まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

佐藤慎一郎氏との酔譚     抜粋の一

2019-08-30 10:03:52 | Weblog


               盧溝橋

                        S・・・佐藤
                        T・・・筆者
・・・・・

終戦の2・3年前、恒吉副官から関東軍の作 戦第一号極秘書類を見せて貰って、満州人に詫びる積りで死のうと思った。

発表した物全部嘘! 其れで終戦の時、家族皆を帰国させて自分だけ死ぬ積りでいたら、暫くしてコレ (佐藤モト奥様) が皆を連れ戻して来てしまった。
(鉄領から引き返している)

僕は一人でも多く の日本人を助けること、満州側に日本の文化財を引き渡して、其の二つだけ遺して死のうと思った。

終戦の時に最後に貰った給与の半分を、長い間気懸りで或り乍ら何 もして挙げられなかったリツさん (佐藤先生の恩人) に差し上げた。 そして、大同学院へ走って遺言を書こうと思って日本刀を使ったら斬れないのだよ。 死ぬ作法も出来ぬ (苦笑)。 人から 〝軽く斬れ〟 と謂われ、今度は上手くいったと思ったら、ブッと斬れて血が止まらくて大変な傷に成ってしまった。遺言処では無いよ (笑)。

T : 指先を切るのです、腕は斬らないで…… (苦笑)。

S : 何も知らぬで (苦笑)。 そして二・三日したらコレが子供達を連れて帰って来たのだ。 食って行かねば為ら無いから、外へ米や醤油を仕入れに行くでしょう。 米屋へ行ったら其処で
「あんた、吉林の田舎で中国人を救けた医者でしょう?」、
と謂われ
「否や、僕は医者じゃあ無い。 僕は大同学院で支那語を教えていたのだ」、と
答えたのだけれども 「否や、あんたは医者だ」、と謂う。

実は当時僕は、仁丹や 歯磨き、目薬等をバッグに詰めて吉林の田舎へ行った時、其処で重病のお婆ちゃん を本当に仁丹で治した事が有る。
六、七年経ってもお爺ちゃんが其れを覚えていて、吉林の田舎から新京迄卵を30個くらいも持って三・四日掛けて歩いて来て

「大同学院の佐藤 慎一郎と云うお医者はいないか」

と支那街を捜し廻り、其の米屋にも立ち寄ったらしい。 其れで米屋の親爺が僕を見て

「あんた、吉林で中国人を救けた医者でしょう」

と謂って米を気持ち良く分けてくれたのだ。 其れを自宅で売るのだが、僕は一割も儲けて売るのが心苦しくて、玄関に『仕入れ価格幾等、一割儲けます』 と貼紙して売った。 跳ぶ様に売れて生活の見通しが就く様に為ったでしょて、青森県人だけでも救けようと思った。

・・・・・

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読後に生まれるもの 2008 12 あの頃

2019-08-30 03:07:20 | Weblog





己の在り処を探求するとき、それは些細な一章から発見できることがある
ことさら分析するつもりは無いが、そこには童心(わらべ心)、男女の別、禽獣との別が見て取れる。以下に紹介する文は世に繁茂する数多の論とは趣の違う俯瞰の洞察である。




《「西洋の哲学や地政学などの文献をいくら読んでも、生の人間が存在しているこ
とを感じない、安岡先生の言葉には人間がいます」

地政学を学んでいる友人が私に語ったことです。

分けて分けて細かく分けて分離し分析する、そこに理論や枠組みを作りそのいず
れかに分析したものを当て嵌める。

これが西洋流の思考パターンであります。

私は、博士論文は目方で決まる(文書量の多さ)と言ってからかうのですが、
東洋でたった一言で言えることを数百ページも使う。そんな西洋を見抜く人は少
なく、書物の分厚さに圧倒されてカブレて行った明治以降の日本人にも多く見ら
れる傾向です。

この方の文章はどうやら西洋流に当て嵌りますね。
官製学歴や地位名誉といったものだけでなく、思想・信条にも枠があることに気
づかない。多くの人は自分自身をその枠に当て嵌め、その枠の中で生涯を終える。

果たしてそれが不幸と云えるかどうか私にはわかりませんが・・・》

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津軽の夏に・・・ 2008 8 あの頃

2019-08-24 10:09:26 | Weblog

津軽弘前はことのほか静かだった。

いや小生にとっての愛郷は鎮まりのある佇まいを残してくれていた。

経済の衰退と政治の錯覚した政策は,携る人物の如何ともしがたい思いを帯びて全国津々浦々に茫洋とした暗雲を発生させ、この祖国である四島を覆っている。

ことさら学者風に分析しても部分検索で終始するのがオチのようだが、天然自然をグランドにして「眺める」と、地上での人々の行いにある作為が、車窓を疾走するがごとき景色とは異なり、観点の違った時(とき)の間隔で眼前に表れる。それは焦点の当て方でもある。

時空を飛ぶ、いや「渡る」といったほうが佳いくらいに浸透する。それは煩雑に思える都会暮らしに忘れかけた座標を甦えさせることでもあり、「観則」の素朴で純粋な回帰でもあるようだ。

その「観則」だが、それに人物、社会、交わりことなどを挿入すると、「観人則」などになるが、面白いことに人格と何ら関係性のない、地位、名誉、財力、学校歴で人を「見る」ことから、「則」を前段の素朴で純粋という、ある意味では天然自然にみる生物のバーバーリズムにある素心を「則」として「観る」ことに変化し、より蟻のような下座観と鳳凰のような俯瞰視が可能になるようだ。

妙に老成した類のモノの言い様だが、「独り」と「自然」は隣国の先哲偉人の言を借りずとも四島の自然に潜在していることが、穏やかな夏の涼風のように察知できる。じつは、それが津軽弘前への旅だった。

春夏秋冬、津軽はその装いを鮮明に現してくれる。また津軽平野から、岩木山中から、その遠近の景色は遠い歴史を我が手元に引き寄せる不思議な力がある。

津軽の歴史を尋ね、そこに涵養された多くの先覚者の恩顧は、頭を垂れるに充分すぎるくらいに真摯に己の心を蘇させる。

いつまでも、そのままでいて欲しいと願う我儘な気分だ。

「請孫文再来」弘前と孫文
http://sunasia.exblog.jp/7456818


続く

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アジアに生きる津軽弘前の歴史と教育 2007 11 あの頃

2019-08-22 17:06:27 | Weblog


 台湾海峡を挟んで異なる政治体制を持ちながら双方、互いに「国父」として敬愛している人物に孫文がおります。
 西洋の植民地政策のもと、疲弊したアジアの中で唯一、維新改革によって近代化に踏み出し、当時の列強の凌駕からまぬがれた日本に触発された孫文は、列強の分割利権によって衰退した清朝を倒してアジア主義に基づく新体制を打ち立てようと辛亥革命を起こしました。 それは偏狭な民族主義ではなくアジア全体の問題として植民地化によって蹂躙されたアジアの心の解放であり自立を唱えたものでした。  

 列強の覇道に恐れを抱きながらも保身のため迎合する指導者の姿は民衆の信頼を失い、国家そのものが滅亡の危機にさらされていました。それは西洋列強をアジアから追い払うと同時に国内政治の改革を唱えた孫文にとってまさに「内(心)なる独立」であったのです。 このような真剣な訴えは外国人、とりわけ多くの日本人の義侠心を呼び起こすとともに、我が事のように挺身する人々が現れました。 それは孫文が言い続けた

 

         

         山田   孫文                       山田良政

 


「中国革命は第二の明治維新である。中国と日本の提携がなければアジアの復興がない。アジアの復興がなければ世界の平和はない」という姿に実直に呼応した当時の日本人の普遍なる勇気と、異なる民族への命懸けの献身でした。そのことは互いの民族はもとより、世界史の中でも特筆した民族交流の証しとして語り継がれています。

 そのころの弘前では東奥義塾の創始者、菊地九郎の指導によって外国人教師の招聘をはじめとし我が国の先駆けとなる教育が行われ、 明治の代表的言論人、陸羯南 をはじめ日本の近代化の礎を築いた功績者を多く輩出しています。

 そのなかでも当時の在府町で津軽塗の殖産の功労者、山田浩蔵の子として生まれ幼少より真向かいに住む陸羯南に可愛がれ、その影響のもと辛亥革命に挺身し、恵州の戦いで犠牲となった兄良政、その遺志を継ぎ革命に挺身し、孫文の臨終に立ち会った唯一の日本人、弟純三郎の兄弟は、当時の日本および日本人の姿としてさも当然のごとく、しかも、郷里弘前の教育に培われた遠大な世界観をもとに命を惜しまず異郷の地においてアジア復興のために捧げたのです。

孫文は父浩蔵に
「吾、父の若し」と揮毫をもって感謝し、民族を代表して良政の死を惜しみ、その功績を讃え頌徳碑文を献じています。
桜の季節になりますと各地からゆかりの人々の来弘があります。

 

        

  山田の甥  佐藤慎一郎

 


恒例になりました東京の東洋思想研究で著名な郷学研修会 (寶田時雄代表世話人)主催により、一昨年は金沢隆市長に国父記念館より感謝状贈呈、昨年は台湾の大使館にあたる台北駐日経済文化代表処の陳文化組長の新寺町、貞昌寺のおける孫文選書、「山田良政先生頌徳碑」への献花、拝礼の儀、今年は四月三十日赤平法導住職への感謝状贈呈と、弘前は辛亥革命の東北聖地の様相を表しています。 振り返ればその頃の弘前には異民族の信頼に応えるような教育があったということでしょう。

雪とリンゴと桜かと思っていた弘前の人々の足元に、すばらしい「歴史」と「偉人」と「世界に通用する教育」があったことが不言の教えとして溶け込んでいることに気が付かなければなりません。

 そのことはアジアの混迷の兆しを眼前にしてどのように活かし、継承していくのかを弘前の人々への歴史の恩恵として優しく問いかけているようにもみえます。

http://sunasia.exblog.jp/7292498/ 【請孫文再来】

東奥日報、陸奥新報
RAB青森放送、
「依頼参考資料として」

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知恵が遺した津軽の魂 2007 11 あの頃

2019-08-21 18:52:41 | Weblog


10月28日津軽弘前は抜けるような青空だった。
今どきは見る事が少なくなった戦没者を祀る忠霊塔だが、この弘前では、゛マサカ゛とおもえる威容で建立されている。
 戦後のGHQ(駐留連合軍司令部)の指令で各地の忠魂碑、忠霊塔、あるいは軍国主義の国威発揚のために建立された施設、建物の多くは取り壊されたが、ここ弘前では無傷のまま遺されている。

 あの八甲田雪中行軍で有名な弘前師団は日露戦争の陸戦のターニングポイントであった黒溝台の激戦を勝利した師団としても有名である。
 そのせいか当地では自衛隊との交流も多く、東京ではついぞ見なくなった自衛隊の市内行進が秋に市民の盛大な歓迎のもと大々的に行われる稀で貴重な地でもある。

 今でも現地採用赴任が多く退職してもその連携は強いものがあり、OBもその歴史を誇りにして、妙な話だが歓楽街でもその辺の公務員とは違い、兵隊さんは歓迎される存在でもある。

 

    

     津軽郷学   筆者

     

忠霊塔に戻るが、高さは6階建てのビルと同じ高さの威容を誇り、敷地が広くないと見上げるのにクビを痛めてしまうほどだ。一階の基室は展示室となっているが、そこまでは地上からの階段が下に続いている。


 今回はその部分に忠霊塔の意義を新たな石版に刻んだことによる記念除幕式典への参列だった。
 実はこの威容を誇る忠霊塔がなぜ残ったかの解明も弘前行きの理由だったが、着いた途端その謎はとけた。
 主催は「宗教法人仏舎利塔」、何のことは無い忠霊塔を釈迦の採骨(仏舎利)が安置してあると理由をつけて、゛これは仏舎利塔である゛と解体を回避したのである。

 占領政策は成功したというが、どっこい当地弘前ではそれに逆らわず変化球を返したのである。さすが弘前出身の明治の言論人陸羯南が喝破した「名山のもとに名士在り」は伊達ではない。頑固で忍耐力があり、しかも進取の気概がある津軽人だが、いざというときの頓智には恐れ入るものがある。

 明治天皇の東奥巡視のおり東奥義塾では生徒が英語の歌でお迎えしたという、まさに辺地の郷学は驚愕の俊英を生み出す土壌でもあった。

 そういえば中国近代化の魁となった辛亥革命において日本人最初の戦闘犠牲者であった山田良政、孫文の側近として唯一臨終に立ち会った弟純三郎の兄弟も弘前出身である。

 津軽弘前には時代を見通す何かがある
 それは忠霊塔が問いかけるように、津軽疲弊の折、偉人菊池九郎が喝破した「人間がおるじゃないか」に集約された歴史から人間への問いかけでもあるようだ。

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はりまや夜学会「地方自治とは何か」転載

2019-08-18 15:22:36 | Weblog

 通信社を退職して高知へ棲みついた伴武澄さん。いままで通用していたものが不要なり、新たな有用を発見して、不特定多数に活かしてみようという気概が生まれた。不用は会社の名称と肩書で、有用は山に分け入っては炭を焼き、雑踏では採れたクレソンを売る、つまり下座観から発した不朽な精神だ。

 それは異なるものへの許容と、都会では発見できるはずもない、人生の刻(鼓動)を改めて確認することでもあった。それを悟ることなく人生を無為に過ごすことも安逸ではあるが、思いもよらず帰郷した処に青山(せいざん)はあった。これも郷のお陰なのだろう。納まるところに収まった。そして恩返しの闘いが始まった

https://greenz.jp/2013/08/19/tosayama_2013/ 土佐山アカデミー

第133回夜学会のテーマは「地方自治とは何か」です。

時間は午後7時から。場所ははりまや橋商店街イベント広場

講師は伴武澄

 江戸時代まで、日本は300余藩に分かれそれぞれに独自性を持っていた。自治などという言葉のなかった時代である。明治になって中央集権制が敷かれ地方に自治はなくなった。戦後、新憲法が制定され、地方自治の概念が憲法に盛り込まれた。然し課税権と司法権は地方に与えられることはなかった。連邦制を敷く多くの先進国では日本より多くの自治権が与えられている。

地方自治は民主主義の学校とされる。市民の身近な事柄を市民の選んだ首長や議員が決めていくからである。つまり顔の見える政治ということもできる。問題は課税権を国家に牛耳られたままでは独自性を打ち出すことが難しいことである。金太郎アメ自治が行われるゆえんである。考える力を取り戻そうではないか。僕たち私たちの町をとりもどそう。

 

日本には地方公共団体という不思議な言葉がある。英語でentityと表現されるのだが、ほかの国では地方政府という概念はあるが、公共団体とか自治体とかという概念はない。中央集権が強い中国でも北京市政府とか上海市政府という言い方をする。新憲法の下敷きとなった英文ではLocal Governmentと書いてあったものを、地方公共団体と「翻訳」した日本の官僚のしたたかさには驚くほかない。

 アメリカは日本を中央集権国家から分権国家に鋳直そうとしたに違いない。地方議会のほかに公安委員会や教育委員会などを設置させたが、ほとんど骨抜きとなっている。警察も教育も霞ヶ関の配下にあるのだ。

 市役所も県庁も建物の名称である。実は行政組織の名前はない。新聞では「高知市は」とか「高知県は」というふうに書くが、本来の行政組織の名称ではない。行政組織に名称がないこと自体、自治に対する国民の意識が低いことの証なのかもしれない。

 日本に市町村制度が生まれたのは明治22年のこと。府県制の下の行政組織を整備し、現在に到っている。江戸時代までは幕府、その昔は朝廷が中央政府で、その下に国があった。国の中心地は国衙で、府中と呼ばれた。町や村は自然発生的に生まれ、商工業の集まりが町で、農村に村があった。

為政者はもちろん町村で課税したが、町村の運営にまで口差し挟まなかった。村には寄り合いがあり、自分たちのことは自分たちで決めたし、助け合いもした。水普請、道普請などという言葉はその名残である。今のように生業としての官の組織を必要としなかった。

 自治などといわれる前から、独立していたはずだったが、社会が進展する間にいつの間にか、「官が決めて民が従う」ことが不思議でなくなった。

 市議選に出ることを決めてから、高知市について考えるようになった。30万人の町で市議は34人。2000票あれば当選できる。多いようだが顔の見える、声の聞こえる規模ではないかと思う。市民の要求を市議たちが行政組織に働きかけて、よりよい町づくりをする。そんなことが可能ではないか。市民が声を揚げなければ、自治などという概念は不要である。

役人たちは法律や条令には精通しているが、町づくりの専門家ではない。市民の自覚が待たれるゆえんである。

 そんなにお金をかけなくとも、いい町をつくれる。市民参画という言葉を画に描いた餅にしてはならない。

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能力を背景として、その意図は存在する 2007 8月あの頃

2019-08-17 07:46:41 | Weblog


どうも8月は物々しいことが多い
ことに政治、経済、軍がそれぞれの底流に意図をもってうごめいている。
【以下末尾資料】は太平洋の分割提案だが、北は日本から南はインドネシアまで多くの島礁が列島を成している地域を「アジアは中国に任せろ」ということだ。

つまり地域の管理権である。
中国は管理意図の背景にある軍事能力を披瀝している。それは意図、実績、占領のための渡洋能力に対する自信の表れでもある。

「意図」は弱体した国家収奪の誘惑、「実績」は歴史的実績と船舶武器のシュミレーションとミサイル発射、潜水艦探査などの試行であり、「能力」はその勝利占領の自信である。

この3要素は、「いつでも戦争を遂行できますよ」というメッセージに他ならない。たとえ政治交渉の具だとしても、あるいは政治コントロールから逸脱した軍のメッセージだとしても、島礁列島に国家を持つものにとっては、百羽ひとからげの強圧でしかない。

複雑な勢力構図をシンプルに囲い込みするには確かに明快な提案でもあるが、どうも薄気味悪い。しかも日本にとっては頼りにしている旦那が浮気模様なのである。

その提案は、旦那のカードも北の独裁者に加え狡猾な猛龍を手に入れたことになる。マッカーサーは「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と名言を遺したが、昔は「国 敗れて山河在り」いまどきは「国家融解し人心は微かになり、人栄えて国家なし」の患いがある。

米国政府の親中派は「前向き」な態度を示しているという。
その、管理する、つまり支配権のある空間を譲ろうというものである。
何のことは無い、大家に小作の関係である。
たしかに小作が贅沢になり口答えすると面白くはない。

色、食の欲望とともに、共通した財貨のグランドを持った両国には情けは通じない。あるいは増殖した細胞が分裂するように、手をこまねいてその期の到来を待つ諦観(弱者の諦め)や、強者に阿諛迎合するかのような我国の民癖は、国家の矜持、品格などという美称の流行りごとと共に、一時の我を悟る児戯のごとく現実を見失うことは必至である。

日本人はこの地域に棲む民族として国家なるものを形成し、歴史的残像もある。
それらがわが身に浸透したとき無意識の阿吽というべき連帯がある。
同種同民族というものがそれであり、或いは血の連結と継続というべきものだろう。

8月15日、あの時は覚悟を魅せた日本人がいた。果たして今の高位高官はどうだろう。満州の土壇場同様に遁走するのだろうか。

生きるものの防衛本能は危機に団結する。そして犠牲になるものがいる。
あの天安門の学生リーダー紫玲は「山火事になったとき蟻は一塊になって回避する、周りの蟻は焼かれて犠牲になるが中の蟻は生き延びる・・私たちはいま蟻の様なものである」と泣きながら状況を伝えていた。

彼らには守るものが鮮明にあった。日本人の多くは問題すら気がつかず、守るものも曖昧ゆえに共通意識の連結すらない。 いや、それさえ危ういものだと忌避する一群もある。

亡国は亡国の後、その亡国を知るという。そして亡国の瀬戸際は人の連帯が解けて、行動は放埓になり刹那的な快楽があるという。
一番危ない状況でもある。

まさに国難の期でもあるのだが・・・・


【中国、太平洋の東西分割提案か 米軍は拒否】

 17日付の米紙ワシントン・タイムズは、キーティング米太平洋軍司令官が最近訪中して中国軍事当局者と会談した際、中国側が、太平洋を東西に分割し東側を米国、西側を中国が管理することを提案したと報じた。米側は拒否したという。提案の詳細には触れていない。
 米太平洋空軍のへスター司令官は「空間を誰にも譲らないのが、われわれの方針だ」と記者団に述べ、西太平洋地域を米軍の影響下に置く必要性を強調した。
 米政府内の親中派の間では提案に前向きな受け止めもあったが、国防当局は西太平洋の覇権を中国に譲り渡す「大きな過ち」だと主張。日本などアジアの同盟国との関係を台無しにしかねないとして断ったという。(共同)

故に基地機能は存続させなけばならない。

まさに敗者の悲哀だ。


(2007/08/20 01:05)

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小事に見る歴史の特異点

2019-08-13 08:16:48 | Weblog

  「敬重」は畏敬の存在である。生存を委ねる政治家は見た目の「羨望」ではない。

   ことに、浮俗の衆を助長させる行為は慎まなくてはならない。



前号の小泉進次郎君の「特異点」について多くの反響があった

記載したことがある章ですが、歴史の「特異点」について抜粋参考とします。


元国策研究会 村岡聡史の稿


≪Ⅲ  歴史に学ぶ≫

本節では、歴史(客体)を学びつつ、歴史(主体)の中に教訓や知恵を発見するという課題について論考します。やや大胆な発想になるが、ここでは大日本帝国崩壊をミクロの視点(小さな事系)から分析していきます。

 

①  青年 中岡艮一の短刀 (起)

大正十年(1921) 11/4 大阪毎日号外。「原首相、東京駅で暴漢に刺され絶命」翌朝の見出し、「狂刀、心臓をえぐる。犯人は十九歳の鉄道員(大塚駅)中岡良一」

ちなみに、中岡艮一の出自はそれほど低くはない。彼の父は土佐山之内容堂家の藩士中岡精で、伯父中岡正は維新の志士で、故板垣伯の先輩である・この暗殺事件が中岡艮一の単独犯七日、あるいはまた、なにか複雑で大きな政治的背景をもった犯行なのか(黒幕説)、近代史の専門家でも諸説あり、現在でも不明である。

いずれにしても、大正期の大政治家原敬は頓死してしまった。

事件当日、原首相の周囲には警視庁、政官界の随員など三十人がいたが、あっという間の出来事であり、気付いたときには既に瀕死の状態であった。(凶行後15分死亡)

当時の原敬(南部藩)は内外で期待された大政治家であった。彼は伊藤博文が結成した政友会を藩閥、官閥などの人材を取り込み、結党以来最大、最強の党にまで発展させた。その剛腕というべき政治手腕(マキャベリスト)の一方で、議会制民主主義にも深い理解を示し、多くの国民から平民首相として歓迎されていた。(デモクラット)

その原敬が無名の青年の「短刀一本」で頓死してしまった。

 

英紙デイリーメール(大正10  1/4) は書いた

原氏の死によって氏の堅実な勢力がワシントン会議の上に影響する日本の不運を悲しまなければならぬ原氏は内政に外交に偉大な抱負、経綸をやり遂げる不僥不屈な精神をもった偉大な政治家であった

たまたまシベリア、山東等の問題で非難を受けたが、これは人格云々するものではない。氏の死は日本、否、世界にとっても悲痛な事件であるとともに、世界平和の世界的運動の上に、日本の公平な態度を了解させ、また外国に日本の地位を了解させるために努力し、日本の地位の向上に力を尽くした公明な人である≫ 傍線は村岡

英紙の論調は元老山県の伸吟になって現れる。

 

元老、山県有朋の呻吟 (承)

政友会と元老山県の連絡役として水面下で活動していた松本剛吉(後の貴族院議員)は、事件を知ってすぐに山県邸に急行した。山県は八十五歳の病体を横たえていた。以下は松本と山県の会話である。

M 閣下、原首相が東京駅で暗殺されました

Y 何・・・、原が殺られた・・・、本当か。

M はい、犯人は大塚駅の若い駅員とのこと。

山県は呻(うめく)くようにして

Y 原が殺られては・・、原がやられては・・・、日本はタマッタものではない。

そう言って呻吟した。(参照 松岡剛吉政治日誌 岩波1959)

 

問題は『タマッタものではない』のスケールの大きさである。単に「国益のマイナス」レベルではないのか、「国家の崩壊」レベルなのか、という問題である。

前者ならば、人為的な政策で対応可能であるが、後者ならば、人為的な政策では対応することは極めて難しい。最悪の場合、歴史の自動律的な巨大な慣性に押しつぶされ、国家崩壊への坂道に転落していくことになる。元老山県の伸吟はどちらを意味するものなのか。結論からすれば後者である。それは山県の更なる呻吟(うめき)に耳を傾けたい。

Y 松陰先生・・、高杉さん、木戸さん、俊介(伊藤)、聞多(井上)、・・・

 (再び) 松陰先生・・、高杉さん、木戸さん、俊介(伊藤)、聞多(井上)、・・・

 

何度も伸吟(うめき)を繰り返している。元老山県をして、うなされるように。この呻吟を吐かせる根本は何なのか、と自問自答したとき、結論は一つ、山県は「明治国家の崩壊」を予感(予知)したわけです。

幕末維新の動乱を辛くも生き残り、下関戦争、西南戦争、日清、日露、第一次世界大戦等々、幾山河の修羅場を経験し、国際社会のパワーポリティクスと明治憲法体制の構造的欠陥をも冷厳に認識していた山県である。世俗の老人から聴こえる呻吟とは同列に論ずることは絶対にできない。

以下は、元老山県の真理と予感を村岡流に分析してみた。

松陰先生以下の名前の連呼は、幕末維新以来心血を注いで営々と建設してきた明治国家が、この暗殺事件を契機に崩壊の過程を歩み始め、自分〈山県〉には、もはやその歩みを押し止めるエネルギーはない。だから、連呼した方々に祐けを求めたい、これが理由ではないだろうか

 

もう一つは、みなで建設してきた明治国家が早晩崩壊していくだろう運命に対して、無力な己の境遇に「申し訳ない」という謝罪の意味。

 

第三に、山県は次世代の人材に対しても危機感を持っていたと思う。つまり、明治の第二世代〈官製学校エリート〉にあっては、知識の量は増えたが、それを内外の大局的見地から政策に活用するべき、智慧と勇気と経験が欠けているというクールな認識がある。その有為なる人物の問題に関する危機感が呻吟として現れた。

 

第四に、以上の三点と「明治憲法体制」の構造的欠陥が結合すると、国家は物理現象のように自動律的に崩壊の過程を進んでいくことになる。山県は瞬時にそのことを見抜いていた。

 

明治憲法は、建前上では「天皇は統帥権の総覧者、大元帥」と規定されていたが、運用は英国流の「君臨すれど、統治せず」であって、政府が輔弼責任を負い、天皇には責任が及ばないようになっていた。

しかも、厄介なことに首相は各省大臣の同輩中の酒席程度のポジションであり、各省大臣の任命権を有せず、ゆえに内閣(政府)は憲法上、極めて脆弱な権力基盤の上に立っていた。

考えは簡単。薩長土肥に代表される維新の功労者たちが、成文化された明治憲法体制の欠陥を、補って余りある政治的手腕を発揮したがゆえに、「ボロ」が顕在化しなかったわけです。文字は無機でも、人物に依って有機的機能を発揮したのです。

彼らが次々に世を去っても、元老として山県等は内外の政治を支えていました。

 

ところが、元老も次々と世を去るにつれ、明治国家は扇の要を失ったように弱体化してきた。次代は立身出世を企図し、その用として官制学校歴の数値選別に励み、官位は名利のために用とする風潮がはびこってきた。この段階から遺産の食いつぶしが始まったといってよい。

山県が描いた次代の元老を原に委ねようと考えたとしても、不思議ではない。もはや、歴史を俯瞰して内外を総攬する見識を有した人材は原の頓死でいなくなった。

「原が死んだら日本はタマッタものではない」という伸吟は、明治国家建設の参画者としての危機感の表れであり、明治国家の将来への危機的憂慮として元老山県なりの逆賭でもあった。

   逆賭・・・将来起こりうることを想定して、いま手を打つ。

山県は本件の三か月後の大正十一年八十五歳で亡くなっている。

 

➂ 長官 山本五十六の手紙

山県の没後、二十年の歳月が過ぎた。

その間、明治国家は内憂外患の諸問題を継続的に受けていた。内に於いては関東大震災、昭和恐慌、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件、外においては満州事変、日中戦争、日米通商航海条約破棄、ハルノート等々。それは内憂の政治的要因、外患の経済的、軍事的要因など、明治以降の外征的政策と前記した国家構成上の構造的問題が一挙に出てきたような時代の流れでもあった。

とくに外憂の要因を惹起する国内の政治的抗争を誘引するような軍事的(人事、陸海の歴史的軋轢)など、多くは明治創生期に勃興した軍事を中心にした国力伸長を期すという政治構造が内憂の大きな部分を占めていたようだ。その行動形態は民生、経済、政治がバランスを欠くこととなった。

つまり、国家統御の弛緩(人事、組織のゆるみ)は弱点として外患を誘引する問題ともなった。

 

結局、昭和十六年十二月一日の御前会議で、米英に対する開戦を決定することに結び付いた。要因の切り口はさまざまだが、ここでも各界の要路における人材、つまり用となる人物登用の問題として、山県の伸吟に現れているのだ。

満鉄調査部、総力戦研究所などの部署では、正確な資料分析(総合国力の比較)の結果、日米開戦不可論を提言(山本五十六等)していたが、もはや歴史の運動量が万事を決していた時点では、諸組織,諸個人の抵抗力(抑止力)では止めることは不可能な状態だった。

以下、それを象徴する「山本長官の手紙」に着目して歴史を学んでみたい。

 

日米開戦の二カ月前、山本五十六(長岡藩士高野貞吉の六男)が海軍の無二の親友、堀悌吉(当時は予備校)に宛てた遺書とも思える手紙がある。以下要約する。

昭和十六年十月十一日

一 留守宅の件、適当にご指導を乞う

二 大勢はすでに最悪の場合に陥りたりと認む。・・・これが天なり、命なりとは、情けなき次第なるも、いまさら誰が善い、悪いといったところで始まらぬ話なり。

三 個人としての意見は正確に正反対の意志を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は、まことに変なものなり。これを命というものか。

傍線部(村岡)は、山本個人としては、三国同盟に反対し、日米開戦にも猛反対してきたが、歴史の巨歩が万年を決した今となっては、日米開戦に突進せざるを得ないと、海軍の一員として山本長官の覚悟と決意を語っている。この手紙は、組織(規律)と個人(良心)との関係を考察する上でも貴重で深刻な史料となっている。

 

     

          


Ⅳ 安岡正篤氏(48才) (結)

更に四年の歳月が流れた昭和二十年八月十五日、大日本帝国(明治国家)は崩壊(滅亡)した。国内の大都市は空襲で焼け野原となり、広島・長崎には十五日の正午、日本政府はポツダム宣言を受諾する旨の玉音放送を流し、国民の日本の敗戦と、終戦を知った。

その三日前の十二日、大東亜省顧問の安岡正篤氏は、迫水書記官長が内閣嘱託の川田瑞穂氏の起草依頼した草稿に朱筆(監修修正・加筆)を入れている。

「万世の為に太平を開く(拓)かんと欲す」(拓)は筆者挿入

この言葉、敗戦後の日本の政策(経済重視・軽武装)を見事に象徴した表現ではないだろうか。このように元老山県の伸吟は、敗戦を経て四半世紀(25年)の時空を経て、顕現したわけです。

寳田先生の備忘録では、安岡氏は敗戦間際、旧知の哲人(岡本義雄)に漢詩を贈っている。それは大東亜省の顧問であり、文京区白山の町会長でもあった安岡宅に早朝訪問時のことだ。

「先生、先生は偉い人だと聞いた。毎日の空襲で国民はもがき苦しみ亡くなっている。軍は聖戦だと騒いでいるが、このままだと日本および日本人が滅亡してしまう。・・・」

安岡氏は大東亜省の迎車を四十分も待たせて、側近には『来客中!』と告げ、岡本の烈言を聴いている。

数日して秘書から一幅の漢詩が届けられた。

 

漢詩簡訳

春の朝、夢を破って空襲警報が鳴る

殺到する敵機は雲のように空を覆っている

炎はすべてのものを焼き尽くしているが、嘆くことではない。

塵のような害あるものを掃って、滞留した忌まわしい風を除くだろう

 

傍線は、明治以降伸長し、ときに増長し、組織的には立身出世を企図した上層部エリートで構成する組織の止め処もない増殖は、国家の暗雲として天皇の権威すら毀損するようになった。

これを、国家の暗雲として、いかんともしがたい内患として安岡氏は観ていた。その憂慮の根底は天皇を象徴とした多くの国民の安寧だ。

また、邦人が支え、醸成し永続した国柄の護持への危機感だった。

漢詩では、「君、歎ずることはない」とある。劫火同然(焼き尽くすことによって暗雲は祓われ、新世界が訪れるという激励の漢詩でもある。

終戦の詔勅に挿入した、万世・・は、「世が続く限り平和であることを願う」意味は、まさにこの継続した意志によるものだ。と、寳田先生は記している。

 

     

      米国の特異点は・・・


Ⅳ 歴史の特異点

要するに、山県が憂いたように、駅員、中岡艮一(こういち)の短刀一突きで(歴史の特異点)を契機として、事後、明治国家は崩壊したことになる。

「そんなバカな・・」と思う方は大勢いると思う。

では、私も聴いてみたい。セルビアの一青年の短銃一発によってオーストラリア皇太子が暗殺され、これを契機に第一次大戦まで発展し、人類に未曾有の不幸をもたらした訳です。

これは歴史的事実であり、世界史の教科書にも記載され、ほとんど常識化されています。

ルーマニアの独裁者チャウシェスクも集会に集まった群衆の一人の青年が「バカヤロウ」と発声したことで群衆はおののき、混乱して、終には栄華を誇った独裁政権はなんなく崩壊しています。

事後はさまざまな観点から原因を研究されていますが、貧困、軍の膨張、他国との軋轢、国内の政治事情など様々ですが、もしそこに沸点、飽和点、があるとすれば、一刀、一発、一声は、現状崩壊、覚醒、更新の端緒として、また研究者には歴史の特異点(分岐点。キーポイント)として、かつ問題意識をもった人間の行為として記されるものです。

第一次大戦に至る因果関係は諸説あり、専門家の間でも紛糾しますが未だに確たる定説がない。つまりよくわからない訳です。結局、歴史学(人文科学)岳からのブローチでは、自ずから限界があり、納得のいく合理的説明ができない訳です。やはり、社会科学、自然科学の成果を取り込み「腑に落ちる」説明に努める必要があると思います。

つまり「思考の三原則」に順って、根本的、多面的、に思考し、もって歴史の特異点として回想することだと思います。

以上は「歴史の特異点」に接近するための一般的、描象的な方法論を説明したものですが、より客観的、実際的な方法論として、二つの処方箋を提示したい。

①   まず第一に、或る小さな事件が発生したら、それは、もしかすると「歴史の特異点」かもしれない、と直観を働かせることだ。元老山県のように「人間考学」を学ぶ意義はここにも存在している

敷衍(ふえん)すれば、「人間考学」は、単に記号(文字)の順列、組み合わせを表現しているのではなく、直感(カント流にいえば先験的認識)を前提にした直観(絶えざる学修、経験による後天的認識)を働かせることを主題としている訳である

つまり、「実相観入して神髄を極める」ことである。

 

➁ 現代数学の一分野である「複雑系数学」(フラクタル理論=自己相似、ベキ乗数の理論、バタフライ効果など)の基礎概念について理解を深め、それを「歴史の分析」活用してみることである。

たとえば、ヒットラーのモスクワ侵攻(失敗)をナポレオンの同様な侵攻と比較考察しても、(失敗要因として双方、極寒には勝てなかった)これはフランクタル(自己相似)の関係にあると考察することである。一駅員の中岡良一の短刀とセルビアの青年の一撃も然り。

このように複雑系の数学を活用することによって、歴史を多面的、根本的、将来的に分析し、現代の現象に活かすことが大切なことである。

以上のように論考しくると、何となく「腑に落ちる」ような気がしますが、実は現実には厄介な問題が水面下には存在しています。

「歴史の特異点」において、発生は偶然の産物であり(必然性はない)、それが「歴史の特異点であるか否か」を認識できるのは、元老山県有朋のように、ごく一部の例外を除いて事後的に結果を知っている未来の人であって、渦中のほとんどの人は「歴史の特異点」を認識することは適わないという事実である。

このように論を進めていくと、「慧眼の士」は、「なんだ、結局、理解にならない説明をしているだけではないか。それは要するにトートロジー(同義反復)じゃないの?」と思うでありましょう。であるならば。とりあえず「然り」と応えざるを得ない。(認識論理の限界)

 

ここで皆さんに質問したい。曹洞宗の開祖である道元「不立文字」(文字によらない)と、「正法眼蔵」(仏教哲学の書物)の関係は如何かと。

その解答(回答にあらず)のヒントは、「人間考学」のなかに存在している。

認識の論理(合理的思考のプロセス)と実在の論理(正反一如)とを比較考察してください。そして繰り返しになりますが、直感と直観の大切さを理解ください。

 

     

      青森県 むつ横浜より陸奥湾



寳田先生の抄

碩学といわれた安岡正篤氏も、「真に頭の良いと云ことは、直感力の鋭敏な読み解き」と言っています。

その意味では、地に伏し、天に舞うような俯瞰力(眺め意識)をもって事象を考察することを勧めたい。

また、前記した「逆賭」(将来起きることを推考して現在、手を打つ)だが、難儀な労を費やす論理の整合性を求める前に、東西の学風にある同義的研究を対峙することではなく、南方熊楠が希求した東西の融合を通して、異なるものの調和を図るような寛容な人間(人物)陶冶こそ、人間考学の理解活学と目指す万物への貢献かと考えています。

その上での理解の方策として、東西の学風を用とすれば、各々の説家(研究者)も大局的見地で協働が適うはずです。

山県氏でいえば、土佐藩主山内容堂の見方として、幕末維新の騒動は、多くは無頼の徒の行動だったと感じていました。維新後は名利衣冠を恣(ほしいまま)にして、政官軍の上位に納まり曲がりなりにも国なるものを操ってきた

政権につく与党もいずれそのようになるのは、下座観を基にしてみれば良く分かることだろう。

その経過は、当初、出身郷(藩・地域)の競争をエネルギーとしてきたが、少し落ち着くと軍閥、官閥を蟻塚のように作り、威勢を誇り、なかには功名争いをするものまで出てきた。胸章や褒章で身を飾り、職位が名利食い扶持の具になってきた。それは獲得した「場面」を価値あるものとして戯れ、愉しんでいるような児戯でもある。

 

その中で名利に恬淡で剛毅な鉄舟に縁をもち、維新功臣から除外された旧南部藩から原敬が台頭してきた。

似たように児玉源太郎の慧眼もあり台湾民生長官として功績のあった後藤新平も岩手水沢出身の、官界の異端児(変わり者)だった。愛媛松山の秋山真之も然り、みな不特定多数(国内外を問わず)の利他に邁進し、人情にも普遍な日本人だった。

その気概は、我が身の虚飾を忌避して、物に執着せず(拘らない)、名利に恬淡な人物だった。

老成した山県が有用とみたのはその至誠ある人物だった。

武を誇り,威を振りかざし、竜眼(天皇)の袖に隠れて権力を壟断する明治の拙い残滓は危機を誘引し惨劇を異民族にも演じた。

また、それが明治創生期にカブレたようにフランスから借用した教育制度の成れの果てでもあった。とくに数値選別では測れない、本来有能な人物を見出すすべのない教育制度は、戦後の官域に残滓として残り、現在でも同様な患いを滞留させている。

 

山県の危惧は自身の成功体験が時を経て、善悪、賞罰の見方を転換させる状況が生まれてきたことを表している。それは西郷が「こんな国にするつもりはなかった」と言ったという事にも通じます。

 

つまり、勝者の奢りから安逸になり、組織の規律は弛緩し、模範とする人物は亡くなり、増長することによって自制するものもなく、終には自堕落となって、白人種の植民地経営を模倣し、大義を弄して異民族の地に富を求めるたが、老境に入り、かつ死後のいくすえを思案する精神的境地に至ったことで、人物の真贋や無私の観察ができるようになったと思います。

そのとき、掃きだめの鶴のようにオーラを発していたのが原敬だったのです。

 

山本権兵衛海相は、地方司令官の東郷平八郎を連合艦隊司令に登用した理由は、「運が良い」と観たからでした。その運の良さは、部下にも恵まれました。参謀の秋山真之ですが、これも緻密な作戦を立てますが、最後は「天祐」(天の祐け)と述懐しています。

児玉は国家の危機に二階級降格までして日露戦争の参謀長として心血を注ぎましたが、司令官は愚鈍とも思える大山巌でした。それが東郷や大山の涵養した国家に有効な「観人則」だったのです。

思考の多様は、意図すれば目くらましになる。あるいは目を転じさせる興味があれば人間は、深く、落ち着いた思索を疎かにしてしまう。

それは、他があって自己が存在するという「自分(全体の一部分)」の確立を妨げ、連帯の分離、コロニーからの離脱、排斥、といった茫洋としたところでの夢遊な自己認識しか、できなくなってくる危険性をはらんでいる。

 

      

   

   小泉君は、台湾でも人気の政治家

 

清末の哲人、梁巨川は「人が人でなくなって、どうして国が、国と云えるのか」と。

その「人」とは、どのような人間をみて感じ、察するのか。いまどきの人格とは何ら係わりのない附属性価値でいう、地位、財力、経歴、学校歴(学歴ではなく)を人間判別の具にしたのでは見えてきません。

今は、食い扶持保全のために高学歴エリートが、その知を、我が身を護るための用として虚言大偽を弄し、文を改竄し、責任回避します。

≪文章は経国の大業にして,不朽の盛事なり≫

これは山県でなくとも「タマッタものでない」と思うところです。

いかがですか、人間考学は、あなたの内心を怖がらずに開け、無駄なものは省き、器を大きくしたところで素直に事象を観察することです。老境の域にならなくとも、童のころに戻れば醇な心は還ります。

それで眼前の事象を眺め。考察することです。

人間考学」は、思索や観照の前提として、まず自らに浸透しなくてはならないことへの促しです。それは「本(もと)立って、道生ず」まずは、その内心に本を探り(己を知る)、特徴に合わせて伸ばし、道を拓くことです。

 

その道の歩みも、やたら巧言を語らずに、体験を糧に内心に留まった考察を反芻して、利他のために発するのです。

口耳四寸の学といいますが、口と耳の距離は四寸くらいですが、聴いた、見た、知った、覚えた、この簡単なことを身体すら巡らすことなく口から発することは「話」言べんに舌ですが、「語」りは、「吾」を「言」うです。

つまり梁巨川氏も言うとおり、吾のわからないもの、知ろうとしないものは、彼の云う意味での「人」ではないのでしょう。

その「人」を考える、人の織り成す現象の行く末を想像する、それが「人間考学」命名の由縁でもあります。

 

平成の結びに

 

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知識人の放心と無名有力の学問  終章. 2009. 8/2

2019-08-11 05:47:41 | Weblog



江ノ島児玉神社 爾霊山(旅順203高地)


高潔な人物と卑しい言論貴族

典型的な一例がある
 日曜日の早朝のテレビに一家言をもっている老人の時評問答を内容としている番組があった。 出演者も故人となったりしているが、いわゆる長寿番組である。
双方があいづちを打てるような類似した論評だが、その端々に人物の違いを観ることができる。

一方の老人の逸話だが、陛下との御拝謁を知り合いの侍従を通じ実現したときのことである。 古事に「智は偽りを生ず」の典型だが、自らを偽るのはまだも・・・

庭内を散歩途中、偶然の設定を計略して“あずまや”(御休み処)に待機してのことである。

それは、俗気のある侍従が、その御仁をあらかじめ散歩途中に待機させ、さも偶然のごとく装い、陛下との拝謁に及ぶものである。然し図らずも拝謁ではなく、面談非礼の様相になってしまった長老言論人である。

話題に事欠いたのか老人は紹介者の侍従のワイシャツを指して


「陛下、入江さんのお召しのワイシャツは私の友人の会社で作っている⚪︎⚪︎製のそれです」

 陛下は、なぜそのような話題になるのか、との意味の言葉を申されたそうです。
老人は年甲斐もなく、その場を取り繕うのに冷や汗をかいたと、名家嫡男(松前)の出司が蔑称を込めて話していたことがある。

講演の依頼があれば「会場はどんなところか」「どんな人が何人くるのか」「講演料は」などと、日ごろの正論に似つかわしくもない俗話がのこっている。 その姿勢は大衆迎合のガス抜き行為であり、往々にして謀るところは権威隷属の利権亡者でもある。








一方の対談老人は名利に恬淡で、独りでも真剣に聴講する人間がいれば、先の老人のような条件は皆無である。 内(心の中)なる独立を遂げた明治人の気骨が伝わるようである。 双方とも元新聞記者ではあるが、卑しさと高潔さは地位や名誉の所産ではないようだ。

視聴者が多く、大衆に影響力のある番組であり、反権力や反社会の是非に対する実直なる言動に喝采をおくったのは筆者のみではないだろう。
大衆に対する“辞譲の礼”は人格という徳性が、属性(名誉、地位、財力、等)よりも優越するものだということを教えている。


   


                     




             知識人の責任とは

ここでは知識人の色、食、財の欲望を否定するものでなければ、品よく上手にあるべきということではない。

ただ、 大衆は役割の分別という毅然とした知識人の自覚に感応したいのである。
それは知識の量、技術の巧みのみならず、それらに裏打ちされた見識や勇気のもつ“委ねられる強さ”を望むのである。

我が国では知識人に過大なほどの価値と働きを求めている。
ときには身分違いの存在を感ずることもあるだろう。 国の政策決定に立ち会う場面もあれば、世論を誘導させたり派手な民間外交を図るものもいる。

もしも“分”の曖昧さや超越が民主主義の自由と人権の利点としたならば同時に“分”を越えた責任も存在するはずです。

たとえ多面的立場に立って意見具申の要求があっても、公序良俗の範はもとより、そこには避けて通れない道義という大前提の責任がつきまとうはずです。
とくに知識修得の練度、高低が人間の能力判定とされているかのような時代に、また評価に従って各界、各派に請われ、その知識を不特定多数の利福の増進に発揮するものなら本人の考える以上に匿名の不特定に対する深慮が必要になってくる。






                





孟子の言葉に「四端」があります。 是非の心 羞悪の心 辞譲の心 惻隠の心はそれぞれ“智”“義”“礼”“仁”を育てるきっかけとなる心だといっています。
しかも、その心は外部から教えられるものではなく、生まれながら誰でも持っている徳性であるとも教えている。
 それは 決して文字に表現されるような難解で固陋なものではない爽やかで、すがすがしい“本心”でもある。

このようにも教えています

「生まれながら持っているものに気が付かずに、それを解き放って(放心)それを

捜し求めることを知らないということは情けないことです。 自分の飼っている鶏

や犬がどこかに行ってしまうと、すぐ追いかけて探すことを知っているのに、自分

の本心がどこかえ放失されてしまっても、捜しもとめて、再び自分に取り戻すこと

は知らない。 学問の道とは外にはない。ただこの失った本心を取り戻そうと求め

ることでもある。」


また孔子と哀公の問答に

「引っ越しをしたが、女房を忘れていった者がいるそうだが」

「女房を忘れるぐらいならまだ良いほうです。近ごろでは“自分”を忘れる者がいる」





            






筆者の体験だが、台湾在住の老女の話である。 夫は世界史に名を残すある事件の陰の首謀者といわれている人物である。 あくまで事件と関係ない思い出話だが

「苗先生は自分を探すために一生忙しく働いていました」と語っている。
【参考文②】

苗氏は生前にこう語っている。
「男子は世界史に名を残すつもりで志を立てなくてはならない」と、「そのためには」の問いに“天下、公のため。その中に道あり”との書を筆者にしたためてくれた。
老境の画家の呻きにも似た言葉でもある。

自我(私)から公(おおやけ)によって“自らの分”(位置、能力)を知り、その後“滅我”によって“無常”を知り、無垢の存在を望むのだろう。

売文の輩、言論貴族と称され、大衆の上部に位置すると思われ、ときには錯覚した権威、権力さえ生ずる知識人と一目置かれている人々に、庶世の幼稚で無学といわれている人々の“理”(ことわり)に添うことを恥じてはいけない。
天が落ちてきたら一番高いところに最初に当たるといっている。

体験者は訴える。
満州崩壊はつい昨日のことだ。そこで得た教訓はこんなことだった。

「吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず」

「物知りの馬鹿は、無学の馬鹿よりもっと馬鹿だ」
“信なく立たず”とはあるが、さしずめ“本(もと)”なければ学問は無駄であり、知識人は社会悪の一片の存在でもしかないだろう。

知識人・・・、響だけはいいが。


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当世知識人の放心と無名有力な学問 II 2009 8/1

2019-08-10 09:04:25 | Weblog

 
            江戸っ子はホドが大事



  《当世知識人の放心と無名有力な学問》
    「放心」放たれた心 


知識人としての理(ことわり)

 分析したり、突き詰めたりしながら空虚で、かつ高邁で珍しい理論という名の理屈をいとも高論のごとく述べたり、あるものは珍名、自己名を研究結果に名付ける分派のボス、あるいは官制御用の学識経験者と称される者などを、ここでは当世知識人と仮にいいます。
また、一過性の属性価値の高まりをのみをヒトの評価基準として枝葉末節な部分の探求に一喜一憂する人を退行性知識人といいます。

お隣の中国ですが、宋代では“九儒”、毛沢東には“臭九老”と蔑(さげす)まれた知識人。 人間を十段階に分類して下から乞食や淫売婦、二番目に知識人といった具合です。一時は大学教授の給料よりタクシー運転手の方が高いときがあった。今はお決まりの裏口や研究費詐欺、単位取得のための色仕掛けや賄賂が横行している。そこに教員同士の不倫や生徒に対する性的イタズラが加わってきている。

色、食、財の三欲、その表れる姿は日本も隣国を笑えない、いやその点では同化し、同様にして狡猾さと欲望は何ら変わることはない。

学者は学問を行い、その途上の者を“学者”といいますが、同学派のその他一同によってその理屈の防波堤を構成し親分気取りで名利を得ているような、まさに臭九老にふさわしい鼻つまみ者も多くなりました。
なかにはニセの知識人も多く輩出されております。
評論家は論外の部類ですが、近ごろサラリーマン経営者の中に見かけるようになりました。
高名な学者の弟子だとか、謦咳(けいがい)に接したとかで“経”と“済”の意味すら分からず、師をとりかこみ同種同根のサークルを形成する者もいるようです。


経営者や指導者の心得と称して師の言葉を手っ取り早く拝借したり、座右の言葉として披瀝したりしてはおりますが、往々にして自意識過剰になり定年後の居座りを平然と過ごしている者もおります。


せいぜい迎えの車と秘書、あるいは会社内の住処(すみか)の喪失を恐れている者もあれば、葬式の花輪や参列者の数をおもい謀っている不埒で卑しい経営者もおります。 頂けるものは何でももらってやれとばかりの勲章待ちもその部類です。


知識人とは人間の「部類」の問題です。 万物事象の理(ことわり)を追求し、禽獣との分別、いわゆる、弁えの度合いを指しているものです。
“聖人にも欲情あり”とは申しますが、それはあくまで理(ことわり)が大前提となるものです。

 

            

 

むかしの学生がよく浸った自問自答のようだが・・・・

「自分」はどんな存在なのか
   
「自分」とは 自然(全体)のなかでの分(位置、役割、責任)
《 社会における 分母と分子の考え方》
“理”は筋道とか道理ですが、人の世の処し方としては、全体の中での“分”つまり一部分と考えたほうが理解が簡単かと思います。

よく幼な子に諭す例えですが、
 
リンゴが一つあったとします。 友達が五人おりました。

包丁を使って二つ、四つと切ることは容易にできます。

しかし、五つに切ることは、なかなか難しいことです。

そのことのために勉強(技術)が必要になります。

でも、一人帰るのを待つこともできるし、仲のよい二人で食べることもあれば、

みんなが帰った後に一人で食べることもできます。 今流に云えば所有権は“私”

にあるからです。 しかも、理屈はそのとおりですから誰も何も文句は言いませ

ん。

リンゴが二つで五人いたらもっと困ります。

ここで言えることは一つのリンゴを五人で仲良く食べようとする“心”があるか
ら、上手に切るための勉強(知識技術)が必要になります。つまり、技術、知識を得る勉強をおこなっても、分けようとする心がなくては無用の長物になってしまいます。

“ 本(もと)立って道生ず”とはいいますが、知識人として思い込んでいる、あるいはそう称されている人々の“本”は、無学という無限大の可能性を秘めた無垢な童心に基づかなければなりません。

そのことは、生まれながらもっている徳性を属性価値によって“放心”されてしまった一部の知識人には、とうてい辿り着くことのない真理なのです。

ある意味で“本”のない知識は“無駄”の積み重ねです。 その行き着くところ循環はなく、行き止まりに“有堕”や“有惰”があり、肉体の滅亡とともに属性知識は消滅します。
研ぎ澄まされた人間の英知を、感動と感激を通じた魂の継承など望むべくもありません。




                  





【 自 分 探 し と は】

( 童心回帰 )
ある高名な画家の話ですが、その筋の国立大学に入り高名な師の一派として名を売り、老境に入って名声を博し、そこそこの値段で取引されるようになり、自らも一派を率いて弟子たちと個展を開いた時のことです。

ある少年がその作品を見て、「どこの学校の生徒が描いたものですか」と、尋ねたところ、作者の弟子であろう初老の男が跳んできて、さも慇懃(いんぎん)な態度で

「 坊やにはまだ解らないはずですよ、いや解らなくてもいいんですよ。先生は勉強して、ようやくここまできたものですから簡単には解らなくてもいいんですよ」

少年は食い下がるかのように

「このぐらい僕でも描けるよ」

 初老の説明者は当惑ぎみに立ち去ったことは言うまでもない。
どこでも存在する取り巻きの類いや、虚構の一派を形成する“壇”の「その他一同」からすれば当然の行動であり、“芸”の術でもある。

かたわらで一部始終、目をとじて聞いていた作者は少年に近づき中腰になり、肩を抱いて耳元でこうささやいた。

「 坊や、君のようには上手には描けないけど頑張るからね」

少年が納得したことは言うまでもない。

晩年、作者が吐露した言葉に

「行き着くところ“自分”とは何なのかを絵を通して探していたんだが… いや、偶然めぐりあった絵だったようだ。 なんのことはない、この年になり、やっと分かりかけてきたのは、子供のころの“無垢”だよ。 追えば追うほど解らなくなるもんだ。 地位だ、名誉だ、金だ、余計解らなくなる。 上手く描きたい、なおさらわからない。 まだまだ幼稚だよ。子供だよ。と思ったら楽になった。たどり着いたのは赤ん坊だよ。おふくろの腹の中だよ。」

それは、まるで「 呻吟語 」の一説のようであり、生命の価値を考える場合の至要な境地でもあったことはいうまでもない。

以下次号

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当世知識人の放心と無名有力の学問 1 2009 8/1

2019-08-09 05:09:09 | Weblog

                パル・下中記念館




知識人の “昇 官  発 財” 「利は智を昏(くら)からしむ」
(学問をして高官に就けば、自ずと財利が発生する)

我が国に滞在する外国の高名な書評家との体験があった。
“昇官発財”という何処の国にも少なからず存在する社会システムも、一方では人間関係の潤いや社会の発展を促すものとして考え方もありますが、ここでは財を得るために高位高官になることを望み、その分類選別のための知識修得という“私”行為を当然のごとく考え、しかも、その生きざまを人間の当然の姿として歓迎するような民意があり、知識人の堕落によって、歴史的にも幾度となく衰亡を招いている国情に随った、ある知識人との対話である。

その書評家の考察によって、自身のステータスの高まりを促すことを知っている我が国でも飛び切り高名で、その一文、一言は大衆の精神構造の移風さえ可能な作家の姿も垣間見ることができた。

作家についても売文の極みとでもいおうか、虚構の人物像を実像と錯覚しているのは本人自身の問題でもあり、一群の時運に蠢(うごめ)く商業出版の戯れでもある。

あの憂国の気概に溢れ、と賞されている三島由紀夫もアメリカ在住の江藤淳氏に自作の英訳出版を懇請する書簡を送り、他方、江藤氏を扱き下ろす書簡を安岡正篤氏に送っている。当時、ノーベル賞のうわさに上っていたのは、安部公房、三島由紀夫氏等だが、それには英文出版が前提になり、しかも高名な外国人書評家の、゛お褒めの言葉゛が必要であった。所詮、商業出版会の演者であり、その説く゛義情゛とはかけ離れた一方の私的、あるいは生活のための名利追求の姿しかない。










まさに一事が万事の例でもある。
その世界では定評のある文芸誌のページをひろげ

「ここに載っているのが私です」名刺がわりでもある。
 
内容は毎年ノーベル賞候補だと騒がれている小説家○○の書評である。 一読すると付け加えるように、

「いやぁ、司馬先生との付き合いもながくて、手紙もこんなにもらっていますよ」と、親指と中指で10センチぐらいの寸法をつくって筆者の目の前に示した。

司馬は新聞記者出身で歴史の登場人物をわかりやすく、しかも興味深くも独特な表現する人気作家でもある。  作家ブランドとしての愛読者は多く、我が国の代表的知識人として海外でも評価されつつある人物でもある。

 書評家におびただしい数の手紙を差し出す作家の意図は計り兼ねるが、国内的にたとえ時運の評価を得て功なり名を遂げた作家が、他国人の書評の価値を意味することを考えてもみたくもなる。 特に“人情”のもつその国独特の解釈と、「利」と「義」の功利的な使い分けを上手に計る小利口な知識人の姿に興味がわいてくる。

 作家の影響力を“公の利福”と認識していた期待の失望感でもある。












「あーそうですか」と、ぶっきらぼうに答えた筆者だが、不愉快でもなければ怒った訳でもない、ただ親指と中指を広げた間にある手紙の価値に感応が鈍かっただけのことである。

「ずっと、日本にお住まいですか」

「東大をでまして、そのご外交部におりまして、いまは家族は国におりますが私は日本に一人住まいです」

その意味するところ指と指の関係と、書評家としてのおかれている立場が観えてくる。

「◻️誌に150枚、◯誌に80枚たのまれていて、ものすごく忙しいですよ」と、続く

「ところで、この書評は日本で著したものではないですね」おもわず口からでた。
 おびただしい数の文字が並ぶ10ページ近い書評の中の2行ほどの表現が、ついおせっかいのように言葉を突いてしまった。

「高名な作家の書評は私の能力では解りませんが、書評する目の前の先生に興味があります」

「なんで判るのですか」と、けげんな顔で質問をした。

「お国(母国)の知識人の表現として観させていただきました」
 我が国の高名といわれる作家が一喜一憂する書評家の戸惑いは、書評より難解な問題ではあるが、彼の国の“美風”が“臭風”として漂うだけのことでり、単に似て非なる現実でもあった。

 そのことは彼の国の典型的な修飾であり、我が国においても“問わず語らず”といった美風?に支えられて価値を生ずるものである。
生きるための必要な“二つの心”が習い性となり、他に影響や感動を与える文章にも、そのクセが出るのである。
それが私事の潤いの手段だとしたら、自らが卑しい心底を文学書評という高邁な美名に隠れて表現しているに過ぎないのである。

不特定多数が感動、感激をとおして知識を得るささやかな歓びにも、いとも中立公平とおもえる他国の書評家を擁して自らの魂を装飾する卑しさは、阿諛迎合する他の知識人とともに無知を越えた“恥”の域にあると同時に、人格低俗の意味をも理解するのである。










「ところで、◇◇◇は日本では尊敬する人も多く、影響を受けた知識人、政治家も数が多いと聞いていますが、お国ではどうですか」

「有名で立派な方ですよ」 

「ここは自由な国、日本ですよ」笑いながら問い返してみた。
 書評家は一息ついてこう話した。
「いゃ…◇◇◇はしばらく日本におりましたが、帰国してからは政治指導者が変わるたびに失脚した指導者を批判したり、新しい権力者の迎合文を発表したりで信用のおけない変節者ですよ。保身の嗅覚がいいですね。」 
「知識人の典型的なはかない姿ですね。しかし、そうでもしなければ生きられないでしょうね。」 ☆ ◇◇◇は市川市在のころ某国際謀略機関に誘われている。


 書評家は妙な安堵を見せて
「どこの箇所で分かりましたか(著した場所について)」と、ページを開いた。
その箇所を指しながら
「現体制を賛美して異なる体制を批判していますね。しかも、今後どんな変化があっても影響がないという臭覚をもって“さりげなく”」
 書評家は黙ってうなづいた。 そして自身の体験として
「じつは日本国内の地方の公演に呼ばれまして、質問の時間になり我が国の政治体制に触れた部分がありました。 私にとっても家族の生活にとっても大変微妙な影響のある問題なので答えることができませんでした。」
「どこの国でも知識人の役割は難しいですね」











 加えて
「 革命前の清朝末期の読書人である梁巨川先生は知識人のことをこう言っています。 “読書人とは聖賢の書を読む人をいう。聖賢の書には聖賢の教えが記されている。従って聖賢の書を読んだ以上は、その教えを実践せねばならない。すなわち読書人とは聖賢の教えを実践する責任を負う人のことである”とあるように勇気と知識を何のために活かすかという事が問題ですよね」

 初対面で、しかも長幼の序も弁えず聞きづらい問答ではあったが、日本の現代風の価値では知識人は国民の情報でもあり、判断力の希薄な人にとっては指導者でもあり扇動者でもあるのだ。 国によっては変革期において旧態の政治家より影響力を発揮する場合もある。ここで重要視するのは知識人の位置づけである。 

人によっては新進時の切れ味も年齢とともに重厚さが大物風としての姿を現し、自らの生きた実証でもある過去の残像や、さまざまな“公”“私”のご褒美が身分保障として大衆に誤った属性価値を提供してしまうこともあります。
そこには国家の情感を育む“腐葉土”としての悟りは無いままに…

 それは循環の無い精神の閉塞であり、庇護の中にある自由を“自由”として表現しているに過ぎない状況でもある。











知識人は、多様な表現を駆使して人間の存在を闊達に表現することを“分”の責任とするならば、一過性の現世価値の庇護者としての一翼を担う政治体制に迎合することは人間の作為を越えた“自ら(おのずから、自然に)”変革到来する避けることのできない将来の有効価値を否定することに気づかなければならない。

しかも一部には異物の存在を“批判の自由”という自由で押しやってしまう傾向があります。 有名か無名か、高位か低位かという意識を背景の力とする場合もあります。 新芽の発生を売文世界の行為として、いとも奇抜な姿勢を伴わなければ興味を示すことのない世の中の刺激マヒという精神病的一派に支えられていることを考えなくてはならないことと同様に、年齢のみで現代の守旧と分別されてしまった人々のなかに全ての“本(もと)”をたどる観察に必要な気風が存在していることを理解されなければならないでしょう。

天安門事件の場で実感した、「小富在勤、大富在天」(小さな富は勤労によって得ることができるが、本当の富というものは決して侵すことのできない人知を越えた自然の意志に添って始めて得ることができる 我訳)は、草莽の賢者の存在や自身の良心を再覚するに当てはまる言葉ではないでしょうか。

以下次号

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人心が微(かす)かになった (旧稿)

2019-08-04 14:32:25 | Weblog

『国民に戦争の覚悟はあるのかね・・・』

 中東派遣(兵)を急ぐ総理を諫めた後藤田官房長官



右往左往の随想ですが当世の備忘として・・・・

 

現在はまさに現状追認政府といったところだろう。

あの頃、満州事変、日中戦の泥沼化に際して、政府にチェック機能を有す国会が現地の戦況報告に対して現状追認に陥った様子に似てきた。

 

ただ、あの頃はまだ少しマシだった。軍や議員の本人なり家族縁者に肉体的衝撃なり惨禍を体験した人物がいたことだ。いまの構成員は戦後70年経った今、その体験も、また生存者から聴くことも少ない世代となった。

それらが貿易なり国防なりの海外案件を政府要員が勝手な約束事を相手国と行い、しかも議会にもかけられていない状態で海外舞台(場面)において気勢をあげる姿は、再三コラムに書く「五寒」にある「内外」に符合する亡国の兆候に符合してくる

 

内外とは内政が思わしくなく、よって海外、とくに近隣諸国から弱体化したと見透かされ圧力を掛けられると、深い深慮もなく表面的争論や、軍事力などの数値の多寡を争うようになる。つまり.そのことが政治に国民の信頼を背景とした自信と耐力が乏しくなった証左であり、それは為政者としては恐れ気質の単純反応なのだ。

 

外の人来たる、内の人よろこぶ」とは孔子の云う郷づくりの要諦だが、逆に、外に遣いに出る邦びとのことも言っている。

あの田中総理が日中交流の調印式のときに周総理から色紙を頂戴した。

言、信を必す 行、果を必す」言うことに信用がおけ、行うことに結果が出る,という意だが、これも孔子でその後に「硜硜然として小人なるかな」と章は続く。

つまり信用ができて一過性の結果だけでは小者だと・・・・

ならば一等の人間は、君主の遣いで四方の国に行って、君主を辱めることのない義のある人物だといっている。

今の民主主義国家の君主は国民、役人は行政府の長である総理、戦前は陛下の大御心(おおみこころ)を旨とした。

 

あの石松も親分次郎長の元を離れたらあの状態だった。ちなみに税金の使途であるODAは、支出したら外国政府の内政となり、たとえ繋ぎをとった議員にキックバックや便宜供与があっても関与できない、まして昨年の汚職摘発0件の内政専門の警視庁捜査2課である。

一時の農協の海外旅行は爆買だった。品物もイロモノも買った。成金の大風呂敷だが、大方は先祖の田畑を売った土地成金だ。それらが選んだ地方、国を問わず議員も大風呂敷を広げて、やたら約束事をしてくる。貰う方は座布団を重ねての接待だ。なかには空手形もある。しかも外交案件は約束してから議会に諮るという。

 

これでは国際連盟の会議おいて国家のメンツにおいて気に沿わないと、堂々?と退席して日露不可侵、日独伊三国同盟を牽引した松岡外相や満州事変の首謀者石原参謀の現地状況に追認したことと同じだ。いくら周りが愚かに見えても、行き着く先が博打では堪ったものでではない。

 

混沌とした欧州情勢を読めず、「欧州の情勢、まことに不可思議・・」と、辞めた首相もいた。

たしかに罠(わな)を駆使する狩猟民族と共同作業の農耕を主とする民族では外交の手法が全く違う。中国の北方は牧羊ゆえに、羊に我「義」が人間関係上、重きをなす。南は海洋ゆえにカイを漕ぎ網を操作する複数、人が二人で「仁」。中国共産党の幹部の多くはの上海閥や浙江、湖南などが多くを占めている。人が複数になると、どうしても権謀術数が長けてくる。

外交にはよくあることだが、敵の敵は味方風に北朝鮮と米国の軍事産業が裏談合して日本海にミサイルを飛ばせば、日本はミサイルディフェンスシステムを莫大な費用で買うだろう。

資金の足の速さでは似ている中国と米国が煮えきらない外交を続ければ、日本は米国の庇護を期待して、より擦り寄るだろう。ヨーロッパでもドイツがロシアと関係を深くすれば、米国でさえ付け入るスキはない。ウクライナの状況も起きる。

 

   

   共産党習主席と国民党馬前総統    今どきの国共合作??

 

日本の外交はいつも背伸びをし、巧言して金を配っている。ことのほか景気のよいそぶりをして並ぼうとする。細事だが家庭や人付き合いで親父がそんなことをしたら破産するか家族にも相手にされない。とくに三代目(3期)が危ないという。

伊達男も見栄えを気にして中身が伴わない。人の噂を気にするあまり八方美人になり、風評を飛ばす人たちを飲み食いで懐柔する。政治ならマスコミ懐柔と便宜供与だ。ついでに脅しもある。

 

内では忍耐強くも呆れ気分が混じる。おとなし気な人に囲まれているが、くれぐれも外に出て国民のお遣いには慎重になるべきだ。ましてや帰国したら陛下にご奏上(報告)されるはずだ。その輔弼として大御心を具現できないお遣いなら行かない方がいいだう。諸事総覧すれば大御心の何たるかを掴めるだろう。

民主(国民)が頼り無いから有司(官僚)経国といわれるが、これも近ごろは弛緩している。しかもそれを頼りにしている議員は有司や法匪の理屈に戸惑うばかりだ。

なかには意見もなく、喋らされ、引責辞任役になる議員もいるが、無感応にもみえる大衆も一過性の傍観に諦めを増している。


『税金も払う、政治は語らず任せるから、俺たちのことを邪魔しないでくれ』

与えられ、囲われた自由ではなく、本性の自由度は世界一といわれる隣の大国の民族の躍動である 

一方、みんなが言いたいことを云い、書きたいことを記す。

しかしいつの間にか「何かおかしい」と思いつつもいつものように世俗に浮浪している。依頼心、好奇心、迎合心、そして喜怒哀楽は狂喜に似て、過ぎればフラットな無表情が社会を覆う人たちが棲む国。


まさにゴマメの歯ぎしりのようだが、「人心は微かなり」の状況になってきた。

 

 

 

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