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まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

優しさへのとりなし

2024-03-25 19:47:24 | Weblog

 

「郷に入れば、郷に倣う」と年上に諭されたが、人情や道徳心はたとえ異郷や異民族の地に入っても、変わるものではない。

よく言われるのは、すみません、わるいね、は自分の罪?を認める事になるので言わないようにと教えられる。エキスキューズミーに似た心を譲る「礼」の意味だが、使う場所にもよるらしいが近ごろは無言も多くなった。

近頃は人の様子を覗うような情報は欲しいが、自身にとっとそれほど有用でもないものは見向きもしないといった手合いが増えているようにもみえる。
少々、へそ曲がりな観察かと反復もするが、その傾向はある。

とくに安易、つまり易しい事柄ばかりに慣れてくると当然のことだが考えることすら面倒になってくる゛易きに流れる゛とか容易ににある自身の小さな「容器」に納まるものしか考えられない状態になってきている。「容」・・かたち、ゆるす

この「容」だが、考え方や切り口によって大きくも小さくも、また変容するものである。
その意味では多くを知る、広く知る、深く知ることが昔からの学問の勧め方だったのだが、いつごろからか知識が情報として、しかも種々雑多な方法や営利の目的に利用され、人の姿や雰囲気を作り上げる部分としての知識が却って流れに浮遊し、情感さえも衰えさせるようになってきた。

確かに文字や映像を通じた情報はわかりやすいが、何かを察知するためにはより多面的な集積と、「思い込み」を避けるための自身の座標軸を確かなものとして行動なり対応に対する動きを柔軟に出来るようにしなければならない。

野球にたとえると安打製造機と呼ばれた張本勲氏とイチローの決定的違いはバッターボックスでの動き方がある。





                

        ジャイアンツHPより   張本勲氏


右足を基点にするが特徴は左足の送り、イチロー氏は球種、速度に応じて自在に動くが、張本氏は身体を押し出すように蹴る動作をする。夫々が異型であり今までの定説を変える姿だが、共通するものは選球と動態を追い変化を読み取る瞬時の対応に優れていることだ。つまり応用は手であり添え足であっても回転は「軸足」である。

もちろん瞬時に覚ったり見抜いたりする直感性だろうが、往々にして頭の理屈より体の慣性ではあるが、これも知識技術の修得以前の習慣学習に譬えられる小学の「躾け」の理屈なき体得に似ている。

それが表れるのはグランド整備、用具の選択と片付け、自身にあった練習、他人との調和と連帯、スポーツマンならずとも世に出るための必須の自得である。


               

ジャイアンツHPより     王選手



さらに考えれば両氏は人の対応をを大切にする。これは王選手もそうだが真剣な集中力を支える野球に対する取り組みに、゛好きで優しい゛心があるからだろう。
「好きで楽しくならなければ勉強は覚えない」と孔子も謂うが、゛易しさ゛では到達できない事でもある。



               

       ヤフーニュースより   イチロー選手



また好きで愉しいことは難しいことに挑戦する探究心も生まれる。難しいことに向かうと人は険しくなり自身に厳しくなる。

かといって易しさに馴れたものにとっては見ることと聴くことに驚きはあっても、彼等の優しい対応の深いところにある厳しさや優しさは見ようとはしない。いや、゛そこまで教えてくれないから判らない゛と。




  

               ジャイアンツHPより  




それぞれと見方はあるだろうが、人から習うとはそのようなことのようだ。
それは、ヤンキースの松井選手のジャイアンツ時代の逸話を練習場に通っていた老人の言葉として紹介したい。

『ともかく松井は礼儀正しかった。必ず球場に入るときは帽子をとる。なかには有名選手の中には斜めにかぶったりバットを引きづる者もいたが、松井の姿勢はいつも変わらなかった。練習が終わって帰るときは多くのファンが選手にサインを貰おうとフェンスに並んでいる。松井は一人ひとり丁寧にサインをするので多くのファンが並んでいる。みな疲れているだろうが松井はあたりが薄暗くなるまでサインしていた。




                

    ジャイアンツHPより   松井選手


なかには笑いながらそっぽを向く選手、下を向いたまま早足で過ぎる選手、嫉妬なのか薄笑いをしながら帽子を斜めにかぶる選手、松井はそんな環境で練習をしていた。
彼の偉いところは嫌な顔を見せなかった。松井の成績はともかく人の在り様を見せてくれた選手だった。とかく人気といものは付き方によってファンに変な影響を与えるね』

この老人も野球が好きだった。そして松井の仕草をみるのが楽しかったようだ。或るとき名も知らぬ新人が一軍で活躍したとき、ことのほか喜んでいたのも老人だった。
『彼はいつも陰で松井の仕草を見ていたょ』

ヒットは何本、年俸は幾ら、易しい見方ではあるが、厳しさから培った真の、゛優しさ゛はなかなか感知できない世の中になった。
とくに世の中の現象に慌てず、騒がず、競わず無名で暮らす人々の優しさは、誰に言われるまでもなく率先した仕草にみてとれるようだ。

ただ、口にしたり、人前で動くと無い腹まであれこれ探られる時代だが、松井選手のように環境を変えてみることも一考だと思ったりもする・・・・

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明治人は、人間キャッチボールで遊ぶのが好き

2024-03-19 08:36:55 | Weblog

                                台北国父記念館

 

素行自得の逍遥

≪以下は拙い備忘録ながら、学びの活学として、経済活動の実利としても潤いのある情緒性であろうと記す≫

 

キャッチボールは野球の用語で、ボールを投げ合う、やり取りをすることだが、ここでは若僧が球になって、それぞれ世間では異様で老練な人物の間て゛、゛試される゛゛仕込まれる゛ようなことが戯れのように行われた。

その球は、磨かれていない原石が投げ合う内に少しづつ角がとれることの様だった。

その球(たま)は小商人の倅に生まれ、文部省の狭い学科に不思議さを覚え、かつ数値によって人を評価選別することに不思議が昂じて反発心さえ抱いていた。だからと云ってその問題意識を高めて探求し解決するすべも持ち得なかった。

 

投げる方は「このように仕込んだ」とおもって送っても、送られた方は「違う仕込み方をして返してくる」そのやり取りだった。たとえば設問を出されると、どうしても他に行かなければまとまらないし、解けない。あるいはお遣いに出されるように行かざるを得ないこともあった。投げる方は双方が意を合わせているのだろう、そのグランドは広いが雰囲気は同じだった。まるで「余計なことを知るより、本(もと)を浸透させなさい」という「小学」の冠にある尋常(平常心を養う)の養いの様だった。

 

                                         

      桜はどこでも、いつでも・・・  だがリンゴの花は。

 

それは送り出す老練な人物と受ける人物が互いに異能を認め、原石をどのように磨くのかを観察しているかのようでもあった。それは世俗の唯一の価値でありながら、何ら人格を代表しない附属性価値である、地位・名誉・財力・はたまた学校歴にある数値の多寡を、登覧する位置で眺める境地が涵養されていた人物の戯れのようなものだった。

 

真っすぐ投げてもシュートやカーブのような回転をする癖もあるが、足(座標)の置き方,体幹(根本思想)、球の放し方(冷静・沈着)、など、野球に模せばその指導法にも理に適った教え方や矯正の方法であり、それを他のコーチにも助言を請うことにも似ている。

また、もともと生まれながらも保持している他と異なるものを発見して「他と異なることを恐れず伸ばす」、自己の確立を図ってのことだった。

            

                       

                       安岡正篤氏

大学校はつまらんところだ」と言った手前もあろうが、「あそこは豪傑がいる」「あの人物は長けた人だ」と、それなりの行き先を促し九州や海外にも足を延ばしたことがある。多くは近代史の記述にある栄枯盛衰に携わった人物、事件の首謀者などだが、総じて異能な人物だった。まさしく縁の巧妙なのか、広く、浅く、深く、すべてが自身の能力次第で拓けるものだった。特異なことは部分探求ではなかったことだ。

課題を与えられ、その課題の起因に問題意識もなく、知った、覚えた類の数値選別を学びとする官製の人間育成ではなく、また組織や権を背景にしたグランドで、゛国なるもの゛を掲げて「民」を埋没させるような、危機・保全・平和の計を標語として、大言壮語するような食い扶持論者とも異なる国人(くにびと)にも少なからず出合った。

それらは、額に汗もなく、背景とする屏風(学舎歴、出身組織)は薄汚れ、老境に達しても汲々として銅臭を漂わせ、混沌とした社会の一端に名を遺すことを描いている有名人もいた。

その多くは、売文の輩もしくは言論貴族として財の獲得を企図している徒だ。

  

              

              佐藤慎一郎(大同学院教授)の生徒 台湾立法院

 

キャッチボールの相手ではないが、それに群がる無知文盲な弟子と称するもの、尊敬する人物を錯誤した輩だが、それも「観人則」涵養のよき反面教師だった。

 

それまでの回顧だが、いっとき流行ったミーイズムは、解りやすくいえば自由主義という代物(しろもの)が、触の鋭い青年期において、カブレた思考のように染め付けられた由縁と分ったのはずっと後のことだった。車や異性にうつつを抜かし、心ならずも不良を経験したが、その不良に憑きまとうような人間の性(さが)なのか、染まるようで、染め付けるような妙な雰囲気があったと他人は云う。浮俗に漂う小人の俗物だった。

 

                    

                  佐藤慎一郎氏 小会にて

 

                 

                          卜部亮吾氏         

 

 

奇縁なのか、良縁なのかはともかく、つれあいが地方だったせいか、それともそんな都会者との縁が面白かったのか、二十歳そこそこで家庭の囲いに潜り込んだ。そのころは未だ学問などと言う面倒なことは知らず、家業を継ぐことがうっすらと感じていた。

ただ、食うための仕事と、人生の仕事については、なぜか分別が付いていた。そのせいか、ときおり起こる男子のごちゃまぜの茫洋とした煩悶は、ついぞ起きることはなかった。

 

良かったのは思春期に両親と離れ、゛爺さんと婆さん゛の手元におかれたことだ。深い意味もなく、学校に近いことと間取りが少なく敏感な年頃だったせいもあった、と推測する。

 

                

                    津軽ヨシ人形は口がない

 

そして、隣の寝床で爺さんが亡くなった。まだ温かかった。台所の婆さんに知らせると「そんな頃かな・・・」と振り返り、柱時計をみていた。そういえば「人は生まれるのも死ぬのも潮時がある」と云っていたが、丁度、それは朝の潮目だった。

いいところの出だが、行儀見習いの奉公にいった婆さんは夫婦といえど「男女別なり」が染みついていた。他人事のように冷静だった。

 

こっちは、悲しいよりか、悔しくて階段に伏せて泣いていた。それは二年と短い三人の生活だったが、静かな可愛がり方だったせいか、あるいは親と離れていたことなのか、亡くなって分る失くしたものの大きさが独りの重圧としてのしかかり、今までの子供じみた軽薄さから、自ずから変化する前兆だった。

当時は判らなかったが、それが他人眼で感ずる括目だったのだろう。内心では、家と別物のアメリカンファミリーのような家族像との分別意識が世俗感覚と離れることだった。妙なことだが、我が子さえどのように接すればよいかの戸惑いも生ずるかのような、家に対する責任意識もあった。

 

妙な粋がりもあったのだろう、子供を世間に通用する独り(一人ではない)の人間として観るあまり、親近感も異質となったが、それぞれが戸惑い、反発しながら、成長した。いわんや己の未熟さゆえか、社会(分)のなかで自分を発見しようともがいている自分が、血縁ゆえの遠慮と、ある意味の辛辣、冷酷さがあった。

                      

                      岡本義雄氏

 

別離環境ゆえに得る、寂しく、厳しい習得をどのように独立した精神で噛み砕くか、それが先に生まれた親なるものの期待であり、それぞれが己を活かすことだと、子供からみれば手前勝手な夢想と云われることが家族間の雰囲気だった。

虎は我が子を千尋の谷に突き落とし、這い上がる我が子が生き延びる、と故事がある。

誕生して母から離れ、乳母に育てられ、思春期には他人(烏帽子親)に委ねられる高家や天皇家の習慣もそれだが、社会(分)の中で己を発見し「自分」となるにはと、意識が廻った。

お前がそうだったから、変な知識を得たから、と云われたが、バブルの落とし子のような感覚で妙な幸福感を曲りなりに運よく持続している現代の養育者とは異なる考えだった。

 

それも好奇心と新和心、そして信じたものからの刷り込みだともいわれたが、批判は甘受して、相変わらず粋がった生意気な人生を進めていた。

 

                  

                     五十嵐八郎氏 鎮海観音会

 

身内が亡くなることは他人眼では不孝にことだが、両親がなくなった時でさえ冷静だった。爺さんの遺志でやるべきことをするだけだった。悲しいより惜しい気持ちだった。世間知らずの時期が懐かしいが、その頃の一族の顔ぶれがつねに想起されるのも、その後の孤塁を護るような風変りな性格も、つねに爺さんと婆さんからの感受が浸透していたのだろう。

まさに思春期の烏帽子のような存在であり、いまでも信ずる存在だ。

 

可愛がってくれた爺さんが思春期に亡くなると、せっせと仏壇に参り、学校に行くのも、旅行に行くときも線香をかかせなかった。そのたびに思い出すのは「金は自分のものだと思うなょ。預かりものだょ」「博打はいけない。競馬でも馬の気持ちが判らない」さすが近衛師団の軍人の言うことだと納得もした。

 

お陰で、そんな経験は老境との関係構築にも抵抗がなかった。

みな、可愛がり、いたずらされた。年寄りの怒る琴線も人とは違う限界点を知っていた。

怒られても、経験の多い高齢者は、こちらの限界点や習熟度をみて抱えてくれた。

よくそこまで言えるね・・」「どうして、あのような人と縁が始まったの・・・」「その考え方はどうしてできるの・・・」「怒らないの? 」「よく赦せるね」なかには、「欲しくないの」と問われるが、問う人間がオカシイとおもえるほど、自分は自然体だった。

 

              も組 竹本

 

そのうち、縁が深まり厚誼となり、彼らの悪戯なのか、゛試し゛が始まる。

互いに示し合わせているのか、妙に舞台が整えられている。察知するのも智慧だが、それに増して彼らも頓智がある。まさに老獪の海に漂う小舟のようだが、要は至誠と情が支配する。

それがなければ思索の座標や観照力も涵養できないと、彼らの教養と観人則は考えるのだろう

 

それは、子供の頃の前記した疑問である

《文部省の狭い学科に不思議さを覚え、かつ数値によって人を評価選別することに不思議が昂じて反発心さえ抱いていた》への応えの居心地よい端緒だった。そうなると面白くて仕方がない。また早めに老獪の海に漕ぎだしたせいか、近代史に名を記す人たちとの縁が直接の邂逅として広がった。

きっと義経の八艘飛びも、踏み外したところで、さぞ面白かったに違いない。それに連なる人、配下の人、地方・海外の縁故など、関連性を持って繋がった。押しかけ、紹介、招請、などさまざまだったが、よくよく考えて振り返れば、すべて爺さん婆さんの、゛教えない教育゛のお陰だった。

 

                   

                  西安事件の陰の立役者 苗剣秋の夫人と  1988

 

つまり、待つ、期待する、そして眺めるような教育だった。

よく背中学とはいうが、瞬間湯沸かし器のなかった頃。汲み置きの井戸水で茶碗を洗っている背中、毎日、自転車の荷台に乗って幼稚園に送ってもらった爺さんの背中、坂道になれば腰を浮かせて左右にペダルをこぐ尻の大きさ、まさに眺めた記憶だ。

それが、どこかで役立っていた。老海に漕ぎだす若憎にそんな残像を彼らは見ていたかのように、口の乾くことを忘れ、歯唇の間からさまざまなことが溢れだす。

 

                                      

                                            台北にて        2016  3/17

近ごろは、それを「オーラルヒストリー」といっているが、面前の応答辞令は臨機応変、縦横無尽である「機略」がなくては、ただのインタビューでしかない。

老若世代への許容量、容・象・体の観察、瞬時の直感力、猜疑心のない素直さ、など、すべてが、己が試される場面であり機会だ

何よりも投げられる球が丸いことだ。いびつな原石は投げる前に矯正しなくてはならない。

投げてもらえるような己を作らなくてはならない。それは学歴や形式礼儀や陳腐な経歴ではない。

 

生まれたこと、生きること、死ぬことを知る。土壇場でも逃げない。社会の一部分を自覚する。他人の困窮に心をおく。なにか親父の小言や年寄りの野暮な話のようだが、いま、できなくても判る人間になることで、他人にはそう映るものだ。とくに老境の達人ならなおさらのこと、そこから「縁」のキャッチボールが始まるのだ。そしてグランドは広く、ステージは高くなり、今までと違った世界が見えてくる。

 

筆者のそれは、爺さんと婆さんだった。

それが判った時「明治の人に遇う」ことを念頭に人にも勧めた。

みな柔軟だった。学びが広く深く、将来の推考も的確だった。

多くは亡くなったが、墓参の回顧が己の背景となり、行為を促している。

巷間、多くの人の口舌にのる評の多くは錯覚した考察に陥っている。

それも切り口と目的次第だが、彼らの厳明した使命感が伴わない限り借論混迷はつづく。

 

懐かしさに浸っていられない昨今である。

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人間考学 もの書きの懐と覚悟 2018 1/1 再

2024-03-16 17:17:28 | Weblog

              

            津軽岩木

※  懐・・・カネ勘定

 

雅(みやび)心までとは思わないが、下衆な下心を隠すような騒がしい人間が増えてきた。

軽薄と見た大衆に迎合し、商業売文に勤しみ、紙離れの昨今は名を知らしめて口舌の輩になり漫談並みの講演を稼ぎにしている言論貴族も増えている。

それは、国家の外敵危機を煽り、経済予想で懐銭の多寡を憂慮させ、さも容易な解決策を無責任、かつ詐欺的話法で食い扶持稼ぎ場として浮俗に漂っている。

 

ある週刊誌の記者だが退職して物書きになった。ネタは戦記物の逸話や事件物だが、情感が薄いせいか物語小説は書かない。小説と言っても明治のころは、今でいう漫画の類で、格落ちの売文屋と蔑まれていた徒の部類だった。

 

商業として成り立つようになると部数を競い、勝手に大衆文学と称するようになると、流行りのカルチャー(文化)に乗じ、新聞連載やテレビの出現などで、いつの間にかオピニオンリーターや文化人などとして持て囃されるようになった。

 

その記者あがりの物書きだが、近ごろは本も売れない。昔は何十万部あったヒット本も最近では数万ないし数千にもならない部数もあるという。よって講演で稼ぐようになる。

義を講ずる講義ならぬ、講演と称して「大衆漫談」と洒脱に語ったのは安岡正篤氏だが、高学歴無教養といわれる最高学府でも義を講ずる人物は乏しくなっている。

 

その物書きに講演を頼んだことがある。相場は20万。それも一コマ90分の大学より少ない60分くらいだ。あのS女史は80万だ、と相場を比較して教えてくれた。

スポーツ選手の誰それは一時間何百万、北野たけし氏はも顔出しで何百万、政治家だって車代がある世情だ。

 

10年位前の話だが、東北の某県では知事の誕生日を各支部で催して一か所2百万、結婚式の顔出しで同額と聞く。物書きのそれはアゴ足付き。ホテルと交通費と宴会付きだが、新幹線はグランパスクラスだ。主催者経費は会場と動員を含めて50万はかかる。

その動員と言っても、軽カルチャーに浸っているご婦人が多いせいか、香水が漂っている会場だ。参加者は50人くらいでも、それでも東京の、たまにテレビでコメントを語っている物書きの話しを聴きに来る、いや、その物書きを見に来ている。

内容はともかく、「観てきたよ」が感想だ。 

 

            

               台湾緋桜 東御苑

 

以前、司馬遼太郎が産経のコラムに講演のことを書いていた。

苦てな講演を頼まれたとき、前の方で私語を交わしていた。それが気になって「負けてしまった」と記していた。

亡くなった直後、著作の権利をもっている出版会や産経が祭上げ、ひと稼ぎを企てた時だった。

その世界で食っていく人間には邪魔な一言だったが、拙文を備忘として残したことがある。

 

 

以下、「不学無術の伸吟」より抜粋

 

      ◇  「空しくなった、負けてしまった」 ◇

物書きはその講演の最中に聴衆が好き勝手に昼食の話や世間話をする「私語」に負けた、空しくなったと散々おもいで感想を書いています。

 しかも、「私語」に苦労している教授の話を同様な煩いとして、さも自らの体験をなぞるように 引用しています。

  ある日の稿では、小便がちかいため、陛下の御進講の際に中座して厠の案内を皇太子に尋ねた状況を書いています。

 

  「空しくなった」「負けてしまった」という「私感」はともかく、聴衆の分(ぶん)が合わなかったというのか 、それとも員数合わせの善男善女なのか、読書でいえば「読めないのか」「読まれないのか」あるいは聴衆が庶世の哲人であるためか、どうも講演者の側に妙な錯覚があるようです。

 

 世に言論貴族、売文の輩と軽称されている部類によく見かける煩いでもあります。

  知識人の幼児性は大衆の内なる嘲笑を感ずる事なく、単に「文壇」や「言論界」の中でしか通じない隔離された兵隊ごっこがまかり通っていることに気が付かないようです。

 

 無いよりは有ったほうが幾分マシだが、何ら人格を代表することのない付属価値である、地位、名誉、学歴、財力を唯一の糧として倭人特有の群行群止を促すような、いとも高邁な珍説、奇説、はたまたは覗き、脅し、予想を虚飾する輩にゆめゆめ惑わされてはなるまい。

  隣国では知識人を「臭九老」と称して淫売婦の上、上から数えて九番目に卑しんでいます。

 

 宋代では皇帝が学問を奨励するために「勧学文」を掲げ“書中、自(おの)ずから黄金の部屋あり”“書中、自ずから女あり”と、食色財の欲望に直接勧誘することにより、それなりの学問が盛んになったといいます。

 「利は智を昏(くら)からしむ」というべきか、明の攻略にひとたまりもなく滅んだ状況が目に浮かぶようです。 何のために学び、何に問うのか、「本」(もと)を問いたくもなります。

 

     

       佐藤慎一郎先生

 

   ◇ 「座して尿せよ」 ◇

 

空しくなった物書きは明治の言論人、陸羯南を書き遺そうとしたという。

  ある章に「陸羯南がいなければ俳句など電池の切れた懐中電灯の殻のようなものだった…

 

 

    陸 羯南      山田 孫文

 

 

「今の入社試験では採れないような正岡子規、長谷川如是閑など…」と敬意を込めて記述している。 

陸羯南といえば青森県弘前市在府町、真向かいは辛亥革命に挺身し、日本人で最初に犠牲となった山田良政。孫文の臨終に唯一日本人として立ち会った純三郎兄弟の生家である。 

良政は幼少より羯南に可愛がられ、異国の革命を我ことのように奮闘にするような、時代に先駆けた教育の基が養われのです・・・・

 

・・・・山田兄弟の「不言の教え」で育てられた佐藤慎一郎氏は昭和初頭に旅順水師営の中国人小学校の教師として赴任、北京留学を経て満州国崩壊を期に帰国しています。

 その風貌は「王道は人情に基づく」といった大らかで暖かい雰囲気を醸し出し、「他」に対する勇気と熱情は異民族の心底さえもを揺り動かし、民情に基づく透徹した推眼は国策遂行にも欠くことのできない助言者でもあります。

 

 その佐藤さんが講演依頼されたときのこと、寒かったせいか便所に立つものも多く、物書きの言う「私語」と同様な状態でした。

「座して尿せよ」(座ったままで小便をたれろ

 九十を越えた今でも、五十人ぐらいの聴衆ならマイクなしで立ったまま講義する佐藤さんが「座して尿せよ」と、大声で叱責したので一同金縛りにあったように時が止まった。

私は真剣だ。明日再び会えないかもしれない。いや明日死ぬかもしれない。今日という一日を皆さんと一緒に過ごしている。今日という一日は二度とない。君たちとの大切な時間ではないか。

 そこには「空しくなった」「負けてしまった」といった敗北感はない。 物書きが追い求めた明治の実直さと勇気、そして慈愛に裏打ちされた熱情があるだけだ。

 

なかにはこんな明治もある。

 講演を依頼されると員数は、どんなレベルか、会場は、謝礼はと、言論貴族の権化みたいな放談で著名な老評論家だが、伝を頼って陛下に拝謁した折り、侍従のワイシャツのメーカーを話題に供し不興をかったり、実直な民族思想家に「死んだら銅像が建ちますよ」と述べた途端、「口先で迎合したようなことを言わずに自分の番組で僕の考えを伝えたらどうだ」と一喝されたような人間もいる。

 

 佐藤先生が引用した 「座して尿せよ」とは、戦国武将の軍議の場で子供が小用に立ち上がった際、「明日の決戦で生きるか死ぬかの大切な会議をしているのに小便ぐらい我慢できないか。一言でも聞き漏らさず その場で座ったまま小便をしろ」と、叱責した情景を模してのことである。

 

 同様な場面だが、物書きの一文にも明石元三郎と山縣有朋の真剣な会話の情景が書かれている。

 簡略に著せば、厳冬の季節に明石が山縣に情勢報告を行っているさなか、真剣さのあまり尿意を忘失、小便を垂れ流し、それが山縣の外套に染み上っても、そのまま続けたという姿である。

 上下関係や現場の状況より、「公」にもとづいた談義はときとして肉体的生理を超越した「狂」の位置にある。

 あの長州閥を率いて権勢を布いた山縣だがこんなこともある。

(参考抜粋終わり)

 

          

         

 

佐藤先生は、まず対価は受け取らない。対価は講義後の懇親会と交通費の実費くらいだ。

しかも、講義の前段は、短いもので一週間余を掛けた教授案の作成だ。

それを取りまとめれば、そのまま書籍になる精密な文章だが、資料として一部は朗読するが、多くは一期一会の出会いと自身が考えている、緊張した脳内整理というものだ。

住まいは荻窪団地の3階の年金暮らし、90歳になっても研究は欠かさず、病弱の妻と二人暮らしだ。

 

 

       

           しばしば酔譚を・・・

 

その状況を筆者の備忘録から抜粋する。

師弟酔譚「荻窪酔譚余話」より

 

杉並区の荻窪住宅23楼301号の住人、佐藤慎一郎宅には多くの客人が訪れる。

さて、幾人が荻窪南口から経由する団地行きのバスに思い出を乗せたことだろう 

文章定かではないが梅里先生(徳川光圀)の碑文にこんな刻文がある

第宅器物その奇を用せず、有れば有るに随い、無ければなきに任せてまた安如たり

 書棚に囲まれた部屋に、まるで帰宅するような厚かましさで拝聴する無恥と無学の懇請は、まさに附属性価値を排して、無名で有力であれと諭す佐藤先生と懇意な碩学の言に沿ったものでもあろう。

 

 はじめは異質、異文化の世界かと伺っていると、浮俗にまみれていた自分に気付く。

驚くほどに透明感のある率直な欲望を鳥瞰して、そのコントロールの術を自得する人間

学の存在を認識する。いわゆる「自ずから然り(自然)」と人間の同化と循環、そして離反に表われる歴史の栄枯盛衰を自らが解き明かす(自明)という吾の存在の明確化という真の学問の探求に他ならない。

 

不自由な身体を運び、3楼から道路まで見送りに降りる姿は、多くの明治人が醸しだす、

いとも自然な実直さを漂わせ、乗車、発車から車影が微かになるまで手を振る姿に車窓が涙

でおぼろげになることも屡だった

 

 交談は、「話」という舌の上下ではなく、体験に観た吾そのものを伝える「語り」であり、知識や物珍しさの収穫ではなく、感動と感激の継承という人間を探求して「学んだら行う」学問の姿であった。

 

もちろん、巷間の学者、研究者の類にその薫りを観ることはない。

 

(抜粋おわり)

 

有名を追わず、淡々とした学究は人に囚われたり拘らない、もちろん財貨の欲求もない。

金や地位の関係は作為を生む。無条件の愛情は真の信頼を生む。あの中国の庶民はその細やかな人情を感知できる。人情は国の法律より上だ

 

           

 

碩学と謳われた安岡正篤氏も古典の深淵さと躍動感を佐藤氏に訊いている。

交誼は水魚の如くだが、謙譲の精神で「間(マ)」を大切にして語り合っている。

安岡氏が病に陥ると代講を懇嘱され度々受任している。

 

 

以下、ふたたび拙章「不学無術」より

 

いずれ放心から醒めた庶世の哲人は「分」を錯覚した物書きをしたたかに嘲笑し、時流の余興にしてしまうでしょう。

それは政治家、教育者の唱えまでも漫談や娯楽の類いにしてしまうことにもなります。 

その結果は、何れ到来するであろう指導者の哀願や、訴えといった状況が空虚に陥る過程でもあります。 

 

人が公私をわきまえた他の存在を信じられないとき、あの大観園の親分の言っていた泥水同化の招来をくい止めることが不可避となります。

 明治の賢人は「明治」を語ることに虚飾はない。

舌の上下である「話術」の講演でもない。吾を語る「講義」があるのみです。

 極論すれば肉体的衝撃から我が身を保身するため、媚文芸言を駆使していざとなったら逃避する有名無力の穢利偉人(エリート)特有の術などはそこにはない。

 

耳から入って直ぐに口から出るような「口耳四寸の学」や、その場、その時で演技をする「逢場作戯」のような講演者では、内容より事の大小、多少、巧拙に囚われた文章や話になって当然であるといえるでしょう。

 「空しくなる」のは聴衆の側です

 

筆者の独り言だが、孔子さまも一語忘れているようだ。

「巧言令色、仁すくなし」と仰せになったが、当世では「巧言麗文、義すくなし」だろう。

 佐藤さんは、時運に迎合した組織の運営が本来の目的を忘れ、参加者の多少のみを憂うる主催者に対して、

本(もと)立って道、生まれる。一人でも小なしといえず、千人でも多しといえず」と、その多勢の衆を恃む目的の錯覚を諭しています。

 なぜなら、聴衆のなかで真剣に聞くものがあればが一人でもいい。「国は一人によって亡び、独によって興きる」ということを土壇場の実感として分かっているからです。

 

 二時間の講義に一週間前から草稿作成に取り掛かり、自らのものとして真剣に臨む姿は、物書きのいう明治の実直さを体感できる講義でもあります。

「教育は魂の継承にこそ本当の意味がある。それが今を真剣に生きるものの歴史に対するささやかな責任であろう。そして邪魔にならないうちに消えさることです」と、常々、語っています。

 

亡国は亡国の後、その亡国を知る」といいますが、記誦の学の餌食になって昇位発財した知識人の幼児性は、その錯覚した現象とともに亡国の徴であるかのようにおもえてならない。

 

 

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再読  民主と自由 長(おさ)のいない国家 09/7あの頃

2024-03-12 18:24:25 | Weblog

          敬重なき国家は滅びる   安岡正篤翁



ことさら権力をひけらかす訳でもない長(おさ)の首取りが流行のようだ。
それは人間が他の人間に言葉や行動を譲ったり、補い合いながらスパイラルを描くように推戴する長(おさ)の立場への敬重や、暗黙の契約というべき長との関係の在り様が希薄になっているからだろう。

長(おさ)が軽くなったのでもなければ、過大な罪科をともなう過ちをしたわけでもない。
ただ、゛下りたほうがいい゛くらいな声が増したために地位を下りるのである。
別段、小物だの大物だと評するものではないが、推戴する側もされる側もアンチョコにも易く考えているような傾向があるようだ。

華人の俗諺にあるように「天が落ちてきたら、一番高いところに当たる」、つまり厄災は総て長(おさ)の責任として甘受すべきであるからこそ、たとえ時の運によって縁により栄達や名誉も授かれるのだという相対する考えもある。

国務院の要人が恩師を訪ねて「最高指導者が失脚したら、果たしてわが身はどうなるのか・・」との問いに対する応答ではあるが、数多の故事がある中国でも栄枯盛衰も我が身にかかわると解らなくなるようだ。

床の間の石のように、見栄えが良い、何となく似合う、あるいは説法、いまどきは演説が巧いというだけで長(おさ)に座らせられる?ような人物観がまかり通る安易な世の中でさえ、世渡りの知恵者と思いきや腹背の狡猾さと計算だけでは納まらない難しさはあるようだ。

その観人則からすれば、生真面目で、物事に慎重で、精霊に祷るような、あるいは大らかで楽天的ともいえる先見の余裕をもった人物などは無碍にされる類だろう。



                






以前、小章に、「優しさ」と「易しさ」の混同が現代の思索と観照の衰えを如実に表しているのではないかと記したが、゛ヤサシイひと゛とは、理解できる範囲の言葉と内容や自身を心地よくしてくれる対象に対して使われるようだが、一頃の両親や教師あるいは交際相手の風情には無かったような、それこそ安易な人の見方が蔓延している。

政治の世界のことだが、元首相の小泉氏のワンフレーズに踊った国民の群行も時が経過してみると一種の妄動のように見えるのもそのためだろう。最大派閥の橋本氏と競った総裁選も、彼特有の意味不明ではあるが何となく分かった風になる切り取り単語の絶叫は多くの国民の代弁者のように当時はみえた。

だか、当選の最大の功労者は田中真紀子氏が帯同した演説行脚と物珍ししいイベント選挙を煽ったマスコミの騒動喚起である。
ここにも燎原の火のように広がった県連票であり、直接民主に屈した間接民主選挙(国会議員票)であった。つまり判り易いという「易しさ」の勝利だった。

自民党の風通しの問題かとも思えるが、その易しさを背景に無慈悲な権力が大手を振って政権末期まで其の影響力が衰えなかったのは、日本人の性癖である阿諛迎合性、あるいは思索の衰えたために易きに流れる人間の文化的惰性と見るのは早計だろうか。

みるところ無慈悲と人情の最初で最後のコンビネーションだが、政権に就くと間もなく同床異夢の謗りは免れない事件で其のコンビは消滅した。

したり顔の評論家は、毎年米国から強圧される対日年次要望書がタイミングよく郵政民営化であったことを幸いに、旧田中派の郵政(電波、財投)利権を奪取する族構造の、゛改革゛なするために真紀子氏の使いまわしがあった、という。

ことの起こりは宮沢・クリントン当時から始まった要望書だが、医療保険であれば薬価、研修医制度の見直し、その後来襲した一日一万円の入院費を謳った数多の特化した低価格保険の氾濫、医師不足のための患者たらい回しが起こった。

公共事業・建設業の要望ではハザマを始めとする大手ゼネコンと首長の汚職が摘発され、却って良質な口利きである要望受託すら遠慮するようになり、より議員の個別利権の発生である生活保護の適用強圧などで扶養費が膨らみ、環境利権の創設?で公園造成、清掃工場、ゴミ運搬など、個人から特定政党の専門利権として新たな構造化を進捗させている。

金融要望があればハゲタカファンドといわれた外資のサラ金並みの高金利と国内の法令基準(コンプライアンス)など無視した横暴がまかり通り、否応無しに株と為替の博打的操作によって企業は防衛にエネルギーをとられ、社員の相互信用は欠落して危機管理とかコンサルタントという相談業が繁盛している。






              
               武蔵野


翻って一昔前のわが国の郷(さと)の長(おさ)は地域の有力者、医者、駐在警察官、教師と相場が決まっていた。有力者には町会長、議員、古老などが並び、冠婚葬祭の重石として上席を占めていた。派閥でいえば領袖、政府は総理大臣だが、この人たちへの敬重基準は財力、地位、学校歴もあるだろうが、本来は臨機での態度に観る、卑しくない、逃げない、良質な裏面性、そして度量と器量にいう、゛おおらかさ゛と、゛厳しい人情゛であろう。

実行力だの説得力はその次にある素養でもあることは、孔子の説を借りれば解りやすい。
言うことが信用できて、行うことかに結果が出る、このような人は・・・?

硜々然(こうこうぜん)として小人なるかな」(小石のように軽い)

『ならば、信頼おける人物とは』

君主の使いに行って、君主に恥をかかせない人物、義のあるものが一等である

日本研究で定評のあるベネディクトは著書「菊と刀」で日本人の「恥」について記している。恥をそそぐために命を賭けて「義」をまっとうする人物を異文化にも普遍で崇高な人物像として記している。むろん新渡戸の武士道、鈴木大拙の禅がベースにあるものであろうが、騎士道との共通性をみたものであろう。





               

                  中国 桂林





ただ、昨今は人格とはなんら関係のない附属性価値である、財、地位、学校歴が安易な判別法が人を量る目安として定着してしまったためか、度量、器量などの如何では人を見ることができなくなった。人物は・・・などと説いても其の像すら掴み得ない状況である。

ものめずらしい話、空想化した仮説、時代予想など、いとも高邁な奇説、珍説が持て囃されるようだが、この種の売文の輩、言論貴族の堕落は中国の百家争鳴に踊った知識人の末路にある権力迎合、変節が映す知識人の堕落は国家さえ売り飛ばす性根劣悪な人の為りである。

また、そのような人間の群れを歓迎し、誘引され、自壊する民衆もその嗜好は人畜を混同した様相、つまり怠惰な宿命意識に留まり現世利益のみを成功感としてギリシャ、ローマ、大英帝国の栄華を没落せしめた温泉、グルメ、旅行、イベントへの興味と、獲得への嫉妬、競争から人間関係の離反へとその道を辿っている。

長(おさ)の存在すら認めず、ひたすら他民族の空想化した擬似真実性(バーチャルリアリティー)の利便性に潜む謀に慣れ親しんでいる様子は、前段にあげた具体的他国の要望を防ぐことすら敵わない亡国的リーダーを長(おさ)として推戴してしまう。

しかも考えることと、観察して照らすこと能力を失くした感のある人々は、゛易しい゛ワンフレーズに錯覚した勇ましさを加味して、笛吹きにさらわれた子供のように行く末を見失っている。



               






誰が言い出したのか、「自由と民主を与える」といわれ人々は踊った。板垣退助は「板垣死すとも、自由は死せず」と言ったそうだが、そんなに自由がなかったのか。土佐の先輩坂本龍馬はリョウメと呼ばれていた幼少から命を落とすまでの一生は果たして自由のない世界だったのだろうか。
書いたり、言ったりする世界に真の自由はない。近頃では青白い物知りが肉体的衝撃を回避する為に無意味に集積した知を弄び、無定見な強者に阿諛迎合する知識人が多い。そのような輩に限って自由と民主を盾として走狗に入るのである。


それより模倣憲法が出来て法が整い、武士の専任であった戦争に庶民が駆り出される事のほうが生き死にの自由は奪われている。飛言だが会津戊辰戦での庶民の抵抗に懲りた板垣の一案が自由を代償に庶民を徴集する一計であり、明治創成期に始めて国民という呼称と共に今までの軍事戦闘の専任だった武士が役人となり、戦闘員は国のための戦闘員として組織化されるための方便のような自由と民主だったという。

だからといって放縦にならないように借金をさせたり、保険に入らなければ医者にも掛かれない仕組みを作った欧米の自由権の操作もある。国籍を得る代償は戦争と課税でもある。日本でも納税ラインによって選挙権の付与があった。




              






いまでは税も医療費も学費も払わなくてもいい人々が増えてきた。好き勝手な自由解釈によって怠惰な遊興に走り身を持ち崩して、゛その権利゛を手に入れたものもいる。なかには議員の裏口入学の口利きのごとくちゃっかりその位置を占拠しているものも一部にはいる。全国では年間数千億の斡旋利得である。

翻ってそれを司るのは家長,自治体の長、国家では内閣総理大臣という長(おさ)ではあるが、とんでもないお門違いの自由と民主に戸惑いと停滞を起こし、手も足も出ない状況が続いている。


加えて長の首切りと元マスコミ有名人の登場で賑わってきた。
よく、゛劇場政治゛とか、゛神輿は軽くてパーがいい゛といわれてきたが、どうも極みのない世界に迷い込んだようだ。「いくらかマシ」の類だが、連帯意識もなく群れの運動体のようになった人々の真摯な願いだとしても、いずれは掟と目標を持った特殊な集団に飲み込まれることは疑いもない現実である。

漂いはじめた民に取り付くシマはあるのだろうか・・・

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アメリカよあれが文明の灯だ Ⅷ

2024-03-09 02:55:24 | Weblog



 春は枝頭から  


星よさらば
  十一章 ―サンテクジュペリのこと―

アレクサンドロ・ド・サンテクジュペリは、今や日本でも、人気のある、有名な作家である。特に「星のお王子さま」で、群を抜く評判だ。
 アニメ映画も、フランスで作られている。みな戦後の評価である。
 日本翻訳は、内藤濯(アラフ)、その人と作品に惚れこんで、訳した。

 しかし、戦中、昭和十四年、五年―一時、その作品は、白水社から、少部だが、連続刊行され、一部の層には、斬新なスタイル、鋭利で磨かれたセンス、文体を珍重されている(当時の翻訳は堀口大学)(第一書房)

 生前、リンドバーグとは、二度しか逢っていないが、互いに敬畏と共鳴を抱き、リンドにとっては、カレルに次ぐ話しの通じ、よく分かる益友だった。
 更に、アンにとっては、無上の人

 この頃までは、理想の太陽の人だったのは夫のリンドバーグだったが、逢ったその日から、リンドバーグは、月となり、太陽は、サンテクジュペリになった(日記)


 サンテクスは、フランスの名門、貴族の嫡(チャク)流である。1900年生
 もっとも、この頃には落魄していて、父は亡く、美しく、気品のある母の手により、姉妹二人と、厳格な教えと、深い愛によって育まれた。

 幼少の折りから、素晴らしい金髪と、輝く額、光り溢れる黒い瞳で、子供達からさえ、プリンス、金髪の王子様と敬愛されている。

 若い、少早から、哲学、思索にふけり、急進的な左翼思想に流れていたが、やがて、募兵、偶然にも飛行兵に配属されたことから、パイロットになる。
 
 それも、初めから無茶な飛行で、乗った途端に事故を起こすという軌道外し。しかし、すぐ熟達の飛行士となる。退役、予備役将校のまま生活の為、リンドバーグと同じく、航空郵便会社に入り、主に南米方面で働く。

 リンドバーグと違い、彼の方は、事故、遭難、怪我と、一時はサハラで墜落、行方不明にさえなったり、傷害で、再起不能とさへ思われたこともあるが…やがて復帰する…パイロット不運だったのだ。
 そういう勤務中にも、文章に励み、しかし、余り認められぬうち、結婚…
 美しいコンスエロ・スンシン…これも貴族系…
 しかし、その生活は厳しく、苦しく、一時は、南米生活中、電気、水道、ガスを止められ、アパート代も何ヵ月も溜め、収入ナシ、二人で死のうか、と…死を待つくらいの窮迫だった。

が…送っておいた短編が採用され、その僅かな稿料が届いて、死を免れた、


 この頃から、少数紙の取材記者などして、少しずつ余裕をもちだす(1936年夏スペイン内乱など)
 こうして、体験からくる「夜間飛行」「南方飛行」などの、それまでのフランス文壇にはみられなかった、新しいスタイルの文体と感覚が、一部に認められ、加えてパイロットという職歴が珍重されだす。

 やがて、戦火―招集、フランス祖国のドイツ降伏と共に、アメリカへ亡命。
 このあたり、著作のアメリカ映画化により潤いを得て1942年には、「星の王子さま」刊行となる…フランスではなく、初版はアメリカ出版なのだ、
 フランス解放のため、再び志願、連合軍アメリカ航空隊に参加する。

 リンドバーグ夫妻が、彼と会うのは、その一九四〇年~四一年、サンテクスがニューヨークのリッツホテル、滞在中、映画の仕事中であった。

 アンは一九三九年夏に、「風と砂と星と」の翻訳版を読み、自分と同じことを感じ、考え、夢見ている男を知った。以来、敬畏と共感を抱き続けてきている…

 自作の「聴いて、風を!」を贈ると、サンテクスもまた、長い○○感とフランスへの紹介をしてくれたから…

 いよいよ礼讃は高まった。
 そのニューヨーク滞在…勿ち連絡を取り、宿泊がてらの晩餐に招く。
 リッツホテルに単身赴いたアンは、迎えの車が故障したので、ロングアイランドの住居まで、二人で列車で行く。

 既に四十才を過ぎたサンテクスは、写真などと違って、もう、あのすばらしい金髪も薄くなり、六フィート二インチ、リンドバーグを超す長身で、生活の疲れが、面にも惨んでいたが、あの瞳の光だけは、キラキラ深い奥から輝いていた。

 同行中、仏語のできるアンと話しは弾み、アンは熱中に傾倒した。
 その日の日記には、サンテクスを“夏の稲妻”と表現する。
 夫のリンドの方は、会合で忙しく、その日も留守…で、夜遅くやっと帰って来る。

 彼はフランス語ができない。
 紹介後も…結局、アンとサンテクス二人の談笑となり、それでもリンドとサンテクスは互いの立場、境遇から、深い共鳴と親愛を持った。気持ちは表情でも分かる。

 夜は更け、朝まで、話は続き…一夜で三人の仲は、深く、濃いものになった。
 翌くる朝、リッツホテルまで、夫婦が送っていく。サンテクスの語る寓話に、アンの通訳で聞きながら、リンドは夢中になり、エンジンがガタガタするまで気がつかないほどで途中エンコ。とにかく、無事に車で送る。
 その後、リンドがミューヨークに出かける折、リッツで、またサンテクスと談笑。この二回で、三人の生きての対面、会談は無かった。

 サンテクスは、前線に戻る。アフリカ基地から、イタリアのコルシカ島へ (1944年7月)アメリカ軍に所属した為、彼は、フランスのレジスタンスやドゴール配下の軍人達からは、排斥嫌厭とされている
 偵察飛行に飛んで…以後、行方不明。
 機体も肉体も、その一片すら未発見…
 …七月三十一日 四十四才

 それを新聞で知り、アンも、リンドも、哀悼、悲嘆に沈んだ。
 アンにとっては、唯一人の、恋人に近い、己を詩人、作家として、認めてくれた理解者男性!リンドバーグにとっては、同じ苦悩と○○人と、夢想を共にできえた友として…


 その後―
 母や、姉妹は存命し、美しき妻もまた、彼の死後、生きた…
 そして、サンテクスの名を汚さぬ生涯をも終えた。

【以上、「アメリカよあれが文明の灯だ」の未完抜粋を終了します】

※ 文中○部分は、判読不明文字


《数回にわたって久坂総三氏の稿を掲載しましたが、その世界では埋もれがちな無名な作家ではありましたが多くの未発行作を残しています。色々な批評、或いは一顧だにしない方もおられると思いますが、齢80歳の天涯孤独な作者が描く善き日本人と、日本に情を置く異民族の日本人観を世上に掲載することにより、何れかの用となることを希望するものです》

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アメリカよあれが文明の灯だ Ⅵ

2024-03-06 08:06:00 | Weblog

                          石原莞爾



ジョセフ・ステジァク
  インディアナ州ミシガン市鋼鉄労働者

 「フィリピンのミンダナオ島―日本軍の立てこもる洞穴に、火炎放射器を使って、掃討作戦も従った。
―諸君に捕虜を連れて来て欲しく無いって…頭ん中に徹底させたよ。


俺達は、呉に上陸した、広島から8、9マイルか…十月六日から一ヵ月経ってた…
このインタビュー中、彼は笑い…話し… そして、途中、言句に絶して、泣く、彼は、放射能の真っ只中にいたのだ…生き残りの日本人と共に…
帰国後、毛が抜け出し…この時、発症。インタビューの時も、原爆症だった。


ロドート・レカーマン
  ニューヨーク市立大学経済学教授、徴兵

 …目が悪いし、何についても不器用で…結局、連隊本部付の事務に廻された。
 グアム…沖縄…
「酷い状況でした…誰かがやってたような。敵兵の耳を集める事はしてません。
 毒牙を持つ黄色い人殺し、人間以下の獣という噂で、育ちましたから、日本人が十万殺されれば、それだけ好いんだ、二十万ならもっと好い…広島の原爆を聞いて、凄いてっ思いました。」



 沖縄で―
 「小屋に日本人がいたかい?」
 「ああ、グークのババァがいたよ。バァさんは、御先祖様の仲間入りがしたいっていったから、オレが望みを叶えてやったよ。
 
 私はカッとした。
 「このクソッタレ!バァさんを殺す為に、ここへ来たんじゃない」
 彼は、アアだこうだ、言い訳し始めた。軍曹が来た、私は報告した、前進…その後どう処理されたかしらない。
 ヤツは、好いヤツで、まだ少年って感じだった…一番いい事をしたつもりなんだ…私にはわからない。



 彼らの病院船攻撃、撃沈については、前述通り…理屈が付いている…後には、日本もやったかもしれないが…先にやり出したのは、彼らである。
 日本舞踊家、当時に二十一才ばかりの、二代目花柳寿美は、前線慰安の帰り、病院船にのり合わせ、途中、撃沈された。
 
 水上に浮び、漂う彼女らの見える位近寄った。航空機から、漂流者や病人、怪我人が、機銃掃討で、殺される情景と、体験談を、昭和十九年の「主婦の友」誌上で、私は、当時読んだ記憶がある。
 戦後、刊行の「昭和大雑誌」の下巻に、後載されている。
 ウソではあるまい。宣伝ではあるまい。
 軍の虚偽、創作と、諸君は思うかしらん…とくと読みたまへ。



 小泉信三 慶應大学教授 昭和19年10・11合併号 三田文学 所載

 “アメリカ人と残忍性”
 …タイム、リーダース・ダイジェスト、ライフ…諸誌を、戦前から、まま、読んできているが、戦中に入ると
 「―思い当たるのは、アメリカ人の…惨酷に対する彼らの無神経である。
 …吾々…日本ならば警察が許さず、よし許しても読者が目を背けるような写真が…しばしば大きく出されていた。

 …黒人の泥棒の死体…悪人にもせよ。罪囚にせよ、人間の死体はこれを大事に扱うと言う観念が見られない。
“ライフ”は、発売部数、四百万、読者は千数百万に上ると云う。

 電気イスによる死刑執行実況記事など、
 「…吾々は要略だけでも読むに耐えぬ。…紹介も検閲は許さぬであろうし、たとい許されても私には書けぬ。

“ライフ”で、南太平洋のある島での食人について…

 いかにして人肉を食うか、その調理法まで、さらに信じがたいが…人間をあぶりつつある実景写真を載せてあった…日本人には堪えられないことで…吾々はこんなものを見られない。
アメリカ人の神経と吾々の神経とが違う…

 ガダルカナル島その他で、我が負傷兵に対しての米兵の残虐行為や、死体侮辱は…彼らとしては、大した事ではない当たり前のことであるかもしれぬ。
 敵兵といえども、その頭蓋骨を弄ぶというが如きは、日本人には到底思い難い行為である。第一気味が悪くてできない。

 最近、日本人の人骨で作った紙切りをルーズベルトに贈ったというが、贈ったのは、国会代議士である。平均以上の、バカでも気違いでもない人間―代議士が、そうしたというのは、大統領が受取ると考えたからであろう。〈事実、大統領がそれを手にして、正面を向いてニタニタ笑っている写真が、“ライフ”に載った。デカデカと…彼らにとっては、それは愉快なことだったのだろう。さぞかし…?〉

 私は、アメリカの盲目的増悪者では無かったつもりだ。
この事実をみると、前から熱心に読んできて、少しは彼らに学ぶべき所を学ぼうとしてきた私も、どうしても、彼らと吾々との間に、異質のものがあると認めざるを得ぬ。

 これは、病的神経、刺激を求める残忍性では無くて、肉体、精神健康な人間の無神経である。残忍性である。加えて、他人に対する、抜きがたい、優越感と、懲罰を当然とする性格を認めざるをえぬ。吾々が、この敵に負けることがあったら、彼らは何をするか、想像もできぬ。

〈以上は、長文の為、多少、省略、換語をしてあるが、ほぼ原文の意のまま、戦時、日本敗走中の頃、末期発表で…小泉信三は、のち、皇太子の傅(フ)となり(現天皇)、そのご成婚の媒を勤めた人である。氏はまた空襲で、大火傷をこうむり、半顔に、醜痕を残している〉
小泉信三全集 二十巻後にある

 ついでの事で―関り無いかもしれぬが、なほ一文
「―くり返していうが、この戦争に妥協、中間的結末はあり得ない。勝つか、亡びるか、いづれかである。
 
 万一にも敗れ、屈服することがあったなら、我々自身、我々の子女は、永劫の苦痛と、屈辱の淵に沈まなければならぬ。
 このことは敵国の世論に徹して、いよいよ明白、一点の疑いを挟む余地もなくなった。」
「―米英人は、日本人の絶滅を唱えている。本音である。」


抜粋続く

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アメリカよあれが文明の灯だ Ⅴ

2024-03-05 01:08:00 | Weblog



 当時、硫黄島守備隊長海軍大佐和智恒蔵は、本部命令により、別方面に移動したが、その三ヵ月後、米軍来襲となり、かつての部下約二万人が、ほぼ全員玉砕、皆殺しにされた。(米国側七千人死)

 軍人として、上官として、痛恨、悲嘆、その心情は、想像に余りある。
 幸か不幸か、和智大佐は、敗戦後も存命した。
彼の思いは、ただ、死に遅れたという悔いと、生き残りならば、せめて、日本の復興と、犠牲者の慰霊のみが。後半生―生涯の念願となる。

戦犯となり(おかしな話だが)出所後僧となり、現地の遺骨収集と、供養に全て捧げる。硫黄島は、その後二十数年は、米軍基地として占領支配に在り、渡島も出来なかった。

 ようやく昭和四十二年、日本返還
 その間―ただ一度、昭和二十七年、八方に陳情、切願して、硫黄島に渡って、遺骨集めと、清掃、慰霊の機会を得た。
 すりばち山の血戦上には、平和観音像を存置した。

 この時、米軍兵舎の中に、荒縄を巻いて寄せ集められた頭蓋骨を見た。
 気をつけると…方々に散乱したままの日本兵の死体遺骸には、頭蓋骨が多く欠けている。

何故か?どうしてか?

その後の調査で―彼らは米人、米兵は、死体から頭蓋骨を記念品として、切断、郵送、あるいは手づから持ち帰り、色々の方面に、利用していることを知る。
〈昭和四十八年五月には、頭蓋骨一個が返送されて来た。〉

また、カリフォルニアのベンドルトン海軍基地の硫黄島米軍戦闘四十周記念夜会には、頭蓋骨二個が返されて来た。
送り主は、ミシガン州学校教員で、社会科学習の教材に使用していたという…何れも、良心に咎めたに違いない)

和智師は、愕然とし、余りものこと語を失った…
以来、その返還と、遺体、骨合と、埋葬、供養に、全身全霊をかけて、死ぬまで尽くした。

新聞記事には、わづかに昭和六十二年(一九八七年)和智氏八十七才の時、一斑。報知された(読売)のみである。

最近、やっと、上好冬子が、一書を出して訴へている。(硫黄島未だ玉砕せず)
〈戦後の日本人と、マスコミは、まァこんな程度で、人間の尊厳、生命の価値など、のたまうが、全て自分と今だけのことである。
既に、和智氏、成佛…その遺志は、誰が受け継いでいましょうか〉

 以来、再び、全く、影も形もなし。
 恐らく現代の平和主義者日本人は、何の痛み、痒みも感じまい。
 しかし、このウォーナー氏の如き、シンプルな、知性と感情を持つ人々は、時にして、白人中にも有るのだ。

 サイパン玉砕についてだが、ウォーナー氏は、ここでは、米兵による虐殺事例は聞いていないと、書いているが、当時陸軍大尉の田中徳祐は、戦後まもなくサイパン虐殺の記述を無しと、G・H・Qから、禁圧を受けている。「今日の話題社、刊行物所載」
 晩年「サイパン降伏せず」の一書を発表しているが、ここでも露骨に記述を避けている。


 ジョージ・サベルカ神父
  ミシガン州フリント町出身 テニアン島基地従軍司祭
  一九四三年 軍に入る 現在は、平和巡礼者

 「ハーバード従軍牧師学校で…どうやって良い兵隊を作るのか教えられた。
 気にも止らなかった。完全にO・Kだと信じてた。
 私は身を挺して、行動したかった
 爆撃機搭乗員を祝福するのが…仕事だった。
 東京空襲、絨毯爆撃、原爆、今でもタイムの、原爆第一報を持っている。

 見出しは、
  新世界への入口…
 私は…それにも祝福をした。
 クリスチャンとして、司祭として感じるべき感情さへ、感じなかった。
 民間人攻撃なのに、全く考えもしなかった。

 その理由の一つは、教会も、宗教家も誰一人、何も云わなかったし…むしろ、スペルマン枢機卿は、テニアンにきて、
 ―諸君、戦い続けよ。と叫ぶ
 …既に、相手は、降伏の機を待っていたのに、無条件降伏を要求した。
 原爆投下の必要は、もうなかったんだよ。
これは、聖オーガスチヌスの「正義の戦」の掟に反する。
降伏の準備意志のある時、戦闘は続けてはならないんだ。
長崎は、カトリックの地区だ。

それなのに…
私の意識は、当時、分裂してた。酷い、しかし、これで戦争は終りだ。安心だ。
罪の意識は思い出せない。
長崎に行った。
本当に、私がわかり始めたのは、この時からだ。
子供、若い女、老人…何千人もが…静かに、おとなしく、ただ静かに、ただ死んでいくんだ…良心がうづめき始める。
アメリカへ帰って…その事を喋ろうとするんだが、誰も耳を貸さない。

やがて…挑戦…ベトナム…
心臓発作が来て、三日間意識不明
…なんとか、生き残れた…が…

「ジャングル戦だ、北ビルマからマンダレー」
カチン族を譲歩し、戦闘訓練する。
村に入り、奇襲で、撃って逃げる。
処刑は即決で、残忍だった。機関銃でね、顎を蹴りつけ、尋問・答えなけりゃ、ダダーン
 ―相手は
 ビルマ人―村民だ
 米人将校と下仕官数名、そしてカチン族、この混合部隊で、村を焼く。
 協力的でなきゃ、火をつける、それだけのことさ。
 ベトナム戦争と同じサ。二等兵だから、文句も言えないサ、ただ云われてやるだけ。ショソクだったし、好いこととはおもってなかったけれど…

 一方、随分、凄い人がいた。
 その人達にしてみりゃ、面白かったんだろうな。
 家が欲しきゃその家の人々を追い出しちまう…使用人にしちまうか
 背後から(味方に)撃たれて死んで無かったら、大変な事をしてたと思われる大佐達もいたよ。頭が無いんだ。危険だよ。

でも、狂態の全てが好きだった。
 悪い思いではないよ。


続く

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アメリカよあれが文明の灯だ  抜粋 Ⅳ    2010再 

2024-03-04 14:50:02 | Weblog

津軽弘前 忠魂碑の威容



久坂総三氏 寄稿
部分プリント2 


しかし、云わなければ、云わないままの状態が真実とされる、歴史と決められてしまう。
 云わねばならぬことあれば、云うべきである。
…ウソと私情私然で誇大に叫べば、これもまた、ニセの真実となる。
 全くムヅカシイ事だが、それをなすのが、学者であり、知性人であろう。
 残念ながら、日本では…?

 ウォーナー“カミカゼ”
「“ライフ”一九四四年五月二十二日号 今週の写真は、一ページ丸毎使われていた。アリゾナ州フェニックス市の二十才のナタリイ・リチャードソン(戦時従業員)嬢が、ペンを片手に、卓上の頭蓋骨―日本兵―をウットリと眺めている写真であった。
 
それは、ボーイフレンド、W・F・J・ウィームズ大尉が故郷に送ったもの。
 小見出しに、彼女が、それを贈ってくれたボーイフレンドに礼状を書いていると

説明…
 トラックドライバーらは、ペンキで彩色した頭蓋骨を装飾品として、フェンダーの上に乗せて走った。死骸の歯で作った首飾りが大流行。鎖骨でペーパーナイフが作られた。」 
ウォーナー氏は、この後、大統領が八月十日、戦地からのレター・オープナーの受取を拒否するまで、誰も悪いとは考えている者はほとんど無かったようだ。と書いているが、


 実は、同じルーズベルト大統領が、同じ、“ライフ”誌に、その日本兵の骨で作ったレター・オープナーを手に持って、微笑んでいる写真が、デカデカと掲載され、出版されている。


 それを私も見た。戦時中(私、中学三年生、当時、十七才、 サンデー毎日誌…朝日新聞等大新聞ものせていたと記憶する。
 まァ、これについては、云うべきことも大いにあるが、止めておく。
 ただ、これを云った人も、著者も、敗戦後七十年。まず誰一人として、書いた者も、報じた者も聞いたことがない。
 ただ、小堀桂一郎「宰相鈴木貫太郎」昭和五十七年刊と、平成十五年頃の正論誌上に、西尾幹二氏の戦中問題記に見ただけ、たった二人だけである。

 戦中、コレを狂喧として叫んだ。新聞記者に中野五郎なども、戦後は、全く一筆も、触れていない。他は推して知るべし。
 知らない、知らなかったのではない。
 見ない、ソッポを向き、また否定してきたのである。
 知らざるものも、教へぬものも憐れなるもの哉…

 まァ、こういうことが、アメリカの正義であり、キリスト教の愛と、自由と、慈悲なのであろう。

 





アメリカ人もまたこれに触れたものを聞かぬ。
 ただ、一度、同じアリゾナか、ミネソタ辺りの若い女性が、それを知って、追悼の私的グループ活動をした。それを日本の若い男が知り、愕然とし文通したということを何かの新聞で見たが…ただそれっきりでしぼんでしまったようだった。

  F・B・スレッジハンマー
大学の高類学者、第一海兵分団第五連隊第三大隊○中隊に属し、補充兵として十九才より戦闘 一九八二年「ペリリューと沖縄の懐かしき友たちと共に」を発表、戦友顕彰の記録を残す、がその中にさえ…

 「日本兵は、武士道を基に戦っていた。戦士の道に降伏はない。全く望みの無い事態に立ち到っても、諦めない、実際に、彼らと戦ってみなければ、とても理解できないことです。
 
…段々日本兵をやっつけたくなった…無感動になってしまうのだ。
 
…ペリリューで、初めて日本兵の終をじっくり見た。撃たれていた。戦友らがこの男をバラバラに切り刻み、記念品にするのを見て、本当にたまらなかった。

 兵隊たちは、狩の獣のように、死骸を引きずり廻していた…私は震え上がった。コイツだって人間だってね…でもそういう気持ちは、永く続かなかった。

 日本軍に対する憎しみは、ごく自然に、本能的に出来上がっていく、ドイツ人に対してとは違っていた。

 ペリリュー…沖縄…捕虜を捕まえた。負傷者は殺すな、と、命じられていた。(降伏者からは、情報が取れるからでした。)が…気持ちの上では…まァ、一々尋問すれば、兵隊は、捕虜は殺しちゃいないというでしょうが…つまり、野蛮人だからって…ね。

 訓練所の教官は、我々にいった。「日本人と戦う時、ずるく立廻るのをためらうな。やられる前に、殺れ。

 …私は、必要もなく、負傷日本人を撃ち殺し、口から金歯を抜き取る兵隊を見た。

 私もしようかと思った時もある。
 リンドバーグは、米兵が日本兵を酷い汚い言葉で言っているのに、ゾーッとしたといっている。

 向うも野蛮人なら、私達も正に野蛮人でしたよ。

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連続した短期政権崩壊の根本要因は、「四患」にある 再

2024-03-03 01:51:46 | Weblog

            イメージ

 

隣国の指導者は歴史の栄枯盛衰から、真摯に智慧を学ぶことを疎かにしない。

いま必要かつ上善な策は何か、慎重に考え、胆力をもって実行している。

それは外治、内治を問わず、その職掌に就く人間の問題として、弛緩、堕落、腐敗を戒め、政治の前提である「信」の有り様を綱紀粛正を以て具体的に明示している。

それが現政権における高位、下級を問わず逮捕、処罰している理由である。



まず、四患を除け

この患いが政治、官吏、司法、経済、民心に蔓延すると優れた政策も財政も行き渡らなくなる。いやそれでも不安と不満がとめどもなく湧き出てくる。

 「政を為す術(すべ)は、先ず四患を除く」
 と云う言葉がある。後漢の荀悦(148~209年)という人の教えである。

彼は後漢第十四代献帝(189~220年)の時、進講申上げている。その彼が漢の政治の乱れを正すために書いた「新一」(五巻)という本の中で「政を為す術(要諦)は、先ず四患を除く」と、主張している。政治を行なう要諦は、まず四つの病根を取り除くことから始めなければ、ならないと云うのである。
 








その四つの病根とは「偽、私、放、奢」の四つである。

政治の「政」という字の本義は、天下万民の不正を正すということである。

孔子も
 「政とは正なり。君、正を為せば則ち百姓(ひゃくせい)(人民)故(これ)に従う」(礼、哀公開)と教えている。
 

「偽」と。は、「化ける」と云う意味。偽せものの人という意味。
 政治とは、まず自らを正して、しかる後、世の中を正すのではないのか。とにかく、日本は上から下まで、「偽」が、蔓延している。にせ物が本物を乱しているのだ。


「私」、公を忘れた私、私意、私欲に翻弄された日本人が、日本国中に氾濫している。特に上に立つ人こそは、私心を滅して公に奉ずるのが本当のはず。ところが彼らは、天下、国家の公論を借りて、私情を満足させようとしているではないか。

私心を抱くことなく、誠心誠意、社会のために、そして仕事のために、尽し切るからこそ、その人間がはしめて生かされてくるのではないのか。自分を忘れた日本人の氾濫。自があっての分、分があっての自ではないのか。
  

「放」とは、棄てるということ。子供らを勝手気ままにさせるのは、わが子を棄てることだ。慈母に敗子あり。必らず締りのない、目標のない子に育つ。
 放埓の埓とは、馬場の囲い。かこいを取り除いて馬を放つと、馬は、本能のままに飛び歩く。放埓息子、放蕩息子が必らず育つ。
  

「奢」とは、ぜいたく、おごる。
 俺の金だ。俺がかってに使って何がわるいと、傲然として、ぜいたくした気分になっている。そんなものは、ぜいたくでも何でもない、浪費だ。
 本当のぜいたくとは、金で買えないような悦びを味うことだ。

それを「窮奢」--ぜいたくを窮めると云う。 奢る者は、その心は常に貧しい。
偽私放奢、この四恵有りて存するものなし。生きた歴史は、この警告は真実であることを証明している












四つの病患の第三は「放は、軌(軌道)を越える」である。
  
「放」の原典は、「はなす」ことであるが、「放は、逐なり」(説文)で、追い払う(放逐)とか、「放は棄なり」(小爾雅)で、棄てる(放棄)とか、また勝手気まま、欲しいままにする(放縦)といった意味がある

 「厳家に格虜なく、しかも慈母に敗子あり」(史記、李斯)
 厳格な家風をもった家庭では、気荒い召使いでも、手に負えなくなるようなことはない。ところが慈愛に過ぎた母のもとでは、かえって、やくざな、どうにもならぬ放埓息子ができる。
 
 放埓の「埓」とは、馬場の囲い、柵のことである。この囲いを解かれて放たれた馬は、本能のままに、勝手気ままに飛び回れるが、その馬は馬としての用はなさない。
 放蕩息子とは、そのように軌道をそれて、かって気ままな振舞いはするが、人生に対する方向のない、志のない、全く締りのない悪子のことである。自分で自分を抑えることが、できないのである。
 






 前漢の第九代宣帝(前74~79年)の時、侍御史。その後河南の太守として、河南の民政を委された人に厳延年という人がいた。彼は厳しい母に育てられた人であったにもかかわらず、彼は人民を刑殺すること頗(すこぶ)る多く、冬でも殺された人々の血が数里も流れたという。それで河南の人々は、彼のことを、「屠伯」殺し屋の親玉と呼んでいたと記録されている。

 そのような様子を見ていた彼の母は、「お前のように人を多く殺せば、やがては自分も殺されることになるだろう。私は故郷に帰って、お墓を掃除して、お前が殺されてここに来るのを待つことにしょう」と云って息子を諌め責めたてて、故郷へ帰った。
 果して、彼は、死刑に処され、その屍は街に晒された。(後漢書、酷史、厳延年)

 「厳母、墓を掃く」
 という言葉が残っている。継母に育てられた子においてすら、この始末。まして、骨のない慈母に放縦に育てられた子供たちの将来は、まともではあるまい。

「温室に大木無し。寒門に硬骨有り」
とは、苗剣秋が、私に語ってくれた言葉である。要するに「放は軌を越える」からである。
 いかに日本は豊かではあっても、子供たちが駄目なら、そんな国に明るい未来は望めまい。そのような子供を育てているのは、私たち大人、親たちである。











 本当の亡国とは、国が亡んでしまってから、亡んだことを知ることである。今なら、まだ救う道はある。

 
第一は「偽は、俗を乱す」である。

  「偽」という字は、「人と為」でできている。つまり人為、作為が加わっているということであろう「偽は、詐なり」(説文)とか、「偽は欺なり」(広稚)などと解されている。

 「詐」とは、あざむく、言葉を飾る、落し入れる。
 「欺」とは、あざむくという意味ではあるが、欺の「欠」(かける)という字は、心中にひけ目があることを表わした字である。入を騙しながらも、心中にひけ目がある間は、少しは望みがあろうというものである。入間はその心根を誠にしておりさえすれ、ば、自分を欺き、他人を欺くようなことは有りえないはずである

 「偽は俗を乱す」の俗は、一般には、習俗、風俗といった意味に使われてはいるが、これには、もう少し深い意味がある。
 「俗は、欲なり。入の欲するところなり」(釈名)と解されている。
 「俗」という字は、「人と谷」。「谷」とは「穴から水が自然に沸き出るかち」を表わした文字。この谷の水が欠けると、自然に不足を満そうとする「欲」が生まれてくる。
 
 人間には、そのように生まれながらにして、穴から自然に沸き出て来る水のように、自らの生を全うするために、自らなる生への意欲が、こんこんと沸き出て来ている。それが社会一般の本然的な習俗を作りあげているのである。
要するに生命の自然現象が「俗」である。

 人間の本性は、性善説か性悪説かは、私には分からないが、自然の天理に背き、私意私欲から出た悪意ある作為は、たしかに「偽」であると云ってよかろう。
 そのような私意から生まれた「偽」がこの世に横行するようになれば、偽は真を乱す。偽物が本物を乱すようになるのは、理の当然のことだろう。










 ところが、このような悪意ある「倫」を弄ぶことのできる生物は、人間だけである。まさしく
  「智慧出でて大倫あり」(老子、十八)
 日本の政界の実状は、智識は己れの非を飾る道具であることを、はっきりと示している。貪るからこそ、姦智が生ずるのである。政界が国家百年のために雄大な国策実施に専念することなく、基地だ、手当てだ、献金だと、次々に天下に示している事実は、はっきりと、「偽り」そのものである。

 上の好むところ、下またこれを好む。それはまさしく、政界の「偽」が、民俗を乱している」からである。

 四つの病患の第二は「私」は、法を壊(やぶ)るである。
「私」という字、「禾」は穀物の一番良い「いね」のこと。その収穫されたいねを囲んで、自分一人のものとする。それが「私」という字の原義である。

  「公」とは、そのよい穀物を一人占めしないで「ハ」、つまり、それを公開して公平に分ける。「公は、共なり」、(礼記、礼運)で、みんなの物にする。公平無私だとか、公を以て私を滅する、とか云われている。それが「公」の意味である。

  「私は邪なり」(准南子、注)で、「私」という字には、よこしま、かたよる、いつわる、ひそかに……といった意味が含まれている。
人間には、どうしても、こうした私意、私欲というものが、つきまとう。

  「私意は乱を生じ、姦を長じ、公正を害する所以なり」(管子、明法解)
 と云われている。
 私意、私欲を以て、物事を見たり聞いたり、考えたり、行なったりすれば、どうしても物事の是非善悪の正しい判断をすることはできない。それで、遂には乱を生じ、三人の女性を合して私するような、姦悪不正不義が多くなり、結局は公正を傷つけることになる。

  「公は明を生じ、偏は闇を生ず」(荀子、不易)
 公正であってこそ、始めて明智を生じ、偏頗なればこそ、闇愚を生ずるのは、理の当然のことであろう。
ところが「私」を離れて「公」はありえないし、また「公」を離れて「私」もありえない。
「天に私覆なく、地に私載なく、日月に私照なし。この三者を奉じて以て天下に労す。これを之れ“三無私”と謂う」(礼孔子間居)
 



 天には私心がなく、あらゆる物、を公平に覆うている。地もまた偏頗(へんぱ)に物を載せるようなことはなく、万物を公平に載せている。日月もまた私意によって、かたよった照し方をするようなことはなく、万物を公平無私に照している。天と地と日月は、このように公平無私であればこそ、その生命は永遠に不変なのである。

 大自然そのものの一部である我々人間は、このような天と地と日月のあり方を、そのまま奉戴して、天下のために全力を尽す。公を以て私を滅し、小我を乗り越えて大我の世界に生き続ける人間の在り方。それこそが人間自然の当然の生き方であろう。


四つの病患の第四は「奢は、制を敗(やぶ)る」である。

 「奢」という字は、「大」プラス「多」の会意文字である。大きいうえに更に多くの物を寄せ集める意味だという。欲張りということだ。

どうするか、救うしかない
 
天下を憂いることは簡単だ。天下を救うことは、むずかしい。しかし救うしかない。

佐藤慎一郎先生 寄稿
参考写真 桂林 司継林氏

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国家とは何か

2024-03-01 11:22:30 | Weblog

       愛犬ですら反省を知っている

 

碩学 安岡正篤氏は「さまざまな要因をもって構成されている国なるもの」と語る。

よく国家の要素は、「領土、民族、伝統」と政治家は唱える。

「国を護るということは」と武官に問えば、同様な意味の応えが多い。

 

  

戦後の露天と進駐米兵

 

筆者は防衛関係の講話で「政治家は国民の生命と財産を守る」というが、それだけでは肉体的衝撃や生命を懸ける職掌には覚悟とか使命感はおぼつかない。問いの理由は初期教育を行う基地において隊員に伝えていた内容について気になったからだ。

「君たちは国のためと云っても、なかなか理解は難しいとおもう。身近な人のため、愛する人のためにと考えれば理解にできると思う」

たしかにその通りの現状ではあろう。三か月の初任体験で、当初は集団行進すらバラバラだが、三か月後の退所(各基地へ配属)頃になると、ものの見事に整列,行進を行うようになる。参列者の父兄は、うちの息子が、と涙を流す母親もいる。

そのようなことから、幹部学校や方面基地の幹部への講話で「生命と財産を護るとはどのようなことなのか」と、持論を語ることがある。

「財産」とは、通帳の数字や家や土地や、好きな車ではない、国家が発行権を持つ貨幣の価値を維持することです、と伝える。

円が世界中で使える、兌換(変換」できる。しかし戦争に負けると価値は下がり、使用(流通)できなくなったら、物の価値すら消滅する。

だから貿易で使用する基軸通貨は、大国の通貨である、これを変えようとすれば戦争も起きる。戦争の要因の多くは権益の拡大であり、謳う大義は装いだ。

「生命」は、たしかに命のことだが、今風の長生きや健康を維持するだけではない。いたるところで途絶えることのない戦争の惨禍で、破壊と人命が亡くなる。異民族が侵攻すれば戦闘員となりうる男子は殺され、女性は暴行凌辱される。人種によって肌色や骨格も異なる民族の凌辱は人間種として明らかに混血種として誕生する。グローバルの時代でも民族種の守護は経国の大切な要として守護している国もある。

愛と平等を謳う時代でも、平和時の交接とは異なり、性暴力によって凌辱される敗者の被害と怨念は情緒性すら破壊される。たしかに動物界の勝者は自らの種の保存と生存域の拡大ともなるが、惨禍錯乱状態で野蛮性は、より、その「種」の維持を鮮明にする。先の大戦末期、本土決戦は陛下の「日本人が滅亡してしまう」との一声がポツダム宣言受諾の流れになったとある。

つまり、止むを得ず戦うことになっても、戦闘集団として何の目的で戦うのか、それによって万一生命を絶たれる職掌において、さまざまな要因をもって構成維持されている国家なるものの、護るべき明確な一つの意義を提供した。

今回、提供する伴氏の国家の成り立ちと変遷には、多くの殺戮と破壊が伴っている。

それでも声高に国家を護ると関係国双方が武力を備え、外交を駆使している。

以下、伴氏の章を賢読いただき、鎮まりをもって考えてみるよすがとします。

 

   

被災地にて

 

 

萬晩報 2024-02-28 伴武澄

 江戸時代の国といえば、藩のことだった。

近代的意味合いの国家という概念はなか った。四方を海に囲まれていたため、国境という観念もなかった

ヨーロッパでもフ ランス革命まではルイ王朝はあったが、フランスという国家はないし、フランス国民 もいなかった。それが市民革命によって市民たちの中に国民的意識が芽生えた。

革命 軍がルイ王朝の支配する領土を継承することになった。革命は混乱を極めたが、ナポ レオンによってフランスは統合された。ナポレオンはその余勢をかってヨーロッパ各 地を侵略したが、最終的にロシアに敗れ、敗走した。ナポレオン後のヨーロッパは 1825年のウイーン会議で「国境が画定」した。近代国家の始まりである。お互いに条 約をもって互いの存在を認め合ったということである。  

アメリカは特別な国である。東部13州を支配していたイギリス国王に対して、13州 の市民が立ち上がり、戦争に勝利して連邦国家をつくった。1784年のパリ条約でイギ リスは正式にアメリカの独立を認め、ミシッシピー川以東がアメリカ領となった。つ まり、宗主国が承認したことによって「国家」となった。  

幕末の日本が危機感を持ったのは、ヨーロッパ勢の東進だった。開国を迫ったのは アメリカだったが、アヘン戦争以降のイギリスによる中国侵略や北方からのロシアか らの進出には幕府も異常な警戒心を持っていた。列強との交渉で難航したのは国境の 画定である。

アメリカ系住民が居住していた小笠原諸島を日本領として認めさせたの は幸運だった。

ロシアとの交渉では千島列島と樺太が焦点だった。特命全権公使とし て榎本武揚をモスクワにおくり、明治8年(1875)「樺太・千島交換条約」を結んだ。 日本は樺太の権利一切を放棄するかわりに、それまでロシア領であった千島列島、 すなわちウルップ島以北の18島を領有するという内容だった。アイヌ系が多く住んで いた樺太を失ったことは大きな損失だったはずだ。  

 

   

神事にも神域はハレ 俗域はケ、結界もある。(上賀茂の神域)

 

つまり国とは国境のことなのである。今も日本は北方四島を固有の領土と主張して おり、尖閣諸島をめぐっては中国・台湾と領有権問題が続いている。ヨーロッパでは ウイーン会議以降も国境をめぐる戦争が相次ぎ、旧ユーゴスラビア解体後も紛争が続 いている。ロシアによるウクライナ侵攻もまた国境紛争の一つといっていい。  

ヨーロッパではフランス革命の前夜、啓蒙思想家たちが数多く輩出し、社会の在り 方や物事の道理などについて考えあぐね、あまたの書籍を残した。革命が必要である 根拠が生まれた。支配される側が初めて自己主張を始めたといっていい

幕末の日本 では水戸学などが幕藩体制を批判する側に立ったが、あくまで支配する側の論理に終 わり、町民たちが政治に関与するような発想には到らなかった。

新しい国家づくりに は西洋の最新の政治思想が不可欠だった。

ミルの「自由之理」などは格好の教科書だ ったといっていい。堰を切ったように西洋の政治思想を導入され、薩長閥による独断 政治からの脱却を求める人々はむさぼるように西洋の文物を吸収した。  

司馬遼太郎に言わせれば「国のかたち」の模索である。民選議院開設の建白書には その粋が凝縮されている。

やがて植木枝盛によって「大日本国国憲按」という憲法草 案にまとめられ、「国のかたち」の理想にたどり着く。

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