ってしまった、ちょっとしたお詫びと共に、この夏の省エネと少しでも涼感ただよう夏場の居間になるようにとの期待を込めて、やってみることにしたのである。

 さて、7月から9月にかけての我が家の居間の省エネと涼感ただよう南側の庭を臨む光景は如何あいなるのだろうか、大変楽しみである。
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おこげあんかけスープ

2011年05月25日 | イベント
 先日、八百屋のお客様のお料理上手なSさん宅で、バラの美しい季節ということで、バラの花見をかねての昼食会が行われた。

 私は「バラよりも昼ごはん」と言った感じだったのだが、初夏の晴天に恵まれた丹精こめて育てあげられたバラの美しさも、とっても素晴らしく、たくさんのバラを拝見し独特のバラの香りというか匂いも芳しく楽しんだのだったが、何故かどのバラかに被れてしまって、首筋が急に赤くはれて痒くなってしまったのであった。

 あまりの美しさと芳しさに、バラの花の間近まで鼻をつけて匂いをかいでいたために、バラの毒気?に当てられてしまったのだろう。


 プリンセス、ローズ、オードリーなどとたくさんのバラの名前が語られるのだけれど、私は横文字に弱いせいか、ちっともバラの名前は覚えられないし、たとえ覚えたとしても、どのバラが○○○なのかは皆目分からないだろうと思うのである。

 そこでかゆみが感じられる首筋を気にしながら、肝心の?楽しみにしていた昼食のテーブルを囲むこととなって、まず昼食前なのに何故かデザートが出されていて、紅茶と一緒にいただくこととなった。

 いずれにせよ、ご主人のSさんの手作りのケーキなので、濃厚かつあっさりとした甘みで嫌味がなく、美味しくいただいたところで、今日のメインデッシュということとなった。

 彼女は台所でなにやら「ジュワー・・・!」というおいしそうな音をさせて、我々のテーブルに、「お待ちどうさま」と運んでくれた食事のメインは、なんと「おこげあんかけスープ」とでも言うべきメニューであった。

 この「おこげ」は、まず炊いたご飯をレンジ用の今流行のプラスチック板に挟み込んで、電子レンジでわざわざ「おこげ」にしたもので、出来立てのおこげに、あんかけ入りのスープをかける時に、あの「ジュワー・・・!」という独特の美味しさを閉じ込めた様な音がしたのであった。

 その「おこげあんかけスープ」は、これも趣のある独特な個性的に器に、ひとつひとつ注がれていて、器から温かな湯気が出ていて、美味しさを目と鼻と共に楽しむという、本来の日本料理の食べる風情をかもし出していて、とっても期待できる見た目でもあった。

 
 木のスプーンで、一口つづ食したのだけれども、中身の具のメインは「しんじょう」という蒸して料理した「海老と長いもと椎茸」を主とした一品が、なんとも見事なお味のできばえであり、少し薄いくらいのあんかけが絡まって、独特の風味と美味しいスープのだしを「ジュワー・・・!」と楽しませてくれるものであった。

 その美味しいスープは、当然インスタントの出汁ではなく、かつおとコンブを丁寧に煮出ししたものらしく、やはり日本料理の「お味」のベースは、この「出汁」にあると改めて確信する感じのできばえであった。

 この「おこげあんかけスープ」は、底に何切れかの「おこげ」がひいてあって、ころあいのやわらかさになっていて、食感も硬くなく手ごろな食べ時を計ったような感じの調理がされていて、数切れの「おこげ」を食べ終えると、なんとも優雅な気持ちさえ感じる食後となったのであった。


 昨今、「中華おこげスープ」なるインスタントカップ入り食品がコンビ二などでも売っているそうだが、全く別物だと思っていいと思うのは私だけではなく、やはり「出汁」も「おこげ」も「しんじょう」も手作りの愛情昼食をいただいて大変満足であった。
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阿倍野区の謂れ

2011年05月24日 | 地域の話題
 今日は大阪の母親が現在住んでいる阿倍野区晴明通に行ってきたのだが、私が生まれ育った「大阪市阿倍野区」の謂れはと考える機会となったのである。

 母親が現在住んでいる晴明通という地名は、実は今から約1000年前に亡くなったといわれる、希代の陰陽師で現在まで続く土御門家の祖ともいえる「安倍晴明」にちんなんでつけられた地名であり、「安倍晴明神社」が御祭神として安倍晴明公を祀っているのである。

 そこで、大阪市阿倍野区の「あべの」は、この「安倍晴明」の「あべ」から地名がつけられたのかと思いきや、「阿倍野」の歴史はなんと弥生時代に始まったといわれ、「阿倍野」の地名の由来には諸説があるらしい。

 古代にこの地を領有していたのが豪族の阿部氏であり、その姓からという説が一番有力だそうだが、「万葉集」の山部赤人の歌からと言う説や古地名の「東生郡餘戸郷」(ひがしなり郡あまべ郷)の「あまべ」からとったという説もあるたいです。

 「あべの」の文字についても古来より「阿倍野」「安倍野」「阿部野」などが使われていたのだが、昭和18年に元の住吉区から分区して「あべの区」が誕生したときに、区役所の土地台帳が「阿倍野」の文字を採用したので「阿倍野区」となったということです。

 大阪出身の方々はお分かりだと思いますが、この阿倍野区の中心的ターミナルはJR天王寺駅、地下鉄天王寺駅なのですが、何故か近鉄電車のターミナル駅は「阿部野橋」となっていて、大阪キタのターミナルもJR大阪駅なのですが、阪神、阪急の私鉄駅は「梅田駅」となっていて、地方から来られた方々には「ややこしい」限りですね。

 話は戻りますが、「阿倍野区」に生まれた「安倍晴明」の安倍家は家伝によれば、孝元天皇(AD300年頃)の第一子の大彦命を先祖とし、その11代目に当たる倉橋麻呂が初めて安倍姓を名乗り、大化の改新後の新政府の左大臣を務め、安倍倉橋麻呂の子供の安倍御主人は文武天皇の右大臣を務めたそうです。

 この安倍御主人(みうし)の名は竹取物語にも出ていて、彼はかぐや姫の求婚者のひとりで「火鼠の皮を持ってきてくれ」と頼まれて、手を尽くしてやっと火鼠の皮を見つけてかぐや姫の前に持って行き、実際に火をつけてみると、あっけなく燃えてしまったそうですが、かぐや姫への求婚者の中で唯一実在の人物だといわれているのが、安倍御主人だそうです。

 そして安倍御主人の8代目にあたる大膳大夫(天皇の料理番の責任者、宮内省所属)の「安倍益材」(ますき)が「安倍晴明」の父とされていて、御主人の曾孫の安倍大家、吉人の兄弟は陰陽頭を務めていて、益材や晴明はその子孫となっています。

 この家系に生まれた「安倍晴明」は、最初は父と同じく大膳大夫となりますが、その後左京権大夫、穀倉院別当などを歴任し、最後には播磨守となっていまが、天文博士にも任じられていて、そうした官位の仕事のほかに、小さい頃から陰陽道(おんみょうどう)を伝える賀茂家の賀茂忠行に師事し、その才能を高く評価されていたそうです。

 その結果、後に安倍晴明は賀茂家から天文道を譲り受けて、暦道を自分の息子に伝え、賀茂・安倍(後に土御門を名乗る)両家が日本の陰陽道の宗家となっていったそうです。


 安倍晴明が陰陽師としてデビューしたのは天徳4年、960年頃だそうですが、菅原道真の怨霊におびえる醍醐天皇が亡くなり朱雀天皇、村上天皇と引き継がれましたが、京都ではこの頃時々怪異の噂があり、宮のあちこちで火事が起き、とうとう内裏が炎上しました。

 そのような時代に晴明ら陰陽師たちは貴族たちの個人的依頼を受けて、種々の相談、祈祷、霊的防御などの仕事に携わったそうです。

 そんなことから、現在の「安倍晴明神社」は、天文を観て個人の人生を占う、「占いの神さま」となっているようです。

 


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中村ノリ、横浜に!

2011年05月23日 | プロスポーツ
 元近鉄バッファローズの三塁手で四番を打っていた、豪快な全力打法の、ノリこと中村紀洋選手の現役選手としての活躍の可能性として、セリーグの最下位に低迷している「横浜ベイスターズが獲得を発表した。

 中村紀洋選手は昨年末に、二年間在籍した東北楽天イーグルスから戦力外通告を受けて退団し、現役続行を望んでいたのだが、他球団からのお声がかからず、あのフルスイングがもう観れないのかと思っていたのだが、ようやく現役選手としての活躍の場としての所属球団が決定し、今月末のセパ交流戦から新しい横浜のユニフォーム姿で登場することとなった。

 いずれにせよ、37歳のフルスイングは、若き時代の姿とは違って少し悲壮感が漂うものとなるかもしれないが、まだまだ打って守れる選手だということを証明してくれる活躍を期待している。

 そういえば、オリックスを退団した後、中日ドラゴンズに育成選手枠で拾われた一年目も、なんと日本シリーズで大活躍をして、MVPを獲得するというとんでもない実力と結果を出した選手なのだが、好不調の波が激しいのか、二年だけの在籍で出されてしまった過去がある。

 あのプロ野球界始まって以来のスト騒ぎにまで発展した、近鉄球団の消滅とオリックスとの合併、新球団「楽天イーグルス」の誕生のさなかにあって、中心打者として活躍していたのに、球界の再編成に翻弄された選手のひとりとして記憶に残る選手となってしまって、近鉄、オリックス、中日、楽天のほか、大リーグのドジャーズでもプレイした経験の持ち主でもある。

 「ノリ」の愛称で親しまれる、どっしりとした体格なのだが、軽快な内野守備と共に豪快なフルスイングから、今までにプロ野球史上で378本ものホームランをカットばしている大物中年プレイヤーとして、再起をかけての活躍を期待したいものである。

 近鉄時代の2000年には39本の本塁打、110打点の二冠王に輝いたり、2001年にも132打点で二年連続打点王を獲得し、当時の近鉄バッファローズのパリーグ制覇の立役者として貢献した記憶は、野球ファンには忘れられないものであった。

 
 しかし、ドジャーズでのメジャーリーグ体験はしたものの、再び日本に帰ってからの選手としての活躍は、中日時代の日本シリーズMVP以外は、本人にとってもファンにとっても少し悔しくさえ思える実力を十分に発揮できないもどかしさが残っていたと思える。

 そこでの今回の横浜への入団であるが、最後の活躍の場を与えられた感が強いのだが、中年の星としての最後の一花を咲かしてほしいと念願する思いで応援したいと思うのである。
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チャレンジはいくつになっても出来る!

2011年05月22日 | テレビマスコミ
 二三日前の夜、偶然に観たテレビだったが、作家の村上龍氏が司会する「カンブリア宮殿」というテレビ東京系列の番組に釘付けとなった。

 1939年に今回の大震災、大津波の被災地でもある宮城県南三陸町生まれの72歳の佐藤芳之氏が紹介されていたのであるが、小学生のときに野球のボールが左目に当たって失明し、いまだに左目が見えないというハンディを持ちつつ、東京外大を卒業後アフリカのガーナに留学し、その後ケニアの日系会社に就職後、1974年に「ケニアナッツ」というマカダミアナッツを中心に紅茶、コーヒーにワインなどの製造、販売をする会社を設立し、いまやケニアで10万人もの雇用を実現しているという大企業の社長となっている人である。

 しかし、日本ではあまり知られていないが、その取引先は「ゴディバ」や「ネスレ」などの世界的企業、工場で働くスタッフや原材料のナッツを作る農民なども含めてケニアの人口4000万人の40人にひとりは、「ケニアナッツ」のおかげで生活が支えられているという計り知れない事業を展開している創始者なのである。

 「貧しい大陸」として、全世界の援助を受け続けていたアフリカ大陸で、多くの植民地として先進国に支配されていたアフリカの国々が自国の資源や生産で、自立する国づくりへと転換すべき時期に、佐藤氏が設立した「ケニアナッツ」は、アフリカ人の自立のためのビジネスにこだわって、東奔西走した人物らしいのである。

 今から50年ほど前に単身でアフリカに渡って、一代で年商30億円、ケニア最大の食品加工メーカーを育て上げ、人生の終盤を迎えようとしている現在は、自分が操業した一大企業である「ケニア・ナッツ・カンパニー」を現地の人たちに無償で譲って、日本から1万2千キロも離れた「アフリカ大陸」を舞台に、新たなチャレンジとして、発展途上のアフリカの国々の人々の生活の衛生面での画期的な薬剤の開発、散布に尽力を尽くしているというのであった。

 ケニア人による経済的自立の一助としての企業は、タダ同然で現地人に譲っても彼がし続けたいのは、アフリカ人の貧困や生活面での衛生的向上などの手助けになればと、68歳にして再び一からアフリカ大陸のルアンダに渡ったチャレンジが始まっているのである。

 「ルアンダ」といえば、1994年に民族の大量虐殺が起きて100万人もの人が殺されたという悲しい国なのだが、彼はこの地を選んで始めたのが、バクテリアを利用した公衆衛生事業だったのである。

 ルアンダは貧困のため、トイレが臭くて不衛生で、ハエを媒体にコレラや赤痢などの病気の病原菌が蔓延していたので、この衛生状態を飛躍的に改善し、トイレをきれいに出来れば病気も減って、人々の働く意欲も生まれるだろうと、始めたのが今回の事業だそうである。

 京都府立大学大学院の石井農学博士の協力を得て、アフリカの現地の材料で安く作れる「消臭浄化剤」を現地で生産し、ルアンダ政府を巻き込んでの一大公衆衛生事業を展開しているのである。

 そんな彼がルアンダに滞在中にテレビで祖国、故郷の東北地方で起きた今回の「東日本大震災」を観て、アフリカの大地で始めた公衆衛生事業だが、今回の惨状の中の仮設トイレや避難所の公衆トイレに、この技術を活かせると、故郷への貢献が出来ると日本への帰国を決意し、壊滅的な打撃を受けた故郷「南三陸町」に帰ってくるのであった。

 「人生の可能性は無限大だ!」と、語る佐藤氏の生き方に共感する若者が後を絶たない中で、彼の母校である東京外大の学生たちが、ケニアやルアンダでの佐藤のビジネスや現場に飛び込んで行く決意をし、彼は快く彼らの受け入れを即断したのであった。

 「チャレンジするのに年齢は関係ない」、「その気になれば何でも出来る」と言う佐藤芳之氏の生き方は、経営者としてだけでなく人間としての可能性、やる気があれば、いくらでも情報、出会い、チャンスがある中での「チャレンジ」、「挑戦!」を促していると思うのである。

 BETTER TOMMOROW!  「より良い明日へ!」、人生にもっと楽しさを、素晴らしきかな人生、若者たちよ続け!とエールが聞こえてくる。


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サラ川柳2011。

2011年05月19日 | 季節の話題
 初夏を迎えたという実感を感じる摂氏25度以上の日中の気温に、外出時は定番のTシャツを愛用する私にとっても頭の丸坊主も慣れて、余計に清清しい気分にさせてくれる季節の到来である。

 毎年恒例になったと思うのだが、第一生命が秋に一般募集した「サラリーマン川柳」のうちの作品を全国投票で「私が選ぶサラ川ベスト10」として、初夏のこの時期に発表されるもので、私も非常に楽しみにしていたものなので、今年も紹介したいと思う。

 ベストテンは次の通りなのだが、ベストテンにはもれていても優秀かつ実感が共感できる作品も多いので、気に入ったベスト100からの作品も紹介することとする。

 ①久しぶり~ 名が出ないまま じゃあまたね~    シゲー
 ②クレームも 社員じゃわからん パートだせ     サラ川小町
 ③何になる? 子供の答えは 正社員         氷河期
 ④ときめきは 四十路過ぎると 不整脈        ミセスハツコ 
⑤指舐めて ページをめくる アイパッド       化石パパ
 ⑥ボーナスは メガネをかけても 飛び出さず     3D頼り夫
 ⑦おこらすな ママのいかりは パパにくる      ベスパパ
 ⑧最近は ケータイ無いと 字が書けず        生徒会長
 ⑨そびえ立つ 妻は我が家の スカイツリー      やなぎびと
 ⑩小遣いを 下,下,下(ゲ、ゲ、ゲ)下げる 我が女房  目玉おやじ

 なかなかの秀作ぞろいであるが、
①は私の場合もよくあることで、外出先で挨拶されたり声をかけられたりするのだが、機嫌  よく返礼したり言葉を交わしながら、誰だったっけと思い出そうとするのだが、最後まで
 誰かわからずに別れてしまうことがある。

③については、子供たちの遊び場活動をしていた頃に小学二年生の男の子が、「将来何にな
 る?」との質問に対して「課長!」ち元気よく答えていたのを思い出した。たぶんお父さ
 んが課長に昇進されてお家でお祝いをされた直後だったのかもしれないが、子供らしい答
 えを大変印象強く覚えている。

⑧については、確かにメールやパソコンを使っていて、漢字が思い出せない時には間違いな
 くケータイを辞書代わりに使用して、確かめてから書いたり送ったりする時が必ずあっ
 て、便利になったものだと思う。

 十位以下についても大変共感を覚えた作品について下記に記したいと思う。

 12位 クラス会 あのマドンナが デラックス
 17位 怒るなよ 「怒ってない」と 怒る妻
 19位 ご飯いる? 家にいるのに メール来る
 23位 B級も A級知らねば 極上品
 24位 天職を 求めて転職 今無職
 29位 老人会 65才は パシリ役
 31位 使う人 腹が出ても スマートフォン
 33位 いつかやる きっとやるぞと もう定年
 37位 我が人生 付けてあげたい カーナビを
 39位 エコエコと たまるポイント へる貯蓄
 43位 気を付けよう 夜廻り火廻り 腹廻り
 51位 命名を 祐樹か遼と 迷う親
 57位 ママゴトで 帰りが早いと ぼやく女児
 60位 「好きにして」昔肯定 今否定
 69位 帰り路 ナビがしゃべって ヨメ寝てる   
 77位 相撲にも この技無いよね 丸投げは
 80位 節約で 裏紙使い 紙つまる
 86位 肝心な 話はお願い 日本語で 
 98位 晩婚化 婚活最後は 髪頼み

 サラリーマンだけでなく、世の亭主族の心情を見事なまでに「5、7、5」でモジッテイル「サラリーマン川柳」に、いつも感心しながら私だけでない男たちの心境を思い、安堵の感が強く、何故か励まされているような気分になるから不思議なものである。

 なお、冒頭の句は、国会議員にも多くおられた「東京電力」の株主様たちが、今回の大地震と大津波による福島第一原発事故で、なんと株価が暴落して「二次被害」にあったという、笑えに笑えぬ実態なのだか、何故か少しだけ痛快なのは、持たない者の僻みなのだろうか。
   
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