ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

大震災から49日。

2011年04月29日 | 日本の課題
 2011年3月11日午後2時46分に発生した、宮城県沖太平洋東北大地震から49日が経過した。

 全く未曾有の大災害というしか表現できないカタチで大震災の後の大津波が襲い、ほとんど一瞬にして2万数千人の人々の「いのち」が奪われたという天災であった。

 その後、福島第一原子力発電所が被災していて、一号基から四号基までが異常を来たし、水素爆発を含む大事故となり、目には見えないが大量の放射能漏れという恐怖の二次災害が福島県のならず、東北各県および関東地方にも及び、東日本各地の住民が大パニックになったと言えよう。

 そんな状況の中、昨日震災後49日目にして、やっと遺体が見つかった12歳で犠牲となった少女、愛さんのニュースがテレビで報道されていて、お父さんが49日目に「愛に会えて良かった」と冷静に語っておられたのが印象的であった。

 今なお1万人以上の人々の消息がわからないままの行方不明者としてカウントされているのだが、一人ひとりのご家族、関係者にとっては日々、たまらぬお気持ちだと察することは出来ても、泥の中や家屋の倒壊の中、または海に流された流氷物や汚泥と共に沈んでいるかもしれない、たぶん亡くなられたであろうご遺体が全て出てくることは難しいと思われる。

 決して亡くなられたご遺体が見つかることが喜ばしいとは思わないのだが、せめてご家族や関係者にとっては、せめてご遺体というカタチになっても、ご遺族、ご家族の元へと還してあげてほしいと願う気持ちで一杯である。

 また別の報道では、大津波に襲われた地域の小学校で、一生懸命に「大津波に備えて高台へ通じる避難路」の設置に三年前から尽力されて、ようやく震災の三ヶ月前に完成した、小学校の裏側から高台に避難できる通路を利用して多くの授業中だった児童が避難し、大津波の難を免れたという事実があったそうだ。

 その提唱者は、なんと地震発生の数日前に、なんとガンでこの世を去っておられるのだが、たぶん天国から「自分が主張しつづけて作られた数百万円の費用で出来た避難路が役に立った」と喜んでおられることだろう。

 たくさんの「いのち」がこの世を去った痛ましくも悲しい現実があるのだが、一方では本当に奇跡のような出来事や、誰もが「想定外」というのは安易だが、しっかりと予測し大惨事に備えて準備したり、安心、安全を最優先に主張し実現した人たちもいたことを思うと、まさに行政や東電が「想定外」という無責任なコメントを繰り返す現状に怒りさえ感じている方も多いことだろう。

 大地震発生から、大津波も含めて犠牲になられた多くの人々の死から49日が経った今、政府や国会がやっとこさ「復興庁」の設置や東電の被害者賠償指針が明らかにされ、多くの悲しい現実から立ち上がる兆しになればと心から祈らざるを得ない心境である。
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続「ガリバー」について。

2011年04月28日 | 感じたこと
 昨日、久しぶりに夫婦で映画「ガリバー旅行記」を鑑賞したことはお伝えしたのだが、この際私が「ガリバー」と呼ばれるようになって丸30年にもなるので、「ガリバー」について続けて記したい。

 「ガリヴァー旅行記」なる作品を著したジョナサン・スウィフトは、世界の文学史に名をとどろかすような超一流の作家ではないのだが、日本では多くの人が「ガリバー」のことを巨人として知っているのである。

 彼が記した「ガリヴァー旅行記」とは、今から約300年も前の1726年に発表された作品で、正しくは「ルミュエル・ガリバー著・世界のさまざまな遠方民族への旅」というタイトルであり、四部作となっていて、第一部が「リリパット国渡航記」で、これが所謂多くの人が知っている「小人の国に行ったガリバー」の原作なのだ。

 続けて第二部は、「ブロブディンナグ国渡航記」、第三部は「ラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリップおよび日本への渡航記」、そして第四部は「フウイヌム国渡航記」となっている。

 ややこしい難解な名の国々への訪問記となっているのだが、一般的には渡航したそれぞれの国の特徴をとらえて、「小人国渡航記」、「大人国渡航記」、「空飛ぶ島渡航記」、「馬の国渡航記」と呼ばれているのである。

 原作には、出版社より読者に宛てた解説も添えてあり、形式的にはルミュエル・ガリバー氏は実在の人物であり、数奇な渡航記も全て実話であるという体裁を装っているのである。

 しかし、この名「ガリバー」とは、語源は「愚か者」の意だそうで、ちょっとガッカリするのだが、私の場合は子どもたちの遊びと遊び場のリーダーとしての存在感が、「背が高く、声も大きく、おまけに態度もデカイ」の三拍子揃った「大きさ」から名づけられたニックネームだと信じているので、「愚か者」ではないと思っていたが、やはり「愚か者」なのかも知れない。

 著者スウィフトの寓意はいたるところに感じられるのだが、いずれの渡航記も船が難破したり海賊に出会ったりした結果、心ならずとも「不思議な国」にたどり着いてしまうという形式をとっていて、ガリバーとは「よく災難にあう人だなぁ」と感じている人も多いと思うのである。

 なにしろ、初めて「ガリバー旅行記」が出版された18世紀初頭は、航海そのものが大冒険の時代であり、現実にも何度も遭難を経験した船乗りも多いだろうし、港では実際以上に数多い遭難体験やまことしやかな冒険談や不思議な国や地域の話を語る、雄弁な旅行家もいたであろう。

 「ガリバー旅行記」の内容をフィクションというのは容易いが、イギリスで同じく七年前に発表されていた「ロビンソン・クルーソー漂流記」も大航海時代を象徴する虚実の入り混じった旅行記、旅行譚として有名である。

 いずれにせよ、私のニックネーム「ガリバー」は、いろんな災難?によく遭遇する「愚か者」なのだということを改めて自覚したと言えよう。
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ガリバー旅行記を観た。

2011年04月27日 | 感じたこと
 選挙が終って、疲れもピークに達しているようで、夜の眠りも浅くて早朝に、まだ選挙運動中のような気分で目覚めてしまい、昼時にとっても眠気が襲ってくる感じで、なかなか疲れが取れない様子である。

 そこで、気分転換にでもなればとゴールデンウイークに向けて公開中の3D映画「ガリバー旅行記」を観た。

 私自身が『ガリバー』と呼ばれて30年にもなるので、やはり「ガリバー旅行記」の映画は観ておかないとという気持ちと、冒険ファンタジー的なスケール観とわくわくドキドキの映画の娯楽的な映像を初めての3D映画の迫力も期待して観たのだが、映画としての観おわった感想としては、期待はずれであった。

 私の書棚には、J・スウィフトの原作で坂井晴彦訳の福音館書店の「ガリヴァー旅行記」をはじめ、各種の「ガリバー本」が並んでいるのだが、この映画の設定や脚本は現代版としてアレンジされていて、主人公のガリバーは、新聞社の郵便係りとして務める気の小さな、ちょっぴり太目の小柄な青年であった。

 そのガリバーがひょんなことから恋こがれていた旅行記の編集担当の女性から、謎のバューダ三角地帯を取材する仕事のチャンスを貰って、出かけたのだが途中で竜巻に呑み込まれて、小人の国「リリパット王国」に打ち上げられて、例のガリバー旅行記のイメージでもある、「縛り付けられた姿」で目覚めるのである。

 この「ガリバー旅行記」は、長年子どもから大人まで幅広く親しまれている童話ではあるが、実際は作者のスウィフトがイギリスの政治や状況を皮肉交じりに描いたとされる部分もあって、決して子どもたち向けの「御伽噺」ではないとは知っていたが、この映画で描かれている「ガリバー旅行記」は、リリパット王国と戦う隣の国との戦いと、お妃と青年との恋やガリバー本人の憧れの君とのラブストーリーも含まれていて、本来のガリバー旅行記のテーマとは違うものとなっていた。

 でも、イメージ的には「ガリバーと小人の国」をはじめとする世界の様々な遠方民族への旅を描いた1726年に発表されたスウイフト59歳のときの作品からのヒントを映画化したに過ぎないので、映画としての盛り上がりや3D映像の醍醐味もあまり感じない、平凡な二流映画でしかなかったことは残念であった。

 GWイチバンな映画で、元気が出る率93.4%、宣伝チラシによると満足度も高く、勇気が出たとか明るくなったとか、とにかくポジティブで元気がもらえたという観た人たちのコメントが出ていたので、ほんとうに期待して観たのにガッカリであった。

 小心者の大きなヒーローが日本をちょっぴり元気にする!なんていうキャッチフレーズに騙されちゃったわけだが、少なくとも映画を観ている間だけは現実を忘れていたのだから、ちょっとした気分転換にはなったのだろうと自己満足するしかないのだろう。

 平日の夕刻と言うこともあったが映画を観終わって劇場を出たら、なんと観客は私たち夫婦と、もう一人の青年の三人だけと言う寂しい観客であった。
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原発をなくす責任。

2011年04月26日 | とんでもない!
 今日、4月26日は、あのチェルノブイリ原子力発電所が爆発炎上し、炉心が吹っ飛びとんでもない大惨事を引き起こした、当時のソビエト連邦、現在のウクライナ共和国の世界的に影響を与えた事故から、丸25年が経った屈辱的な日である。

 それから約25年経った三月11日に発生した、マグニチュード9.0という大地震と大津波によって、東京電力の福島第一原発の1号基から4号基まで全てが異常を来たし、一ヶ月半経った現在も放射能漏れを起こし続けていて、東北関東地域だけでなく、日本中を放射能汚染のパニック状態に陥れている。

 今回の福島原発の事故は、チェルノブイリ級のレベル7に匹敵するとの見解が出されたことによって、全世界的関心事となっていて、日本からの農産物だけではなく、全ての工業製品の輸出や外国人の観光目的だけでなく渡航が控えられるという、風評被害も含めて、現地を取り巻く避難勧告地域だけでなく、目に見えないが故に更に大きく膨れ上がった災害となっている。

 ただでさえ、今回の東日本大震災ならびに続けて発生した未曾有の大津波によって、その周辺の太平洋沿岸の被災民や行方不明者が今なお一万人以上おられ、津波に呑み込まれて亡くなられた方々のご遺体が数百体放置されたままだったり、建物や汚泥の下に隠れている遺体も多かろうと推察されるところに、雨に打たれ放射能を含んだ風に曝されている光景を浮かべると、まるで化学兵器でやられた戦場の焼け野原の如きイメージなのである。

 こんな「想定外」の「大地震や大津波が来るとは思わなかった」では済まされない、全くひどい「人災」と言うべき「大惨事」が今も続いているのに、多くの御用学者や政治家も含め、テレビ、マスコミも「原発の復旧」や「原発政策の推進」をうたっているのが現状である。

 日本の原子力政策は、「原子力の平和利用」という掛け声で1954年当時の中曽根康弘代議士がアメリカ政府の招待旅行から帰国して、何と「ウラン235」から原発予算を2億3千5百万円つけたことから始まっていて、もう90歳になっている当人、中曽根元首相は、今回の事故を乗り越えて「原子力政策」を推し進めなければいけないと改めて豪語しているという。

 全国各地に現在54基もある日本の原発だが、クリーンなエネルギーとか、低コストな発電単価とか、とにかくメディアを使って多くの著名人やタレントを使って宣伝しているのだが、今回の福島原発の事故で「原発の安全神話」は、やっと総崩れしたと言っても過言ではないと言える。

 与野党の政治家、官僚、電力会社、財界、学者、マスコミが一丸となって推進してきた「原子力発電」の超コスト、決してクリーンではない実態が完全に露呈した今、チェルノブイリ事故の現在までの経過も見守りつつ、日本の原子力発電への依存、促進をやめて、予算を代替エネルギー開発と実用化に当てると共に、今回やれば出来ることを実証した「省エネ」「節電」などの国民の安全性優先の「生活の見直し」の徹底で、きっと「原発」に頼らない日本のエネルギー政策の転換が行える、最大のチャンスが到来したのである。

 すべての「原発をなくす」ためのターニングポイントにしたいと多くの国民、有識者の声を上げて、わが子や孫の代に二度と原発災害をもたらさない私たちの責任がここにあるのではないだろうか。
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市議選の結果は落選!

2011年04月24日 | ちょっと可笑しいよ
づくめで 京田辺市議会議員選挙の開票が終わり、残念ながら落選でした。

 21名の議会議員が新たに選出され、今後の市議会を活発に議論のできる場にして行っていただき、京田辺市がより良い生活者目線での施策が進み、住み易い町になるように頑張っていただきたいものです。

 私はこの四年間の普通の市民としての生活で、選挙準備も十分でなく、この一ヶ月は一生懸命にやってきたのですが、市民の皆さんには届かず、残念な結果に終ってしまいました。

 市長も無投票当選ということで現職の市長が再選されましたし、私にとっては今回の選挙は異例づくめで終った感が強く、まだ敗北感よりも、心に厳しい思いが鬱積しています。

 さて、普通の市民に戻って、明日からは選挙の残務整理と共に、新たな今後の生活のことを考えて歩んで行かねばならないわけなので、このゴールデンウイークが終ったら、またしっかりと歩き出したいと思っています。

 人生には山や谷もありますが、家内が言った「マサカ」と言う名の「坂」もあるという今回の落選も、たぶん人生に於いて私自身には大いに勉強になる結果なのでしょう。

 1991年から4期16年を議会議員として働けたことを感謝し、今後は一市民としての生活者として、この町を愛し、この町でいきいきと暮らして行きたいと改めて思っています。

 「先生」と呼ばれる様な「議員」になりたいわけでもなく、何とか「お役に立ちたい」という一心で、市議会への再度の挑戦をさせていただいたのですが、結局思いは届かず、多くのご支援をいただいた方々、ご協力を賜った市民の方々と家族にお礼を言いたいと思います。

 2011年、私ガリバーは63歳の春を迎えて、高齢者の仲間入りをする年齢に達していますが、心と気持ちはまだまだ30代から40代にかけて、当時の田辺町に引っ越して来た頃と同じ気持ちで、今後も「おまけの人生」を自分の為だけでなく、他人や地域の役に立つ役割をささやかでも担って生きて行きたいと思います。

 せっかく与えられた健康と「いのち」を大切に、東日本大震災、大津波に見舞われた被災者や原発放射能漏れから避難せざるを得ない多くの人々のことを思うと、より一層現状に感謝しつつ、元気に明るく生きて行くと共に、しっかりとした支援と継続的なエールを送りつつ、自らも人に恥じない歩みをしていきたいと改めて肝に銘じています。

 ともかく市議選が終ったことで、私の人生の第三ステージのコーナーを曲がる時期にさしかかったと感じていますので、今後は第四コーナーに向けて、ゆっくりと充実した日々を送り、考え、行動して行きます。

 このブログ「ガリバー通信」は、日々の日常を感じたままに記して、今後も皆様に目を通していただきたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。
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選挙活動終了!

2011年04月24日 | ちょっと可笑しいよ
 四月17日に告示された、統一地方選挙後半戦、市議会議員選挙に四年ぶりに立候補し、一週間の選挙運動期間を昨夜無事終えることが出来ました。

 市内各地を選挙宣伝カーでくまなく回り、車の中からと街頭でのスポット演説など、一日中マイクを握ってのアナウンス中心の市議会議員選挙の運動でしたが、今回は生憎の雨天の日が多く、告示日と三日目だけが晴れと言う選挙戦にとってはとてもやりづらい天候で、四月半ばを過ぎたというのに、肌寒い日々が続きました。

 それでなくても、先月十一日に発生した東北、北関東の大地震と大津波と福島原発の放射能漏れが多くの被災者や被災地を生み、日本国中が悲しみと共に心が痛む日々を送らざるを得ない感じの時期となったために、選挙活動の自粛や宣伝活動をしない申し合わせをされた地域もある様で、私自身も少し憂慮したあげく最低限度の選挙活動をさせていただきました。

 軽四輪の小型自動車の選挙カーに小さなスピーカーをつけての街宣活動でしたが、連日市内随所を約100キロ強走りながら、無所属・市民派としての立候補の挨拶とお願い、ならびに政策や思いを語る選挙戦を展開しました。

 縦約7キロ、幅約4キロぐらいの市域なので、中日に行った普賢寺地域と言う山岳地帯を除けば、ほとんどが丘陵に開かれた住宅地が中心ですので、同じような住宅地をぐるぐる回る感じの選挙カーによるアナウンス合戦となり、30台弱の各々の選挙カーが狭い道を行き交い、お互いに挨拶しあう場面も多く、果たして住民、有権者にどれほど個別な候補者の声が届いているのか確認することは困難ですが、一応頑張っていると感じていただくパフォーマンス的活動と言わざるを得ない一週間でした。

 しかし、大切な四年に一度の市議会議員選挙ですし、私の場合はこの四年間のブランクとでも言うべき、普通の市民としての生活をしていたので、じっくり市民の多くに再度市議会に送っていただくためのアッピールが必要なので、精一杯何度も何度も住宅街を中心に回りました。

 選挙宣伝カーの走行距離は、何と一週間で約900キロに達し、スポット演説も100回を超えましたが、前回の市長選のことを思うと少ない感じすらする活動距離と回数のような気がしました。

 桜が散って、街路樹のハナミズキがキレイな白とピンクの花をつけて、春めいて来た感じの街中ですが日曜、土曜日でもスーパー付近や駅前を除いては非常に人出が少なく、スポット演説をする場所、機会を選ぶのが難しく感じた選挙戦でした。

 今朝は、いつもの様に五時台に目を覚ましましたが、投票日当日の為「選挙に行く」以外は、選挙活動も終っていますので半日、投票結果が出るまで時をどのように過ごそうかと思案しつつ、25年前の4月26日に当時のソビエト連邦、ウクライナのチェルノブイリ原発で起きた事故の記念集会に足を運び、福島原発だけではない日本国内の54基の原発の現状と今後を考える時にしたいと思っています。

 といいながら、落ち着かない半日を過ごして、今夜の開票での結果を不安を抱きつつ信じて待つしかない候補者の一人であり、明日からの生活、日常がどのように変るか、白黒が判明するまで判定を待つ被告人の様な心境です。
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サクラ満開、気分は曇り。

2011年04月14日 | 季節の話題
 四月に入って一気に桜が咲き乱れ、関西地方は何処も「サクラの花見」の季節となって、例年ならば「花見」の宴会や楽しいニュースが盛りだくさんの季節なのに、今年の春は未だに「東日本大震災」と「大津波」、そして福島原発の放射能漏れが追い討ちをかけるように続いて、全国的に「目に見えない放射能」を含めパニックになっている様子である。

 ミネラルウォーター、乾電池、マスク、簡便な非常用の飲み物などがスーパーやコンビニの棚からもなくなって、我先にと自分の親戚や友人の為に「買い込む人」もが増えたようで、全国的な品薄傾向がつづいている。

 サクラの花が咲く頃というと、卒業式から入学式の間が中心なので、今年は小中学校などの「入学式」に華を添えるといった感じの例年より少し遅咲きの感があつたが、ここ一週間で一気に咲いたかと思うと「花のいのち」は短くて、ちょっとした数日前の雨によって散りだしたところもあって、残念な気持ちである。

 それにしても、「福島原発」の地震と津波による四基の原子力発電の塔屋はなんと哀れな感じさえ感じさせる姿になったたげでなく、内部では次から次へと汚染水が増加し、遂に貯めきれなくなった汚染水を海に放出するという前代未聞の策にまで出て、全世界の原発関係者や専門家の批判を浴びたりもしている。

 とにかく、何とか最悪の事態だけは避けようと必死で「炉心溶漏」から原子炉そのものの爆発だけは回避したいとの強い願い゛で東電をはじめ関係各署が精一杯の対策と努力をされていることだと思うが、汚染水の漏洩を食い止めるために最初はおがくずと新聞紙をつめようとしていたとの報道にはビックリもしたし、何と原始的と言うか科学技術の粋を集めたはずの「原発」の対症療法とも言うべき策が「新聞紙とおがくず」には驚くばかりだった。

 ともあれ、水溶性トリマーなどの溶剤で何とか漏洩は食い止めたものの、また次の難題や対策を急がれる問題が露呈したりして、いつになったにら原発事故の収束が見られるのか、いまだ全く見えない内に何と「チェルノブイリ級」とも言われる事故のレベル判定が「レベル7」になったと発表されて驚くばかりであった。

 市議選の告示まであと3日と迫り、最低限の準備はえ怠りなくと忙しく走り回ってはいるが、気候は「春の到来」は間違いなくて、日中は暖かくなって暑いぐらいなのだが、気分は何かどうしても「曇りがち」といった感じが否めないのは、私だけではあるまい。

 全国津々浦々で展開されている統一地方選挙の第一弾前半戦は、知事選、府県会議員、政令指定都市の市議会議員の選挙であり、先週の日曜日の投開票で結果がでたのだが、まだもう一回統一地方選挙の第二弾、後半日程での私たちの町・京田辺市も行われる市議選・市長選の告示が迫っているのである。

 市長前は残念ながら、現市長のみの立候補らしく無投票当選となる見込みであるが、私も立候補する市議選の方は、21人の定数に対して28人ほどが立候補するらしく、7人は落選の厳しい選挙になるらしい。

 さて、天気は晴れ、気候は春の上天気。市民・有権者の関心を高め、少しでも「住み良い町・京田辺」にするための議員選出を各々が候補者の人間性、考え方、政策、行動力などを参考に慎重かつじっくりと考慮して一票をとうじてもらいたいと願うのみである。
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